書籍「わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録」 第五章 一斉検診と”水俣病かくしの盟約”ー”かくし”の重層構造ー <1979年(昭54)>
 書籍「わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録」 第五章 一斉検診と”水俣病かくしの盟約”ー”かくし”の重層構造ー

 不知火海区の漁業の実態

 区の公民館、青年クラブ、老人クラブ、時にお寺の納骨堂の空部屋(樋島、真宗、観乗寺) にとまり、竜岳町山大道村の池浦、葛崎と車で駆ければ三十分、せいぜい一時間の距離を、二、三週間かけて一つも飛ばさずに、海辺のトロッコのような巡海映画の移動は、町当局や漁協幹部の疎遠な対応にもかかわらず、夏の祭りの風情をともなってか、いつも登録人口の三〇パーセント前後の人びとを動員していた。とくに樋島、州崎では門徒三千人といわれる真宗・観乗寺の大説教場の本堂で上映したためか、善男善女二百八十名とあふるるばかりで、こうした実績は町当局に人びとの水俣病への関心のあり方を知らしめることにもなった。

 竜岳町をほぼまわり終えるころまでに、不知火海の漁業と漁場がいくらか分るようになった。水俣サイドからは見え難かった不知火海の全体像である。
 私は「不知火海・巡海映画班通信」に次のようにレポートした。
 「・・・水俣を噴火口にたとえれば、天草上島・下島は外輪山、長島(鹿児島県出水郡)、御所浦島、獅子島は内輪山ともいえます。いまようやく外輪山の半ば近く歩いたことになります。
 元来、上島の漁業は、歴史的にみて、水俣沖、津奈木沖に出漁していた漁家が少なくなく、いわゆる潟(ガ夕、砂と泥のゆるやかな起伏) におけるイワシ綱、ハモ漁、イカ籠などを営んでいた漁家が、昭和三十四年の水俣病事件(こちらでは、”漁民騒動”と記憶されています) 以後、新たに小型遠洋や、八幡瀬戸から牛深沖にいたる瀬(セ、岩場の多い海の中の峡谷) の漁場に転じたものもすくなくありません。この瀬の漁業はいわゆる”天草の鯛” ”天草のフグ”で知られる水深四十~五十メートルの瀬での一本釣によるものです。
 この漁場の社会的変動といわば無縁に水俣、津奈木沖の潟漁場で魚をとりつづけたのが”内輪山”系の離島、御所浦、獅子島、そして長島東町諸島の漁民のようです。『こちら(天草上島) では御所浦などとちがって水俣には近づかないから、関係なかろう』という”対岸の火事”視した返事がかえってきます。だが倉岳の曙部落のように、いまも水俣沖・五、六キロ地帯で専売特許のようにハモ・はえなわ漁で一魚種のみ追っている漁民がおり、きんちゃく網をもつ綱元のなかには水俣沖を主漁場にした人も少なくありません。それらのことは半ば”思い当るふし”としてここでの水俣病映画の反応の底に不安と危惧が横たわっているようです。竜岳、倉岳の二町はその意味で暗黒部の第一の門をくぐった感じでした。(中略)
 漁業の実態を知るにつれ、不知火海区のうち、とりわけ芦北、水俣沖のいわゆる潟漁業は、ほかにかえがたい好漁場であったことが分ります。ここでおのおのの漁法をあみ出すことが不知火海漁民の腕の競いどころであったと思います。漁師たちの話から、恐らく潟にそそぐ芦北・水俣川の運んだ栄養塩とプランクトンの豊饒さ(それに外洋の汐が重なり)、潟につらなるおだやかな海底の丘と凹みが絶好の産卵の地となって、潟につく魚をあつめたのだと思います。そこに水銀ヘドロが重なったところから、対岸天草漁民の悲劇がはじまったといえるでしょう」(一九七七・八・二十七、天草上島柄本公民館にて)  不知火海での魚のベスト5を調べてみた。昭和三十年代のは未入手であり、
とりあえず昭和五十一年度の「熊本県海面漁業漁獲統計」中天草上島・下島沿岸十三漁協(含、御所浦) 合計として銘柄魚種三十六種の年間総水揚げ九百十九万六千六百二十七キロ中、代表魚種は次の順位である(ただし養殖ハマチ、タイを除く) 。
 一位 カタクチイワシ(シラスを含む) 四百四十三万二千四百二十キロ(五六・五パーセント)
 二位 イカ類(甲イカ外) 百十五万六千百五十六キロ(四・七パーセント)
 三位 マダイ 三十六万八千九百六キロ(四・七パーセント)
 同位 ボラ 二十六万六千三百八十六キロ(一二・四パーセント)
 五位 タコ 二十五万四千二百九キロ(三・二パーセント)

