書籍「わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録」 第一章 不知火海に眼を注ぐまで <1979年(昭54)>
 書籍「わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録」 第一章 不知火海に眼を注ぐまで

 水俣・昭和四十年春

 私と水俣病との出会いはいわば不意打ちのようにはじまった。昭和四十年春、日本テレビの『ノンフィクション劇場』の三十分ドキュメンタリー一本を作るために水俣に足をふみ入れたのだ。水俣への心の準備はまったくなかったといってよい。それが以後十年余、のべ十二本ー『水俣の子は生きている』『水俣ー患者さんとその世界』『実録・公調委』『水俣一一揆』『医学としての水俣病ー資料・証言篇/病理・病像篇/臨床・疫学篇三部作』『不知火海』『水俣病ーその20年』『カナダインディアンと水俣病(英語版)』『水俣からのメッセージ(英・仏語TV)』『わが街・わが青春』(目下製作中) 他に英語版四本ー以上の連作になろうとは当時予想もしなかった。
 駅を降りたったそのときから水俣市の印象はきわめてわるかった。水俣と不知火海の美しさ、人びとのやさしさに気付くのに数年かかったものである。あとでのべるように、私は石もて追われるように水俣から逃げかえった。
 水俣駅のすぐ前がチッソの工場正円である。駅前広場らしいものもなく、むくつけき工場の蒸溜塔や変電所、そしてパイプラインと鉄条網で防護された柵といった、人を拒否するたたずまいである。
 部落に近いことから選んだ百間港に近い線路ぎわの田中旅館に宿をとって町を歩いてみた。公園ひとつない。カメラマンの原田勲氏とキヤメラを裸にして町の風景を拾いに歩いたが、カメラを見とがめるような町の人びとの眼におそれをなして、宿に逃げ帰る始末であった。一通の紹介状もなく、いきなり水俣を訪れた私たちに水俣はどこも拒否的な視線を注いでいるようだつた。考えてみれば、水俣病事件とその二、三年前の昭和三十七~三十八年、街中をまきこんだ合化労連傘下の新日窒(チッソの前身)労組の一年余にわたる安定賃金と合理化をめぐる大争議で町中が会社側と労働側にその立場を二分され、報道はいずれのばあいも水俣のイメージをひどく傷つけていた。私たちの訪れたとき水俣の市民はいちおう平静をとりもどしていたとはいえ、TV取材者に対し、決して心ゆるすものではなかったのだ。
 私たちの水俣をみる眼もいやおうなくとがったものを含んでいたためであろう、水俣の第一印象は、敵意ある異郷にまぎれこんだようであった。その眼には塵埃とガスのおおう商店街をゆく人びとの誰かれなく、どこかけだるい歩き方に思われ、鈍い拒否反応を放つ人びとと思われた。ここで取材した三週間の町の記憶は、やはり水俣病を生んだ奇型の町に思え、錆び腐蝕し、工場の吐きだす異臭にみちた世界としてやきついている。なんの予備知識もなく来た自分に腹立ち、やがて萎えるのをどうしようもなかった。だが、私たちが水俣を訪ねて、はじめて、水俣病患者に対面したとき、それまでに感じていた水俣へのある種のいやさ、辛さはことごとくくだけとんだといってよい。

 ぐじゃぐじゃに崩れた”映画をとる立場”

