ヨーロッパ通信 8月 <1972年(昭47)>
ヨーロッパ通信 8月
H兄 ー七一年九月、パリよりー
日本を出発するとき、映画『水俣』をもってフィルム行脚をしての感想をヨーロッパ映画通信のかたちで送ってほしいといわれながらのびのびになって申訳ありません。当初四十五日の旅程がのびのびになりはや九十日になりました。のびた理由の主なものに、日本での私の身辺についての警察の動向があります。前作『パルチザン前史』(註・六九年夏、京大全共闘のパルチザン五人組の新たな闘争とその思想を描いたドキュメンタリー映画) の主役的な人物T (註・七一年八月、朝霞の自衛官死亡事件に関し、強盗予備で全国特別指名手配となった)の追及にあたり、この一月、すでに家宅捜査をうけ、任意出頭を求められて以来、ストックホルムの環境広場に出発するまで、そしてひきつづいてその後も更に逃亡幣助の名目で追及は更に烈しくなっていることが、数日おくれで入手する日本の新聞でも分ります。未確認ですが”切プ”(註・逮捕状) が出たとか云々されているようです。しかし私は勿論帰ります。私の活動の地は日本にしかありません。ただ、いま苦境にあるときく友人たちの困難なシチュエーションについて思うのみです。帰国後、あるいは自由に通信を書けるかどうか分りません。又情勢が変り、発表出来ないことの方が強いと思います。ゆえにこれは私信であり、兄には送りとどけておきたいものです。
現実には、パリの生活の中で、毎日のように珍品に属する映画をみてあるき、幸いにも偶然一一夏をこの地ですごす山田宏一氏と、映画のプログラムを交換しては、場末まで映画をみてあるくという生活です。ちょうどその間、去年ピサロ国際映画祭に出品された『パルチザン前史』がその事務局の管掌下からはなれ、パリのシネマテイクに保管されるのを機に、『水俣ー患者さんとその世界』にひきつづきパリの若手批評家や運動家たちの手で上映され、なつかしくも面白い試写となりました。カイエ・ド・シネマ誌のひとびとは、この映画をみて、パリの五月革命とその後の状況とひきあわせてこの映画をみたに相違なく、日本の新らしい質をもった闘いの前進点も、そのぶちあたっている障碍も、彼ら及び、世界的に大衆行動の当面している組織問題、大衆武装の問題と同じ内実をもっているとして、大きな関心をよせ、シナリオの仏訳のうえ、「カイエ・ド・シネマ」誌上に特集を組みたいと語っています。『水俣』の普及のための行脚の中で、いま苦境にあるTの映像をパリの若い人々とともに見るといった体験は、たえず実在の人間のドキュメンタリーをとる作家として楽しいことであり、またいたく厳しいことでもありました。映画をつくることで始まった私への具体的な警察の圧力がどのようであれ、畢竟、新たな映画をつくることでしか、私は私を守り得ないでしょう。
H兄、今度、この異国の中にあって、ドキュメンタリー映画のあり方や位置を考えるにあたり、きわめて冷静に自分たちの仕事を省察できる機会をもてたのはしあわせでした。
あくまで知的なヨーロッパのドキュメンタリーの伝統の中に、日本のそれを置いてみると、その異質性と、荒々しいまでの現実とのからみあいが、アジア的な情念をふくんで、ヨーロッパの人々を衝っているのが分ります。
私が『水俣ー患者さんとその世界』をひっさげてのわずかの行脚の中で、私はもっぱら、同じ客席にいて、ひとびとのこの映画をみた”直後の顔” をみつめてきました。それと同時に、このヨーロッパで、あらためて、この地の人々の手になる古典的なドキュメンタリー映画、主としてヨリス・イヴェンス、ジャン・ヴィゴ、クリス・マルケル等の作品に接し、それを観賞する人身の呼吸や感応を隣の席で感じとって観てきました。そして分るのは、私たちの映画をみるのと、それをみるのとのあきらかなちがいです。
