映画は生きものの仕事である 『展望』 6月号 筑摩書房 <1972年(昭47)>
 映画は生きものの仕事である 「展望」 6月号 筑摩書房

 記録映画は、私の場合、殆んど人と出遭う事業である。一つの運動が極めて大きい役割をもっているとしたら、その運動を生み育てた人物は必ず存在するものであり、またその運動自身が必ずそうした人間を生み出している。その人間を探りあてた時、映画は実質的に出発しているものではないだろうか。近い私の作品を例にとれば、マラヤ留学生チュア・スイ・リン氏と日本人の世話人田中宏氏と会わなければ『留学生チュア・スイ・リン』はなかったろうし、京大助手滝田修氏と会い、或いは石牟礼道子氏、渡辺京二氏(熊本・水俣病を告発する会) らにめぐり会えなければ『パルチザン前史』や『水俣ー患者さんとその世界』を作ることは出来なかった。どの場合にも共通していることは、必ずしも映画を作ることを前提に生まれた関係ではないことである。結果として映画に結実することはあっても、それが映画を撮るためだけの出会いであれば、そこには一種の映画を仲介とした便宜上の交換行為として処理されるものにしか過ぎない。
 私と山岸会とは映画をとりに三重県春日山を訪ねたのがその機縁であったが、結局一尺も録影できなかったことが、今日までつづいているつきあいのはじまりとなった。一部には深く識られているように、山岸会の本質は「研鑽」と呼ばれる対話法にある。怒りをぬくこと、エゴから離れること、無固定、無所有、共生といったユートピア志向への解放は、まずその手始めに、自由な参加資格で集った雑然とした人間集団の間の「特別講習会」から始まる。私は養鶏法やそのコミューンにも興味は少なくないが、その一週間にわたる特別講習会の解明に心ひかれた。このいわゆる略して特講は非公開と聞いていたが、何故か一度は、私に撮らせることを許可してくれた。恐らく、偏見なく山岸会をみていたことと、これが宗教でも秘儀でもなく、特講で行われる果しない絶対対話の中で、つまるところ、答えを自分の中にのみ求めるという思考の回路が、ある部分で奇妙に洋の東西を問わず、コミューンを形成する場合、ほとんどこれに似た道筋をふむことになろうと信じていたととによるだろう。
 先生もいないし、思想誘導もその会議の中では抑制されている。「人聞は何故腹が立つのか? 」という一つの問いを二日も三日も考えあうという。「何故」「それは何故」と「怒りについて」自分の経験の中で最も腹の立った実例を通して、理由を探っていくうちに、ほとんど豁然ともいえる開示があるという。「そのときは一人だけ分るというのではないのです。皆答えの近くまでぎりぎり煮つまっているので、まるで電流をうけつぎうけわたしていくように一挙に各自が自分の答えを発見するんです」と口の重い山岸会のある幹部は説明する。その日く言いがたい一瞬を撮れることに、私はほとんど昂奮その極に達したものである。そこでカメラマンと録音技師とともに同時撮影の用意をして山にのりこんだのは八年前の正月のことである。
 結果として撮ることは完全に失敗した。いざ特講を撮るに当って、一つの部屋の中に、撮影班と受講者と二つのグループが別々の目的で七日間もいるとすれば、受講者は雑念のため、つまり背後から正面からのカメラを意識し、事、意志に反し自ら本質を見極める一瞬をとり逃すだろうという。成程と納得する。カメラは音のしない装置のものであり、テープは殆んど邪魔にはならないが、それを扱うのは人の手である。で私たちは、いつでもまわせるようにセットしてカメラマンも録音技師もともどもその受講者の一員として、自ら特講を体験しようということで、話がついた。簡単な経過だがここまでくるまでに三日間位禅問答のようなことがつづいての上である。はじめ、私ひとりが撮影の意図をもって手ぶらできたときはほぼ一日の語りあいで、全員ニコニコしながら話をきめたのが、一山程の機械を背負っていざ撮影という時から、彼らは物思いにふけり出したのである。そして一応受溝しつつその体験の中で撮るということでその翌日から始まる特講を待っていると、首をひねりながら山岸会の人が来て言うのだ。「もし熱心に受講をうけた場合、あなた方はきっと怒りの原因について空の割れたように分る時がきます。それをあなたは撮りたいとおっしゃるが、あなたがたが、その自分の啓示に撃たれている時に、カメラを廻せますか?誰方が?それを廻す方に神経がいって、その人は受講の本当の歓びも甲斐もないでしょう。そこんところが分りません」という。誤解のないように言えぽ、山岸会の人々は撮らせるのを嫌つてのことではなく、受講者の心理に精通していて、その一瞬の祭りの情況を冷静に客観視することが可能かどうか真底いぶかって案じているのだ。そのことが分るまでが、変な言い方だが、私にとっての特講だった。そしてこの特講を撮れなかったこと、又、撮れぬことを深く納得できたことは、私がカメラとテープをもって映画として万事を考える中で、はじめてぶつかった問題とうけとめた。もし手ぶらならば私はここまで深く、山岸会の人と一つの行為をつきつめ得たか、恐らく否である。その五日間で得た体験は、映画を一尺も廻さなかったとしても、私にとってドキュメンタリーな体験であり映画の体験である。私は自発的に、そして奇妙にも、うきうきしたものを感じながらスタッフとともに山を下った。
 この場合、映画のとれない一瞬があるという自覚を私にのこしたが、それ以上に、カメラをもつ人間の立場をも考えさせた。私が職業として映画を択んでいることは、私は素手素面の人間でなく、それの機能を付着させつつ、更に人間としていかに裸身にいたるかの自覚を深めることを自分に課する。
 かつて、『留学生チュア・スイ・リン』を撮っている時に、逆にカメラをもっていることによって、そのポジティブな役割を意識したことがあった。今も日本人学生のアジア人留学生に対する関心が強まっているとは言えないが、七年前事情はもっと悪かった。本国が英領マラヤの時代、イギリス帝国のパスポートをもって日本に学んでいたチュア君は滞日一年後、本国がマレーシアとして「独立」することを日本で知り、英国の特殊権益のつづく限り、本当の独立はないとして、在日マラヤ人学生とともに抗議しデモを行った。それを理由に本国では、彼に対する召還が決定され、本人及び日本文部省に通告された。文部省はすぐに国費留学生の身分をとりけし学費を断った。それにつづいてしかるべき手続もなく彼の通う千葉大学留学生部は彼を除籍した。彼は迷った上、日本での反対運動と日本文部省に対する裁判闘争に起ち上っていた。一方、千葉大学は歴代の留学生に対するポリシーとして、同じ大学内で日本人学生との交流を持たせなかったので、チュア君のことを知る日本学生は極めて限られていたし、知っていても直ちに行動に出るにはあまりに隔離の時間が長すぎた。映画を撮りはじめて三カ月、私たちスタッフは、彼とかかわる前の自分らのアジアへの関心の薄さを省みて忸怩たるものがありながら、日本学生と手を結ぶ以外に彼の日本留学を継続させる闘いは勝ちえない現状認識に立って、殆んど苛立ちの中でカメラをまわしはじめた。その時点の展望は真暗であり映画の結末に日本学生、遂にチュア君を救うことはなかったという悲観的なエピローグを想定せざるを得なかった。私たちは北ベトナム爆撃開始に日本で始めて抗議した大衆デモが、ベトナム留学生によってアジア人留学生のみを組織し行われたことをカメラで撮りながら、その敏感なアジア人留学生の対応にくらべ、脱アジアに拍車をかけている日本をみるとき、後の問題をただ単に大学内の闘争だけで逆転させうるとは思ってもみなかったのだ。
