新左翼としての独立プロ運動・その1 座談会われら映画をつくるとき 座談会 『朝日ジャーナル』 2月16日号 朝日新聞社 <1969年(昭44)>
 新左翼としての独立プロ運動・その1 座談会われら映画をつくるとき「朝日ジャーナル」2月16日号朝日新聞社

佐藤
去年から今年にかけての日本の映画界で独立プロの動向が、一つの焦点になっています。一口に独立プロといってもスターの独立プロ、ATG方式、ピンク映画などいろいろありますが、最近は以前の独立プロとは違たユニークなグループが出てきた。今日はそうした方たちにお集り願ったわけです。
集っていただいた方の共通点をさがすと、まず記録映画出身の人が多い。また反体制的な志向、ある意味での政治運動、思想運動的なものと結びついている。それから既成の興行ルートではなく独自の自主上映をねらっている

こうした動きは日本映画界零落問題を提起しています。
しかし映画は小説を書くのとちがいある一人の人間が思い立てばやれるといった仕事ではなく、まとまった組織なり、金が必要です。どういうことからその映画がスタートし、なぜつくれるようになったか。まず経過報告から


私は一昨年から沖縄を撮りたいと思っていたのですが、実現できず悶としていた。具体化したのは昨年夏で、仲間と相談、最初から大きなことは不可能だから、まずロケハンに行き、その結果をみてまた準備をしようということや、一五万円ほど集めて月、二〇日間ぐらい行っての構想を持って帰ってきたんです。その間知人を説得して金を集め、構想もふくらんできたので八月の末、まだ資金も必要量の一〇分の一ぐらいしかないがロケーションに行って帰ってはこれる、フイルムもどうやら買えるだろうといった程度でスタートし、やっとここまで来たわけです。ちっぽけな、まったく不可能だと思われたところを一つ一つ当って積重ねた結果が、いまー時間等の記になりつつある。まだ自分でも

土本
かねてから多くの作家がキューバと申請していたが非常にむずかしいと言われていた。ところが一昨年日本映画がキューバへ輸出された。そして昨年の正月、ハバナ文化会議の時、黒木(和雄)の『飛べない沈黙』という日本では半分オクラっているフィルムが列をなして見られていた。
たまたまそこにいあわせた日本の映画関係の人が日本との合作をキューバに申入れ、もし合作するなら黒本和雄という監督が望ましい、という詰がでた。それが日本に伝わり、黒木を中心に映画づくりをはじめたわけです。
もっとも当時は、完成したような形を予想したわけではない、五社へ持ちこむことも考えないではなかった。しかし、キューバという国の持つ強烈な革命性を考え、「これはとても体制内に入るシロモノではない。自主製作、自主配給しょう」と、いつも討論しつづけてきた仲間たちと話しあい、一種の映画結社をつくってみようということになった、「キューバ」はいずれは全力をあげる必要がある問題だしということだったんです。
キューバ側も、自主上映を高く評価し、全面的協力してくれた。一片の契約書もない。ただ約束はキューバと日本のために役立つ映画撮ってほしい、キューバで生産でフイルム、機械、技術、スタッフの旅費などは日本で持って、キューバ滞在中は一切引受ける、でき上がったらこれをキューバの映画として全国七〇〇館で上映する、(ということがトントン拍子に決った。
それからわれわれは、ともかくこれに協力する人を全部同人組織化して合しながら、この映画をつくり上げることを決めた、同時に製作過程では労働組合や政党の撃は一切断とうということで、カンパの方針はとらず「資本主義ベースで借金し、どこからもヒモのつかない金でつくり上げたことです。それはこの映画のキャラクターを純粋に保つためにだったんです。
正しい方針だったと思う。

