カナダ・フイルム・ツァー(1) なぜカナダに行くにいたったか 『映画運動〔試写室〕通信』 4月1日 映画運動『試写室』
これから3回にわけて昨75年9月中旬から約100日間110回、カナダ全土横断上映旅行のレポートを記すにあたって、スペースの関係上、外国で映画をみせることはその映画のスタッフたる私にとって、どんな意味をもったかに焦点をあてて御報告したいと思う。
上映するに至った背景は、カナダに於ける水俣病の発生の危惧であり、現地のインディアンやカナダ人の活動家の強い要請によったものである。そしていくつかの目標をたてていた。まず、カナダ中央部の楯状台地、湖と川の入りくんだオンタリオ北西部ケノラ周辺の2居留地、グラッシー・ナロウ、ホワイト・ドッグの人々にまず水俣病の実態を見せ、”合せ鏡”としての知識をもってもらえれば、というねがいが第1。次に、彼らに対して水銀汚染の事実はみとめながら、水俣病とは認めようとしないカナダ政府、その環境衛生関係者、そしてなにより汚染源企業であるドライデン・リード・カンパニーそのものに、映画をつきつけたいということが第2。そして何より、カナダの人びとに広く見せ水俣病への注意を喚起したい一これが第3。第4にねがわくは、この水俣病についての映画が今後世界に広くつたわるための原点的出発を一とくに 「医学としての水俣病」(3部作)の普及のはじまりをーこのカナダの居留地から始めたいというささやかな意図もあった。さしせまっては、ただカナダの人々のもとめに応じ切ることを念じていた。
かえりみれば、5年前水俣についての長篇を作った当時、水銀汚染の日本におけるような人体被害が、世界の各地に今日みるように出るとは予想もしなかった。1972年、ストックホルムの環境広場に、英語版の「水俣一患者さんとその世界」を運んだとき,有機水銀中毒をあらゆる公害の原点、その苛酷さにおいて原型を示すものと思うことに変りなかったものの、世界的には大気汚染、海洋汚染といった地球的、未来的な論議のあふれる中で、この映画は、ただひとつだけ、現実的な凄惨さを示す映像としてつき出され、観る人々にショックを刻んだ。しかし、それが一般の世界の人々の身近な問題となってはいなかったと思う。
その「水俣-患者さんとその世界」は、作品的には学的な説明は極めて不充分であった。あえていえば、それらが果せなかったために、すべて人間の根源的な問いに焦点をあてた、どちらかといえば社会的テーマをもつドキュメンタリーであった。世界の人々はこれをひとつの映画作品として観ることも出来た。もっといえば、普遍的な文明のもたらすものの悲劇として感性的にうけるとることも出来た。だが、しかし、何としても有機水銀中毒・環境汚染による人体被害のメカニズムを描く映画を作りたかった。いろいろな状況の進展の中で、私は、日本の実情に迫られつつ、その可能な条件をたどりつつ、「医学としての水俣病」(3部作)を作ることが出来た。一方、ストックホルム以後の3年の間に、水銀汚染は、私の予想をこえて世界各地の問題として出現して来た。
メキシコ産の種小麦に処理されていた有機水銀殺虫剤つきの小麦を直接摂取したイラクの数万人の集団中毒事件(1972年)フィンランドの漁夫一家にみられる魚を介しての水俣病と同じ症状の発見、アメリカ南部、ニューメキシコ州のハックスベリー一家の有機水銀中毒、そして日本における第3有明水俣病、第4徳山水俣病等の疑わしい事例の存在、そして75年春のカナダのインディアン部落でのパルプ工場からの水銀汚染による水俣病大量発生の可能性の存在と、相ついで、世界中に水銀中毒の続生が見られるに至った。
これらに共通しているのは、むかしからの食生活をつづけてきた住民に環境をまるごと汚染することによって、被害を与えるに至った例か、或いは、商品としての農薬や農業原料にほどこされた有機水銀についてその危険性を全く周知徹底しないで与えたことからひき起され、「過失」とよばれる致死・傷害事件であることである。しかもその被害者はひとしくその環境から食物を得てきた人々、地域に深く根づいて生きている人々、つまりは、わが水俣のひとびとと基本的には同じシチュエーションの人々であった。この人びとに映画を見せるということは、最良、最要の人びとによって映画が要求されたということであった。私は、映画がどのようにうけとられ、どのような働きをするかを、わが身にひきうけなければならないと思った。
カメラマンの大津幸四郎君と2人で、7本の作品を二つの大バッグにつめて、9月15日にカナダにむかった。その時点、合計100日にわたるカナダ・フイルム旅行になるとはさすがに思っていなかった。長くとも50日ほどのこととしか考えていなかった。