 昭和四十年四月十五日、千葉大の構内で、始めてチュア君が不特定多数の日本人学生を相手にメガフォンを手にした。それは国費打切り後六カ月近くたってからであり、さしせまってパスポートの期間の切れる数日前であった。学内は平穏であり、学生はチュア君の訴えの前を流れ歩いて必ずしも足を止めない。「チュア君を守る会」の数人の日本人学生が同じ焦慮をもっていたが、時は四月の新学期第一日であり、考えてみれば他のことにあまりに興味をもつこと多く、チュア君の訴えすら一つのサークルの呼び込みのように新入生の眼に映ったとしても無理はない。その時カメラマン瀬川順一氏は、チュア君を中心に、ぐるぐるとその全身を塑像するように撮りはじめた。録音機をもった助手さんも、マイクをもって、一言も逃さずその声を記録した。スタッフ四~五人のアクションは、誰の眼にも、カメラが記録すべき最も重要な事がここにしかないことを示しているかのように行動しはじめた。人々が集りはじめるとカンパ袋をもった女子学生が活気をえて歩きまわる。そのカンパ袋をカメラは丁重にフォローする。熱心に耳をかたむけはじめた学生を、カメラは当人が耳をかたむけている事実を撮っていることが明らかに感知できるアングルの配慮のもとに撮る。私はスタッフのその共同動作が三カ月の坤吟を分ちあったものの必然的な「演技」でそれは殆んど呼び込み動作に似ているのを見た。やがて刻々と、カメラのある異常な事態に足をとめ、チュア君をとりまきはじめた学生を抱えこんでスタッフとチュア君と学生はかたまりをつくりはじめ、あたかも、一つの野外劇のように発展するさまを目継した。チュア君の訴えが集会の本旨であり、闘いが目的であり、獲得さるべきはチュア君の身分であり安全である。映画はそれに比べてチュア君にとってごくわずかの関連作業でしかない。むしろない方がましな位である。そこのことをスタッフは知った上で野外劇を演じている。そのカメラの動きは、本体の闘いを邪魔しないように配慮をつくしていることはチュア君を見つめながら、傍眼でカメラマンを見ている聴衆にも了解されてゆく。カメラは空気のような存在に近づいていったに違いない。もしカメラがなかったら、新学期第一日のその集会への集中度はこのようになったであろうか。「カメラやテープが記録している事自体が、ゆきずりの歩行をとめ、聞き入る自分を撮られたことが、チュア君への関心を確かに自分に留めるのに役立った」と、後日、ある学生は語ってくれた。それを決して夜郎自大的に大げさに評価したいのではない。カメラのある状態とは平常ではなく、かりに平常としても撮るものと撮られるものの関係をうみ、それが相互に一つの緊張を生み出す作用についていいたいのである。以後三日間、千葉大に泊りつづけて、一応の勝利(私費再入学決定) まで見とどけたが、この勝利は、当初私たちが予想した悲劇的なエピローグを転倒させた。そして勝利の結果だけを報道する新聞やテレビと異質の、闘いの生起する経過を克明に記録したドキュメントとして出来上った。この経験も、私の映画作りにまた一つの光りを与えてくれたのである。
 ドキュメンタリーとは人と出遭う作業であるとのベた。それとともに、カメラをもつことから始めて見えはじめる人間に投企するものであり、「被写体」という妙な言葉でいわれる対象者との関係から、真の人との出遭い、新らしい人との出遭いを重ね、それを記録していくものだという漠然とした思念を以来映画作りの心として抱くようになった。

 記録映画にとって、スタッフほど重大な要素はない。まず第一の人間関係は映画づくりにかかわるスタッフとの共同性である。それはひとりひとり歴史と個性を異にする点で、夫婦の共同性づくりと同じ困難がある。結局相互の異質の核をさぐりあてるまでは、酒の力をかり、あるいはおびただしい討論をへあるいは合宿しながら、最後には異質への愛といたわりまでいかなければ、現場において「スタッフである」とは言えない。『路上』のカメラマン鈴木達夫氏や『パルチザン前史』『水俣ー患者さんとその世界』の大津幸四郎氏及びスタッフをぬきに私にとって「作品」を考えることはない。スタッフ形成がうまく成就したときにのみ映画は独自の輝きをもつ、それが失敗したときには、たとえ演出者がいかにひとり卓抜していようと映画は統一した光源をもち得ない。
 私はいつも、企画をもっているかとか、主なテーマをいくつもっているかと聞かれて、唯ひたすら困惑する。いつもないのである。テーマを先に立てて映画を作ることに根本からの不安がある。世界の作家にせよ、日本の作家にせよ、一人の作品の歴史を縦にみるときそこに、時に記録映画を手がけ、時に劇映画を作ろうとも、一つのモチーフをもつ作家を発見する。その作品のテーマは多種多様であろうとそこに一つのモチーフの流れのある作家の作品に私は触れることを願ってきた。
 私の場合、それが何か今だに分らない。ただ言えば「飢えの心情」をテコにいつも満たされぬものにむかっている気がする。小学生から中学生にかけて食べ物についてつねに飢餓感がつきまとった。大学に入る頃敗戦をむかえた私は、既成の体系が、戦前の思想が音をたててくずれたあと思想の上の飢餓に悩んで満たされることはなかった。飢えが常態であり、満たされる時か不安といった心情が固定している。自分の映画表現、自分の映画手法についていつも満足したことはなく、がつがつとより美味なものを夢想し、それにむけて野犬のように赴くのが実のところであろう。これはモチーフといえるだろうか?ただの原動力にすぎないだろう。もしかりに言えるとしたら、何かコミューンのようなものへの飢えがいま一番の飢餓感であるといえる。
 記録映画が性に合うのは、決められたシナリオを批判的媒介として創造する劇映画とは異なり、スタッフが同じ現実とむきあいつつ、共同して一つの表現をとり出し、その時撮れたスタッフの真実を手がかりに次の表現に赴き、次の事実に立ちむかっていく、その共同性と異質性の葛藤・矛盾そのものにある。そして、他人は「私」ではないというごく単純な認識を基軸に、製作、撮影、録音、演出が一つのコミューン的な境地に、時に到るその一瞬がフィルムに定着されたとき作品がうまれるのである。相識っているはずのカメラマンが、鉄をもって切りきざむことの不能なほど未知な質をもった茫然とさせられる映像を撮った時、録音が、潜在していた饗きをまごうかたない感性の音としてとり出した時、異質な核をもちあったものの闘いが一つの映画としてまきとられる。映画としての可視的な対象物となる。これは何者にも代えがたい快楽であり、飢えるものの生き甲斐なのだ。テーマは最後に浮上し顕然化するものであって、テーマ性から私の映画は成り立つことは殆んどなかった。その事はのちに触れよう。そしてスタッフと根本的に語りあうのはつねにその人のもつ「モチーフ」についてであり「思想」であった。
 スタッフ論と京大助手、滝田修の五人組(共産主義的共同労働団) の構想とは酷似した部分がある。人のつながり、全人格的に相互に掌握し理解しいたわりを分つ最少の部隊単位を五人とし、自らの暴力を生み出す部隊とする滝田の組織方針は、政治的テーマ、映画のモチーフとは独立して、私たちのスタッフの在り方とその共同関係のつくり方の点で心魅かれるものであった。