安全地帯から出て

小川
『報告書』の取材で羽田へ行っていたとき、みんな腕章をつけていた。学生や運動者がめっためたに打たれていくとき、ぼくはカメラのそばでむね安全だったのです。そうした自分の放置に懐疑をもっていたとき、第二次羽田事件の前日、中央大学で決定的な衝撃を受けました。
学生が二〇人ほど集って「場合によったら死ぬかもしれない。ほんとにやれるのかどうか」といった討論を延々とやっていたんです。そういう過程で、ぼく自身がいかにちゃらんぽらんな生き方をしていたかを知ったのです。もう一つ前の『圧殺の森』を撮ったときでもそれを感じていたけれど、このときには決定的に感じた。
たとえばそれまでカメラをどうかまえたか、逃げを予想したカメラしかかまえていなかった。それでもう一度自分をたたき直して、ほんとうにそういったものと一緒にやっていけるかどうか、最後がくるとき自分を、なおかつ図太く見続けていけるんだろうか、ひとつ試してみようと考えて三里塚へ入ったんです。
もちろんぼくたちの映画にお金を出してくれる人は、そうはいない。みんな個です。非常に苦しい金ぐりではあったけれども、三里塚の闘争の中に自分を投入して、ばらばらにこわれても、とにかく

奥田
ぼくらの「グループびじょん」というのは、新社という中小の映画企業の中で二年ぐらい前に数人が集ってできたグループです。作品の六〇%か七〇%がPR映画。低資金でもとにかく映画が好きだからやるんだという連中が集っている。
しかしたとえば企業ではベトナムに送る戦車のキャタピラをつくるPR映画を作っている。つまり、企業は作品のテーマを拘束する意思をアプリオリにもっている。それと、われわれに自分のをつくりたいという意思があって、二つは当然ぶつかる。そこでかなり熾烈ないわば作品闘争をするわけです、そういった中で自然発生的にできたのがわれわれのグループです。まず手はじめに機関誌をつくった。その最初のタイトルが『日映に火をつけろ』。つまり企業内闘争の発展の形で出発したのです。そうしたぼくらの内的欲望に火をつけたのは佐世保であり、羽田であった。最初はひどく衝動的に入ったわけですが、つくり始めてあとから自主映画運動がテーマになったのです。
『死者よ来たりて我が退路を断て』という作品のテーマですが、ごく骨太に言ってしまうと、「超企業」ということです。つまり、ほかの企業の人や学生が闘っていることと、われわれが企業という資本の論理にからみ込まれていくことは
映画会社やあっていうことからはじまり、いまはおもに日大闘争を追っている。
映画のテーゼそのものがとらえ覆されもう少しいえばカメラを持て闘争の拠点に入って行ってそこで映画を撮るということと、学生がそこで傷だらけになって闘っているということは、つながっているようでつながっていない、断絶しているようでつながっていそこを見きわめたい、そこに自分をみたいということです。

岩佐 
ぼくは、フリーしていますが、即座に仕事ができるのはPR映画、テレビ・ドキュメンタリーぐらいしかなかった、そういう中で一例をあげれば高校中退して反戦運動をやっている一七歳の青年を対象に『青春の模索』ドキュメンタリーを撮ったのですが、局の自主規制でオクラにされてしまった。

ハートにいる人とコンタクトしていく一方、助監督や製作そのものを支えていく人たちには、ぼくのPR映画でアルバイトに来た大学中退の青年を中心にした。
その人たちは、日大芸術学部映画科いて日大闘争が起る直前に、学校に全くあきあきしてとび出した青年です。つまり映画に自分の未来をかけたいにもかかわらずつくるもない、かといって学校の教育は全くどうしようもない状態でやめてしまった、飢えきっている青年たちです。その人たちとぼくがつくりたい映画について語ったのです。
作品は、一カ月半ぐらいで一気に撮った

小川
その面でいろいろな考えもした。しかし、結局なんかシャッキリこなかった。それで、いろいろなことがあってやめたけれども、かといって仕事は、全然ない、ほんとうに自分のカで何かつくりたい、つくらなければどうしようもないという気特から、つくらせないものに対する嫌悪がわいたな。

