水俣病-苦悩の果ての旅 『展望』 10月号 筑摩書房 <1972年(昭47)>
 水俣病-苦悩の果ての旅 『展望』 10月号 筑摩書房

 映画『水俣ー患者さんとその世界』をかついでヨーロッパのひとり旅に出て、もうすでに二カ月半になる。その間、映画の試写や上映にカをかしてくれた人々の殆んどは、団体でも政党でも、組織でもなく、みなひとりひとりの力であった。見知らぬ土地で、一面識もない人々が、一本のプリントを携えていった私を知己のように遇し、宿泊させ、自分の及ぶ限りの人々に試写の案内をし、会場をみつけ、この映画の上映、試写のために骨を折ってくれた。したがって、私のこのニカ月半のヨーロッパでの上映活動は、そうした人々の忘れがたい記憶のつながりとなって残っている。
 一回に数百人が見た時もあれば、ロンドンのように十一月の映画祭のために責任者がただひとりでみた場合もある。すぐれた構造の十六ミリ映写機で、ほぽ完壁といえる映写を実現してくれたストックホルムのフィルムハウス第一会場のような場所もあれば、ちょうど私達日本の独立プロよりもっと貧窮の中にある、自主上映組織の小さな狭い事務所の一室で、ぐずりがちの中古映写機をだましだまし操作して、数人の青年たちに見てもらったこともある。こうして、ヨーロッパの各地で、のべ二千人ほどの人々に観てもらったであろうか。ヨーロッパ全体が七月八月のバカンスのシーズンに、二、三をのぞいては小さな会場をめぐって、そうした善意の人々による持ちまわり試写的な公開が殆んどといえるなかで、この人数は、私にとって貴重なひとりひとりに思える。
 この映画は、製作過程から、基本的には、自立して作られてきた。水俣病を告発する会や患者さんたちに拠り所をおくとしても、東プロの非力ながら一つの才覚で映画を完成させた。その後の日本内での上映にあたっても、それまで映画の上映に関係したことのない市民団体、個人の手で二十万人を超える動員をみてきた。水俣病が公害だから、公害ブームの中で観られたのだろうか。恐らく、映画のテーマのもつシリアスさから言って、いわば重い足をひきずりながら、「水俣病」そのものを観るべくして観られた数と思う。何故ならこの映画は、公害反対闘争をテーマにしたのでも、市民労働者むけの”啓蒙” 的教育映画でも、政治映画でもない、ーいわば水俣病の患者さんの記録に限定して、そこからしか発言していない”水俣”映画である。
 この特性ゆえに映画となり得ている『水俣』をストックホルムに出すこと、国際的な視野の中に置くことへの新たな不安はあった。あまりにも”水俣” でありすぎたのではないかという思いが、心の中をかすめるのである。ヨーロッパでの水俣病の認識の度合については、のちにふれるつもりだが、特殊に日本の観客でなければ理解できない事情について、映画は必ずしもつまびらかにしている訳ではないのである。
 そうした危倶とは別に、今回この映画を横に拡げるのに力を惜しまなかった未知の人々の受けとり方に、一つの共通の心情が見られた。それは、行商者のようにひとりで歩きはじめた、『水俣』の独歩性によるのであろう。それは患者さんの闘いの独歩性と重なりあって見えたことによるといって過言ではない。まして、その患者さんたち、・・・多くの症状の患者さんたちの中で、長時間の旅行に辛うじてたえられると思われた、いわば中等、軽症の浜元二徳さん、十五歳の胎児性患者坂本しのぶさん達が、その病体を見せるべくストックホルムにまで来た、その行動性の底を支える彼らの気魄ともいうべきものが与えた衝撃とともに、映画はその後を追って登場した。受け入れ側のスウェーデンの環境広場が、人民サイドの自主的な会議体とは言え、国連会議の主催国として、いわば「官民」一体の反公害キャンペーンの中で、日本の代表とその諸資料、映画は、政府の圧迫をかいくぐって参加したことを、彼らは経緯ぬきに理解した。ヨーロッパだけではなく、アメリカ、アフリカ等からも参加した人々、この人民サイドの「広場」に来た各国の人々の殆んどは、自費で参加した人である。彼らにとっては、公害はまだ可能性、近い将来に起りうる危機としての予感である場合が殆んどである。彼らは、患者さんの直接の登場と映画を、すでに現実化された人間破壊の生きた証人、生きた証言として、のつぴきならない具体性としてうけとった。「声にならない。言葉にならない」といった感想が正直のところであろう。そのような人々が、意見をのべるという行動にすぐ移るよりも、まず、公害の現実を共有したい、すべて語ることを始める前に、この事実を共有のものとしてから議論を始めなければならないと考えたのはごく自然のことといえる。

 話はとぶが、この五月、私たちは、この『水俣』を新全総計画の最大のコンビナート地帯にふりあてられ、白地図に線引きされた青森県、六ケ所村で各部落ごとに上映する機会をもった。
