鼎談・映画『水俣一揆』の提起するものー現代における記録映画運動の課題ー 「芸術運動」 8月号 活動家集団思想運動
鼎談
土本典昭
武井昭夫
高岩仁
この映画はいかに作られたか
武井 『水俣一揆』をさきほどみせていただきましたが、感動しました。ここにわれわれが求めている映画があるという思いでした。水俣の患者さんたちのチッソに対する闘いのもっている人間的な力が、実に生き生きととらえられていて、この映画を撮った土本さんはじめスタッフの方たちのドキュメンタリイの方法に敬服しました。裁判の判決がでて、それで勝ったー終り、というのではなくて、これからが闘いなんだ、患者たちが生きてゆくということが、独占への告発であり、チッソとの交渉にのりこんだ患者さんたちの闘いが、すべての患者さんたちーそれはいくつもの組織にわかれているわけですがーを本質において代表しており、交渉によって一つ一つ獲得してゆくものは、そのすべての人に適用されていくということで、内容的にも完全に代表されていること、そしてそれは、いま認定されている患者さんだけでなく、実は、この映画をみているわれわれの生きる権利を、その肉体的・精神的苦悩をとおして尖端において代表して闘っているのだということが、ひしひしと伝わってくる。画面の患者さんがそういうふうには言わないが、観る者にはそう伝わってくる。映画がそれを確実に伝えてくれているわけですね。肉体も不自由、生命をむしばまれていく人たちの、言葉もうばわれてゆく人たちの言葉と表情、抗議の身ぶり、そのすべてに人間のすばらしさがあふれていて、それに対応する島田社長たちー自然と人間生活を根抵から破壊しつつ肥え太り、生きのびようとする独占企業の走狗であり、その表象ですがーのグロテスクな姿を、あますところなくさらけだしてゆく。そのすじみちの一つ一つのシーケンスが実に見事にとらえられている。演出もカメラも対象と四つに組んでいて、自分のとらえたドラマに対して強い信頼ーそれが作る側の自信ともなっているーをもっていて、不必要な画像を外からもちこむようなことを一切していない。まさに今日のリアリズムを代表する作品、アクチュアリティの劇的な創造というドキュメンタリイ本来の機能がここに結実した作品と思いました。
で、今度の『水俣一揆』は、いうまでもなく、土本さんの前作『水俣』があって、はじめて可能だったもので、そういう意味でも、こうした映画のつくられてきたプロセスについて、またこれにとりくんできたときの土本さんの記録映画運動についての考えかたとか、そういう問題にもわたって、いろいろお話をお聞きできればありがたいと思います。
それから、高岩さんは、かつて企業のなかでカメラマンとしての仕事をしてきて、その後、いくつかのいわゆる独立プロのカメラマンをやったりして、今度はじめて土本さんのスタッフに加わったわけですが、この仕事をとおして学んだこと、感じたことをきかせていただきたいと思います。
この前土本さんにお逢いしたとき、たしか、ちょうど今度の『水俣一揆』の仕事に入るまえで、『実録公調委』をつくったときで、前につくったものと今度のものとは作品としてまとめてゆくやり方を変えていきたいという話をうかがって、ぼくは、そのことも、今後の記録映画のつくり方、その運動にとって非常に重要なことだと思ったのですが、そういう点なども含めて、土本さんから最初に話していただきたいのですが。
土本 自分の思ったとおりの映画をつくる場というのは、本当には一〇〇パーセントというところは今のところないわけです。しかし、ぼくにとっては、今の場が現状の映画界からみると、一〇〇パーセントに近い本質的に自由な場が与えられていると思うんです。それは、水俣という素材にぶつかってから、かなりそのパーセンテージが高くなったんです。昭和四十年に『留学生チュア・スイ・リン』という作品を自主制作でつくったのですが、そのときから自主制作というものの基本的な仕事のパターンができた。それから試みちゃあ破れたり、またたてなおしたりして来ました。記録映画の場合、一般に、あらかじめ予算がいくらかかるということはわからないんです。その素材をどういうふうにまとめていくかということもわからない面があります。だけど、映画人にとってはっきりしていることは、一〇〇人中一〇〇人、自由な映画をとりたいということなのです。それから、白分たちの映画をとおして、ある意味で社会的な総運動というか、大きな運動にかかわりたいということは、だれにもあるわけだけど、それを実現するのは、針の目を通るようにむずかしい。とくに記録映画の場合、商業主義のなかでは絶対にいいものができないということが作る前からはっきりしているジャンルだと思うのです。というのは、金をまず食いますしね。で、企業のもとで映画をつくると、まずフィルムの割り当て制をとる。フィルムの割り当てのためには本(シナリオ)がなきゃ割り当てられない。シナリオがなければ、製作日数も割出せない・・・というように、あらゆる意味で逆算芸術に近いんです。その逆算のなかで、あるシーンを創意的に撮っていくということは、もちろん、技術の積みあげや、闘争によって、ある程度内容をよくしていくということはできるけれども、それには限度がある。やはり自分達で映画をつくる場というものを自主的につくっていかないと、基本的な積算の世界にはどうしてもゆけない。その意味では、ぼくは、いま自由といえば、相当自由な場にいるわけです。つまり、予算をこのくらいの範囲で収めようということで、金の使いかたは最低ぎりぎりの中でつくろうとしているのだけれど、それが逆算にならないで、スタッフのやりかたによっては、一〇〇万の金でも、他でやれば五〇〇万相当の仕事ができるとか、観せる形を多様にして、金を回収していくことに新しい工夫をするとか、そういうことができるからです。そういう意味で、ようやく、積算方式に入れたなというのが今のぼくの感じなのです。
