ヨーロッパの感応 「公明新聞」 10月24日付 公明党機関紙局
六月から約百日間、ストックホルム(スウェーデン)の環境広場での世界初公開を皮切りに、主として西欧で、記録映画『水俣ー患者さんとその世界』を発表してきた。世界中から集まったストックホルムでの上映のあと、北欧、西ドイツ、オランダ、イギリス、フランスそしてモスクワが主な訪問地であった。(別途、中国では試写の上求めに応じて寄贈してきたが、これについては別の機会に触れたい。)
その上映の度に、私はその国の人々の隣にすわって、その反応をつぶさに感得してきたし、見終えたあとの質問やインタビューにひとりで応じてきた。その度に、私は名状しがたい気持ちに追いこまれる。日本での上映のときはチッソは憎いし、ひどいという姿勢で通るのだが、ひとりの日本人として異国の人々の真剣な質問や映画からうけた感想を一身に叩きつけられると果てしなく苦痛になる。各地の人々の反応は病気についてのショックはものすごいが、それはあとでのべるとして、日本の政治家、企業者、資本家の人間性の無さについて、病気そのものよりも怖ろしいものを見たというのである。まして十八年間も原因をひた隠しにし、行政的にもロクな手は打たない政府と企業の結託犯罪を見ぬいた上で、心からいぶかり非難するのだ。
ニコン、ソニー、トヨタ、ホンダ、東レと日本の商品の席捲しているヨーロッパでの日本のイメージは、この公害の事実の前に、さかのぼって戦争中の顔が重なり見えるともいう。日本より克明に北ベトナムでの非戦闘員殺しの報道を見ているヨーロッパの人々には、その皆殺し戦争ともどこかにつながっての憤激となり、それが言葉に出る。
礼儀正しい彼らは日本の公害を告発した映画の作り手である私への評価もつけ加える。
しかし、すこしも嬉しいことではない。住む地にコミュニティー(生活共同体) をつくり、自分の人間の権利を確乎として主張し、ときに血をもって闘った革命を歴史の中で経験しているフランス人たちからみれば、私もふくめて、けげんなのである。「何故かくされていたのか?何故十七年後にしかはじめて映画に出来なかったのか?」と。
映画を完成したとき、認定患者は二二名であった。一年後英語版をつくったとき一八一名に訂正した。帰国したら二四三名になっている。せきを切ったように水俣病患者が浮き上がってきているのだ。試写をみて各国の人々は「映画の中で、まだ発見されてない患者をさがして歩く話があるが、あとどのくらい、出るのか?」。私は「県当局のコンピュータによる式算でも少なくみつもって一万五千人相当と見られている。しかし学者は潜在患者数は不知火海域で十万名と推定している」と答える。彼らはこの映画の対象となった認定患者が県当局の発表の一~二パーセントであることを知ると不可解なまなざしになる。つづいて出る質問は、「政府は根本的な対策をとらないのか、こんなひどい病気を知らないのか、この映画を政治家は見ているのか? チッソはまだ責任をとっていないのか? そこの労働者は何をしているのだーマスコミは? 革新政党は?」。そして口調はいつの間にか、私への詰問ともなってくるのだ。つまり、隠れた患者に対し顕然化し認定せざるを得なかった患者が、わずかて1パーセント強つまり一〇〇人に一人そこそこという放置に対し、十八年間かかって、まだ対策は序の口であり、水俣病闘争は始まったばかりなのですねと念を押される格好になるのである。正直いって、公害の専門家でもなく、水俣病闘争へのかかわりとして映画をとった一映画監督である私が、このフィルムの公開の席上で、「日本」のトータルを背負って、水俣病をとことん解明すべき責を西欧の人々によって取らされるのである。これは心にこたえることであった。
西欧では、水銀中毒はまだキャンペーンを全人民的にもりあげるほど、焦眉の事ではない。したがって、映画から、今後起こりうる人間文明の毒のあらわれ方、その毒の予見を読みとろうというふうに見える。私の映画『水俣』は日本での公開を目的としているため、ぜひ分かってほしい、患者さんの実態を知ってほしいというキャンペーン的気持ちが底流にあることは隠すべくもない。しかし、撮影、構成、編集にあたって、細心に、水俣病の全体像が、見る人によって組立てられるように、正確に誇張なく描いたつもりである。
この中で専門的、つまり医学的、細胞学的、遺伝的な科学映画風のまとめ方を排したのは、なんらすでに完結した病像ではなく、すべてくまなく解明された病気でもなく、目下多様な形をとって進行している病像としてできるだけその個人差を大切にしつつ表現したつもりである。長い病院生活で、親の顔も声も忘失した胎児性患者もあれば、いつも母の手に抱かれて奇跡ともいうべき心の交歓を行なっている例も、ひとことの解釈もなくそのまま見てもらいたい、そこに医学者らしい発見もあれば、精神を論ずる人々の発見も教育者の発見もあろう。そうしたうけとり方を期待した。この方法のため、映画は三時間近い非常識ともいえる長編となり、上映活動家泣かせとなった。
ヨーロッパでもこの上映の長さは見る前はいつも問題になったが上映後のうけとり方の確かさは、また日本とほぼ同じである。人々は胎児性の子供にその悲劇を収れんして受けとめる。炎症やただれのたぐいの毒でなく、人間の最も大切な脳を侵し、その言葉や視力や聴力や全運動神経をうばい、植物のように生きる外はないこと、しかも一見健康な母親の胎内から死産をまぬがれて生まれ落ち、暗黒の世界の中で生きつづける人間、かつて化学工業や重工業の発達以前には地球上に例のなかった病気、それが、子供に現われ、子孫代々の生殖をおびやかすことに言葉を失うのである。
私の映画は、同情をそぎおとしまっすぐみることにつとめた。だから、ときに患者さんを包む日常生活、かつてのめぐまれた海と太陽の下ですこやかに生を営んだ人々の生命の輝きが、明るさやほほえみを誘う。その場面では彼等もまたたしかに、もう一つの日本と日本人をみるようであった。フランスの批評家は「これは水俣病だけの映画ではなく、美しい日本と日本人の心の世界も描いている」ともいった。それは患者さんが闘い(訴訟) にふみきって、全国の人々と出来たつながりによってよみがえった人間信頼の気持ちが、あの不知火海の温和さとないまざって、西欧の人々の心にもとどくのである。
株主総会に出るに当たって練習する御詠歌も忠実に英訳したが、それは東洋哲学的な情念をつたえている。「人のいのちは長いものと思い、春はいつまでも自分の上にあるものと思っていた・・・」。こういった言い方で英語のスーパーが出ると、私もあらためて、その御詠歌にひめられた常民のもつ悩みからの解脱のひたぶるな祈りを発見する。その歌をかかげ株主総会のクライマックスに至り、西欧の人々もまた人間の皮をかぶった資本家や政治家への怒りに足をならすのであった。だが、映画が終わってから、彼らは「これをどうするのだ!」と詰問しづつけるのである。つまり映画の終わりはまた水俣病闘争の第二幕の始まりとつながっているのである。私はそのことを思い知らされながらヨーロッパを歩きつづけた。いまもフィルムは各地で上映されている。
七月ロッテルダム(オランダ) の国際映画祭で三位であったが、この十八日の電報によれば、マンハイム(西ドイツ)映画祭で記録映画部門の金賞を得た。私はふと映画をもってまわりながら出会った人々のひとりひとりの真撃な顔が眼の前にうかぶのである。