 水俣の市民病院の水俣病病棟はその玄関をくぐり長い渡り廊下でいくつもの病棟をつきぬけたそのどんづまりに二階だてでつくられていた。そのあたりには伝染病隔離病舎と霊安室しかなかろうと思われる最も人目につかない奥まったところである。一般市民にも、入院者にも眼に触れることのない一劃である。その病舎の入り口近くに胎児性水俣病の子どもたちの共同ルームがあり、扉を聞いて入った私たちに、声にならない声で歓迎のそぶりをみせてくれた彼らはまだ六、七歳であったろう。まだ乳臭い息のにおいのする口を近づけ、よだれで光るあごとのど、そのしめった手と折れまがった指、すべてをつかつて私たちといっしょに遊ぼうとするこの子どもたちにどこかホッとしながら、はじめてみる水俣病におそるおそる接近していた。さらに案内されて成人患者の室を見舞った。流動食用のゴムパイプをくわえ、顔中白いばんそう膏の老人、その折れ曲った指。婦人だけの病室には辛うじて歩ける患者がいた。扉をあけた瞬間、逃げまどい恐ろしいものをみるように凍った表情で私たちの足を釘づけにするのだった。子どもたちの無邪気な対応でいったんゆるんだ気持はまた鉄枠でしめつけられるようだつた。
 最後に案内されたのが故松永久美子さんだった。当時十二歳、すでに『生きている人形』といわれ、水俣病の悲劇の象徴的存在だった。ただ呼吸と嚥下、そして消化と排泄の機能ゆえに生き耐えているーーその状態を医学的用語で植物的生存と告げられた一白い膚に黒い瞳、柔かい黒髪、その面立ちは美貌を約束されたであろう。少女期特有の香りを体にただよわせ、鶴の頭のように折れた手首を中空にゆらせながら何か言いたげにしている。近づいた私たちの気配を察してか、眼が一瞬ひかるーその反応が生きていることを分らせているようだつた。ー人間はあらゆるものにせよ接しつづければやがて慣れるものという考えは、この人のばあい、ちがう。私はその後、水俣病患者とある慣れしたしむときをもつこととなったが、この松永久美子さんと最重症の数人の胎児性患者だけにはどうしても慣れしたしむことができない。あらゆる理解と交感を拒否する悲劇の絶対価のような存在なのだ。私の水俣病患者の原像に、この松永さんとの出遭いがある。いつもこの記憶に立ちもどるとき、私は言いようのない衝撃を内側からうける。(彼女は昭和五十二年に亡くなられた。それによって、私は更にその衝撃をみずから招く作用を固有のものとして刻まれた気がする。)
 水俣に入って、この患者を見てから、映画を撮ろうとする自分の意図がぐにゃぐにゃに軟体化しはじめた。もうとることなどどうでもよくなり、自分の精神的失神に耐えることだけで精一杯の気力をふるわなければならなかった。
 このTV番組『水俣の子は生きている』は初めから水俣病の患者を主人公とはしなかった。調査の段階から、直接に患者を主人公とし、その意見を求めるにはとても二、三週間の接触では不可能であろうと考え、ひとりの水俣病のケースワーカーで卒業を間近に水俣におもむく熊本短大出の西北ユミさん(今も湯の児分院で働いている) の最初の数日を追い、その活動から水俣病を描こうとしていた。いわば間接話法を選んだ。はなから水俣に敗けていたのだ。
 その西北ユミさんの訪ねる在宅患者宅をカメラをもって追うという方法ではじめて患者多発集落の湯堂に足をふみ入れたのは、水俣に入って十日以上たってからだった。現在の国道三号線が急ピッチで建設中だった。その工事現場をぬけ、魚篭をかついで通れる幅だけのいわゆる漁師道を浜に下って漁家の軒々をつたいながら訪れる彼女と市立病院のただひとりのケースワーカー光岡氏のうしろ姿をとっていた私たちは、たちまちそのカメラを見とがめられ、激しい批難に立たされることになった。このことは機会あるごとに書いたので詳説は省かせていただきたいが、この指弾といえる出来事は水俣に降りたった日から崩れはじめていた”映画をとる立場”なるものをさらに決定的に打ちくだく業罰となった。その母親は庭先に日なたぼっこをしている胎児性のわが子を盗み取りされたと理解し、その口惜しさもあって、思いのたけの罵声を私になげかけつづけて、とまらなかった。まわりで漁網をつくろう女房どももその声に同意しつつ、ただ黙って私たちを見ている。ケースワーカーと西北さんらは、とりなすすべもなく、他の患者宅に立ち去っていた。私は立ち去る力も失っていた。立ち去ることがこの母親にたいするせめてもの謝意だとさとるまでに十分ほどかかった。映画とはかくも罪深いものであるとは考えてみたこともなかった。この間に、私は映画人としての背骨をまったく失って、地に這いつくばり、できればそのままとけて消えたいほどの喪失感にうちのめされたのである。