 この端緒となったのは、茨城県の「開発研究会」の石川次郎氏たちの発案であった。開発地点のすべての農民漁民が、まず「開発」と「公害」の実態を知った上で、その進路を自ら決定できるようにしようという計らいである。そのために、去年の秋の農閑期から十回余も、「農工両全」の成果を謳われている鹿島コンビナートを案内し、実地に自由に見学できる機会をつくり、さらにこの春には、鹿島に合宿しての教育、学習会を数回にわたってもった。参加者は六ケ所村の村民であり、開発賛成派もあれば、反対同盟を作って反対している人々も含んでいる。その多くは農家の主婦であった。彼らの土地を奪って建設されるコンビナートは、鹿島の七~八倍といわれ、原子力製鉄から石油コンビナート、石油化学から重・軽金属に及ぶものであり、すでに隣村、東通村は年間一千万キロWの原子力発電所の用地買収が九十%以上終り、六ケ所村も土地ブローカーによって、虫喰いのように土地が買占められている。そうした中での学習会であった。
 主婦たちは、眠気と闘いながら、三時間近い映画を見た。同じ辺境の漁民の生活を背景に登場する、「水俣病」とその患者、そして家庭のエピソードは、東北農民にはまるで他国語のように難解な筈の「水俣弁」でであった。見終えてから殆んど言葉もなかった。私はこの観たことがどのように彼らの中でふくらんでゆき、どのように村の人々に伝わっていくだろうかと待った。鹿島でこの映画をみた人々は帰ってから、映画の中味を言葉で伝えることはしなかった。ただ熱心に村長を説いて、「賛成するにせよ、反対するにせよ、開発とか公害とか言うまえに、一度は、この映画をみた上でないと話はできません。ぜひ映画を村の手で、全部落に上映して下さい」とすすめ、全村上映となった。この五月、村の十三部落に村役場の手で上映会がもたれた。最近七月下旬ヨーロッパへの知人からの通信によれば、青森市で上映した上、さらにまだ見ていない村民のために、より念入りな部落上映をくり返すとのことである。”どういう病気か(映画か) 説明できない・・・まず観てほしい・・・” これが水俣病なのだ。
 話は横道にそれたが、ストックホルムから始まった上映のかげで動いた人々の心情も、ほぼそのような経緯をたどった。「事実」を、そのまますぐに俎上にのせて議論するには、事実そのものがあまりにショッキングであり、まず映画をともかくも観なければならない、そのために私たちは、働かなければならないと感じたようだ。
 昨年(一九七一年)十二月、東大助手、宇井純氏より、「今度の国連の『環境』会議の開催と時を同じうして、人民サイドの集会やシンポジュームを開く。日本の政府は公害病の実態を隠そうとしている。この際、映画をもってゆきたいが、私のもち時間は、せいぜい一時間か二時間であろう。映画を全部上映したいが、目下のところその見透しはないので、三十分弱に短縮してもらえないか」という申し出をうけた。私は彼の苦慮は分るが、出来れば映画の全部を紹介したかった。それ以前に、やはり宇井氏の依頼で、二十二分の縮小版を作って海外の会議に参加する彼に托したことがあったが、その中味は、”病症例” だけに限られ、水俣病の今日まで隠されつづけてきた歴史、それにひとりで立ちむかわざるを得なかった患者の怨みは、伝えられるべくもなかった。にもせよ、水俣病の実態を世界に伝えることについては、映画作家的なエゴイズムによる「完全主義」のもとに、その紹介の機会まで失うことについてはためらいがあり、その中で半ば義務的につくったものの、その二十二分のピック・アップ集は、自ら殆んど納得のむつかしい作業であった。それについでの短縮版の話は、私たちの内部に、それしか方法のないはずはないという想いも手伝って承服しかねた。少くとも作り手の私には、その想いがつよかった。
 その間、いくつかの映画祭の話を断った。何より開催国の言葉のスーパー・インポーズを作成する金も余裕もなかったことが、断りの主な理由ではあったが、反面「最も観せたい人々に観せる」というそれまでの上映の志からみて、来たるべきストッックホルムでの初公開がもっともふさわしいと信じていたからでもあった。そして、最も普及度のある英語版にいつでも着手できるように、その翻訳作業にとりかかったのは、今年の初めからである。「小川プロ国際部」とすすんで自認し、映画『三里塚ー第二砦の人々』の英語版を作るのに協力した、国際会議同時通訳の仕事をしている村田恵子さんが三カ月がかりで英語台本を作った。およそ、プロの外国語版製作者には呆れるほどの遅々たる作業に見えよう。しかし、水俣弁のニュアンスや、専門用語の多いこの映画を英語におきかえるために、彼女は何度も映画を見直し、方言をたしかめ、更に英語になったものをアメリカ人の友人に見せ、推敲し、苦吟の果てに、ほぼ完全な原文英訳が出来上るには、それだけの時間が要ったのだ。自分たちの手でスーパーを作った経験をもっ小川紳介氏は、「外国語版をきちんと作るには、一本の映画を改めて作るほどのエネルギーが要る。