発端から映画まで 上映用パンフ 東プロダクション <1971年(昭46)>
 発端から映画まで 上映用パンフ 東プロダクション

 「地獄の底までつき合うか? 」と水俣在住の赤崎覚氏は、クマ焼酎をのむ度に私の心胆を寒からしめる。水俣市民、不知火沿岸の人は、きっと徴量にもせよ、不顕性水俣病かも知れない。
 これから映画をとるのだと思いつつ”水俣“ を見まわした頃、"水俣”への入り口は無数にありそうでいてこれだという緒口をみつけだせなかった。”水銀の海” ”奇病地帯” ”怨念“ ”十八年の苦難”、所詮、健康で他所ものの人間である私たちが、どの戸口の扉をひらこうと、途端におでこをぶつける妄想におびえるといったていたらくであった。
 私たちの選びとった方法は全家庭の訪問である。そしてその最初の入り口を、すでに亡くなられた方々から始めた。十八年の歳月の作用で、日常、明るささえもっている遺族の方々であることに気持のゆとりをみいだしながらインタビューしていった。だが死にかかわる亡き患者さんへの追憶は昨夜のことのように生々しく、決して風化されていない。チッソへ、市・県・国へとさかのぼる話のディテールは鮮かであった。”水俣病“ そのものを忘れさせ闇から闇に葬ろうとする一連の太い動きに、単独で立ちむかつてきた個人の年譜があった。それが、私たちカメラをもつもの特有の臆した、後めたい自らの内部の空洞を充たしはじめた。次に大人、老人の患者さんたちに足を運ぶことが出来、十世帯、二十世帯と重ねるうちに、はじめて患児を、とくに最終的には存在そのものである最重苦の胎児性水俣病の子供の家の入口をくぐるに至れた。この日日の間々に、工場を、裁判を、患者総会をと撮り、最後に、未認定の患児に至ったのだ。水俣市を爆心地とすれば、それより更に辺境の津奈木、芦北の部落に、ボツンポツンと点在する家に、病名不詳のまま、まさに見てきた水俣病そのものの症状の子供たちをみた時、私は「世間が人を殺す」のを見た気がした。私のふれた「地獄」であった。のろのろとした怯じた足どりで至ったのはそうした現実の一片であったのだ。
 言葉で言えば、そのまつくらやみの現実でありながら、この映画が、もし患者さんのみずみずしい世界をうつし得ているとしたら、それは何か?全篇至るところで笑み、声を放って心のたけを語り、明るくざわめく人々の貌は何か, 息者さんの世界は「光って」いる。十八年、あらゆる辛酸をへてなお生き、生きることで、その全存在で闘っていることはかくも人間に対する普遍的な、つきぬけた明るさを育てるものなのか、私は驚嘆する。発光しはじめた人間たち、それとかかわった人間たちだからこそ、「告発」が生まれ、「苦海」が生まれ、ここに映画も感光したのだと思える。
 私たちは視野の手前に”病者“ をおくことを避けたいと希った。人間が手前にあり、その背が、おかされた脳の中枢が、その裏に見える。つまり、水俣病そのものを私たちは代るわけにいかない。しかしその光る人々を背負うことは出来よう。その意味で、嬉々として”今後“を思える”水俣”の映画なのだ。この思いがいく分でも表現できているとしたら、十八年後、のこのこと加担した”遅れてきた映画のひとたち“ のささやかな作業としては、一つの節となるのかも知れない。