書籍「わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録」 刷りこまれたものを確かめるために
瀬川順一さん。今回、この本を書くにあたって、映画生活二十三年を息せききって駆けぬけた年月をかえりみるいとまを与えられました。もうというべきか、まだというべきか、私は五十歳になりました。「なぜ、私は映画を選んだのか」と自問するにはこの間あまりにあわただしく、つきつめて考えたこともありません。また、いつも私への質問は「何がきっかけで水俣を追っているのか」「なぜ不知火海を映画上映してまわったりするのか」「なぜドキュメンタリーに固執するのか」などです。それに応えるにあたって、私はいつも”どのあたりから話したらよいだろう”と迷います。そして水俣のことだけを語ってきました。私の映画以前については答えませんでした。
しかし、いま私をドキュメンタリー映画に、そして当面水俣に相関わらしているものの基底には私の青年時代が深くあります。そして、私の理想とロマンであった「ある生き方」があります。それは決して映画ではありませんでした。そのことを一番よく分っているのはじつはあなただと思います。さきにのべた質問をなげかけるのは決って青年たちです。そして私が映画に途を選んだのとほぼ同じ年齢です。当時あなたは大先輩、多少四捨五入していうなら、当時の私とあなたの関係は、年恰好で言えば、近ごろしきりに問いかける青年たちと私との関係に相似ていなくもありません。しかし、こうして最近のわが映画を語るとき、私はこれを読む人のなかに、このところ講演などにひっぱりだされていや応なく対面する二十歳前後の青年の顔のあれこれを思い浮かべ、私の青年時代と重ねあわせざるを得ないのです。私がはじめてあなたにお会いしたのは昭和三十一年、当時あなたは四十歳になったばかりでした。もう六十二、三になられたことと思います。
それはさておき、今日かえりみて、二十数年の歳月がありながら、あなたとはいつも昨日のように同じ出来事のなかを生きてきた気がして、とても時の流れを感じません。「いまごろになってやっと映画が面白くなったよ。優雅にやってる。まだ眼はたしかだしなあ」といわれるあなたは眼どころか脚力も確かなもの。二年前にヒマラヤの頂上まで登られ「白き氷河の果てに」を撮られ、今、畏友松川八州雄監督と組んで、卵による生活意識革命の映画を撮り、ギャラの代りに地卵、鶏、豚肉を供給されながら”労働”と”食物”の物々交換って気持のいいもんだよ」と眼を細めておられるあなたを肴に、私は私の映画の初体験前後のことを語りたいのです。初体験を脳と肉体に刷りこまれたことが運命的にひとの一生を支配するとは思いませんが、何を刷りこまれたかをいまつまびらかにすることによって、決して白紙でも処女でもなかった私の映画人生の暗部も語らざるを得ないでしょう。
「ああ、全学連の人ですか」
私が映画に入ったのは、岩波映画に臨時雇員の口をみつけ、初仕事として当時八幡製鉄(新日本製鉄の前身) のPR映画「新らしい鉄」のロケ現場に派遣されたときからです。山村工作隊時代の画家の友人、入野達弥氏の紹介状を助監督の藤江孝氏に提出しました。それにはあけすけに私の政治遍歴や生活史がかかれていたものです。
「ああ、全学連のひとですか」とぽつりとあなたはいい、それだけでした。のちに詳述しますが、私は十年間の日本共産党員の党生活、形としては全学連中執員であったり、日本中国友好協会本部の活動家としての生活から、就職としての映画に転じたことで、半ば喪心と半ば新しいコースへの期待とこもごも入りまじった心境でした。喪心とは、戦後、一生を党生活者として送りたいとした自分の十年間に終止符をうち、党と訣別して映画に入った虚脱を意味します。私が「党の脱落者です」とのべたのはそうした気持からです。
あなたが党員であり、日映演・党グループのメンバーとして常任的活動家であったこと。そして第一次独立プロ運動(昭和二十五~三十年) のなかで「女ひとり大地をゆく」(亀井文夫) のプロデューサーのひとりとして働いたこと、そして助監督の藤江氏も、今井正監督らの独立プロ作品を支えた人であるばかりでなく、照明技師にいたる全スタッフがなんらかの形で日本共産党系の映画をになった人たちであることを知っていました。しかも五〇年分裂(昭和二十五年コミンフォルム批判による日本共産党中央の分裂により、主流派と分派に二分した) において主流派に属し、私ひとり分派のなれの果てであることも、私をいじけさせていたと思います。その私とあなたとの最初の出遭いが、日本の独占資本の首位にたつ大鉄鋼資本のPR映画の現場であったことに、昭和三十年代の時代の相貌をみないわけにはいきません。革命的プロレタリアートを描くのではなく、その資本の近代化・合理化そのものを描く映画に労力を提供するーこれはある傷心なしにはかなわぬことでした。
そうした状況のなかで瀬川さんや藤江さんとともに働けたことは特別なことでした。それが私にとって不幸中の幸いと感ずるまでに時間はかかりましたが、映画をいったん選んでしまったものの拠り所としてあなた方と私との新たな関係性しかなかったし、それを追究することができたからです。つまりあなた方も、私と同じく党と自分との距離のへだたりに苦しむ映画人であることで一致していたことを次第に知らされたからです。
あなたは撮影現場ではカメラマンであると同時に演出家でもありました。一定のシナリオを書いたあとは、すべて現場をあなたにあずけ、とれたフィルムを編集・構成するといったシステムは、当時モンタージュの第一人者、伊勢長之助(「カラコルム」「南極大陸」) あってのことだったでしょう。瀬川=伊勢コンビはその前年発表された「日本の鉄鋼」(昭和三十年・岩波映画) で数々の賞を得、社会的評価の定まったスタッフでした。私が八幡にいくに当って見たこのフィルムはその映像の強靭さと編集の腕力の見事さで片々たる批判は入りこむ余地すらない作品でした。とくにカメラの一ショットの劇的構図に加え、カメラマンの人間くささや息づかい、その対象への驚きと格闘をへて造形にいたるといった「物と人との関係」には息をのんだものでした。写実性と芸術性の一致といえました。そのあなたが戦後間もなく登場した、谷口千吉監督の処女作「銀嶺の果て」(昭和二十三年)、「ジヤコ万と鉄」(昭和二十四年)のカメラマンであったことは聞かされていましたが、当時はまだ戦時中の亀井文夫監督「上海」(昭和十三年) 「戦ふ兵隊」(昭和十五年) のスタッフであったことまでは知りませんでした。
