『不知火海 巡海映画活動』計画趣意書 <1977年(昭52)>
『不知火海 巡海映画活動』計画趣意書

不知火海・水俣対岸部 および離島の(熊本・鹿児島)漁家集落における、水俣病の映画の巡海全地域上映と、その環境・住民の被害の実態と生活の現状を全旅程でとらえる 映画記録をセットとしての90日間活動計画

青林舎 水俣映画製作スタッフ 土本典昭 一之瀬正史 小池征人

はじめにこの行動の目的を明らかにさせていただきます。すこしくまえ、私たちは計画案に“映画による苦海巡礼の意をこめて”と行動を要約しました。その発心は今も変わるところがありません。しかし、今、これに加えて、水俣病をまず、最も知ることを必要とする地域の住民にもれなく見せ、その反応に応接し、それを正確に表現(ただに映画だけでなく)として記録し、水俣はじめ全国にもち帰ることにより、水俣病の今後を考える新たな展望の資料を映画行動でじかにつかみとることを目的とします。
一方通行としての上映だけでなく、人々の望む関係の道筋を聞き、それをもち帰りたい、それが主な目的です。私たちはこの対岸部や島々を、この12年水俣で映画をとりつづけながらそこにおもむくことが出来ませんでした。それを些かでも果たす志としての苦海巡礼であることに相違ありません。加えて、映画を作ったものの責任において、この地の人々の間に映画上映の回路とともに、人々とのつながりを新たにつくり、そのリアクションの正当な経路を見出したいのです。
5月末より六月上旬、予備調査のためこの地域全部をじかに踏査したスタッフ一之瀬正史、小池征人は要約次の三点をのべた。

一、 予想以上に水俣病事件と病像は何ら人々に知らされていない。
一、 この上映によってうける知識と、そのショックはかり知れない。どのようなつよい反響も出てくるだろう。
一、 この映画行動も重大だが、これによってひきおこれるかも知れない次の反響に対し、その責任を引きうけなければならない。その決意ありや否や、我々内部で問いつめないと……。」
正直、わたしたちに次の段階で対応など予測もつきません。ただ決意すべきは、充分な準備をなし、この映画行動を実行しおおすことにつきます。

――私たちは何故この地域の上映に固執したいか。
まず、私たちのいう上映地域とは不知火海の全沿岸部中、第一回の計画としては、今まで一部の運動的、あるいは医学的見地からごく限られた医療関係者がボランティア的に、又は純研究者として訪問もした外、全くその被害実態の未知な地帯である対岸部及び離島である。
現在、前図に巡海上映地帯を示しましたが、生活漁民の発症者は、大矢野島、八代、そして鹿児島県阿久根市までに広汎に分布しています。
しかし、最近まで桂島や、獅子島湯の口の全住民発症の事実は、自主的医療活動家の努力なしには明らかにされてきませんでした。むしろ稀有の例外です。私たちの入手している毛髪水銀調査(昭和25、26年)に何故、水俣でなく、御所浦の人々に人類史上最高ともいえる920PPMといった高蓄積がなされたのか。水俣病事件のピークとされた昭和20年前半を10年もおくれて、何故周辺地帯に昭和40年代に症状をうったえる人々が出現してくるのか。これに私たちはひとつの仮説をもちます。

水俣最多発地帯では最も劇症苛烈な発病があり、水俣漁民は直接的に魚の汚染(水銀と分らない時期にも)と警戒し、いくらか摂取をセーブし自衛した。
医学・行政が水銀汚染とその被害の実態を、広く知らせる義務を怠った時期にも、漁民は食いびかえをせざるを得なかった。それ程、隣人や家人の病状は目撃したものを震撼させたと思います。またチッソとのやり取りの中で、この事件の本質も知っていったと思います。