それでも言葉のニュアンスを一〇〇%伝えることは不可能だ」と嘆じたことがある。その通りで、『水俣』の中で激してほとばしるように喋ることばの、一つ一つのもつ何秒かの時間の中に、原文と同じ英語をつづり、それを視力で読みとることは、物理的に不可能であり、ほぼ三分の二位に言葉を縮めなければならない。したがって原文にこめたニュアンスは、ほとんどそぎ落ちてしまうのである。にもせよ、こうして手のかかる準備をしているうちに、何としても、この作業をフィルムにうつしかえ、世界の人々に見せる機会を作りたいという願いは強いものとなった。同時に、これだけの英語への移しかえが可能になった今は、三時間近い長篇が、必ず理解され、一定のドキュメンタリーとして成立をするであろうということも、ほば確信に近くなった。
 やがてストックホルム会議が近づくにつれて、文書の往来も始まった。その頃、在日オランダ人のA ・S氏やスウェーデンの記者、B・G氏らが、人民広場でこの映画を上映する場を作るよう、彼らとしても、働きかけをすることになり、やがて、準備事務局として活動を開始しはじめた「人民広場」から、・・・喜んで映画の出品を迎える、その会場も用意する、連日上映出来るであろう・・・という連絡が入った。そしてようやく三時間近い映画のヨーロッパ公開、そのいとぐちとして、この映画にもっともふさわしいデビューの場所、ストックホルムでの発表上映を選択の上決定するに至ったのであった。宇井純氏も新しい事態の進展をみて、映画の全時間上映に心から賛同を示したのは申すまでもない。
 この五カ月のジグザグの”工程” をふみながら、映画生活の十数年の聞に、今まで『ある機関助士』から『パルチザン前史』に至るまで、四、五本の映画を人まかせで海外映画祭に送っていたのだが、何といい気なものであったかと改めて恥かしかった。これが、再び映画祭のルートや商業ルートの力を借りての海外発表であれば、その作品のゆく方や遇され方に、もっと気のない情淡さをもち得たかもしれない。しかし、これだけの手を経た上は、何が何でも、その役割を果させたいという気が猛然と起ってきたし、この映画、この水俣病の現実に、世界の人々がどう反応するだろうかについて、見すえねばならぬと決心した。ひとり歩き出来る肉体となった映画フィルムのあとをついて、私自身も廻る必要があると思うに至った何かが、水俣病をモチーフにしたこの映画にはあることを分って頂けるだろう。

 六月四日ストックホルム到着より、五日午後一時半の第一回の上映まで、私は、水俣の患者さんグループの付添いと責任者を第一任務としていたので、荷物の運搬、移動、宿舎(民宿) の連絡と雑事に追われた。相つぐ記者会見や、個別インタビューに追われる患者さんの緊張しつづけの姿勢が、最も心配であった。オフィシャルな一時間刻みのスケジュールで運ばれていく患者さんや医師団の活動のかげで、とぎれとぎれに得た情報を組立ててみると、患者さんの到着の前に、その効果を減殺すべくいくつかの手が打たれていることを知った。
 その一つは、すでに国連会議に出席し、会議上で発言の機会を与えられた日本政府代表大石環境庁長官は、日本の公害を、世界の発展途上国の教訓としてほしいという主旨とともに、はじめて公然と率直に、公害の犠牲者について、政府の自己批判をのべ、謝意を表し、極めて好感をよんだという。と同時に、記者インタビューを通じて、「今回、ストックホルムで患者さんに会うつもりはあるか?」との問いに応えて、「政府は政府サイドとして仕事をする。患者さんは、市民運動の観点からやってほしい。何も一つになることはない」と患者さんとの接触を未然に絶つ意見を発表していた。
 その二に、多くの記者の口ぶりから、つまり、「最後におききしにくいことだが・・・」と前おきつきで語られることをつなげて推測する以外ないのだが、日本を出発する以前から、ひきつづいてストックホルムに於ても、政府筋から、「何も日本の恥をさらしにくる必要はない・・・病気といいながら、外国まで旅行できるではないか? 医師の立場からみて非常識極まる行為であり、許しがたい。一つの政治的効果をねらって、公害反対運動の具に、患者さんを使っているのではないか・・・」といった言動が流布されていた。
 その上、これは全く別の事情であるが、映画は六月五日の「日本デー」に上映される予定以外に、他の上映の機会は決まっていない。他の各国から短篇を含め三十四本の映画の上映があり、『水俣』をくり返し上映する余裕がなさそうだという情報がつたわった。事前に日本で連絡をうけた際の、連日上映とは全く状況は大違いである。これは、人民サイドの集会事務局の問題であるにせよ、日本からストックホルムに来るまでのつきつめた気持から言えば、ストックホルムでの活動は、つまるところ、自分たちの手で闘いを組織し、自分たちの手で情況を切りひらかなければならないものであり、けっして御膳立ての上で進行するものではないことを改めて認識させられた。