 不知火海区の漁は圧倒的にカタクチイワシである。そして魚価の高いマダイを追って九百三十一隻が一本釣、はえなわで稼いでいる。従事する漁民は一隻一~二名として千五百人前後であろうか。一方イワシアミは七十六統にすぎないが、一統に綱子十人、陸でのイリコ製造に女子十人、計一統につき二十人が従事しているとして、これも千五百人前後にのぼる。二つの漁( カタクチイワシ、マダイ) だけで、重複もあろうが、のべ三千人の労力を占め、その家庭人口は一万人に近い主要漁業であることが分る。網と釣とでは漁法は劃然とちがう。かつては身分も綱元と綱子では主従のようにちがっていたのである。そしてどの漁場にも入れる一本釣、はえなわ漁といったすなどりびとの生き方と網とでは大きくは二分されているであろうことがわかる。またイワシとタイ、それはとりもなおさず潟と瀬のそれぞれ主座をしめる魚族である。そのまわりに、それぞれじつに多彩な魚族がすまいを選んで棲息している。
 不知火海の南半部、水俣を中心に北の芦北、田浦沖、南の出水沖一帯にひろがる不知火海の中央部の潟はその砂泥の底土とイワシその他稚魚の回遊地であることから、エビ、シャコ、ボラ、チヌ、スズキ、ハモの宝庫であり、とりわけタチウオの独占的棲息地である。一方、瀬は天草寄り、および諸離島間の瀬戸にえぐられである。南は黒の瀬戸で東支那海に通じ、水俣の正面部は、御所浦町十八島嶼、と獅子島間の元の尻瀬戸、獅子島、伊唐島問の目吹き瀬戸、そして天草下島にそう八幡瀬戸を通じ牛深附近より外洋に通じている。これらの瀬戸は水深ときに七十メートルにもなり、岩礁や曾根(岩場) の好魚礁と汐の動きの速いことからマダイのほか「瀬の魚」フグ、クロダイ、イサキ、カレイ、アジ、タコ、甲イカの棲息地として恵まれている。この瀬の漁場は潟ほど汚染されていないとされ、とくにタイだけは魚価の暴落にも例外として、魚の王としての座をゆるがせなかったといわれる。
 また、潟に出る漁法をもつ竜岳の三漁協の昭和三十四年当時の資料を見ると、じつに多くの漁が水俣、芦北沖に出ていたと想像される。(以下、県水産試験所『不知火海の概要と水俣調査中間報告』〔昭和三十四年〕による。)
 旧高戸村(六十六漁家)
 エビ流網(潟) 三十二統
 タチウオ釣(”) 五十隻
 旧樋島村(百八十四漁家) 
 エビ・打瀬網 七十二統
 タチウオ釣 百二十隻
 旧大道村(百二十一漁家)
 エビ・イワシ網 二十六統
 タチウオ釣 七十隻
 右のように、最汚染魚タチウオを指標としてみるとき、漁家の約三分の二前後が天草と水俣の中間水域に出漁していたと思われ、また各網も水俣とのあいだの潟のヘドロ上で操業されていたことをうかがわせる。
 こうして手探りで歩きすすむうち、私たちはついにかくれ水俣病の暗塊に出くわしたのである。

