「水俣ー患者さんとその世界ー」採録シナリオ 上映時間02:46:00 黒白 発表1971-01-26 <1971年(昭46)>
「水俣ー患者さんとその世界ー」採録シナリオ

〇プロローグ患者遺族の回想(釜時良)

1 字幕”水俣病多発地帯の最南端 鹿児島県・出水市”

2 未明の海・不知火海。
夫婦舟であじ網を手操る釜時良さんと妻シオリさん。音のない世界。 薄あかりの空と海に一隻の舟だけが影のよう。父の回想が語られるー

「・・・ 一番はじめ、水俣病だというて、もう頭からいいつけて、水俣に送りなさいと、入院させなさいと言うたのは・・・あん時の(保健) 所長は誰だったかな、人間のいい所長でしたよ、人あたりのいいね。その時が、水俣と出水保健所と立会いで、ここで(自宅で) 検査して、これはてっきり水俣病だと・・・うん一歩も外ずさんと、自分が保証しましょうと・・・水俣保健所もいうし、出水保健所もそう言うわけや。だから、しまいに”水俣病だァ“ というたら、怒り出したですよ(笑いながら) うちの親爺が。・・・」

3 父の写真、床間にえびす様や信心の品々がある。その仏壇に健康な時代の肖像。

スーパー”患者番号八二、故釜鶴松さん“

病床に横たわる別人のようにやせた鶴松さんのスナップ。

「・・・まあ、そういうような頑固やったんなア、しかし、こっちの、ソノオ、出水市内の世論がひどかですよ。現在その世論に負けて、ソノオ、ふたり、三人、四人ぐらいでしょうかね、認定を受けずに死んだ人は・・・狂い死にしたひとは。”出水市がつぶれるから、ソノオ、水俣病であろうとなかろうと、ソノオ、水俣に診察にやってくれるな“という世論がもち上ってきたとです・・・」

4 舟上、十数匹のあじ。
釜さんの話つづく。

「・・・前回(地名)で釜さんという人は、ソノオ、水俣病らしかと・・・世論で、これを出してもらったら、ソノオ、出水市内は潰されるんだと・・・魚屋も潰れる、その漁師も潰されるんだと、いうことー。それをその、出水市が買い切らんかという人間がおったわけですよ。ソノオ、釜さんのからだをね、出水市が買い切らんかとー」

5 舟一隻。水音のみ。

6 字幕(ローリング)

年表を追うにつれて、読経とすすり泣きの声が重なるー昭和四五年七月一〇目、熊本正竜寺における合同慰霊祭の録音ー。

 昭和七年 日本窒素肥料株式会社のアセトアルデヒド工場稼働
 昭和二一年 酢酸工場再開、水銀 百開港へ
 昭和二八年 ”奇病“患者第一号発生 さかな、貝、猫 狂死する
 昭和二九年 発症一二名(五名死亡)
 昭和三〇年 発症一四名(三名死亡)
 昭和三一年 発症五三名(一〇名死亡)
 昭和三二年 熊大、”奇病“の原因を排水にー 発症六名(二名死亡)
 昭和三三年 排水溝を水俣川に変更、さらに汚染水域広がる 発症六名(五名死亡)
 昭和三四年 2,010PPMの水銀、水俣湾より検出さる
 チッソ工場内で細川博士猫実験
 一〇月 廃液により猫発病
 この頃に至り、はじめて漁民、患者さんら起ち、補償を求める
 チッソ、猫実験のデータをかくしたまま”見舞金契約“を患者との間にかわす
 ー以後九年ー
 昭和四三年 厚生省「工場で生成されたメチル水銀が原因」と正式見解発表
 昭和四四年 チッソ直接交渉を避ける。厚生省介入して「補償処理委」に一任を求めるー互助会、分裂をへて、二九世帯裁判の場に「企業責任」を問う
 昭和四五年 患者第一号発生以来十八年
 水俣病 認定患者一二一名 うち死者 四六名(註・昭和四六年五月現在、新たな認定患者を加え、認定患者一三四名、うち死者四七名)

7 不知火海の大ロング。対岸に天草の山々。とろりとした和んだ海に、汐目がくっきりと見える。

音楽 木管と打楽器による作者不詳の中世教会音楽のうち「舞曲」シーン9まで。

船一隻ゆく。

8 タイトル”水俣患者さんとその世界”

9 地図1 熊本県を中心にした九州全図、水俣にズーム・イン。
地図2 水俣市を中心に、水俣病多発地帯の部落名がほぼ発生順に記されるー月ノ浦、出月、湯堂、茂道、津奈市、出水市。

〇昭和三四年、いわゆる不知火漁民暴動の回想ー当時の指揮者の証言

10 船より見た芦北郡(水俣市北方)のリアス地帯の漁村。語る人現芦北漁業協同組合長竹崎氏。

「・・・ええ、このへん、佐敷川にしても湯浦川にしても、三三年の夏ごろにはボラとかチヌですね、ああいう大きな魚ですね、ええ、なんか酒に酔ったようにフラフラ、フラフラァやって・・・」

11 水俣川川口附近、遠景にチッソ工場、その排水口附近。石灰で白濁、流出水量かなり激しい。現在の状況に重なって。

「・・・ずっと町のですね、ここからどの位ありますか、一里ぐらいあると思うんですが・・・そういうところまで汐が満ちた時はですね、フラフラやってきたとー。で、その当時はですね、ソノォ、いわゆる病気、水俣病に罹った魚という、そのことを知らない人たちが、それを喜んで、まあ、喰べたということもあったわけです・・・」

12 竹崎氏、船上から指さし回想をつづける。

「・・・それから海の方にはですね、その沖合(水俣湾) から天草の御所ノ浦、嵐口ですね、そういう所にかけて、それは一日何千キロという太刀(魚)が浮いたわけですね。で、私たちはこれはもう・・・ひとつは十一月二日でしたか、水俣に国会議員が来たのはですねー」(註・奇病調査議員団、初の現地視察・昭和三四年)

13 竹崎氏にスーパー。”昭和三四年当時漁民代表、竹崎正己さん“

「・・・その時、国会議員に対しての、われわれの、ソノォ、窮状を訴えるとともに、つよく、まあ、陳情もしたいとー漁民全部の団体の力でですねー同時に会社に対しても、早急にわれわれの要求を聞いてもらいたいということで、ええ、第二回目の集会(漁民大会) を開いたわけです・・・」

14 旧廃水口、百間附近、湧き出るような排水、真黒な硫酸滓、へドロ、岩についたウツボが死滅している。

「・・・あの時、まあ、集ったのは恐らく三千五百か四千ぐらいおったんじゃないですかねえー殆んど来たんですから。ええ、もう漁師の、こう嫁さんとかですねえ、婆さん爺さんまでが参加したんですよ、ええ。してみんなが、水俣病の悲惨さを見てですね、これじゃあいけない! ということでですね、まあ、それじゃ・・・まあ、痛みを感じたわけですねえ。(土本の質問”病人を眼の前に見られて?”)ええ、見たんですよ! 午前中に見せたんですよ!」

15 チッソ工場を車中移動でみる。蒸溜塔がそびえ立つ。駅よりパンし、前進するカメラ、”チッソ株式会社 水俣支社“ の看板にズーム・イン。

「・・・それから昼からですね、うう、まあ、デモンストレーションに入って、駅前で解散する予定だったんですが、なにせですね、もうわれわれの言うことも聞かんでですね、会社に、門を叩き破って乱入してですね、御存知のような大事件に発展してしまったわけですね。(回顧調から現実のことのように熱気をおびた口調で) もうーデモあたりも、おったらかして(放たらかして)若い連中がドウーッとなだれを・ ・・のようにですね、押しきってしまったんですよ! あとは、これはですね、収拾つかないような状態でした。警官と渡り合うしですね、負傷者あたりもですね、漁民だけでも六百数十名でしたよ、ええ。もちろん、門でも橋でも叩き壊してしまう、事務所なんかも全壊ー。守衛所なんかでも全壊ですね、事務所なんかでもォですね、それはもう見られないような打ち壊し方ですね・・・」

16 電気化学工場特有の大変電所施設にズーム・イン。地上を走るパイプ「濃硫酸」の字。工場わきの排水溝に長い竿の先にすくい網をつけた道具で仕事をしている掃除婦、ギタギタした油泥状のものをすくっている。今日の工場風景に重なって。

「(竹崎さんの述懐)・・・とにかく、もう、この会社があったら、われわれの生活は出来ないということで、会社をじえんぶ叩きつぶす気持じゃなかったんですかね、あの時は!ー。ところが、そのオいろいろ・・・高圧の電気とかガスとかァありますからねェ。ああいうものに触ったら、こらア、水俣市が吹っ飛ぶぞと、いうようなことで・・・まあ、そういう危いところまでは幸い手をかけませんでしたが、そういうことがなかったら、おそらく、あの大きな会社も叩き潰しておりますね!もう、そりゃ、実際、叩き潰したかったんですよ!(間、やや皮肉な調子に変って)・・・この時はですね、水俣の労組の人たちもですね、私たちに対しての”抗議集会“を開いたんです。ええ、『漁民の暴走を許すな!』とかァですねえ。その時は、私たちの、これは敵だったんですよ!」

17 工場を町とへだてる有刺鉄線の列。裏山、その芋畑のはるかにつながる丘のむこうに火山のように塵煙をふきあげる工場。

「・・・力でぶち当らなければ、これは解決しないんだと!とにかくやるだけやらにや、これはもう致し方ないと!いう考えを持っておったんですが・・・まあ幸か不幸か、そういう事態にまで発展して始めて、会社がですね、まあ、そこまで真剣に考えておられるならば、話し合いには応じましょうと、途端に、百八十度、態度が変ってきたんです」

〇見舞金契約

18 字幕

昭和三四年二一月三〇日
水俣病忠者さんに対する”見舞金契約“
死者三十万円 葬祭料二万円
生存患者年金 成人一〇万円 子供三万円
契約書の第五条
”・・・乙(患者)は将来、水俣病が、甲(会社)の工場廃水に起因することが決定した場合においても・・・新たな補償金の要求は一切行なわないものとするー“

〇淵上才蔵さんのメモ

19 彼の家、所帯道具らしいものは一切ない。なべ釜の外、ランドセルと通学帽、そして押入れにフトン数枚。仏壇はなく手づくりの位牌「童女」と辛うじてよめる。

スーパー”患者番号三九 故淵上洋子(死亡時三歳)”

ノートにぎっしりかかれた昭和四十三年当時のメモを、もつれた口調で読んで聞かせる淵上才蔵さん。

「・・ ・善良なる市民を、四十二名も殺害し、六十九名を廃人同様のかたわにしながら、これが人間としてとる態度でしょうか? われわれ互助会はチッソに深いいきどおりを覚える。また、十五年余も、患者や家庭、家族を放置していた政府の責任も強く責めなければならないと思います。・・政府は公害・水俣病と認定したが、しかし、水俣病が、これによって解決するのではない。むしろ、いまこそ、水俣病による死亡者四十二名と六十九名の生存患者(註・昭和四十三年当時) に対する損害賠償をはじめ、患者の救護、治療、および同種公害の防止とうの対策を講じ、強化しなければいけないと思う・・・ 」

20 才蔵さん、繰言のような口調で語りつづける。

「・・・わたくしも、次女洋子を水俣病で死亡、(子供の声入る) なくしたが、発病して、死亡するまでの二年二ヵ月は、その間、苦しみつづけて死んでえ去ったが、親子とも当時の苦しみや悲しみを一生忘れることは出来ぬ(途切れる)」

21 猫、うずくまったまま全身けいれんに耐えている。(八ミリ記録フィルムより複写) 沈黙。

〇死者の肖像

22 死者たちの肖像に重なって、遺族平木トメさんのつぶやきの声。

「みなまた病のチ言うてちゃ、恐ろしかア ・・ ・ 」

△幼女にスーパー ”患者番号五二 故坂本真由美さん(死亡時三歳)”
△婦人にスーパー ”患番号二 故三宅トキエさん(主婦)
△背広服正装の人にスーパー ”患者番号七〇 故中村末義さん(農業)”
△戦闘帽をかぶった若き日にスーパー ”患者番号二五 故長島辰次郎さん(チツソ社員)”
△正装にスーパー”患者番号一三 故荒木辰雄さん(時計商)”

ー老女平木トメさんの声ー

「・・・ こいからもう、起らんごとせんばなァ。ほんと、恐ろしかばい。よんけい死んどんになァ、みなまたびょう、水俣病ち、ひとくちに言うばってん、なってみん者んなア知らんですばい・・・おとろしか・・・そうならんもんな、ひと他人こつじゃけん、どぎゃんもなかですたいなア・・・、病気ィのそのオ、水俣病気ィの人間ば抱えてみらんもんな、何も知らんとですたいなア・ ・・」

23 水俣湾の魚介類投与により発病した猫どもの記録、いわゆる”猫踊り病“ の症状で狂っている(註・昭和三十五~六年)

スーパー”熊本大学医学部徳臣教授撮影“

〇平木トメさんの回想

24 ただ仏壇だけがめだつガランとした室内、まつられた写真。

スーパー”患者番号八四 故平木栄きん(漁業)”

「・・・ ・もう本人な、あんた、気遣いのごとなっとるで、分らんとですたいな。そいで、わたしは(註・病室で) 寝るところもなかで、夜も昼も、壁になんかかって(よりかかって)じいっと・・・お父さん(註・亡夫)が、うんうんもがいてさるくっとを見ておったですたい・・・」

25 訪問者(土本)に身ぶりを加えて語る平木トメさん。とぎれとぎれに回想しては気落ちしてゆく。

「・ ・・もう包帯なんかば、もう昼はつけかえして・ ・・それしてやるばってん、夜も昼もそげんしてさるくもんで(両手をパタつかせてもがく様をしてみせ)包帯してくれるはざア(間は) なかとですよ。どこもうち破ってしもてですなあ、怪我してしもうて!」

(土本 声なんかはあげられたわけですか?)

「・・ ・もう晩にな、うわんうわん、ウワンウワン・ ・・ロァ かなわんたっで、そん声ン出るばっかりですたいなあ。おらんで(叫んで)、もう、わたしゃ、近所ん人に気の毒かもんじゃっで、あさ、ずうっと断わってさるきおったですよ。昨夜は済みませんでした、眠らずにィちゅうてですなア・・・ふとか(大きな)男じゃで押えこなさんでなあ、そいでもう、お父さんが、もう、病院でひとりでもがくしこ(もがくだけ)もがいてさりくばってん、あたしゃ、ジイッとやっぱ見とりよったですよ・・ ・どきゃん、しなすっですか女子のひとりで、あんた・・・あげん男の太かとの狂ってさりっとになあ・・・」

26 夫・栄さんのベッドの上の写真、骨と皮ばかりにやせているのを示す。

「・・ ・もう、うちの父さんのごて(ように)哀れはなかった! もう体一ぱいきやくさってしもてですなあ、病院で・・・(土本 きやくさってというのは?)・・・ クサレてですたい!腐れて、もう背中でんなんでん、熱で、そして皮が全部なあ、二ヵ月ぐらいかかって剥げたでしょうが!皮が! 人間のこの皮が・ ・・ (間、太い溜息)」

27 苦労のしわを刻んだ平木トメさんの背後に健やかな日の温顔のままの栄さんの遺影。

「・・・ああア、この水俣病ちゅうとは、ほんとう、恐ろしか・ ・・ (気をとりなおしたように) あたしゃ、もう今思うてでも、自分が、どうか、もう気のとうなるような気のすっとです、考ゆれば・・・・」

〇娘を失った坂本トキノさんの回想

28 坂本キヨ子さんの肖像、病気中の写真をモデルに美しい似顔絵で黒枠一ぱいに描かれている。

スーパーで”患者番号二一 故坂本キヨ子さん“

母親の声

「・・・ (キヨ子は) としより、子供をねえ、かばってやる子供でねえ・・・」

29 広いぶちぬきの部屋、孫と近所の子供が遊んでいる中で、語るトキノさん。肖像をふりむきながら、亡き娘を語る。

「・・・何をとんでさるくんか? (忙しくしているのか?)”婆ちゃんのなあ、水ばぬく(暑) かもん、来なる時分じゃ”いうて、かばってやって・・ ・子供と年寄に、ようね、かばってやる子でした・・ ・(娘の肖像をみやって)あたしたちの居る間はええけども、あたしがまあ、あたしたちがおらなくなれば、どうせ不憫に遭うのは、この子だけは不憫に遭うでしょうが? で、あたしたちよりか、まあ早く逝ってくれたが親孝行だったなあと思うて・・ ・・思いますよ今でもね」

30 丸い灰皿を脳に見たてて、その黒焦げぶりを説明する。

「・・・だけども解剖しなしたときはねえ、半分以上脳がやられとりましたねえ、まあ脳のあれがこの位あるとねえ(灰皿の丸さを指でかこみながら)これだけあると、(指で小穴を作って、脳細胞をかたちづくってみせ) この丸さがねえ、ちょっとあの蛸についているイボがあるでしょうが・ ・・蛸についているイボに穴があいてるでしょうがねえ、あれといっちょん( 一寸も)変らないですよ。あれがずっとこう丸くなってね、連がって丸くなって(とイボイボをつなげて脳全体の大きさを示し) まあ、ほんと、これだけあると、まあ良えところが四分の一でしょうかね。そいで良えところだけは真白くしてね、それにセロファンみたいな薄い膜かぶって・ ・・そいで悪いところは膜が破けて、このて蛸のイボのところがね、まっ黒に灼けてしまってね・・」

31 昨日の記憶のように眼をまるくして語るトキノさん。

「・・・そいで、先生のいいなした、”これだけ脳やられとる。やられておんのに、ようも今まで、そのオ、我慢してーまあ我慢してちゅうわけでもなかろうけども、よう生きのびたですね“ ちゅうて、大学の先生の言いなしたですよ。 ”もうこれだけになっていればね、おばさん、まあ十人に九人までは、ウン、助かる見込みはない“ って! 」

32 キヨ子の肖像

「・・・脳ば、これだけ黒くなって、灼けて焼けておる所が悪かったんですよって、言うてきかせなかったがですなア、まあ、あんなになっとれば・・・人間の、ただ、あんた、これだけの頭の丸さがあって、四分の一ぐらいのもんでしたもんねえ・・・」

33 月の浦の墓地、信心のこもった大きな墓が汐風の中に立っている。背後に、海が光っている。

〇坂本マスヲさんの”陳情”の報告

34 漁具の無雑作におかれている家に近づく。こたつの上に「告発」(水俣病を告発する会の機関紙) をおき、その写真を指さしながら語るマスヲさん。

(土本の声、「この家の患者さんは、水俣病の躰をおして、初めて東京へ行った方なんです。厚生省に陳情に行ったところが、橋本厚生次官から、ひじょうにやりこめられ、その場にわっと泣き伏してしまったという・・・そのときのことを語ってもらっているわけです」)

35 画面一杯に厚生省における陳情時の写真。官僚の居ならぶ前で、坂本マスヲさんが眼をおおっている。指で写真の上を追いながら・ ・・夫の留次さん、放心したようにそばに坐っている。