 六月のストックホルムは冬から一気に夏が来ていた。空港から宿舎までの間に車の窓から見た澄み切った空、劃然とした市街、そして誰が作り育てたのかチューリップの花壇が、街全体を公園のようにしていた。「こんなきれいなところでは公害なんか起らんじゃろなあ。起ったとしてもすぐ分るもん。みんなこんなにきれいにしてあるで・・・」と浜元二徳さんは独り言をいったが、それは、私には、日本の「公害」の深い病根を、正確に世界の人々に伝えられるかどうかの危倶とないまぜて聞く外なかった。
 ストックホルムにわざわざ患者さんが来た、政府を攻撃する公害原論自主講座グループが、独自の資料や映画をもって来たーそのことへの先制攻撃的な政府代表の身がまえについては、痛いほど思い知らされる。
 大石長官が、昨年九月以来の「月光仮面」的活動で、国内でも異色の大臣として一定の評価を得、水俣病の自主交渉の謬着状態に対し、一定の仲介的役割で局面の打開を計ったことについても評価されていることも知っている。しかし、機会を得て、自主交渉の場に居あわせた私は、彼がいかに運動と名のつくものを嫌っているかを眼のあたりに見てきた。患者と支援グループ、特には「水俣病を告発する会」を切りはなし、患者から、運動に根ざす思想をすべて削ぎ落して、「裸一つの患者」として身を処してほしいということを、暗に言いつづけてきた彼を知っている。
 例えば、この二月の第二回の自主交渉のとき、初回の自主交渉の席上、会社側が歴史事実をゆがめたり、特別の論理展開をして、言葉の上のやりとりに交渉を押し流そうと意図するときに、患者さんの後方にすわって時に発言を以て患者さんを支えた「告発する会」の本田啓吉代表や宮沢氏を排除するために、大石長官がかげでいかに尽力したか・・・第二回目の会議前の予備折衝で、ついに患者代表川本輝夫さんが、「告発する会」の人々の出席をみとめさせ、代りに発言はしないという苦汁をのんだような回答をもって、とりあえず第二回の会談の成立に事をはこんで退席したあと、なおもぐずるチッソ島田社長を、彼がなだめすかしながら、「こじれにこじれた経緯があるのだから、一挙にあなた方会社の思うようにはいかない。支援の人の発言を今回は封じたのだから、次の機会はその次の方法を考える。そうして段々に患者さんだけにするから、今回はそうしなさい・・・」と説得した。また、小さい事だが、”自主交渉” と書かれたタスキを見とがめて、執拗に外すことを患者に求めた。

 これらのことは、いつも彼が洗練された「官僚」であり、一方誰よりも強く「運動」を嫌悪していることを物語っている。ストックホルムでの「自己批判」の発表も計算されつくした発言にちがいない。また、そのような発言が、一部にしみ入る余地のあるほど、水俣病の現実とその歴史的経過は、知られていないのだ。とくに、隠徴に流された「恥を見せ物にする」という言葉は、医師(大石長官は医師でもある) の立場としてという言い方とからめて、怜悧に効果を計つての言い方であった。
 私はひそかに一つの着想をもった。それは、現地の映画会に、正式に大石長官らを招待し、日本で見なかった映画をここで見せ、同時に各国代表団のメンバー、各国新聞記者にも一斉に同じ機会に同席して見てもらうことである。このプランはひとりぎめのものであったが、その着想に、夜もねむられないほど昂奮したものである。それが到着第一夜の映画活動のプランであった。その日同席した現地エクスプレッセンの記者で、日本に数年滞在し、日本の公害を扱った著作『ハラキリ日本』をあらわしたB ・G氏もその計画に賛成した。そして翠朝には、私の映画上映の仕事を助ける友人として、滞スウェーデン四年になる亡命アメリカ青年D ・H氏を紹介してくれることになった。
 スウェーデンは、今までに、何度か水俣病をはじめイタイイタイ病など日本の公害を、テレピ、新聞、雑誌で公表してきたといわれる。重工業が発達し、とくにパルプ産業の進んでいるこの国では、水銀汚染によって湖沼魚の捕獲禁止騒ぎも経験している。恐らく、アメリカと並んで、最も関心のつよい国であろう。しかし水俣病を、身体障害の一種と見る程度の認識しか、一般にはなかったのではなかろうか。夏は白夜とはいえ、一年の殆んどが太陽から遠いこの国では、運動障害の病人がそこここに見られる。北欧の風土病ともいえる。街で見かけるこれらの人々の中には、時に訪問した水俣病患者の人々より重症の人も居る。にもかかわらず北欧の人々は、患者さんのどこに衝たれたのであろうか。それは生き恥をさらすことによって、人々に告げようとする患者さんの”表現”にであった。
 水俣病とカネミ油症の患者さんが、六月五日に「ジャパン・デー」の主役として登壇した。この日のことは、多く新聞に伝えられているので、改めてのべるまでもない。ただ私が、映画をとりながら経験した患者さんの光源的な光り方を、再びこの会場で目撃したことを伝えたい。

