見られるための巡礼 『アサヒグラフ』 6月30日号 朝日新聞社 <1972年(昭47)>
 見られるための巡礼「アサヒグラフ」6月30日号朝日新聞社

 一九七二年六月三日、午後一時、ソ連航空アエロフロートSU五八二便は、モスクワ経由ストックホルムにむけ、水俣病、カネミ油症五人の患者とその家族をふくむ自主講座グループの一行十六人をのせて、一気に飛びたった。羽田のゲートには横断幕「世界の友に伝えよ、水俣病の生地獄を」の文字が、機内の窓からもはっきり見える。黒い「怨」ののぼりと手をふる人々の波に応えて、小窓に顔を押しあてる患者さん。坂本しのぶさん、その母親フジエさん、浜元二徳さん、そしてカネミ油症の患者佐々木繁光さんと木下忠行さんたち。「何も外国まで、日本の恥をさらしにいくことはない」といったという政府筋の思いまどいに対して、恥をさらしにいくこの患者さんたちは、羽田を飛びたつことに、ほとんど何の気負いも、興奮も、まして浮き浮きした気分もなかった。
 坂本しのぶさんは十五歳、水俣一中の特殊学級三年生である。出発前の記者会見で、ひとこと自分の名を言うのが精一杯であった。カメラや人の目の直視をさける長年の習慣に加えて、思春期をむかえた少女としてのはじらいが、いつもおもてをそむけさせ、頭をうなだれさせる。母親のフジエさんは今は端然として、その子を人々の目からおおうことはしない。揺れる上半身を辛うじて支えるしのぶさんとりりしい母親は一対となって、外国に行き、水俣病を見てもらわなければならぬと心にきめた母娘の出立までの心がまえを見せるのである。
 フジエさんは「この子、行くばっかしになった二日前に、泣出して、いかんとゆうたんよ。やっぱり……寂しかとじゃろうな」。水俣の湯堂の家のとなり四方や、水俣一中の友だちの間につくっている”しのぶちゃんの世界″から離れて、スウェーデンのストックホルムへいくのは、たとえ母親と一緒でも、気の遠くなるほどの不安をひめていたのだろうか。
 同行の医師たちや付添いのものが、汗ばみ、気色ばんでいるのに比べ、当の患者さんたちは、新幹線にのったように平然としている。美人だが無愛想なロシア娘のスチュワーデスも、とりたてて気を使うでなし、一気に日本列島を新潟にぬけて横断したころから、坂本しのぶさんは、付添い医師、熊本大学の原田正純氏のすすめる大阪ずしをほうばりはじめる。
 浜元二徳さんも泰然たるものである。が突然、下界がシベリアと知るや、忙しくなる。東京で買ったポケット版の五カ国会話辞典を聞いて、ロシア語で「あと何時間かかるか」を暗記しはじめる。一時間後、やっと足をとめてくれたホステスに「ガスパジャー・カク・ドールゴ?……バリショーエ・スパシーボ」(おんなのひとよあと何時間?どうも有難う)と教えてくれた場合のお礼のことばまでいってしまうが、全然通じないで、しきりに赤面する。
 水俣病の患者さんの軽装ぶりについて言わなければならない。カメラもテープコーダーもまして大きな荷物もない。おそらく最少限の身の回り品である。それはちょうど七〇年秋、巡礼姿で大阪で開かれたチッソの持主総会にのぞんだときの人人のきりつめた所持品を思い出させる。白布製のルーフ・ザック状の小袋ひとつを背に、”同行二人″とえりに記した巡礼衣で、すべてのムダを切りすてた行者の人々のように、今度の旅の荷物は少なかった。
 その代りに、熊本から十四kg二千部の英文のリーフレット「ストックホルム・アピール」をたずさえてきた。戦後まもなく、原爆禁止と五大国平和協定を訴えた世界平和委員会の有名なアピールもたしか「ストックホルム・アピール」と呼ばれた。二十年後、同じ名称のアピールが熊本の地から、ストックホルムにつどう世界の人たちにむけて届けられる。
 原爆と水俣病、熊本の告発の人々の顔を思いうかべると、代表の本田啓吉氏にせよ渡辺京二氏にせよ、水俣病市民会議の松本勉氏にせよ、おそらく原爆禁止の「ストックホルム・アピール」の署名をもって歩いた、二十歳代前半の青年時代の追憶と重なっているだろうと思う。この世界にむけてのアピールのビジョンが、日本の、中央でなく水俣のひだから発し、投ぜられたことに、日本の市民運動の肺活量をみた思いがするのである。