「(水俣病患者特有の言語障害でききとりにくい)・・・ そいで、日吉先生(註・水俣病市民会議代表) にでん、何でん”黙っとれ!”後の人がなあ、何でん言いくされば、黙れ! 黙っとれ、黙っとれじゃもん! 自分たちゃ、自分たちの・・・が言う一言葉だけを、厚生省には聞いてもらいたい願いで行ったんじゃから、厚生省の人に喋ってもらおうと思って行ったんじゃなか(ない)、自分たちで喋って、厚生省の人に聞いて貰うために行ったんじゃから・・・悲しかったですよ・・・」

36 語る彼女にスーパー。

”患者番号五三 坂本マスヲさん”

「あれェッ、厚生省ッて、こんなもんじゃろか?国だからひとりで決めることはできんちゅうことは、私も知っとったから。自分の責任はないはずだからな、聞いた人だっても、ひとりの責任は・・・。ただ黙って聞いてねえ、まんだ国会にでもかけて、話し合いでもせんばならんじゃろかと思っとったところが・・・情けのうなってきたでしょが。(絶句して)どげん仕組みになっとるもんじゃろかと思うたら・ ・・初めて行ったことじゃし・・ ・情けのうして腹ン立つてなあ。それと直接に当ったちゅうことは初めてだったでしょうがてそのショックはものすごおーもう・・・何かこう、テレビとかなんとか、調子のいいとこは調子のよかでしょうが? だけど、どうもこうもひどかショックにあったもん・・・ウワー・・・もっとも、あれじゃろか、十五名の委員のひとを選んで・ ・・自分たちは、こげんして何回も、三十万も四十万も金つかって、そいじゃ行ってきなっせ、といってやったが、何時も、この調子じゃったんじゃろかち思うたら、情のうしてな! 黙っとれで終りでー!(昂ぶりから嘆きに)・・・もういやじゃ、いやじゃ、飽くまでも、もう、事実、裁判で多額な金を取ろうじゃなか、裁判でごつッ、ウウ(絶句する) 国の真直かところ知ってもらいたかっとじゃもんな。お金ばうんと裁判で取っとじゃなかな、国の本当に真直かところを本当に、どこまつででも探って、どげん歪うどるか、どげん、どこさ真直か、どげんしとるか、本当に裁判で、それば知りたいなあーと、そん時に思うたな。(激情に身をうちまかせつつ)最後まで、ひとりになってもー一番から最後まで、ひとりででも、頑張ろうと、見切ったわたしだから、ひとりになっても、最後まで、これば為らんば、人間として嘘じゃなぁと思うたったい! 最後の最後まで、もう(再度絶句する)・・・骨だけんなってでも、息のあるだけ、ひとりででもたたかうつもりじゃな」

〇患者と全国の支援の人びとの交流集会

37 熊本、ある大会場。患者と人びととの余興の華やいだ唄が流れている。(磯節)
「東京ー水俣巡礼団」と襟に記した白衣の男(砂田明さんら)患者の前に手をついている。

スーパー”昭和四五年七月十日・熊本“ この日の会合の趣旨をのベる熊本・水俣病を告発する会代表の声。

「( スピーカー・本田啓吉さん)・・・熊本におられる方は、息者さんと直接に接しられる機会もなくて、水俣に行って焼酎を飲むことは出来ないという方が多いそうですから、水俣の方から来て頂いて、・・・
(磯節の螺子が入り、やがて唄、
磯で名所は、大洗いさまよ、松がみえます、ほのぼのと・・・・・・)
・・・一緒に焼酎をのんで、そして患者さんたちの肌に触れていただこうーというようなことを『告発する会』では考えておりました・・・」

38 舞台では患者家族坂本武義さんらが踊っている。うれしげに見ているいがくり頭の老人。スーパー”患者代表、渡辺栄蔵さん”

39 手拍子をとっている初老の人。スーパー”水俣病を告発する会、本田啓吉さん“

40 会場の雰囲気音のまま、東京、都心地帯のガードをくぐるデモの一群、告発の黒旗をかかげている。

スーパー”六月二八日「東京・水俣病を告発する会」発足“

41 再び、会場、巡礼団一行が並び、団長、砂田さんが報告する。団員の殆んどは学生である。

「・・・東京から熊本に参りますまでの各地でお預りして参りました浄財を、いま皆さんの前で、患者さんの方々に受け取って頂きたいと思うんですけれども・ ・・」

ひとりひとりの巡礼の手に、札束、各種硬貨の袋がふくらみ、重げである。すでに鳴咽の止まないものもいる。

「・・ ・はじめ、こまかいお金も多いと思いましたので、各地で休憩の時にですね、銀行へ寄りまして紙幣に換えてゆくつもりだったんです。ところが、いざいろんな方々から、お金を頂戴してみますと・・」

42 声のまま、画面、デモ隊に頭上高くかかげられた、胎児性水俣病の子の写真パネル、街頭での支援署名とカンパのシーン。

「・ ・・やはり子供さんが一円玉を下さったり、アノ、掃除のおばさんたちが、十円玉を下さったりしますと、そのお金、そのものをこちらに持ってきたいという気持が、皆、強くなりましてですね(拍手) ・・・ですから、そういう両替を致しませんでしたので、紙幣はここに、私、一番年齢とっていますもんですから、軽い紙幣をもたせてもらいましたけれども・・ ・(音声がオーバー・ラップして)
・・・これは詩というよりも、私が、もう水俣病のことを知るようになってから、とてもたまらない気持になって、自然に自分のお国言葉で出てきたものなので、私は詩とも思っておりませんが、ずいぶん、方々でやらせていただきました・・・」

43 町の人に物乞いのように頭をたれて、金をもらう巡礼から詩の朗読がはじまる。壇上に、患者家族一同が並ぶ、その前で自作の詩をうたう砂田明さん。その一句一句が聞く患者さんの心に泌みこんでいく。カメラはひたすら患者さんの内なる激情を追っている。

「(京都弁で)立ちなはれ/もし人が今でも/ 万物の霊長やと言うのやったら/こんなむごたらしい毒だらけの世の中/ひっくり返さなあきまへんー」

44 涙でぐじゃぐじゃの砂田氏、微かに絶句をこらえながら、

「・・・・何が文明や/蝶や/ トンボやほーたるや/しじみや田螺や雁やつばめや/どぜうやめだかやゲンゴローやイモリや/数も知れんほどの仰山のいきもの殺しておいて/水俣病の患者はん/知つてはりまっか/中でも胎児性の患者はん(涙で声がふさがる) わしはこう言うただけでも、もう腹わたが煮えかえるようになります」

45 その母親たち、たたずんだまますすり泣きをはじめる。代表、渡辺栄蔵さん、遠くを見るもののようである。

「・・・・・首はすわらん/目は見えん/耳は聞えん/口きけん/味は分らん/手で持てん足で歩けん/そんな(息づまる) そんな赤子を生ませておいて/大腸菌かて住めん海にしやがって/何が高度成長や/何が百年一度の万博や/貧乏が何どす/えっ/思い出しなはれ/知らん人には教えてあげなはれ/ お芋の葉たべたかて生きてきたやおへんか (絶句) もしあんたが人やったら/立ちなはれ/戦いなはれ/公害戦争や/水俣戦争やで/戦争の嫌いなわしらのやる戦争や/人間最後の戦争や/ (重く厚い拍手)」

46 同じ会場、ひきつづいてカンパ集計を報告する団員・岩瀬君。

「九月三日、東京・川崎・横浜・熱海、八万三千六百三十二円。それから四日、富士・名古屋・四日市、十五万一千百八十八円。五日、京都・万博、万博では規制を犯してもやりぬきました、八万八千八十円。六日、大阪・神戸、十四万三千六百円。七日、広島・岩国・柳井・下松五万九千七百四十五円。八日、徳山・小倉・戸畑、六万八千九百九十円。それから九日・・・ (拍手にかきけされる)」

47 ビニールの袋から出される金、各種硬貨。そこに見えない人を見るように金の山をみつめる患者さん。居たたまれず席を抜ける釜シオリさん。うずくまって頭を自分で叩く老人尾上時義さん。
団員こもごもの声。

「・・・皆さんから頂いてまいりました。」「五円玉と一円玉です。一円玉は、こんなチッチャイ子が走ってきて入れてくれたものも入っています」(拍手)
「・・・あとから追いかけてきて、今のはお金が少かったと。今、買ってきたばかりの下着だけど、これ患者さんにあげてくれと言われてもってきました。それがこれです。(拍手) まことに立派なものです。使って頂きたいと思います」

48 演芸壇上、レコードの民謡に合わせ尾上時義老人踊り、こける。本田さんと犬の交尾に似た仕草にふけったりする。交々の人の声。

「・・・はあこれ焼酎・・・三十五度ですか・・」(ざわめきの声高まる)

〇水俣市と水俣工場

49 山から俯瞰する水俣市。鹿児島本線を蒸気機関車が走る。その市の中心に、煙にかすんで広大な敷地を海岸までに拡げているチッソ水俣工場。サイレンが全市にひびく。コメントに代って、組合集会で収録した新日本容一素労働組合幹部の声。

「・・・水俣工場というのはベラボウにもうかっとる、今までは。その十四年間に大体四百億、水俣から利益をもち出して、それをやっとる」

50 硫酸工場は半ば朽ちている。工場解体作業場にうずたかい撤去物。それらは、荒廃の中で逃亡を実行しはじめたチッソの情況を物語る。工員長屋は空屋のまま夏草が生いしげり、玄関につたがからみ、その軒にへちまがぶら下っている。無人の街をゆくカメラ。

スーパー”新日本窒素労働組合の執行部見解“

「(声つづく)ことに水俣で見逃してならんのは、その五十二億ばかりの投資のなかの約三十六億円というのは、昭和三十五年までに集中しています。ことに四十年からは、三億四千八百万しか投資をしていません、水俣工場には。とにかく、工場が古ぼけていくやつを、何とか破れ障子を貼るようにしながら、徹底的に絞りあげている。その儲けで、よその県に工場を作った。よその県に工場をつくるのもいいでしょう。しかし、それらの工場が、どうにか利益をあげるようになると、今度は、水俣は破れ草履のように捨てようとするー」

「(スピーカーで) チッソ会社は、この水俣病の犯罪現場から逃亡を企てて、水俣工場をかつての炭坑のように潰して、水俣から逃げ出そうとしているー」

51 夕凪の不知火海、鳥も小舟も家路に急ぐ。内海のおだやかさが静かにある。

〇一株運動初めて提起される

52 患者遺族、浜元フミヨ宅。
夜、仏壇の間と次の間をぶちぬいて、三十人位の患者、市民会議の人々が集っている。後藤孝典さん(東京・弁護士)が一株運動について説明している。(九月二十一日)

「・・・ これは提案なんですがね、株主総会へ押しかけようということなんです。・・・わたしとしては、この問題に一番関わろうという気したのは、石牟礼さんの詩なんです、「アサヒグラフ」に出たー”お前も水銀を飲め” ということですね。”俺も水銀飲むし、おまえも水銀飲め“ という台調を、ぼくは、その、直接にね、目の前にいる会社の幹部、社長にむかっていう場をぼくは作りたいということです。それでですね。株主総会ですけど・・・」

渡辺老人、ややけげんな顔で聞いている。

「・・・ このチッソという会社は年に二回あるんです。二回はやらなきゃなんないんですよ。株主には、何月何日、どこどこでやりますという通知を出さなくてはならないー必ずきます。で、今度は十一月のおそらく末ですね・・・」(土本 一株いくらですか?)「いま一株三十七円です・・・会社では定款というものがあって、そこでいろんな会社の内部規則を決めているわけですけど、その中に、一株券、十株券、五十株券、百株券、五百株券、一千株券というものを発行すると書いてあるー、一株券というものもあるわけですね(成程といった笑い声)」

53 反応があらわれる。市民会議のメンバーが渡辺老人に説明する。

「株主たいな」「そや」「もうお前駄目だから、やめろというふうに言いに」(笑声)後藤「そう、それを言いに行こうというわけです」

54 市民会議の石牟礼弘氏。

「水俣のですね、市民会議で、その話はしょっぱなの頃出したわけですー株を買うて会社を困らせる方法を考えようゃないかとー何回も出したけれども、まあ、その、それから先の問題を誰も知らんもんだから、ですね?」

後藤「やっぱり重いのはね、四十何名が死んでるじゃないかと!」

(患者さんたちの顔がひきしまる)

「・・・会社はこれに対して、もう十何年間も責任がありましたと、ひとことも言ってない。そんな馬鹿な話はないわけです。それを言わせようじゃないですか」

渡辺老人「・・・そういうことが可能になれば、わたくしはまあ、いいことだと思いますなあ」

55 満場、華やいだ雰囲気に変る。扇子で熱さをしのぎながら喋り合う婦人ー

スーパー”水俣病市民会議(代表)日吉フミ子さん“

「(彼女、笑い乍ら)一円上った、あッ一円上ったって・・・私ァいままで株なんか買うたことなかばってんね、あれ二円上ったっチ・・・楽しいわ。ところが反対に下ったっちゃ、あんた、四千円ぐらいうしつつとは何のこたなかっじゃもんね。こらあやっぱ、裁判闘争は楽しみもなからにゃいかんでな。そりゃいっちょ、やろうじゃなかろか(笑いころげる)」

田中老人(患児の父)「うんともってりや、うんとよかこと言うごて・・・(爆笑)」

日吉「わたしも百(株)買うな・・・」

56 茶をすすり、皆のあれこれの言葉をじっと開く代表渡辺栄蔵さん。

「渡辺栄蔵さんの、この取締役になられる訳たい(笑)」

後藤「とにかく行きましょう、十一月末に、大阪か東京へ」

「こうなりや観光旅行たい、な」

〇胎性水俣病の子供たち

57 一冊の本、水俣病研究会篇「企業の責任」の中の数年前の写真、珍らしく、胎児性の子供が一堂に会している。

それに母親たちの驚きの声。

母1 「胎児性の子供は全部並んどるたい。ここに・・・」

母2 「ああ、ほんとのこと」

母1 「・・・昔のとったとや、もう三十八年に撮ったと」

母2 「三十八年になあ」

母1 「こらあ半永さん、末子ちゃんなあ、しのぶ・ ・・」

母2 「田中さんの子やがねこれ、死んだ子やがね、これ!」

母1 「敏昌やがね」

母2 「敏昌やがね」

母1「あ、そうや」

母2 「一二枝ちゃんやがね、ふとかね」

58 淵上一二枝、ベッドの中で声もなく横たわっている。視力殆んどない。

スーパー ”患者番号一〇二 胎児性 淵上一二枝さん(昭和三十二年生)

59 ほぼ少年期を脱しようとする体躯の東君、行動の定まらぬまま立っている。

スーパー ”患者番号一〇七 胎児性 東正明君(昭和三十年生)“

涎を流す。眼が鈍く光っている。

60 家の前、ジープに兄と一緒にのって、喜んでいる正明君、ウー とかアーとかいう声を発してその気持をあらわす。

兄「車なんかが危くてですねえ」

土本「三号線が近いですからね」

兄「そうですね、車が好きで、見れば飛び出してゆくもんですから・・・ 。直接的な原因はですね、食べ物がこれ(正明君) にきたわけじゃないですからねえ、胎児
性の場合は。お袋が食べたものですと、わたしたちなんかも、おなじものを食べていたわけですよね。」

61 海への道をゆくジープ、助手席にしがみついている東君。海岸について、重い体をかかえるように岸壁に足をはこぶ兄。 かばい合っている兄の風情が痛く残る。

兄「・・・なんか、自分はもう、小学校時代の事なんか忘れんですね。友達なんかと一緒に遊んでまわった記憶なんかあまりないですよ」

土本「あなたが?」

兄「はい。遊んでまわっても、守りをしながらですねえ」

土本「足はいつ頃から?」

兄「そうですね、大体立つようになったのがーいつ頃だったですか、八歳か九歳頃のことじゃですかねえ、確か。よちよちやりだしたのが・・・・身体は、他の病気は殆んどしないですね。(やや、虚無的な言い方になって) 本人は、かえって幸せかもしれんですよね。まあ、極端な言い方をすれば、・・・我々がですね、見とって可哀そうだちゅう思うからかわいそうなもんであってですね・・ ・(間、土本答えられない) かわいそうと思わんで見ればかわいそうじゃないわけになるわけでしょう・・・極端な言い方をすればですよ。(気持ち直して)人間がたくさんおれば喜ぶんですよね」

62 (この日、映画班の訪ねたことを東君よろこぶ。とくに同行した、東京の告発会員の女性に強くつきまとった。それは異様なまでに性的であった)

63 老いた祖母が家の中に入れようとする。涎をふく。それを逃れようとする東君。兄、抱えて、畳の上にずり上げる。東君あきらめ、スタッフを手招きする。

兄の話しつづく。

「家でもですね、いま家族八人ですが、私なんか、今、ほとんど口出しをしとらんかったですもんね。そりゃ一つの家族の中でもです一任派・訴訟派と分ければ、また家族の中でも分れるのは当然でしょうね。おそらく・・ ・(註・東君は一任派に属し、昭和四十五年五月、厚生省のあっせんに一任し、二百万円前後で処理された。)」

土本「・・・患者さんは納得しておられるんですか」

「おそらく、しとらんでしょうね。一任派にしても、訴訟派にしてもですね。しかし(註・患者互助会が四十四年に)内部から割れたのだけは、ひとつの失敗かもしれんですね。一応、あたしなんか・・・ (苦渋の声)あたしの家族は、あたしが出した結論ではないですが、一任派になっていますけどねー。まあひとつの失敗であり退きですよね。・・・ 一任派にしても表面にはでなくてもですよ、どこからか訴訟派を支援するのが、まあ、気持の面でとか、ですね、支援するのが、そりゃ、当然のあれじゃないかと思うんですがね」

64 老婆、帯で東君の腰をしぼり、両手で動かぬよう、それを握りしめている。もうもてあます程の体力となった東君。

土本「いま育ち盛りで・・・」

老婆「(耳が遠いようで) ごはんの食べん時アなア、何時でん寝ておるでな、寝てばしっか。ごはんの食べん時は。ほいで、ごはんもあんまり食べんもんじゃで、とこに寝ててちゃ、放っときゃい、放っときゃいて言うとってなあ」

土本「夜は何時頃、お休みになりますか?」

老婆「夜さいなあ? 晩にやよう寝ますと、昼も夜も・ ・・・」

土本「おしっこなんかのときは?」

老婆「そう・・・しいしいって、うんことしいしいと分ればよかとですばってんなあ、しいしい、何でもしいしいじゃもんでな。そいでやっぱ、かがませてさせにやらな、つまらんとです」

65 老婆との話の間、東君カメラをいじりたがる。

兄「何かいじっていればよろこぶんですよねえ」

カメラに手をのばし、別のレンズをまわす。更に撮影中のレンズの絞りをいじる。そのため暗転する。

66 ペーロン、津奈木の漁村にて。

沖縄、糸満、長崎とほぼ同じカヌー競技、七月の海の祭り、男はすべて上舟する。

〇蛸とりの老人の亡妻語り

67 採りたての蛸を大鍋でゆで、それに包丁を入れる老人。酢だこをつくるのに懸命である。

スーパー”尾上時義さん“ 老人の語り。

「普通、蛸はこう、どっちかというとわりと白かでしょうが・・・そいでこう、何んちゅうか、お刺身みたような気持があっとです。わたし、全然なまは食わんとです。・・・蛸も、わたいが食ぶっとはですな、これを唐鍋に入れて、また炒るわけです。そうすっと、これっすうっと水分がぜんぶ出てしまう・ ・・ それでこんだは砂糖醤油で、からっと揚げるわけです。そいならたぶっとです。けど白うしとるでしょう。刺身の色じゃけん食い切らんとですたい。(間) どうぞ食って下さい。・・・大がい大きかとで二百匁から三百匁ぐらいですもんな。そいで、蛸はこんくらいのが一番美味しかですたい。柔らしゅうして。大きかとは、こう何かフワフワしとるですもんなあ。何せ、まあよかろがな、のまんな! (マイクをもつものに焼酎をすすめる)」

68 尾上家の仏壇にかざられた亡妻の写真。

スーパー ”患者番号六七 故尾上ナツエさん“

はげ頭でどこか蛸に似ている尾上さん、上半身ぬいで、身ぶりまで入って、妻の末期の模様を語る。

「・・・とてもじゃなかった、その時のあの苦しい立場は、もう気遣いみたごたるもん。ウワンウワンウワンウワン、ね、こう(手を激しくふり上げふり下して) ばったばったばったやる。まあ、いやあー、もうそりゃ一言えんなあー。嗚呼あ、とにかくこう寝台にねとって(真似て) なあ、まあー 、ウワッーツって、こうやって、(土本、足も手も一緒にうごいて) うん、ばたつとやる。手もばたつとやる。ううん、もうその七転八苦の苦しみ、それはもう、そっともののたとえようがないちゅうわけたい・ ・ ・。」

(土本、それが何時間も?)