土木
PR映画にいると屈辱の最たるものなんですよ。だってぼくたちが手を加えられるところはわずか、そこで媚態の姿勢が生れ、自分を裏切る姿勢が硬直して何やってもうまくいかない、そのうえ、映画は、上映、体制にゆだねた以上、数年間は自由な上映を許さないという制度が慣行となっている。また巨額の製作費の調達、回収といった映画につきまとう経済的制約からその慣行は、自明のものとされてきた、その中でぼくたちは復権を始めている。だからつくっても、作家としての真の著作権だけは誰にも渡さない、自由に見せたいそれが原点です。


ぼく自身撮りたいものはたくさんあるが、ある時いまどうしても。そんな気持で沖縄に行った。
小川さんの仕事を見ていても、その拠点を徹底することでやっとここまできたという感じがするんです。

佐藤 
奥田さんは、現在日大を撮りながらそれは客観的な報道的な日大記録とちがうんだということを言いたいのか。それからまず一人の人間がいて、その人間の感動に共感した同志が集るという形や個人的なモチーフをみな強調している気がするのですが、そのつくりたいという情熱の次元はともかくとして、それが作品になると、普通の報道的ドキュメンタリーと違うことを考えるの

土本
ぼくたちの映画のつくりかたは、五社のつくりかたからどうしてもはみ出ちゃうんです。それはキューバの恋人でも下町の恋人でもいいわけです。しかしそのつくりかたは、劇映画を、つくる場合でも自分たちをどれだけその中で正直に語り得たか、あるいはほんとうにそれを凝視し得たか、それによって本なんかどんどん変っていく。変らなければおかしい。だから撮ってきたものをまた編集台の上で操作する。封切日がきまっているからこのへんで泣こうというふうにならない。ドキュメンタリー出身の人間は、まず対象に謙虚にならざるを得ない。自分がたえず裏切られた存在だ。前もって立てた予定に対してね。だからたった一枚の字幕でも変えようといったら、みな変えるのに責任を持つ。そういうつくりかたはぼくらの体質だし、それは企業に抗してしか育ち得なかった。そういう意味ではたえずぼくら自身に忍びよる資本主義的なかげや、体制でしょっちゅう使ってる手を自分自身で洗い出さなければならない。だから、できあがったものは必ず新しいものになる。そういうプロセスをとる以上は、見せる形も五社のように請負ってポンと出して、「はい」チョンと幕を引くようなわけにいかない。

奥田
ぼくらは企業の中で、一つの抵抗として合評会をやる。そうすると作品そのもののあのカッ卜がよかったとか、とのカメラ・アングルがよかったとか、という話にとうていいかない。いろいろな製作過程での矛盾とか圧迫とかいったものが最初に出てくる。
さっき超企業と言いましたが、ぼくには自主映画をつくりながら、なおかつPR映画企業の中でPR映画をつくっているという矛盾がある「PR映画の中でいつの間にか自分らにつきまとってしまった体質が自主映画だからということで、たち切れない。同時に政治運動の中で発酵するものと、ぼくら自身の中で発酵されているものとのズレをくぐりぬけないといけないという気がする。日大を撮っていくと、自分がそこから洗い出されていく気がする。PR映画の中では、カラクリの中でまぎらわしていたものが、自主映画をつくっていると、初めて自分のだらしなさとか、どうしようもなさとか、自分の作品闘争の足りなさとかが照り返されて見えてくる。学生諸君が現場スタッフの中に入り込んできているんですが、われわれが中軸と、なってはじめた自主映画運動が、それらの学生に逆に切られていく。

佐藤
逆に切られていくというのは。

奥田 
たとえば日大を撮る。その場合にぼくなんかは、学生に危険が加わるような映画をつくらないといった本音みたいなところを言う。すると学生は、「どんどん撮りまくってくれ、いまやそういった隠微な撮りかたはやめてくれ」という。われわれ自身の製作態度や、自主映画運動の底の浅さ、弱きをつかれてくる