パリのシャイヨ宮のシネマテイクで幸いにも一九二〇年代から今日までのドキュメンタリーの代表作を見ることができたのですが、その一つ一つを詳述することは、今の目的でないので省きます。ただこれらのヨーロッパのドキュメンタリーが、その即物性の把握、映像による解析においてきわめて徹底的であり(ヨリス・ヴェンス)その構成と表現において、すぐれて批評的であり、かつ実験性にみちみちており(ジャン・ヴィゴ)その哲学的思考において、映画が、間然たるところのないひとつの観照世界として創られた知的一貫性をもつもの(クリス・マルケル) など、極めて強い個性の作家の作品でありながら、それをつらぬくものとして、知的な思考と解析力の鍛練を、映画以前にしぬいたもののみが到達しうる、共通の知的快楽がちりばめられており、エスプリというか、シネ・ポエムというか、一見ドキュメンタリーのもつ硬い構造にもかかわらず、抽象的なまでに昇華された知的快楽が必ずひめられているように思えます。一作品の中にぬきんでて一カ所か数カ所に代表的なショットがあり、そのショットが出現するや、口笛がとび、嘆声が場内に流れる。その映像は当時、技術的にもイメージ的にも劃期的に創造されたもので、文章であらわせば図解可能な明せきな事がらであっても、それを見事に映像化しえたことへの共感であることが多いのです。ひとつの鍵のあけ方さえ分れば、いかに難解な作品であろうと、おのずと解けて、その解き方が、映画を観客自身で分解しモザイック化していくといった知的ゲームのたたずまいを失っていないのです。したがって映画を見終つての”読後感”は、きっちりと終ったもののもつ完結の美があり、おしなべて昂揚感とともに一抹の爽快ささえ残すのです。これはクリス・マルケルの領導する戦闘的映画集団スローンの最近作にも共通していて、映画が、映画を観ようとする「待った」姿勢の観客に、決してあざむくことのない映画的快楽ののこし方を、その伝統の中におのずとひそませている気がします。
これがアジテーション映画の場合には、もっと明快で、あいまいなロジックは系統的に排除され、指示性のつよい画面でつづられ、言いのこしのないほどクリアなコメントがつづくーしたがって「待ち手」「受け手」に対して、”読後”一様に顔が上気するような認識の共有感が残るようになっている気がします。これらのアジテーション映画の”革命性” とか”戦闘性” は政治をもっとも尖鋭な時代の意識ととらえる作家の、映画プロフエショナルとしての方法かどうかは、今論議はしませんが、映画として極めて知的に構築されていることだけは分ります。たとえ表現がどのように”感覚的” であり”深層心理的” であろうと、それがすけて見えるのです。
それにひきかえ、一昨年よりヨーロッパに紹介された小川紳介の『三里塚の夏』『第二砦の人々』にしても、私の作品にしても、改めてこの映画的風土の中で見直すとき、きわめて存在感のみでつらぬかれているという印象が第一でしょう。いわゆる”日本” や”アジア” の生理を色濃く投影しているーそうしたものの存在感が、有機体をなしてそこにあり、主情的でぬめぬめとしており、知的に裁断すれば極めて一方的で(客観的視点でないという意味を含め) からみつくがごとくである。それでいて、映画には間違いなく生きたひとびとが存在を主張しており、その描かれた世界は、法則的であり、歴史的であり、トータルには人間の闘いの一駒としての普遍性を保持しているーこうした作品の体躯は、ヨーロッパのドキュメンタリーの系譜のもつ知的構成力にみちた骨格と対照するとき、極だってみえるちがいを示してしまうのです。
クリス・マルケルの近作(労働運動を描いた作品)を例にひくのは妥当でないかも知れませんが、”労働時間の短縮”、”婦人の労働条件等の改善” のための闘いのはじまりとひろがりの時期を描いたその作品は、同時録音であり、あらゆる側面から一つの要求する人々の真実をえがき出そうとしているものの、そのカメラのむこうで動く人々の呼吸が生には伝わりがたいのです。たとえば、人々のカメラとの対応や、映画がそこでつくられているときに発する磁力の働き方は感じられず、作家の映画的フレーム(粋) が前面に、観照の視点として出てくるのです。それは知的であり、言いかえれば静的でさえあったー
そのことが技術や手法レベルのことなのかというのが問題です。こうも考えました。カメラと対象との間に、ぴったりとくっついたような形をさけ、逆に意識的にすき間をおき、そのすき間に映画をみるひとびとも立ち入って、相対的な批評をするだけの、つまり割りこみうるだけの、三角関係の構造。一見硬構造にみえてもそうしたすき間が用意されており、知的な分解の可能な、「組み立て」あそびのような見るがわのモンタージュの余地が意図されているのではないか。「対象」に対して一方で「カメラと演出」があり一方に「観客」があり、つまり作家はあえて、それぞれの座を分ち、そのあり方に干渉作用をすることなく、あくまで、映画という結晶をつくるといったことが、意識的に計算されているー。その三角の関係はフィックスであり、対象に映画がかかわり、対象が映画にかかわるといった座の交換は決してないのではないかと思えるのです。