 『奇病は終ったっばい』

 ”ミナマタ・ディジーズ”としていまは世界中に知られる水俣病も、昭和四十年ごろは、現地水俣でさえ忘れられていた。市民に聞いてもたまに病院に通院する患者や、その帰りか、ひっそりと氷水をかなわぬ手ですすっていたなあ・・・といった返事で、小中学生からは即座に知らんというこたえがかえる。『奇病は終ったっばい、後遺症のもんはおるが・・・』と病院の婦長さんすらいう。まさに風化どころか、発見以来十年で化石になっていった。
 ロケの終りごろ、ようやく市職員から地元で関心をもつ人としてその名を告げられたのは、まだまったくの無名だった石牟礼道子氏と、のちに水俣市民会議のメンバーとなって『告発』に健筆をふるった赤崎覚氏のふたりだけであった。まして東京・中央からのアプローチには私はほとんど無知だった。のちに、写真家桑原史成氏の写真集、それに『月刊合化』に富田八郎(トンダヤロウこと、宇井純) 氏の克明な『水俣病』の連載が始まって間もなくであり、文学作品としては石牟礼氏の『日本残酷物語』(平凡社) のレポート、そして水上勉氏の小説『海の牙』があることを知った。それらも水俣病については権威ある熊本大学水俣病研究者の『昭和三十五年水俣病・終息説』に影響されないわけにはいかなかったであろう。私も水俣病そのものの発生は終ったものと見ていた。その被害者がどのように困苦の生活をしているかのレポートを試みようとしたにすぎなかった。当時患者総数わずか百十一人(うち死者四十六人) 医学の救済をうける生存患者は六十五人にすぎず、再度訪れた昭和四十五年、その五年間に、十人が追認されたにすぎない。人口三万を超える水俣市のなかで、しかも病院の最奥部に閉じこめられ、集落のなかでも用心深くかくされていたこの六、七十人の患者が、当時闇から闇に葬られるにひとしい存在であったことはたしかであろう。まして、水俣につらなる不知火海にすむ人びとにとって、水俣病はさらに無縁であったにちがいない。
 昭和五十四年三月現在、認定患者千五百二十三人(うち死者二百八十三人)、申請するも未認定、保留者五千九百六十九人、これに認定棄却者(この大半が水俣病であろうことは昭和五十四年三月二十八日の第二次水俣病訴訟でうかがい知れる)千八十八人を加えれば、じつに七千五十七人におよんでいる。

 水俣病処理が、行政と医学による認定によってチッソの見舞金支給で”救済”される構造となった昭和三十四年、患者や漁民の闘争のさなかの十月、熊本県当局は三十九ページにおよぶ『熊本県水俣湾産魚介類を多量摂取することによって起る食中毒(注、水俣病)について』を部内に配布した。マル秘の印のうたれたものである。その一項『現況及び今後の対策』に患者の総数を切りつめるための苦心の作文がみうけられる。
 対策の第一に原因究明の必要性がとかれ(注、当時、有機水銀中毒とは分っても、工場廃棄物との直接因果関係はまだ解明されていなかった) 、その第二に、危険水域の指定・水俣湾(注、禁止ではない)、そして第三に患者部落の徹底調査として『・・・今後の患者発生に際しては特に慎重を期し、適格性を図るため、水俣病研究会と県の連絡を密にする』とかかれている。
 すでに問題はあきらかにされている。第一に『慎重に適格者』を選ぶという指示と、第二に県行政による医学の独自判断へのコントロールの意図がうかがえる。この行政の方針によって、この論文発表時、患者百四人(うち死者二十九人)の線から、以後十二年間にわずか十八名(しかもそのほとんどが追認され水俣病とされた胎児性患者で占められる)の認定に押さえこまれてきたのである。
 水俣病前史をいくらかでも知るにつれて、チッソの市に対する強権的支配と熊本県と国の行政の悪虐きわまる患者かくしに唖然とせざるを得ない。しかしふりかえって、私がはじめて水俣病患者に会った時点に立ちもどれば、被害者=患者もまた水俣病かくしにその手をかしたことも事実である。彼ら自身がいかに口をふさぎ、身を他人からかくし、ひそんで生きることでチッソと県・国の水俣病始末をたすけてきたことか。またかれらはこの患者たちの自閉の生態と意識を逆手にとることなくして、このように長年月の水俣病かくしに成功することはなかったであろう。