「ええん(絶句して思い返す) もう一週間あまりつづいて、夜ひる、よるひるわんわん泣くし、泣きゃするが涙は出やへん。あーあー、あーあー、あーあー、あーあー言うた。そいでばったばった、ばったばったやる。(双手をさしあげ)こう挙げておいて、倒るるばい思うと、力がなかけん(掌で両眼を突く)がたつ! とこうやる。・ ・・ 」

写真の中の亡妻の肖像の眼が柔和に生きているー

「・・・ほいで眼のこの附近も、こう爪でやっぱ、もう相当傷おうてしもうて、はい。挙ぐっときは力でこう(腕を) 挙ぐる、おりる時にはばたつとこうやる(何か上から品物を落すような恰好) ・・・孫に見すりや、”がごお“ ちゅうたい。” がごお“ ちゅうことばは、獣ちゅうわけたいな。」

69 仏壇に盆の供物の数々、その中に水引きをかけたのし袋、寄ると、「チッソ水俣支社長、佐々木三郎」と読める。(註・二千円)

70 自分の考えをのベ、聞かせる尾上さん。

「・・・言うこたなかが、これだけなればたいな、会社の重役の人がたいな、これたけ金を渋つとならばたいな、重役の連中で話し合うて、だれか一人か二人か犠牲になって見いと、な?水銀を飲んでみい・・・と。そうすりゃ眼の醒むるじやろうと。われわれがただ難儀坊じゃから、会社は一方的にそうしとるばってん、これが重役の会議に合せて、誰か飲めと、犠牲になってみいというごとして、それを飲みきるかちうわけ。な? 飲みきるひとがおるでしょうか? おそーらくおらんじゃろうと思う。おらんちゅうことは”金銭よりか人間の生命は尊い“ちゅうことーいくら、そりゃ数万の財産をもっとるひとでも、今日を息をささえていく人も、生命に変りなか! わたしゃそれば言いたかあッ。(瓢々とした調子にもどって) それで、一升ビンに水でも入れてたい(手を横にふって)水銀な入れんちゃよか、水でも持ってって壇上に持ってあがってなあ、”こん株主総会で、上から偉い人がたいな、何人かが日窒(註・チツソの旧称) の犠牲になってみてくれんかと、そうすれば、自分どもも考える余地もある“ と、言うて出した場合、誰かが犠牲にたって飲みきる人がおるとか!・・・わたしどもも、知っとれば飲まんたったんじゃ、ということじゃ、な?」

71 蛸とりの海、早朝、工場の旧発電所近くの磯、干潮の海にシャツ、ステテコ姿で蛸をつく尾上老人。
素早い手つきで蛸をつき、間髪を入れずおのれの歯で噛み殺す。
老人の語り。

「急所が、眼と眼の中間が急所ですよ、蛸は。で、そこを歯でガリッとー。ここで、こんだは針金を膝にさげとるで、針金をこんだ頭のとこに一寸ひっかけて、腰にさげるわけです。・・・」

72 棒の先の鋭いかぎ、藻もかれ死んだ海の荒地を蛸を求めて歩く。(註・無機ではあるが、この地域水銀いまだ三百十四PPMから十八PPMもある)

老人口に水中めがね用の箱をくわえて歩く。

「・ ・・そうと、大きな石にとまって、この石じゃ、ちょっと採れんなあと思った場合は、ちいさか蛸を握っとってですね、鈎にかけて、こう、がぶるわけです。そうすっと、こんだ餌がきたとおもうて、大きな石から、そのォ、グウッ!と追うてくるわけです。そいでまあ、その石から三尺タネか二尺ぐらい引き寄せておいて、種蛸をこんだ抱かするわけ・・・と、(テーマ音楽・中世教会の舞曲のくりかえし始まる)抱かせた場合、力入れてがぶるわけです。と、むこうは餌を逃しちゃならんとおもうて、一生懸命鈎を抱くわけです。その場合にずっと引きあげ、そい噛み殺すわけですー」

73 海を庭のように歩きまわる老人。蛸をひきあげて噛みころす。あまりに巨大な雄蛸とめぐりあって、歯も折れんばかりに噛み、そして快心のえみを洩らす。
未明以来獲れた蛸を腰にぶら下げている。それは腰みののゆらぐのに似ている。真珠やかき貝を入れた網がぶらぶら股間にゆれている。音楽単調につづく。
清澄な水にあおられて磯に横たわる蛸ども。老人の無上の一刻である。

〇苦海浄土基金をめぐって

74 ”字幕「苦海浄土基金」

全国より集まり、百万余円に及ぶ
九月六日 患者総会 浜元さん宅にて“

75 患者家庭・浜元フミヨさん宅、暑さにうだる人々、うちわしきりに動く。

渡辺代表、用意した箇条書きのメモをよみあげる。

「・・・ひとりひとりの親切を無駄にしないこと。ー無意味にこの金の流通はしないよう。ーまた、二十九世帯で運用する。ーこの金は患者世帯の困苦を調節するために使う。ー緊急に入用ができた時、病人、冠婚葬祭、増築・造船その他急用を要する時に貸し出す。(一段と声をはりあげて) ”借らねば損“ という言葉を出さないように・・・返さねばならぬ金・・・貸与ひとり何万円、但し返済できる見込みのある人・・・特別急用を認めて、別扱いすることもあり得る。ーこれは最終です・・・」

76 考え考え喋る尾上さん。

「これはみな”苦海浄土基金“ ということはですよ、な? われわれが哀れなことだ、まことに悲惨な生活をしとって裁判を起しとると。ーこれはかわいそうじゃと日本全国の人が津々浦々から・・・こりゃ、こういう募金ですよ・・・」

77 患者の若手、浜元二徳さんはこの金をつかってしまうことに異見を出す。

「ーその金はもう、そういうのを今からですねえ、これから先は長いちゅうにもかかわらず、一人当り三千円貰うとるとか二千円貰うとるとか・・・これは言えば、もちろんそれを欲しい人もおるけれども、お互いにきついんだから、そこを突っ張って、”お互いにきっかばってん、裁判しとったもんねえー“ ちゅうて、助けあっていくのが当然じゃなかろかと思う・・・」

78 みんな真剣である。

坂本フジエさん「・・・ちょっと生活費に困るから貸して下さいっち要請があれば貸さんといかんと・・・」

釜さん「しからば、この少なか金をどうして貸し回わすとですか・・・」

渡辺保さん「・・・返す見込がある人っち・・・返せるなら借らんでよかち、銀行から・・・」

浜元さん「・・・杉本の夫婦さんが、こん前、入院したでしょう。それで、いまむこさんが入院しとらすばってんか、奥さんが、こん前、ひどかったばってんかですたい? そういうのに金を使うのが当然じゃろうと思うがなあ、この基金は」

坂本フジエさん「・・・そこを返すのが、わたしゃ、何時じやろうかと思うとたい。結局は裁判が済んで、金を握ったときに返すとなれば・・・、あんた百万あってん、十万ずつ貸せば十人分しかなかことになる・・・」

牛島さん「・・・みんなに貸しよるんならば、そいだけはなかもんな、貸しよるんなら・・・」

田中義光さん「(両面の外、発言をもとめる) ちょっとお願いします。わたしに言わせてください。この金はですね、遍路の方に貰うてきた事ば(巡礼団の貰うてきたの意味)よく考えて下さい、たのみますよ、”借らねば損“ というのといっちょう変らんことをここで言われた・・・」

浜元さん「もしもですよ、その生活費が・・・たとえば二十万かかりましたわなあ・・・・」

田中さん「(遮切る) そういう高か金は貸さんごとせんば・・・」

浜元さん「あ、そうや」

田中さん「ちいと借って、働いて貯めにや・・・」

坂本フジエさん「(つい昂ぶる) 何とかして裁判の済むまでは食いつながんといかんとだから・・・」

すぐ裏手に汽車の通過音かぶさるー

79 株主の申込書を手にして、熊本の告発する会の本田代表が、手続についての勧誘をしている。

「・・・いつも忘れんために、一株の株券を机の前にはっとくと、いうような、何か赤い羽根の記章のようなものとして考えたい。それを持っとるのは、水俣病の闘いに参加しているしるしだというようなものにしたいというようなことを、大阪ではいっておりました。まあ、そういうような運動として、これを拡げていきたいというふうに、東京・大阪・名古屋では考えているようです。今日、それじゃあ株主になろうと決めて頂かなくてもいいのです。株主総会に出るか出ないかは、十一月のことですからね。ただ、十一月の株主総会に出ようとなったときですね、株主になっとらんと出られんからですね、さし当り、一株の株券ですから、株主には是非、患者家庭の方沢山の方に、なっとってもらいたい、そして今言った、その私はチッソと闘っとるこれは証拠のひとつだというふうな気持で持っとっていただくといいし、株主総会に行ったってですね、たった値打ちは三十五円くらいのものなんですから、これは入場券なんでね」(註・一株運動に外部からいろいろと疑問の呈されていた折、株主書換えの手続きは十数日のちに迫っていた)

〇市役所

80 水俣市役所外景

81 活版印刷された陳情書 夏期十万年末十万の字。市長と患者さんとのあいさつ。市長辛うじて渡辺会長の顔を知るのみ、殆んど交渉のない感じである。

土本「これは患者さん達が、さしあたって暮に十万貸してほしい、裁判が終ったら返すということで、市でも国でも県でもいいから、さしあたっての金を融通してほしいという陳情にいったわけです」

82 市長応接間

陳情書めくっている浮池市長。

「(マイクに)これ何ですか?今日の集会の録音?こまります、こらえて下さい」(以下サイレント)

訴える患者を押さえて説得的に喋る市長。土本の声で、市長さんは次のようなことだけおっしゃいました。

「・・・患者の皆さんがお困りなのは良く分ります。だから、今すぐに補償金(註・一任派からもらったものと同じもの)をもらったらどうですか?裁判の方は、裁判で企業責任を追及する方は、全国の支援組織の方々がおやりになるでしょうから、あなた方は、それにまかせて、補償金をお受け取りになって、現在の困窮をしのいだらどうですか?というふうな大体のお話でした」

患者、暗い表情で聞いている。(註・陳情の趣旨はいまだ果されていないー昭四十六年五月現在)

〇一株運動に対する訴訟弁護団見解

83 字幕

”水俣病裁判弁護団は、いわゆる一株運動について、裁判軽視の風潮につながるおそれありとして、再三「見解」を患者さんに表明ー九月二十六日夜 浜元宅にてー“

84 夜、浜元宅の戸外より、室内を見る。弁護団と患者との話し合いがつづく。

渡辺老人の声

「・・・当然やっぱり、裁判というものが、長くかかるということも考えられる。(若手弁護士の声”そりゃ勿論そうだ”)その長くかかる場合において、支援団体とわれわれ(患者) とそれから弁護団と一緒になって・・ ・・これら三者が断絶状態にならないような方向で、弁護士さんたちも考えてもらいたい」

85 座に重苦しい空気が流れている。白髪の老弁護士が代表して、用意した長文の見解を逐一よみ上げる。

スーパー ”訴訟弁護団長 山本茂雄氏“

「(諭すように) ・・・お亡くなりになった天の霊は皆さんに、自分を弔うために、いち言、社長に文句言えとすすめておられるだろうか? それとも、出来たことは仕方がないが、出来るだけ補償をとって、お前たちの生活の安定を計ってくれと、こういうことを在天の霊は希望しておられるのではないでしょうか?それを後藤さんは・・・」

患者さんのどの表情にも退屈と疎外感との入りまじったこわばりがある。

「(団長の音吐朗々の語りつづく) ・・・患者が仇討ちをやりたいというのなら、われわれは助ッ人になろうじゃないかと、こう言う。仇討ちをしようと、皆さんが思っておるのか?(畳み込むように) 思っていないのに自分で想像して、”仇討ち“ をするんだから助ッ人しようなどと、こういうのが、ちょっとここのところが分らないんだァ私にや。そりゃ畜生と思うことはいいでしょう。けれどもね。畜生と思って罵ってそれで気が済むか? もっと深い、賠償をとらなければ生活を維持していけないー子供の教育ができないー病気の看病ができないー先祖の祭りができないという、もっともっと根深いところに、この訴訟の本体がある! 私はそう考えてる・・・」

86 疲れてねころがっている老人患者、首うなだれて、吐息をはく患者。

若い弁護士が別の観点から反論をのべる。

「( 一株運動についてくる人々の) そういう考え方に基いて行動しようとする人々(一株主) の善意は尊重したい、というのが弁護団の考え方です。しかし、それが本当に、この一株運動が、そういう運動なのかということに対しては、われわれは非常に疑問をもっている、ということです。・・・それは、この運動が進められてきた過程で、後藤弁護士とかその他、主として水俣現地以外のところから、現在もひきつづき、この運動が裁判闘争の意義を失わしめる程に有効かつ主要なものであるーつまり、裁判よりはるかに有効であるーしかも、もっと大事なものなんだというような事とか、或いはですな、会社責任者に水銀を飲ませようとか・・・無責任な宣伝が行われている、ということです。それとか、或いは仮に、その善意の運動が進められて、世論が高められ、拡められたということが、仮に起ったとしても、それじゃ、その高められ、拡められた世論の支持のもとに、一体、一株運動が、その次にどういう有効な運動をしようとしているのか?」

渡辺老人、凝然としている。

〇女網元の亡父の回想

87 早朝、不知火海区 茂道部落の沖合

二隻の網船が、イリコ(鰯の一種)網を張っている。ブイを落し、エンジンをかける。その指揮をとる杉本英子さん。彼女の記憶の中の父を語る。

「あたし、中学一年に入った時は、もう御飯炊いて、たベて、学校に行かんばならんかつてね・・・だから、その時からもう庭に遊んどっても”あらなんな?“ ていうて指ささせづけおったですね。そいで、その・・・ ”あれは風じやろうかね? いわしじゃろうかねえ?” そてから”ありや風ぞ! ありゃいわしぞ、ありや風ぞー” っち言う(註・海面にしじまが起きるとき、それがいわしの群によるか、風波か見まごうことがある。それを見分ける訓練をした) ・・・そしたことばっかり教えおったですね、お父さんは。テレビよりも何よりも(註・気象のことについては) 信用していましたね」

88 昭和四十一年当時に撮影された杉本進さんのフィルムの複写。
今は仏前に黒枠にはまった父の写真。

スーパー ”患者番号八八 故杉本進さん”

縁側にすわって海を見ている彼(同じく昭和四十一年撮影・岩波映画所蔵フィルムよりコピー)

「(彼女の語り)・・・もう寝床にねとっても、海と雲、それをもういつでも見とったじゃもん・・・ですねえ。あたしは、それでもう仕事さえすれば良かった・・・でしょ、もう父の言うなりに。だからもう、身体使っても楽でしたね、言うように動きさえすれば漁もあるし、人には負けないし、それが(註・四十四年に没)去年あたりは、もう天気に困るし、潮に困るしですねえ。とにかく爺ちゃん失のうた・・・その何ちゅうかですね、甘えとったちゅうか、苦労せえじ(せずに) よかったですね、爺ちゃんさえ据えとったら・・・」

89 手舟にのって網をみる英子さん。勢子一斉に網をひく。まぎれこんだ白銀の太刀魚、わずかながらイリコ鰯が網の底にはねている。
とろりとした海。帰る舟。

90 同じ茂道部落。午後、釜小屋附近。患者家族・宮内さんの女たちが、ボラの餌づくりに立ち働いている。
石油バーナーで大鍋に湯をたく。養豚用とかかれた糖にバケツ一杯のサナギの粉末。

スーパー ”ボラ漁最盛期、海にまくダンゴをつくる。ぬか、さなぎを主体にしてー“

市販のミソをほぐして湯の中に入れる。

スーパー ”いなかみそ二袋“

老女、ぬかを擢ほどのシャモジで双手でこねくる。ついで天然バターを入れる。半ポンド箱から手でちぎって、一箱・・二箱。そのパターの塊りがトロリと熱で融けてゆく。

「(元漁師・浜元二徳さんの話)・・・ボラになあ、ボラにバターたいなあ・・・バターとか豚の脂、勿論豚の脂はバターだけれども(一寸つまる)似たりよったりのもんだけれども、豚の脂も入れた。バターも入れた。さなぎではつまらんから、さなぎではつまらずに・・・ほらあ・・・それに魚がおいしいだろう・・・と思って・・・また魚が来るからおいしかとだろうなてうまかけん魚が来る。来れば、来れば来て食う、来るならばまたうまかけん、また来るちゅうような状態で、おいしかけん栄養もある・・・と。さなぎも入れる、バターも入れる、さっき言うたように豚の脂も入れる、色々入れとったなあア」

91 大分煮えたのか、それのにおいを臭いでころあいをみる女。真夏の小屋の日おいのかげで、ぬかこねがつづく。

「・・・魚が来たらさ、誰でも釣るわけだ。だけど、魚が来んから釣りきらんわけで・・・・その魚を寄せるちゅうのが上手下手があるわけたいな・・・ (やや慨嘆調で) そんな時の餌は秘密だからなァ。みんなでもう・・・おいしい餌を作ってやるとが・・・むこう、あの人はバターを入れらるるとか、脂を入れらるるとかという・・・秘密だからさ、ほいで秘密にそれらをこっそり入れて、海にそれを落とすと・・・魚が集中すると・・・魚が寄れば勿論釣るちゅうことは間違いなかちゅうことで。要するに魚を寄せるちゅうことが前提だったもんなア」