 典型的な水俣病かくしー森一族のばあい

 私たちが竜岳の旧大道村、葛崎(六十二戸、百九十八人) に入ったのは八月十八日であった。ここから離島御所浦に大橋を架けようという案もあるほど、指呼の間にある。ひなびた漁村で一角にやや大きなイリコ製造所と冷凍庫をもつ綱元・森水産があるのみ。ほとんどが老人による一本釣の村であった。
 宿舎に老人クラブをかり、自炊した。ここでの映画会は二七パーセントの動員率でとくに変った反応はなかった。ただ近くの森商店に買物にいった西山は抱えきれないほどの野菜をカンパしてもらっていた。翌朝、毎朝半熟卵をたベる私は卵をかいに店にいき、カンパのお札をいいながら「このあたりの方がたの健康はどうですか」と聞いたのをしおに、主人森つるよ(六十六歳) さんから「聞いてもろうだけでよかばってん聞いて下さい。じつはなあ・・・」とせきを切って話されたことは、近くにある彼女の元家(実家)に続発している四肢障害者と、彼女のとりあげた元家すじの外孫にふたり胎児性水俣病にいっちょもちがわん症状の子がいるという訴えであり、しかもこの地区の一斉検診に彼らの誰ひとり応じなかったという典型的な水俣病かくしのケースであった。
 私たちのほうから探索した例はあったが、映画会が機縁で住民から訴えられたこのような大量の潜在性患者の所在の告白ははじめてであり、巡海映画行動にとって初の出来事であった。しかもその一族は、この村で最初に眼についた森水産そのものだったのである。
 十日後、私はこのケースを、東京、熊本、水俣の支援組織あて要注意あつかいの非公開レポートとして送った。
 「このケースは森一族があげて申請にふみ切ろうとする点、特に胎児性水俣病様患児二名の浮上は対岸・離島の潜在水俣病患者追跡の上で重要と思われる(中略)。
 森つるよ(元助産婦、胎児性様患児二人を取り上げている) の元家は店より五十メートルほどにある。その家長森利則(七十二歳) に疑いのあるほか、その長男、次男、長女、ほか外孫二人に水俣病のうたがいがある。
 なおこのケースは昭和三十年代半ばに家長が大道漁協組合長として他漁協幹部に強力に働きかけ、『患者をひとりも出してはならない』と、盟約させ、以後一族の検診を一切うけさせないように”ガンバッタ”立場上、もしこの森利則老の決意の変化によっては、森一族のみならず、旧大道村全体の”地獄の釜のふた”が一挙にあくかも知れないしわれわれとしては一族一団となってのグループ申請を薦めている、目下のところ申請するとすれば、この形をとるであろう。」(七七年八月二十七日)

 九月一日より二日間、熊本大、浴野成生医師と水俣の移動診療所、堀田静穂さん、センターの柳田耕一氏らに来てもらって初めての一族の検診をおこなった。
 この第一回検診では施設にいたり、熊本市内にすむ二名の胎児性様患児をのぞき、森一族の成人たちを対象としたが、臨床的所見によっても水俣病の疑いが濃いと判断され、九月下旬、外遊から帰国した原田正純氏の追診によりさらに確定をふかめ、まず一族の家長と当主の二名の申請決意を得て、年末、ついに一族成人の集団申請に至った。
 このケースは天草での水俣病かくしの典型であり、で記録しておきたい。

