“シネ・コミ”の新しい波・その2 小さな映画館の大きな観客座談会「朝日ジャーナル」11月26日号朝日新聞社
座談会 小さな映画館の大きな観客
-出席者(発言順)- 東 陽 一(映画監督)山 田 宏 一(映画評論家)土 本 典 昭(映画監督)
八月一日から一〇月三〇日までのまる三カ月、東京・高円寺に「アロンジ・アロンゾ」というききなれない名前のミニ映画館が開いていた。だしものは、『水俣』(監督・土本典昭)『三塁塚・第二砦の人々』(監督・小川紳介)『やさしいにっぽん人』(監督・東陽一)といった独立プロ作品が主。それだけでなく、若い映画世代の、上映時間二〇分などというミニ映画まで集めて秋の映画界に小さな興奮を呼んだ。
編集部
独立プロの自主映画館っていうと、なにか非常に大げさな感じがしてとっつきにくいんですが、「アロンジ・アロンゾ」というのは名前からしてあっさりとさりげなくていいですね。ゴダールの『気狂いピエロ』の中にさかんにでてきたマンガからとった言葉と聞いてますが、「さあいこうぜ」みたいな意味ですね。「ローハイド」のフエーバーさんだな。実際、東プロの若いスタッフが、タタミ屋から一枚五〇円の古タタミを買いこんできてバッパッと気軽に劇場を作ってしまった。いってみれば、志を、肩いからせずに軽快にやってしまう若さ、みたいなものが、若い世代にうけたように思うんですが、東さん、まず、どうして自分たちのミニ映画館を持つにいたったか、を話していただけますか。
「ア ロ ン ジ ・ア ロ ン ゾ」
東
小さな劇場で長期間自分たちの映画をやれるような場所が欲しい、というようなことは何回も考えていたけれどもそれは非常に遠く見えたんですね。欲しいけれども、そんなのは、えらいカネがいるだろうし、できるわけがない、ということだった。そういうときにスタッフの内部から、どこでもいいから、つまり倉庫のようなところを借りてねー倉庫のようなところというのは、カネのかかんないところ、ということですね。カネのかからない広い場所があって、そこで好きなだけ上映できる。そこに何人入ろうが入るまいが、そんなことは気にしないで、とにかくダラダラ、ダラダラとやってみようや、という声がでてきた。そういうところを捜したい、ということになってきて、若い連中が一生懸命場所を捜しに歩いたんです。その結果、高円寺に貸しビルの地下が見つかった。家主さんに会ったら、三カ月間だけは権利金なしで家賃だけで借りられるという条件ができたわけです。
そうすると、最初は一カ月ぐらい東プロが作った『やさしいにっぽん人』」を上映すればいい、ということでスタートしたわけです。ところが、だんだんとイメージがぜいたくにふくらんできて、『やさしいにっぽん人』一本だけじゃなくて、もう少し太いものになれないだろうかということで、土本さんの『水俣』も加えた。それにどうしても小川紳介のやってきた持続的な仕事とか、金井勝君の仕事なんかも加えたくなってくる。そこで彼らにも呼びかけて、スタートしたわけです。
山田
ぼくはこの上映活動が三カ月で終るとは思ってなかったので、こいつは、ひょっとしたら、フランスふうのシネ・クラブがついに誕生したかと思った。パリなんかの名画座の大半は個人経営なんで、館主が多くの場合積極的に独自のシネ・クラブをつくってるんですね。実際その劇場を経営するためには、ふだんは「007」シリーズみたいな商業的な娯楽作品をのせたりしないとやっていけないんだけれども、とにかく自分は映画が好きだからといって、毎週最終日の最終回には自分の好きな映画を持ってきて特別にやる。そういう映画きちがいの館主がいまでもたくさんいて、上映後には、その館主が司会で激しいディスカッションをやる。隣近所に住んでいる学生たちを集めてきてね。そこでだれがいちばん発言するかというと、その館主なんですね。むずかしい理論を展開させてね。ぼくはそういう形態だと思って、非常にびっくりしたんですね。
東
こんどの場合、家主が積極的だったということはないですね。逆にものすごく不安だったと思うんですよ。家主にしてみれば(笑い)。つまり、東プロの連中は何やってるかわからないし、映画をやるといったって、ここでそんなものできるかしらんみたいなこととかで、だけどそのうちに、うちのプロデューサーと田舎が一緒だということがわかったりとか、いろいろまあ、それからぼくらが作っていく過程をずっと見てますからね。なんかノコギリで木を切ったり、トンカチを自分たちで打ったりというのを見ていくにつけて、そういう不安はなくなったと思うんですけれど、特別映画に対して好意があったとか、関心があったとかいうことはないでしょうね。