92 海底に沈めるため、小石をうめぼしのように芯に入れて、こぶし大のダンゴを何箱もつくる。無音で何人もの手が働いている。それにさし込むように工場のサイレンの高鳴り。

93 海岸の亀の首プールといわれる廃液溜り(サイレンの音、その空に更に高い)ダクダクと流れる白い石灰滓、その反対側に墨汁のように黒い硫酸滓。広大なプールに白いドベ(ヘドロ) と黒いドベが重なりあって堆積している。カメラを上げると、その果てに海がある。波の音。

94 同じ海上のボラ船。

糸の先にダンゴをつけ、その中に釣針を何本もかくす。鈴をつけた竿が舷側にそこかしこ。青年、たぐる。父親、助けて捕り網をのばしボラを捕る。(患者家族坂本さん)

「(浜元二徳さんの声)ウフフ、ハハハ、やっぱり、ああいう魚が・・・ポラ釣りは針が何本でもついとるからさてああいう魚がもの凄うくる時には二匹も三匹も・・・いや三匹ちゅうことは無理だけれども・・・三匹は、かかってくるんだけれども舟の上には揚らんわけ。大きい魚がな、こんな大きい魚が・・・。二匹はもう、ちょいちょいあった。一日に何回も揚りおった、二匹は。三匹はこう来るんだけれども、こらあ、タモで掬うとき、”こりやしまったァ”と”ちょい逃げたァ”というような状態だった・・・」

95 舟の父子、ボラのダンゴを海に落す。それには糸も針もない。自分の釣場に魚を招くためだ。清明な海中にゆらゆらと落ちてゆくダンゴ、ダンゴ。

「・・・その来る時は、おもしろかったけんなァ、おもしろうもあるし、張り合いもあるし、(愉快そうに声もはずむ)もう昼めしもぜんぜん食わん。朝くうてきたらもう晩ですよ。もう空腹さもひだるさ、ひだるかばってん、どげんこの・・・そん時が一番うれしかったなア、嬉しうもあるし楽しうもあるしじゃった」

音のない水の世界にダンゴ、数知れず落ちてゆく。

〇最多発地帯 月の浦附近の人々

96 足幅ほどしかない壺谷の漁師道、そこここに漁網やカキ殻のついたブイがある。家につづいて海がある。歩くカメラにだぶって、坂本嘉吉さん、トキノさん夫婦の回想。

「・・・この道はずっとこうでごへごして(註・くねくねして)行けばずっとそこの家の本家ん前ば通るとたい。ところが(註・娘のキヨ子が)その病気患うた時分は、もう本家さえも通さんとじゃもんな、お前たちは道、あっちゃにあったっち、あっちば通れってちゅうたり・・・(トキノさん”おなごのきょうだいだけでしたね、やっぱり覗いてくれるのは”)親兄弟さえもそんなんじゃった。あわれなもんでしたよ(苦笑の声)そん時・・・」

97 部落の角にあるよろずあきないの店。

「・・・そん時・・・当時は、店はここの下に一軒ほっきりなかったもんだから、そこへまあ、店に買いものする品物を買いに行っても、お金は直接とらんしな・・・そいで品物じゃったっじゃ・・・(トキノさんひきとって”中に入れん人やった”)・・・お菓子もらおうとしたっちゃ・・・ (トキノ”お金はね、出てきてね、そとでお金を渡してねえ“ 二人交々当時の口惜しさに心乱れている)」

98 月の浦、生けすの中のボラをとり出して、針を頭蓋にさしこみ、かきまわして殺す。一瞬もがいて死ぬボラ。

99 江郷下宅、質素な仏檀、木づくりの位牌、そこに手札型の亡き子の七五三らしい晴れ姿。

スーパー ”患者番号三二 故江郷下カズ子(死亡時五歳)”

江郷下マスさん(本人も水俣病のためもつれる声で) 語る。

「あんた、ほう、伝染病ちゅうところで、あんた、ほう、自動車にものせてくれなかったですばい。で、かろうてきましたですばい(背負ってきた)」

老父三義さんが補足する。

「・・・附属病院も、こりゃ伝染病気じゃちゅうて・・・ところがこんど車も伝染病ちゅうところでのせんちゅう。わしゃずっと泣きの涙で電道(汽車の線路) を死んだ子供をかろうて(背負って) つれてきました・・・」

100 ひなびた道傍の石仏

〇溝口ますえさんの死児への語り

101 少女の写真。

スーパー ”患者番号一 故溝口トヨ子さん(死亡時八歳)“

頭に針をさされるボラ、飼い猫の眼。端然とすわって語るますえさん。

「・ ・・はあ、あの黒貝ち、こう生っとっとのですね、あれを採って味噌おつゆに炊いて食べたりしょったですけど、もう、丁度これ(トヨ子)が病気しとっときも良う、カキを打って(割って) ですねえ、毒を食わせたようなものでございますとですよ。あれ・・・打ちいって、おじゃ炊いて食べさしてやりよったんですよ。(土本”はあ、病気中に?)ハーィ、十月頃からもう寒うなったばってん、おこたでも要るごつ寒うなりましたからですね、身体もまた薄れてしまって、もう口も利けないようになって、そいから四月頃になったらですね、ちったあ、こう、足で、こう膝でいざって歩きよりました。(涙につき上げられながら)歩けんようになってもう大分になる・・・そいから、これ、そこに(窓の方を示し)ずうっと・・・そこまで這って行ってですね、おそこ(庭) にずうっ!と、あのう桜が生えておりましたですもん、”さくら・・・かあちゃん桜の花の咲しとっとねえ“ ちゅうてですねえ”かあちゃん、桜の花の咲しとるね“ ちゅうてなア、喜びよりましたですたい。それ、もう眼がずうっと不自由になっておりまして・・・ (涙ぐむ) ”お前、生きとってもつまらんから、もうトヨ子・・・トヨちゃんと二人で死のうかねえ、もう“と言いよりましたですよ。そしたら、”死ぬな、死ぬな“っち言いおったです。のんのんさん(仏さま)になったらつまらん“ってですねえ」

写真の子ども、一瞬母、とおくに眼をはなつ。

「・・・ああ、もう生まれもつかん片輸になってしもうて」

102 ボラ、死ぬ。

〇小児性水俣病の親

103 田中さんの家、一女の位牌と、最重症の生存患者が居る。その居間で、老父、田中義光さんが繰り言のように言う。

「・・・そうですね、もう水俣へ帰れば、その、伝染病だと、こりやもうそうだということになって、われわれが、われわれ六軒(註・最も初期の患者さんたち)が白浜(の避病院)からこちらに来るとですよ・・・地元にもどってくると、バスから降りると・・・姿をみれば(子供の声で数語聴取不能)田中がきたぞ、はやく隠れろって、わしのすがたさえみれば逃げよったわけですねえ、部落の店にいけば、きちゃくれるなっちゅうふうで・・・」

幼児の写真にスーパー ”患者番号二八 故田中しず子さん(死亡時八歳)”

104 同じ室の窓辺、母親が患者の娘にバナナをたべさせている。全聾全唖、坐居も不自由な症状である。童女のままのおもかげである。

スーパー ”患者番号二九 田中実子さん(昭和二八年生)”

「(母の語る)・・・そうですね、もう十七にも、十八にもなって、(間)十七歳にもなっとってですね、こんなして食ベもきらんしようし、おしめはめとるでしょうが、便通もですね、涜腸せんと出らんとですもん・・・。そいでですなあ、こらあもう何とかして手ェ取って、あの、食べるもん取って手にやることなりならんばですね、もう将来・・・・どげんなっとじゃろうかと思うてですね、ほんに、おもいやりがあるとですねえ」

105 髪の長い少女となった実子さん。親の話にも無心である。たえずしびれた指をいじり、口もとによだれを流している。

「・・・もうですな・・・(間)とにかくもう身長が伸びてですたいな、重かですたい。それでもう、お風呂なんかに入るる時がですたい・・・浣腸するてちゃですな、もう全然・・・・十七にもなったら、もう・・・(泣いて声にならぬ)寝せとっても、しならんわけですよ。それですね、お風呂に入るときせんならんわけですよ。(長い長い間) 四・五日でもですね、おらんば、もうどうでんこうでんならんことがあるとですよ。(すすりあげて) あたしゃもう・・・やっぱりですな・・・父親にも言いならんことがあるとですよ、ほんに(最後はことばにならない)」

〇女児の将来を語る母

106 湯堂の波止場にある遊び場附近、キャッチボールする子供の声がきこえる。そこへ近づく少女、折れ傷ついた鶴のように不安な足どりである。

スーパー”患者番号九九 坂本しのぶさん(昭和三一年生)”

母親フジエさんの声。冷静である。

「・・・まあ、水俣には、水俣病患者もおるしですね、その家族の方もおられるから、まあ、コロニーとかなんかもですね、施設なぞも、やっぱしこりゃ、水俣は水俣としてですね、本当に考えなくてはならないと思うんですよね。そして親が死んだあとに、この子供はやっぱし、その、”施設”なんかに入ってですね、まア、子供は子供なりに安心して生活できるような、ですね、コロニーなんかの施設も、これからは一番大事だと思うんですよね」

しのぶさんを追うカメラ、正面に顔をみる。
恥かしめをうけたような影がよぎる。

〇海が好きだという母

107 三号線ぞい、海の見える家。
庭でむく犬と遊んでいる少女、語る母もともに患者である。

スーパー ”患者番号一〇九 松本トミエさん“

姉の子のお守りをする眼の不自由そうな少女にスーパー ”患者番号二七 松本ふさえさん(昭和二四年生)”

「いえ、家は漁業ではなかとですよ。はあい。漁業して、漁業でもなんでもなかとですばってん、わたしの方の実家は、ほう、漁業ですもんね、網を干したり、やっぱり何でんしたり仕おらしたですたい。そいで、もう私たちもやっぱ、加勢にいったり(魚を) 貰うてきて食べたりして・・・ そいで、私は大体、もう、海が好きやったもんですけんねえ。カキ打ったり、ビナ(貝)拾うたり、貝とったりして、もう、まだあのう、私が若い頃から、家はそげんして、ずっとそげんしておったですもん、大体もう好きやったもんですけん・・・それがですね、知らずにやっぱ、ずうーっと食べてきて、こげんになったですが・・・病気になるつのつち思えばですたいね、たベも何もせんとに・・・ (恥じたように笑う)」

土本「本当においしい食べ方だったでしょう、それは」

「はあ、もうですね、お菜にして食べおったですけんねえ。もう、そこから採って来りや、お菜も買わんでよし・・・。もうフライをしたり、焼いて食うた、煮つけて食うたですね・・・。卵も入れて、そうしおったですもん」

〇離婚された患者さん

108 湯堂、海を眼下にする道を、幼女の手をひいて、危げな足どりで歩いている若い母親。

スーパー ”患者番号三八 坂本タカエさん“

土本「この方は坂本タカエさんという方で、満十七歳の時に発病して、以来、長い間病院で療養生活を送っておられたんですが、昭和四十一年に従兄の方と結婚して、ひとりの子供をもうけて、その後水俣病という理由で、その嫁ぎ先から追い出されるという道を辿った人です」

109 小さな家のぬれ縁でインタビューに応えるタカエさん。

土本「もしね、今後そういう縁があったらね、結婚とかそういうことを、またやってみる考えはある?」

タカエ「モアイテノナカモンネ(土本聞きかえす)モアイテノナカモンネ(貰い手のなかもん) 貰い手のなかっち(声を上げて) 結婚したかばってん、もらい手のなか! (気を鎮めて) いまあすこにいる子のおやじともなあ、何で別れたかっていえばなあ、水俣病にかかっているでっち。向うは知っとったばってん、おとうさん、おかあさんなあ、兄妹が反対してひっ離したあ。そいでふたりはやっぱ、好きおうて一緒になったじゃってん・・・ ”水俣病にかかっとつとに、長男の嫁ごすれば、妹の結婚すると差支ゆる“ っち。 ・・でも、別れたっち、どげんもでけん。子供はでけたし、(間)相手と別れんばどげもでけん。子供は自分でとるでっち、生まれてからすぐ子供は取ったったい(引きとった)」

110 幼い女児が無心にあそんでいる。見たところ元気そうである。

土本「あつ子ちゃん、いまいくつかな?」

「満三つ(間) 他人は生甲斐のあるばっち言わるばってん、そうは思わないな、親は親、子は子になっていくかも知れん、先は・・・。女子じゃから、それまでなかばってんな(気をとりなおす)ー音楽、タイトル、蛸とりと同じテーマでー・・・眼は見えるし、面倒はみてくれるし、ごはんたいてくれるし、為になることは為になるばってん、おなごやで・・・ (思いにふける間がつづく)うちの考えでいえば、親娘ふたりもおって、幸せにしてくれるちゅう人間のおらるれば・・・・嫁くかも知れん、フフン」

遠くに眼を放ちながら。

「三十ちょっと越えたばっかりで、一生ひとりでおらんならかねえち思えば、やっぱ(声をつまらせ)淋しかもんなァ」

111 夕陽に輝く海。その小さな波止場に、犬に引かれて、危かしい足つきで散歩している松本ふさえさん。姉と赤ん坊が一緒である。

土本の声「彼女は、水俣病の中で一つの特徴である大変な視野狭窄の持ち主で、ほとんど家の中にとじこもりきりの生活を送っています」

日没前の一瞬、海は最も輝きをましている。

(テーマ音楽、終る)

〇大人の患者たち

112 字幕「患者番号五〇 浜元二徳さん、友人、患者番号六〇 尾上光雄さんを訪問す」

113 尾上光雄夫妻宅、兄の尾上時義さんもいる。尾上さんは大変な言語障害で、その言葉は近親者と患者にしか通じない。インタビューにいちいち”通訳”する。釣の話題ー

浜元「ハア、コン前ハ、メメンチョロ(みみず)バ、ヒッチャイゲタ(つぶしてしまった)」

尾上「(懸命にしゃべる)ワタチヒカウカウトウカイテイ・・・(聴こえるが理解不能)・・・」

浜元「何回デン行カントワカランモン」

尾上「(笑う)フトカクギウッテ・・・(長くしゃべる。浜元さんには分っていて、笑い声をたてる)」

浜元「(通訳する)大きい釘は打ちやすいけど、小さい釘は手にまめらんから、手ばかりうってつまらんと・・・魚釣りも(いいかけると尾上さんが喋り出す)」

尾上「(何か言つてはにかみ笑いする)」

浜元「何も自分でできんから、何んでもな、そういう時は、奥さんの手を借りてするとじゃけん、そういう時は自分から・・・・・・」

尾上「(突然”セカラシカ“と言って笑う)」

奥さん「・・・なんせ忙しかときゃ、せからしか(慌しい)もんねえ・・・・・」

尾上「アン夕、ヌン夕、コウワダッ夕、スレドハ・・・ポーキィー」

浜元「ポーキィ?」

尾上さん、懸命に喋るが、浜元さんにも通じない。それをもどかしそうに更に喋る尾上さん。

浜元「はあ、はあ、分る、分る。 水俣病はふゆじゅう病(のらくら病) じゃち、ふゆじゅう病・・・じゃろが、ふゆじゅう病じゃけん、ちいとすれば辛かつて・・・」

尾上さん、手ぶりで拭き掃除したという。おどけた恰好で首がまわらないというしぐさをする。皆声をたててわらう。

浜元「そげん気張ったんや」

兄の時義「(翻訳する) 畳を一枚な、たわしですったで、首の痛うして廻らんとー」

浜元「(ゆっくりと) アン夕、コンゴロハ、腰ハイトウナカイヤ?」

尾上「イタカ!」

浜元「ヤッパリ、イタカ」

114 成人患者・田上義春さん。十年前、熊大入院中に撮られた、全身けいれんの状態の八ミリ・フィルムの複写(熊大研究班撮影)

115 猟犬の手入れをする現在の田上義春さん。まわりにダックスフント、ポインター、そして二人の娘。

「(おそい口まわりで) えらい大袈裟な言い方ですけども、なんちゅうですか、人生観ちゅうか、処生術がですね、そういう意味で変って、何かん(何かその) 人間相手が、こう、わずらわしいような、こん、観念に自分としてはなった訳なんです、むしろ、なんかこん、生きもの扱うて、なんかこん、自分の気持がなごやかにあるような恰好で、特にもう、こん、好んでそういう風にむすめに接するようになったわけです・・・まあうちの蜂も、まあ”動物” ちゃ動物ですけど・・・」

116 蜜峰のふたをあけて見せて田上さん。

「・・・まあ、とり、鶏ですね。雉とか、それから、こじゅけいだとか、まあ卵から孵化さして、これから太うなるまで、それまでが大体たのしみじゃったです・・・」

〇老人の重症患者

117 山の斜面、家の開き窓から、工場が画面一ぱいに見える。蜘妹が巣をかけている。手づくりの小屋の一室、耳もおとろえた患者のわきで、奥さんがひとりで喋りつづけている。

スーパー ”患者番号五七 前島武義さん(石工)”

「(方言が最もつよい、しかも早口で) 元気かときやもうやっぱ、こう、百姓合間に石ィを割ったり、崖をついだり、やっぱ親子でしおりました。あたしが連れて行ったてなあ。そして、このひとが、大体熱心家もんですけん、もう仕事は仕いきらんごと、もうみんなあげんして、そいでやっぱ井戸も掘りおったですもんなあ。井戸も、もう五十近くの井戸ば、掘っとっとですよ。そいけん、もうやっぱ、可愛いがられて・・・。石も割るたって、ほかの石屋さんには頼までな、このひとばしょっちゅう頼んでくれおらした。そんでもう、力も強し、いっちょん(ちっとも) その力が、あなた、帰ってきてから、病気は全然せんとでした。こん病気にはじめて引っかかって、こうなってしもたですがな・・・」

118 何とか自分の病状を説明しようと、かなわぬ口を動かす前島さん。

「・・・手ガダルウテ・ ・手モデスネ、コレデ左ノサキハヒドカデス。足モコウ・・・ウハハン(淋しく笑う)」

119 水を満たしたコップを片手でのんだり、持ちあげたりして見せる(機能回復訓練で、ここまで出来るようにはなったことを示したいのだ)
夫婦間で分る”よくやった“ といった笑いが交される。
一直線に歩いてみせる。

老妻「ああたが、病気で、気ィしてなるで、死んでしまおかち、思うた時のあるかつて、言いなさっとたい?」
「アイ、アイ、アリマ、アリマ(淋しく笑う) イチモウモデ、モウ、ヨノ中ガ、イヤデ(微笑)」
老妻「なごう生きとつりや、わたいどもへ迷惑かくると言いなさっとやがな、体もかなわんでなあ・・・」
「ドウカシテ 死ンダラ 死ンダラ ヨカロカ ドウシテ ヨカロカ テ モウ」