その点、私の映画をふくめ、日本のドキュメンタリー映画がヨーロッパにおかれてみて、はじめて、そのもつ” 一方的” 且つ主情的で、はてしなく対象世界に入り組もうと希求する映画のそのもつ情念において、きわめて異質なものを与えた気がするのです。私の作品としてはつとめて”知的”であろうとした『パルチザン前史』すら、きわめて情意にみちたシンパシティックな映画とみなされています。そして映画がそうであることをふくめて、描かれた対象ーつまり日本の青年の存在感は、やはり、触り得た、という反応がかえってくる。また、『水俣』はパリなどでは公害の関心でみられたり、科学的関心や政治的関心のサイドからみられたことはきわめて少く、「患者さんとその世界」のタイトルに即していうなら「日本人とその世界」「アジア人とその世界」をみた気がしたという見方をすることで世界観的な回心を示唆されたという批評すらありました。だが多くは、よく意見がのべられないでいる。それでいてただ失望し余分なことは言わないというのではないのです。私はとなりの席で自分を名乗ることもなくその観ていての反応をみつめてきた。そして言えるのは映画が丸ごともつその存在感について、非人々の実在について、見たというより会ったというに近い感じ方について、ヨーロッパの人々は一瞬言葉のたどり方を失うようでした。
小川紳介の映画にしても、私の映画にしても、どれも一向に客観的ではなく、いわゆる”知的” でもなく、まして遊びも快楽も秘めこまれてはいない。対象がうごけばカメラがうごくといった一見、単純きわまる原理的な映画手法です。高所からも安全なコーナーからも見ていない。その対象世界の人びとと同じ呼吸しか出来ないほどの私たちのカメラの密着について、彼らの伝統的な思考が「異質性」の品目をもって相うちあうのが分るのです。『水俣』にしてもただ患者さんの世界からみた話にかぎられ、社会構造の矛盾はこのごとくであり、医学的にはかのごとくであるという描法ではない。百科全書を期待しないまでも、「水俣」の全面的な表現をのぞむなら、欠落、落丁だらけの記録です。そこからひっかかりはじめる限り、それは最後まで氷解し得ないこだわり、疑問としてのこるーそういう批評もありましたが、多くのひとびとの”読後感”は必ずしもそうではない。そうした場合、人びとは、こうした映画につきあたって、そのまるごとと、彼のまるごとが対話をはじめていると思うのです。そうした場合、人間が、ひとつの糸ではたぐりよせられない、いくつもの入りくんだ混沌とした存在としてあるように、対象、カメラ、観客というそれぞれの「座」に席をすえての観賞ではなく、主体的な思考を求められる。ひっかかるとしてもただ単に映画のある部分へのひっかかりでなく、映画の全体に対してのひっかかりになる。つまりむきあった「映画」ということになる・・・しかしもしそうだとしたら、実はいいかえればひとつの映画的体験、まさしく”見た” ということになるのではないでしょうか?
しばしばヨーロッパの職業的批評家から「作家としてのあなたと主人公(あるいは登場人物たち)の考えとの間はどうなのか、同じなのか違うのか?」。日本では極めて稀か意図的な場合にうけるものですが、こちらでは普通の質問です。そのとき、私は答えることが出米ません。「私がどうしている、何を言おうとしていると、この映画で感じられたかおっしゃって下さい」と逆にききかえします。「そのひとびとと一つになろうとしている」「あなたの見方で成立している」といった意見の返ることがある。それでいて、対象世界の人々の真実については、ほぼ正確に感得しての上であり、ただに私の「座」がつかめないようなのです。ポリティックスがない、階級闘争的視点がないというひかえめな難詰もユマニテ(仏共産党機関紙) の記者からありました。それも答えることが出来ませんでした。私はそのとき、その分ってもらえなさの一つの理由を、”ドキュメンタリー映画像” の異質性にみないわけにはいかないのです。日本のドキュメンタリー映画が彼らの知的な映画伝統からみるとき、ある解析不能な、あるいは追求不能な歴史とプロセスをもっていることかも知れません。日本の記録映画の個有な風土の産物なのでしょうか?