 森一族ーその生活歴と病歴の一端

 (1)森家は竜岳町旧大道村の綱元で、いまもこの葛崎地区で一軒のこるイリコ製造業。イワシ網の乗り子(沖ともいう) 十一名、製造(おかば) に八名常一雇いし森水産を経営している。当主森則之(四十四歳) さんは社長であるが、みずから船にのり網を指揮している。重度の歩行困難。
 (2)家長森利則(七十二歳) は戦前からきんちゃく網の綱元として盛業を営み、昭和二十二年ごろからは水俣のイワシ漁場に出ていたり大道漁協幹部として昭和三十四年の不知火海漁民闘争に参加、チッソ工場の打ちこわしについて、暴行罪の計画共同謀議者として再三警察に重要参考人として出頭させられたが、起訴はまぬがれた。旧村村会議員、竜岳町町会議員を歴任したが、三年前に全公職から引退し、隠居の身となる。強度の難聴のため電話の声が聞きわけられず、言葉つきも乱れ、その任に耐えなくなったからである。息子、娘の健康の強度の悪化は憂うるが、自分のそれは老人病としている。二年前、養殖のえさ用に魚肉ミンチを作っている際、一指を魚肉とともに第二節まですり落したが、血を見るまで気づかず、痛みをまったく感じなかった(知覚障害)。手の指は典型的にくの字に折れまがり、一族の誰よりも鮮明に水俣病症候群をそろえていた。
 (3)長男の当主則之(四十四歳) 、孝( 四十三歳)、長姉(山下姓) 昭美( 四十七歳) の三人は全員”進行性筋萎縮症”とされ、長姉山下さんの第一子孝治さん(二十二歳) は進行性筋ジストロフィで日常介助を要し、大山やえのの第七子、和登さん(ニ十四歳) は重度脳性小児マヒとして施設「はまゆう学園」(天草郡芦北北町) に入園中で、この人たちが当面の対象であったが、それぞれのつれあいにも症状がみられ一群九名(今後胎児性様患児を含めれば十一名) のグループ申請となった。
 家長利則は家系のたたりとして某教団に深く帰依、邪悪退散を祈る生活に入っていた。
 (4)森兄弟は小・中学生まではマラソン、相撲に長じ、健康そのもので、働きもの兄弟として高校卒ごろより組んで働く。昭和二十二年より水俣附近で働き、昭和二十七年ごろより水俣沖、田浦沖一帯に網漁の許可をもつ前田兄弟(兄は水俣・明神、弟は川浦・井牟田在住) と組んで、水俣を基地に、イワシ網、ボラ、イカ龍を季節ごとにやる。イリコ製造が主体で、イワシを追って網に入るタチウオ、グチ、スズキ、ボラなどを元家にもち帰り一族で分配してたべる。その魚の分配は元家、兄弟の婚家先、綱子家庭八家族など、汚染母系八十名から百名にもおよぶ。
 長女山下昭美は夫と共に教員、池浦小に奉職中、イリコ製造納屋の二階で生活するなかで筋ジストロフィの第一子孝治を出産。家長利則の妹大山やえのも教員と結婚、池浦にすむ。魚はすべて元家より分けてもらい、それを日常とるなかで、重度脳性小児マヒの第七子、和登を出産する。
 この二人の取あげ産婆さんは、森つるよさんであり、二人とも異常出産でなく、まるまると太った赤ん坊であったという。
 「わたしも産婆をなごうやっとるけど、安産じゃった。しかし和登はあと産(胎盤) も出んうちにチアノーゼになって、その後二~三カ月で全身ひきつけるようになった。」同じころ(昭和二十八年) 当主則之は「腰チンバ」という、腰をかばって歩く変な歩き方になり、両足に「だらし痛さ」(鈍痛とマヒ感) を感じ出す。しかし働きざかりで水俣湾は一時避けたが、水俣沖の解禁地区でとりまくる。昭和三十五年ごろ、「水俣病はもうすんだ」と聞いたので、水俣漁協の自主規制区域すれすれのところまでいって魚をとる。「どもこも魚が多かもんで、夜な水俣湾までちったあ入った。」
 (5)この魚を分けあった綱子家庭のうち、老人は昭和四十年前後、相ついで死亡した。

 姉弟三人の筋萎縮は昭和三十五年から三十七年にかけてほぼ同時期に顕在化。
 長男、則之氏は、歩行困難、腰ちんばと激痛、けいれん、視覚障害に加えて、体のバランスがとれず漁撈作業は困難でやめ、ただ指揮と命令のため船に乗る。
 次男の孝氏は五十メートルの距離をあるくにも三度ほどやすむ。鮮魚商として魚市場で目ききのいる仕入れを主にし車での運転にたよって辛うじて働く。
 姉も日常病臥し、自宅療養する進行性筋ジストロフィの孝治さんの介助も困難になっている。重度脳性小児マヒの大山和登さんは、親の顔も分らず、排便も教えない。「あのテレビによく出る田浦の子(山本富士夫君=明水園入院中の最重症児) といっちょも変らん」とつるよさんはいう。頭が痛むのか、たえず頭蓋の両側を叩くので凹んで変形し、おでこを床に打ちつけつづけるため額にタコができ角質化している。十六歳まで母親が抱き寝していたが、芦北学園をへて天草に新設の「はまゆう学園」に入れる。医療費全額免除で救われたが、親として煩悩の種である。
ー以上がこの一族の健康異常の一端である。