その一つの境目が前の『水俣』でした。『水俣』をつくるときは、とにかく長い記録映画でやろうということだったし、それにはまず、患者さんとつき合わなければと思うから、ロケだけで三カ月と組んだんです。準備、仕上げと入れたら、九カ月くらいになるという目算でした。それが結局、現地ロケだけで五カ月半かかり、仕上げも延びて、全部で一年かかってしまった。そのために、九〇〇万という制作費が結果としてでた。九〇〇万をつかって、しかし、普通だったら三、〇〇〇万くらいはかかる映画をつくるということで、作品の質をせりあげるということを、ぼくらとしてはしたわけです。ところが、あの映画の転がりかた(上映のしかた)では、その制作費を回収するまでに三年くらいの時間がかかっちゃう。つまり、責任を持ってやるには、十年間で三本しかつくれないという計算になってしまう。けれども、そんなゆっくりしている情勢でもない、ということで、この次からは、問題ごとに少数精鋭であたり、大作主義ではなく、映画として必要なものをつくっていくということに切りかえたわけです。
それが今年に入ってからです。
そこで、現実の運動がおきたらともかく撮る、撮ったものが、映画としての力量を持っていれば、それを映画にしておくということではじめたのが、この一月に発表した『実録公調委』です。これは、水俣月報といって、ニュース映画のジャンルのもので、ニュース映画の第一号としてやったわけです。今度の判決の映画(『水俣一揆』) は、やはり作らなければいけないと思ったけれど、どういうものになるかわからない。で、ニュースの二号かなとも思ったんだけれど、いわゆるニュース映画ぐらいのスケールでは、ちょっとまとめがつかないだろうと思った。フィルムをみて、そのフィルムにふさわしい処遇をするとすれば、金をかけても仕上げを丁寧にやって、せめて一年や二年は世の中を走るような作品にしていくという感じでやりました。つまり大きくいえば、ぼくらが自主上映をはじめた時期から追求してきたものが、『水俣』をつくることで切り開かれ、その後の状況の総運動というか、そういったものが動いていって、それの次に、あまり力まないでも映画作りがやれる条件が出て来たな、とぼくはみています。
『水俣』についてはこれで、ぼくが三本撮り、若い人が二本で、合計五本撮っていますが、医学としての水俣病の解明がもう一本要るだろうと思います。もう一つは、水俣湾とか不知火海は総被害を受けてるわけで、その総被害は、チッソというものが一番の元凶なんだけれども、国の行政をはじめ資本主義的文明による総被害というか、戦後の「繁栄」の総被害というか、そういうものがあらわれている。したがって、その集中点としての水俣市を中心に、自分たちの祖父の時代をおもい、子供の時代にまで思いをはせるぐらいの空間として、不知火海をえがいてみたいと思います。これは、あまり水俣病、水俣病と絶叫しないかもしれないけど、ともかくそれを作りたいと計画しているのですが、それがいつもじゅんぐりに遅れていって、とりあえず何かをつくるということで行きそうな気配もなきにしもあらずで・・・。(笑)まあそんな仕事の進みかたです。
武井 次の仕事の大きな方向というのは、今のお話の最後に出てくるような方向ですね。
土本 それが、おもしろくてね。『水俣』をつくったから、今度は『不知火海』というようなパターンで考えていたけれど、『水俣一揆』ができることになったわけです。そして、『公調委』というのを撮らなければ、この映画はちゃんと立案はできなかったと思います。で、この映画をつくると次が立案できてくるという形ですね。
武井 そういうところに運動の連続性のなかの偶然性というか、そういうおもしろさがありますね。
土本 たとえば、ぼくたちが『水俣』を作ったときには、一ニ一人という患者数をスーパーで入れた。それは、どの派も含めて一二一人だったわけです。それが現在、五〇〇人を突破してます。ぼくらは、また新しい人間関係を、その人たちとつくらなければいけないんですね。それから、漁民はまだあまり接触していませんからね、そこで、この写真(『水俣』や『水俣一挨』) が、漁師の人たちに対してぼくらの「名刺」になるんです。
武井 前の仕事が、次の仕事をやっていく踏み台になるわけですよね、そういう映画づくりの方向がきり聞かれてきたということは、これからの記録映画運動にとって新しい非常に重要な問題を含んでいると思いますが、多少違いはあるかもしれませんが、小川さんの『三里塚』の闘争と結びついてやってきた映画づくりにもそういう意味があるわけですね。