 患者さんにとって、水俣からストックホルムまでの道のりの間に、水俣から羽田までの旅が一ステップあったに違いない。水俣病患者のうち動ける人は半分以下であろう。限られた活動力をもって、裁判闘争を支え、新認定患者の直接交渉とチッソ工場前のすわり込みを続けてきた。その上で、三人の患者および家族を、見果てぬ夢のような遠い国に送らなければならない。自主講座では二人分の旅費を作るが、あと一人分は水俣病市民会議がそれを背負った。
 その代表の人選についても、患者互助会で、さぞケンケンガクガクあったことと思う。これが四大公害代表であれば、渡辺栄蔵老人の名がまずあげられよう。これが最もひどい病歴の人とすれば田中実子ちゃんのその生地獄そのものの化身を送ることも考えたかもしれない。しかし、大阪の一株運動にゆくのとは訳がちがって、時差八時間、すべての生活が常人でも狂いかねない地球の裏側ヨーロッパへの旅である。
 そこで何を訴えるのか、どのようなスケジュールなのか定かではない。東京で至近の距離で情報をうけとっていた私たちでさえ、環境会議、人民会議、大同グループといった人民サイドの集会の性質とその内容を知ることはむずかしかった。ただ六月五日の大同グループ主催の日本デーが明確にきまっていただけといえるだろう。なぜ、何しにいくのか、問えば、判然と答えられる人は日本に何人あったろうか。
 宇井純氏も、その会議の内容をつかむべく、五月末に準備のために先に立った。まして水俣では、あるいは熊本では、それを知る努力は徒労に近い。彼らは代表の手に水俣からストックホルムへのアピールを背負わせることで、旅の目的の一つを明らかにしようと心を砕いたと思われる。そこには水俣病の略史と病気の紹介を枕に、人民の手で作るべき「水俣病センター」の構想と、その基金の訴えがもられている。患者さんの医療、未認定患者の発掘事業、生活の相談、機能回復、生活回復のための共同作業から、資料センター室をつくり、政府、国、県、市が一貫して十九年、怠りつづけ、隠蔽し、サボッているすべての対策を市民の手で明らかにし、創りあげていこうというもので、来年度中に一億円の基金を目標とするものである。
 ジェット機は途中、給油のためにシベリアの新興都市ノボシビルスクによったため、十二時間を費やしてモスクワに到着、西に傾く太陽を追っての飛行で、モスクワはまだくれなずんでいた。荷物の点検のあと、ブカレスト・ホテルに一泊、あわただしくクレムリン付近、マルクス広場をバスで走りぬけて、再び機上の人となり、ストックホルムにむかう。
 六月四日、午前十一時半、しのぶさんはとじこみのノートを折れた指で繰っている。そこには、水俣一中の一年生から三年生までひとりのこらずの仲間から寄せられた一、二行の激励の言葉がつづられていた。
 「水俣一中の生徒であること忘れないで頑張ってほしい」という対抗野球大会出場選手にむけるようなことばがやたら多い。しかし「水俣病の悲さんさを世界の人にひとりでも多く話して下さい」「こんなにひどいということをわからせて下さい」と水俣の子は訴えを託す。「堂々としゃべってきて下さい」「ぜひ発言してきてほしい」。これはおそらく、しのぶちゃんの病気ゆえの無口を案じての級友のことばだろう。だがはなはだしい言語障害のしのぶさんには、それは約束しがたいものであろう。浜元さんも、坂本さん親子もゼッケンを整える。
”AN INDIVIDUAL CAN NOT BE REPLACED”(人間なるものは二度とよみがえらない)”VICTIMS OF THE UNCONTROLLED MARCH OF GNP”(高度成長政策のコントロールなき行進のかげの犠牲者)”CHISSO MINAMATA DISEASE VICTIMS”(チッソ水俣病の犠牲者)とかかれてある。
 「これを、いつもつけて歩かんばん。つけておらんけりや、この足の不自由が、何でだかわからんもん」と浜元さんは猛然と言う。
 わずか二時間余でストックホルムに到着した。滑走路には各国のカメラマンが集っていた。
 ストックホルムの夕刊紙は、「水俣病の患者さんたちの到着した空港はその後二時間、重苦しい沈黙に包まれた」と報じた。その言葉は当っていよう。タラップ立った浜元さんとしのぶさんの延べ十四時間の旅、はるばる日本からきた患者さんの無言のままの表情、上気して赤い顔、その昂ぶりが、小きざみのけいれんとなって足どりを乱し、上半身を揺らす。タラップを降りて一言あいさつすべきかどうか、したらよかろうなどと案じていたが、その現実の身躯とやっとの歩行を見て、日ごろ、カメラポジションなどでやかましいはずのカメラマンたちが、粛然として後ずさりしながらただ写していた。バルコニーに、かつて水俣を訪れたことのあるオランダ人、アソドレとトニー夫妻が「怨」の黒旗を一条かかげて、感きわまって「ウェルカム!」と叫んでいる。