本隊なき斥候兵


ぼくは報道一般を信じないわけではない。報道が徹底された場合は、一つの目をもつ。そこで報道はほんとうの報道になると思う。が一方、こんなこともある。いまぼくらの事務所にブレヒトが、一九三四年バリで書いたいた非常にいいことばが貼ってある。真実に関する五つのこと、使える判断力と、もう一つ何かあって、最後に策略が必要だといっている。ぼくらが非常に個的な色彩を帯びた映画をつくるのは、そういう意味での策略感じている、キザな言いかたをすると、時代に派遣された斥候兵である。この斥候兵は、だれかから双眼鏡を与えられたわけでもないし、めしを与えられたわけでもない。自分たちで調達してきている。その場合、自己に対する過大評価も過小評価もいけない。とにかく徹底的に冷静に状況を見ながら、あらゆる策略を使っていく。そういう意味でぼくらは個人的な色彩を、ときには強調して言ってるわけです。

佐藤
時代の斥候兵というからには時代の本隊があるわけですね。


この斥候兵ははたして敵兵を見に行くのか、霧の中で迷っちゃって、自分たちがどこにいるのかわからぬというようなことでしょうね。本隊から派遣されたということではないのです。

土本
政治はじつにドラマティックなんです、映画的なんだな。キューバでしみじみ感じたのは、第三世界なんて簡単にいうが、それは、そこで生きるか死ぬかの世界だということを、ぼくたち自身が本気に考えないと、とてもじゃないけれどもわからない。そういうことをほんとうにつきつめるのは、キューバじゃなくて日本じゃないか、それができるならば、政治活動としてではなくで、映画としてやりたい。つまりアジテーションの映画じゃなくで、ほんとうに映画としてやりたい。
キューバは非常に緊張しているし、それとわれわれの昭和元禄とぶつかったときに、それは珍妙な喜劇であったし悲劇であった。そのへんがどう映画に出たかということが、この映画で一番・・・

佐藤 
第一次独立プロ本隊の宣伝隊といったら過小評価になる。事実いい仕事をしたと思っている。しかしやはり本隊が想定されていたと思う。それに対してみなさんの仕事は自分を発見するために旅に出かけたような、ある場所にカメラを持っていくと、とかできるみたいな言いかたをしていた。つまりあなた方の映画は自問自答であるということにもなる。しかしこれは映画の概念からはずれるところもある。岩佐さんが『飛翔』で女優に問いかけるというのは?

岩佐
表現以前のところでは自問自答的な出発点をもっていますね、おれはなぜ映画をやっでいるのか、おれがとつている女優よ、おまえはなぜ芝居をやるのか、ということがある。でも、映画で表現しようとしているのは自問自答そのものではありません。
いままで映画が、あまりにもスクリーンから観客へ予定された感動を与えることだけを目的にしてつくられ続けてきたと思うのです。この観客とスクリーンの関係がすでに体制的な体質になってしまっていると思うのです。
そこで観客からスクリーンへ働きかける意識をつくりだせる映画、いってみれば観客がつくる映画を始めようとしまし、た。それは、ウソと本当を一瞬に往復させ、そのことで自分を表現することのできる女優を対象にすることが有利だと考えたわけです。

屈辱を乗越える道

佐藤
みなさんPR映画出身で、PR映画は非常に屈辱的であるといわれた。けれども、五社の映画も、かつての巨匠たちはゆうゆうと仕事し、その中で非常に心あたたまる映画、ナイーブな映画をたくさんつくったが、いまの五社の監督はやっぱり屈辱的なわけで、ただその屈辱を屈辱と感ずる人もいれば、感じない人もいるというだけの違いだと思うのです。
その屈辱を感ずるため、非常に欲求不満の爆発のような映画も一方でつくられるし、汚辱にまみれることで救いがあるみたいな映画もある。みなさんの場合、PR映画をつくっているときは屈辱かもしれないけれども、自分で自主的につくれば、屈辱などとは言っていられないだろうと思う。屈辱の中で自分は何であるかというような自問自答が、どんな意味を持つか。