 ”水俣病かくしの盟約”が明るみに

 問題はこの一家が水俣病と相互に思い当りながら、なぜ名乗り出ず、一斉検診すら避けたかである。 家長「わしが申請まかりならんと言いつづけとった。わしが先頭たって、大道漁協組合長として「わが村から水俣病は出さん。皆さんとこもそうしてくれろ」と音頭をとった。そのわしがなんで約束を彼らるるかといいきかせた。」
 当主則之「一斉検診はあったとです。青年クラブに先生が寄ったとき、健康診断せろって触れのまわったとです。わしゃ船で沖に逃げて去るいた。水産業のわしが水俣病になったら魚もうることならず、家系も汚れる。おやじもうるさく言うしなあ。しかし、いっぺん上天草病院に端息で入院しとったとき、スリッパがぬげてぬげてどもこも履ききらんで、体重を計るときもはだしではかりに上ってさい。看護婦がきくもんで、ぬげて仕方なかけん履ききらんといったら院長さんに言いつけよった。わしゃ『せんせ、おるは水俣病じゃなかかね』と聞いてみたったい。院長さんは脚気を調べるごたる風にひざを叩いたら、ピクンと上ったもん『よか、水俣病じゃなか』と肩たたかれて、恥かしかった。アレェ言わんばよかったっち。」
 孝「わしゃ兄きとちっとも変らでな、兄きが”筋萎縮”ちいわるれば、わしもどうせ同じと思って医者にもあんまりいかんじゃった。最近水俣の前田さん(明神在住、認定患者、娘胎児性患者) に会えば『もじよかねえ。わしと同じ魚くっとるのに、なぜ申請せんとか』とどもこもやかましゅうせっつかるる風で」
 則之の嫁みちよ(三十九歳) 「わたしの元家は、田浦・井牟田ですけん、近所に胎児性の子も大人の患者もおるとです。うちの父ちゃんな酷かとはすぐ認定さるると思うとに、よう私の口からは言いきらんで。じゃが、あすは船にのれるとじゃろか、あさってまでじゃろかと思えば夜もねむれん。人に働いてもろておるし、はたにも迷惑をかくる。こりゃ一家心中じゃがと思うてですねえ。」
 伯母・森つるよ「わしやこの子たちも可哀そかばってん、(胎児性様の) 和登の孝治のとみれば、これからどげん生きてくかと思えば、ぐらしうしてなあ。だけんど、一ぺん田浦の方に(票をたのみに)選挙でいって生まれてはじめて患者ばみたら、どげんですか。まだ漁もしなさるのに補償金もろて、けばけばした家建ててなあ、ああ、なんとも見苦しか、いやじゃいやじゃと思つてなあ。そげんこつが頭にあって、水俣病じゃと思っとっても、申請のなんのといいきらんじゃった。金ばもろうとああまで見苦しくなっとかとそれがいやで・ ・・。」