 『水俣病だけにはなりたくなか』

 水俣病患者から『他のどんな病気もおとろしくはなかばってん、”水俣病”だけにはなりたくなか』った話を聞く。最初それが分らなかった。同じ死病にせよ脳卒中であれ癌であれ、中風であれ、水俣病以外の病名であれば安んじられたという言い方のはてに、患者が体験した、かつて比をみない水俣病の病像観が浮んでくる。その死にざまも多様である。『もがき死んだ』『狂いさるいて絶息した』『犬のように吠えておそろしいばかりだった』『体力にまかせて壁やベッドに身体をうちつけ、けだもののよううに傷つき果てて死んだ』『物がたべれず、水がのめず、介抱は羽がいじめにして押えるだけ』こうして死んだ親兄弟をもつ遺族(多くは患者となった) からみれば、他のいかなる業病ですら、まともに思えたのであろう。これに加えて、一家全滅、胎児性患者の発見、そして有効な医療がまったくといってよいほどない。その意味で、『水俣病以前に水俣病なし』といわれる人類史上初めての病気であり、死ぬまで諦観せざるを得ない一家一族の全悲劇と知らされたとき、彼らが叫び出るより、黙ってかくれすむ方を選んだとして誰が物を言えようか。
 『夜ねれば体中の痛とうして、頭はジワァとうずき、痙攣の来るときは家のものに足を押えてもらって。いっそ死のうかと何べんも思った』ーこうした話をしている患者は昼間、加減のよいときに私たちの映画に応じて語るのだが、その一瞬はやや病身の人にしか見受けられない。店に買いものにいき、病院にかよう。そうした患者の”人並み”の努力を、一部の市民は『いっちょうわしらと変りなか。神経痛はおれもたい。老人になればどこか調子は悪くなりもする』と言いかねない。死者を最高に、最重症、重症(A) 、中等(B) 、軽症(C)ランクをつけられているが、生活から失われた価値からみれば、その差をつけがたい。
 つい先ごろ、環境庁へのすわりこみ闘争のなかで、いまだ保留されている女性の申請患者どうしの話をきいた。病気の苦しみとその特異さはお互いにつき合わせてみてはじめて分るようだ、脳と体にくいこんだ有機水銀の苦しみを他人に分ってもらえないと嘆く『こんな体になった情けなさを何ちったらよかかな。口に出し切らん。わしゃ女じゃばってん、あんた男なら思ってみなっせ。男のアレを切ってとられたも同んなし。なんも人並みのことのできん苦しさ。人にこれじゃと見せもならんし。そうじゃ、男のアレを切って失くしたと思っちくんなっせ。』まともに眼をみすえて言われるのだが、しょせんわが身の上に想像しがたいことである。
 『ーよか、もうよか、金ばいっちょうも欲しかなか、会社の偉か人が、えらか順に水銀ばのんでもらおう。それでよか』というこえがたい被害者と加害者の亀裂に話はもどるのである。この述べがたい苦しみゆえに、彼らは黙した。そして現在、のちにのべるように不知火海全域に黙した人がいるのも、水俣病の病像そのものの帯びる特質なのであろう。

