かくれ水俣病「統一」5月11日
かくれ水俣病「水俣ー患者さんとその世界」にひそむ特異な光景
島原、天草に「かくれ切支丹」といわれる殉教者の遺風がのこっている。三百年にわたる、その忍びの信教の力のつよさがわけもなくおどろきにつながる。
同じ海につながる不知火海の一隅におきた水俣病を訪ねて、私たちは「かくれ水俣病」という言葉を思い浮べた。それほど、耐えしのんで、今日、映画と出遭うまで画面に登場する患者さんは、怨みと共にえもいわれぬやさしさをたたえて、かくれるようにひそやかに生きていたのであった。
私たちの映画「水俣ー患者さんとその世界」が映像による語り部(かたりべ)であろうと終始その身を処しつつけたのは、水俣を語るにせよ、公害を論ずるにせよこの患者さんの経た十八年にわたる屈折を、そのまま事実として、まず光りにあてることから始まらなければならないと感じたからである。
私たち自身がこの映画を撮るにあたって、「そも、それを撮る私にとって水俣病は何か?何のために?」というためらいの連珠をもてあまし、すぐにホイホイと腰を上げられなかったと同様、今日、熊本を中心とする「水俣病を告発する会」のすぐれた活動家たちも、それぞれ次のようなことをもらすのである。
「安保でも日韓でも何でも、なんでもやる。しかし水俣病とだけは縁をもちたくなかった・・・。」
「できれば公害闘争一般に携わりたかった・・・」
「底なし沼にのめりこむような気がして、水俣病に近づくのかおそろしかった」・・この心情が、私には全くよく分るのである。
しかし、今日、その活動家が一つの道をたのしむ人のごとくに、つまり道楽のように、水俣の患者さんとあうのが、たのしくて仕方のないような風情でさえあるのもまた見事にいまの私には分るのである。
まだ有料試写会程度で、これから全国的に上映しようとするにあたって、このためらいも、いうにいわれない、快楽との間に、何があっての旋回なのかを語りたい。
映画そのものは、五ケ月にわたる水俣と患者さんとの日々の出遭いの記録である。先にのべたように、「かくれ水俣病」を一つ一つ堀りおこしていった作業の記録である。映画は、全国的に水俣病への関心が芽生えた頃から語りはじめられ、ロケ中に、東京、大阪で起った「一株運動」の経過を追い、「会社のエラカ人から、順ぐりに水銀母液ばのんでもらおう!」という一ことをいうべく集まった巡礼姿の患者さんが社長にうらみをのべるところで終わっている。
その終章は記録映画としてはかってないほどの迫力を帯びるにいたった。しかし、そのクライマックスは、むしろ出来すぎというべきで、実のところ、その隠された患者の奈落にどこまで沈降しえたかが、作り手事の終始ねがった下降志向のドラマであった。
映画のおわりに、まだ認定されていない足の折れまがった子をだいて、その母親は「(あまりしばしば認定申請をするのは)世間にきはずかしいような、あつかましいような・・・」と絶句する。その母親の茫漠たる表情の裏に、母胎の持ち主としての母親自身が、水俣病で脳をおかされていることを直覚できる。その母親は生年月日さえ覚えていない。その子の一生につきまとう業苦さえもはや思わぬように、美しい顔を痴れものの能面のように動かさず一直線に地獄とむきあって放心していた。これは、最後にみた、私にとっての「地獄」であった。
この映画の中で私は漁師の心をうたいたかった。物言わぬ「魚どん」と日常語らいをもっている人々、それが生来の漁人である。その先祖からの自然との交渉の系譜の中で、魚をたべての奇病は、事実であることが、明々白々となった今日でさえ、一つ、本気でいって、附に落ちないのである。丼一ぱいの魚(土地の人は無塩=ブエンの魚という)をたべるのが、都の人にはかなわぬ、俺たちの栄耀栄華であるという。今日もそうした食卓もち、味濃い球磨焼酎をのんでいるのだ。それが無機化しているとはいえ、水俣湾で最高三一四PPM、最低一八PPMという海域の魚、タコ、を再び怖れもなくたべている。もちろん、のら猫を飼ってそれにもたべさせ、天気をみるように、ついつい猫の気配をみながら、それに手を出して、やはり魚はうまかナアと舌つつみをうつのである。漁人の生き方を決して変えるわけにはいかないのだ。
この映画の基底として、私たちはどうしてもこの漁人の心根を描くことになった。それが、生類へのいつくしみにつながり、自分のねじくれた子ら、全盲全唖、歩行不能、運動マヒという四重苦の子供とさえ魂をかよわせる。
水俣病の映画というだけで、それが二時間四十七分というだけで、観客たるべき人々の間で抵抗感があり、心のかっとうがありカンパならするが、どうも”悲惨さ”につきあうのはごめんだ、という上映運動の中での反応が少からず全国から報告されている。作り手としてムベなるかなとも思う。自分たちですら水俣で患者さんとお会いするまで、何度たじたじとしウロウロの心情をもったことか。だからこそ、私たちは自然の一部なる漁人の心から水俣病へと入っていったのだ。
だがこの映画をみた人はほとんど別の地平に立つ人もまたうまれてきた。例えば都立高校教師の本田修は「・・・「水俣」」をみて、嬉しくて、嬉しくてたまらなかった。あんまり嬉しいので、片っぱしから、知人に電話をかけてその喜びをつたえた。水俣病という悲惨な患者達の記録映画をみて嬉しかったというのは不謹慎かも知れないが…」と校内通信を通じて生徒にその感想をつたえている。恐らく、映画を通じて、その人々は、えもいわれずやさしい日本人に出遭ったのだと思う。患者としての受難によって、その闘病と生活のすべてが、まるごとあかあかと火照り出した。私たちのついロに出た"発光体と化した人々"という言葉と同じものを見出されたに相違ない。
いわゆる業病の多々ある中で、医師の良心の伝統はかすかに生きつづけることで、病気を明るみに出すことは近代日本の中でさえなされてきたといえるだろう。しかし水俣病は、知りつつ流した水銀による毒殺毒害である故に、医師たち、とくにチッソ病院長、細川一氏や熊大研究班の研究に対し、妨害を加え、ロかせをはめ、中央の御用学者を次々にくり出して世論の攪乱操作をつづけてきた。そして地元、水俣では、唯一の企業であり、経済的に市民をにぎり市政を支配してきたチッソによって、水俣病を「無きもの」とし「ガタガタ騒ぐと市から工場をひきあげる」と恫喝しつづけ、まさに陸の孤島というべき部落を幽閉し得てきた、このチッソの背後に、全日本の化学工業会の看視があり、政府の犯罪的な怠慢があったことは勿論である。しかしもう一方の極に自ら「かくれもの」になろうとした患者さんの名状しがたい病気への対応もこれを支えたといえる。しかし見事に、これを「かくれ水俣」としたものは、他者たち、無限にひろがる他者たちの無関心、無関係の行為であった。
この水俣病にかかわることは表層ではヒューマニズムですまされよう、その深みにはまるまでは、チッソ、その背後の総資本、そしてさらに資本主義の歴史的終えんに、力をかすかどうかの根源性にむきあわされざるを得ないのである。
映画はその"かくれ"に対し撮ることで白日にひきだしたのみである。それが患者さんの葬列であり、斉唱である時、原点が、すべての人々の眼に見える形をいく分でもとどめ得たと思っている。この映画が物語るものは裏をかえしていえば、発生以来十八年にわたる無関心のワビ証文であり、人間のコミュニケーションの再生を物語りはじめたことになろう。