PR映画と自主制作の映画を根本的に違うものとしては考えてないんです。たとえば、ぼくの『沖縄列島』という映画を完成するまで

佐藤
わたし自問自答といったのは、その心情はわかるが、その範囲でいいのか、それが創造力を解放したことになるのか、というようなことを開きたかったのです。映画はともと大衆的的なもので、かつての進歩派の映画はアジテーションに賭けたものであり、そのアジテーションというものもなかなか捨てがたいも

奥田
いまの状況でいえば、万博の映画をつくるというふうに自分の理念とずれた仕事をやりながら、同時に自分のアリバイ証明に屈辱を語る。しかしぼくも映画以外の人によくいわれるんだが、その屈辱が、はたして自分の存在の本質に根ざしたところでの屈辱なのか、あるいは日常生活化してしまっている屈辱なのか、屈辱のきたるゆえんをつきつめる必要がある。
自主運動でつくり得た観客との新たなかかわりあいの中で、そのことまで洗い出していきたい、そうしない限りつねに自分の位置がぼかされてしまうという気がします。

土本
ぼくはそのへんはちょっと違うんだな、企業から受ける屈辱は、直接的には大きいけれども、映画というのはそこに独自な、映画固有の美や表現があるし、そういうものをつくり出したときはつくり出しただけの理由がある。誤解をおそれずに言うならば、やはりいまの政治と重ね合わせてほんとうの芸術がつくれるときにはじめてぼくは満足する。それがいつまでたっても満足できないから映画をつくり続けるだろうし、まず自分にまつわってくる基本的な体制的なものとの癒着はさけたい。
たとえば、フリーになってもならなくてもかまわないが、フリーになるというのは、いっぺんそこらへんをチョン切ってみることだと思う。それがいいこととか悪いこととかではなくで、映画をつくりたいのかつくりたくないのか、自分が男子一生の仕事として映画を選んだことがよかったか悪かったかという気概みたいなものを、フリーになるということに重ね合わせていくことが、いままさに大事だと思う。
ぼくは、映画づくりが世の中の状況を変えるなんて思っていない。しかし、世の中の状況と共鳴はするだろう。
衰微している、しかし表現としてこんな若々しいものはないんじゃないか。いろいろな可能性もあるし、テクニックもある。しかし、いま、もっともむずかしいこはそんなことではない。映画をつくることはやさしいけれども、その映画を連作するかどうかということになれば、政治というか人間の組織というか、そうした目に見えないものを組織し、資本主義の体制の中ではっきり回収し、回収することで正当性をより強めていく困難な作業が残っている。

佐藤
そこで観客組織の話がでてきたので、実際観客をどう捕えていくかの問題に移りたいと思います。ここに集っている人たちにとって五社をよくするという発想は全くない、ただ五社が問題になるのは上映館を独占していることだ。