 『医学としての水俣病』で見えてきたもの

 最新作の『水俣病ーその20』(昭和五十一年) の最後のナレーションで『水俣病はまだ終っていない。なぜならヘドロはいまもそっくり水俣の海にあるからだ』とのべた。原因物質の有機水銀の総量四百数十トンの沈んでいる不知火海の底泥をそのままにしていて、しかも魚を獲り、魚を食べつづけている生活のままで、どうして水俣病の進行だけ停めることができるだろう・・・とのつもりからである。『では食べないでいたらどうだ。いまも毒として食べているほうがわるい』との詰問に応えられる映画をまだ私は作り得ないでいる。映画『不知火海』(昭和五十年) で魚の水俣湾への回帰を描き、肉眼的にはその毒を見ることもできない有機水銀の特性を語り、魚なしで生きることは考えられない不知火海の人びとの食の美学を描いたつもりでいる。私たち映画スタッフ自身、水俣湾口でとれたタコ、ボラ、スズキを怪しむことなくたべる。とても毒ありと思えない姿かたちの魚どもだからだ。また、少々毒があっても、この程度はお見逃しを、といいながら食いつづける。まして、不知火海に生まれた人に『食うな』と言えるかどうか、大いに疑問だっだが、水俣病を充分に識る行政は、この食生活の習慣に逆らっても、水俣病のABCを教え、水俣湾内外の漁獲を禁止すべきであった。水俣病の発生後、県の行政は昭和四十八年、有明海水俣病発生の疑惑が世論をよびさまし、十五年ぶりに行なった水俣湾のヘドロ中、湾奥部に三〇〇~四〇〇PPMの高濃度の総水銀汚染が依然としてつづいていることを発表するまで、一度して魚獲禁止の措置をとらないできた。
 昭和三十一年十一月、『水俣湾の魚介類は危険』と通告。
 昭和三十二年八月、水俣湾の漁獲そのものの禁止ではなく、食品衛生法にもとづく『販売の目的をもってする漁獲の禁止』と魚の売買をチェックするのみ、以後は水俣漁協の自主規制にまかせた。
 昭和三十七年、前記『水俣病終息説』(『水俣病の疫学』熊本大医学部・水俣病研究班・徳臣晴比古氏論文)の発表により全面解禁。・・・
以後十一年間、水俣漁民は湾奥部には不気味で立ち入らなかったが湾中央から湾口にかけて一斉に出漁し、その食生活は元通りにもどっていたのである。
 チツソ工場と海との接点、有機水銀を昭和七年から四十二年までの三十五年間流しつづけた百間排水口附近は、『船底のうつぼやかきは、百聞につなげばきれいに落ちる(死ぬ)』といわれるほど毒性物質の堆積地点であったが、この六、七年前からボラ仔が姿をあらわし、ねちゃねちゃの化学物賀の底泥の上に生活廃水(下水) の運んだ土砂がうっすらと表層をつくり、緑色ののり状の海草がつくようになった。そしてこの二、三年かもめももどっている。昭和四十八年以降、仕切網で湾をほぼ囲み、禁漁区としたためか、外敵に弱い小魚は水俣湾に回遊し、それを追って大きな魚も住み出した。ヘドロ中の水銀はプランクトンに蓄積され、それをたベる小魚から成魚へと当然食物連鎖の法則通り、今日でも平均一PPM、昭和四十八年に最高十三・一PPMのタコが発見されている(原田正純熊大助教授論文、川本裁判最高裁提出証書)。魚も”慢性的”有機水銀中毒のまま棲息しているのである。
 こうした事実に立って、私たちは、昭和三十一年の水銀大量廃棄時、それに見合った急性激症型水俣病(典型的水俣病) と、今日の水銀ヘドロ放置下、緩やかに人体に被害を与えている慢性水俣病や非典型的水俣病に関する学説をふくめ『医学としての水俣病(三部作) 』(昭和四十九~五十年) を作った。この製作時点には、のちにのべるように天草・離島の水銀汚染データを含むものであった。
 医学者でもない私が『医学としての水俣病』にとり組み得たのは、各医学者、研究者がかつてとった学術用フィルムを提供され、視覚化できる限り、その病像をイメージに転化できる可能性にご協力いただいたからである。
 この映画を作りながら、医学に素人の私ながら、有機水銀の毒性の特異なメカニズムについて深い興味をよびさまされた。水俣病の背後には『水俣病の前に水俣病なし』といわれるゆえんや、不治の病である理由が”負の文明論”を見るように鮮明にみえはじめた。原田正純氏の平易なことばによれば『人間には、脳と子宮には毒物の侵入をふせぐ遮断装置が生来そなわっているが、自然の元よりあずかり知らない新種の毒物、化学的に合成された有機水銀に対して、その装置は毒物の侵入を防止できなかった。つまり反自然、反人間の特異な毒物、それによる被害が水俣病、さらに胎児性水俣病として出現した』(昭和五十三年、水俣での夏期実践学校ゼミナール)。
 こうした観点を与えられる水俣病のメカニズムは、医学的興味をはるかに超越し、人類が人類そのものを死滅させていくというグローバルな問題をも投げかけてくる。これは原子エネルギーを原爆として用いるにいたった二十世紀の人類の自己破壊=全滅志向と全く同じに思えるのである。