土本
「アロンジ・アロンゾ」をやろうと思ったときには、非常にクリスタルな思想があったと思うな。つまり、幻想をもった考え方も若い人にはあったしね。それから、ロマンチシズムで、それこそ、だれもやってないからやってみようみたいなね、考え方だって、討論の中にでてくるけれども、終始一貫してリードした東の考え方というのは、自分たちがいまこの映画を見せる場として、いわゆるカネのかけ方もこれ以上はかけられないし、それから、それの入る目安もそう爆発的に入るとは絶対に思えないし、大成功するとも思っていない。しかし、やらなきゃいけないし、やることに意味があるというとこからはじまったんだな。
それから映画を上映するだけでなく毎週いっぺん、膝つきあわせての討論をお客さんとやろう。それはきっと何かがでてくる。それを十三回やりきったときには、自分たちはきっと何かを得るだろうと思った。これは幻想でもなんでもなくて、実際全部あたってたわけです。そういう非常にクリスタルな考え方が頭からあった。
だから、たとえば『水俣』なんか、暑いうだるような昼間なんて、ゼロのことがあったわけですね。映写機だけかかっている。それでも、みんながんばれたわけ、幻想もたないで。たとえば独立プロ運動の新しい運動である」なんていうだいそれたことをやってるかというと、自分たちの仕事というのはそうではなくて、つつましいにきまってるしね
流れ作業の末端ではない
編集部
毎週、土曜の夜は、監督と観客がタタミのうえにすわってダベル、ということをやったりして、ずいぶん、観客との肉声の対話に力を入れたんですね。
東
映画というのは芝居なんかともともと違っていて、観客と関係なくできるんだという固定した考えがありますね。しかし、ぼくはそれが映画の宿命だとは思えないんですね。たしかに、映画というのはものすごくカネがかかるから、大きな興行資本なんかの中でしか作られてこなかった。表現者というのは、その資本の中で作られていくという形でしか、自分の表現の場というのが、なかったわけでしょ。そういうなかで、どんどんどんどん映画の分業化が進んでいく。監督は監督、助監督は助監督で。製品が流れ作業みたいになって、作った、ホイ編集部、ハイ仕上げ、ボンと送り出す。あとは配給業者の手に渡る、という感じで、そういう分業化の結果が、やがては、映画はそういうものだと思わせてきてしまった。
しかし、ぼくは、そういうふうに映画、というのは、観客とは関係ないんだ、と思っていると、えらいまちがいするんじゃないか、と考えるんです。それは、観客との対話とかなんとかということもできようが、観客と対話したからなんかしあわせだったというんじゃなくて、やっぱり、映画そのものというのが、どうも分業化のはてに、ぼくらの中にも固定観念としてでてきちゃった。映画の可能性は映画とはそういうもんだ、というところ以外のところにまだあるかもしれないと思うわけです。
編集部
三カ月でのべ三千人という数は、正直のところ多いとは思えないんですが、若い学生だけでなく勤め帰りのサラリーマンやOLにも熱心な人がいたようですね。共通してるのは、みんな映画をただ見るだけでなく、"シネ・コミ"というのか、映画をてがかりにして世の中に接近しょうという気持ちを持ってたことじゃないだろうか。とくに同世代の作った『生きる』や『続・塹壕』といった映画にはかなり反応があった。
新 し い 空 間 の 体 験
山田
アロンジ・アロンゾにきた観客は、数こそ大したことはないにしても、非常に面白いと思うんです。なんか漠然と、近くに住んでいたとか、友だちに誘われたのかしらないんですが、なんか映画というのはつまらないと思ってたやつが、七年目ぐらいに突然そこへ入って映画を再び見たというような人が何人かいたんですよ。そのことを本人たちも非常に率直に言ってたんじゃないですか、ディスカッションに残ってね、何年も見ないで、漠然と来たんだけれども、それなりになんかやっぱりつまんなかった、と言うやつもいたし、なにかありそうだと言ったやつも、いろいろいましたけれどね。ぼくなんかは、一年に一回しか映画を見ない人がいるだけでも驚くんだけれども、七年目に……という人がいるということに気がついてね、もうすごくびっくりしたんですね。ちょっと感動的でもあったんです。
だから、アロンジ・アロンゾにはこういう種類の映画ファンが来たとか、あるいは映画の扱っている社会性というか、問題意識を感じとって見に来た、とかいうふうに図式的には分析できないところがあると思いますね。
土本