 すでに書いたように、患者さんの出立の前、新聞の伝えるところによれば、政府の関係者は、「日本の生き恥をわざわざさらしにいく事はない」とのべたといわれる。しかしこの日患者さんは、ためらうことなく、その身の恥かしさを見せ物以上にゆっくりと徹底的に観衆の前にさらけ出したのだ。字井純氏や、カネミ油症の担当医、梅田玄勝氏は、着衣のまますわっているだけでは分らない症状を示すに当って、傍眼で痛々しいほどの配慮を払いながら、患者さんに「見せる」ことを求めた。自分は患者ではない、一個の健康者である以上、それは当然であるう。だがその席上、浜元二徳さんは、水俣病の一つの特徴である歩行障害を示すために、言葉より先に、上身を前につき出し、「見て下さい」といって歩き出した。それはただ歩く、右の次に左を出す、その一瞬に片足になり、安定を一歩ごとはからなければならない。そのために杖をもつ手はその甲が白くなるまでかたく握りしめられ、杖のささえで辛うじて前進することが出来る。それを普段と少しも変えない、彼にとっての唯一つの歩き方でしかない歩き方で示し、その時、みる人が、それが頑健にみえる自分の体の中で水銀によって犯された一つの証拠であることを分るまでめぐりつづけた。そのとき彼は、とても巨きな人間に私には見えた。
 彼は彼のびっこをどんなに恥かしく思っているか計り知れない。ストッックホルムに到着するまでの機内でも、ただの中継地でしかないモスコー空港でも、後はゼッケンを外さなかった。そのゼッケンには「水銀の毒の犠牲者、水俣病患者」「高度成長のかげの人間なるもの」といった文句が英文でかかれている。「もしこれ(ゼッケン〉がなければ、ぼくが何で足をひきずってるか分らんもん」といって、頑としてゼッケンを離さなかった。彼の恥かしさは想像を絶する。(彼は歩行に手をかすのを極度にきらう。そうした配慮に気づくと彼は猛然と反撥する。しかしその背中には病者特有の臆したものがあるのだ。) いつも彼の常態は、病気前のきかん気の青年漁師だったときの鍛えぬかれた男の体であり、このびっこに恥なしにはなじめていないのだ。その彼が、つきつめた顔でひたすらに歩いて見せる。そこには、同情とか憐憫とかの情をはねつけるような、硬質の存在感、水俣病そのものが示されているのである。私は、そのように彼自身を表現できるある無心さが、苦しみの果てに彼の到達したものであることを、他の患者さんの生きざまとともに、学んだのだ。
 このインタビューの観衆は、まぎれもなく水俣病をうけとめることが出来たと思えた。坂本しのぶさん母娘、カネミ油症の患者さん、ともにその参加が、直接に伝えた存在感によって、ストックホルムでの「公害」のイメージが、時に地球未来学的論議になりかねない部分に、重い垂鉛的な役割を果したことは事実である。
 坂本しのぶさんにしても、あの恥かしがり展の彼女がよく耐えたと思う。彼女は十五歳で確かに知能の一部は遅れていよう。しかし今度一緒に合宿してみて、彼女の脳裏には人間の最も人間的な部分は、常の少女よりはるかに俊敏であり、物を巧みに言いあらわせない分だけ、つまりのみ下して、ひとりの胸に反芻している分だけ強く”人間” 的であることを感じさせられた。強烈なカメラのライトにとりかこまれ、英語だけのインタビューの、二時間位つづく中で、彼女は席につきつづけた。
 私が休息させるために外につれだしたときに、体にある変化が起ったようだつた。その時の母親の落つきぶりも一驚した。「まだ生理には間があるけん・・・」と言いながら、介抱をすませ、再び会議に出席した。そして、壇上にたって、娘に集中する視線をうけとめながら、自分の部落にいる寝たままの子ども、更に重症の子供のことをのべ、「・・・私の村には、もっとひどい病気の子供がたくさんいます。その中で、私は一番病気の軽い子供をつれてきました・・・」といって、しのぶさんをかえりみたとき、そこには、自分の子どもも他の子ももう区別のない、母そのものが立っているようだつた。会場は押しつぶされたような声がしただけであった。

 同じ「日本デー」の午後。第一回の試写会ー或いはその一回で終えるかも知れない試写会場に入って、私は不安でたまらなかった。すべての事務的な段取りが充分ではないのである。当日朝刊に、午後一時とあった映写開始が、いつの間にか一時半よりと掲示されている。映画担当の係員は昼食にいっている。十四キロものフィルムをかついで、映写室をさがしまわることから始めなければならなかった。のべ三時間近いフィルムは四つのロールに分れている。都合三回の、かけかえのための休けいが生まれる。はじめ映写機は二台ありますという事だったが、それは三十五ミリ映写機の話だという。もともと映画のプロのやる映画会ではない。この市民運動の中では、特別の専門家も、責任者もいないのである。映写のテストから音の調節、すべては私がやらなければならない。