 水俣病・その生体破壊のメカニズム

 その啓示的例について映画は次のような実験を収録した。元熊大医学部(現筑波大) 藤木素士氏によれば、ムラサキ貝に無機水銀を与えたばあい、その沈着部位は、ヒト同様、消化器や肝臓などであるのに対し、有機水銀のばあいは、ヒト同様、貝の神経節に集中的に沈着する。しかも有機水銀中毒の貝は洗っても煮沸してもその毒性に基本的変化なく、無味無臭で摂取上、正常の貝とまったく区別できない(貝のネコへの投与実験)。(注、これは唯に貝のみでなく、タコ、えび、いわし、ぼらなど皆基本的には同じであり、したがって魚の鮮度については老練の漁師にも選別不能であった事実につながる。)
 元東大脳研の白木博次氏による、猿をつかつてのエチル水銀の侵入機序を解明するためのラジオ・オートグラフ実験によると、水銀の沈着部がレントゲン写真により正確に視覚化される。そこで追跡される有機水銀は、注射後一時間で、赤血球に附着し、運ばれ、ほぼ全臓器と血管、骨髄内に拡がり、やがて、脳の毒物遮断装置を通過して脳中枢に浸透し、好んで脳の視覚、聴覚、運動神経などの部位を選んで沈着し、細胞を破壊するという。その脳細胞はいったん破壊されたら再成しないゆえに不治の病となる。
 同じ方法で妊娠中の二十日鼠における有機水銀投与による胎児(複数)への侵入を見てもまったく同様であり、普通、毒物の侵入に対する遮断装置を通過し、へその緒をへて胎児の脳と臓器を犯している。そして、無機水銀のばあい、脳および胎児への侵入はきわめて微量であり、きわだった差を見せるのである。(このことは天然に存在した無機水銀の毒については人間の生体にそなわる防御装置が働くが、近代化学の生んだ有機水銀の毒性については人間の自然性はまったく関知できないことを暗示している。)
 熊本大医学部の宮川太平氏による猫およびマウスによる実験によれば、その脊髄から出る二種の神経繊維、すなわち運動神経繊維と知覚神経繊維のうち、有機水銀はその知覚神経を選んで破壊するという。その電子顕微鏡下の神経繊維の破壊のクローズ・アップは、観る人をして、一挙に『ニセ患者』発言を想起させる。『手足もうごくのに、なんで水俣病か』という俗論をこの実験は見事に論駁している。運動はできても知覚を犯され、更に小脳の細胞の破壊により、その運動の正常性も失われる。つまり生活行動と意図的労働動作が破壊されているのである。
 また同じく熊本大武内忠男氏による全身臓器の剖検例や、白木氏の実験例から、全身病のパターンが視覚化されていた。これらを『医学としての水俣病・病理/病像篇』に描きながら、このように明確化された水俣病の病像がなにゆえに、常識の世界に移され、認定制度のなかにとり入れられないのか、あらためて怒りがわいてきたものだ。
 いわゆる肝臓障害、高血圧、糖尿病といった在来の疾患とまったく結果が同じであることから、『有機水銀中毒でなく、むしろ普通あるべき疾病とみなし得る』という判断力学がなぜ働くのか。白木氏の解剖標本によれば、膵臓組成のなかのインシュリンを作り出すランゲルハンス氏島の障害により、血糖値が上り、コレステロールがたまり、高血圧と同じ病状となった例として、有機水銀中毒者のなかで四歳児、八歳児、十九歳の青年をあげている。こうした少年・青年の『高血圧』を、一般にありうる高血圧と見なすのには、先にあげた『慎重に適格性』を選ぶという認定への行政の力学なしには考えられない。
 この映画『医学としての水俣病(三部作) 』は一見、大学の研究室、実験室めぐりであり、各医学者のレクチャーを受ける二年間であったが、その学習で示唆されたものは、今日、水俣・不知火海の水俣病をどうとらえるべきかについては実践的であり、かつ理論的であった。医学の門外漢とはいえ、その医学的体験とその映画表現上ついやした時間によって、私たちは一定の理論武装を得たと思っている。
 その際に併せ学んだ『遅発性水俣病』『加齢性水俣病』『水銀以外の重金属による合併・複合汚染による水俣病+重金属中毒症』といったきわめて高い疫学的蓋然性をもつ病像へのアプローチは、今日さらに現実性のつよいものとなりつつある。原田正純氏や新潟大の白木健一氏らによる厖大な臨床例の蓄積によって、水俣病は年々その不可知のベールを脱がされていくであろう。私たちが映画『医学としての水俣病』で得たものは、水俣病の病像はまだ解明の途次だということにつきる。(その点、今回出された環境庁の新認定基準〔昭和五十三年七月〕はこの水俣病研究の本流からいえばきわめて政治的反動の意図あらわな通達であるといえる。)