H兄、今、フランスはバカンスで正調の映画活動の季節ではありません。ですから、私の見聞は決してノーマルな話と聞かないで下さい。フランス在住のマダム・ゴヴァース(ひろ子・ゴヴァース)という映画気違いで、『水俣』のヨーロッパ配給をひきうけてくれた方の案内で、いろいろ及ぶ限りの映画人とあいましたが、若手批評家のほかは、現場の映画労働者で、その指導者クリス・マルケルが会えた人々の中ではもっとも知名な人です。その人びとと下世話なことまで話してきました。そのなかで感じたことを報告しましょう。
日本で『三里塚』や『水俣』が自主上映でニ〇万人三〇万人のひとに見られているというと、彼らは一瞬暗然たる顔をします。その製作費が約一千万円、そして一年近い製作日数を費したというと更に話のへだてが出来るのです。話していくにつれて分るのですが、フランスやヨーロッパでの自主上映に興味をもってきた私は、改めてヨーロッパ像や外国像をふり切らなければなりませんでした。五月革命のさなかにいわゆる戦闘的映画集団が登場し、われわれは大いにその前途をみつめたものでしたが、いま一二の少集団に分裂して、一つ一つがシコシコとやっている段階とクリス・マルケルから聞きましたが、その製作条件は、日本よりはるかに苛酷でした。前記のクリス・マルケルの領導する映画集団「スローン」は、その中で、持続的に「労働者自身の手でつくる自主映画」づくりをすすめていました。そうした映画づくりをはじめた労働者にプロフェッショナルな技術的な協力や、指導をし、時には、そのメンバーの映画人で一本の映画を作り上げていました。勿論、手弁当で、費用のかかる現象所、録音所の支払いは、ゴダールやトリュフォーが、借金の保証をするといった有機的な共同動作をしているとのことですが、通常白黒で三〇〇〇フラン(ほぼ二〇万円) から、カラーの場合でも七〇〇〇フラン(ほぼ四五万円) 位の実費しかかけられないといっていました。そしてそのために割く労働日数は二、三日から長くて二週間、仕事の合間をみて撮りにいっているとのことで、私がCMで生活費をかせいでいると下世話な話をすると、クリス・マルケルから、それが出来るだけ恵まれているとうらやましがられ、改めて、その中で持続的な仕事をしている彼に敬意をおぼえたりしたものです。しかしその配給については、日本と全くスケールも方法もちがうことを聞かされました。プリントは、貸出料をとるとは限らず、必要なところで上映してもらうということです。その場合でも、大学のような観客の多いところでも一〇〇フランから二〇〇フラン位のフィルム代ということ、さしずめ一回一万円前後でしょうか。そのため、製作費の回収には、近隣のベルギー、オランダ、ドイツ、イギリスのTV網に、知人の手で放映してもらい、その放映料で一挙に回収するという。そのドキュメンタリー映画は反政府、反資本的な映画なので、地元国営フランス放送では決してとりあげないが、知人(それはほぼ同志でしょう) の手で、フランスの隣接国には売れるのですとマルケル氏は苦笑しつつ教えてくれました。したがって、一つの作品ごとに、そなえる映画プリントは二本あればほぼ上映に支障がないということでした。この事情はイギリスのジ・アザー ・シネマというミリタント映画グループでもほぼ同じです。小川プロや東プロの場合は勿論、どんな自主製作フィルムでも、その上映に数本は作らなければ全国の需要に応じられないのが常態で『三里塚』や『水俣』は一作品について全国に二〇本近くあることは兄も御承知と思います。又、いかなるフィルムでも一〇〇万円以上のコストはかかっていると思います。つまり、フランスにくらべ、あらゆる点で一桁多いのです。まして製作にかける日月のちがいは、製作についての肺活量の差を示し、その製作の基本的な異相を語っているとみないわけにはいきません。