そうですね。それからぼくが非常に感動したのはね、公園のベンチみたいな扱いなんですよ。来る人のアロンジ・アロンゾに対する扱いが。暗闇でしょ。それで、椅子という固定性がないじやない。土足でね、そのまま腰かけていくという感じで、なんかそれが妙な空間を作っている。なんかすいてるのが当り前でね。非常に公園的で、開かれている。ぼくはあれは面白かったな。
山田
ぼく自身もそれは見に行った客として感じたことなんです。ちょっとあのタタミ敷きの雰囲気には魅了された。つまり、どんな姿勢でも見れるということなんですね。
土本
土足ではいれるみたいなね。若い人の作ったフイルムを持ちこんでもらって開いた、アンデパンダンの時なんか本当に地下の街路みたいな観を呈していたよね。出たり入ったりで、次々に自分のフイルムをもってきて、それがふえちゃぅわけ。ちゃんと前日の申込みで締切ったのが、当日になってどんどんどんどんふえてくる。七時に終るだろうというのが、一一時までね。
東
当日になってから参加させてくれって電話があったりしてね。一〇本ぐらい予定よりふえちゃった。
軽快な独立映画愚連隊
編集部
たしかに学生なんかに多いですね。一〇万ぐらいのカネを用意してボンと自分だけで映画作っちゃう。映画青年というか独立映画愚連隊というか、そのへんの軽快さはうらやましいな。
土本
その場所を使うのは、まったく自分のもののように使うね。そういう場所が、考えてみれば、今までどこにもなかったんだな。
山田
そういう勝手気ままさがすごくいい。上映運動などというと、まず運動という概念がいままでは、なんか一つのボリシーというか、ある思想の統一みたいなのがあったわけですけれども、アロンジ・アロンゾの場合そういった従来の運動の概念とは全然ちがう感じがしたんです。そのへんの自由な雰囲気がぼくなんかとてもうれしかった。それはタタミ敷きの空間といい、また、みんなが勝手によってきて、勝手に作品を上映したということも含めてですね。
しかし、観客の中には、なんかそういうきちっとした秩序がないために、それが不満だった、という人がずいぶんいましたね。ディスカッションのときに、しばしばもっとはっきりしろ、という声がありましたね。なんか言葉で、はっきりとこれをねらっているんだと言え、というわけですね。つまり、その方向にまっしぐらに行っていないみたいなことを非常に不満とする人が、意外と多かったですね。むしろ逆にぼくは、そういう方向性が画一化されてないというか、それをやってる本人たちも探りながら行っているというところに、実はひかれたわけですけれども、案外若い学生らしき人たちには、はっきりしろ、という声が多かったですね。
東
彼らは、まだ、監督という映画の専門家に期待を持ってるんですね。たしかにひと昔前は、映画の専門家というのがあって、映画を作ったり、見せたりするということは、どえらいことで、通常の人間にはとてもできることじゃない、というのがだいたい常識だったと思うんです。
ところが、若い世代のあいだではそういうのが全体の情勢として、崩れてきている。
何が専門家なのかよくわからない。
専門家というのが一体何なのか、ということが、もう一同問われているような時期になっていると思うんですね。アロンジ・アロンゾでは、ある意味では、映画を見せるということも、わりと意外と簡単にできた。だからこんなことならぼくにも映画が作れるかもしれないという空気を作るにはいくらかの寄与はしてると思うんです。
「託宣」期待と沈黙すること
編集部
討論は、毎週土曜の夜行われたわけですが、十三回も、よくもちましたね。
土本
討論といっても、パネル・ディスカッション的に、いちおうのテーゼが示されて、それに対して反論があって、また意思統一へ進んでいく、という形式ではまったくないでしょ。三尺高くないわけ。会場が平場なんだな。それでだいたい監督が目の前でガタガタいっているという状態の仲間に加わってみると、無意識に監督なんて何ものぞ、みたいなものがあってね。
山田
あからさまにそれに対して失望の声をもらしていた人がずいぶんいましたね。あんたは監督なんだから、えらいんだから、もっと立派なことを言ってくれ、というんですね。「あなたはこの映画で何を言いたかったのか、はっきりしてくれ。状況に対するあなたの姿勢は何か」とせまるわけです。「それは映画を見れば、映画全体がそれに答えているはずだ」というだけでは、とても満足しない。「カネを払って見にきたんだから、なんとかえらい言葉を言ってほしい。じゃないと満足して帰れない。なんか言って下さい」というんですね。