 これは申請するかどうかが初めて一家の話になったときの会話の一部である。この森つるよさんの目撃したものがなんであったか想像するほかはない。ただ律気な在所のひと、つるよさんが患者のある生活ぶりに生理的反撥をおぼえ、それがしがらみになって、この機会まで欝屈させてきたものがあったことは確かであろう。
 「そりゃ本人の心がけ次第たい口どんなにしても言う人は言う。しゃば(世間) じゃもんで。わしらが病気ひとすじ大切にすりやよか」と当主はいう。彼はたしかに限度にきていた。「これも人のめぐり合せたい。もうこういって話すことは二度となかぞ」とも言った。だが家長利則の漁民への盟約の義理固さはなかなか解けなかった。
 私は旧漁協の盟約がどうゆれ動いているか知らせることにした。御所浦町で百三十人の大量申請が出ていること。竜岳町で認定一名、申請者十名、この大道にすら、すでに四名でていることを具体的に告げた。町当局の部外秘のデータである。老人は初めて聞く情報にゆれ、ついに息子たちの懇願に折れた。
 「わしが音頭をとって”出さんことにせろ”とやったことじゃばってんな。辛かとです。じゃがなして、わしんとこにだけ、まとまって災難ばぶちかぶるとか。むすこふたり、あねむすめひとり、孫ふたり、人生めちゃくちゃじゃ。罰かぶったろかと思うとです。」
 この約束ごととは不知火海漁協九部会で水俣病かくしを盟約したことをさす。これには町役場も加担し、文書として残さず、口約束で固めたものという。その九部会とは、姫戸漁協(以干略)、高戸、樋島、大道、棚底、宮田、栖本、御所浦、嵐口ーつまり上島三町と御所浦一町であったり私たちが対岸・離島をめざして映画会でつきとめたかった事実がはじめてその当事者の口から出たのだ。「もしひとからなんでこんなになるまでほっとかれたと訊かれたら」と私が言うと、言下に「そんときゃ、おるが言うばい、おるが組合長をしとったとき、とめたっち言うばい。しょんなか」ひとつの地獄の釜のふたはたしかに開いたと思われた。おそらくこの有力者の集団申請は地域に衝撃を与えようし、また反撃もこの一族に加わるであろう。
 しかしこの時をさかいに一同の口は軽くなった。猫の狂死の事実にしてもそうだつた。「おう、『いちころ、いちころ』といいよった。きりきり舞うたら、いちころで死ぬちゅうところで。ほんに何十匹といわん猫が死んどりますばい。」
 そして問わずがたりに、親しかった漁上手の綱元、川端義弘(六十五歳) という人が「水俣じゃったろう。間違いなか。そりゃ魚つ喰いでなあ、ひと財産つくってから、農薬のんで自殺してなあ、よほど苦しかったっばい。心配させんように家族の留守にくすりばのんでなあ・・・ 」
 何かが変ったここうして、暗い地下の室から、これに似た話がいくらでもひき出されてくる気配であった。