 映画『パルチザン前史』は繰返し、未だ確立されていない五人組共産主義的共同労働団の提起で終っているが、この作品をつくり上げるまでの約四カ月、我々映画スタッフと滝田たちとは、暇があれば起居をともにし、酒をくらって、未だ生まれざる真の闘う原集団を夢み、その間とりためたものが一巻の映画として完成した。彼は、映画の完成後、映画とともに各地をまわって、次の二点を修正した。一つには共産主義労働団に自分が身を投じていないこと。それが出来れば楽しいし、やりたいが、残念ながら出来ていないこと。しかしこれをやりとげなければ、新らしい戦闘部隊の質は獲得されないしその信条は今も変らないが、この矛盾につき当っているー
 一つには、映画の中で、家庭生活がうまくいっているように受けとられるけれども、その市民社会の最後の砦である家庭も、いま言いがたい破局につきすすんでいる。女房を愛し、子供を愛するけれども、予感としては、それすら守り切れない道につき進んでいる。 どうすればいいのか分らないが、これは映画を見る人々のために申さねばならぬ。
 だが、「私の考えるところの新らしい暴力、新らしい人民との結合、新らしいつき合いの形成はこの映画にのべた如くである」とうったえつづけた映画完成後の滝田修について、作者としての私もまた責任を果さねばならない。彼はくりかえしのべる中で、映画をスタッフ的に共有し、そして公開の場を通じて虚像の余地ある部分を修正し、映画を実像として受けとめることを観る者に要請した。映画完成後、二年間、彼はその約束通り、あらゆる局面に彼の力を惜しまなかった。
 滝田は本年一月、いわゆる朝霞自衛官死亡事件の首謀者として、別件「強盗予備罪」容疑の下に全国指名手配された。活動の場を非合法に移している。私は映画『パルチザン前史』の作者として、映画づくりの中にあった「五人組」的な結合を交したものとして、この情況の中で彼とともに闘わなければならなくなった。一月下旬、朝霞署刑事による家宅捜査以来、電話の盗聴の疑いは極めて濃厚であり、身辺落着ける情況ではなくなった。このことについてはこの稿では立入ってのベるつもりはない。今、私たちしか出来ない反撃の方法として、小川プロとスタッフの主催によって、映画により、閉された滝田の発言を上映の場で解放すベく『パルチザン前史』の上映活動をつづけることを決めている。
 私は官憲の加えたガサ入れや参考人としての任意出頭要求には拮抗してそれに耐えることは出来る。しかし、このことから、今後記録映画を撮りつづけるために考えなければならない課題が継起してやまない。その方が今重大なのである。
 記録映画は具体的である。一本の映画が出来るまでに何百人も実在の人物に会い、無数の事実を調べ、その中から撮れるものを撮る。一つの表現までには多くの資料がある。『パルチザン前史』のように最も権力との尖鋭な闘いを通じて、その暴力を描く場合、撮り編集する過程で充分な配慮はしたつもりである。この二年の聞に、火焔ビン規制法案が上程されたりして映画フィルムが刑事上の対象となりかねない情勢が象徴するように、夜は更に暗さを増している。この種の映画が対象として描いた諸個人、諸グループ、そして事柄が一括して「刑事事件」となり「犯行」となり、「犯罪容疑者」となる時がこないとは言えない。ドキュメンタリーの製作者の身辺に、権力から見れば「言論弾圧」としてではなく「犯罪の証拠」のために手をつけるであろう。記録作業の場は彼らの眼には証拠品の宝庫とも見えるであろうからだ。その場合、二重の意味で表現者としての立場が扼される。非協力者として権力をもって捜査し、刑事法の対象として仕事の出来ないように追いこむこと。もう一つ、協力者にしたて、裏切りを慫慂し、ドキュメンタリーを作る場合の対象世界の人々と切断する。この両方の桐喝を併用して、自己規制を強い、ドキュメントのもつ告発力をぬきとる。
 これが単なる予想ではないことは、本年二月から始まった、いわゆる日活ポルノへの攻撃を重ねあわせて読み取って頂けるであろう。黒木和雄、小川紳介、岩佐寿弥、東陽一と五人で行った警視庁保安一課への抗議とその応酬の全文記録はすでに発表したが、権力は些かも「言論弾圧」としないで「刑事罰」の対象とし、その容疑を固めるために、映画の上映の場から製作者、撮影現場スタッフから出演者に至る二百人に及ぶと言われるいわゆるポルノ映画の関係者の供述を求めている。自白の連珠によってワイセツ物陳列罪を構成しようという手口である。その被疑者に擬せられた関係者は確実に仕事上の責任を問われ、生活を脅かされ、自白に近い供述をとられることで映画づくりの自信を失い、映画の特性であるスタッフ間のつながりを断たれ、相互不信の苦さを味わい、陽気さを失い、映画を作るたびに根拠ぬきの果しない自己規制の中に創造力を閉じるようになる。現実にこのような事態が映画の世界で今起っている。この事をドキュメンタリーの今日的状況と表裏一体のものと感じないわけにはいかない。
 「イタリヤでは独自のドキュメンタリーを作るには非常に勇気がいる・・・ニュース映画を含めて、イタリヤで上映されるドキュメンタリーは内外の作品を問わず、政府のつよい検閲下にある。そして映画館では、ニュース映画の上映が義務づけられておりこのニュース映画も全く体制べったりで、そのうえ、この方針に忠実な映画館には”報奨金”がある・・・」。これは昨年、日本テレビが主催した『映像記録の国際シンポジューム』のため来日したヤコペッティ氏の語るイタリヤにおけるドキュメンタリー及びニュース映画の状況である。(昭四六・六・二毎日新聞〉二年前イタリヤの映画関係者が『パルチザン前史』をイタリヤで上映する場合、たとえサークル的な上映であっても「火焔ビンづくり」のシーンはカットして上映しなければならないが了解してほしいと私にいったことを思い出させる。恐らく、日本の官憲の描く構想は表現の規制、映像の国家管理をここまで国際化することであろう。『奴隷大陸』のヤコベッティ氏が、これに対する闘いの報告をしたかどうかはその紙面につまびらかではない。もし勝手な推測が許されるならば、『世界残酷物語』から知られた氏の作品歴は、イタリヤの現状から眼をそむけた果ての旅立ちになっていないだろうか。
 この国際会議を設定し実現した牛山純一氏とは古くからの知己である。私は一言今日の現状で彼にいっておきたいことがある。数年前、時の官房長官、橋本登美三郎の圧力によって、第三部まで制作するつもりの『ベトナム海兵大隊記』をその第一部だけで中止し、再放送をやめ、以後、一切公開しなかったそのフィルムが、何故、その国際シンポジュームでは見せられ公開されるのか。『ベトナム海兵大隊記』は当時、すぐれたドキュメンタリーであった。この作品への弾圧はその後のTVドキュメントへの内部から自己規制を強化させるきっかけとなった敗残のモメントとして歴史的作品である。その後、海外旅行かドキュメントヘ家庭的”ヒューマン・ドキュメント“ と、それまでに、NTV が「ノンフィクション劇場」に拠って発表した作品活動を転回せしめ、ドキュメンタリーの本来具有する告発の牙を抜いた前記作品系列へと向った事については憂慮しているが、今それに深くふれるつもりはない。
 私たちが今、表現における弾圧に対して、ただ単に政治的に闘う一元論だけではすまないとき、あの作品の表現上の闘いには多くの学ぶものがあったと考えている。
 私たちが今、はや古フィルムに属しはじめた『パルチザン前史』を今日上映するとき、上映の趣旨とは別の問題として、あらためて作り手としてもつ私たちの不安は、当時の政治情勢やアジテーションの共有にたすけられて、あの映画が価値づけられた節はないか。あるいは、たかだか二年にして、その内容と表現かすでにその真実性を失っていはしないか。映画がその時代の反映であり、その時の事実に基くものであるとしても、はげしい時代のゆれうごきの中で、この映画は”今日“にも耐えうるであろうか。ましてここには実在の、今日、権力が「超過激派殺人者グループ」とし、また「犯罪者」としている主人公、滝田修が登場し、その彼の言動、思想が今日の情況と重なり見えつつ、今も人身と語りあえるものをもっているかどうかである。いいかえれば映がはそのフィルムの力だけで立つことが出来るかどうか。これが新作の発表のように心ふるえる作業であり、今日の観客の心のひだまで改めて知りたい想いとつながっているのである。