自分たちと全然ちがう言葉で、知らない言葉で、なんかを、託宣を述べてほしいというふうな態度を、あからさまに示した人がずいぶんいましたね。毎回いたんじゃないですか。
東
ぼくなんか、観客としては、古典的なタイプで、たとえば映画見て、ものすごく面白かったりすると、そのことを抱いてさっさと帰るわけですよ。友だちとせいぜい会って、小声でしゃべるとかさ。逆に非常にくだらない映画見たら、くだらない映画作りゃあがって、とその監督とかスタッフを軽蔑してれば、それですむみたいな。
ところが、アロンジ・アロンゾにやってくる若い観客っていうのは、映画を見終ってもジーッと居すわっている。これは、なぜそうなるんだろう、と非常に興味がある。
それから、いちばん印象深かったのは、小川君の『三里塚』やったとき朝の四時までやった。小川なんてあんまり人前に出ない男だから、ひととおり話が終っちゃって、もう話としてはあんまり出そうもない。終りです、と言っても、帰らないでしょ。黙ったままいるわけです。気まずい雰囲気じゃない。
あの沈黙の時間というのは、監督になにかを聞きたいとか、それから、そこで論理的に激しい討論をするとかじゃなくて、一人一人手めえの世界なんでしょ。だれか、なんか言ってもいいし、言わなくてもいい。
山田
小川紳介にほれちゃった、ということもあるんじゃないかと思うんですね。映画もさることながら、映画と現実の状況との間で行動する彼自身の「生」の実感みたいなものを、ものすごくナイーブに語ってくれためで、本当は酒でも飲んで話合えばよかったという感じでしたね。
土本
それから、電車が終って帰れなくなっても、ここで朝までごろっとしてればいいみたいな気軽さがあった。そういった変な時間を求めている人が、求めているというか、共有する若い人が、わりといるんだというのはおどろきだったな。
シネ・クラブへの胎動
東
いよいよアロンジ・アロンゾを閉じるという一〇月最後の土曜日の討論会は面白かった。それまではやっぱり、作ったスタッフを中心にしてやっていくという形だったけれど、最後は、最終日だから超満員になったけれどもね、もう飲みだしちゃって、みんな。あっちこっちで全部勝手なな話してたでしょ。
編集部
というわけで三カ月で「アロンジ・アロンゾ」は閉店したんですが、閉店の理由は、おカネが続かない、というほかにもなにかあるんですか。
東
いや続けようと思えば、ちょっと商業的な映画をあいだにはさむという手はいくらでもあったわけですよ。そのほうが人が来るだろうし、持続できたと思う。つまり、五社のプログラム・ピクチャーと同じで、毎週ボンボン真新しいのをもってきて、そのあいだになんか自分のものを出すということもできたけど、それじゃたんなる五社のミニチュア版になってしまうんで、やっぱり三カ月で思いきってやめたんです。
編集部
それで「アロンジ・アロンゾ」はひとまずおひらきになるんですが、これがなくなるのはちょっともったいないですね。というのは五社の映画だけでなく、困難ななかで現実とぶつかっている記録映画を見たい、という観客は今たくさんいるはずです。また、つくり手のほうにしても、土本さんや東さんの弟にあたるような若い世代が、たとえば、『生きる』『続・塹壕』『モトシンカカランヌー』『勧進』 『三里塚幻野祭』といった〝シネ・コミ映画〃をどんどん作っている。ところが、こうした映画を見る場所、見せる場所が、ぜんぜんなくなっちゃうわけですね。
そこで、たとえば、山田さんがおっしゃったフランスにおけるシネ・クラブみたいなものを作る館主がふえるといいと思いますね。
土本
そういう映画館主もいないことはないんですが、数は少ないですね。ただ映画館主とまではいかなくても、地方で、たとえば『水俣』の上映をしてくれるような人はふえてますね。こんど三原市にいったんですが一人のおかみさんが大阪へたまたま来ているときに『水俣』を見て、これはやらなきゃいけないというんで、帰ったけど、またもういっぺん高槻へ来て、二回見て、それで地元へもどってね、手近な婦人会から人集めをしてくれました。それはお茶のお師匠さんで、以前に映画の上映なんかやりましたか、というと、全然やってない。お茶の仲間を動員して、町のそういう意味のボスだから、市長のところへ行って、三原市はじまって以来、一日で七〇〇人集めて、やった映画館がびっくりするようなことやって、それであとは、中学校の先生全部よびつけて、全部の中学でやらせる、みたいなね。それが一人の気違いですわ。それはまた興行主とはちがう人たちだけれども。そんなもんでけっこういく、ということがありますね。
そういう気違いが何人かちらばってたら、相当ちがうでしょうね。