当時あなたはよく「僕は職人なんだ。自分の箪笥(経験) のなかにあるものを引き出しているだけだ」と私の追求をかわしました。この「職人」という用語に私は党員芸術家としてのあなたの逃げをうつ気配がみえて反撥しました。今日、あなたは決して「職人」と自らをいわれません。その間のあなたの二十年余をその変化にみるのは私のうがちすぎでしょうか。それはさておき、以来、いつも話は映画のことばかり、妻や子供の話などまともに喋り合ったことは皆無です。私がぽつぽつ作品を監督するようになってから、評者としてもっとも立ち入ったのはあなたでした。その評はカメラ・アイからに限られ、その銃座から三百六十度の視界を自由にうちまくるといった猛然たる批判でした。あなたは映像については他者のものも自分のものも区別のなくなる人で、すべて自分のカメラマンとしての選択、その絶対値から、私の作品の未到距離を計るといった、私の作品について、あたかも、自分の作品への自己批判的分析といった交叉がありました。四十歳の体力と腕力のすべてを働かせ、智力と気力を叩きこんで、私の作品を評するーこの痛みに痛む批判に耐えつつ、私は政治の世界にも、個人の生活にもかつてない厳しい映像の論理とパトスを植えつけられた気がします。
映画を選ぶまで
瀬川さん。私の映画生活以前を腑分けしたい衝動をお許し下さい。あなたにとって、あるいは映画はいまさら自問する必要もない人生であったかも知れません。しかし私のお会いしたころ、私はまだ映画を選び切れていませんでした。昭和一けた人種のありふれたパターンをくり返すことでしょうが、いまも私にとって「映画とは何か」について日々検証なしにはいられないのです。私は昭和三年生まれの戦中・戦後派です。小学校に上る前から満州事変は始まっていました。中学時代にぴったり重なっての太平洋戦争です。貴方が亀井氏と「戦ふ兵隊」をとっているころは、私たちは軍国主義一色の小国民教育のなかにいました。
私の東京・麹町小学校時代、師範を出て間もない、頭のてっぺんから爪先まで天皇制を信じきっていた先生が、私たちを卒業まで変ることなく担任してくれました。厳しい情熱的なその独身教師は私的生活も全部私たちの薫陶に費やされたと思います。月一度の明治神宮参拝、週一度の水戸儒家・藤田東湖「正気の歌」の素読、そして全国二、三位を競った剣道修業の記憶につづられた小学生時代でした。夏は暑中稽古、冬は寒稽古と、並の軍国主義教育に加えて、武士道、儒教的教育をうけました。私の父は内務省の下級吏員から日本発送電に移り、刻苦精励、仕事の虫であり、私の教育はすべて小学校教育にあずけられていました。家にはマルクス主義の本一冊なく、修養全集とか日本文学全集があるほか、簡素なものでした。
皇居に近い私たちは半蔵門、桜田門を通るたびに市電の中から一斉に車掌の合図で遥拝叩頭したものです。天皇に話がおよぶと「気ヲツケ」の号令で直立不動になって話を聞き、「直レ」で肩の力をぬくという習慣がつけられました。麹町小学校は宮城に近いことで近衛兵の卵のように躾られたものです。自由主義、まして社会主義のかけらも世に存在すると知りませんでした。太平洋戦争の始まった年、麻布中学校に入りました。いま学習院大の斎藤孝氏や、俳優の牟田悌三、エッセイストの神吉拓郎、亡くなった鈴木建三などの各氏がいました。小学校時代とはうって代って自由主義的な教師たちがおられたものの、私たちの教室での教育は三年生二学期までで、あとは明電舎、国鉄大井工機部での勤労動員にあけくれました。出征年齢の切り下げのためか通常五年卒の中学制度も四年卒に変更されました。その四年卒で入試に失敗した私は、同じ中学時代の浪人と千葉県我孫子近くで敵の本土上陸にそなえ水郷をクリーク網に改築する浚渫作業にかり出され、そこで肺浸潤を得、自宅療養のため一時帰省中、敗戦をむかえました。
中学から陸軍幼年学校・士官学校、海軍兵学校・経理学校への合格者が巣立ち、私の二、三年先輩には戦死したものもあります。しかしいわゆるわだつみ世代ヘ学徒出障には二、三年若く、また一方、戦後、中学にもどれ、民主主義教育を、うけた世代より二、三年古く、徹底的な軍国主義教育のまま敗戦の混乱のなかにほうりだされた世代だったのです。戦争に敗けがあるとは思ってもみなかったし、一億玉砕といった背水の陣づくりを水郷で実地にやっていた私には、二十歳とは兵役につくときであり、覚悟しておくべき死期でした。敗戦は私にとってその中断でしかありません。敗けたのだと実感したのはマツカーサーの厚木上陸に始まる占領軍の軍事支配と、そして日本の旧支配体制が身辺の些事にいたるまで日に日に崩れていくのを見てからです。
空襲にそなえての強制疎開で東宝撮影所に近い世田谷区祖師谷に移転していましたが、母の丹精のカボチャが盗まれたり、イモにかえる母や姉の衣服が底をつき、私自身アルバイトに追われ、食糧の買い出しなど、まず餓えない算段に浮身をやつしているなかで目撃した世の中の腐蝕と崩壊が、一次方程式的な軍国思想で教育された私たちごとき純粋培養実験人間の目にどんなにうつったか、ご想像下さい。 戦後一、二年のあいだ、アメリカ兵は敵でした。かつて英語教師でスメラギのミチ(皇国思想) を説いた中学の先生が近くに住んでいましたが、転身して立川米軍基地の通訳になり、アルバイトとして私を誘いました。その基地での数カ月、私の味わったのは現地土民に対する白人植民者の扱いに加えて勝者による敗者への徹底的なはずかしめでした。立川で店番すがたを見かけていた日本の娘が、暴行されてやがてパンパンに変り、次第にあつまった売笑婦が基地にむらがり大ぴらなセックスが若い私たちの前でくり拡げられるようになりました。数人がかりで暴行後の少女の四肢をおさえてとった写真を見せあいカマボコ兵舎で自慢話にふけっている米兵たちには、殺意すら抱きました。
日本共産党がアメリカ軍を日本革命にとっての解放軍と規定したことは後に知りましたが、猫も杓子もアメリカ民主主義に唱和しだした昭和二十一年夏、私はこの裸の占領地帯で欝積をかかえて働く一日本人土民だったのです。この年すでに早稲田大学専門部法科に入学していました。法科の教授には、教えるべき憲法もなく、刑法も改正中で、まともに教えられたのは商法ぐらい、教授は寄席芸人顔負けのジョークで学生をつなぎとめようとしていました。私は大学に全く興味を失っていました。小学校から大学まですべての教師に絶望せざるを得なかった点で、私は私なりの価値観を作らなければならず、そのためには一切の権威、一切の大人の価値観への反逆という、ひとつの暴力的全面否定ともいうべき姿勢しかありませんでした。私の生意気さはここに根ざしたものです。
”党”の周辺に生きながら・・・
戦後、獄中から出てきた共産主義者、中国から帰国した亡命者、戦時中息を殺していた知識人の存在は、正直、誰からも教えられなかっただけに、それだけで畏怖でした。戦前の唯物弁証法読本をよみ、こんなにも平明な世界観があったのか、プロレタリア革命にしか明日はない、人民は必ず勝利する、こんな確信に支えられて獄中十八年を耐えたのか、これらは私の心を深くとらえました。党員とは生命を賭けて得たであろう名誉ある勲章であり、そのような人間に至るまでにはどんな修業をすれば近づくことができるか、・・・私には彼岸の人格でした。