そしてポスターや掲示まで駄目おしをする。自然に殺気だってくる自分を押えようもなかった。前夜に考えた国連代表招待の映画会にしても、これが成功しなければ始まらないことである。しかも不利なことに、同じ日本デーの記者会見が、この映画の最後と重なって、新聞記者は、殆んどラストシーンをまたず別の会場に行くことになるというスケジュールを知った。・・・つまり日本と同じではないか。・・・自主上映運動をやっていると、時に支離滅裂な映画会がある。映画にも上映にも未経験だが、水俣病闘争として映画をやりたいという動機だけで、当日、映画会のABCから始めなければならないことがよくある。それと全く同じである。映画の先進国スウェーデンと思っていたのが間違いで、この会場ABF会館は、いわば公民館上映ではないかと考えはじめると、苦笑を禁じ得なかった。
 定刻になっても、人は集まらなかった。ランチ・タイムなのである。四百五十人のホールに、百二、三十人も入ったであろうか、寒々しい上映であった。暗闇に席をとっている水俣病の患者さんも身につまされたように押しだまっていた。
 映画が進むにつれて、人々の姿勢が定着してくるのが分った。映写効果はかなり良く、英語字幕も読みやすいものに思えた。四分の一終ったところで休憩となって、ぞろぞろ出た人もタバコを吸って、また入ってきた。胎児性の子どもたちの収容された病院のシーンあたりから、人々の眼は、スクリーンに釘づけにされはじめた。観衆の中の若い層が、他の人々の私語を制したり、イビキをかいた人をつついたりして、一つの集中に努力しはじめた。とりわけ、スウェーデンで公害について著書もあり、日本に視察にもきた医学博土ランデル氏はまじろぎもせずみていた。しかし、最後のロールに至って、主に新聞記者が記者会見にむかうため席をたつにつれて、十数人がぞろぞろと帰りはじめた。日本でも途中で帰る人はいくらもいる。長尺のためでもあろうが、それは仕方がない。その時、一つしかない出口に立って、オランダ人のA ・S氏が両手を拡げて帰る人を制しながら、大声でラストシーンまで見よ! と訴えはじめた。それは迫力にみちており、人々は再び席にもどった。私には脅迫にすら聞えたが、充分に説得的でもあったらしい。百人を越える人々が最後まで見つづけた。ラストシーンの株主総会のシーンで、混乱の中に、会社がかねて用意の「総会は終りました。次に説明会に移ります」という垂れ幕で議事終了を宣した場面では、あちこちから非難の口笛やふみならす靴音が起ったが、水俣病患者家族が、十七年の怨みを社長にのべるシーンでは、凍りついたようになった。
 終って拍手もなく場内は明るくなったが、そのまま小さなグループごとに話をするのだ。あとで分ったのだが、映画会をくり返しもつための若い人や指導者ランデル博士の相談事であった。この会場で一日おいての再上映はすぐに決った。その他に、もっと公的な場所でやりたいという段取りのために、D・H氏や新聞記者のB ・G氏らは苦慮していた。
 多くの人は、黙りこくって考えこんでいる。その中で、アメリカ西部の大学の教授と名のる青年学者とアメリカ人たちが早口に、こもごも「この映画を大学でやりたいが、どうすればよいか? アメリカで公開する意志はあるか。ぜひアメリカ中で見せたい」と申し出た。その後の数度のこのストックホルムの映写会でも、上映を最も熱心に申し出たのは、いつもアメリカ人たちが最初である。そのことは後にふれるつもりだが、アメリカの自主的な上映の組織と彼らが、何かの形で接触をもっており、アメリカの、とくに大学では、彼らの力の範囲で映画会を独自に持てることを基礎に発言しており、実のある申し出なのであった。(ついでに触れると、ヨー ロッパの各国では、そのような上映については、諸問題をかかえていることが次第に分った)
 私の助手として働いてくれるD・I君は、次の上映は可能だと言い、場内での反響をつたえてくれた。「これはひどい。ショッキングだ。ベトナム戦争の人殺しと同じだよ。見殺しではないか、十七年も見殺しにしてきたのは、精神の上ではベトナム戦争のジェノサイドと同じだよ。とても痛い映画だ。」「長すぎたのではないか?」と聞くと、「短いくらいだ!」と冷かしとも本当とも分らぬ返事をした。
 この第一回の試写を見た人たちの中から、次々に会期中の予定がくまれていった。第一回の上映はその為の試写会といえた。
 さきに触れたように、坂本フジエさんが、その娘を指して、この子でも軽い方なのですといった事実の深さ、水俣病の底知れない病像を映画で知り得た人々の中から、きまって次に出てくる疑問は次のようなものであった。
 順不同であるが列挙すると、
一、この海域の水銀は今日では取り除かれているのか。 (答 否) どうしてその海で蛸をとり、ボラをとっているのか。それが人体に影響がないということを誰が測定しているのか。この海域の水銀は拡散していくままになっているのか。