 くたくたの患者さんと私が、インゲボルグ・渡辺さんの家についたのは夕刻であった。といっても白夜の季節で日は森の上に高い。ストックホルム郊外、スポンガにある新興高級アパート街の一角にある渡辺さんの住いは、41DKに当る広さがあり、その二部屋に四つのベッドと自由に起居できる広間と台所を提供された。
 ご主人の渡辺満さんはスウェーデン北部の都市計画の仕事で出張中で、あいにく留守だったが、「そのために、部屋を開放できるのです」とインゲボルグさんは家中の扉を開いて招じ入れてくれるのだった。
 日本から持参した劉昌麺とインスタント・ミソ汁とインゲボルグさんの用意した生鮭のバター焼の夕食は何より疲れをやわらげる。「ほんに、スウェーデンに来たような気がようせんもんね、こんなものたべとれば……」と口々に米のめしをかみしめた。
 しのぶさんは二歳のラミーちゃんと九カ月のユミちゃんの相手をしはじめる。はじめ目をまるくしていた赤ん坊たちも、やがて憤れてくる。双手をあげて抱っこを求め、しのぶさんにとびついていくが、抱きあげることはできない。指で髪に触れてやるのが彼女の出来ることであった。その夜、皆早く寝たが、一様に早く目がさめ、床の中でがさごそしている。午前三時にはもう朝日がさしこみ、白い壁面の部屋いっぱいに反射して、真昼のような気分になる。「こりゃ夜ちゅうても、ぼんやりとあかるくて、いつでも太刀魚を釣るときのごたるよ。これが水俣なら三時間でも四時間でも釣れるとじゃがなあ」と浜元さんがいえは、フジエさんも、「まこて、夕べと朝とくっついとるけんな」とこたえる。この会話をききながら、水俣の海で夜の訪れるわずかの間に、太刀魚釣りの糸をたぐったときの空の色を思い出す。すべては「水俣」をものさしに、この異国を確かめているようだった。
 六月五日、日本デーが開かれた。この期間の行事のハイライトの一つであり、患者さんが、この目で見ることの出来る、公害そのものであることから、おそらく、ストックホルムにいるすべての新聞記者が、会場にあてられたABFヒユーゼット(ハウス)に集まった。
 「ことばが出来んけん、このゼッケンを忘れんようにせんば。しわがよってたら読めんとよ、しのぶ」と浜元さんが世話を焼く。
 一時半から映画『水俣-患者さんとその世界』の英語版上映。四時から記者会見。七時から大衆集会。そのあいま、ロビーでやすむ間もカメラに追いまわされる一日だった。カネミ油症患者は、記者の求めに応じて、下着をとり、その炭塵爆発をこうむったような背部をカメラの前にさらした。萩野昇氏のイタイイタイ病、宇井氏の紹介する重金属汚染から光化学スモッグに至る公害のアラカルトは、メモをとる記者たちをぼう然とさせるほどであった。記者たちの視線はその間中、たえず、患者さんたち、とりわけ、椅子の上であるはじらいに身をゆするしのぶさんにそそがれる。
 次々くり出される公害日本の現状、その原因結果、ときに専門的な用語でうずめられる話、を記者の体験として定着させるのは、ライトの中で、その時間を耐えつづけているしのぶさんに視線をそそぐことであった。記者会見が始って一時間あまりすぎ、しのぶさんは苦痛の色をみせた。すぐに会議の席からはずそうとしたが、彼女は、大丈夫といって、きかない。この席に坐っているのが私の仕事だと思い、決心している様子がけなげにあるのである。しかし大の大人でも室内の気温の上がりっぱなしの中で、もういいかげん消耗しているのだ。「しのぶちゃん、もういいんだよ。がんばったからね」という。フジエさんが小声で「ションベンは?」と聞く。はじめて席をたったしのぶはトイレにむけて走るように去った。
 夜七時からの大衆集会「日本の夕べ」は四百人あまりの会場におよそ五百人を越える聴衆が集った。日本人記者たちはその盛況に驚きの声をあげる。
 宇井氏の概説のあと、熊本大の原田氏が、たずさえた未公開の胎児性の記録フィルムを上映して説明する。脳性小児マヒとして水俣病からはずされていた子供たちを、水俣病と認定した直後の臨床記録である。