土本 そうですね。
武井 ぼくは、現代の記録映画運動はこの二つが代表しているとみていますが、そうみていいでしょうね。
土本 まあ、そうでしょうね。
武井 今度の作品は、前作を受けたものとして非常にびしっとまとまっていて、迫力がある。前作をみていない人にも独自の説得力が強い作品になっていますね。
土本 普通には、一番、わかりにくい問題でしょう。極端な言い方をすればお金は出た、だが、まだお金を求める、という話なんだから。水俣の人にもわからないところです。
武井 しかし、今度の映画で、非常によくわかるんじゃないかな。新聞報道とかテレビ報道では出て来ない問題が立体的によく出ていましたね。カメラがすばらしい証人になっている。運動をすすめる上でも重要な武器になるでしょうね。そういう点で、高岩さんは、カメラマンとして、大津幸四郎さんとコンピでこの現場に立ちあったわけですが、こういう仕事を経験しての感想はどうですか。
高岩 ぼくは今まで十何年かカメラマンとして映画づくりに参加して、いろいろみてきたけど、こういう映画のつくりかたははじめてですよ。『公調委』のときに、ちょっとまわしたんですけど、そのときにカットが短い短いといわれて、どうしてこれが短いんだろうと、はじめはわからなかったのです。カメラをまわす姿勢がちがうんですね。ファインダーをのぞくでしょう。今までだと前もって自分でこういうカットを撮ろうと思ってまわしはじめるんですね、この人がしゃべってるのをこう撮ろう、聞いてる人がどんな顔してるだろうと別な方から撮る、という形なんです。ところが、土本さんの映画ではとにかく何かおきるだろうとの想定のもとにまずまわしはじめる。まわしながら、神経を集中してそこにおこっていることをどう撮ろうかということを考える、撮りながら考え、考えながら撮る。それができなきゃ撮れないんです。そこの違いに、ぼくは本当にびっくりしたんです。まだそれが、ぼくには十分にはできないんですけどね。それを大津さんが見事にやっている。見ていて、ぼくじゃ絶対撮れないというカットがどんどん撮れる。撮っている対象と自分の間で、弁証法的なサイクルを持ちながら、カメラを動かしていく。だから、秒数がながくなるわけだけれど、ただ長くなっているのではなくて、そこに被写体と自分とのつながりがあるのです。そういう映画の作りかたというものを、まだぼくは学びとってなくて、その辺の違いは発見して、びっくりしました。
武井 そういう点は、ドキュメンタリイの方法の問題としても重要ですね。
土本 今度、シンクロの機械が一台手に入って、大津君がそのシンクロカメラを持って、今まででは一番いいアリフレックスを持ってるわけだけども、それは音と絵を合わせるということについては非常に不得意なカメラです。だから、大津君でもはじめてシンクロで一作目をつくるというんでずいぶん悪戦苦闘はしましたけどね。しかし、ぼくはシンクロ信仰はしない、つまり物神信仰はしません。結局、それをどう使うかは心だと言っているんです。それから、よく今度の交渉場面はカメラを回しっぱなしに撮ったように見られるのですが、現場的にはちびりちびりなんですよ、カメラは。フィルムをたくさん貰えないしね。たとえば、患者が島田社長に「あなたはカソリックですか」というしみじみした場面があるでしょう。二人のカメラマンのうち、片方はフィルムがなくなっちゃって。あそこは高岩君が撮った。
武井 会社側の方の後から大津さんのカメラが撮ってるのと、患者の後方に高岩さんが、カメラをもって画面にも出てくるけど、大津さんの撮っているシーンに会社の並んでいる奴のアップがところどころ入るでしょう。あそこらへんが高岩さんの撮ったショットなんですね。
土本 そうです。
高岩 大津さんが、会社からとってるときは、ぼくは患者さん側に行くし、大津さんが患者さん側にいくときは、ぼくはこっちへいくという具合にして撮ったんです。
武井 二台のカメラのチーム・ワークもよかったように思いましたね。
製作者の協働と観客の組織化
高岩 それから、この間、土本さんがいわれていたことですが、小川プロと土本さんたちの青林舎の関係というのは、友だち関係としてはうまくいっていると思いますが、それだけでなく、映画づくりの運動の重要な側面として、観客動員の点でも、その場その場での協力というだけではなくて、持続的な運動としてやっていくという、その辺の構想を、お話しいただくといいと思うのですが・・・。
土本 たとえば、小川も賛成だし、ぼくがこれはと思って話す人はみな賛成なんだけれど、一年に四回くらい、いろんな作家の映画を一つのリールに巻きとって写す会をやる。たとえばぼくの『公調委』という映画は、四七分でしょう。一つの映画会でも、観客は一時間半から三時間ぐらいまでは、観るつもりで来てるわけですから、そこにたとえば小川の三里塚の作品も入る、それから別の人の撮っている沖縄の作品があれば、それも入れる。そうすると、観客はいろんな作家の作業が一緒に見られて、それがどこかでは季刊雑誌化していくものである、と。そういう上映会が春にあれば、夏には次がうつっているみたいな、そういうようなことを、三年やればずいぶん違うと思うんです。そういう試みがあったらおれたちもできるなあという人じゃだめなんです。もうすでに自主的に、運動をめざして映画をとっていて、そこのとこに気付いたものが、まずはじめなくちゃいけないんです。そういう条件ができたら、おれもいっちょうのるわ、という人たちは、いつでも状況を切り開いては来なかったわけだから。