二、病人の発生はもうとまったのか。今は未認定の患者がのこっているだけなのか。(答 否。いまも潜在患者が発生しており、その数は、県の試算によっても、一万五千名には少くとも及ぶといわれている。一説では十万人と考える学者もいる。)厚生省見解後にその当該工場である酷酸工場は閉鎖した。
三、工場は閉鎖したか。廃水プールはどうなっているか。(答 廃水プールは殆んど放置されている。)
四、会社は何故、責任をとろうとしないのか。とっているとすれば、どのような形でとっているのか。水俣の地域社会は、会社をどのように見ているのか。
五、政府は長い間、放置していたというが、言論機関や研究者グループ、TVやマスコミはこれを公表し、指摘しなかったのか。政府は、今日如何なる患者対策をもっているのか。
六、工場の労働組合は、この水俣病に対してどのような態度をとっているか。(答 会社は工場閉鎖をもって威嚇し、組合は分裂させられている。第一組合は史上初の公害反対ストを行ったが、目下首切り反対闘争に追いやられている。)
七、社会党、共産党等、革新政党はこれに対してどのように闘っているか。
八、この映画は日本で公開されたか。どの位の人々が見たか。政治家や国会議員はみたのか。ミスター大石は見る機会をもったか。
九、水俣病に関する資料、くわしいデータは日本のどこに申し込んだらよいか。
 以上のような質問は、何人かと会つてのメモであるが、言葉が通じあえて、時間をかければ、これはどの人からも次々に繰出されてくる疑問であり、詰問である。私の映画が、これらの疑問に応えていない証左であるが、このどの質問から始めても、水俣病発生以来十七年たってしかこの映画を作ることが出来なかった私たちの主体の弱さと、水俣病の社会病理、政治の病いの奥深さにさかのぼらなければならない。質問する人々は、詰問に近づくけれども、それが、それぞれの国では、その質問に意を込めたように解決してゆくものだということではない。先進的な公害国ですら、これに似た政治と企業の体質があることを漠然と畏怖する事実に思い当るが故に、日本での水俣病とその闘いの特質を知りたいと願っているのだ。映画の感想を一ことで、「ショック!」といい、あとの言葉が継ぎ得ないのは、そのはじめて知った水俣病が正しく予兆であり、計量的に危惧されている水銀の怖ろしさが、胎児を通じてまでも人類を犯しはじめたことの現実段階の訪れに、片々たる対策をアイディアしても、もはや及ぶ範囲の事象ではない・・・と、少し考える人ならば、そこまでの問題の根深さにつき当るからであり、だからこそ、改めて一見ありふれた疑問となってもどってきているのだ。
 これらの質問に接して、その答えを一問一答的に答えることは不可能に近い。どの答えのためにも、現実の水俣病の患者さんの闘いそのものをもって答えるほかはない。つまり私としては、水俣病に限ってでも、その後の映画をとりつづけなければ、映画をもって応えることとは言えないのだ。このことは、水俣についての情報の不充分ながら、まだ他国の人々よりは知りうる日本に居たときには、それほどさし迫ってのことではなかった。しかし、この質問に、結局のところ、ほころびにボロを当てがうようにしか答え得なかった私としては、だからといって、この質問の一つ一つをつまびらかにする映画ではなく、この水俣病の決着まで確実に見届け、記録することでしかないと思う。かねてから訴訟のあとの、依然としてのこる水俣病を記録せねばと思っていたが、さらにその思いは鮮烈にならざるを得なかった。
 この環境広場、人民広場で、一回でも水俣病闘争そのもののシンポジュームを持ち、解決案などまったくない迷路のような未来を、その迷路のまま世界の人々に呈示し、合理主義的な解決案めいたものの出るごとに、一つ一つ、その主体的闘いの構築のあり様を問い、共通に抱えあいたいと思ったが、そのレジメめいたものを作っただけで、ついにその機会はなかった。私自身が、その迷路のまま、前人未踏の闘いとして辿りゆく現実の患者さんの闘いの中で小休止している以上、それは不充分にしか出来ないだろうことを感じたからである。
 ストックホルムでの第三回の上映は、当スウェーデン第一の映画効果と”格式” をもっといわれるフィルム・インスティテュート(映画大学とでも言うべきか)の第一会場で、その一週間後もたれた。(その間小さな上映はあった)かねて考えたように、日本代表及び日本大使館を含め、国連側の会議に出席している各国代表、スウェーデンの政府関係者及びそこに釘付けされている記者団に対して、招待状を発した。すでに大石長官は帰国した後であったが、私の考えでは、各国の人々がひとりでも多く来てくれることを望んだ。記者のB ・G氏は、数百枚の各国語の招待状を手に、記者クラブを中心に国連会議場の各国代表のポスト受けに入れてまわった。このため、夫婦ともガードマンにつれ出され、各国全代表に招待状をまくことが出来なかった。日本大使館は黙殺した。