私は大学にはなんの興味もなく、美しい娘の多い青年共産同盟の居住班のひとりになって、徒弟修業に入りました。メンバーには親が党員で、当然のようにその”幼稚部”に入ったものが大半で、私の当時よみはじめていたドストエフスキーや、シエストフ、ケルケゴールといったニヒリズムの系譜は少しも通用せず、いきおいクロポトキンからパクーニン、マルクス、エンゲルスからレーニンのパンフのたぐいをよみあさり、駅に週一回壁新聞を貼り出したり、共産党のポスター貼り、ビラ入れ、パンフうりや、カンパ活動などに精励しました。考えようによってはバラ色の青春でした。周辺の民主化運動のなかで、生まれたての新世代であり、どこでも過保護児のようにあっかつてくれました。著名な画家のもとでデッサンをならい、人民の哲学書の著者のもとで分りやすいマルクス主義の漫談的な講義にひたり、近くの新劇俳優の家を訪れてプロレタリア演劇論を聞くといった地ゴロのガキで、大人にとってははなはだ迷惑な歴訪者たちであったでしょう。
このころ、家に近い東宝映画撮影所では組合主導の下で生産を再開、次つぎに軍国主義を暴露し民主主義と革命への胎動を告げる映画が作られていました。その党員の出演俳優やスタッフとひざを交えて映画による民主主義革命への寄与などをうっとり聞いていたものです。
党員。このコトバが当時もっていた響きをいまの人にどう伝えていいか分らないほどです。私は党員たることに憧れながらも、党員勧誘を固辞してきました。私の胸のなかで掲げた党の像がふくらむ一方、同時に私の心をひいてやまない、いわゆる非マルクス主義的芸術世界が併存し、私自身が二重人格、面従腹背的分子であることを誰より自分でよく知っていたからです。
全国的な日本共産主義運動の高まり、身辺的には世田谷、東宝撮影所周辺の解放区的昂揚につれて、私は党員候補の修業として一巡の活動はしでもまだ既成の大人社会に反逆するだけでなんらの脱皮はできないまま、地元の幼稚園的青共の活動にも倦きて、また、ひとりだけの世界にもどりました。
昭和二十二年、戦後最初の民主主義的労働運動の挫折といわれる二・一ストの中止はショックとしてうけとめたものの、ラジオ放送で口惜し涙にくれる伊井弥四郎全労連委員長の女々しい鳴咽には「泣いたですむか」と腹が立ちました。二十歳そこそこの私の眼からみても、「占領軍の武力支配が目に見えないはずはなかろう」と、立川基地での手痛い体験から、その鳴咽の声音そのものを嫌悪しました。敗戦後一年半で訪れた反動潮流で、ふたたび共産主義運動が厳しいものとなるにしても、この際、党員の像が浄化されることへの期待のほうがむしろ強くありました。厳しかるべきはずの党員が妻妾同居していたり、党内小官僚が金に汚なかったり、潔癖感をさかなでする堕落事件が町にも日常にあったからです。
一方、未消化にうけとった「鉄の規律」「上級の命令に下級は絶対服従する」「人民服務」「革命的忠誠心」などの党員の諸徳目は、私たち皇国少年にとってはどこかで本気に一途にやってきたことに似ていました。国に代えるに党、天皇に代えるに書記長、軍人勅諭に代えるに党規約をもってすれば、なんと容易に横すべりできるパターンだったでしょう。そうした戦時中の行動様式で育った私には楽に”変換”できる気さえしました。入党をすすめられるのを機に私はかえって党から後ずさりしました。世の主潮をシニカルに問い直す作業にふけっていたといってよいでしょう。人間の一生に貫徹する不動の思想は何か、歴史を超える人間の文学、芸術はと。長篇小説、大河小説、全集による一作家全著作の読破計画をたててしゃにむに読みましたが、すべてロシア文学、ロマン・ローランをはじめ西欧文学、レジスタンス文学、十月革命文学であり、あたかも忌むもののように日本の古典に眼をむけることはありませんでした。よむとすれば芥川龍之介の「歯車」「保儒の言葉」以後ともいえる太宰治、島木健作、坂口安吾、田中英光などの全集的読破を試みたぐらいのものです。
東宝の町、映画人部落に育ったことで、のちに、私が映画のつくり手となるきっかけを得たのですが、この町の住民であったために逆に反劇映画、反スタジオ映画的性向が私にはつよまったようです。敗戦後の三、四年間、「民衆の敵」(今井正) 「戦争と平和」( 山本薩夫) 「わが青春に悔なし」「素晴らしき日曜日」「酔いどれ天使」(黒沢明) 「銀嶺の果て」(谷口千吉) 「新馬鹿大将」(山本嘉次郎) などが東宝撮影所の人びとの民主化運動のさなかから連発連打され、それは政治的覚醒と芸術的創作活動の結びあいの教科書的実例のように見えました。その一方で、”昨日”みた私にとって印象ぶかい戦争映画もまたこの撮影所から生まれ、いま知る多くの同じ映画人で作られたことを、映画人部落でのそれぞれのなまの顔を思いうかべ、映画人・人別帳的に見るとき、なんとも奇異なものでした。
「ハワイ・マレー沖海戦」(山本嘉次郎) 「燃ゆる大空」「あの旗を撃て」(阿部豊) 「熱風」(山本薩夫) 「望楼の決死隊」(今井正) どのひとつも私の少年の心をゆすぶり、戦争に遅れをとってはならぬと思わせ、このフィルムから戦争観を強烈に印象づけられ、当時もまだ傑作としての感銘度を残しつづけていたのです。東宝の撮影スタジオには木戸御免のように遊びにいき、その現場の空気も知るだけに、私には素直にすべての映画について、ただその傑作性ゆえに酔うことができなくなりました。
私が一時戦前戦中のフランス映画に狂ったのも、その一貫性がよりフランス映画の歴史にあったからでした。ですから、私は映画に対して偏見と不信を文学や絵画より以上につよく抱き、まして自分の将来の仕事と思うことはありませんでした。
昭和二十三年六月、太宰治の自殺は私に”首尾一貫すること”の怖ろしさを教えました。つづくその夏、東宝撮影所にいわゆる”来なかったのは軍艦だけ”という軍事出動によってスト寵城中の組合員は落城させられました。私も小川をつたってバリケードの近くまでいきましたが、合流することはついにできませんでした。そして私は満二十歳をむかえようとしていました。
私にとって暗い、あてどない日々が来ました。古本の仲買いをやり、中学時代の友人のもちだした美術刀剣をアメリカ兵にうりつけたり、時に血を売って得た金で新宿でカストリ焼酎をのみ、日劇のダンスの踊子に入れあげたり、いま思い出せないほど無意味な生活に荒れすさんだころ、私にとってひとつの事件がありました。
あるとき、焼跡の小学校理科室の薬棚から私は”劇毒”とかかれた昇汞を盗んで保管し、乞われるままに同じ文学青年仲間に分けていました。太宰治の死の前後であり、その一服を膚身にもつのが皆とのきめごとでした。やはり太宰の死は身近でした。戦争の終りに予定の散華を中断されたままの精神的断面はまだそのままいやすべくもなくありました。彼の戦前非合法時代、その党生活者としての殉教者的生き方、その彼の党の喪失にいたる軌跡は、私の解きあかしたい彼の精神のありようの一番大きい課題だっただけに、生きつづけて解いてほしかった。無念であり、きれいに過ぎた。どうやらこのままでは、私も自殺でもしなければ言行不一致を冒すような強迫観念さえありました。
その私の一歩機先を制するかのように、大学を卒業し一流企業に入った先輩が、それを服みました。恋愛、結婚問題もからんでいましたが、死は彼の美学だと血を吐きながらも言いつづけました。昇汞水は無機水銀でした。毒薬学では「残酷の粉末」とか「愚者の毒」といわれ、薬物自殺に心得のあるものは絶対に使わぬ毒物とあとで知りました。服毒してから七日六晩、苦しみぬいて死にました。腐蝕毒・ビ爛毒であり、有機水銀のような神経毒ではなかったのです。歯ぐき、のど、胃、直腸、膀胱とたてに腐蝕するのに丸一日、あと肝、腎、膵臓を冒すのに二日、さらに全身腐蝕をふかめ失明し、やがて心臓がとまるまでに三、四日。意識は最後の最後まで明断でした。