武井 進行している闘いの瞬間、瞬間のドキュメントを、それぞれの運動と結びついた映画づくりの道を切りひらいていこうとする何人かの作家が、その時点時点で短編のニュースとして出していく。こういう共同の映写会を一つの横糸とすれば、それを今度は、それぞれの作家が一年に一本ぐらい、一つの主題によって長編にまとめてみせていくという、作家別の上映運動をたて糸にして、その二つをあみ合わせて、新しい観客を組織化する運動をつくっていこうということですね。
土本 そうです。今まで観客の組織化をいろいろやって来たけど、作家がものを作ることによってでてくる運動でないとながつづきしない。ものを作るための運動だ、組織だというと、どうもだめなのです。すでに映画を作ったけどうまく上映されないとか、映画を作っているけれど金を食ってしょうがない、しかしやはりおれは作るんだけれどどうしようという、そのへんで相談がでてくるときはじめて、基本的な困難な状況を現状認識として共有して、映画の作家同士らしい、じゃ、おれは今回はつくる方は休みだけど上映だけやるわというようなことができるんですね。それが、そろそろでかかっている。小川とぼくたちの間には、今年に入ってから、そういうものが萌芽的にはでてきましたけどね、それからいまぼくたちの青林舎でやっている東陽一君の仕事は上映形態を決めないで制作しているわけです。ーこれはATGが買いに来てるというからそこにいくかもしれないけれどもーそういうことが一見、らんぼうかもしれないけど、現状では必要なのです。何とかポルノ路線とかじゃなくて、独自に自分たちの映画としてでてくるような条件というのは、いまのところ、この三つですね。あと若い人たちに、これから切り開く可能性はあると思いますけれど。
武井 で、そういう運動をとおして、観るという形で映画創造を支えていく層がだんだんつくられて来つつあると思うんですけれど、そことの関係などは、今どんなふうになっていますか。
土本 変な話だけれど、上映組織を固定して維持していくという力量が、いまはないですね。それは、作品を提出してゆく側の力量の問題だけじゃなくて、たとえば一人の青年を例にとると、今年はあの映画と出逢って上映活動をやっていろんな友達が見つかった時期とすれば、翌年は、その仲間みんなで別な分野へ行って活動をするとか、あるいは日和ったとかで、変転がはげしいんです。結局、作家の方は、毎回、作品をつくるごとに、新たに上映運動をやらなきゃいけない。そういうわけですから、たとえば、小川やぼくの持っている基盤があるとしても、『水俣』の上映活動をやった人たちと三里塚の上映活動をやった人たちとは必ずしも同じではない。そういう人たちが共同できるようになるには、やはり三年くらい持続して作品をつくりだしてゆかないことにはだめですね。昨年なんか、ぼくらの知っている範囲ででたのは『岩山に鉄塔がたつた』が一本でしょう。その一本を上映したって続きやしませんよ。食えるっていうより活動の持続ができやしませんよ。今年みたいに、二本でたとなれば、少しはいいけれど。それでも長年そういう流れをみていると、観客組織を固定してやっていくつていう方向ではなくて、やっぱりぼくは、一回ごとに、映画の腕力というか質によって上映しようという動きができて、その動きが、次の年までぬくもっているようにしたい、という、今はそういう時期だと思うんです。
武井 現在の段階だと、『水俣』から『水俣一揆』へという土本さんの仕事を映画運動の観点からみて支援する層もあるけれども、より多くは、水俣のたたかいそのもの、そこで患者と一緒にたたかっている組織と運動と結びついてゆく。小川さんの場合は三里塚のたたかいに共感し、一緒にたたかっている組織と結びつくということができていく。それらが、いま、映画運動の観点からそろそろ重なり合いながら進行するという状態が生まれつつある。しかしそれがはっきり形成されてくるのは、これから相当意識的に作家の側が活動していく過程ででてくる、そういう段階だといっていいですか。
