資本抑圧下での「生活」 『公明新聞』 8月30日付 公明党機関紙局 <1975年(昭50)>
 資本抑圧下での「生活」 『公明新聞』 8月30日付 公明党機関紙局 ※文章に部分的割愛があります。

 辺境には定理が・・・

 その地で水銀汚染を受けているカナダインディアン居留区からの代表と接する機会があった。水俣の患者さんの招きで、水俣病を直接体験するために彼らは来た。接する中で、水俣病はまず自然を愛し、自然から食物を採取する人々から発生する-といった定理のようなものを感じた。それはほぼ辺境であり、汚染源に生きる都市型工場労働者型の人間の生活圏と、汚染された自然の中で魚を主食とし、自然と交合して生きてきたインディアンの生活圏と全く異質であるということでもある。一方は川をドブとみなし、一方は生活の源泉としてきた……そんなことをしきりと考えるさ中での六価クロムの登場である。
 チッソの場合は同じ水俣市というところにありながら、金で食物を買い、えらぶことの出来る都市生活者であり、消費者としての食生活の点では、大都会とほぼ同じである。だから、そこの魚をくわないですむし、他に肉も鶏もマグロもあるのであり、舌ごけの生え方までちがう。だから、その海と生命を託しあってきた難民と一つ通じないものがある。たとえば「獲ってもよいが食べるな」という昭和三十二、三年以来の県の行政指導が通用するものと考えたり、「たべなきゃいいのに」という非難が常に口に平気ででる。それは都市生活者としての感覚である。その点カナダインディアンにも白人たちは全く同様の措置と勧告をする。しかし、彼らはいまの水俣の人びとより比較にならぬ位、水俣病を知らない。だから食べつつけている。これは人間の知性・悟性からは言えないもっと大きな自然への信頼といった律があるからだろうと思う。そういう人々への水銀の直撃があるのだ。
 新聞をよむだけだが、今度の六価クロムの問題を見ていると、非常に水俣とちがった都市型公害にまつわる都市の生活の荒廃と、反自然の極限で、この間題が処理されつつあるように思える。この七月下旬以来のおびただしい六価クロムに関する情報の中で、一対のエピソードが心をとらえて離さない。
 それは井戸についてふれたものである。「昔は井戸からきれいな水が出たのに、クロム鉱さいが捨てられたとたんに、塩くさくなり黄色く染まるようになった。……仕方なく水道をひいたが会社(日本化工)は一銭も出してくれなかった」(八月十四日付東京新聞)。同じ井戸の話は日本電工で汚染された北海道空知郡栗山町に一回でてくるだけだ。
 戦後の小学校を出た私は教科書のさし絵に便所のこえ壺から汚水が地下にしみこみ、その地下水から井戸の水が汲まれるといった、汚水の循環が平易に描かれていた。その頃、都会地にもまだ井戸はあった。戦争末期から数年、井戸水で飲み炊き、風呂をたてての生活もした。井戸はまさしく生命の源泉であった。今は水俣の漁村でも簡易水道が敷かれたが、それは地下水ときいている。しかし、ここ江戸川区堀江町では井戸は死んでいるのだ。
 土への感性のゆがみが、日本化工の四十年を見すごしてきたのではないか。もし人が自然とむきあって暮らしていたら、草木を愛し、虫を愛し、井戸からの水を最上のものとする感性が許されたら、これへの抗議はもっと早くひろく鋭いものたりえただろうと思う。それは水俣の漁民患者がよく思い出して歯ぎしりするように、「水銀以前にもネチャネチャした七色の油や浮遊するドロが排水口から勝手放題出とった。それをわずかの補償金をせびっちゃ、その場しのぎしとった。そのうちチッソは水銀を流した・・・」これが地つきの人間の正当な観察と判断であるはすだ。知らぬ間にというだけでは住民の側もすまない間題だ。一本の井戸の死滅、廃棄物をすてる構造を許していくだろう。つまり、私の都市生活のユガミを根底から洗うとそうなるのである。
 これと対をなすエピソードは日本化工の見解である。「ー質問、従業員の健康対策はどうしてたか」に対する答えだが、周知のことでも鼻中腔せん孔という奇病にふれないわけにはいかない。会社がかくしていたデータによれば八名の肺ガン死亡者中七名までが鼻に穴があいており、これが「重クロムの工場では鼻に穴があいて一人前」であり、労災の対象にはならず、八月二十七日付の新聞によれば、労働省通達によっって、やっと基本的にこれを職業病とみとめるといったスローテンポである。

 企業の逃亡計画?

 これは象徴的に労働基準局の怠慢と、企業の非人間性を示す典型例でもあるのだが、今坂部長はその答えに「(鼻洗い)を励行させた。しかし鼻の中に(穴があいても)、鼻水が出るだけでして、(本人)は不愉快だが、カゼなどとちがって、ふだんの作業能力が(落ちるわけ)ではないので…」<( )・筆者>(八月十日、朝日新聞)、これ程、資本側の本心を語ったものは今どきめずらしい。チッソでも、定期修理のときは歯ぐきから血が出るものが続出した。創業者の野口遵は社員(義務教育以上の学校卒)と職工(水俣の農漁村出身)とを厳に区別し、「職工は牛馬と思え」とくり返し言ったという。全くの相似形である。「鼻の穴があいても道具としての労働力はある」というのだ。いま人の目は東京墨東に集中している。これは運動をすすめている「墨東から公害を無くす区民の会」の告発によって集中的にボロが出てきたからだと思う。その陰で徳山工場がかくれがちだ。
 昭利四十六年六月の「産業廃棄物処理法」施行以前の投棄物は違法とは言えないというのも珍だが、昭和四十七年十月二十七日の朝日新聞は大々的に小松川工場による東京湾への放棄、徳山工場の四国、山口沖への一万トン残渣の不法投棄を報じている。徳山市との公害防止協定をやぶったものとして福岡海上保安局の手にゆだねられたはずだ。日本化工の企業体質は少しも変っていないのみか、都中枢部を汚染して逃亡計画をたてている気さえする。投棄から海中放棄へ、そして合弁会社の実名のもとに韓国に、蔚山無機化学株式会社(資本金四億六千万円)年間一万一千六百トンの重クロム酸ソーダの生産を来る九月から開始する。海をこえて公害を輸出する独占資本の典型である。

都市生活者の論理

 かつて村は村人が支配し、町は町人が住んでいた。それなりの生活環境への愛と智恵があったはずである。団地、学校、交通機関。これらの重大事態を前にして、行政、とくに都の「研究」「諮問」といった対応がつづく。だが被害住民には本来、坐して殺される権利しかないのか?ここにも、衰弱しきった都市生活者の論理しかない。東京は死滅するのか否か今、自分の上に問うしかない。