私は一切の睡眠を絶つ誓いをして彼の死ぬまで、錠剤のヒロポンをかじって看護することにしました。二十一歳だった私は、体力はありましたが、薬のためか三昼夜すぎから精神が逆に澄み切り、彼の病状の進行や、まわりの人の動きが幻覚的に予測できるかのようになり、喜怒哀楽が狂ってきました。乞われるまま安楽死を試みたり、最後の自とくを手伝ったりしました。すべて失敗でした。「ああ死にたくない」というのが心臓の止る直前の彼のひとことでした。手をとり足をとって蘇生をねがう親兄弟の動作があやつり人形師のようにみえ、悲しみとおかしみがいちどきに訪れ、いったん口をついた供笑は数分間とめられませんでした。このときから、私はほんとうに自殺を怖れる人間として生きつづけるべく遣されたことを知りました。
私のなかの「党工作者」幻想
この私的事件から半年のち、私は早大細胞に足を運び、党員として働くことを頼みました。そのバネとなったこのような動機を伏せたまま、ゆくあてのない行路病者のように入党を願ったのですから、当時の早大細胞キャップ故鹿島保夫も寛大だったと思います。この動機であれば新興宗教のほうがーといわれそうですが、視野には日本共産党しかありませんでした。のち八年間の党生活のあいだ、細胞解散、除名、復党、懲罰的人事と決してラッキーではありませんでしたが、このとき入党しなかったら、その後体験した人間的な光輝のある出来事とかずかずのコミュニスト的人間たちとの出遭いは決してなかったろうと思います。
さらに言えば、私は党を私の上に見るのではなく、組織のメカニズムに見るのではなく、私と人びととのあいだに見ることで充分に思えました。自由である代りにひとの宣する刑にも甘んずることに決めました。軍国少年の時代を解体し、新たな零からの出発、自己犠牲、他者への献身、秘密の厳守、組織的人間、そして人びとのなかでの奉仕的活動、これらすべての党員に求められる諸徳目とプロレタリア的倫理は、むしろあげて望むところ、よろこびとするところーこのときに捉えたかに思う自己統一と宗教的なまでの回心・・・。その後二十余年、この時をこえる体験はありません。聖なる青春の一回性であり理想の幻覚でありましょう。しかしこの時の水位の高さが、その後の私の行動の規範としてひとり独立しているのです。こんな「きれいごと」を二度と得るわけにいかず、その水位に復することなく、低まる一方ですが、このとき得た発心の残照の下にいまも生きているのだと思います。
こうして早大・全学連時代とつづきますが、その後におきた党員としてなんといっても重大な事件は、昭和二十五年一月、アメリカ軍を「解放軍」と規定した日本共産党に対するコミンフオルムの批判にはじまる主流派、国際派との二派への分裂でした。それは朝鮮戦争とレッドパージ政策の強行と併行しておこなわれ、私にとって無党籍者に近い立場での三年間(二十五~二十七年) でした。この問、私を支えたのは私の幻想した「党工作者」の生き方にほかなりません。瀬川さん。あなたとの映画の話に移るにあたって、私のその後数年のスケッチと、そのとき東宝争議でまのあたりにした党員映画作家の作品を瞥見しながら書きすすめることをお許し下さい。
昭和二十四年、早大細胞入党、二十一歳。
あなたの「ジヤコ万と鉄」を追って党員作家今井正の「青い山脈」大ヒット。戦時中の同氏の「望楼の決死隊」の娯楽性と重なり見える。思想性皆無の映画に驚く。
昭和二十五年、早大文学部西洋史に入る。朝鮮動乱の年、コミンフオルム批判による日共中央の分裂の年。私は全学連中執に派遣され「日本学生新聞」「全学連情報」の合法面の名義者となる。
党員映画人、独立プロ・新星映画社をつくり、「暴力の街」(山本薩夫) 「きけわだつみの声」(関川秀雄) 東宝内での「また逢う日まで」( 今井正) 大映での黒沢明(注、非党員) 「羅生門」発表さるー 。その前の低迷をふっ切るような”独立プロの新時代”に学友たちは強くひかれる。(私は党内闘争を抱きかかえての学生運動レッドパージ闘争に集中しつつ同時代を感じていました。)
昭和二十六年、武井昭夫全学連委員長、富田洋一郎書記長、柴山健太郎書記局員、安東仁兵衛氏らの下、重苦しい事務局活動の実務に没頭、いわば埋没に近い形であったー。
「どっこい生きている」(前進座、今井正) 一家心中に追いこまれる下層労働者(失業者) のラストの安易な解決に失望。イタリアン・ネオ・リアリズムに比較しての話です。
昭和二十七年、全学連分派として追放の身となる一五月一日、血のメーデー事件、ついで機動隊による血の暴行事件”五・八早大事件”無党籍のまま全学抗議運動の責任者となる(中央抗議委員会議長) 。逮捕者十七名釈放と警察の詫び状とひきかえに、学内無許可集会の責任を問われ除籍さる(その撤回闘争は固辞する) 。七月、復党のための再教育として、軍事方針下の小河内山村工作隊に派遣され、ダム放火を命ぜらる(マッチ一箱ずつ、武器として)。事前に警官への暴行罪で逮捕。四カ月の未決をへて完全黙否のまま保釈さる(完黙の意志の通る牧歌的な時代でした) 。「箱根風雪録」「真空地帯」(共に山本薩夫) 「山びこ学校」(今井正) 「母なれば女なれば」(亀井文夫)「黎明八月十五日」(関川秀雄) を暇をみて観る。当時の学生運動の活動家(早大、武田敦〔早大新開会〕、東大、富本壮吉〔わだつみ会〕のちに野村孝氏〔東大全学自治会議長〕ら) 独立プロにとびこむ。私は映画入りに興味なし。
昭和二十八年、町工場に職を求めるがなし、日本中国友好協会の広告取臨時雇をへて文化部担当。復党し、事務局細胞員。のちに、党中央直属の日中全国グループ一員になる。一生活者・一職業人の途を模索し始める。今井正の東映の「ひめゆりの塔」「にごりえ」党員作家の域を脱し巨匠となる。亀井文夫「女ひとり大地をゆく」ー(これは瀬川さんが製作主任だったとのこと)。なぜ亀井さんはドキュメンタリーをとらないのか理解に苦しむ。
昭和二十九年、軍事方針下の山村工作隊路線転換、”英雄”的被告の裁判に傍聴人ゼロの日々つづく。日中友好協会で中国映画の担当となる。映画解説者の山崎悠子(妻) を知る。山本薩夫の「日の果て」「太陽のない街」。労映、映画サークルが党文化活動の主流の観を呈する。
昭和三十年七月、日共六全協、軍事方針を極左冒険主義として、厳しく批判。
”山村工作隊小河内事件”判決、執行猶予つき実刑一年八カ月。控訴するに耐えず、全員執行猶予をもって服す。
独立プロ「愛すればこそ」( 今井正、山本薩夫、吉村公三郎のオムニバス)を最後に独立プロ路線衰え、企業的映画作品の途が巨匠党員作家には開かれる。「ここに泉あり」( 今井正) 「浮草日記」(山本薩夫)
同時期民間TV開局し、若い映像、報道、演劇志望の世代、TV局に入る。
昭和三十一年一月、岩波映画に臨時一雇員として入る。著名記録映画作家、党員映画人・技能者の多くはPR映画の撞頭を機に資本の巨大プロジェクト作品に吸収さる。岩波映画製作所に入り離党を決意す。