土本 そう思います。たとえば、社会的なテーマで、三池COの問題であるとか、あるいは朝鮮人問題であるとか、いろいろ、かりに作品になったとしても、それが一定のセクトや組織の路線で走っていくのでは、限界がありますね。たとえばこれはある組合でつくったんだから、ある組合の線でいくとか、あるいはこれは赤軍派がつくったから赤軍派路線でいくとか、ではね。『水俣』でもそうなんですが、ある地域で、これは「告発する会」のものだというふうにやったところでは、セクトで失敗しているわけです。上映が広がらない。そういうふうにセクトの囲いこみというか、組織路線の上を走っていたときには必ずやせてくるという現象がおきているわけです。内容的に、政治的・組織的に党派路線をはっきり出していく映画もあるけれども、そういう形にもたれかかった作品であると、観る人の嗅覚がすごく敏感ですから、観る人がかぎられますよね。僕は映画をつくった組織に目を向けるよりも、作品の質をー無署名でもいいからプリントだけの持っている強さをーどこまで本当に発揮できているかということでみてもらいたいですね。その質だけの責任はぼくはとにかく持つ。それで作品が一人歩きするための援助は、無いよりあった方がいいわけだけれど、そういうものに助けられることを予定したフィルムではだめですね。いくら告発する運動が大きくても、そういう運動に明かにもたれかかったりするスタイルの映画はいままで普及してないのです。普及するには、その質をちゃんとしなければいけないと思っているんです。
闘争の主体と製作の主体を結ぶもの
武井 土本さんの映画を観ていると、たとえば水俣のたたかいを政治的、セクト的な路線で乗り切っていくというようなものとは無縁ですね。しかも、作品そのものの力は、逆にそういうセクト的なものを変えていく方向を出していると思います。こういう映画づくりの将来性を考えた場合、一つのたたかいと密着しながら同時に独立した映画をつくって観せていく運動が今後も持続し、かっ、多様に発展してゆけば、いろんな運動の基底にある政治的なセクトによる狭さというものを作品そのものが変えていくという方向で、現実の大衆的なたたかいと映画運動との密着ということが、新しい結びつきで出て来ていいのではないかと思うんですが。
土本 水俣の場合は、非常にラッキーなんです。「告発する会」というのが患者さんの支援団体としてあるわけなんですが、この運動は、九州地域のさまざまな文化運動を十年ぐらい前までへとへとになるまで背負った人たちがしよっているんです。そこでは、準拠すべき大衆像というのを患者さんにみつけて、患者さんの言うとおりに動くと同時に、患者さんとは相対的に独立して動く面ももつ。そして行動の責任は一切、自分が負うという形の作風というか、そういうものができている。その作業が体質的にみごとに今の状況の中で強いものをつくってるわけです。それの持っている作風と、ぼくらが映画運動のなかでつくってきた作風と、一派通じているものがあるんですよ。かれらは、金は貸してくれても口は出さない。ぼくらも相談に行かないわけです。
武井 口を出さないというのは、映画の録りかたとか、内容とか、そういうこと?
土本 一切です。「委員会の論理」なんか持って来ないんです。没交渉というのではなく、たえず連携動作は目に見えないところでとっているけれど、作品としては、あなたがたの好きなように撮れというわけです。撮りあがったものがよければ自分たちが使いますという関係です。あなたがたが好きだから金を出すけれども、別に返してもらってももらわなくてもいいし、どう撮ってくれとも一切いわない、ということで映画についての干渉は一度もなかったんです。そうなると、ぼくらの側はその運動を愛してますし、ぼくらもその運動の構成員だと思っているから、肉体的なことや、時間の使いかたのことや、あらゆる面で参加をしてゆく。そうして生まれたひとつの脈流の中で映画を撮るという関係ですね。太いところでは合一した運動意識を持っていて、表現のときには、こんなふうにとったらあの人怒るだろうなと思ってちゃんと撮っておく、ながい目でみればということで、今のあの人たちはちょっといきすぎてると思っても、それも撮っておく。客観的にも撮るけれど、かなり批判的にも撮りますね。そのことについてはこちらで気を使うことはなにもないという関係が、運動の一番深い部分で、初めに保障されたということがあるわけです。
その保障をある意味でかためたのは、変ないいかたですけれど、かれらと一緒の厚生省の坐りこみ行動からですよ。ぱくられた数日間お互に一人一人の姿をみているわけです。ぼくもむこうをみているし、むこうもこっちをみている。あいつは本気で強いかなということをみている。その数日間の点検が相互にあるわけです。それだけじゃないけど、そうやって知り合ってから、土本は何者だと、ぼくのむかしの映画をみんなでみるということをやってくれて、あの人はそういう映画の作りかたをするのかということになった。それまでは、だれもぼくの映画を知ってる人もいなけりゃ、何もない中で、まず、水俣をいっしょに闘うなかでつながりができてきたわけです。
武井 本来、社会的・政治的な運動と芸術的な創造運動との関係は、そうあるべきだと思いますね、非常にいい話をうかがいました。
土本 本来、記録映画をやっていると、そうなるはずなのですよ。しかし、名前はいわないが、たとえば朝鮮人の原爆被爆を撮りに行って、そこの人にはフィルムをお見せしてないという人がいるとする。で、次に撮りに行ったやつはみなたたかれる。それはどうしてかというと、最初に行ったのが盗みどりとか、自分の観念で撮りゃいいというやり方をしたわけです。それでも撮らないよりはいいという判断があって、そういうことをやったのだろうけれど、撮ったあと、上映その他持続した還流がない。だからそのときはかっこよく撮りに行くけれど、結局は、映画人として自分の足もとをこわしていっているのです。なまじ連帯とか運動とかを看板にそれをやったらだめですよね、だからぼくは運動とも連帯ともいわないで、ぼくの道楽だといっているんです。(笑)