 ドキュメンタリーが最後に守られる場は観客の中にしかない。それを守るものはつまるところ、その作品のもつ真実によってでしかない。現在、私たちはまだ健在であり、身体的自由は拘束されていないから、映画を観客の前に呈出するため、小川プロの諸君を中心に精力的な運動がすすめられている。そうすることにともなう新手の弾圧や妨害も予知できる。イタリヤの現状が示すように、映画が権力の手で出口なしの状況に追いこまれたとき、映画は映画であることによって、観客を求めていくだろう。それは映画の表現の質によってであって、いわゆる「政治性」や「社会性」や「運動性」といった外皮によってではない。権力が「刑事対象」として映画を扱う時代に、端的に「映画」がその映画の質によって立ってほしいのである。映画を基本的に守り、保証するのはこれらの作品がことごとく同志的な独立プロで作られたものであり、その著作権も上映権も一指だに権力の触れることを許さない場所でつくられていることによっているが、それだけに安住できようか。
 『ベトナム海兵大隊記』における争点は、有名な首刈りのシーンについて、権力は「表現」を残虐として表視そのものを問うたのに対し、「ベトナム一戦争の現実」そのものが残虐であり、表現はその事実によるものであって、表現がひとり残虐を意図したものではない、という一点にこの弾圧のポイントを要約出来ると思う。不幸なことに、同じ時期のTV 、同時代のいわゆるドキュメンタリーに、観賞用の「あばかれた恥部」とか「非情な眼でみた残酷シーン」とかをうりもののドキュメン夕リーが横行しているのであって、権力はそれと脈絡をつけ、世間の常識に訴える手口をとって弾圧を加えたのであった。
 私はこの作品をドキュメンタリーを志す一人として見、権力の物言いを予感した。見終えて、この作品のまとめに敬意を表しつつ、プロデューサー牛山純一氏に書き送った。その一部、今も記憶にのこっていることを記すのを許して頂きたい。「・・・カメラマンは政府軍が首狩りをするものと予想して行軍のあとをついて行ったであろうか。恐らく突然に起った現実の事態に最も恐怖しショックをうけたのは彼であろう。カメラはしげみの中にかくれ、その位置に釘付けされていた。練達なカメラワークを見せていたカメラマンが、その時は放心したように、レンズの交換も出来ないでいる。たえずゆれ戦き、カメラ前の草むらはほとんど視界をさえぎりつづけた。・・・ただカメラのボタンを押しつづけただけだ。戦慄する現実にむきあって、ただひとりの人間としてその場にいただけであることを反映している。これは『狙った現実』でなく『起った現実』だ。加害者側の南ベトナム政府軍海兵大隊の後尾につきながら、その加害を『撮って』しまった。このシーンをとることで同時にベトナム戦争の汚い戦争といわれるものの本質を『撮って』しまったのだ。現地にいったスタッフは、このシーンを除いて編集することは出来なかったのは当然である。作り手が、このシーンを登場させることを決めたときから、まとめは、このシーンを軸に展開していったであろう。そのことが、作品全体に肉声をともなって、作り手の苦しみをつたえ、見る人すべてをベトナム戦争にむき合わせたのだ・・・」。要旨は以上の点にあったと覚えている。
 私は一般的な声援でなく、記録というものの真実を権力からまもれる闘いの方法にふれて語ったつもりである。「表現」が残虐でショックであるより以上に、現実そのものが残虐であることを作り手の側で映画の論理とし、映画の思想とするのに、当時これほど教示にみちたケースはなかった。以後の経過はそれが生かされなかったことを語っている。六年をへた今、その映画を自ら非公開とし、日本の人々の眼にふれえぬものとして来ながら、国際シンポジュームでは公開される構造が今日のドキュメンタリーの日本的情況を端的に物語っている。これを「幻のフィルム」とすることのないよう切に願いたいのだ。
 本多勝一氏の近著『事実とは何か』の中で「どの視点に立つのか」という立論に心惹かれた。どの側に立つか、その側の主観的な事実こそ本当の事実であり、「客観的事実」などというものは、仮にあっても無意味な存在であるというのだ。「『対立する二者』といっても世はさまざまです・・・その最大の対立する二者は支配する側とされる側です・・・抑圧する側とされる側、搾取する側とされる側、公害でもうける側と不具にされ殺される側、戦争でもうける側と徴兵され戦場へ駆りたてられる側、その駆りたてられた兵隊に殺されるもっとひどい側・・・という風に考えるとき、どちらを選ぶ記者になるかが問題です・・・中間の記者は結局、支配する側へ吸収され、利用されてゆくことになるでしょう」(『事実とは何か』九七頁〉。この二つの側の例証が次第に下降し、かりたてられた兵士によって殺されるものに至る階梯は感動的ですらある。中国人大量殺裁を扱った「万人坑」のルポに対する氏の姿勢を改めて思わせる。それとともにどちらを選ぶ記者となるかという記者の心がまえについては、明快な決断とうけとるけれども、私たちは、すでに一つの側を主観的には選びとる外ない以上、その側ゆえに起るべき問題について考えなければならない。しかも映画に、特殊にはドキュメンタリーにたずさわるものとして今一つの武装が必要のように思われてならない。先に独立プロによって守られる地平についてのべたが、それすらも権力の弾圧を予想できる今日、それはさしせまった問題であろう。

 私はまだ二十歳前後の頃、戦後盛んだった文化活動を地域でしていて、詩人であり、作家であり、画家であった故中野秀人氏宅で数年毎日曜日のヌードデッサン会に通った。毎回モデルは変ってもヌードばかり描かされた。彼は決して石膏や静物を教材にしなかった。初心のときからヌードであった。その理由が次第に分った。本当にみつめて描かないと人体の場合、嘘が一目瞭然なのである。静物ならばもう一個リンゴをかき足しても悪くはないが、ヌードの場合、ごまかしをすれば必ず人体が人体でなく、その奇形性が描くものの精神の奇形性をそのまま対象化してしまうのであって、改めて教師に聞かなくてもその日その日の感性は刻々証明されてしまうのである。巧いか下手かは素質であって、どうしようもないが、私は一つの素描が生きているか縫合屍体か二つに一つを選択させられるこの作業に一時とりつかれた。ある芸術には、そうした心身の一体性があるのであって、バラバラたり得ないものだという認識がその時つよくうえつけられた。だから石牟礼道子さんの文章にはかりに無著名であれ、指紋に似た「文紋」の如きものがある。論文とちがって、すぐれた文学には分断されてもその言魂のようなものが死滅せずに息づいているもののように思える。絵画にしてもボッシュやプリューゲルの絵はどのようにトリミングされてもその作者を主張しつづけるであろう。たとえ複製されたものであってもその作家を見てとることが出来る。しかしいわゆるニュースやドキュメンタリーはどうであろうか。先日チャップリンの切れ切れのキーストン時代のフィルムを見たが、その断片の中にもチャップリンはチャップリンであった。私はここで記録映画の作家性とか逆に無署名性について論ずるつもりはない。