 「知は力なり」

 巡海映画会は一つの集落も飛ばさず、おおむねコース順に進行した。もし営利のためなら、当然みむきもしない孤島まで渡って上映した。「営利のためではないらしい・ ・・ 」このことは何より土地の人がいちばんよく分るのだ。たとえば横島( 下島・新和町にあり戸数二十三戸、八十人) で上映収入三千五百円、その往復の貸切船四千五百円、差引き千円赤字といった計算ぬきの映画会であれば、まかりまちがえば、どこかのアカか、何かためにする映画会との当然の疑いも出ょう。その点、映画を作った私たちの手で映画をみせるという単純な構図がどんなに有効だったことか。映画会に先立ち、自分とスタッフの紹介に、カメラマンの一之瀬とか、演出部の小池、西山と分担をのべることですむのだ。こうして、将棋倒しというかドミノ理論というか、次つぎに、それまでの実績を梃子に開拓していくという方法はもっとも強力で唯一とも思えるやり方であった。

 スタッフの小池征人は毎日、妻晴子さんと一歳の拓君あてにハガキによる日報を送っていた。その一通に、私たちが「知ることは力だ」として知らせることに腐心した状況を彼一流の文章でつづっているので引用させていただく。
 「不知火海通信11号 8/20
・・・天草、不知火海南岸部に、水俣病についての正確な、あるいみでは常識的な知識そのものが、だれの手によっても、もたされていないということは驚くべきことです。この文明文化の時代に、もっとも知らなければならない人びとに対して、水俣病の情報が全然ゼロである。未到の地としてあるーその分だけ増幅されて差別と偏見が充満しているのもまた恐るべきことである。
 人びとのなかにしみ通る情報の回路はどのようなパターンと方式をもっているのか明確には感触しえない。『知は力なり』という定式の根底には『もし人びとがそれを大衆的に獲得するなら・・・ 』という仮定法を含み込まざるを得ない。グラムシのいう集団的知識人の概念である。つねに大衆の依拠する知的反応器官としての常識概念の豊饒化に注意を払ったのは「知は力なり」の仮定法を念頭に入れてたからにちがいないと思います。ぼくらはもっとも大衆的でかつ、もっとも少数派の人びとのなかに自分たちの映画をなげかえしている。その人びとの常識感覚の古さと新鮮さを感覚している・ ・・」
映画作家が自分の映画を何十ぺんと観客のなかで見ることの苦痛をなんといえばよいだろう。映画の製作過程で、自分たちのフィルムの表現力、感応力、説得力を何度となく疑い、反芻し、これ以外にないという決断に到達するまで煮つめて、完成させたつもりである。聖なる一回性とでもいおうか。いったん作った映画に弁解はできず、注釈つきで補足することはプロフェッショナルであればこの上ない恥である。だから、私は作る過程ではよくプロデューサーと争い、仲の良いスタッフとのあいだに起りがちな、なれあいの和気あいあいを切り捨てて、非妥協的であろうとした。なにより、編集にあたって、自分の撮影時に仮託した心情をひっぱがすことにつとめた。いかに”現場フィルム”から編集者として独立した眼を獲得するか、別の言い方をすれば、わが主観主義との抗争ではじめて、ひとりあるきできる映画の脚力をもてるーといいもしたし、やってきたつもりである。しかし上映の場で、不特定でおよそ映画観賞力の不ぞろいな観客の顔をみつめながら、私たちのフィルムへの理解力、感銘度を凝視し、何十回と自分のフィルムの表現力を点検すると、なんとも私たちの映画は十全ではない。
 映画『水俣病ーその20年』は、それまでの十本近い作品と未使用シーンをもって作った。もっとつっこんだ情報を求められ、時間があれば、用意したフィルムのレパートリーから選び出すこともできる。しかし観客にとっては、何年ぶりかの映画会であり、しかも水俣病情報としては初対面、しかもその日一夜の一回性でしかない。
 巡海映画をはじめてからも新聞、TV を通じて新たな情報がとどく。たとえば原田正純氏らの自主検診グループの手でおこなわれた子ども二百四十六人の検診で、新たに七名が確実、二十一人に胎児性水俣病のつよい疑いというニュースがそれだ。原田氏のコメントをかりれば「胎児性患者は行政が二十年かけて四十人を認定したが、たった六日間の自主検診で二十八名の患者を見つけた」(昭五十二・八・七「読売」、「熊日」) のだ。こうしたことを映写の前後に解説としておりこむのだが、はたして映画そのものからどう読みとり、つなげて観てくれるか、その保障はない。それに気づくと、私たちは映写のあいだに突如、野次をとばすようにはたからコメントを入れたくなるような衝動に駆られた。しかしフィルムは非情に回転し、進行していく。この上映の一回性にどういう”映画の磁場”をもてるか、あるいは創れるか真剣に考えざるを得なかった。結論は野次を冷静なコメントに代え、補足し、映画の流れを止め、そのシーンを凝結しても、いま、この地の人びとの脳裏に浮んだ疑問にこたえる上映方法をとることに決めた。これは映画作家としての敗北であるが、上映運動家としての勝利でもある。この二律背反を苦もなく実行できたのである。