120 白い紙を前に二本の平行線をひいてみせるが、ギザギザでうまくゆかない。
妻の述懐がはてしなくつづく。

「・・・死ぬる時にや死ぬっとじゃるでん、汽車敷がり(投身自殺) で死んだりしたり、首、繰ったりしちゃ死んじゃくるるなって、わたいが言うとですがな、そげんすればなあち、みんなが、物言いに来てやんなすったっち、何と答ゆればよいか分らず・・・そいでそげん恥かしかことして、死んなんなばいと、わたいが言うとですたい。汽車でん飛びこんで死のうかいっち思う時もあるで、首でもくくろうかと思うときもあるっち。くびりなさる時は、一日に三回もそれしなさったよ。ちょうど、今頃な、唐芋とる時に、唐芋とりに行っとったら、おらんもん・・・そんじょ探いとったら、もう紐ばやって、つってな、丁度顎ばかけて、こう跳びよるところだったですたいな、それば三ベんー 一日に三ベんしなったよ。・・・すぐにわたいどもの唐芋んところに連れてくれば、ちょっと経てばまたはって行て(行ってしまって)今度は家の梁に細い紐ばかけてな、仏様(仏壇)からこう飛んで、その、しこばしよらした。もう、わたいが、その時てわたしも腹の立ったもんで、打って打って、打ちこかしてな、もうひどい目逢わしたですが、それからいっちよん(一寸も) せんことになったですがな。ほんに気色の悪かですがな・・・元気な時ァこげんなひとじゃ、いっちょんなかったですよ・・・」

前島さん、長い時間をかけて、腕をつかって、自分の名を綺麗に書きあげている。

〇最年長患者めじろを飼う老人

121 居間のチャブ台をかこんで老人と土本。

スーパー ”患者番号八七 牛島直さん(明治ニ九年生)”小店の商いをしている。自慢のめじろに餌をやり乍らー

牛島「ホー、こやつどもは、もう」

土本「もう分ってるのかしらね」

牛島「もう親だけん喧嘩するもん、こやつどもは・・・」(鳴き声しきり、画面の外で老妻のくり言がつづいているが、判然としない)

土本「鳴き声で、これはあのー優劣をつけるわけですか?」

牛島「そうそう、鳴き声でー。十分間に今ですな、五百鳴かな優勝はでけん、五百鳴かにや優勝でけんですよ。五百、チャプチャプチてフチャプ・・・五百鳴かにや優勝はでけんです」

土本「それは餌とか・・・その見せて? そうじゃない?」

牛島「いや、餌? あの興奮は雌を附くるですもんね、雌を附くるときは、体がもう羽をこうやるですもんね。これがそしてから、やっぱ、五分間雌ば居いときますもんね、雌を中へ隠しておきますもん、布で。そいで興奮させてから、今度は台の上へ乗せていくわけたいな」

土本「その鳴声つくるにはどうするんですか?」

牛島「こりゃ生まれつきだけん、どぎやん鳴声ば作ろうてっちゃ、こりゃ難しかですね。こりゃ、やっぱ人間の早口の者もおりや、粘ばり口もおりゃ、何とかで、人間にするならば、早口でワチャワチャワチャッていうとでなけりゃ駄目ですもんね、うん。その一所懸命、こりゃチャプチャプチャプチャプッて言うとば六つも七つもで一口になるわけで、いっちょ、ふたつ、みつつ、よっつ、いつつ、むうつ、ななつ、これが一口と言います。そいつをやっぱ、四百、五百から鳴かなならん。あんたたちに、あとで賞状をみするがな(自慢の賞状の大写し)」

122 街頭デモの先頭に立って、「水俣病患者家族」のたすきをかけて歩く老人。
熊本市中下通りに立って、カンパばこを手にする老人。これにスピーカーを手にしての訴えの声。

「わた、わた、わたくしは、七十五歳になって家内とふたり、暮しとります。そして、ェェ、一番好きなのが鳥、めじろでございます。めじろが二十おるます。(転じて)・・・ あくまでも水俣会社(チツソのこと) の煙突の煙が続く限りは、わたくしも頑張る・・・また患者一同の皆さんも・・・頑張っておられます・・・」

123 前の居間、手前に独り言を誰にきかせるとなく喋っている老妻。老人の回顧談つづく。

「ここに大体遊ぼうと思うて一年二年なあ。山猟どんいって、鉄砲撃ってな、うん。ところが、あんたそのやっぱ、わしもその、いやしかったもいやしかったな、そのう、一番熊本におる時から蟹が好きだったもんな、蟹が。あの海蟹の太か。それが、ここに来た頃があなた、蟹、ボラ、もう好きなものばかりたい。蛸、その、なまこたい。そればまあ、食うも食いよった、もう蟹ば食わなもうめしゃ食わんだったもん。そういう風に食っとるけん、やっっぱ罹ったとも無理はなかろうと思うですたいな・・・」

124 視野狭窄の眼、老眼で瞳の輪郭の定かでない眼、遠くを見ているよう。

「・ ・ ・そいだけん、今、顧みて考ゆればなあ、わがいやしかったけん、こりゃ、こういう水俣病に・・・(ふと激しく)なぜここに、水俣に来たろうかと思うですな。なぜ、来たろうかと・・・・・・」

〇ひとりで野球をする青年

125 家の庭、全盲の青年と日吉フミ子。青年棒きれをバットに、拳ほどの石をボールに見たてて打つ。

スーパー ”患者番号一六 松田富次さん(昭和二四年生)”

青年「ううん、(言語障害のためろれつが廻らない)ファウル、ファウル」

日吉「うん、いっちょ、打ってみらんね、わたしが拾うてやるけん。よかがねえ。打たんね。ちった遠かとこまで打たんね。かっとばさんね、そうすっと拾うてやるけん」

青年「ナニスット? 」

日吉「何すっとじゃなかったい。バンドばかしていちゃ分らん。(青年打つ。日吉さん、拍手で応える)あっ、今んとはなに? 」

青年「キャ、キャ、キャチャフライ」

日吉「キャッチャ・フライ? ああ、今んとはキャッチャー・フライ。(笑い声) ・・・ ハイ、今度は、今度は。(励ます。青年にも言葉にならない笑い声) ほら、打ってみせんね、ホームランのひとつふたつ・ ・・ ホームラン、ホームラン。ホームラン打たんばつまらん。(青年照れ笑い) はい、いっちょうホームラン打って見せんもんね。・・・ (青年、小あたりにうつ) あつ、そんなこっちゃね、うったっちゃアウトかい・・・。もうちっと、もうちっとホームランばかっとばさんね。(青年棒と石とをこすりあわせ、手をはなした瞬間に打つ。日吉拍手する) いまんとこ、ちったあよかったことあった? 私にかしてごらん?」

青年「(笑いながら、相手になってくれるのが嬉しそう)ナァシテ?」

日吉「わたしがうってやるで、ホームランば一ちょも出さんごたる。ホームランも考えてださんばね。(青年、石を探して地面を手さぐっている。そして再びうつ)いまんとはホームラン! ホームラン、ホームラン、ホント。ほら、あっち、ほら、足の傍(石のありかを教える) 今んとはよか、ほんと」

童顔そのものの松田さん、手と耳だけでひとりの野球に没頭している。

〇最多発家庭 渡辺さん一家

126 全聾全唖の少年とその母線、手ぶりで話しているが母はよくのみこめないでけげんな顔をしている。その少年ー

スーパー ”患者番号一〇五ー胎児性ー渡辺政秋君(昭和三三年生)”

127 縁側、その兄の栄一君、オルガンをひいている。父、保さん、縁側で網のつくろいをしている。訴訟派の代表である渡辺老人、黙然としている。弾き出したのは「枯すすき」スーパー

”患者番号 六一 波辺栄一君(昭和二七年生)”(註・患児の殆んどが純日本調の民謡、艶歌を好む点で共通している)

長い指で巧みに演じる彼に母親の声。

「・・・やっぱその、なんにも才能がほかになかでしょ。それで音楽だけだから、そのう、まあ、これが何とかして、自分の生活の・・・ね、あれになりやせんかと、いっちょう思ったわけですよ。それで、これで何とか生きて行けるんじゃないかと思ったもんですけん、まあ音楽の先生につけたわけですけど・・・まあ、それもねえ、まあ見込みないようになったし・・・まあねえ、これで、折角オルガンも買うて先生にもつけたけど、こりやもう物にならとやが、どうすっかといってゆうとったですたい・・・ (淋しく笑う)」

父親、大ざっぱな言い方で。

「・・・もう、足の運動になるちゅうとこで、わしゃ、だいたい買うたん・・・本当はもうわし自身として、その音楽はあんま興味は・・・まあ当にしとらんじゃった。足をいつも踏むでしょうが。それが手の運動、足の運動になるけん・・・ なにしろ学校の先生もそんないいなさったもんじゃで・・」

128 ひたすらオルガンにとりついている栄一君。それをじっと見ている渡辺さん。そのかたわらの仏壇に亡妻の写真。

スーパー ”患者番号 一一ニ 故渡辺シズエさん“

「枯すすき」の曲が泌み込むように流れる。

「(土本) この渡辺さんの一家は、孫の松代さん、栄一君、政秋君、三人とも全員水俣病です。特に政秋君は物は喋れない、耳は聞えないという非常な重症です。ええ、渡辺さんの奥さんは、永年、寝たきりだったんだけれども、死後解剖してみて、完全な水俣病であることが分った。そういう家庭です」

129 がっしりとした肩幅の保さん。太く長い指で、網の目をむすんでいる。カメラ、渡辺老人に近づく。音楽遠くに消え、代って、かつて、或る集会でのベた渡辺さんのスピーカーを通しての演説の一節。

「・・ ・わたしの子供たちのことを少し申し上げます。嫁とも十人おります。 わたしの妻、十年の長い間寝たつきり・・・でした。昨年の二月・・・なくなりました。その間、十年の長い間・ ・・小言ひとついわず、不平も言わず、毎日毎日おしめの替え通し・・ ・その神々しさは、ナイチンゲールに、・・といえども、まさりはすれども、決して劣りはしない・・と思います。(手記の朗読でことばはぶつぶつに途切れる)また、当時のことですが、病人の子供と病人でない子供・ ・・が遊んでいる時、病人でない子の親が走りきて、わが子を二・三十間だき抱えて行き”なにして、あの子と遊ぶか“ といって、尻べたを叩いたのを、わたしはこの眼ではっきり見ました。こんな事では、患者たちの不幸こそ重なれ、明るい光はいつまでも差しこむことはありません(スピーカーのハーリングで終る)」

130 老人、息子、二人の孫の手、頑丈で骨太の掌、長く器用そうな指、おどろく程似ている。

131 ステレオを調整している。ノブがやたらに多く高級品であることが分る。一枚のドーナツ盤を宝物のように機械にかける。ボリューム一杯に唄が流れる。

(女性歌手) 泣くなよしよし
ねんねしな、
山のからすが鳴いたとて
泣いちゃいけない、ねんねしな
泣けば鴉がまたさわぐ・・・ (赤城の子守唄)

「(土本の声、右の歌に重って) このステレオは十数万する非常に高価なものですが、栄一君は水俣病のため耳が遠いので、こういった大きな音の出るステレオを非常に欲しがった。それで町の電気屋の主人が、”月々千円でも二千円でもいいから、ぼくの家においておくより、君の所へもっていきなさい“ といって運んでくれたものだそうです」

132 オーケストラの指揮をとるように、両手でタクトをふる栄一君。わきに居る政秋君は音を風圧のように感じとっている。スピーカーの口に掌を押しあて、指の間に音の風がするといった表現をしてみせる。片耳は全くつぶれて耳の穴がない。ただ手でさわりつづける。

坊や男だ ねんねしな
親がないとて 泣くものか
お月さまさえ ただひとり

「(父の声) 殺すか、その歩くかちゅう・・・そのどっちかに賭けたわけです、わしゃ、な。自分の子供じゃっで殺すつもりでやれば・・・ 」

133 政秋君をはさんで両親が交々語る。(この子を歩かせるまでのがむしゃらな訓練について。)

「(母)・・ ・首がこう、坐らんとですもんね。(うつむいてみて)こんなして、ちっとも坐らんとすよね・・・だから”変じゃね“ って言うとったですたい。 ”体は弱かっとってもね、首はちゃんと坐りそうなもんじゃがなあ“ って言うてですねえ。這わせてもグターとして(潰された蛙のような恰好をしてみて) こうして、こう、もう顔の起ききらんとですよね。( その首をむりに起してやる手つきをして)それでも頭を無理にでもあげてくれて、あなた、”言わんごとして、こうしとれ”っちいうてですね。そして一寸ひと息しても、ぐたっとこうするですよね、また。したら、またですね(頭を支え直すまねをして) まあ一ぺんちゅうて、何ぺんでもそんなしてですね。(政秋君に眼をやって)それでもこれが泣きもなんもせんで、やっぱ、こっちのするようにしとったんですたい。(笑) 泣けば止めるとですけんね、(政秋君を指さし)泣かんもんだから、そのまま何回でもこうしたわけですたい。・ ・・そして何とかしとったところで、自分でこう起してやれば、そのままこう(少しの間首をあげている) ひとりでなるようになったとですもん。”ホラ見ろ!” (笑)って父さんのわたしに言うわけですたい。”やっぱり訓練じゃろが”ち・・・ いわれてみて、成程ねえと思うたとですたいね。(明るく笑う)その前は可哀そうでですねえ・・・そげんして這いきらんとば(這えないのを) 無理にそんなん、せんでもよかじゃが・ ・・言うて、わたしはよう喧嘩するしですねえ、そしたら”なんかこうせんこてにや(しないでいては) つまらん! “と(父親をみやりながら)言うし”まあ勝手にしとって下さい” って・ ・・ もうぶうぶう言うたっちゃね(笑) ・・ ・それが、あとで、”ああよかったね、やっぱし“って、”まあ、頭ばね、自分でこうしてあげ下げすることなっけん” って言うたとですたいね・・・ (註・スパルタ式訓練について両親それぞれの意見がちがったことを一気に喋った)」

土本「どのくらいの期間やったのですか?」

母「大分ながかったね。うん、だいぶ、効き目のなかったですよ。でも・・・」

父「歩かすとに、やっぱ二年ぐらいかかった・・・ 二年ちょっとか・・;・」

母「そうじゃねえ、もう・・・四つの時に歩いたとじゃけん、三年ぐらいかかっとるとですよね、歩くまでに」
(父、両手をあげて、子供の手をもって吊り上げるかっこうをして)

父「なかなか、手ばひっぱって、こうして高くばかるうて(背負って)手ば引きあげとって、行っとれって、縁側なんかでやりおったとじゃもん。(立たせる)両手握ってこうしてわしゃ坐っとって、立たせる・・・」

母「最初の間はね、足は立つでしょが・・・立つけど足はこう(足首が内側に折れまがる恰好をみせ)ふにやあと・・・。(両手で足首をもって、人形をあっかうようにかわるがわる前に歩ませる)・・・そして私が膝を、こりゃ・・・私が膝を真直ぐのばしてやるわけ、・・・それから足のばして、こうして(左右かわるがわるに。父は手をひっぱりあげている。つまり二人がかりで)一緒にこう、かわしてやるわけですよね。あの、草の上とか玄関でしおってね。そしてあとから、四角かアレ(歩行器)を買うて来てね、うん、それにのせとったですね。立たしとったですたいね、一刻・・・」

歩行器につかまり立ちしている時分の写真をみせる。政秋君、読唇術でほぼ話をききとっている。

父「その壊れた時ア、また修繕して、これば、それでやっとったんですよ(二人声をあげて笑う)」

134 アルバムの一頁、始めて首をあげた一瞬、七・五・三の盛装で辛うじて立った一瞬、若妻姿で乳呑子を抱いているスナップ等。

「(母親の明るい声)ああ、一歩、ニ歩ね、歩いた瞬間な、もう何とも言えん嬉しかったですよ、まあ歩くようになったねえって思うてですね。私はもう、歩けんもんて思うたら、もう・・・”歩くようになったねえ“って言うて、もう涙ん出るように嬉しかったですよ。やっともう、やっと、やり遂げたねえちゅうような感じじゃったですね(嬉しくてたまらないといった二人の笑い声)」

〇湯の子リハビリテーションの患者たち

135 海辺に作られた、まだ新しい病院、その標示「市立病院」

136 二階病棟、廊下より胎児性水俣病患者と脳性小児麻痺患者を収容する病室にカメラ歩行移動する。
車椅子にのって、頬を自分で打っている患児がいる。”ウワーン“と一瞬叫ぶ。ゆきどまりの十二畳位の日本間に黒板があり、先生が授業している。オモチャのボーリングを教材にして、子供たちに倒させては、その数の倍の数価を言わせている。胎児性水俣病の子どもと、脳性小児麻痺の子どもと半々である。黒板に左手に白墨をもって、腕の動きで”4”と書くが殆んど字にならない。

スーパー、 それぞれの患児に重ってー
”患者番号一〇〇ー胎児性ー鬼塚勇治君(昭和三一年生)”
”患者番号九三ー胎児性ー半永一光君(昭和三〇年生)”
”患者番号一〇八ー胎児性ー長井勇君(昭和三ニ年生)”

先生の声「まあ、今日はその・・・2ずつ数えるという、いわゆる複数の数え方を中心にして、条件を、その一本倒れたら二点という条件をつけて、今やっているわけなんだが、これがあの一部の子供たちー大体、このうちの半数ぐらい(註・おもに脳性小児麻痺)はそれが分るわけですよね。そして一番最後にまとめの計算、繰り上りの計算がありましたけれども、あれも一部の子供は分る。やっぱり半数くらいは分る。あとの半数(註・胎児性水俣病)はですね、これは、まあ、非常に気の毒ですけれども、今日の計算は、ほかの子供はただ見ているだけでですね、勘弁して頂かなくちゃしょうがない。ただもう、実際あの、半氷君なんかは、いわゆる文字通り手を取ってですな、自分の指の数にあわせて今やっている段階です。それで今どうにか、手の段階まで、片手の指五本ですね、これまでどうにか、まあ、今分るようになった・・・」

半水君、上半身をのばし、双手をさし上げるが、すぐにぐったりと折り伏してしまう。満面に笑みを浮べているが物を言えない。

137 半永君の通信簿の接写。
読む力「全然なし」
数える力「5まで分かるようになった」
理科「虫などに興味を示すようになった」等の記述。

「(先生の話つづく)で、水俣病の子供は、その・・・こういっちゃ失礼ですけど、とにかく気の毒ですね、上から下まで(註・知能から足までの意味)本当に。記憶力も弱いし、それから、その理解力も鈍いし、おまけに、その、手足も不自由というのでですね。やっぱり小児麻痺の方は、まあ、体の方はむしろ水俣病よりかひどい子供もありますねえ。ところが、あの子供達、知能の方は普通に近いわけなんです。だから・・・いやあの・・・経験をさせればさせる程、少しずつながらも、そのォ、理解がついてゆくわけなんです。水俣病の場合には、これを繰り返し繰り返しやって、そして、その、いわゆる身にけるというような教育の仕方でないとー。ただ通りいっぺんの黒板に書いた、読んだ、耳から話を聞いたというだけの教育では、本当に身についていないようですね」