武井 そうは言っても実際、あなたの姿勢こそが運動者のそれですからね。(笑)そのへんで高岩さんは、労働運動を将来撮りたいと執念をもっているわけですが、そういう点で感想はどうですか。
高岩 公害反対の運動の中で水俣が一番すすんでいると思うんです。すすんでる水俣の運動と土本さんの映画が密接に結びついているし、そのことによって出てくる映画が公害運動全体に与える影響も大きいと思います。公害運動だけではなくて、あらゆる運動にいろんな形で影響をおよぼすと思います。それに対して、ぼくが一番気にかけている労働運動の場をみた場合に、そういうものがいま全然ない、といっていいでしょう。そういう状況を考えると、労働運動の中での映画のありかたについて、土本さんがどう考えてられるかということを、おききしたいと思うんです。もう一つは、ちょっととぼほけた質問だけれど、土本さんはなぜ水俣を撮り続けるのか・ ・・。
土本 後の方の答はしやすいんだけど。いずれは、むこうの人から飽きられて、帰ってくれといわれることがあると思うんですよね。(笑) お前さんたち、もう用が済んだ
から、といわれれば、その時はひきさがるつもりだけど。(笑)
『水俣』を撮ったあと、はじめはこう思ったんですよ。有明海とかいろんなところに問題が出てきて、第二、第三の水俣になるという段階で、これはひどいから、日本列島を全部総まくりで撮ってやろうという気持が非常に強く動いたんですよ。
しかし、水俣の患者さんをみていると、患者さんの中の一部がわき目もふらず、どんどん突出していく。裁判の判決前は、まだもやがかかってたでしょう。その判決が出て、つまりそれで保障金を出したんだからおしまいよといわれたときおそってきた恐怖はものすごかったと思う。ぼくは、八〇〇万出ても一〇〇〇万でても一八〇〇万でても、いくら出ても同じだったと思うんです。支援運動の人も、裁判支援だからこれで終り、われわれも転身しますというのが一番こわかったと思うんです。まして水俣の地域社会でのいろんなことがあったと思う。その人たちが、最後に決断したのは、おれのことはおれが始末するという形で、まわりとのバランスとか展望とか、そういうものをぬきに、自分が生きていくためにはこうだと進んでいく。ぼくはそのとき、この人たちと遅れた患者さんたちとの落差がひどくなりすぎて、みすみす分裂の口実を敵に与えるんじゃないかと、一瞬ひるんだんですよ。そしたらこの人たちが、チッソに乗りこんで、患者全体の本質のところでものを言っているでしょう。すると、今まで、ねむっていたか、黙っていた層がぐーっと動き出して、もう全体が同じレベルまで行っているんですよ。この間まで世の中のことを一切聞かされなかった患者さんが堂々たる論陣をはり、堂々たる自負心をもってここまでくるんですよ。つい二カ月前の公調委のたたかいから登場した人が、今は侍大将となって動いているのが映画の中にも出てくるわけなんです。この人たちは、おそらくもっと先へ進んでいくと思う。進んでいく要素はどこにあるかというと、小さな子供たちの被害です。小さい人たちはこれから青年になっていくわけですから、人間世界でこれから味わう一生の問題ー労働・出産・結婚からね、そういうことをどう処理されていくかという問題が出てきている。自分たちも、口では全部水俣病であるとは言ってたんだけど、こんどのような条件になってくると、疫学的にみても、あちこちにぼろぼろ出てくる、漁民にもぼろぼろ出てくる、海は絶対に生きかえらないーこうした問題が出て来た場合に、この人たちは、もっと先へ行くと思うんです。どこまでいくか、孤立してでも進んでいってごらんなさいという気持がぼくにあるわけです。水俣病の闘争をみていると、五人しっかりしていれば全部を動かしているんですよ。患者さんが五人しっかりしていれば全国を震憾させることを提出できるんです。患者さんは今は五〇〇人いるし、来年は、二、三〇〇〇人は出るでしょう。そういった人たちがぬきさしならない問題をかかえた場合に、ぼくは資本主義の一番深いところを刺す新しい問題を出してくると思うんですよ。交渉が一応妥結しましたから、ここのところしばらくは昼寝せざるをえない状況があると思うけれど、今度は、漁民の問題などではたす患者さんの形がでてくると思うんです。今度は、いままでみたり想像したりした以上のことがでてくると思うんです。