小川
まず『三里塚の夏』の動員数ですが、一二月末までで一二万八千人ぐらい、北は北海道から南は鹿児島までほぼ全域にいっている、ぼくの場合、最初の映画(『青年の海』)はだれも見てくれなかった。そのために一緒にやった連中は生活的に本当のどん底をくぐっできた。今度の映画では根づいた上映組織をつくる必要があった
上映実行委員会で独自の配券活動、上映運動をしてもらった。中心になってくれたのはいわゆる三派、革マルの学生、それと反戦青年委の人たちです。それから意外に力になってくれたのがカトリックの神父さん
相当無理して広範囲な上映運動もしました。たとえば北海道の場合、社会党、県評、地区労はもちろん、間違えて共産党まで行ったりした(笑い)。そういう過程で今一二万八千という数字が出てきている、興行ルートなら普通収入の二割五分から三割しか製作者に入つてこないがぼくらの場合はほとんどが半分わたしてくれる
それから各地をまわって意外に感じたのはいわゆる革新的と言われるところがダメなこと。つまり一枚岩なので、東大紛争があっただけでゲバルト主義とかいうことで空気が変ってしまう。半面、知事選に負けた福岡などは強い。結局、ぼくらと一緒につき合ってくれる人たちは、労組でも下の層の人で、それがあるかどうかが動員数に大きくひびく。
東京のある地区ではビラ貼りまで協力してくれて一カ所で三千人動員した。もちろん三里塚の農民もこの運動に協力してくれて、反対同盟の戸村委員長は三八カ所ぐらい回っている。
もっとも、これで次をつくる資金が生み出せるかというと、残念ながらそこまでいっていない。ただ、この上映運動を通じ、この映画運動に参加する若い人たちが各地から出てきたことは大きなプラスです。

五社方式に抗して

土本
フランスでは、一つの館で何カ月ものロングランをやる。その一館でパリ中のお客が何十万も見たという体制がある。ところが日本の場合、一カ月ぐらいの肺活量しかない。
ぼくは、この『キューバの恋人』について多少自負をこめていえば、生命力の長い映画であると思っている。日本中たんねんに見てもらうには二年間くらいはピッシリかかるだろうと思う。ぼくたちは直営館はないし、たくさんのプリントを焼いて一斉に公開して一、二カ月で二番館、三番館の津々浦々までやって上げていくシステムとは無縁なところでやっている。ぼくらがクビを締められているのは、そういった日本の映画の機構に対して抵抗できないことです。
日本の場合、興行資本から先に生れた形で、座館の発言が非常に強い。五社はそれを系列として組織することによって成立している形だ。ぼくらはそれに対して宣伝活動と前売券活動で、一つ一つそこに映画を見る運動と実体をつくっていくつもりです。興行資本の番組の組み方によって、あたら名作がむざむざと散っていく状態のなかでこちらの自主的なやり方をつくり上げたい。
今度の映画は製作費が高いので、残念ながらーというか全くうれしいのですが、人数の想定でいうと百何十万人ぐらい見せないとペイしてこない、再生産の余力が出てこない。これは一種の選挙、参議院選挙なんかと同じで、たいへんな組織活動と政治活動みたいなものが必要で、その意味では、新しい試みの入口に立たされていると思う。


『沖縄列島』について具体的にきまっているのは三月に大阪と東京で有料試写会。まったく未経験で、小川君や土本さんのあとをついていくことになるわけですが、原理的なことだけ確認しておきたいのは、映画はほんとうは無料で見るべきものだと思うのです。しかしいかんせんぼくらは借金でつくっている。これは返さなければしょうがない。
そこで、お金を取って見せるわけですが、このあいだある労働組合の人から電話がかかった。「どういうふうに行ったら見られるか」という。無料で見られると思っているらしいので、あぶないと思って(笑い)、有料だということを説明したんです。ぼくらは腹は立たないけれども、そういう方からがっちりお金をいただいて、見ていただく。

奥田
『死者よ来たりて我が退路を断て』は第一回の公開上映みたいな形では、三月二日紀伊国屋ホールでやる。こういうエピソードを聞いたことがあるのですが、大阪の地下道で映写機とスクリーンをもって、歩きながら上映した。人がばっと集ってきてそれを見て、またパッと散ってしまう。そういうことをやった人がいるらしいですが、そういった形でしかいまぼくらは出発せざるを得ないだろう。
小川さんがいわれたように、既成の組織体とかいわゆる革新というところに行くと、集団的にしかつながってこない。
やはり二作、三作続けていく.ためには、見えないものを掘起していかないといけないという気がしている。
たとえば、私たちの映画、それはまだ未完成のままのフィルムですが、それをもって、全然知らない組合の集会で上映する。そこで、組合からも疎外されている急進的な部分の人たち、彼らが求めているものと、ぼくらが求めているものております。

