水俣病は終わっていない-なぜ『医学としての水俣病』をつくったか 『思想運動』 6月1日号 活動家集団思想運動 <1975年(昭50)>
 水俣病は終わっていない-なぜ『医学としての水俣病』をつくったか 『思想運動』6月1日号 活動家集団思想運動 ※文章に部分的割愛があります。

 水俣病多発地帯においては「不健康な」人は、疫学的な観点からみて水銀と何の関係もないということはありえない。水俣では疫学的調査はほとんどやられてないし、また、歴史的な医学の歪みがある。
 また、新潟では、はっきり水俣病として認定されている症状が、熊本では逆に否定因子とされている。こんなばかなことはない。これは水俣病についての研究が、バラバラに行なわれ、ほとんど研究上の交流すらも行なわれていないことを示している。
 わたしはこの映画ですぐれた研究を画面に出して、それが水俣病におけるー定の常識になっていくように願っている。そして、それによって矛盾や歪みをただしていけるようになればと思う。
 たとえば次のような例がある。いろんな闘争によく参加した人が一年後に突然ロもきけなくなる。これが第三部に出てくる。以前Cランク、つまり最低のところで認定されている。したがってロが不自由になるほどになったわけだから、当然Aランクにすべきである。ところが医者は、これは余病だから余病に関してはランクはあげないという。だから、現実にある問題についてすぐにでもこの映画を武器として使ってゆかなければならない。
 水俣病についての医学研究をみると、一九五六年から五九年ころまでは地元医師、保健所長や工場病院によってすぐれた研究が行なわれた。それが原因はチッソ水俣工場のエ揚廃液にふくまれている有機水銀であるとわかるにつれて、これらの研究に対してチッソなどからさまざまな圧力がかかってくる。しかし、とにかく一九六一年までは熊本大学の研究班などを中心にして研究がすすめられ、チッソ水俣工場との関係も社会的に一応はっきりする。同時にそのとき、原因もはっきりした、水俣病の発生もおわったとして熊本大学の「第一次研究班」は解散してしまう。

 眠っていた医学

 そして、あとは後遺症の問題で対象からもれている人びとへのアフターケアの問題であるとされて、結局それ以後一〇年、研究は眠りこまされてしまう。そして、患者がいるのに、それを救済するということを医学はさぼってきた。
 この医学が眠りこまされてきたー〇年間の不自由さ、そしてそのことからうける患者たちの被害というものが、がまんの限度にきた。視野狭窄が「とり目」だと言われてむざむざ放っておかれ、水俣病患者の運動自体が水俣病のはっきりした病像を要求していた。
 かかえている矛盾、多くの不明な病像一たとえば症状で水俣病であることがはっきりしないということもあるなどから考えてみても、自分たちの手もとにない医学をどうしても引張り出してくる必要がある。

 真実のドキュメント

 そしてこの映画の企画にあたって、主な点は、・水俣病を「社会病」としてとらえる、・水俣病はまだ終わっていないという観点に立つ、・典型的な水俣病でなく慢性的なもの、不定型ものについての研究の現状を知りたい、・この映画はあくまで中間報告である、・研究の学説、所見は自分で述べてもらう、・水俣病について総合的に把握できる人はまだいないと考えるから監修者はおかない、というものである。
 こういった考え方で、今まで民衆のものでなかった、民衆がリーダーシップをもっていない医学、研究、意見を部分的にではなく、考えられるかぎり総まとめに、歴史的・理論的に再構成して三部作として製作した。
 水俣病は終わっていないということははっきりしている。そのはっきりしていることを県もチッソもごまかしている。ヘドロもまったく、魚の汚染もなくなったわけではない。それから水俣の対岸に、とてつもなくたくさんの潜在患者がいる。こういったことをあわせてみると、少しでも見抜く人であれば、一〇年後あるいは二〇年後にまた、たいへんなことは目にみえている。あきらかにやペーパーにたよって判断して否定していった。たしかに当面はそれで何とかこまかせるかもしれないが、流産とか知能障害とか、その慢性の多くの疾患を生み出すようになっている。
 こういったのだから、水俣をテーマに文明論をやろうとか、いわゆる芸術的なものとしていこうとかという気持ちになれない。映画をとるにあたって資料としてきちんとしたものにしていかねばならないという気持ちにさせるテーマなのである。