138 半永君、車にのって家に帰る。チッソの工場正門前を横切る。風景に何の興味も示さない。

139 車椅子の少年、廊下に放置されている。指をねぶり、片手で自分の頬を乱打し、ウォーウォ!と叫び声を放つ。

字幕”患者番号一〇九 山本富士夫君(昭和三二年生)
胎児性水俣病 最重症
視力・聴力不詳ー
母親に対しても反応を示さない
ー長期入院者ー”

看護人、カメラの前より少年を連れ去る。

140 ”生きている人形“ といわれている美貌の女性患者がねむっている。

スーパー ”患者番号四一 松永久美子さん(昭和二五年生)”

二十歳だが体の各部、角質化し、老人性シミがあらわれている。

141 機能回復訓練室
子供たち、訓練士の手で、マットの上に運びこまれる。少女たち、はや胸にふくらみが出来ている。

スーパー
”患者番号一〇三ー胎児性ー森本久枝さん(昭和三ニ年生)”
”患者番号一〇四ー胎児性ー岩坂すえ子さん(昭和三二年生)”

横たえて、脚の屈伸、起立訓練が一人対一人で行われている。

訓練士「もっと。もっと。よーし。伸びたぞ。伸びたぞ。そのままね。(少女のうめき、ウワァンとくりかえすだけで言葉にならない)痛い? 痛いね? 痛いや? もうちょっとあがつて・・・。もちょっと上ってごらん・・・手をのばして。よーし。もっと。伸びたぞ」

142 子供たち、痛苦の表情の者、されるがまま痴呆性無感覚のもの。異様な人のむれである。

「(院長見解、公的意見表明に慣れた口調で) 胎児性の水俣病は、普通の子供の水俣病(註・子供の頃に発病した患者)と比較するとね、みな重症なんです。重症というのはですね、四肢が不自由であるばかりでなく知能が犯されておるとー。普通の脳性小児麻痺と違うところはですね、勿論、脳性小児麻痺の中にも、知能のひどくやられた人もおりますけれども、胎児性水俣病のほとんど全部がですね、殆んど知能障害が高度であるーということに特徴があるわけです。だからまァ訓練の成果と・・・リハビリテーションによって訓練しますけれども・・・この成果というものは、非常に、そのォ(言いよどむ) すぐ現われるんでなくてですね、なかなか一向に遅々として進まないと。まあ、しかしそれでもですね、いまここに入って・・・九名入っておるのですけども、この患者さんの傾向を見ますとですね、最初はもう寝たきりで、全く首も坐らなかったりという状態の患者さんだったのが、やはり五年六年と、まあ訓練の経過をへてきますとね、少しずつ良くなっとるんですね。たとえば坐れなかった人が坐れるようになる。立てなかった人が立てるようになる。また全く歩けなかったのが装具を着けると何とか歩けるーというように、少しずつは良くなってますけど、まあ、しかし、他の大人の患者と比較すると、なかなか、その、回復程度が緩慢であるということに特徴があるのですね・ ・ ・」

143 歩行具をつけて、歩く長井君、手がつい上るたびに注意される。金属音が廊下の空洞にひびきわたる。

144 石灰滓のプール。ひびわれた白い排水土の上をカメラ。時々ひだに脚をとられながら主観移動する。

145 とんびが浦々に舞っている。鋭い笛のような鳴き声。津奈木、湯浦の漁村地帯である。

〇家にこもる胎児性水俣病の少年たち

146 網元の家の干し場、そのむこうは入江である。”わが庭なる海“ といったたたずまい。一人の少年、双眼鏡を手に、ひとり遊んでいる。白髪の老女(祖母)が風雪に耐えた顔で少年をみている。

スーパー ”患者番号一一〇ー胎児性ー浜田良次君(昭和三四年生)”

母の声「海が近いけん、油断ならんとです」

父の声「ほんと、寒かみちゅうか、暑かみちゅうかな、分らんとですな」

土本の声「ナニミチですか?」

父「陽の暑かと、寒かとが・・ ・」

母「あつかかさむかか分らんも」

父「ほうで、もう、土用でも師走でも裸足でしょう。寒かちゅう、その気いくれまわって(気を使って) 着物でん着るちゅうことはせんもんでですな。ほと(それと) どぎやん夏の暑かカンカン照るところでも、その、船でん・・・・暑かところへ行って、・・・その、出て、コンクリの上に坐って・・・・見とるちゅうごたる風でですな。ほうで、もう寒さも暑かも分らんとじゃなかろうかち言うわけですたいね」

147 僻地の入江に、古くから代々の網元を営んできた漁家がまばら。その一軒である浜田さん一家、親せきらしい赤ん坊を、あやしている。少年、のびのびと自然児のようにそこに居る。

父「・・・いや、長男が、まあ、こいつばその可愛がるもんですけんな。そいでもう他所と比べたっちゃ(比べると)その(生計が)楽にしていかるるとじゃっで、他にその、子供がおらんけんな、もうこれ(良次君)が一人だけん、ほんで嫁ごもらてくるるば、分になすとも、心配はせんちゃよし。もう、これさいか(さえ) 見ていけば、それで良かとじゃけんちうて、まあ、そのお、楽しまするわけですたい(男っぽく笑って済ませる)」

波の音の中で父の赤ん坊をあやす声がする。

〇語りっぱなしの少年

148 同じ僻地 湯浦町女島部落 海沿いの家、マイクをまえに黒いつめえりの学生服をきて、きちんとすわっている少年。足腰が萎え、おしめをしている。喋るが言葉はろれつがまわらず、それも重労働のように息使いが激しい。

スーパー ”患者番号一一六ー胎児性ー小崎達純君(昭和一一四年生)”

そばに留守番役の叔母がいて相手になっている。

土本「・・・いまは何をやっているのかな(TV番組のこと) 今は・・・」

少年「アノネ アー」

叔母「いってみんな・・・ 一番嫌いだっとは何か・・・テレビで一番嫌いだっとは? こぎゃんとが嫌いだっとは・・・」

少年「イー、ヤギュウ(叔母”野球だけな?”)レスリング・・・ (叔母笑って”フフン、レスリングが好かん”)」

土本「野球と・・・何?」

叔母「はあ、レスリングが好かんって、嫌いって・・・スポーツは好かんとですよ、全然・・・。この小父さん達は東京から来なさっとよ、汽車に乗って。・・・東京って知らんとか(知らんのだろ)」

少年「シットォ(知ってる)」

叔母「知っとんな。何処な?」

少年「(必死になって話しかける)オジチャンニキイテモヨカガ(叔母”よかが、聞いても)オジチャンドンナ番組ガアルデショウ、東京ニハー」

土本「東京? ここで見るのはみんな、あるよ」

少年「(突然話をかえ) アノネ、オルガ一番大キライナ人ハネ、心ノ中デ考エ・・・何デンカンデン心ノ中デ思ウヒトガ大嫌イデシュ」

叔母「自分の事ばね、”あの子は病気“ ちゅうことばいうとがね(感情むきだしで少年の言葉の意をくりかえす) 病気って蔭でいうとばねえ、ううん!」

少年「東京ハ、ドンナ事ガアルデシュカ?」

土本「東京はね、海がねえ、汚ないの」

少年「ウッフン、知ッテルデシュ」

土本「知ってる? 偉いなあ、・ ・ ・ 色んなものが浮いてね」

少年「デモネ、イナカデモ、田舎デモ、デンデン、ソンナ海ガ出テグルデシュ」

叔母「田舎にも、そんな海がだんだん出てくるでしょうって(土本溜息)・ ・ ・まあ本当やもんね・・ ・」

土本「きみは利巧です。小父ちゃんはそう思います」

叔母「ありがとういわんか、ほい、ありがとうって」

少年「(にっこりと笑って、照れながら)ラウモ、アリガト(どうも有難う)」

149 叔母なる若い主婦は快活そのもので、わが子のようにいとおしんでいる。少年、自分のことを話されると、恥かしくて、服で顔をおおいかくす。しかし、その顔に楽しそうな笑顔が絶えない。

土本「いつもあなたとはよく話しますか?」

叔母「はあい。わたしゃもう、分ったごつ、人並の人と話すごつして話すとです。おしめ代えてやったり、何したり・・・・やっぱり、結構、相手になっとですばい。わたしや昼ひとりですばい、いつも、ほいでテレビでん見ながら、もう結構話相手になりますとです。そいで、” お菜ば何にするかいね“ ちゅう時でも、もうよか智慧ば持っとるとです。。。(間) ・・・悪か智慧もあるとですばい。(少年”ゴメンナアイ・・・”)(祖母”油断すればあんた・・” 女ふたり声をたてて笑う)」

叔母「その、うち、わたしがうちの子が学校にいく(わが子)のにオヤツばね、買うとくどがなっせ、油断したならやってくるとですたい。(少年頭をかくしたまま笑う)・ ・・ やはり、こげん病気になっとらんば、やっぱり、人並の子になったじゃろうと、わたしは思います。漁師どんとにすっとは勿体なかごたつたですなあ(と嘆きの下から笑いだし、落ちくぼんだ声に代って抱きかかえた少年に)しかたがないですね、仕方がないって言わんか?」

150 少年、瀬息をついている。突然「海は広いな・・・」と唄いだす。鴉二羽が干潟に降りて、ついばんでいる海の光景に「ウミハヒロイナ、ォォ、オオキイー(息が切れる) アッオオキイーナ・・・フ、フ、フネニノーオッテイキタイナ・・・ アア(呟きで)行キタカ! (突然別の話になる。家族のことを説明する)・・・ア、ア、オラガ、父チャンハ、イツモ、大キナフネコイデ、クジラト鯛ト(叔母”鯨と?えびじゃがね)ウウン、(必死になって自説をのベる)ア、ァ、ウチノ爺チャンハ畑ヲモットルデシュ」

叔母「ちょっとだけ嘘をいうてもいいかねというから、うんといえば、鯨と鯛ととりにいくつて(笑い出す) 鯛は・・・(祖母”鯛は本当ばってん、鯨はとれんじゃったで、こちらは・・・そげん嘘はいかん“ 少年”うん”」

151 少年と叔母と祖母、みんなで訪問者に語りかける。

叔母「何でこげんして、わるく・・・足てあんた、そぎやん歩けんごつなったんな?」

少年「オルゲンカアチャンガ、イヨ(魚) ヲタベテ・・・(叔母”魚をたべて?)ミナマタビョウキ・・・会社ガ・・ (叔母”うん、うん、水俣病・・・”)母チャンガ・・・母チャンガ・・・毒ヲ流シタカラ・・・オルガ母チャンガ食ベテ・・・ウン、ウン、ソイデ・・・ウンウン・・・コゲン体ニナリマシタ」

叔母「ナアニ! 誰がいうてきかせなしたか(驚いて聞く)」

少年「カイチョウサン」

叔母「誰が?」

少年「会長・・・」

叔母「オォ、そんなこと言わした、会長(註・患者互助会一任派代表のこと、この一家はいわゆる一任派に属している) さんが言われたか? そりゃ本当じゃろかね、その話は・・・」

少年「ホントデ・・・ショウ」

叔母「本当ち思うな? ほう、ほんと・・・ (気をとりなおして) 直らんかったら、どげんするな、大きくなってから・・ねえ、ねえ(と問いつめる。少年、舌を出す。そして大きく、深い溜息がもれる)」

少年「モウ、ダメ。 モウ、ダメ。 (間) サヨウナラ(間)」

152 少年、畳の上で怪人物語の真似をして、空を切ってとぶ。ごろりごろりところげる。

少年「カゼノドウジマル、プン、プンププン(TVの少年番組のテーマ曲を口ずさむと)」

153 夕暮の不知火海大ロング。柔和に夜を迎えようとしている。

〇女児最重症児と両親

154 タ飼のひととき、上村さん一家、中学二年の次女をかしらに七人姉妹がずらりと食卓に並んでカレーライスをたべている。父親と土本、焼酎をのんでいる。その端で、おじやと汁の特別献立で、身じろぎもできない患児(長女)智子さんにスプーンで口もとに運んでやっている母親。にぎやかな団らんである。

スーパー ”患者番号九七 胎児性ー上村智子さん(昭和三一年生)

母「(笑いながら声高に)こん子たちが”錠ばつめとかんばん“って言いなっと。(註・映画にとられるのが恥かしいから、子供たちが戸を開かないようにしたという話)ねえ、小父さんたちの来らすけん錠ばつめとかんばんっち、ニ徳さんの家を出られるより早く・・・(子供たちも声たてて笑う)」

父「何か、祝い事のあるような感じですたいな、ガヤガヤと・・・。(無心にカレーをほおばる末娘)・・・お蔭さまで、みんなあとは、これみんな元気よく・・・元気かばってんなあ(土本”弾けそうだもんね・・・”)うん、智子を抱いて御飯くう時が最高やもんな(満ちたりた笑み)御飯くうたり、こう、一杯疲れにやる(焼酎を)うん・・・最高。もう別に何も考えん、感無量と言うとこたい(笑)」

母「・・・何度でも(註・病院に来るようにすすめに)来てくれなるとですばってんですねえ、ほれをしてお父ちゃんな”やることなか”っていわすもんじゃで・・・(間)わたしゃ、もう、ひと時、一カ月なりと入院させち見れば・・折角言うてきてくれらしたつで・・・そして智子ば病院に少しばっかり預けておけば、わたしも野菜なと作って、食べ、売って歩るくがといえば”いや、やるんごんなか”ってお父ちゃんの言わすもんじゃでなあ(笑う)・・・やっぱ、そして遣ったっちゃですね(入院させたところで)うちの智子の場合は、やっぱ、自分の家の人と他所の家の人と、・・・ このやっぱり、知っとるような・・ ・状態ですもんじゃけん、親の手許に隠いてでん泣くとじゃけん・・ ・病院に智子ばかり(だけ) やったら、いくら泣くじゃろかち言うてですね・・・。(子供たちの顔をみながら) 自分たちばっか・ ・・そのォ、家にゆつくらと、そのォ、寝る暇も、やっぱりなかろうちゅうてですねえ・・ ・そぎゃん言うて、今までずうっとやらずにおりました」

155 さわがしい雰囲気の中で、ゆったりしたベースで智子ちゃんが食事している。

土本「ほんとに明るいですね、この家は・ ・・」

母「(けたたましい声で笑う) あたしが小さか声で何でん言われんですけんもんで・・ ・何でん、やっぱり(笑う) 子供ば連れとる親のごたあなか、ちゅうて、皆がですねえ(笑う)」

156 スプーンで軽く口びるをたたいて、流しこむ。のどの奥に入らないで、ロもとにあふれるのを再び口にしゃくって入れる。

父「・・・まあ一番長女で、いちばん小さかったでしょうが。・ ・だからまあ、その、親としてはこれが一番、もう頼りなんですよね。だから”子宝“ というんは、そういう風になったんじゃなかですか・・・人間ちゅうもんは、何かその、一番先に、まあ、産んだ子供が、やはり、そのォ、”宝“というんじゃないんですか。哀心ちゅうですかね。母性愛ちゅうのが、特にその子に要求しとるところがあるんじゃないか・・・だから”たからご(宝子)”ってつけたんじゃないですか・ ・ ・ 」

母親、智子の長時間の食事に倦むところがない。

「やっっぱもう、堅かやつ(食べもの) はですね、もう胃でも悪ならせんじゃろかと思うとですねえ。やっばもう一度炊いた御飯ば、汁とこう・ ・・。やっぱ、もう、いつも炊き込みに、野菜でん何でん切り込んで炊いてやるとですばってん、やっぱ二・三日越しによってですね、やっぱ厭くそうなもので(ニ、三日つづけると厭いて) ”食ベん” ち言いよりますもんで・・・ 、やっぱ白かじゃなからんとですねえ。”食べん” とは言いは得んとですばってん、口ば動かさずにですねえ」

157 子供たちは食事が終って、父のひざにねころぶもの、遊ぶもの。

土本「お母さんとしてね、この子の次の子が生まれるとき、心配なすったでしょう」

母笑って答えない。父が身をのり出す。

父「そんなことなかったんですよ。というのはですね、次の子供が年子なんですよ。
(土本”なるほどね”)それからこれが、ええ。だからそのォ、この子がはっきりこういう病気であるという・・・ただ(母か分らんじゃったですもんね”)ウン、あの当時はですね、普通の成長だったんですよ。ここに写真があるんですけどね、大きいんですよ・・・普通の成長だったんですよ」

158 食べあいて、少女、うっすらと笑みをうかベ、ウワアーといった声を洩らす。静かな表情である。

「(土本) この家は、この智子ちゃんの下に姉妹六人います。お父さんはチッソの下請のトラックのドライバーで、遠く博多とか大阪まで行くそうです。ところが、その給料は、大へん格差があって、チッソの本雇いの約半分だという話です」

父「・ ・・ぼくなんかで、現在の賃金なんかもう白状します、千二百円です、一日に。朝八時から夜んベまで働いて千二百円です。そうすっと一カ月働いて三万円・・・ ですか?どうしても三万円位の不足なんですよ。だから千二百円現在とる・・・ 三万円位不足だから、その三万円を時間外労働で補うわけです。人が、一したならば、こっちは三して帰らんことには生活できないという気持でもって、いわゆるこう通うとるような状態で(智子の声かさなる)」

159 母に抱かれた智子ちゃんの頬にえくぼが出来る。眼は見えない。息をすうときにのどを鳴らし、吐くとともに一声長くひっぱる。それはうめきのように聞こえる。

「(母)こんなに言うときは機嫌のよか時です。機嫌の悪かときは泣くとですが・・ ・声ば出してですねえ。・・・やっぱ、いつもこう、知っとる人ば来ると喜んでですねえ”ニ徳さん(向いの患者) の家ィ遊びに行こうかあ“ て言えばもう喜んでですねえ(智子、大声でそれに応えるかのよう) はいはい、泣きおったっちゃ喜んでキャッキャッ言わすとです。(智子にかたりかける) ネ! ネ! 二徳さんの家ィ行くけえたいね、遊びにね、”智子来!“ ち言いんしゃるよ・・・ 二徳さんの・・ ・トモ子! うん?」

土本「よく分るんですね」

母、智子の折れまがった細い指を習慣のようにその掌でもみながら

「ほんなこつですねえ。言うたり、そげんことは、ちいとは分りそうなもんでですね。自分が言いはならんばっかり、(笑)わたしが言うた言葉ば、もう分らんば(分らずには) こんな笑うたりなんかしませんとですもんなあ。少しばかりや分るとじゃろうち思うてですねえ。この・・・難かしか文句・・・ことばなんか分らんでしょうばってんですねえ(娘、声をあげる)・・・いつも使う言葉はもう・・・知っとりそうなもんです・・・(子供たちのはしゃぐ声)」

〇裁判

160 早朝の裁判所、前夜から傍聴券をもらう人が泊りこんでいる。

スーパー”昭和四五年一〇月一六日熊本地方裁判所“

まだ開廷前に時間がある。傍聴人と廷吏との聞に、傍聴券についてのやりとり。

廷吏「役所ですから、あまり・・・」

傍聴人A「(関西弁で)少くともね、公開の原則からいうたらね、あなたがたが、そのお、国民の皆に見せることが出来ないというならば、何故できないかということを明らかにして下さい。・・・」