 当日、かなり多くの各国代表や各国の有力新聞記者が観に来ることになった。とりわけ在スウェーデン駐在の新華社代表と中国代表団のメンバーが出席した。この映画会ではじめて、スウェーデンの第一の新聞「今日のニュース」誌に紹介と賞辞の記事が出た外、基本的にスウェーデン・テレビでの放映の途がひらけた。患者さんは映画会の前に挨拶に立った。「これはわれわれ患者の映画です。私たちのみんなの言いたいことを、ぜひ観て聞いて下さい・・・」という言葉は、改めて私の胸にささった。
 その後の数日間、三回ほど、小規模の上映が関かれた。私のあだなのドロというのが、どう本名にまぎれこんだのか、「ドロ・ツチモトのショツキングな映画『水俣』今夕上映」とあって、あわてさせる一幕もあった。殆んど『水俣』の映画上映もあるというだけで始まったのが、この会期中に、次第に興味をもたれるに至り、ことに、環境広場の映画責任者のダニエル・スベンソン嬢のほぼ個人プレー的な采配によって予期以上の上映をみることが出来た。
 七月十八日。私は患者さんと起居をともにしたインゲボルグ・渡辺さん宅に別れをつげ、帰国する自主講座グループを空港に見送り、ひとりでフィルムを滑車つきのバッグでひきずりながら、ハンブルグ、フランクフルト(西ドイツ)パリ、そして国際映画祭の開かれたロッテルダム(オランダ)ロンドン(イギリス)、マドリッド(スペイン)、パリ、そして再びハンプルグ、ストックホルムをへて、モスコーを訪れ、殆んどの都市で映画を上映した。
 その目的は正直にいって、配給業者を求めての行商行脚であり、同時に、各国のドキユメンタリストに会い、同じ困難のもとに記録映画をつくり、自主配給している人との交流のルートをみつけ出すことであった。たまたま開催されたロッテルダム映画祭では第三位に推された。その他いくつかの同種の催しに招待されたが、それがこの映画の場合、普及にはただちにつながりにくいと思われた。
 パリのシネマテイクに、日本映画を紹介する仕事を専らとしている黒田ひろ子(マダム・ゴバース) さんの尽力で、シネマテイクと街の小さな映画館でパリを中心とする批評家やミリタント(戦闘的) 映画集団の人々に発表した。ストックホルムのように公害という命題から発した上映と趣をことにし、記録映画としての角度や、その上映配給といった商業的な視点もないまざっての評価であった。(だが恐らく、日本に於けると同様、この映画も世界各国の(自主上映組織)の手で普及されてゆく途をえらんでゆくだろう。ドイツ、スウェーデンではTV放送の可能性も生まれているが。)
  これについてのベる紙数はほぼないので、別の機会にゆずりたい。ただ、正統のドキュメンタリーが、今日どの国でも、極めて上映で苦闘していることは事実であった。パリでも五月革命( 一九六八) 以来生まれたミリタント映画は、その後十二位の小グループに別れており、それぞれが、自主上映を主として大学・高校及び都市部のシネクラブで続けている。日本で『水俣』の得た自主上映二十万の実績をのべること自体、話として相互に交流するいとぐちとして不適当と思われたほどである。アメリカの自主上映活動を除いて、ヨーロッパではフランス、イギリスをふくめ、映画プリントの配給についての確乎たる基盤は今、まだないといってよい。私はゼロから出発して、その国の自主上映に協力する方途を、お互いにみつけあうことを約した。改めて思うのは世界のドキュメンタリー運動の中では、小川プロ、東プロの存在こそ今の世界のドキュメンタリーの中では特異であり、その特異性こそ、極言すれば、日本のドキュメンタリーの今日的状況の特徴といえる。つまり、今日の日本の矛盾にみちみちた状況は、それ自体映画的であり、私にとっては、とりわけドキュメンタリーの不断に産まれてやまない母胎であるのだろう。高度成長と水俣の現実がともに存在するほど、階級的な矛盾は激烈であるともいえる。それがとりもなおさず、私たちの映画の独歩行を強いるであろう。
 世界のドキュメンタリー映画が昂揚しない間は、日本のドキュメンタリーも真につよくはなり得ない、という想いがしきりである。
 最後にモスクワでの上映のエピソードをあげてこの稿を終えることにしたい。
 モスクワでは職業的映画人労働組合が主催し、三十人参加して試写会がもたれた。そして最後に彼らからは一言の質疑も感想もなかった。それは、今までどこの国の場合にもなかったことである。その時この十年間、国外は勿論国内での作品の展覧会を許可されず、作品の買上げもない中堅彫刻家N氏は、黙々と帰る主催者たちの背をみて私に言った。「今のソヴィエトでは、今日、この映画をみて語りあいの時をもてないほど、わが国のドキュメンタリーは存在しないのか、それに価いする、矛盾はないのか!」
 私は日本の矛盾に生きつづけられる幸せを思った。
(一九七二・八・一八パリにて)