第一次独立プ口運動と党
瀬川さん。東宝近くの映画人村で、映画人党員と接してきた一学生が、生活のために映画に入るまでの曲折をのべたいため、第一次独立プロ運動を、このように特殊な形で重ね合わせたことを諒せられたいと思います。ただ文学運動が「新日本文学」と「人民文学」に分たれ、美術、演劇にも党中央の分裂が反映せざるを得なかったとき、映画人党員作家が一見主流派の下、一枚岩の団結で党内闘争を閲することなく”前進”しつづけていたこと、そしてなんと精力的に数々の作品を作りつづけていたか、あらためて眼を瞠らされます。
あなたも「母なれば女なれば」「女ひとり大地を行く」でがんばっておられたはずです。それにしても、独立プロと企業で連作しつづけた今井正氏と山本薩夫氏の二監督を中心に、第一次独立プロ運動(旧東宝系) は展開したと思います。私の興味はこれが党員作家として、どのようにあの党内闘争にかかわっていたかというきわめて私的な一点です。この東宝系の映画労働者のなかに非合法党機関を支え、あるいは非合法財政部門をにない、あるいは党の連絡者としてソ連邦や中国にいったひともいます。その人たちの党内での立場はほとんど主流派であったように思います。しかしその独立プロ運動のなかで、なんらめだつ理論闘争も綱領闘争もなかったことは奇跡に近いことだったのではないでしょうか。
文字通りゴシップですが、早大細胞、早大新聞で活躍した武田敦(代表作「ドレイ工場」) が初めて独立プロに入り、山本薩夫氏についた時、理論闘争をいどめば映画屋特有のジョークで「全学連」とあだ名され、てんでとりあわれなかったと当時聞きました。真偽は別にして、そうしたいわば”活動屋”体質は分る気がします。また藤江孝氏は最後の「愛すればこそ」で独立プロを離れた人です。彼のほかに十数人の助監督群がいましたが、そのひとりとして作品にめぐまれた人は居ず、なかには助監督のまま世の中から消えたものもいました。「一将功なって万卒枯るだもんな」と藤江氏は薄給のなかで酷使され、のち幕をひいた運動のあと、岩波映画にくるまでの過程を語ってくれたことがあります。彼もその七年後、フランスに木彫の勉強に旅立ちました。
結局、この第一次独立プロの運動を支えた広い人びとの中核には、おびただしい党員とシンパ、民青、そして労映、映サといった党系列の文化運動があったと思います。逆境のなか、独立プロの良心の灯を消すなの広汎な映画運動を支えた大衆状況の下で、党こそがその配給網の実体であり、とくにそれは昭和三一十年代によりあらわな現象となったと思います。この党の”映画路線”が鮮明な映画政策も芸術上の方法論もなく、突出した戦時中からのベテラン映画作家たちによって、になわれつづけ、今も日本共産党の映画の代表的作家が依然として山本薩夫と今井正の両監督である事実をみるとき、党の戦後三十年の映画政策の”一貫性”をみずにはいられません。そしてこのことは同時に、党員映画人がいまだに党員にふさわしい独自の闘いとしての新たな質の映画を創り出せないところと照応してはいないでしょ
うか。
党から脱落して、映画を選ぶ
瀬川兄。つい私の筋をそれましたが、この関心についてはまたのちにふれたいと思います。私は昭和二十七年十一月に出獄して、すぐ職を探しました。私自身は全国的な運動の中央指令部的な仕事だけはもう絶対にやるまいときめていました。いかなる戦線にせよ、その一兵士に固執しようと決心しました。私の守備範囲はあくまで身体的に接触可能なところまでにしようと思ったのです。
出獄後の構想としては小さくてもよいから工場労働者になることでした。品川煉炭製造機の下請工場などを当りましたが、私についての警察の過大評価のため、いったんきまった話も巧妙につぎつぎとつぶされました。まして、普通のつとめもその履歴からは許されず、大衆団体・日本中国友好協会本部事務局につとめることになりました。
まだ日中間にごく細いパイプしかなく、理事長は内山書房の内山完造氏であり、事務局はその九割が共産党員でした。ここで私は復党をみとめられましたが、一細胞員ではなく、党中央委員会の直属グループであり、日中友好運動にたずさわる全国党員の上部グループの一員に自動的に組み込まれました。大衆団体としてもその中央本部であり、日常的には中央から地方への縦構造のなかで私の力量にかかわりなく上部のポジションも受けもたされたのです。全学連当時からの通算数年の体験によって、私は自分で気づかぬうちに、小官僚的体質が身につくようになりました。これは恐ろしいものです。官僚的体質をそぎ落すには、一番身近な人との仮借ない闘争をしなければ容易なことではとれないのです。いま思えば漫画ですが、私の部門で大掃除のとき出た古新聞のたぐいを売つてのわずか二百五十円のごまかし、つまり事務局に提出せず私用に着服したことを、とことん暴露し、その規律の弛緩、小ブル性を告発するといったことまでして虚撃的に事務官僚気質をねじふせるといった”些末主義”にも陥りました。そうした些事もとことんまでやれば次には吹き抜けたよい地平にいくことを体験しましたが、私はもはや中央司令部での生活に私の今後の展望をみることはしませんでした。そして、自分の食う事を考えました。
当時、手に職もなく、学力も中学二年三学期どまり、早大除籍の上、懲役の執行猶予中の履歴で、私ははたしてどう食べていったらよいか途方にくれました。さりとて工場労働者の群にという文学青年的発想も、予想をこえる警察の監視下ではそこの労働者、工場長らに迷惑をもちこむだけだと分った上は、無理な話ですり二十七歳をすぎていました。私はあらためて自分から”党”を抜いたらなんの仕事もできない人間であることに気がつきました。また私には日中友好協会の映画解説のアルバイトをしていた演劇志望の早大生山崎悠子との愛情問題もあり、結婚を考えていました。
その折、私の隣家だった岩波映画の重役故吉野馨治氏から誘いがあったのです。条件は”露骨に党活動はしないこと”ということでした。
吉野氏は科学映画の名手で、「大雪山の雪」「霜の花」(昭和二十三年) などで中谷宇吉郎氏にみとめられ、岩波映画の創立(昭和二十五年) 者にむかえられた撮影者でした。恐らく党員だったと思います。じつに寡黙の人で、その生活に対する姿勢は映画をつくる人としてのみゆるされる変人タイプでした。しかし、私はその人にひかれてやみませんでした。その人が念頭にあって、新たな課題として私は真剣に映画に入ることを考えはじめました。
当時の岩波映画は企業のPR作品の急増期で、私にも声がかかるほどでしたが、多くのベテラン契約監督、カメラマンのほか若い臨時雇がほぼ常雇い的に働いており、社員に比べ劣悪な条件にあることと、非組合員のため労働組合としてのストライキの際はスト破りともなることもあって、当時の組合はその身分制問題について会社とスト行使をふくめた団交に入っていました。そのさなかに私が入れば、スト破りになるということで、吉野氏の催促はあっても、すぐ就業するわけにいかず、自分で勝手にストと決め、といってもまだ雇われているわけでなく(日中友好協会もやめていたので完全失業者でしたが)その解決のつくまで仕事につきませんでした。