傍聴人B「公開の原則をね、実行しようとされなかった証拠をひとつあげますけどね、あの法廷に椅子が二つ壊れている。それをずうっと直さないでいつも空席になっている。それだけみてもですね、あなたたちに誠意はありませんよね」

廷吏「それはあの、修理してる」

B「いや、だが何回でも・・・」

廷吏「ええ、今してあってございます」

161 正門の入口に「怨」の旗が数流、熊本、福岡、大阪、名古屋、東京と運動の全国的な波及を示す。
患者さん一行、到着。拍手でむかえられる。
皆気恥かしさのまじった顔で上気している。

日吉フミ子市民会議議長の、患者紹介の一節がその群衆に流れる。

「どうも有難う。一ニ枝ちゃんのお父さん、宮内さん、宮内辰蔵さんでございます。ーそれから御主人がやっぱり杉本進さんといって、去年の八月亡くなられました。それから奥さんも患者で、えまあ、今はこう何だか丈夫そうにしておられますけども、茶碗を洗うのにも、次から次につつかえてしもうて、一つも茶碗は庇がないのがないという御方なんです・・・」

162 裁判所前庭、廷吏にたすきをとれといわれて、浜元フミヨさんが抗議している。

「あの・・・支援の人に分るように、これ(たすき)をわたしゃ掛けとります。(仲間に)それを、あの、そんまま持って来て下さい。皆さんが信じてくれますでしょ?被害者と分るようにわたしゃ掛けとります。そして、外しません」

163 大法廷にむかう患者とつきそいの列、入廷にあたってチェックが厳しい。
外でシュプレヒコールの声、くり返す。

「患者は怨は消えないぞォ。人殺し企業の責任を取らせるぞォ。患者家族とともに闘うぞォ」

チェックリストと氏名とつきあわされる患者さんたち。

164 法廷内の患者さん。開廷前、チッソ代理人にむかつて患者さんの声。

「それでも人間かい!」「元最高裁判事顔をあげろ、チッソの味方すんのか」
「(女患者の声)水俣病患者は耳の遠かけん、太か声で語って下さい」

裁判長入場。
大法廷外景、閉め切った窓、雨が降っている。患者側弁議士の弁論がつづく。

「・ ・・ところが十月十三日、永眠されたのであります。細川一博士は、当時、水俣工場の附属病院長という責任ある地位におられた人であります。その細川博士が勇敢に真実を吐露された訳でありますー。一つは昭和三十四年の十月に、この猫四〇〇号に、水俣工場から排出する工場廃液をめしにふりかけて食べさせた。ところが、この猫が発症をしたー」

165 閉廷後、碩学風のチッソ側弁護士、重役につきそわれて去る。

スーパー ”チッソ代理人 村松俊夫(元最高裁判事)”

166 裁判所前での小集会。大阪代表の中江さん、マイクで。

「・・・わたしは、皆さん方ひとりひとりの、この十数年の筆舌に尽せぬ闘いの中で、貴重なことを勉強させて頂きました。それは何か。もっとも単純ではないか・ ・・人殺しはチッソではないか。それを隠して隠して隠し続けてきたのは、われわれを含むところの、政府、役人、あるいは頭の弱い学者ども、そうした人たちではないか? 私たちは皆さんが、こうして闘い続けてきたことによって、本当に人は人である。人間は人間であるということが、どんなことであるかということをー」

リーダーの声「・・・水俣病を研究しつづけてこられた細川さんが、お亡くなりになりました。細川さんの霊にむかつて、ここに黙祷したいと思います。黙祷!」

一同、祈る。そのまわりにクラクション。

〇御詠歌練習始まる

167 夜ふけ、月の浦、松本トミエさん方。
戸ごしに、田中老人ほかおばさんたちが数人。
水俣病犠牲者のために唱え奉る、追悼御和讃ー。・・・やりますか?

168 御詠歌の写しを手にしているが、皆、はずまない。老人ひとり手本を示して唱える。朗々として哀切きわまりない。

スーパー ”患者、実子さんの父、田中義光さん(元僧侶)“

人のこの世は永くしてかわらぬ春と思えども・・・

上村「ほんに上手ばいなあ」

松本「わしら、うたは、いっちょう知らんたあもんね」等がやがやしている。

女たち斉唱、甚だしく調子はずれである。

しかはあれども御仏に
救われていく身にあれば・・・

指で拍子をとりながらうたう。
しびれる口許をぬぐいながら女の患者さん。

スーパー ”患者番号三四 江郷下マスさん“

田中の声「一番難しかじゃもんね、こりゃあ、覚えるとにですたい。半年かからにや覚えんとです・・・人間は生まれてくる時”あ”といって生まれてくると、いうことで、そいでまた必ず”あ”というて地イ 戻っていく・・・」

169 練習より雑談の方に活気があるー。

浜元フミヨ「ちっともヨカ風にならんとばい。あんたについていけんとばい。はがいかじゃってん(じれったくて)」

田中「われがはがいかじゃちゅうと、・・・はがいかちゅうとは自分がつまらんということじゃって・・・ながあくもっていかんば(節まわしを長くひっぱらねば)」

浜元フミヨ「長くいわれんたっとたい。あんたが長くなるばってん、こっちは、ちいと短くなるばってん」

田中老「いいですか(再び模範を示して)
熱き涙のまごころをオーオオーォ、
これをいわんとー(笑)
このオーォーをいわんで這ってくもん(先にいってしまうもん)な」

平木トメ「(しみじみと)音がなっとらんもんね・・・・だいたい。明治時代の歌なら何でん知っとるばってん、今ン歌はもう、おどま知らんもんね」

田中「ま、いっちょ押しの足らんとたい・・・」

浜元フミヨ「ま、いっちょ?おりゃ、しまいには苦しうなったけん・・・」

田中「ほう
思いわずらうこともなく、ウーウウーウウー
”早かぞ”
とこしえかけて安からん
南無大師遍照尊
南無大師遍照噂・・・・・・」

170 右御詠歌につれて、各人の登録名の記載を終えた一株券の束、その分厚い株券。

〇両親を喪った衝撃の回想

171 資料の8ミリの複写、昭和三一年に狂死した浜元惣八さんの生前の症状記録。
全身ふるえがきて、よだれをながし、狂人そのものである。

スーパー”熊本大学 水俣病研究班 撮影”

172 浜元家の人気ない室の奥、仏壇に両親の写真が飾ってある。

スーパー ”患者番号四九 故浜元惣八さん。
患者番号五八
故浜元マツさん“

それに浜元フミヨの声。

「・ ・・あの、親を突然ふたり亡くして、もう、暮の闇と一緒でございました」

173 裁判所にむかうバスの中の浜元フミヨ、男のように太い視線を宙にむけている。

スーパー ”遺族 浜元フミヨさん“

「・ ・・もうあの、チッソの会社が憎くてですね。わたしはもう、今度、大阪の、あの一株運動にいった時には、江頭社長にですね、”もうあんたは、四百万で、私がここで命を買いますがー”とわたしは言ってですね、もうひと言でもふた言でも、狂うて来ようと思って、あの今度いくわけです」

174 弟二徳さん、海のみえる丘のミカン山をのぼっている。その足もとは、ひどいちんばである。発病当時の回想の声重なる。

「魚の餌を担いで行くのに、汽車道をーこの歩く道にしとったですけれども、その汽車道をいつも、毎朝担いでいくにも拘らず、その朝はですね、あのう、枕木に躓いたもんなあ。で、おかしかねえ、躓いたちゅうことはー別に今日は沢山、あのォ担いでる訳じゃなかったがねえーちゅうところで、ずうっと歩いて行きよった。そしたところが、また海にくだったらまた石に躓いたですもんねえ。やられたてこりやおかしかねえち、ぼくは思うた。ーそこで変に思うたのは、この手に痺れ感を感じたんですよ。すでに簿れ感はきとったけれども、そのォ躓いた、二回も躓いたから、おかしかなあと思うてから、あ、こりゃ変な病気になっとるなあち・・・」

175 ミカンにかまきりがとまっている。剪枝しながら、早熟ミカンを試しに食べるニ徳さん。いかにもうまそうだ。

「・ ・・そうなあ、ぼくはもう、三十三年の十一月までは勤めとったんです。その勤めよっとるなかに、入院をし、退院をして働く、或いはもうきついからまた入院せんばならんちゅう中で、年々と悪うなっていくような状態でー去年よりも今年、今年よりか来年っていう風で、ずうっとこう悪うなっていくような状態ですもんなあ・ ・・父が言うことには、天草言葉で、まあ体の弱いっていうことを”よじようれ” て言うもんなあ、天草では。 ” わっどまっち、よじようれじゃけ、そんな病気にかかるとたい“ち言われたんですよ、その時に、発病した当時に。どっこい、ところが、そりゃもう、あくる朝、父を起したら、もうすでにパアなんですよ・ ・・」

176 カンパ姿で、杖をたよりに鹿児島の中心街を歩く二徳さん。父の肖像が一瞬。

「・・・炬燵に坐ったままなあ、こう胡坐をかいて坐ったまま、こうして家のまわりを一回、ぐるりーっと、こう見るわけなんですよ。”おかしかねえ、変なことをすんねえ”と思ったとですたい。が、ところが”イマナンチナ”ち、もう今度は口がかなわん(きけない)訳なんですよ、全然かなわんとです。”今、四時半”ちいえば”ナァンジ!?“ち、もう耳が遠いばかりになっとるんですよ。今度は、こう、起ったところが、僕の今のように、ひょろひょろっとするんですよ、この体が。”やれえっ、こら、ほんなこっ、お父つつあんは、この奇病に罹られたっとばいねえち”、もう驚いたですよねえ・・・」

177 再びミカン山の斜面をのぼる彼。一瞬、母親の写真。

「・・・そいから、そういうような状態で十日ばかり遅れたら、また兄貴が、お母さんを今度連れて来たですもん。いやあッ、こりゃ、お母さんも連れて来おったとは・・・もう俺はほんのこと泣いたなあウワンウワン・・・兄貴と二人で」

178 鹿児島 桜島大ロング。

179 患者さん達、たすきをかけ、カンパ箱をもって街頭に立つ。時「お花まつり」で賑い、市中にパレードと大群衆。しかし、一行を気にする人が少い。二徳さん、空にむかつて叫ぶ(スピーカーで)。

「・・・わたしの体を見て下さい。わたしは永久にこの公害病気になったのであります。そしてわたしは、毎日毎日、苦しい生活を、また苦しい闘病生活を続けて今日は鹿児島に街頭カンパに参りました。わたしたちは、このような公害を、住民、市民ひとりひとりに、なん人でもなしていいものでしょうかと思い、この公害の恐ろしさを、皆様方の目の前に見せ、そして、皆さまがたの、水俣病に限らず、公害というものの恐ろしさを、知って貰わんがためにやってまいりましたー」

市民はパレードに寄っている。心細くたちつくしている老人男女の患者たち。
別の訴えも少年ブラスバンドのドラムの音にかき消されがちになる。

「水俣病患者は裁判を提起して闘っております。水俣病訴訟支援のためのカンパをー(ドラムの音)ーお願いいたします。いつまでもたのしい”お花まつり”を楽しめるために、全国民も公害企業に対して立ち上りましょう・・」

ドラムの音の方が強い。花やいだ少女たちの衣しように微笑をうかべている故溝口トヨ子の母親。

180 俯瞰してみる。カンパの一行、浜元二徳さんが訴えつづけている。カメラ、鹿児島の全市から、水俣上空に飛ぶ。海よりチッソ工場の心臓部に迫る航空撮影。

「・ ・・ わたしのような体になし、また、人命を奪うような企業に対し、このような害を流さぬように、一生懸命起ち上がっているのでございます。ー今や日本国中には”公者・公害”、一も公害二も公害と、テレビ・ニュース・ ・・小説の上に出てきますが、公害といっても(絶句して) 口では公害というけれども、ものすごうおそろしい病気なんです。・・・私は毎日、毎日苦しい生活を、また苦しい闘病生活を続けて今日は鹿児島に街頭カンパに参りました。(工場の中にカメラ入る) わたしたちは、このような公害を、住民、市民ひとりひとりに、なんびとでもなしていいものでしょうかと思いーこの公害の恐ろしさを皆さまがたの眼の前に見せ、そして皆さまがたの、水俣病に限らず、公害というものの恐ろしさを知ってもらわんがためにやって参りました」

廃ガス塔が劫火のようにもえつづけている。ブラスバンドのドラムの音が叩きつけるよう。

「わたしのような体になし、また人命を奪うような企業に対し、このような害を流さぬよう、一生懸命起ち上っているのでございます。・・・今や、日本国中には”公害・公害“ 一も公害二も公害と、テレビ・ニュース・ ・・小説の上にもでできますが、公害といっても・・・ 口では公害というけれども、ものすごうおそろしい病気なんです」

声、エコーとなって響く。工場に迷走するパイプライン、小山の上の墓標をめぐり山頂の煙突となって全市を暗くしている。

〇未認定患者

181 茂道部落、軒をつらねた漁家のたたずまいを見ながら、未認定患者川本さんと土本との対話。

「(土本)未認定の数というのは相当ね、沢山居るはずでしょ?」

「(川本)はい、あっちこっち、患者さんの家庭を回ってみただけでも、やっぱり、あの症状ははっきり、こう、素人の眼で見ても分る人達でさえ、やっぱり、あの、今でも申請せずにおる。あとでよう考えてみたら、あの、唇のまわりをしょっちゅう舐めていたとか、履きものがよう脱げおったとかちゅう、そういう年寄りの人が沢山おる。そういう実例が沢山あるわけです」

土本「石田君なんかの場合、生まれた時から、水俣病ということでは考えていなかったんでしょうか?」

182 湯堂部落の陽だまりで、少年と遊んでいる石田君。小頭児のようで、痴呆的である。

スーパー ”認定申請番号五 石田泉君(昭和二七年生)”

「(川本さんの声つづく) 石田君の場合は・・・お母さん達は、不安感とか疑問とかはあるにはあったらしいんです。お父さん自身もその、煙草を手に持って吸っていて、煙草が落ちても分らんぐらい手も薄れとると。水俣病多発のあの、湯堂という部落の中心地におって、あのてそれこそやっぱり漁業で生計をたてておった人達ですから、そういう影響を当然免れ得なかったじゃなかですか。泉君の場合にも、お医者さんの診断では、あのオ”病名不詳“で、(註・水俣病の) 審査会では「ダウン症候群」とかという診断名を付けてあるだけで、別にそういう説明すら家族にはしてないし、まあ家族としても、どうしても納得できないから、もう少し詳しく調べてもらいたいという要望がやっぱり強かですね、おとうさんおかあさんにはー」

183 水俣市より数キロ北、津奈木町、赤崎部落、そこを訪ねる川本さん。

スーパー ”認定申請番号一五川本輝夫さん“

「(土本の声)このあたりは非常に辺鄙な漁村で、水俣の人たちですら、あまり訪ねることの出来ない所です。で、自分自身、未認定患者である川本さんは、こういった所にまで足をのばして、埋もれた患者を探して歩いています」(海の音)

184 諌山さん宅、日当りのいい室に、病児孝子ちゃんが寝ている。手土産のお菓子をたべさせる母親と川本さんの対話。

川本「市立病院でな、そういわれたですか?小児麻痺ちゅうのは・・ ・」

母「はいあの・・ ・整形外科でですねえ」

川本「整形外科で・ ・・ ですか、小児科じゃなくて・・・」

母「(無表情に)どうか、足の恰好が、どうかあると思いましたもんですからお医者さんにそう申しましたんです、わたし、おむつ代える時にですね。」

185 母親中座したあと、川本さんと娘のみ。

娘に、スーパー ”認定申請番号二五 諌山孝子さん(昭和三六年生)”

川本「甘か物が好きじゃもんねえ、孝ちゃんな、甘いもんや柔かもんが好きじゃもんね。(孝子、うめき声)えーぇ、おいしいぞ。少しずつ食べんばねえ。オイチイカイ? (少女うめき声でこたえる)なる程(笑い) ほーら(口にはこんでやる) 早かとねえ、お菓子食うてしまうとが・・好きじゃねえお菓子が・・・ 。うーん。(少女、声にならない声で、もっと求める)そらお菓子やるよ、お菓子やるよ。はい、よいしょ・ ・・」

186 固くにぎりっぱなしの指、折れまがった足がそのまま固着している。時折、全身にけいれんが走る。

川本「・ ・・まあ、胎児性水俣病の子供さんのうち、智子(上村)さんなんか見とるばってんが、この子ォ見た時てほんのこてショックじゃったです、わしゃあ。この子ォ放っといたち言うのは、こりやもう、ほんと、われわれの責任じゃ思うた。こりゃあなア(間)・ ・・津奈木の松本病院なんかにかけてあったでしょ、やっぱり、そのォ最初は小児麻痺みたいなもので片付けよったとじゃなかとですか、結局。まして、その、生まれた時が三十六年ち言えば、もう一応、水俣病の問題は、その、一段落した風潮にあったわけですけん、水俣ではですなあ。その後、やっぱ、それ以後に生まれた子供だけん、そういうアレが特にこっちは強かったじゃろと思いますなあ、水俣とすれば」

土本「何でこの子が”未認定” になってるんですか?」

川本「結局、あのていわゆる水俣病の、その、熊大でいえば、二十八年に始まって三十五年に終ったちゅうことで、もう、全部片付いておるけんのお、殆んど。で、やっぱり、諌山さんにしても、三十六年の七月生まれですか、結局その、生まれとる年代と、その水俣病にすれば、認定の時間的なものが合わんとじゃなかでしょかなあ。それにしきゃ、わたしゃ解釈できんな、どうもー」

187 再び母親に抱かれる孝子ちゃん。

川本「(母親にむかつて)で、一番最初に気づきなさったとは・ ・・おかしかねえ、と生まれて間もなく、まあ、おかしかねえと気付きなさったとは、何で気付きなさったとですか?」

母「もう、要するにですね、最初から、もう、首がくたあっとしとりましたです」

川本「はあはあ、首が坐ってなかったー生まれた時から・・・。ふーん。その孝子さんがですたい、まあ水俣病じゃなかろうかァって思いなさったとは何時頃・・・そういう、そういった思いなさったことはあるですか、何時か?何時か?」

母「(彼女は能面のように表情をかえないまま) 他所ん人のですね、”水俣病に似とんなさるですねえ“ て病院に入院しとんなはった人の、隣におんなはったとの、水俣病して(になって) から来とんなはったが”あんたんとこのも、よう似とりなさるですねえ” って言いなさるとですもん」

川本「(認定申請の書類を手に) 今度の十二月のすえにですたい、もしも、その水俣病じゃないち、あの、言われてきた時には、とげんか、あのまた、もう一ぺん申請してみなさるですか?」

母「(力ない声で) そうですねえ。二回審査して頂いてから、挙句ですから・・・」

川本「(熱心に)そりゃあ、実際に水俣病に認定になった人がですたいな、なかには、その、三回も四回も、ひどい人は五回なんかも診察うけて、認定なった人もおる訳ですけん、一回や二回じゃ分らんとですたい、はっきりした話が。一回で認定にならんけんて、そぎゃん諦める必要はなかとですたいなあ」