それぞれの時代と人間を記録してきた記録映画が今までいかに多く改変され変造されてきたことか。国家権力が映画資料をあつかうことにおいては、社会主義国の場合にも危倶はある。先年キューバで革命後十年に及ぶニュース映画の殆んどを私ひとりで見る機会があった。その中で、今は公表していないという革命後間もない時期のニュースがあった。 何故か? と聞くと、ここに出ている人物は三年後、アメリカのマイアミに亡命して、プラヤヒロンへ逆侵攻してきたときの指揮者で反革命的人間だからという。だがそのフィルムはオープンな形で試写室では見れたし、保存も確かであった。開放的なキューバでの話で、いささかも歴史的フィルムの歴史性について尊重の気持を失わないキューバICAIC のフィルム・ライブラリーの女性担当官はこの問いに対して困惑をかくさず肩をすくめていた。このようなことは、今日、ロシア革命の後の公的記録映画フィルムの運命を思わせる。革命期の中央委員の大半を殺してしまった歴史を、フィルムはまだ保存されており、再び証言可能であろうか。戦後、旧『日本ニュース』を中心にした記録映画作家の一部がかつて、『日本の悲劇』という精一杯時代の証言を行ったフィルムを送り出し、それが無残にオクラにされた時代に育ち、当時視る側にあった私には、記録映画とは体制の批判者であり現実の矛盾点をつくものとしてあった。同時にその困難も考えさせられてきた。その点では、亀井文夫氏の戦中の仕事(『上海』『戦う兵隊』) は、苛酷な戦時下の仕事として神話的ですらあった。しかしその後映画に入ってから、単なる記録フィルムは、その「事実」のまま、編集により、音楽により、そしてコメントによって全く見事に変わるものであることを学んだ。「記録映画」の嘘は劇映画の嘘より悪質である。歴史的フィルムが体制の手でとったものしか残っていない場合、そのフィルムの当時もった宣伝性を、再モンタージュによって逆の主張に変えた例として数本の反ナチス映画を指摘できる。当時軍用カメラとして開発されたといわれるアリフレックスは、たとえユダヤ人収容所を記録しようと、カメラに答える子供の顔のゆれ、女性の顔のかげりを生き生きと記録していた。一眼レフ系のレンズと手持カメラの自在さは、ナチスの側の映画撮影隊員の眼をもって撮っても、そこに生身の人聞を接写し得ていた。戦争が終ってから、収容所に入れられていたユダヤ映画人たちの手により、近くはソ連映画に至るまで何篇の反ナチ映画に使われたことか。アメリカ側が日本の攻撃性能を記録した軍用記録の神風特攻隊のデュープ・フィルムが、『日本ニュース』の出撃シーンとモンタージュされ、何度くり返し軍国主義へのノスタルジーの喚起につかい廻されたことだろう。
 俳優をキャラクターとしてあっかう劇映画作家には想像がつくだろうか、記録映画が実在の「肖像」をうつしとり、そのことばをつけたものが、「犯罪」の証拠写真に役立てられるという危倶を一度も忘れ得ないということを。劇映画はその一体性ゆえにショットが切りきざまれることはまずない。しかし縷々のべた反ナチ映画の場合は旧ナチス・ドイツの映画をかえた例であるが、立場をかえて、つまりテーマをまったく逆にして、私たちのつくる映画が権力の手により勝手に再モンタージュされないとは断言できない。事実、滝田修の顔写真に窮したマスコミは、彼が逮捕されるや、小川プロに、『パルチザン前史』からの滝田の肖像の抜き焼きを申込んできているのである。つまりその神経は映画が人相書きの材料にされるのと一歩の距離なのだ。
 権力の望む肖像と私たちの選んだ肖像、彼らの記録と私たちの記録、彼らのドキュメンタリー映像と私たちの作るドキュメンタリーと敵対的に対比してゆくとき、権力がそのテーマを換骨奪胎することが至難な方法論をまさぐらなければならない。仕事柄、音も音楽もナレーションも未だつけられていないフィルムを見る機会がある。またT Vドキュメントで音をしぼって見てみてもよい。その音のないフィルム世界から耳朶を撃つような音や声のきこえるショットがある。そういうショットの場合、そのイメージからうける直後的で連続継起した肉声を聞きとろうとする観る側の欲求に対して、作り手の客観的な、あるいは作為にみちた音の技法や、ナレーションは、ほとんど生理的なまでの反撥にさらされるか、そのナレーションの作為はフィルムによってあばかれる。また、対象が一言も発言せず、音のない対象であっても、そのもつカメラの動きが、主観的にカメラマンの行為を示し、対象に接近し、あるいは感性を喚起するとき、そこにはイメージを通じての語りかけが滲み出てやまないのであり、この語りかけに反する言語的もしくは音楽的加工は異和感を生み、その嘘を顕示してゆく。それと反対に、ナレーション次第では権力の望むテーマに変化してしまうたぐいの「客観的」なショットがある。そうしたショットの特徴は、映像が一つの記号であり、文法にかなっており、モンタージュの容易な平明なイメージであることが多い。そして必ずしも現実音をともなわず、事実の個別性について一元的な説明を追求する。殺人は殺人であり、暴動は暴動であればよい。ロング・ショット(遠景)、ミディアム・ショット(中景)、そしてクローズ・アップ(大写し) とすべて映画のフレームの最低必要な画面を忘れることはない。これは常織的な技法であり、そのための映像技法に適応すべく、カメラは開発され、発達し、一見ダイナミックな映像処理は、カメラのもつ機能により、たとえ客観的立場に立つとしても充分可能なのである。(前にのべたようにナチスが、軍用カメラとして開発したアリフレックスはそのいい証左であり、いまも名カメラとして記録映画用カメラの主流をなしている。)
 権力はいずれのタイプの画面を脅威とし、いずれのタイプの画面を、テーマのすりかえ可能の「原材料」として見るかは自明のことであろう。言いかえれば、きわだって、個的な映像、ほとんどスタッフによってのみ共有を許されるというに価するほど、きわだって個的な映画の語り方が、その記録を換骨奪胎から守るのである。いわゆる、分らないとか難解とかいう批評に、謙虚に耳を傾けるのは当然であり、その謙虚さはどれだけ深くてもそれで充分とは言えないが、その分りやすさとか平明さを求める批評の基準が、「事実を客観視せよ」とか「反対意見に耐える公平を期せよ」とかの指示性を秘めている場合が極めて多いのである。T V局内の自己規制はほぼこのような事から始まるのが常道である。一見もっともらしいが、その観点をうけ入れて編集・構成・録音へと作業を進めるとき、もはや現場で獲得したものとは全くちがう、牙をぬかれ、規格にはまった一人称不在の「製品」となることがしばしばである。そのようなフィルムは、のちに、テーマをもかえた偽造・変造のドキュメントに堕するのにあと一歩の距離ではないだろうか。
 権力は「表現の自由」については細心であり、同時にシステム化している。彼らの最もチェックするのはテーマである。一つ学生運動を素材とするにも、一つ公害反対闘争を撮るにも、そのこと自体を禁止するわけではない。その作品群の量が増えることも本質的脅威ではない。攻撃的なテーマ、反権力的テーマ、権力がその手で管理し、間接的にも統御出来ない作品を恐れる。したがって、企画意図、シナリオ、映画のテーマの明らかなものを標的にして、それによって、対応のし方を勘案しようとする。その時に、映画を撮ることによってでなく、テーマやシナリオを武器としてそれに拮抗し闘うことは極めて困難である。勿論、一つの作品を作るのに、テーマ抜きに撮ることはない。しかしあらかじめテーマをきめ、絵をつけていく作法は、すでにのべたように私たちの映画作法の視野にはない。テーマをたて、シナリオを想定することは、スタッフがイメージを共有する過程で必要であり、その想定が、現実にカメラをむけたとき、いかに変革を余儀なくされ、いかに自己解体されるか分らないにせよ、その明日の作業に対して、こわされるべきもの、或いは深められるものの現在形として必要であり、スタッフの討論のパン種としてあるのである。あらゆる想定を超えて、現実はより自由であり、より豊饒であり、複雑であり、弁証法的思惟を求める。それに耐えうるよう本来ひとりひとりが異質な核をもつスタッフでありながら、全員が創作主体を分ち、一つの同一主体でありたいという架空願望をとき放つとき、テーマは実体的にスタッフの中に生まれているものであろう。