H兄、非商業的映画運動、ことにドキュメンタリー映画の自主的運動の困難が、フランスに於て、ドイツにおいて、イギリスに於て、こんなに苦渋にみちたものとは思いませんでした。私は、西洋はお金持というふうに勝手に思っていたけれども、私たちと同様の作業をしているヨーロッパの映画人の日常と、製作の経済的側面をみる限り、私たちの方が成立していることに改めて検討を迫られる気がします。ひとつには日本のGNPの発展の余波が、皮肉にもわれわれをもうるおしているかも知れません。私はドキュメンタリーの人々にしか会わなかったので、劇映画のように、製作すれば世界的に市場性をもっ通常の”フランス映画” については何もいえませんが、現場の労働者の生活としてはそれも五〇歩一〇〇歩でしょう。つまり貧しいとひとりぎめしていた日本のドキュメンタリーが観客動員数をひとつのメルクマールとしてみても、一桁多く、その製作のスケールも一桁高いということは一体、どういうことかという疑問です。
フランスにおける今日のドキュメンタリー映画の系譜を探ることからそれはとけると思いますが、それらに接する機会は殆んどありませんでした。ただ、在パリの日本の友人から得た示唆によれば「フランスの今の矛盾はパリがかかえた有色人種の厖大な下層労働者の存在だ。この矛盾は一皮はげばものすごいものがある。それを映画にとらないか?」とすすめられました。そういわれれば、ヨーロッパのいたるところで、アフリカ、アラブ、スペイン、イタリアのシシリーなどからの出稼労働者や難民化した移民労働者が眼につきました。しかし、これらをまともにみつめた映画は寡聞にしてしりません。反対に、ヨーロッパのドキュメンタリーが、旧植民地、あるいは発展途上国、あるいはアメリカ帝国主義のひきおこした戦争で、そこがかつて自国が宗主国であったヴェトナム戦争などを題材とするとき、つよい執念をもって追うのにくらべ、その自国の矛盾について、自国の社会的病状について、それに匹敵するほどの作品がないのに改めて気づきます。ヨーロッパのドキュメンタリーの対象エリアが旧植民地であったり、オリエントやアジア、日本のエキゾテイズムにあったり、現実と一テンポ狂わしたコスモポリタニズムにあることは、西欧のもつ過去の帝国主義の残像のように思われてしかたありません。これは恐らく”偏見”でしょう。いまの日本のTVが海外取材のドキュメントで氾濫し、とくに”アジア再発見”などのテーマがもち出されると、歴史は東西、軌を一にしていると思わないわけにはいきません。しかし、ヨーロッパのある程度の繁栄とバランスを自らつつき破る映画が少いのに比べ、日本のもつ矛盾の苛烈さを改めて思い知らされます。
H兄、日本人の映画ずき(あるいはTVずき) は世界に冠たるもので、その点では映画の国フランスに対してひけをとりません。またカメラやテープへのフェチシズムやそれを駆使する能力、いわば、映像表現の潜在人口の厚みは恐らく世界一ではないでしょうか? ぼくのようなド素人に近い人間でも映画が出来るほど、技術はパーソナルになっています。権力の用意した映像教育ヘ彼らのふりまく過剰なTV文化、映像文化の中から、私たちのように独立プロでミニコミに身をおき、手仕事のように映画をつくる、つまり、体制に対し、反対物的に生まれそだつ映画表現力もまたユニークなものだと思います。まさに映画がペン的に駆使できる技術化、オートメ化の産物として私たちの仕事も存在しているのです。そうした条件ともうひとつ、あまりにも劇的な日本の現実こそ、先に映画的風土といったように、われわれのドキュメンタリーの存在基盤ではないかと思えます。つまり、日本ほどドキュメンタリー映画にとっての宝庫は他に比べるものがありません。恐らく、現実には第三世界の矛盾にみちた国々が比べられるでしょうが、そのくにぐにでは映画の上の技術上の諸条件がまだ未成熟であるかも知れません。およそ経済的に成り立ちがたいことは充分予想できます。日本のように、アジアの中にあって帝国主義国であり、故も進んだ万博的な「進歩」がありながら、一方では「水俣」ひとつを解決できず、人間を怨念の世界に追いこんでいくーこれほど酷烈に矛盾が顕然化し、亀裂が眼のあたりに音たてて走っていく国は他に例をみないでしょう。兄も御存知のように私たちは、ちょうどTV網の完成により、”オリンピック” にせよ、”皇太子の御成婚”にせよ”万博” にせよ、一夜にして権力がほしいままにTVを通じて国民的合意を形成しうるまでになったとほぼ時を同じうして、自主製作、自主上映の途に立つことになりました。これはあらゆる必然の系の結ぶところであったと思うのです。そしていわゆる国民的合意に応じない人々、その合意のよびかけの範疇外の人々によって支えられていると思います。どうしてもその中間のところに、私たちの映画はたち得ないのです。日本のドキュメンタリー映画がそうした二〇万三〇万の人々の手で守られることこそまさにユニークです。