一方、私の映画の進路について希望をのべる機会があり、私はつよくカメラマンになる志望をのべました。「私の特長は分析的なことにつよく総合的なことに弱い。感性にとむが理性に劣る」というようなことをいいましたが、誰も耳を傾けません。当時、羽仁進監督の「教室の子供たち」が注目を集めていましたが、小村静夫カメラマンの一眼レフ系のレンズによる、考えながら撮るといった手法につよく関心がありました。またあなたの「日本の鉄鋼」の映像詩にもカメラマンの優位を感じていたからです。結果は製作進行のポストしか与えられませんでした。「全学連のオルグも映画の進行も同じだから」という即時使用可能なキャリアを買われたわけです。
ここにも名ばかりの党細胞はありました。岩波映画というきわめて民主的体質をもってスタートした会社のなかでは、労働組合の中枢をうけもつという機能をはたすことが先決でしたが、急増する契約者のなかの党員芸術家との組織的連繋が望まれていました。彼らが皮肉に”かスト破り”の役をになわされているからです。
瀬川さん、あなたもよくご存知のことと思いますが、当時の岩波映画には戦後労働運動・民主的記録映画運動の旗手がそろっていました。京極高英、故岩佐氏寿、柳沢寿男、故伊勢長之助、矢部貞男の各氏らです。なんと人材を集めていた時期だったでしょう。そしてその仕事は自主作品「ひとりの母の記録」(演出、京極高英) をのぞき、あとはPR映画のベテランとして遇されていました。
昭和二十一年の「日本の悲劇」の占領軍没収によって不運の幕をあけ、その後、労映や自主製作委員会方式で始まった戦後ドキュメンタリー「驀進」(岩佐氏寿、昭和二十二年) 「われら電気産業労働者」(竹内信次、昭和二十二年)「少女たちの発言」(京極高英、昭和二十三年)「海に生きる」(柳沢寿男、昭和二十四年) 「一九五二年血のメーデー」(製作委) そして「月の輪古墳」(製作委) の系列の作家は第一次独立プロ運動の消長と軌を同じくし、ひとり亀井文夫氏が日本ドキュメントフィルムを主宰し、党の映画路線に対し一定の独自性をおいたドキュメンタリー映画「生きていてよかった」「流血の記録・砂川」とひとり孤塁を守っているありさまでした。
私は岩波映画に入るにあたって、この選択をひとつの転向と思いました。吉野氏から党活動を禁じられたからでなく、私自身でそれまでの党を捨てることにしたからです。それまで私は党生活者たることを第一義の道と思っていました。私は第二義の道として映画を選び、それを運動や革命とむすびつけたものでありたいとする、私の未練を絶ちました。職業としての映画を選び、それでたベるうえは、いまを零の起点としたうえで、事実上党からの脱落者として、私はそこをはっきりと刻印したく思いました。まして私は党員である映画作家たちを信頼する手がかりも態度も捨てた以上、一個人として裸の出発をすること以外なくなったからです。
「戦ふ兵隊」と私の映画状況
昭和三十一年一月、私はかつて工場労働者になるつもりでしつらえたコールテンのシャツと鳥打をかぶって煙の都八幡につきました。
あなたがはじめて私に会った印象について「なんてヒネた暗い顔だろう。年が若いのかふけているのか」とのちにいわれましたね。たしかにそうだつたと思います。やがて「よく働く奴」に変ったと思います。そこは大衆団体叩き上げの私でなんの苦もありませんでした。またそれだけに小ボス風で暗いマキヤベリストの影もまた隠せなかったと思います。
あらゆることが一度に変りました。一ロケで何十万円、何百万円と現金をあつかい、宿舎、食事、移動、会社との打ち合せといっこうに映画ロケ現場に落ちつけず、私とまったくちがったテンポでカメラは廻り、私はその周辺、工場と宿と駅をかけめぐるといった印象でした。しかもライトマン四十人、撮影部四人、演出部二人、その職分はうるさく、各部に上下のヒエラルヒーがあるごとくであり、それは軍隊もかくやと思うばかりでした。宿に帰って酒のない日はなく、それまで禁欲的に月一、二回しか盃を手にしなかった私はその日から毎夜のむようになりました。「これが映画か」と私は大製鉄所の高炉、平炉の林立する風景のなかでうなったものです。
あなたはまったくのカメラマンでした。現場では助手をど突く、ライトマンには重いスタンドの位置をおかまいなく変更し、工場の天井から余分な外光が入るといって暗幕でしゃへいさせたり、「こんなにまでしてなぜ・・・」と私は思いました。藤江助監督は「結果的に絵が良くなるからみな納得づくよ」と言う。徹夜の夜ふけに弁当の冷えるのを気にしながら、あなたの専制をどんなにうらんだことでしょう。しかし、現場につくようになって初めて立場が変りました。一カットを撮るのに何十分ルーペをのぞくかについてです。あなたの欲しているのはその対象、物自体の、これしかない存在感、質感をつかむまで、あなたが一番悩み苦しんでいることをそこに見たからです。
夜、安スタンド・バーで撮影の話しかしませんでした。それが一シーン、一カットの分析であり、なぜそうとるのか、あるいはとれなかったかの告白に近いものでした。パン(カメラをふる) ショットのもつ生理的スピード、前進移動の出だしの呼吸まで、ときに頭のなかにある音楽はこうだとあれこれ試みながらコップを手にカメラワークを説明するそのひとつひとつがPR映画の概念とは無縁な映像創作固有の修業論でした。
お互いに党のことはひとことふたことしか喋りませんでした。その話を避けた分、だけあなたは映画そのもののことを語ってくれたのだと思います。劇映画出身でありながら、俳優の話など一回も出たことはありませんでした。酔えば亀井文夫氏との「戦ふ兵隊」の思い出になり、その体験のディテールに二人とも夢中になるようになりました。そこでは戦後の亀井さんとの「女ひとり大地をゆく」でさえ、話題になる余地はありませんでした。何があのように「戦ふ兵隊」論を倦ましめなかったのでしょうか。
ある日、突然ストライキをうつ破目になったときのことを覚えていますか。ある製鉄所ロケのとき、私たちロケ隊でやった地元青年五人のうち二人が前進座公演を招んだアカだからという理由でした。しかもその人選はあらかじめ工場がしたものでした。藤江氏も私も怒りました。アルバイト二人の復帰までロケしないという”抗議”ストを五十人ほどのスタッフに謀りましたが、下手をすれば岩波映画に何百万円という損失を与え、お得意の富士製鉄を失うことになり、当然、責任はメイン・スタッフの負うものでした。しかしあなたの決断は早く、宿にねっころがっていてくれ、やがて首切ることなく事態は収まりました。このときのアルバイトの喜びより、日頃、真面目な顔ひとつしないライトマンのくしゃくしゃな泣き笑いが眼にのこっています。製鉄会社の城下町でその雇われ映画屋がひとつ筋を通し、勝てたことは、私には映画に入ってから初めての体験でした。この藤江氏のスト提起のとき、私があなたの去就にどんな瞳をこらして見守ったか、あなたはお気付きにならなかったでしょう。
