『水俣一揆』をつくらせたもの 「社会新報」 6月24日号 社会党中央本部機関紙局
「土本さんナァ、わしら裁判終ったらスグ東京にいってチッソ本社で自主交渉やるよ、そうなあ直接交渉ちゅうた方がよかかなあ・・・。訴訟派といままでの川本君たちの自主交渉といっしょにやるごとなるとばい・・・」
熊本地裁での水俣病裁判判決の一週間ほど前、あらためて水俣・出月の浜元二徳さんと会うと、のっけにそれを告げられた。とっさのことでもあり、どう応えていいかわからなかった。
私たちは『不知火海』という次回作のプロローグに訴訟の終わりをおいていた。その後の潜在患者、被害漁民の生きる地としての不知火海をあらゆる角度からとるつもりで、調査をかねたロケ体制で水俣に赴いたばかりのときだ。
その前、ことし一月にはいってから、公調委(公害等調整委員会) は判決前に仲介あっせん案として、予想としてははるか低額を押しつけようとしていた。「新たに認定された患者さんたちは甘い認定基準によるもので、旧認定の患者とはちがう(世間には”ニセ患者” といったいい方が流れたのもそのためである)。苦しみも差別もそれほどではなかった・・・」として、判決後になっては同じ額を出さねばならぬ気配を感じてか、早々と印鑑偽造や私文書偽造だらけの調停依頼書を受理して、審議を急いでいた。私たちはこれに関する一連の偽造行為を追った『実録公調委』(水俣レポート) を完成していた。つぎはなんとしても裁判後の水俣=不知火海の話をとるつもりであったから、主舞台が東京・チッソ本社で展開される直接交渉を知らされていず、さして注意も関心も持たぬまま浜元さんの決意を受けてたじろいだものである。
判決が迫るにつれて、世俗の目は判決のなかの補償金額の沙汰にあった。現地水俣の市民感情、というより「水俣を明るくする会」のそれまでの言動からみれば「患者でもないのによろけて歩いてみせる練習をしている・・・」とか「中風やみ、焼酎のみが患者と名乗る・・・」といった中傷をはなち「たかが、もともと下賎のくせに、一千八百万とはふっかけたものじゃ・・・」と言外にいってきたのをしっている。
現地に行って驚いたのだが、すでにそのころ、市内の商店は高価なものを判決後の支払いでいいといって、患者さんの家にほとんど押し込まんばかりにもちこんだり、各種の銀行、信用金庫の外交員が入れかわり立ちかわり患者さんの家に日参して、一見したところ”金ゆえの裟婆の物狂い“ を周囲につくりだしている。そうしたなかで私たちは、すでに全国的にすすめられている「水俣病センター」の方向ぐらいを、判決後のおもな粒だちとしか見ていなかった。正直にいって、前作『水俣ー患者さんとその世界』をとってから二年有余、私はやはり、生きた患者さんの世界から離れていたといえる。
判決がどのように出ようとも、控訴の方向ではなくチッソ本社への乗り込みをきめていたことは特記しておきたい。つまり額に不満ならば、そのことだけで福岡高裁への控訴の手段はあるはずである。しかし、そうではなく、チッソ本社、つまり現地の水俣支社ではなく、水俣を離れていちずに東京におもむき、そこで一生にわたる医療と生活を語り合うことをきめていたのであった。
「判決で出るのは慰謝料じゃ。生活保障じゃなか! 二十年も苦しみ、貧乏のどん底に落とされ差別されてきたことへのつぐないであって、医療や生活は判決をもとにあらためてせんばー」というのが、患者さんたちの中心課題であった。その交渉の地として、ふたたび水俣に閉じこめられたままで、チッソ城下町の城のなかで、という二十年来用いた交渉形式によって患者を威圧してきたチッソのやり口をみてとって、患者さんが先手をうって東京での交渉をうちだしたのは当然といえる。チッソにとっては、交渉の主舞台が水俣である限り、六十年にわたってつちかつてきたチッソ的精神風土にくくりつけることは訳もないことだからである。