 「よく撮った」という批評がある。しかし実感としては「撮れなかった」ものの方が多い。そして「撮れたもの」しかフィルムにならないのである。ドキュメンタリーを志すものにとって、撮影現場への出入りを絶たれることがほぼ常態である。『パルチザン前史』をとっているときも『怒りをうたえ』(七〇年安保闘争記録)でも、又『水俣』のような映画でも、そこが権力の支配の及ぶ場所である場合、権力は必ず許可した報道人や記者章をもつものと、私たち無記章のものを識別し、撮影可能な領域に入れないし、入った場合でも、排除する。それが大学当局であったり、機動隊制圧下の路上であったり、水俣の場合、市役所やチッソ工場であったり枚挙にいとまがない。勿論「策略」も立て、「闘争」もする。しかし「撮れた場合」の多くは、基本的には権力に立向う人々の手びきによるか、権力と顔をつき合わせる闘いの動態を利し、そこに這うように近づき得た場合しか「撮れる」条件がない。そしてその時、カメラとマイクは彼らと我らの動態のはざまにおかれ、そこで「撮れた」か「撮れなかった」か二つに一つしかないのである。
 『水俣ー患者さんとその世界』のラスト・シーンとなったチッソの定例株主総会の時、事前の情報では一切のカメラ・マイクを入れないということであった。同様にビラ・垂れ幕・旗・メガフォン等の表現の武器も一切取り上げるという措置が伝えられていた。だから私たちは隠しカメラ、かくしテープ・コーダー等を準備しつつも、たとえ中に入れなくても場外の描写をもって語れる準備をする一方、大衆的な闘いによって、そのチェックと防禦線を突破できるチャンスをうかがっていた。チッソの管理は厳重であったが、それが激昂を呼ぶ種となった。その激突の間をくぐって私たちは一挙に器材を持ちこむことが出来た。そして映画をとりすすめながら、最後に浜元フミヨさんが社長江頭豊につめよった瞬間、この一瞬を可能にするために心をくだいていた支援の人々は人垣を作って、テレビやニュースの諸氏を一歩もその円陣の中に入れなかった。この人々で占有した空間の中に入り得たのは映画では「東プロ」の人間だけであった。だから撮ったのではなく撮らしてもらったのであり、つまり「撮れた」のである。そして、この「撮れたもの」の中にテーマが浮上して来るのである。極端にいえば、とれる前のテーマの顕示や目的意義性の堅持は、撮るための具であったり、「映画運動」の不可欠な表現ではなく、ひとり、スタッフの中に、或いは製作集団の中にあればよいのであって、映画製作上の外的な附加価値としたり、免罪符とすることは映画を作ることと無縁のものであると思わずにはいられない。

 先に現実は自由であり豊饒であり弁証法的思惟を求めるとのぺた。その場合、対象の中にいつも基本的には二つの側が厳然としてあり、どの側から見るかということはドキュメンタリーを作る場合の一つの見地づくりとして重要であり、対象と私との関係を規定するものに思える。このことについて考えるようになってから最近の記録映画論のいくつかの中で私のこの思考の方法からみて、対極に立つと思われる手法に陥りかねない立論をみるので一言ふれたい。
 かつて記録映画の原則を最も端的に要約した大島渚氏は次のようにのべたことがある。「記録映画の原則とは何か。それは一つは記録する対象への愛、強い関心・執着であり、今一つはそれを長期にわたって行うことにほかならない」(「映画批評」一九七〇年十二月号)。彼は『忘れられた皇軍』の体験をもとに、初心を発見した感懐をのべて感動的である。しかしその述懐と作品との関係は必ずしも一致していない。『忘れられた皇軍』は次の点で忘れられない印象をのこしている。陳情デモを空しく終えた夜、赤ちょうちんの酒場で、涙を流して悲しみなげいた朝鮮人元傷病兵のクローズ・アップはその人々の十八年の苦しみの爆発であり、彼の主張、彼の自己表現のピークであった。それは同時に映画のピークと重なり、ラストは、天下泰平な夏の海辺をゆく彼を追いながら、「日本人よ! これでよいのか!」というナレーションでしめくくっていた。その怒気はほぼ大島氏の肉声であり、観る者を震織させるにたる重量をもっていた。その構成は一つのテーマに貫かれて間然とすることはなかった。しかしそれ故にまた、TV の作品性の要求した枠にきちんとはまっており、そのピークは「劇」的に創出されていて、いわば「劇」映画的な質の感動を収斂しているものに思える。「『忘れられた皇軍』の場合、長期間の記録の条件はなかったが、それがないところから逆の方法が生まれたのだ・・・長期間記録の条件がない時、あるいは政治的規制が存在する時、彼らは逆に、それを主体的な方法と化してゆく作品をつくっていくのだ。もちろんこのことは私が『方法だけを論ずるものは類廃する』で危倶したように、その記録対象と製作条件のからみあいの中でのっぴきならないものとして発見された方法が、ただちに方法だけ取り出されて他の作品に使われてしまうという不快な堕落をともなうのだが・・・」(「映画批評」前出号) 。この「逆の方法」がその初心とどう向合ったかがドキュメンタリーの問題であり陥穽なのではないだろうか。
 その「逆の方法」なるものは或いはドキュメンタリー映画の中でのテーマ性とドラマ性をドキュメンタリー風に混沌とさせつつ、開示してゆく、いわゆる「アクチュアリティの創造的な劇化」(ポール・ローサ、イギリスのドキュメンタリー映画の理論家)の方法論と紙一重ではないかという危倶である。「日本人よ!これでよいのか! 」という思いは受け手にとって強く響くが、果して彼と朝鮮人傷病兵とのかかわりは、そのように一体であり、一元的でありうるのか。そこには「劇」化を本能的に志向する演出手法のにおいをかがない訳にはいかない。その「劇」化からあふれこぼれる現実の中にドキュメンタリーの不断の発見性への継起があり、その総体系へのかかわり(長期記録をふくめ) こそドキュメンタリーの初心であるのではなかろうか。私が大島氏と同じ頃、同じ番組で仕事をしていた関係から、TVの諸属性は充分理解しており、それへの妥協もそれへの了解もした上で試行錯誤を試みたものとして、他在的な見方を片時も出来るものではない。しかしその後の氏のドキュメンタリーに於けるコメント重視(『ユンポギの日記』) や爆発点の設定(韓国に取材し、かつて革命闘争に傷つきいまは売笑婦となっている一女性を主人公とした『青春の碑』のラスト部分) 等を見ると一つの体質的な「劇」の発想をみない訳にはいかない。「季刊フィルム」の七一年七月号に武満徹氏との対談で、氏は『忘れられた皇軍』のプロセスと意図をこう語っている。「ドキュメンタリーというものを、ぼくは日常的な積み重ねで撮ろうとは思わないんです。いわば、その人間が自己変革をおこす、あるいは自己変革をおこすことによって他を変革する瞬間をとらえたいと思ってますね。その瞬間をとらえなければ、ぼくはドキュメンタリーではないと。だからぼくは『忘れられた皇軍』をつくった時から考えついたことを言えば、普通の監督だと、キャメラを意識しないで下さいというのを、ぼくは意識しろと言うのですよ。・・・人聞はキャメラを意識したら喋りたくないですよ。でもそういうふうに抑えながらも、もう一回激発する瞬間、だあっといっちゃう瞬間のようなものを撮りたい。だから『忘れられた皇軍』というのは割合うまくいっちゃった。彼は絶対に自分のことなんか言わないでおこうと思っていたのだけれども、言っちゃった。・・・ 」