あなたから亀井文夫氏の名作「戦ふ兵隊」(昭和十五年) の撮影話をあまりに聞いたため、私にはあなたの「戦ふ兵隊」論として頭に絵がつまっています。私たちにとって亀井文夫氏は伝説的な存在であり、その「戦ふ兵隊」は幻の映画でした。日本ドキュメンタリーの戦前のピークをなすフィルムといわれ、撮影者・故三木茂さんの名とともに不朽です。そのとき二十歳の助手であったあなたの”初体験”に近い映画方法論へのアプローチは、いま私があなたの胸をかりてのべていることと似かよっているように思えてなりません。
私が特に興味を覚えたのは、当時、軍の検閲をぎりぎり通る線上で、映像も撮られ、構成されたということです。軍当局の視点から見ても事実として拒否できず、その字幕も字幕として読む限り変哲もない文字です。しかし画面と字幕と音楽とが立体的になると見る人に伝わる独自の映画的メッセージを生んでいることについてです。
四年ほど前にやっと発見されたその幻のフィルムを日映新杜で見る機会を得ましたが、もしこの映画を早く見ていたら私の勉強は十年回り道せずにすんだろうと思ったほど、あらゆる智略をこらした映画的構成、腕力をそなえた反軍、厭戦の映画であり、あの時代と考えあわせると、偉大な作品と思いました。
日本の間尺を超えた空漠たる大陸と、四億の人民を敵とする無力感を一カットで伝える風景描写。「戦争とは不潔とかゆさとめしをいかにくうかということだ、カツコいい戦争はない」とセリフではなく絵で語るモンタージュ。行軍しただただつかれ中国民衆の世界とはついに交わることのない疲れきった軍装の肉塊のような日本農民出身兵ご描写と説明どれをとってもここと鋏を入れることのできない一体性をもった映画の体躯。
ーそれがあなたの打明け話的ロケ現場報告になると、老廃した軍馬の死ぬシーンにフィルムがどれだけしか装填されていず、日没前後の光量をどう計って何カットで撮ったか。あるいは荒野の行軍になぜ音の同時録音をこころみたか。廃跡の外人教会の十字架にどのように彼は執着したか。有名な前線中隊本部のシーンで中隊長は二・二六事件に関連した軍上層部の要注意人物で、いかに磊落に前線の日常を再現してくれたかなど、私にとってはドキュメンタリー映画への関心をその土壌で深くすき耕してくれるものでした。
東宝文化部が軍の広報映画”工場”になり、手厚い庇護をうける反面、当然にらまれていた亀井・三木コンビが統制の目の上をゆく屈折深い表現で「戦ふ兵隊」を作ったことは、今、私の映画状況にとってもまったく同じことのような気がします。いまだ亀井氏と面識を得ませんが、あなたの「戦ふ兵隊」を通じて、私は亀井氏を師としているつもりです。ここには戦時下、他の同志がすべて捕われ、あるいは転向したなかで、ひとり映画を作るにあたって、自分の思想の映画的表現を完壁にしぬいた作家のピークとその孤独を思うのです。
万博は試金石だった
瀬川さん。私が九州で映画の仕事を始めた昭和三十一年の五月、水俣ではその”奇病”の第一報が水俣保健所にもたらされたそうです。その十年後まで、私は水俣病について一切知りませんでした。その十年こそがドキュメンタリー映画にとっての重い時節だったようです。
その昭和三十年代の十年は神武景気ではじまり高度成長経済がのぼりつめた時代でした。これに私たちの軌跡を重ね合わせるとき、映画とくに記録映画にその宣伝者の役割を担わされたことが厭というほど透けて見えます。その資本の許容度のなかでのみ実験と試行がゆるされ、私ごときをも禄を喰ませる利潤の分け前が用意されていたーこの風潮の下で、TV のメディアに希望を托した青年世代は、ごっそりとその分野に吸収されました。彼らによってTVドキュメンタリーの登場が準備されていったと思います。このメディアから新旧を問わず党員のアクティヴ分子が除外されたのは当然です(技術者の例外はありますが)。
若い党員作家、独立プロの若い残党はPR映画状況のなかにふきだまりのように集まり、分断されたまま個々に自転運動をつづけつつ、その修業時代を送っていたと思います。
岩波映画の創立当時からの若い作家たちは創立者の志を生かすべく、新しいドキュメンタリーの潮流を生みはじめていました。羽仁進「絵を描く子供たち」「双生児学級」、時枝俊江「町の政治」、羽田澄子「村の婦人学級」、高村武次「遭難」その他科学映画の伝統線上に「蚊」「かえるの発生」など、新鮮な作品活動がありました。私たちPR映画専従部隊はこの中核的作品を保証するための稼ぎ手集団と自覚し、外人部隊と自認せざるを得ませんでした。そのバランスさえ崩れるほどのPR映画= (電力、製鉄、造船、化学) の殺到のなかで、新人の登場も可能であり、それを修業時代の糧として生かすこともできました。たとえば岩波映画の黒木和雄や新理研の松本俊夫、松川八州雄氏らはその作風を第一作から持して登場し、PR映画の枠内でも映画作家として自立可能な一点を模索していることを作品で証明しようとしていました。
誰しも第一作には冒険と野心があります。あなたの鉄シリーズも同様です。「日本の鉄鋼」は他の連作を合わせてもしのげない初心のもつ光りがあります。その声価が高ければ高いほどPR効果をあげる一方、その映画の枠組みに資本の意志を打ちこみ、テーマへのコントロールを表明して、次回作をまるごと資本ののぞむ方向に操作していく。PR映画は資本家の映像の獲得とその学習の戦場であったというのはうがちすぎでしょうか。さらに一言うなら、昭和四十五年の万国博覧会の企業別展示にあたり、その映像競技に頂点をみます。昭和三十九年のオリンピックにせよ、昭和五十年の海洋博にせよ、国と企業が国民の合意と国家的世論操作を意図するとき、映画的表現をもとめ、その公的記録に”ドキユメンタリー”を必要不可欠なものとみなす時代となったのです。映画の記録性と主体性を問う問題は戦時下と寸分たがわない形でいまも問われつづけているといってよいのではないでしょうか。
瀬川さん。あなたも万博で世界の稲作をテーマの作品展示にかかわられた。多くの党員芸術家だけでなく、若い進歩的な私の同僚も万博にかかわりました。潤沢な予算で実験を試みた作家、経済的に苦しむ小プロの蘇生をねがって黙々と映像ピラミッドの使役にたえた作家、万博を逆手にとって映像マニフエストを発表した作家、さまざまです。昭和三十年代から万博までの十五年間、この間に映画をはじめた私たちにとって、万博は魔の試金石でした。生活のために働くということだけでは資本は許しません。その才能の寄与と、企業と作家との「あいよる魂」の流露を要求し、戦後日本独占資本の謳歌を求めたはずです。この万博(一九七〇年) を分岐点として、戦後の進歩的ドキュメンタリー作家のうち少なからぬ部分が”転向”を余儀なくされ、今日の記録映画の不振にまで響いているのです。
「不敗のドキユメンタリー」を求めて
