水俣病の五年前と今日 「毎日新聞」 2月26日付 毎日新聞社
石牟礼道子の『苦海浄土ーわが水俣病』に手招きされて、憑かれたように高木隆太郎(プロデューサー) から映画をつくろうと語らいのあった一年余ほど前、私は臆した。
高木の故郷が美しい不知火海の宇土であることもあって、彼は心底こぶしをふりあげている。それに反し、五年前、ほとんど予備知識もなく、一途にカメラマンと水俣にTV ・ドキュメントをとりにいき、事、志と反して、その厚い現実に完全にはね返された痛覚が私によみがえった。
水俣病発生以来十年、その時点で、脳性小児マヒといわれてきた胎児性水俣病患児に焦点をおき、記憶に遠い、半ば風化しかかっている水俣病を描くのが意図であった。いま振返って十八年の歴史をみても、昭和四十年一月当時は、もっとも暗黒の時期であり、厚生省の公害認定の出る三年半前の水俣である。当時目立ったニュースとしては、熊本短大のサークルが「水俣病の子供を励ます会」という、やや美談的な話が美談的に新聞に出たくらいだった。まだ引きのばしたままの桑原史成の写真が未出版のまま、宇井純氏も石牟礼道子も、その長い調査やきき書きの執筆にようやくかかりかけたころとあとで聞いた。
手づるの一つ、熊本大学医学部をたずねたが、研究班の室のとびらは決して開放的ではなかった。世界的な業績といわれる水俣病研究班が、膨大な調査と臨床を経て、メチル水銀が水俣病の原因であり、その物質が工場のスラッジにあることをようやく突止めたが、工場側は反論否定し、中央の清浦教授や大島教授らもアミン説や海中の爆薬説などでかく乱的な世論操作を行ない、経済企画庁の介入などで「一地方大学」といういわれないさげすみの中で、孤立していた。お会いした一教授は「中央では反論が多くてね・・・ 」と苦笑し、暗い顔になる。これは容易ではないと、私はその堅い、大きい障害をさとらされたのである。
もう一つの手がかり、熊本短大では、甘美な空気さえただよっていた。ナイーブな学生ががん具や果物を手に定例的に見舞うという活動に上気していた。そのサークルの部屋で見た患者、患児の写真パネルは撮影者桑原史成の弾がいをこめたカメラワークに反して、その両眼の部分にビニールテープがはりつけられ、あたかも犯行者の生態写真のようで、私はそれをはがしながら現われたひとみにわびたい気持に駆られた。
現地水俣に行き、市や病院当局をたずねるにつれて、チッソの息吹きにおおわれたこの町の意識構造からみれば、学生の単純な誤りとはいえない隠匿の空気がすぐにわかった。市民にインタビューしても、あっけらかんと「知らない」という返事が返ってくる。直接見た人はほとんどいない。受付のいつもごったがえす市立病院の特別第三病とうは、長いどうくつのように外界から患者の世界を断ち切っていた。医師は水銀で脳が死滅し消失したのだから、どのような有効な治療があるか手さぐりで、全体が陰徴な政治風土の中でイジイジと仕事をしていた。生まれたままそのけがれも知らぬ患児たちが奇形のまま奇形に運動している光景は何と言ったらよいか。しかも彼らは生まれながらにカメラに慣らされて、私たちに対してもきわめて人なつこささえ見せるのだ。最も自由に撮りやすい対象でさえあった。それがあえて撮るもののモラルの核につきさきる。それゆえに一生水俣を背負う石牟礼道子の土着に比べ、私は二度ともどらぬ旅人ではないか。
三十七年八月の安定賃金闘争でチッソの組合は二つに分裂させられて、市全体が水俣病をタブーとしている。私は村の子供にカメラをむけたが「なぜこの子を撮るか?」と激しい拒否にあった。私たちは澄んだ海の底の青い陶器のかけらを黙々と撮ることで辛うじて撮ることの意味を失うこととたたかった。私は記録映画作家として仕事が続けられるかどうかの根源的な自問に以後長く苦しめられた。海は死んでおり、チッソをのろいながらチッソの見舞金を食って生きる残酷な構造。患者さんを幽閉するのに、水俣ほど見張りの多い堅固な牢獄はないし、人目から隠すのに村は格好の雌れ孤島であり得た。
今度の映画までの五年間に、四十三年の厚生省の公害認定という水俣病にとって、その中世の終わりにひとしいメルクマールがあった。新潟水俣病の発生という負の連鎖反応があり、決定的には「水俣病市民会議」「水俣病を告発する会(熊本)」の結成とその持続的活動があり、何より、江頭豊(チッソ社長) が虎屋のヨウカン三本をもってわびながら、いまだに因果関係すら、責任すら法廷の場で認めないことによって圧倒的に蓄積された怨念があることーこれが映画を準備させ、映画を作らせたといえる。
五年前のことをるる述べたのは、この映画で語りつくせぬ暗黒史の一部をいささかでも知ってもらったとき、ここに登場する人々、明るさも暗さも突きぬけた地点に自力ではい上がった患者さんたちの光景をもっと強くわかってもらえると思うからだ。患者さんが「公害」と言うとき、その言葉は彼らにとって、あまりにもむなしいはずだ。水俣病がチッソによる時間をむなしくひきのばしたゆえの私的殺人であり、傷害であることを知りぬいている患者さんが、新潟水俣病を知り、安中を、カネミオイルを知り、その痛苦の公けに及びはじめたことを心底怒って、自分の落度のように「公害反対」の声を叫びだしているように思える。いったん落ちた奈落に支援の綱がたれ落ちた今、彼らははい上がるより、それを握手のように振っている。他力本願のいいかげんさをもたない自力で起つ人々を患者さんの姿の中に見た気がする。それが、五年前に見えなかった私のようやくこの映画で見えはじめた「光」なのだ。