西欧の上っつらをみた私には、日本で感じる胸の痛くなるような内なる矛盾は、映画の世界では接し得ませんでした。ただ深夜労働、汚物処理やはげしい肉体労働に黙々としたがう有色人労働者や、そのゲットウがパリに確実に存在し、その人々の低賃金と差別ーその下層生活者によって西欧の都市が支えられているというどうしょうもない現実がより眼にのこりました。しかしどうして日本人がフランスの現実をとる必要があるでしょう。
最近みたフランスの記録映画でフィクションを大胆にとり入れた手法、ときには現実の婦人労働者の闘争記録からシナリオ化し、現実のその婦人労働者をなまの素人俳優にし、闘争を再現し、そのおどろくべき素人っぽい演技が新鮮であり、”ドキュメンタリー”映画に新らしい方向をひらいたという映画の評判を聞きました。あらっぽく云えば「ドキュメンタリーではこれ以上表現できないからフィクションで描く」といったその言い方は、どこかで一度は聞いた話しです。これには正直にいって憮然たるものがあります。
またクリス・マルケルが私の『水俣』の中で、聡明な胎児性の子どもと語るシーンで、私が「東京の海はとても汚い・・・」などとぬかしたのに答えて「いなかでもどんなに海がよごれてくるでしょう」と応えた一連のシーン、自分の病気の由来をはじめて人に語ってきかせるシーンのせりふがシナリオなしで可能であったか、あるいはダイアローグの英訳がそのままであるか、あまりにもぴったりしすぎているとクミコ・ブーロンさん(スローンのメンバーの日本人) に語ったとききましたが、上記の”ドキュメンタリー映画” との相関関係においてみるとき、私たちの映画のつくり方が、フランスのあらゆるドキュメンタリーのパターンのどの一つにもあてはまらないものとなっていることを知らされました。
日本はドキュメンタリーの宝庫だとくりかえし反芻しています。それは日本の矛盾がはげしいからであり、これにたちむかう、映画手法、思想にとっての砥石がこれまたとてつもなく強硬であることを思うからです。私はこうしたまぎれもない絶対的矛盾としての”水俣” によって、映画そのものをきたえざるを得ません。外国との比較は所詮無用なことに帰し、日本の現実とのかかわり如何と、その変貌が、私たちの映画の帰すうを決定してゆくものと思います。
私はただ対象を観客との間に一挙に言葉以外で通じあえる感応しうる一ショットとして一本のフィルムを作りたいと思っています。その感応は、それぞれの世界観にもとづき、そして次の次元にその世界観を追いやるものでしょう。決して静的な感応はあり得ない・・・そういう意味で、日々、感じたままの中からしか映画を作らないつもりです。ヨーロッパの旅のなかばですが、記録映画をつくる私にとっての対象とは、私がそこに依拠したいとねがう人びとしかないであろうし、その人びとを決して裏切らない構造をもちつづけること、フィルムの上で一蓮托生ともいえる共生の関係をむすぶことがねがいです。京大での『パルチザン前史』の撮影からはじまったTとの友情に対し、いま権力がどのように洗い出しをしようと、私が生きる限り映画をとりたいとねがっている以上、それへの裏切りは出来るものではありません。いまTと重なって水俣の患者さんの多くの顔が見えます。そして今回の『水俣』のヨーロッパ上映で、再び水俣病の映画をとりたいと思いはじめています。こうして畳々と重なりあった私たちにとって、人びととのつき合い、つまり「映画」なるものの総体は、そうしたもの、そうした人身のつながりだけが、中味なのです。
H兄、るるのべましたが、はじめにのべましたように、この一月以降の権力の真のねらいがどこにあるか、どこに照準をあてているか知っています。私は私を守る方法のひとつとして、沈黙を強いられるのは不本意です。ここに所信をとどめ、報告をかねさせてもらいました。何分冗長になりましたが、貴兄へのある種のラブレターとします。(これはH兄への私信ですが、心境にたくしてパリでの映画報告となっているただ一つの文章ですので、氏の御好意によりコピーしたものに若干の削除と註と補足を加えたものです。)