 次に、水俣病患者の訴えにはいった。通訳は日米人牧師A・カーターさんである。浜元二徳さんはこの日は大きく見えた。日焼けした漁師の肌をいまものこすその顔は上気し、ライトで目がたえずきらきらと光る。この一言をちゃんと言わんば……といって、朝、床の中からその日、しゃべることを考えつづけていた。しかし草稿はない。落着くことだけを念じているような不動の一瞬があった。
 「私はツギノリ・ハマモトです……」。すぐに通訳があとをとる。宿に帰ってから、「通訳があるでよかったい。その間に考えられるもん。ははあ、大体聞いてる人がわかっとっとなあと思うしなあ」とその時の余裕を話してくれたが、一節ごとに見事に凝縮されたことばがつづいた。
 「私は十九のときにこの水俣病になりました。というのも、チッソ廃液による汚水におかされた魚をとってたべ、こういう体になりました。……現在三十六歳です。それより先に両親とも、ぼくが二十歳のとき水俣病にかかり、すでに命を奪われたのであります……まだまだ、自分だけでなく、水俣にはいっぱいこういう患者がいます。…・・・このストックホルムに来たのも人類の命を大切にしてもらいたいためにやって参りました」。浜元さんは「運動のことを語らんば」と言葉をさがす。時間は五分と限られていた。
「私たちは、このような企業に対し、政府に対し批判せざるを得ない立場になっています。今、この体が事実証明することであるから、いまさら、政府がいいだとか企業が悪いだとか言いません。……先ほどもいうたとように、なぜこのような不自由な体でなぜこのストックホルムまできたかというと、……多くの人にこのような恐ろしい病気、家族の苦しみをもう二度とさせたくないと、この念をもって、ここまできたのであります……」
 訴えと述懐のないまざったトットツの彼のことばと、通訳の激しい舌鋒との交代は、静と動となって場内をゆさぶる。痛いばかりの拍手がひびいた。
 坂本フジエさんは「私は胎児性の子供の中で、一番軽い子供をつれてきました」といってしのぶさんをかえりみた。このとき人々は静かな衝撃をうけた。
 しかし彼女は淡々とつづけた。死んだ長女のことを語るときわずかに声がたかまったほか、押えた明確な口調でつづけた。
 「ロから食べられなくなった子供に親が鼻からゴムくだを入れて、食事を与えてきて、一年と三カ月つづけてきました。その親の気持、家族の気持ー私が、何べん大きい声で叫んだとて、皆さまにはわかってもらえないと思います。しかし自分の子供だと思って聞いて下さい。おねがいします。……胎児性の子供は今十五歳、十六歳、十七歳となっていまでも寝たままでおしめをはめております。……親は毎日、自分の子供にたべさせ介抱しながら、何にもできず、その不具者になった子を見つめている、ながめているその気持が、本当に皆さまにわかってもらえるでしょうか? 私たち被害者が黙って動かずにおったら、いつか、だれかが、どこかで苦しむときがあるでしょう」
 通訳のA・カーター氏は牧師でもある。フジエさんのことばを訳しながら、ほとんど心の昂ぶりはその極に達した。そのひとことひとことの英語特有の強弱のアクセントが、場内の人々の心をつきさすさまが伝わってくる。頭をさげてものをたのむように、フジエさんはいった。
 「私たちは、患者が出てからでは遅すぎると思います。……これ以上、公害が出て苦しまないよう、いっしょになって闘いましょう。おねがいします」
 六月六日午後、患者さんと同行の日本人たちで水俣病センターへの協力をよびかけた、例の「ストックホルム・アピール」を繁華街の中心地・オペラ座付近でまくことにする。アピールはまたたくうちになくなってゆく。写真パネルをプラカードのようにかかげて、デモンストレーションをしながら歩く。スウェーデン在住の米人ディ・アンリ氏や『エキスプレッセン』の在日特派員だったプウ・グナースン氏も加わって、流れはだれいうとなく日本大使館にむかった。プウ・グナースン氏は日本大使館主催のレセプションに患者さんを招けと三度申述べたが、患者さんをよぶ用意はないと大使館が返事したというので、むきになって非難していた。三度も(この三度というときに指を三本たてて目の前にふりかざす彼は、真に怒っている)話したのにその甲斐がないことは、日本政府はことばと行動がちがうといいつづけてやめない。「日本大使館にいくべきだ」というふんいきは、そのようなことで、いやがうえにもかきたてられた。