岩佐
『飛翔』は三月下旬に有料試写会をやって、四月下旬から上演運動をやりたいが、完成した時点で若干それをずらすかもしれない。キューバ、沖縄、三里塚、あるいは学園闘争とかいうふうな
それに対するなんらの責任関係もないというものであるだけに、そういう運動は起しにくい。言ってしまえば作品自体がぼくは運動だと思っているし、それを出発にして組んでいくよりほかないだろう。

「文化工作隊」を否定して

佐藤
以前、やはり独立プロ形式で『若者たち』と『ドレイ工場』がつくられたのですが、あの配給のシステムはどうなんですか。

土本
上映運動の参考までにある程度調べましたけれども、けっきょく『ドレイ工場』の場合には『百万人の創造』という本の題名が示しているように、多くの機関決定でシナリオを何万部か刷って、それを組織討議にかけてなお意見を拾い上げてつくっていく。それを組合、民主団体、青年組織、そういうもので各地区ごとに自主上映を組んでいくという形がとられた。
そのなかで一番のメルクマールは、運動の中で映画をつくるという実感を労働者に共有させていくことだ。ぼくはそれは幻想だと思うが、その中で上映し回収していく。方法としてはやはり旧独立プロ運動時代以来の形が依然として存在しているように思えるのです。
映画としての脚力よりも、むしろ労働者の連帯、つまり労働組合同士がたくさん名前をつらね、みんながこの映画をつくるのに熱中したんだというような軌跡をつくり上げることによって、上映をしていく方式です。上映をした活動家はひじょうに熱心にやったと思うし、成功したと思うが、映画自身を、一つの政党の文化運動ということでつなげていったような感じがしないでもない。
『若者たち』は、ぼくもまだ調べている最中ですが、それ以前のテレビで盛んに知られたという状況があるにせよ、何らのバックもない。ただ映画としての大衆性とかおもしろみはあった。そのときのフィルムをかついだ人たちはおそらくはやはり旧独立プロ運動の流れをくんだ人だと思うし、テレビから疎外されていったものを映画として救い出そうとした
『若者たち』はそういうものとダブリながら、やはり映画として一人の脚力を持たざるを得なかったし、またそれを持っていて、一つの映画の自主上映を確立したんじゃないか。
第一次独立プロ運動の総括は、たいへんなことだと思うのですが、ぼくはやはり文化工作隊的な性格があったと思う。映画はもっと雄大だし、精神状況の戦いとしてはもっと気迫のあるものだ。映画は、第一次独立プロ運動の政党引回し主義の敗北と、その後起きたテレビによる問題、それから映画人の無自覚の問題、そういったものでどんどんだめになっちやったけれども、ここで立上がれるとしたら、どこから立上がれるか。そういう映画に対する一つの復権の原動力は、やはりその映画がちゃんとした映画としておもしろくなければならない。それからそれが手近な一人一人を個的に獲得しなければいけない。だから機関決定というのは、たしかに量を確保するけれども、はたしてその量はなにかのときにまた量として逃げていく危険もあると思うのです。

展開をたのしみに

小川
『ドレイ工場』のことで、ぼくがひじょうに疑問に思ったのは、地方で官僚的なケースに出くわした。ぼく疑問に思いましたね。

佐藤
第一次独立プロが各個に小さなプロで奮闘していたころはういういしい作品をつくった、ただそれをある連合体にして五社に対抗する組織の時に、反体制運動内部の身分制みたいなもの親分子分的なとこ、それが創作意欲をもルーティンにしていったというふうに
いままで出た話、大体皆さんのやろうとしているが浮きぼりにされたと、独立プロといっても非常に進化していって政治運動みたいなものからも独立ししかも政治ゲリラ的にあざやかに出してきているわけです。とにかく始まったばかりであって、展開はこれからであるわけですから検討はこれから半年後ぐらいであろうと思います