 マル秘データは語る
 
 私たちが水俣と水俣病の一角に辛うじて拠りどころを求めて映画を連作しているとき、正直にいって、水俣病は水俣市周辺だけの事例のみしかカバーできなかった。ただ水俣と岸づたい十キロ二十キロ地点にも水俣病の発生していることに触れはしたが、描写の半径がのびたにすぎず、やはり水俣病を水俣中心に見ていた。それを衝撃的にうち破ってくれたのは、昭和四十六年に発掘された、不知火海・御所浦島・対岸天草上島を含む、いわゆる『不知火海住民・毛髪検査成績書』であった。これは一部に所在が知られたまま、未公開のマル秘データである。
 水俣病裁判をかげで支え、その裁判闘争の理論形成と資料活動をになった水俣病研究会(熊大法学部・富樫貞夫・丸山定夫氏、熊本『告発』・本山啓吉・渡辺京二・石牟礼道子氏ら) の宮沢信雄氏はN HK アナウンサーとして広い触角をもっておられ、この『毛髪検査成績書』が県庁内に秘蔵されていることはつきとめられたものの、その入手は当時至難であった。進行中の裁判に重大な影響をおよぼすからである。だが氏の探索によって、この検査を担当した元県衛生研究所技官、松島義一氏から公表の同意書と共にそのほとんどのデータの私蔵用コピーを提供された。そしてこれが発表されたのは裁判も中盤に入っていた昭和四十六年五月であった。
 当時私たちは『水俣ー患者さんとその世界』の全国上映に没入しており、新聞のセンセーショナルな扱いによって、天草・離島にも患者かといったニュースを聞くひとりでしかなかった。さもあろうとして裁判の有利な展開を期待するといった気持ち以上のものではなかった。
 だがその二年のち『医学としての水俣病』と同時製作した映画『不知火海』(附和五十年) の撮影に当り精しく読むにつれて、これが水俣病事件二十年の歴史に、ター ニング・ポイントとして転換を迫るほどの重大資料であることが分ってきた。
 この資料には町村別・個人別の毛髪水銀値が記入されており、昭和三十五年から三十七年にかけ、所により二回毛髪採取がされている。しかし、全住民というにはほど遠く、不知火海沿岸十数万中、わずか三千人あまりの毛髪サンプルしか得られていない。松島氏の同意書によればところによっては町の保健所に、ところによっては漁協を通じといった回路で、氏の個人的努力と人脈に負う作業であったようだ。にもせよ、このデータによって注目されたのは、水俣からはるか離れた離島で、かつて水俣にも例をみない、まして世界でもデータ上最高値と思われる、毛髪中水銀値九二〇PPM、ついで六〇〇PPMという記録が明るみに出されたことである。(昭和三十年代、その水銀値五〇PPMは発症につながる重要注意者と考えられていた。現実にはもっと低い二〇PPM前後の発症が臨床的には明らかになっている。その点九二〇PPMはまさに天文学的数値にさえ思える。)
 行政当局の『水俣病かくし』にたいする批判に、強力な裏付けをともなった攻撃がおこなわれることとなった。そしてジャーナリズムもこの事実を執拗に洗い出し、ついに行政の姿勢を変えざるを得ないところにまで追いつめたかに見えた。それについては改めて詳説したい。