 入江ぞいのビルの中にある日本大使館に着くと、山本操参事官は、一団三十人の日本人、外国人とりまぜてのデモの出現が予想にも理解にも至らないらしく、患者へのあいさつに出てきたものの、どう扱ってよいか心から困惑していた。浜元さんと坂本さんはともども、「国連の会議で口先だけいいことをいっても、わしらが日本でどんな目におうているかちっともわかろうとしてくれん。わしらが、世界の人が公害にかからんばよかと思ってここまでくるというのに、日本の恥をさらすなとか何とかいうて!」と、当地ストックホルムにきてから胸につかえたことばを言う。山本参事官は、日本政府代表の件で頭がいっぱいで、患者の不意の訪問に応対の方法もない。ただ叩頭して、わかりました、ごもっともとくり返している。長いデモだった。ほとんど三キロ歩いただろう。

 六日から環境広場が本格的に始り活況を呈しはじめた。まさに広場である。ある人は「まるで東大の五月祭だ」と評した。毎日いくつかのテーマのパネル・ディスカッションのほか、展示や、スライド、映画が行われている。芸術インスティチュートがその会場にあてられているため、圧倒的に若い人が集る。毎日、ここにいって展示を見たり、人々と話すのが患者さんの日課になった。
 患者さんをみる人々の眼差しには、共通した深さがある。決して好奇にみちただけの浮上がった視線はそこにはない。いわば、原罪の意識であろうか、私自身の身がわりの受難者をみるいたわりがある。それが患者さんの心をなごませているように思える。ベンチにすわって、倦むことなく、人々の流れをみつめているしのぶさんも、母親を離れて、広い構内の散歩を試みる。水俣に映画をとるため五カ月滞在したときに、なぜか私はこのしのぶさんを深く知ることはしなかった。一つにはこの子が思春期にさしかかって、全身で表現しているあるはじらいに、私のような粗放なものが、知らずに何かを傷つけることを恐れたのかもしれない。
 今度、スウェーデンの家庭に身をよせて、彼女を知りはじめて私はあらためて驚く。出発前に、いくのはいやだと泣いたのは、ほとんどストックホルムにいくことが彼女の決心になるまでの、一つの区切りのときの感傷であり、不安であったろう。羽田を出てから、一言でいって、この少女は耐えつづけている。見られることを一番きらうこの少女が、言葉の通じない世界・自分のことばをいえない病気をかかえての旅の中で、ただ見られることによって、水俣病を知らせ、彼女を送りだした水俣の人々の心にむくいなければならないと思うこと、このことについての迷いは今はない。だから来た。このストックホルムに来た一と言いたげである。
 驚くのは、彼女の事態の認識の早さ、全体のふんいきをつかむ敏感さである。物を言えないだけに、理解力が強くなっているのだろう。会議に出ても、何もわかるはずはない。しかし、今ここに坐っていること、ここに来ていることが必要だという事態は、全くよくわかっている。耐えしのんでいる。
 しかし、一方で、この地の人々のしめすさり気ないいたわりにも敏感である。スウェーデン語で声をかける人、道をわたるしのぶさんのために、数十歩もはなれた先で車に注意しようと躍起になっている中年の婦人の姿を、しのぶさんはたしかに見とどけている。
 またある日、観光ボートにのる時間が出来た。浜元さんは、「遊びじゃないのよ。ストックホルム湾の水質の実態調査たい!」などと冗談をいうが、そこはかねがね、たのしみにしていた観光のひとときであった。
 私たちは前ぶれなしにグランド・ホテル前のポート埠頭にゆき切符を求めたが、切符うりの少女は、患者三人分の切符はプレゼントするといってきかない。事情をしったボートの案内人は巨体でしのぶさんをだき抱えて乗船させた。それが抑制のきいたひかえめな好意のしめし方なのだ。おそらく、私たちより早く、しのぶさんは、この地の人の心を感知したにちがいない。顔に笑いがもどり、女の子の匂いがにおうようになった。
 浜元二徳はある夜突然こんなことをいいだした。
 「きっとあの子の一生に今度のストックホルムゆきは大きかよ。やっぱ若いうちにやきついたものは一生離れんもんな。ああ、あの時はこうしたとか、ああ、あの時はああしたとか思い出してなあ。本当にこのスウェーデンちゅう国は、人間を大事にしとるもんなあ、水俣だけにいて、ゴチャゴチャして、まあ世の中はこんなもんだろと思うとるのとちがってーあんまり差がありすぎるもんなあ。まだ公害の起らんのにこれほどみんな真剣じゃろうが-。公害でバタバタ死んでさるくとに、今の日本はまだ知らんふうだもんなあ」