有明にもいってみたんですけれども、有明の人たちはいまはどこでどうやっていいかわからないでいるが、いずれは自分たちの闘う方向と方法を見つけていくと思うのです。そのとき、いまは有明の人たちが水俣の闘いにあっけにとられるようなことがあったとしても、その闘争は必ず伝わるし、そのとき、有明の人たちは一番肝腎なところを無駄なくつかむって感じがするんだな。だから、行くとこまで、連れそって、それを映画としてやってみたらどういうことのになるのかなというのが、あるのです。あの地域を全部無人地帯にするなら別ですけれど、そんなことはできない。それに、日本はもうどこへ行っても同じだしね。また、水俣病を治療する医者は熊本にしかいない。村八分的にされて、大阪などに逃げていった人が、認定を受けると、晴れて郷里にもどるんです。結局、あの地域に人が住み生きて行かなきゃならないし、水銀づけでも、あそこにはやはり社会が存続するわけです。ものすごい矛盾をもってね。それにつき合わないといけないと思ってるんです。
労働運動のなかにカメラを据えよう
武井 土本さんのいま言ったことが映画の中にちゃんと出てますね。裁判の判決が出て、ことが解決どころか、これからいろんな矛盾が発展してゆく。患者たちの先端の部分はそのことをはっきりと意識しながら、ー意識するというのは、観念としてではなくて、実際のたたかいの中で、もうそれをくわえ込んでいっているということですがー闘っている姿が非常にリアルに出ていた。それは映画が外から観念的につけ加えたというのではなくて、運動の先端の部分が示していたものを、まさにドキュメントのカでとらえているわけですね。そうすると、それを徹底的にそれ自体を水俣に即して追求していくし、新しく広がってくる問題の中でもそれを追いかけていくか、土本さんとしては、それをやっていかないわけにはゆかないでしょう。第二の土本、第三の土本がやってもいいが、そういうふうに運動が広がる方向が一つある。
高岩さんのきっきの質問にかえると、高岩さん自身がそういう土本さんが切り開いた運動から学びながら、労働運動にとりくんでゆくといいと思うわけです。
高岩さんは、水俣のスタッフに入る前、もう四年くらい、国鉄の動労とか、国労とかの闘争の現実をずっと追いかけてみてきている。映画は撮っていないが写真を撮りつづけてきている。高岩さんなら、いまの国鉄労働者の闘いを撮れると思いますね。映画作家で、労働者の闘う現場を四年も見つづけてきている人はおそらくいないだろうと思う。で、国鉄はいうまでもなく、日本の国家独占資本主義の背骨をなしているもので、ここでの合理化が、国鉄労働者を、とりわけ機関士たちをどんな苛酷な状況に追いやっているか、それはすさまじいものになっている。事故が起きないのが不思議なくらいであって、三河島事故規模の大事故がひんぱつする構造が出来あがっている。事故がおきれば、運転士は死ぬか、生きのこれば監獄ゆきーそこまで、労働者は追いつめられている。それを日常ひしひしと肌身で感じさせられているのが、助士廃止と過密ダイヤでしめあげられた動労ですね。動労の反合闘争、スト権奪還闘争が、なににもまして尖鋭になるのは必然性がある。動労の闘いが孤立して尖鋭化しているようにみる見方もあるけれど、実はそうではない。国労の下部労働者のなかに影響はひろがってきている。全逓や自治労やその他の、国家独占資本主義下の反合闘争を闘わねばならぬ労働者の共感をあつめ、その闘いをひきあげる牽引車の役割をはたしつつある。ちょうど、公害闘争における水俣の役割、独占の「国土開発」政策に対する三里塚農民の闘いの役割と、構造が似てきているわけです。
高岩さんが、土本さんの映画運動に学んで、それを撮ってゆくといいと思うのです。国鉄のマル生粉砕闘争で、動労田端で、当局側への追及、とくに鉄労幹部への追及の闘いの現場に高岩さんは、写真を撮っているでしょ。あの現場に入れる映画作家はあなたしかいないですよ。映画会社でPRをとっていて、映画作家でございとすましていて、いい題材があり、いい機会があったら、おれも自由な映画をつくりたいなどといっている人たちには、絶対に与えられない機会ですよね。高岩さんが、一貫して日常的に闘いに接していたから与えられた機会だったし、もし、二台のカメラであの現場がとれたら、すばらしい記録がつくれるところだった。『水俣一揆』をみて、そんなことも思いました。
そういう機会は、つくろうと思えば、この秋の闘いでも来年の春闘でも必ず訪れる。その準備をいまからしっかりつくってゆく必要があると思うんですね。そういう点で、土本さんは『ある機関助士』から出発したのですし、その後も国鉄には出かけたこともあるのだから、サゼッションしていただけるといいと思うんですが・・・。
土本 そうですね。高岩さんが、ぼくと出逢ってから大事にしていただいたものがあるとすれば、まず、スタッフの協働性づくりだと思うんです。映画はスタッフワークの仕事でしょう。それなりに細かい分業があるし、それなりに一体性が要る。文筆の仕事とちがうところなんですね。そういうプロセス自体が、ぼくの性分に合っているんです。高岩さんが自らのスタッフを組むとき、高岩さんとぼくが、組みに行く、という感じでできるべき協働体があって、スタッフづくりということができるといいですね。ぼくは映画というのは人聞が生きてておもしろいんです。『水俣』でも、あの人はどうなったかとか、『三里塚』でもあのばあさんはどうなったかとかがあるわけで、ある種の人間の全人的な想像力がなかったら政治的な像がいくら入っていっても、それだけではだめだと思うんです。たとえ新聞紙上をさわがせていることでなくても、日常の中からアクチュアリティを拾い出してくるということを記録映画はできねばならない。それから記録映画は、スターではない、すばらしい人間を描くことができる。そういうふうなことをスタッフ全体がどういうふうにつかみきって、無我夢中になれるかです。