 カメラがそこにあることについて、その存在を意識しないことはあり得ない意味で、意識しろと言うのは一つの見識であろう。しかしカメラを一つの媒介にして、対象をして喋りたくない、自己表出したくない状況、ある意味で一つの抑圧をつくり、それを打ちやぶって自己表現をとげてゆく。そこの激発をとりたいというとき、そこには練達した俳優操作と、現実の重層に対する凝視ではなく、一気に劇的発展をまちのぞむ作家がありすぎはしないか。テレビのドキュメントが限られた製作日数と、その内容にかかわらず二十五分定尺という規格が厳然とある場合、そこにも一つのドラマとピークを求められる。終りのない終り、日常と日常とのはざま、連続する日常も、いつの日か非日常に転じ、いつの日か爆発に至るであろう。ある撮影の期間では、胎動といえるうごめきでしかないかも知れない。それは「ぶざま」にもプロセスだけかも知れない。しかしそのプロセスを共有することが、真にドキュメンタリーだけに課せられた「記録」の本旨ではないだろうか。誰もが変革の一瞬を撮ることを夢みる。それは「撮る」ものでなく、まさしく「撮れたもの」であり、作為によって爆発させられ、カメラに納まるといった態のものではないだろう。氏の演出の方法が次の報告とどうかかわっていくのであろうか。
 「記録者は対象と対決することによって、記録者自身が否定され、破壊され、そこから新しく生まれかわる状況を記録していくのが、映像記録の原則だと思う。つまり、いま自分がカメラをまわしていることは、相手にとって、そして自分にとって何を意味しているかを問いつめてゆくべきだ。ここでこそ記録者としての主体性が問われるのであり、カメラが加害者であることを忘れてはならない」(一九七一年六月、映像記録に関する国際シンポジュームでの日本報告とする毎日新聞より)。
 氏の場合記録者が対象と対決するというとき、カメラをもっての対決であり、それは対象者に意識されるに価するものであり、加害するものである。その立場と特性をもつものが、対象にむきあうことによって、記録者自身が否定され、破壊され、そこから生まれる状況を記録するのがドキュメンタリーだということであろうか。その時、記録者の眼対対象一般という図式であるのか、どこの側にいる記録者のどこにむけてのカメラの闘いであり、自己否定の闘いであるのか。記録者の眼という無限定な眼がありうるだろうか。この彼我が一つの現実を対立するモチーフのもとで相争う時、一つの現実に彼我のはざまにあって相むかおうとする時、カメラを何故いつに加害の表徴としてのみとどめるのか。カメラよりもっと巨大な加害があるとき、カメラもまた被害の場に立ち相手を加害すべく立ちむかう構造の自在さがありはしないか。ドキュメンタリーが権力によって物理的に取材規制をうけるのみではなく、いま現代の矛盾が一斉に中間の立場を許さぬまでに二つの側で死闘している場合(側を階級におきかえてもよい)、私達の出発点はカメラがどの側に加担するかということこそ一つの決断であろう。
 我対対象一般、カメラ対対象との聞の矛盾・相克といったその基本動作は常に正しい。しかし対象はつねに二つの側のいずれかにあることから応対が始まるのである。この二つの側の闘いのはざまに今日、ドキュメンタリー映画はその反権力的資質を鍛え上げられざるを得なくなっているのだ。同じ論に立って、カメラは加害者の意識の上に立つことは充分あり得る。しかし誰に対したとき加害は加害の正統な力を発揮するのか、いま、カメラ=加害の一元論を更に多層に分析し、対応してゆかねばならないところにすでにきているのだ。チュア君の集会シーンを例にするまでもなく、カメラをもった人間の闘争現場への出現を渇望している人々も日本の底辺のいたるところに常在している。カメラの暴力性とか加害性一般はしいたげられた側の中の記録の精神とほぼ無縁なのだ。
 対象に眼をそそぐとき、カメラをもって見まわすとき、事実は生起し、変化し、極めて多彩であり、生きており、とても一つの言語的言語で形容し得ない。とくに対象に対して恣意的テーマ的に選択するのではなく、その対象そのものを理解しその全体性に近づこうとするとき、ドキュメンタリー映画は最も有効な表現が可能である。かつてある人は「編集で六十点、音を入れて七十点、音楽を入れて八十点、ナレーションを入れて百点満点」といった意味の記録映画作法を語ったときいたが、私はこれに深い疑問をもつ。映像で百点でないものは、音を入れても、ナレーションを入れても百点にはならないのではないだろうか。ときに、音を入れナレーションを入れることで映像のゆたかな内容に観念や感性上の枠をはめるのではないかを怖れる。一つのシーンは時に事件をうつしながらもそのひとりひとりの人間を語り、あわせて、その風土を包み、その群衆の心情の美しさを描き、又動きの変化のモメントを呈示しているなど多層である場合がある。選びぬかれたコメントの言葉としての規定性とはうらはらに、映像は観る人々の意識の中の数チャンネルを一挙に働かせることをうながす。もしこれにナレーションを入れればその数チャンネルのうちの一つに添ってこれを見よという指示になる。又、美しさのチャンネルを増幅すべく音楽を使用すれば、変化のモメントとか、事件とか硬性な部分は一つの音楽のテーマの中に包みこまれて一つのチャンネル、一つのテーマ性の中に融解し、埋没しかねない。映画がトーキーとなって音を獲得してから、見る人をいつも受動的にうけとるよう馴致してきたように思える。殆んどサイレント映画に見るような映像の多元的な喚起力を失いつつある。最も重大なシーンはつねに副次的解説的な要素を排するほどつよい吸引力をもつ。その映像のもつ力は、作者の意図したコメントや音楽と異和し相克し合うものだと思う。それでも人々はやはりコメントを求めるだろう。しかしその人人が画面からうけたものから自らのコメント自らの音楽を想念の中で作り出すものだということを、作り手自らのコメントと音楽のかくとくの意識操作をよりどころにし、ひとしく観る人に対し、信頼し、求めてゆくことがドキュメンタリー映画の一つの特性ではないだろうか。
 近頃の報道部門、とくに短いニュースの中で、今でも現実音、例えば国会答弁を出来るだけ原音のまま放映しようと努力しているT V局と、ほぼ同じ秒数同じシーンを出しながら、必ずコメントをもって説明する局とある。これは些細なことのようだがコメントだけが最終的に管理できるものであり、それを管理しているか、その管理に拮抗しているかの差が見られるのである。臆することなくわれらの言語、われらの世界観をアジテーションとして映画の中にぶちこもうという勇しい作業もある。それはそれで私の目下の追求の外にあることである。私が『パルチザン前史』の中で一切の音楽と一切のコメントを排してみたのはこの作品の対象の中に、一つのテーマに絞りこむにはあまりに生々転々する青春があり、その語り、その歌、或いはその叫びがすでに充分音楽的に思えたからであった。『水俣ー患者さんとその世界』で中世教会音楽を使用した。東陽一氏の所蔵のレコードから録音を担当した久保田幸雄氏が発見したレコードである。これを、自然と人とのかかわりの個所にのみ使用した。タイトル・バック 、蛸と海、海辺、この三カ所である。ここの人間のもつ音楽的世界はそれ自体彼等の選択としての艶歌であり、小学校唱歌であり、御詠歌であり、それらは、交換不能のものとして、厳存し、それがこの作品にとって最も大切であると思えた。撮影と行動の空間の中の音、声、物の響き、語り、そしてその場で耳にした音楽、それらはそこで現実とからみあって生きている。そうした音をこそ発見し、記録し、フィルムと重ねることへの興味がまだ果しなくあるのである。