現にそうしてきた。悪名高い昭和三十四年の見舞金契約にしてもそうだし、さらに一昨年から川本さんや佐藤、小道、江郷下さんら自主交渉の人びとが東京本社前にテントを組んで半永久的闘争に立ち上がったとき、その事態を最も恐怖したのはチッソであった。チッソは訴訟派の一部の人びとの心理にさえ「訴訟派は道理を通しておられるが、自主交渉は過激である」といった心証を植えつけ、内部的なひずみを生ませ、さらに分裂させようと策動した。その策動は無力ではなかった。残念ながら、ときどきにせよ、チッソと患者さんのたたかいの力関係のなかでは、自主交渉派の人びとは、自分らの部落、自分らと同じ志の患者さんからも一見狐立せんばかりの事態に追いやられたものである。訴訟派の長老・渡辺栄蔵さんが、判決まで訴訟派をひっぱってこられたその大任を果たしたあと、どこか心にひっかかっておられるのは「自主交渉」の形へのこだわりであると聞いている。 もうひとつ、自主交渉にたいし、その行動のはじめから終わりまでその闘争に水をかけ、無意味なたたかいであるとして背をむけたのは、水俣病訴訟弁護団の人びとである。私はこれと同じ力学の表現を、七〇年秋の「一株運動による総会での直接対決」という闘争が起こったとき、映画にも克明にそのシーンをとっておいたが、この対決を無意味として「姐先の霊は一言怨みをいえと申しておられるかどうか。訴訟に一日も早く勝って、生活の道をかちとることこそ霊はのぞんでおられるのではなかろうか。まして社長に水銀をのめなどとは言語道断・・・」といった説教を思い出させる。当時、全国の支援の集まる場所としての大阪にむけ、患者さんたちは弁護団の説得をのりこえて行きすすんだのであった。
このたびの判決前後、敵も味方も、奇しくも同じ方向で患者さんたちの東京へのかけのぼりに反対した。チッソは露骨に「水俣での交渉」をうち出したが、弁護団は「一部代表のチッソ本社行き。ただし、弁護団が後見役をする。主力は水俣でチッソ工場の前で集会、デモを行なう」という方針をもってする違いはある。だが、判決がどのように出ようと、現地水俣の世論操作は「会社も患者も両方とも闘争の打ち止め」を呼びかけ、もし患者さんに勝ちの色合いをみれば、なおさら押えこみと村八分を強めようとしていたことは事実である。この市全体の圧力に抗しての、それまでの訴訟闘争であり、一株運動であり、やらないよりやった側にいつも惨苦は見舞った。それを熟知している患者さんだからこそ、一生の保証を求めて、一路東京へのぼり、かつてときに親密を欠くこともあった自主交渉の人びととくつわを並べてたたかうことを、ある高揚感をともなって決心したのであった。
今回の私たちの映画『水俣一揆』の初心はここであり、”一揆“と名づけた常民のたたかいの復活への共感が映画を作らせたのである。私自身がどこかで、裁判とともにたたかいの終わりを、たとえ潜在的にせよ感じていたことのもうひとつの自己批判として、映画を作らねばならなかった。この東京での集団的直接交渉をともに歩き、映画としてのひとつのステップを踏むことなしに、あとふたたび、つぎの映画『不知火海』に足を踏み入れることはできなかったのだ。
「一生を問う闘争」と私は見る。それは決して条件闘争ではない。人間を問い生き方を求める絶対性のたたかいである。このことをいやというほど知らされた。チッソが改めて衝撃をうけているのもその点である。「人聞はなんのために生まれてきたと思うか。病気になって、銭ばもろうて、死んでいくのがニンゲンか!」ーその一言に集約される、水銀に犯された漁民の心は"一揆”としてもつ絶対への希求と、人間への誇り高きものへの回心を物語ってやまないのである。私たちの映画は、その点をみつづけた記録のつもりである。それが少しでも人に映画としてわかってもらえれば、つぎの『不知火海』へ旅立つことができよう。