不知火の海に連なる暗黒部ー袋・御所浦・獅子島の隠された水俣病患者に会ってー 『告発』 第47号 5月 水俣病を告発する会 <1973年(昭48)>
 不知火の海に連なる暗黒部ー袋・御所浦・獅子島の隠された水俣病患者に会ってー 「告発」 第47号 5月 水俣病を告発する会

 私たち映画スタッフは、再び『不知火海』(仮題)を作るため、その調査をかねて、一月下旬と三月上旬の二回、水俣、天草等を訪れた。あわただしい毎日であったが、ある日曜日、週末を使って、自費・手弁当でうもれた患者さんの診断をしている熊本大学原田正純氏とその医学チームの仕事を見ることが出来たのは幸せというべきだ。だが山内さん老夫婦を眼のあたりにしたときは、絶句するほかなかった。すまいは袋駅に近く、茂道一帯の患者多発部落で、県の検診すら三回行なわれているところという。それでもまだ患者さんが他の病名を付けられて放り置かれていたのだ。最初、寝たきりで動けぬ奥さんの愛子さん(五八歳)を訪ねたのであるが、門口に立ってその応接をした夫の正人老人(五八歳) のしゃべり方から、すでに原田さんは「これは典型的な水俣病のことばですよ」とあっけにとられて私たちを顧みた。その舌がまわらない不明瞭な話し方は重症患者特有のものだ。「こんなに何べんも検診したはずのところに! 」
 原田氏の検診の一部しじゅうは水俣レポート、映画『実録公調委』にくわしく記録したので、見ていただきたいが、手足の末端、ロもとのしびれや歩行困難や視野狭窄といった典明的な諸症候群をつぎつぎに確かめていくにつれて、冒頭に患者さんから聞いた「妻は中風といわれて十五年あっちこっちの医者にかかっておりました。私は肋間神経痛じゃといわれて、高血圧の薬をもらってのんでおります。眼はとり眼だそうです」という老人の話がいかに明らかなウソか、そのウソが一つ一つぼろぼろと出てくる瞬間に立ち会った気がした。奥さんは湯の児のリハビリに二年も世話になり、御主人も昭和三十年頃から袋のI医院にかかっているという。「旦那さんの方はハンター・ラッセル症候群の全部がそろっている、間違いなく水俣病ですよ、奥さんも脳溢血が重なっているからそれだけを取り出すには精密検査を要するかも知れんが・・・」明らかに水俣病発生の最盛期に「茂道で毎日ビナをとって来ていました」と嫁さんが補足するのだ。
 十五年間かかりつけていたI医院にせよ、入院していたリハビリにせよ水俣病の臨床体験では日本でも屈指であろう。それでいて、医師たちは、この御主人を「肋間神経痛」「高血圧」そして「とりめ」とし、奥さんを「中風」として、慎重にも水俣病だけを外したのは故意としか思えない。「一体どういうことでしょうか?」と私は原田医師に聞くと、彼は首を横に大きくふりながら「全く理解出来ない。私にはワカラナイの一語につきます」という。同じ医師としての答え方であろうが、私にはそれを「隠されていたのだろう」と聞いた。全く初歩的な水俣病症状の知識をもって足りる重症患者であった。
 原田氏は赤ん坊をおぶった若い嫁さんに何故検診をうけなかったのかきくと、「どこどこへ来いという通知はきていましたが、私ひとりで二人をよう連れ出せなかったんです」という答えが返る。一言われてみればまさにその通りである。歩けない愛子さんをおぶり、乳のみ子を両手に抱え、なお、肩をかさずには歩けない御主人をどうして運べよう。行政のキメの荒さは、声も立てないこの人々を洩らしているのだ。「みんなで手伝って・・・重症だから一日も早く認定してくれってお願いしよう・・・」と氏は若い活動家の谷君や未認定の人々の手足となっている伊東紀美代さんにたのんでいた。
 同じ頃、私たちと塩田氏(写真家) は天草御所浦、そして三月には獅子島(鹿児島県)に患者さんを訪ねた。重症の人々ばかりである。御所浦の森正義さん(六六歳) は一本釣りでは右に出る者がおらんといわれた人である。公調委に調停を依頼しているのだが、他の方法をほとんど知らなかったからだ。海一つへだてただけにせよ水俣病に関する情報は極めて稀な孤島である。話しながらタバコの火が指をこがすのを見た。感覚がないのだろう。海のこと、釣りのことに話が移ると生気が甦る。何度も船を手離す破目になったが、「もう一ぺん海にゆきたかもんで、ボロ船を買うて修理に出してすっかり直したけど、のれんもんで、いまは人に貸しております」という。(その時、船大工として彼の船を叩き直した森又一さんも去年水俣病と認定され家の外にも出なくなった。) 週に一度船にのって別部落の医者に通うのだが、船にのり移るときに足許が危く、これが一番悲しいという。回診もケースワーカーの訪問もない患者さんの苦難は想像にあまりある。町役場の厚生課では「医療保護でやっています。とくに水俣病としては何もしておらん・・・大体熊大でも県でも実態は町には知らさんもんで、何も対策のたてようもないです」という。町では一円もその対策費を計上してはいなかった。
 嵐口部落では七十八名の要注意者が熊大の手でリストアップされ十数人が熊大に検査のため行っていたが、それすらも他人事のように私には聞えた。
 御所浦の場合、昭和三十五・六年に県の毛髪検査によって数十数百PPMという人々が確認されたにもかかわらず、その調査結果を昭和四十六年五月まで隠していたことは知られている。そのリストをたぐって辛うじて患者の存在がわかったのであって、嵐口をのぞいて一斉検診はなされていない。その嵐口に申請中の藤野レイさん(五五歳) をたずねた。「ここは漁師町じゃけん水俣病ちゅうとうるさか、どうか認定されても、テレビの写真のとはとらんでほしい。村八分と同じじゃ、私ははずれに小さな家をこさえてじっとして暮す」という。昭和三十六年六百PPMといわれた人が、今度申請時に九百PPMと記され三度聞き直したという。
 御所浦そして獅子島を訪ねるにつれて、そもそも「水俣病」とは何かがほとんど知らされていないことに気づく。ここでも猫が全部狂って死んだという。獅子島湯の口の湯元クサノさん(五八歳)にしても、数年来のしびれや、下半身マヒ(十日間) やろれつの廻らなさを「更年期じゃろ」と医師に言われて信じていたのだ。この島から見ると水俣はやはり遥けき町である。ちょうど海をへだてて真正面に遠望できる。チッソの工場群の煙突が毒針のようにつったっている。鹿大の検診班によって湯の口部落全体に受診をすすめたのだが、男はほとんど、忌むようにそれを受けていない。病気もちと日頃悩んでいた女の人たちと数人の男がうけただけで、成人の三分の一ほどという。その中で三人申請者を出した。その一人幣串の遠縁に身をよせた孤老の中元ヨシノさん(七一歳)は一ヵ月ほど前に亡くなられたという。
 水俣に帰って浜元二徳さんに話すと「あれ!申請中に・・・解剖せんと?・・・解剖せんばそれまでじゃがね。去年五月に申請しとるて?・・・ああ、もうウヤムヤになってしもうがな!」と嘆いた。
 水俣周辺のごく短い一巡でさえ、まだ光のささぬ暗黒部が不知火の海ぞいに連らなっていることを思い知らされたのである。