 権力に分断されることのない映像と音のこもったフィルムでありたいと思う。その一つの答えを小川紳介氏は出している。『第二砦の人々』で採用した手法はフル・シンクロ(全同時録音方式) による長いショットの意識的使用である。撮影している時、音はとられていなければならず、音が生起した時、カメラはその音を追わなければならない。つまり被数のスタッフが一本のシンクロ録音のコードで相互にしばられつつ相互の記録作業に呼吸を合わせ闘争シーンを、そのわずかの戦いの合間の農民の語りを撮る。これは練達したスタッフ・ワークと、強い表現上の共同動作がなければ出米ない。予期せぬ現実との対応の中でそれをしとげるのだからである。このフィルムは、二時間を超える長尺をショットとしては八十五カットで構成している。その一カットを恣意的に使用したとしても音がなければ表現のすべてでなく、絵だけでは何を喋っているか分らない。それでいて、絵だけ見ていても、農民の語りが沸々と湧いてくるような密着があるのだ。つまり換骨奪胎のほとんど不可能なフィルムとして完成されたのだ。同時撮影、長廻しカメラだけならどこにもある。しかしこの方法の中には、強靭なスタッフ論と側の問題、対象世界の人々とのかかわりが毅然一体をなしているのだ。これはおどろくべき一つの到着点であろう。一つのフィルムのつよさとは技術的なこととしてではなく、総体が如何に生きた体になっており、屍体縫合を拒否するか。先に一つのテーマ主義についての意見をのベた。つまり「記録とは」「事実とは」について本多勝一氏の胸も借りてのべたつもりである。結局、映画における記録の主体はスタッフにしかなくドキュメンタリーはそのスタッフの全時間の対象化、外化に外ならないと考える。映画は作ろうとして作るものでなく、産まれるものだという思いがしきりである。
 映画『水俣ー患者さんとその世界』も出遭った人々の協力によって生まれ、その協力はどういう映画を作ってくれという「契約」ではなかった。私たちは映画の期間やフィルムの撮影の量を予想することは殆んど困難であった。「公害反対」のテーマにも「二度と水俣病をくりかえすな」の叫びにも心をすべて託すことは出来なかった。ただひとつ、映画は出来るであろうと思わせたものは、患者さんが病者としてでなく、漁民に見えたときである。 その漁民の住む村のたたずまいが石牟礼道子氏の文章により、私たちスタッフの住みうる広さをもっていることを知り、それを確信をもって裏付けてくれた熊本の水俣病を告発する会の人々の、仕事とも生活とも道楽とも闘争とも分ちがたい姿勢に学んだからであった。『水俣ー患者さんとその世界』が生まれるのに、患者さんのすむ漁村の水俣病多発地帯に居住安臥させてくれることが最も必要だった。石牟礼氏や熊本の人々は、妊み婦を産屋に入れるように、まゆをつむぐかいこの習いをまつように、一つの映画の出来るのを、じっとみつめていてくれた。そこには幻視の邑があり、人里があり、「惣」的なものがかいま見れないだろうか。
 私がこのような考えにとりつかれる契機となった『パルチザン前史』について、その完成の直後にかいた一文がある。創刊号だけでつぶれたと聞く京都の同人誌『表現』に発表したものである。ここに映画をたち切られることを許さない一つの「生きもの」でありたいというねがいをこめてこう誌した。いささか長くなるが、私にとって自己開示の声がありのまま出ていると思うので、その引用を許して頂き、最後としたい。
 「私のこの二、三年の映画は、撮った順序と編集した順序とほぼ同じである。その点『パルチザン前史』もがんこにその方法を継いでいる・・・。
 『大阪市大落城』のシーンは京大時計台(註・ーの攻防戦) をみつめた三十時間がなければ、あの撮影はできなかった。京大落城、その前日の百万遍(註・町名)闘争ーその一見みごとな闘いでありながら、そこに計画されたものより、その力量より、はるかにつよい権力によって不発に終えさせられた。その(権力の) つめ将棋的な統合力を見てきた眼でしか『大阪市大』のシーンの訴えかけているものを抽象できなかった。京大で捉えた教師像、たとえば京大時計台を茫然とみつめていた教師、九・二四の文学部再封鎖のときに『退去勧告』にくる教授たち、さかのぼっては九月下旬、同志社大学で『赤軍』のボッックスを密偵のように機動隊指揮官に売ったベレー帽の教授たち、こうした使用、未使用のフィルムに残った教師像のつみ上げがなければ、大阪市大の教師を捉える一つの構図(注・機動隊の排除に礼をのベサバサバした顔で帰路についた大学の首脳たちをとらえたもの) とあの『仰げば尊し/わが師の恩』の歌に、ある感慨をこめることが出来かねたに違いない。
・・滝田に関する一連の代表的シーンはほぼ一日で撮られている・・・。(三ヵ月の) 日々を撮りつづけながら、その間蓄電されたボルテージは何処にむかつて噴出するのか。滝田がある日予備校で(註・生徒の前に)”むき身”になりはじめた時、その荷電は正常に流れはじめた。それはその日の午前の出来事であった。その午後、全く予定しないスケジュールでありながら、ごく自然に、家族を、彼の歴史をこめた書架を、彼の愛するローザ( ルクセンプルグ)とその言葉を辿ることが可能となった。彼の小さな借家の一間に、カメラとテープをもって入ることは、私にとっては、百万遍の闘争で機動隊の前に立つよりはるかに怖ろしく、難儀である。何故なら、カメラとテープがそこにあるからだ。それが酸素か空気のように、当然ある存在になる時は滅多にないことだー。この一日の滝田のディテールを撮り終えたとき、私は”出産“ を感じた。
 私は映画の特性である時間の転倒、空間の飛躍、フレームの自在化を充分有効と思いつつも、なぜ日誌的編年史的な時間に、自分を金縛りにして記録するのか分って頂けるだろうか。記録映画が、人を盗み、肖像を切り撮り、人の言葉を採る・・・そうした物理的武器、レンズ、フィルム、テープ等を私が一方的に独占し、それを力としてもっている存在である以上、『被写体』の人間と私とは同列平等であり得ない。
 まして編集という個的な作業でイメージを創造でき、一見、全く別個の世界をつくり上げられる立場をもっているものが、シリアスであるべき事柄を表現する際に、フィルムの上でのみ”映画作家” 的であってよいのであろうか?私がこんなチマチマしたことに心患っていらい、かなり意識的に、撮った時間序列とシーン序列を、主体者、作家の旅の全行程として、そのまま陽にさらすことを、過渡的にせよ一時期の方法として私自身に強いる。したがって、撮影の日々に、シナリオから編集まで、映画の生成のAからZまでが重層し混沌をなしていなければ、出産に至らないのである。毎日、女と寝ているのに似ている。そして私は女であり、母であり、ときにワギナそのものに似ている。十月十日の日が要り、その順序は崩せないのである。それは、作家の仕事ではなく、生きものの仕事なのである」

1972/4/20