 この『毛髪水銀検査成績書』をよく調べると、毛髪水銀の高さは、検査時点では水俣の多発地帯、月ノ浦、湯堂、出月などで低まっており、むしろ周辺から遠隔地に至るにつれ高まっているという奇妙なドーナツ型の水銀蓄積分布が見られるのである。仮りに各集落別にその最高水銀値保有者を拾い出し、その百間排水口からの距離をみてみると次のようになっていた。
 ー九州本島部(水俣と沿岸つづき) ー
 熊本・水俣市月ノ浦 最高 四二PPM (排水口隣接)
 湯堂 一〇〇PPM (右隣接区)
 茂道 一四七PPM (百間より四キロ)
 芦北郡計石 一九二PPM (一四キロ)
 田浦 二〇〇P PM (二〇キロ)
 鹿児島出水市米ノ津 六二四PPM (九キロ)
 阿久根 三三八PPM (百問より三十キロ)
 ー対岸・離島部ー
 熊本・天草郡竜岳町 一六七PPM (百問より二ニキロ)
 (離島) 御所浦嵐口 六〇〇PPM (一七キロ)。
 椛ノ木 九二〇PPM (一九キロ)
 疑いもなく汚染の爆心地である水俣湾内の月浦が当時の発症値以下に低まっており、最も遠い御所浦島がその蓄積値において最も被害甚大となっていることは何を物語るのか。しかも九二〇PPMの老女は御所浦島でも最も天草上島寄りの牧島の住民であった。
 映画『不知火海』のラストは騎虎の勢いに駆られるように、御所浦島、牧島、椛ノ木を選んだ。私たちの立てた仮説は、その調査時点が昭和三十五~三十七年であることから立てたものであった。すなわち、水俣、とくに多発地点の漁民(患者) は水俣病を目撃し、知る立場にいて、昭和三十一年以後は魚を食いびかえた。その結果がこの毛髪中水銀値に反映していると考えた。(人間の髪は平均一カ月に一センチのびるといわれ、その毛髪の根元より先端までの水銀値の変化から”毛は水銀の暦”ともいわれる。) もし水俣病発見時に検査していたら水俣では数千PPMの水銀値が記録されたかも知れない。まさに死人に毛なしであろう。
 だが水俣をはるか離れ、水俣病を対岸の火事とみなし、同じ不知火海の魚を一日も欠かさずたべつづけた人に、結果として、記録上、たまたま世界最高の水銀値が検出されたのであろう。もし全住民調査であれば、この対岸・離島にさらに驚くべき高水銀値のひとがいた可能性もあるのである。水俣病を文字通り水俣のものとみなしてきた私たちは、このデータの出現によって、眼を一気に天草・離島に注がせることになった。そして、映画『不知火海』で御所浦島を訪れたとき、その最高値保持者松崎ナスさんは昭和四十二年に狂い死にされ、その夫、重一さんは、歩行困難と全身の衰弱で家にひっそりとかくれるように生きておられた。
 この松崎一家の悲劇を描く一方、私は天草の今日なお盛大な漁業の島の生態に圧倒されずにはいられなかった。漁業の死んだ水俣から十数キロへだてたこれら離島では往時の水俣漁民を思わせる漁師の世界が確実にあったのである。そしてここでは水俣病は禁句に近かった。その撮影時点(昭和四十九年)には、御所浦全島で認定患者はわずか十一名であった。この地に改めてフィルムをかついで入るまでにそれから三年間かかったことになる。しかも巡回映画の構想など、当時まったく立たなかった。この漁民の島と、有機水銀蓄積上の爆心地であることとをどう結びつけたらよいか、荒くれ男たちのすみかに思える島の岸壁にたたずみ、無策の想いにとらわれていたにすぎなかった。