こうした漁民自身による食い控えが、この地域には、昭和21年水俣病発見以来一度もなかった。――行政指導も医学、医療の警告もなかった。漁民闘争も水俣病被害とじかにむすびつけられることはなかった。
そして水俣から10数キロ、20キロ、30キロという距離へのへだたりによって、確実に水俣病に関する情報は絶たれてきた。だから、なんら変わることなく不知火海で魚をとり、それを主食としてきた。
――有機水銀の特性も、食物連鎖の法則も、研究者の“業績”とは化したが、住民の生活に真撃にうち返されることはあったでしょうか。
言葉の上の“周辺漁民”は20年間ただ周辺漁民でしかなかったのです。
水俣と10キロのへだたりは、水俣病の実態の流れ方としては十年に相当し、20キロのそれは、20年に相当する。この時間のずれはいつに犯罪的な“社会的人為的時差”として
いまも不知火海にあるのではないか。(この地帯に眼をむけ、足をはこんで水俣病を知らせてきたのはつねに水俣病闘争にかかわった患者、支援者たちであった)
この20年、行政はこの地の人々に何を知らせ、どうみちびいたか。医療関係者は何をしたか。……形式的な一般住民検診ではなく水銀汚染による水俣病の発生、拡大をくいとめるべく、彼らは一体どううごいたか、あるいはうごかなかったかを、住民の側から検証したいのである。これが私たちのメイン・モチーフです。

これを私たちは単に“潜在患者の発掘”という風には規定していません。水俣病の20年は、日本の戦後の価値観の転倒期であり、言はば水銀汚染をテコにしてチッソが栄えたように、漁民生活の崩壊と変容をテコにした成長でもあったはずです。
その総体の流れは、水俣病事件を今日も未解決のまま病状悪化にむけて進んでいる。社会病理の太い糸であるにちがいありません。
私たちは特に不知火海を歩いて、その広さを確認しつつ、うずもれている水俣病の実質を手で掘り起こす作業のいとぐちを作りたいのです。

――上映の基本的態度を方向
不知火海に対し、私たちは本来、最も豊穣な生命力のある海のひとつという認識をもっています。これが生き返されることをねがっています。しかし水銀汚染の事実に眼をつむることは出来ません。漁民の方々の固有の対応力に基本的な意味で楽天的です。ヘドロひとつの処理にしても漁民参加のない処理方策は必ず事実上失敗するでしょう。

また私たちは、この20年、必死に漁業を改善し、地域社会を振興させようと心くだいた人々の愛すべき海、不知火海を深く理解したいと思います。漁協や町の区長や有力者が、この上映活動に対し、そのおのおのの20年をもって、私たちの映画「水俣病―その20年」に対されることを予想しています。敵対や反発も、それが対岸同志の、ひとつの出会い方として必然かも知れません。
私たちは運動としてだけでこの地に入るつもりはありません。映画を作った初志は、これらの人々に見てほしかったからです。
「第一作」の『水俣―患者さんとその世界』の日本での最初の公開は、水俣の映画館からでした。この思いの延長として、世界中に水銀汚染を知らせるべくフィルムを携えて無償の旅をしてきました。
とくにカナダ水俣病の発生にあたって、インディアンの要請により、足かけ二年、計167日間、全カナダをまわり、政府に一定の政策転換をさせた。現地のインディアンの闘いの一助を担いました。それも、この映画を作った思いの基底に、水俣病は現代世界に必ず共通の形で立ち現れる現代文明の病いだと考えていたことによります。
今回、不知火海に再び照準を合わせて行動することに至った経緯には、独立プロで、自力で映画つくりをやってきましたが、ついに企業はおろか、政府、地方、自治体によってすら、水俣病を知らせる教育活動が、皆無であることを再確認したからです。無念ともけだしともおもいます。
故にわれわれは行動してみます。こうして上映行動に、マスコミの応援は必要ありません。じかに住民にマイク・カーでうったえ、会場に足を運んでもらう方法に専心し、それに賭けるつもりです。その結果を広くしらせることは勿論当然のことですが、あくまで巡海映画は私たちの行動実験でありたいと思います。
中央レベルの段階ではなく、あくまで不知火海域の暗黒部をまずありのまま知る段階だと考えています。
別の機会に申しましたように、これは映画製作スタッフの独自行動であり、本来すべて、自弁でまかなうべきものでしょう。しかし、90日間の長期にわたり、一つ一つの上映を成功させていくためには、思いつき的な些意的な行為では出来ません。ひとつのプロジェクトとして組み、これに支援していただける方々の、充分の助けを求めないわけにはいきません。
幸い今日まで、予備調査を含め自分達の力でやってきました。すでに35万円のカンパがあつまり、上映フィルムも八割方そろい、映写機、テント、車なども安く、あるいは提供貸与の形で目鼻がつきはじめました。どうか実行できるように目標250万に近づけるようご支援の程お願い申し上げる次第です。