それで、ぼくがおそれるのは、たとえばぼくが組合で映画をつくるとすると、よほどいいひとをつかんでおかないと、映画をつくる相談をしているうちに、その人と一緒にぼくは組合から出されてしまうだろうということです。機関車に乗りたくてもそこから降ろされるだろうし、その人の住んでる家のまわりで国鉄か問題を描かなきゃならなくなるようなこともあるかもしれない。ぼくなんか、そういう点で、かつて何遍口惜しい思いをしたかわからない。
ぼくたちは労働組合や、学校の自治会から公式的に排除される寸前で仕事をしているわけです。今は、それに対共産党ということが出てきているからますます手がつけられない。だから、ぼくたちはもともとこちらの世界はとらしてもらえないで、そこに入れない人たちの中ではおれは天下だという関係をつくって、映画を撮っているわけです。そして、どさくさにまぎれてどんな相手の中にも入っていくという構造でしょ。たとえば、社長なんて、今後一生、ああいうふうには撮れないかもしれない。そういう意味では高岩さんが労働運動の映画を撮るとしたら、スタッフの結成と対象との人脈のつくりかたが大切ですね。それが完成したときに映画になっていくと思うんです。それはきっとおもしろいと思う。
前にぼくは、代々木の人に、国鉄の映画を手伝ってくれと頼まれて行ったんですが、国鉄の労働者が仮眠するところを撮るという場合、その部屋の布団のよごれかたとか、そこがどんなに荒れているかとか、人間扱いされてない空間を、じわじわ撮ってゆけば、そのシーンとして物語るものが出てくると思うんだけれど、「労働者仮眠室で寝ました」というだけのカッティングを注文されたのでは、そんなもんもっともおもしろくない。だから、現場でほんとうにとるべきものを発見できる、そういうふうな映像を獲得した人がスタッフを形成してしっかりした問題意識を共有して、自由に撮ってゆくことが可能な状況をつくっていけば、ぼくはどんな日常的なものを撮ってもおもしろいと思うんです。
最終的にはぼくは「映画的」という言葉を何度も洗いたいわけです。ぼくは『水俣』をやることになって、映画技術も拓かれたと思うんですよ。そうならざるを得ないのです。そうしないと負けるから、状況に。今度、シンクロを手に入れて、金のかかる撮影方法をあえてやらしてもらったのは、それでやらないと失敗するからです。そこでぼくは技法的に先に出たと思うんです。ぼくにとってその技法というのは思想といってもいいと思うんです。
運動をささえる民主主義
高岩 とにかく、ぼくがいままで学んだ最大のものは、さっきも言いましたカメラのかまえかた、それにスタッフの民主主義です。今まで、いろんな映画づくりをしてきたけど、こんなに民主的なつくり方ははじめてです。ただ、ぼくはあんまり焼酎が飲めないのが残念だったけど。(笑)
武井 ぼくは現場を知らないけれど、土本さんとは学生時代からのつきあいだから想像できるけれど、こんなに活動的でやさしくて、デモクラティックな人はめったにいない。おそらく代々木系の独立プロの監督などにはまったくないものでしょうね。まあ、何系に限らず、大島渚の映画づくりでもひどく独裁的だと松本俊夫なんか言ってましたね。
土本 大島なんか、いいものをつくっていたときには、同志的な横のつながりの片りんはあったと思いますがね。今村昌平でも、いいものだなと思ったときは同じ助監督世代で横並びでやってたなという感じがするしね。それが縦構造になったときに、写真もおかしくなるということがありますね。
武井 『飼育』あたりが、その分れてくるところでしたね。
高岩 ぼくは、本当に労働問題をやりたいけれど、演出家で、土本さんのような人が出て来てくれないととても出来ないです。
武井 しかしね、まず自分でやらなくちゃあ。しっかりした姿勢で仕事をすすめながら、スタッフを組んでゆけば、必ず共同する人や助っ人が現われますよ。土本さんはそういうのを見捨てておけない活動家なんですよ。そういう点を高岩さんも学びながら、労働運動の記録映画という分野に新しい仕事をしていって下さいよ。宮嶋義勇さんのようなすぐれた先輩かいるじゃないですか。
土本 できることなら、ぼくもやりますよ。
武井 ぜひおねがいしたいと思います。
土本 小川のとこもそうだけど、若い連中が同じ仕事をした中から、アミーバーのように別れていく。別れる時期は必ず来ますし、別れても一緒になって協力している。ライバルなんていうような分れていくイメージじゃなくてね。
武井 そうね、細胞分裂による運動の拡大だよね。
土本 そのことは予感としてあるな。
武井 それから、さっき土本さんが言われた役割り転換みたいなことのできる自由というのはいいですね。ある仕事のときは、こっちのスタッフが相手側に肩入れして、きちんとそこの分担をやってやるということ、これは運動の意識がないと出来ないことですね。