だが瀬川さん、私は映画人党員集団にかりに党内闘争があったとしたら、記録映画のなかにしかなかったと思います。劇映画人の運動が戦後一貫して内省の機会を得なかったのに比べ、記録映画の分野にはありました。昭和三十五年の第一次安保闘争の前後から、松本俊夫を先頭に、野田真吉、富沢幸男、西江孝之氏らによる、戦争責任をすりぬけた戦後の映画人党員の主体性を問う論争からはじまり、作家の主体性が論じられました。それは戦前のプロキノ運動、戦中の戦争協力映画=翼賛運動、そして戦後の日映労働組合を中核とする”赤色”労農映画運動と無葛藤に連続してきた記録映画作家協会の歴史と思想への批判でありました。だが、文学の世界の「新日本文学」に対する「人民文学」と同様、いかに映画運動全般を論じようともその裏面には党の文化政策への批判を底流とした党内闘争だけが下絵として明瞭にすけて見えるものでした。党内闘争の原衝動につきうごかされる運動である限り、中央司令部と反中央との闘いとなり、不毛は眼にみえていました。私は党=中央司令部の運動に対置して、野戦での、つまり同じ岩波映画の職場での映画運動しかないと思案のすえ、その動きにはついに入らず、身を岩波の若い仲間の中に置きました。
昭和三十七年頃から、岩波映画に「青の会」ができましたが、そのきっかけとなったのは、私と黒木和雄のテレビ映画が相ついで”暗い”との理由でオクラになり、ついで私の「ある機関助士」の改訂問題がおこったからです。助監督のあいだに、危機感がみなぎり、ともすれば失意にひきこもりがちな私に対し、小川紳介、東陽一、岩佐寿弥氏らが猛然とつき上げを喰わせ、自然発生的に話し合いの場が創られました。
前記のほか、フランスにいく日までの藤江孝、楠木徳男ら演出部、そしてカメラの鈴木達夫、大津幸四郎、奥村裕治、田村正毅、渡辺重治、夭折した清水一彦、録音の久保田幸雄、編集の南映子氏ら、三十余名。そしてその核は次のジェネレーションとしてうって出ょうとする小川・東・岩佐らでした。皆目、監督になるメドも立たない彼らにとって、「青の会」は、次なる”映画”を夢みるただひとつの場であり、そのコマのような自転力によって、誰からともなく岩波映画をやめ、フリーとなって、それぞれの道を歩みはじめることとなりました。
この二年余つづいた「青の会」は今ふりかえれば私にとっての映画学校でした。規約もなく、議長もなく、事務所もなく、誰も自由に参加でき、喋りたいものが喋り尽きるまで喋る会でした。場所は多くバーでした。瀬川さん。ここでのルールは「自作を語ること」と「その徹底的解剖」でした。あなたと映像を語った回路が、ここで集団的に解放されたようでした。誰彼のとり得たすぐれたシーン、新鮮なカットをテキストにして、なぜそれが輝いているのかを蹄分けすることで、失敗したシーン、ショットを洗い出すといったことの繰り返しでした。製作過程での考えが詳しくかたられ、撮影現場が再現され、そのスタッフワークまで相互点検されるといった「絵」の裏の裏まで共有する仕事が熱中に値いしないわけはありません。それはあなたに刷りこまれた映画についての徹底した分析と批評が私には大きく役立っていました。そしてスポンサーや管理者に一指も触れさせぬ「不敗の映像」「不敗のドキュメンタリー」とは何か、いかに獲得できるかの論争でした。
私は自作がすべて組上にされ、有機体のまま解剖されることに時に吐き気すら催すことがありました。だがやさしいこのグループのルールは失敗のカットから語るのではなく、すぐれたカットの分析から始まるのが救いでした。なぜそれが撮れたのか、その果実の分け合いが動機づいており、農夫や漁夫のように貪欲でした。そのすぐれたカットも洗っていくと平凡に見え、不満がめばえます。この不満を論議の種にして、お互いにまだ撮り得ていない漠然とした映像をさぐるーこうした作業は美味でありながら不安と怖れにみち、いつも緊張感を生むのです。その指摘の深さに、そのえぐられ方の痛みに吐気すら覚える一方、お互いのなかで映像の可能性を暴力的に出産させるよろこびもまたつよいものでした。その”学校”の終るころ、新宿の夜はあけ、白々した街に散るといった毎日でした。おびただしい精気の消耗、酒を絶やさずに喋りつづけての肉体的苛酷さをもって学んだ映画への愛でした。だが家族からみれば、妻とて余人であり、入れない世界でした。愛情を「青の会」にすべてすいとられ、酒乱の上蹌踉と朝帰りする男たちに絶望し離婚した例すらありました。しかし私たちが一度は経なければならなかった修業の時であったと思いたいのです。そしてこのメンバーでとことんまで相識ったことは、のちにつよいスタッフワークの基盤ともなりました。そして何より、私には党を去ってから始めてわが手でつかんだ”党の質”であったし、”内なる党”のよみがえりのようにすら思えたのです。
映画に路を求めたものの解放と自由と
瀬川順一さん。このような体験をへたのちふたたび「留学生チユア・スイ・リン」でいっしょに活動できたことは幸運でした。旧友・藤プロの工藤充氏が製作を引き、つけてくれたにせよ、自主公開のメドもなく、まして配給のあてもなく、ただ単身で日本国文部省相手に闘うシンガポール留学生のそばに、カメラとマイクをもってつき添うことだけでよしとする映画づくりでした。昭和四十年一月。これについてはすでに別の機会にのべていますので多く触れませんが、この一作が、私の次の映画の進路を決定づけたことは兄には充分同意していただけることでしょう。
本国の秘密警察や私服大使館員の眼をのがれて非合法的地下生活を余儀なくされていたチユア君の留学生としての闘いのかたわら、その闘争現場の千葉大の本部の片すみで、語りあったのは一別して再会するまでの十年におぼろげながらつかんだ記録映画の一種名状すべからざる醍醐味についてでした。それはかつて党なるもの、党生活なるものの浄福(もしそれがあるとすれば) に似ていました。おこがましく言えば、あのときから、あなたは「職人」とは口が腐っても言わなくなられたと思います。そして年をとってもなお若々しく、ついに、物々交換によってむくわれるカメラを廻しつづけておられるーこうした先輩を身近に見ることはじつに人生のよろこびであります。
瀬川順一さん。
もうこの序章も終えたく思います。私はくり返し、私にとっての党をのべてきました。というのも、党を去って、映画に路を求めたものの解放と自由をわが手にしたかったからです。私とちがい、いまも日本共産党にあって党派的映画人の主流でありつづける人たちがあります。その無謬性と”楽天主義”には無縁でありたいと思います。政治の世界には映画の顔で登場し、映画の世界には党派の顔で介入するヌエ的な革命的映画人の”自由自在さ”ではなく、本質的に映画をもってする自己の解放を求めたいのです。
私のなかの党の幻想が崩れ去ろうと、ロシア革命やフランスの戦中の抵抗組織や、キューバ革命直後の映画にみる「党なるもの」と映画人との美しい協和を捨て去るものではありません」無党派という言葉が自立・主体性と共にかたられていますが、私にとってはいまだ党ならずの意味で「未党派」というのが一番ふさわしく思います。そして私にとっての党とは、私と人びとのあいだにしか、その関係としてしか存在しないでしょう。それは私の足元の、脚力で及ぶ限りのささやかな行動半径のなかにしかないのです。政治なるものについても同様です。私は決して非政治的人間でありたくはありません。ただ、この行動に賭けるに当って、自らの解放と自由をつらぬければ、あるいは映画をめぐる私たちと人びとの思いを束ねて、いまの腐蝕する政治構造にあえて一撃を加えられればとの思いは切です。背教者の信心とお嗤い下さい。