川本さん伏目になって考えこむ。小首をかしげながら。

「・ ・・そりてほんの、その事で、今度は、まあはっきり、今度ア”病名“ ば聞かせてもらうか、ですたいのォ、おたくの方から。まあ、その位にせんば水俣病ちゅうのは認定せんとですばい、今のやり方では。(気づかいながら)・・ それとも隣り近所に対し、どぎやんか、あるですか?」

母「(口ごもりながら) 何んか、厚かましィ・・・ような気がしてですね(微笑)」

川本「厚かましかとね! それでは、あんまり子供さんが可哀そうじゃなかかな。あんたはそりゃ、あんたたちが、そりゃ、厚かましいとか何とかち、俺は思う必要なかと思うばってんなあ。(間)そうすっと何年頃結婚しなさつですか、お宅は?」

188 母、答えられない。美しい彫の深い顔が凍てついたよう。

「(川本さん、かたわらの土本に) 記憶力障害もひどいですな。記憶力ちゅうか、そのォ昨日、今日の現在のことを覚えこむとを記憶力ちゅうですもんな、普通。記憶力ちゅうのは、こう昔のことをやっぱりこう・・・でも昔のことを全く思い出さないですもんなあ。自分の子供の生年月日だとか、自分の生まれた年月日すら分らんような状態ですもんなあ、はっきり。その点ば考えれば、相当のやっぱ、重症のあれー記憶力障害ですな。うーん、やっぱり精密診断の必要のあるようですなあ・・・」

189 湯浦町女島、緒方さんのイリコ干し場。患児の両親と川本さん。あくまで静かな弧絶の海の感じ。

スーパー ”認定申請番号二二 緒方ひとみさん(昭和三四年生)”

若い漁婦の母、赤ん坊を抱きながら。

「・・・はっきり病名ばですね、言ってもらいたかですよねえ」

川本「うん、うん、そこですたい・・・ 」

母「なんか、これじゃもう、ただですねえ、もう何にも言うてなかとですけんね」

川本「今ン審査会ちゅうのが、十二名、先生のおってですね、全部その手ば挙げて賛成せんば、そのオ水俣病に認定されんちゅうとが、おかしかとですが・・・ 私に言わすれば、そりゃ、もう、一人でもよか、疑いを持つ先生がおったらですね、みんな偉か先生ばかりですけんなあ、この審査委員ちゅうのは・・・熊大の先生とか。その先生たちで話しをしなさっとるだけん。やっぱ一人でも二人でも、その疑いのあると思った人のおったらですね、こりやもうせにゃいかんとですもん。これが”伝染病”ならですなあ、ちいとでも疑いがあればすぐ放り込むとですばい。もう最初の水俣病と同じですたいなあ。”伝染病“ ち言われた頃は、みんな、そのォ、白浜の避病院(註・伝染病隔離病院)にぶち込まれたとですけんねえ。みなもう、患者が動けずに居るとに構わずに放り込んだとですけん」

父「はあ・・・何とか、その辺ば考えないかんとですなあ」

川本「はい、ほんとです・・・」

190 緒方ひとみ、家にむかつて歩いていく。その足もともつれる。

「(川本さん、声をひそめて、マイクに向い) で、この爺ちゃんは、あのて急性激症型の水俣病で亡くなっとるとじゃけんな。まったく、水俣病の家族のあれから言えば・・・・そりゃもう、一番注意せないかん家族やもんな」

夕凪ぎの海が光っている。

〇一株株主総会出発前後

191 回を重ねた御詠歌練習、(上村さん宅)それぞれに鈴を手にしての仕上げである。女患者の参加ふえる。

スーパー ”患者番号七三 杉本トシさん”

患児を抱いたまま練習するものもいる。石牟礼道子さんの顔もみえる。鈴の音が耳を洗うようである。

とこしえ 思い患らうこともなく
かけて安からん
南無大師遍照噂
南無大師遍照尊・・・。

192 出立の日の朝、婦人たちは上村さん宅に集まって、白装束に身をととのえる。手甲、脚半、あみ笠、その装束に、経文や”同行二人” の文字などが書かれている。

「おう、よかぞ。杉本さん、上等上等、おう、よかぞ」

甲斐甲斐しく準備をしているが、病人もいるため、はかばかしくない気配である。状

193 チッソ会社の”詫び状”全文。

拝啓
去る九月二十六日厚生省より水俣病は当社水俣工場の排水に基因する公害病であるとの政府見解が発表されました
当社といたしましてはその政府見解に従う所存でございます
水俣病発生以来今日まで長年にわたる皆さま方の悲しみや苦しみを思いますとき誠に申しわけない気持で一杯でございます
ここに改めて水俣病により死去されました方々とその遺族ならびに患者の皆さまに対し衷心より深くお詫び申し上げます
政府見解の発表によりまして今後政府としても種々対策を施されることと思いますが当社といたしましでも微力ではありますが誠意をもって遺族ならびに患者の方々に対しお力になりたいと考えております
尚この際決心を新たに今後再びこのような公害病を起さぬよう努力いたす覚悟でございます
敬具
昭和四十三年 十月
チッソ株式会社
取締役社長 江頭 豊
水俣病患者互助会
会員各位殿

〇巡礼行

194 水俣駅を出立する列車、ホーム一杯の見送りの人々。

195 広島駅前・カンパに降り立つ患者さん達、小雨がふる中で気恥かしそうである。
田中老人がひとり御詠歌をうたっているが、足をもとめる人もない。

196 広島・原爆ドーム前。

197 原爆慰霊碑の前で御詠歌を献ずる患者さん達。

198 人気ない原爆記念公園をゆく人々。
初めて原爆の恐ろしさをみて交々感想をつぶやき合う。

「えらいこっちゃ」
「見ただけでぞっとする」
「可哀そうじゃった」

199 尾道附近を通過する列車。
婦人たちの語り興じる間に大阪に近づくが、その予感はさまざまだ。
画面の外で、釜時良さんと同行新聞記者の会話。

釜「さて、どんな台風がまっとるかな。・・・風よ吹けば吹け、雨よ降れば降れっち」

新聞記者「いや、雨やんだね」

釜「機動隊の雨たい」

新聞記者「機動隊どのくらい待期させるんやろな。聞いた話によると、総会、八分ぐらいだというもんね。シャッター全部しめてね。カメラや何か全部入れさせないで・・・」

大阪に近づく。車内アナウンスが到着間近を知らせる。松本母娘が、身じたくをしている。房枝さん、かさを頭にいただいて可憐な巡礼となる。

〇大阪駅頭の交流

200 ホームに降りる患者さん。大阪・告発する会を中心に、旗、のぼりをもち、人垣をつくって患者さんの身辺を守るもの、その肩を支えにかすもの、異常な歓迎ぶりである。

スピーカー「皆さん方、拍手で迎えて下さい。患者さんです。患者さんの巡礼団一行の到着です。(拍手つづく)どうも患者さんの皆さん方、御苦労さまでした」

人垣にむかつて、渡辺老人ー

「・・・明日のチッソの総会には、なるかならぬか知れませんが・・・やるだけやって、皆さんがたと、ともども、永久に闘いたいと思います」

一刻、十一番ホームは水俣病告発の人々で占有される。

201 駅前広場患者さん及びつきそいの巡礼者一列に並び深々と頭を垂れる。

日吉フミ子「(旅の果てに、ある感慨をもって)・・ ・大阪駅での皆さんがたの、熱烈なる歓迎に迎えられまして、わたしはもう胸が一杯でございます。患者の皆さんをお連れするのに、随分なためらいがございましたけれども、ここに、みんなを連れてきて、よかった! と、全国の皆さんがたとー支緩の皆さまがたとー患者と会わせるだけで、十分であったような気がして、なりません。(涙ぐみ)どうも有難うございました」

老いた女の患者さん達、涙をぬぐいさるいとまなく鳴咽している。静かに御詠歌が始まる。その中から副団長の田中義光さんの挨拶ー

「わたくしたちは、水俣という貧しい所の田舎っぺでございます。はじめて、皆さん方の暖かい心を悟ったということを・・・腹の底から何かが湧いて、どうも、あなたがたの一人ひとりの顔が、千人ほどにも、わたくしたちの眼には見えてならないのでございます。わたくしたちはいま、青鬼・赤鬼のおるところの、土地に着きました・・・」

202 チッソ大阪本社へのデモ。黒い流し旗が近代的なビルと対照的である。御詠歌をとなえる患者さんと、シュプレヒコールをするデモの人々。日吉さんの声。

「爺ちゃん、(渡辺老人に) 駅に、あんなにむかえにきとるとは、思わんじゃったろ?」
「うん」

203 大阪本社前、そして代表が面会にゆく。新聞記者のカメラ、ライトの輸の中で、会社の役づきの人とやりとりー。

川本「あなた、川村さんでしょ。顔に見覚えありますもん」

釜「私は父の怨みをもってここまでやってきました」

川本「チッソは責任をみとめますか、ウン、ウンじゃ分らんですよ!」

会社「・ ・・社長が皆さんにちゃんとお答えするようにしておりますから・・・」

川本「いつもそんな、のらりんくらりんじゃ、わたしたち(どもる)どうしてもわたしたちは、とても、納得できん」

会社「(平静に)社長がちゃんと明日ね、皆さんにお話し申しあげるーーということにしておりますから・・・・・・」

〇総会の日

2004 大阪厚生年金会館の全容、テレビ中継車が陣どっている。

スーパー ”昭和四五年一一月二八日 午前九時”

ヘリコプターの低空飛行の爆音が圧している。
会社によって動員された役職者が百数十名列の先頭を作っている。告発の会、支援の人々が演説しているが、爆音にかきけされて分らない。
右翼が鉢巻きで、列になぐりこみをかける。

「赤い野次馬の手先になってはなりません。彼らの目的は、革命にあります!」

205 患者さんが、”防衛隊”の作っている人垣の道を通って入場する。それぞれの顔に興奮がみられる。
会館の前、TVが患者さんにインタビューを申込む。俯瞰でみる白いあみ傘が半円を描いている。

インタビューに吶々と応える浜元二徳さん。

浜元「今日は、日本全国の皆さんも、集中していらっしゃることと存じます。わたしはこの十数年間の苦しみを、また、父母の、すべて水俣病患者に対しての怨を、ここに社長に対面し・・・対面して・・・ウーン(絶句)」

TVアナ「あなたのお体は?」

浜元「ぼくはこの水俣病に罹り、だんだんだんだん年々と悪くなって、もうあと二・三年したら、動けないような状態になるんじゃないかと思って、自分で不安でたまらんわけなんです・・・」

TVアナ「御家族も水俣病患者さんで?」

浜元「はい、ぼくの両親とも、亡くし、両親とも亡くして、現在こういうような身体なんです・・・」

TVアナ「(全くよそよそしい声で)失礼ですが、治療費それから生活費は?」

206 午前十一時入場開始、なだれをうって入る人。持物を改めようとする係員、乱れの中に患者さん入る。宇井純さんが係員に喰ってかかっている。

207 会場内、開会前、すでに満員の席、通路まで人があふれている。

激しい声「場内整理!どうした木偶の坊!」「早くやれよ」

患者さん、ひたすら、御詠歌をとなえている。

”告発”の指揮者の提案の声ー。

「大会に於て、大会冒頭において(註・患者さんの発言を求めても)彼らが応ずるか、どうか分りません。われわれは、大会に要求します、けれども、その前に、われわれはここで、全員でですね、ここで黙祷を捧げたいと思います。(間)・・・黙祷!」

全員、黙祷する中で、患者さんだけが鈴を持って、起つ。静寂の中で、「追悼御和讃!」と、田中老人の声。

人のこの世は長くして
変らぬ春と思えども
・・・しかはあれどもみ仏に・・・
救われてゆく身にあれば・・・
(満場、首をたれる中で、肩をふるわせ、涙にむせびながら、和讃は確かに人間の魂魄の部分につきささっていく)
思いわづらうこともなくとこしえかけて安からん・・・・

208 定時開幕。
十数名の役員居ならぶ。中央に起立する江頭社長、壇上右手に、事務局。場内の最前列に会社側要員と右翼、総会屋たち。騒然たるうなり声の中。

「私は当社取締役社長、江頭、豊でございます」

総立ちになる人々。

日吉フミ子、鈴を激しく叩いて、大声で。

「みなまたびょうかんじゃに、はつげんさせて、ほしい!」

ホラ貝の音。
壇上、江頭社長、どんどん発言をすすめてゆく。”事務局“と書かれたテーブルの男、書類をよみ上げ、どんどん議事進行してゆく。

日吉フミ子「水俣病患者に発言させてほしい!」
野次「・・・何より先に、水俣病患者に発言させろ!」

総会屋が棒立ちになって、場内を制する。渡辺栄蔵さん、自席からスピーカーをもってしゃべろうとするが激しくせきこんでしまう。場内の声が社長に投げられるー。

「発言させんか」
「水俣病患者、患者に発言させんでは・・・チッソの総会は成立しない」

江頭、余裕をもって議事を進めてゆく。

日吉フミ子「水俣病患者の、十七年の怨みを、この場で述べさせよ!述べさせよ!」

釜さんが爺さんよりマイクをひきつぎ、
「死んだ体をもとにして返せ! おい! どうしとるかー」

209 議事の終りが、あっという聞に近づこうとしている。一株運動の提起者、後藤孝典さん、緊急動議の議案を手に壇上に上ろうとして、足をひっぱられ激しく蹴りあう。それをきっかけに、支援の青年、学生、壇上にかけ上る。

吊棒からたれ幕が下り「予定通り議事は終了しました。これより説明会にうつります」の文字。それをひきちぎりふみつぶす学生。「貸借対照表・ ・・」と叫ぶ事務局。

その光景を見ながら、再び巡礼の席から御詠歌が湧き出る。渡辺老人、黙然と眼前の状況を、その眼に灼きつかせている。

はかなき夢となりにけり
熱き涙の真心を
みたまの前に捧げつつ・・・

壇上、総会屋が必死の防戦につとめている。

「社長に・・ ・あなた方の発言をさせます。(大声で) わたしは総会屋です。全責任をもって、あなた方のいうことを聞いてあげます・・・。」

社長、ふくみ笑いすらしながら事態を静観している。

総会屋「機動隊が入ったら駄目になる!機動隊が入ったら駄目になる!」

やや静まった頃合いをみて「説明会」の議事に入る。

江頭社長「・ ・・ これに対する当社の考え方を述べさして頂きます。まず第一に、水俣病の責任を、チッソは、チッソにあることを何故認めないのか、という御質問に対しましてお答えいたします。水俣病に関しまして、わたくしどもは、患者の皆さま方に対しまして、まことにお気の毒に存じております、(場内一せいに怒号おこる。批難の拍手、足ぶみで一切きこえない)」

釜さんが高々と詫び状をかかげ抗議する。
再び壇上にかけ上る人。渦まく人に支えられて数人の怠者、社長に近づく。
社長は、患者の前に押し出される。彼は口もとに冷やかなゆがみを見せている。
患者の女の人たちが、狂人のように追っている。
二つの位碑、父と母の仏を手にして、浜元フミヨがひざまずきながら、声にならない声で取りすがる。 総会屋は外にはじき出され、人々の作った輪の中、社長と浜元フミヨさん達の対決の場になる。まわりの騒音、殆んどなくなり、声のみのこる。

「・・・あんたも親でしょう!よう、分っとりますか! よう分っとりますか。あんたも人の親でしょ。両親ですよ、りょうおや両親、人がなんといっても両親ですよ、分りますか? わたしの心が分るか! (場内水を打ったよう) 何ちゅうたか、俺がいた時は何ちゅうたか、三回も頭を下げたんが忘れたんか! (社長”だから仏前にまいって・・・”)仏前に参っただけでは、つまらん! (声のたけをふりしぼって) 笑うな! いま笑うた! (社長”笑つては・・・”)笑うた!おら笑うことどま言うとらんぞ! 笑うた、いま笑うた! りょうおや・・両親、親が欲しい子どもだけ、親が欲しい子どもだけ! 分るか、おるが心が!親が欲しい子どもにまた親、その親、こども・・・ (ことばの輸になる)親・・・ こども。年寄りもおったんだんよ、年寄も、自分が身だけじゃなかったぞお。よう分ったか、出月の浜元じゃ、浜元! 分るか、おるが心。おるが心、わかるか!」

四囲、黙然と滝にうたれたように動かない。
社長の胸もとにとりつき、うらみは果てない。

「・ ・・どげん、苦労ばしたと思うか、苦労ちゅうか、何ちゅうか、口では譬えはでけんぞお! (一段と声をふりしぼって) 金では、いのちは買えない! 弟は片輪! 親は両親!弟は片輪といってひとは嗤う! 親は(ぶっ切れる)」

〇エピローグ

210 空にとんびが直降下する。

211 渡辺老人と杉本トシさん、ミカン山の下草とりをしている。今年のボラ漁も終りに近い。夕方のボラダンゴ投げに数隻の小舟、一せいに沖にむかう。破れ帽子が杭の上にある。一休みしながら渡辺老人、この地に伝わる魚の喰い方の話をする。手ぶりを入れながら・・・

「・ ・・非常に太万(魚) は食いよかわけですな。そのォ大きな、ボラとか鯛とか言うとなら・・・・そりゃ、骨が多かけんな。太万は比較的食いよかばってんな。口の先で、こう(口もとで真似をしながら) 背骨をこう、歯で取ればですな、こう、箸ではさんでおってな。そうすると身がとれちまう。そうすると、子供にでもやるとき、背骨の骨の方を箸でつついてとってやれば、あとは腹の方の骨は、親がやらんじゃ、細かかけんな。(背後に出船つづく)・・・それから、こっちでですな、”茶づけ“ ちいうてですな、刺身をですな、しとって、その、ボラに熱かお茶かけて、そのォ、茶かけ飯で、ボラをお菜にするですな、それも、美味ですよ」

話の半ばから、風の音にまじって、田中老人の御詠歌が朗朗と流れてくる。

212 沖に漕ぎ出す小舟の上で、ボラの団子をこねる一家、男の子たち。舟は漁場に走ってゆく。夕方のきまりである。沖には、昼聞入れたボラ籠をひき上げる夫婦舟の人々、夜のボラのために、自分の網代にボラを投げ撒く裸身の男たち。烈しいエンジン音に見えかくれしつつ、斉唱の御詠歌がこもごも流れる。

人のこの世は永くして
変らぬ春と思えども、
はかなき夢となりにけり
熱き涙のまごころを
みたまの前にささげつつ
おもかげしのぶも悲しけれ
しかはあれどもみほとけに
救われてゆく身にあれば・ ・・
不知火海の夕暮れに、エンジンの音木霊して、終る。

213 字幕”水俣患者さんとその世界“

(引きつづいてクレジットタイトル)

製作 東プロダクション
高木隆太郎
重松良周
米田正篤
スタッフ 土本典昭
大津幸四郎
久保田幸雄
一之瀬正史
堀傑
関沢幸子
浅沼幸一
スチール 塩田武史
水俣病患者互助会二九世帯
水俣病市民会議
水俣病を告発する会
録音 TEA
現像 東洋現像所

ー上映時間二時間四六分ー

(シナリオ採録、昭和四六年五月 責任 土本典昭)