 快楽に転じうる苦役

 上映後二十日ほどした倉岳町曙部落の上映会から始めた。ここはいまも水俣沖六キロの潟に、ハモをとる漁師集団のすむ部落である。
 私たちは、人員配置をかえ、私がハンディ・マイクをもってスクリーンのわきに立ち、映写機わきに一人、映画をとめたり逆回転させたり、ときにボリュームを下げて、ナレーションに代り現場用の解説を重ねたり、臨機応変に対処する体制をとった。
 医学実験や”水銀の生物間の食物連鎖による濃縮”の理論や、”猿・マウスによる体内、胎児内への有機水銀の侵入”の標本説明などは専門語はまだしも、人体図などは最低の医学的な予備知識とつながってはじめて、自分の体、子宮と比べられる。その点、観る人の理解の間と、脈絡づけにゆとりがなく思われた。またヘドロ処理問題の新展開によって、私たちの映画にあるヘドロの即物的描写だけでは不足である。患者出現図にしても、この映画の製作時(昭和五十一年)患者数の約五〇パーセント増の現状とその離島での出現の新事実を知らせるには補足がいった。これらを上映の流れをとめて説明することにした。
 観客のなかの若い母親たち、娘たちを暗やみで見つめながら、とくに胎児性患者の原因について平たくくわしく語った。彼女らは水俣病を悪性遺伝とうけとり、結婚問題、家系のにごりなどに短絡して、水俣病への最大の偏見となっている。「これは妊娠中の食中毒」であることを動物実験シーンの逆回フィルムで重ねてのべた。かつてこの地にライ病などの悪性遺伝や、日本脳炎、ビールス性疾患などの流行もあったであろう。それとの違いの説明ほど聞き手の心に泌み入る話はなかった。”知は力なり”と改めて思う。水俣病の原因も正確に教えられず、その汚染実態とその防御方法も教えられずに来た人びとであるいヘドロで終るラストシーンで、不知火海の全面的調査や汐の流れ、海況の実態ぬきですすめられている浚渫強行着手への危倶をうったえ、漁民としての監視の権利を主張していただきたいとものべた。こうした上映によって、その懇切さは決してくどさでないことが分った。
 娘や若い母たちは、永いあいだの宿題がとけたような面もちで、上映後、拍手をもってこたえたり映像と交互に肉声で語る上映は「映画と実演」ともいうべき親密な雰囲気を醸成することに成功したのである。
 映写係の小池は、私がしゃべりはじめると間髪をいれず音量をかえ、逆回して同じシーンをくりかえす。これはその都度ハプニング的におこなわれるため、神経をすりへらす仕事となった。また私にとっても、自分の映画にやすりをかけ、さらに不敗のドキュメンタリーを作るための修業時代にひきもどすことにもなった。だが、人びとの反応の息づきや、相互のテレパシーの飛ぶさまをみ、テレビ情報とまったくちがった映画上映の場の映画の作業力を創造する興味を発掘した点で、私たちスタッフは、この上映でより肥えることを実感できたのである。それは快楽に転じうる苦役であり、映画ならではの味覚でもあった。
 ふたたび小池の私信をよみたい。
 「不知火海通信15号 8/31
・・・本当に岬・岬をへめぐってのわれわれの行路は虫のあゆみであります。今同のような上映行路は、これまで誰もしたことのない体験です。時代の魂をうつことと、映画としての芸術の城を達成することのなかに映画をつくっていく原型をうみ、だしていくことと思います。・・ ・いまぼくたちが気を配っているのは、映画を通して人びとと接触し、その後、去ったあと、地元に残された人びとのなかに残る心の波紋を誰が責任をとるのか。その責任の回路を人的に確保していくことの困難性です。海辺の工作隊として・・・・・」
 まったくそうだつた。森一族のばあいはたまたまフォローできたが、今後つづく上映のなかで浮上する潜在患者群を、いまの水俣の運動体の力だけでは不可能であるとしたら、いったいどこへ訴え出づるべきであろうか。
 夏休みも終りに近づくころ、東京から秋山監督が今後の計画と予算について中間打診にわざわざ来てくれた。十一月まで上映がつづくであろうこと、夏休みも終り、子どもらの動員がへるであろうこと、天草下島の南岸部の過疎地帯であることも考慮に入れて、その上映動員力と現地収入の見込み、ひいては東京でどのくらいカンパの補給がいるかなど、兵站部の采配に気をつかってくれた。彼は十年問、過疎開題を撮りつづけているきわめて異例の作家で、天草をすぐさまその豊富な体験に照して考察するのだった。
 一方、私たちスタッフの財布とスケジュールをにぎるのは、はじめて私といっしょに仕事する西山である。彼は十年余、鹿島コンビナート建設をはじめ港湾建設の中堅技術者で目標と進行への綴密な計算ができ、しかもイメージをもって予算をたてられる才能をもち、その点では私のつきあった助監督のなかでもっとも安心できた。その彼の展望と予算によれば現地の入場料カンパ収入がすでに見込の倍を超え、今後離島部の関心いかんによっては、その水準を維持できるというものであった。
 同じころ、西山の夫人やその友人、それに私の娘たちが炊事、洗濯志願に訪れた。まだ娘時代のままの夫人たちは、たちまち子どもたちの遊び仲間にされ、その手蔓で子どもたちの家で魚や野菜や煮物、つけものをもらうまでの仲となった。その俄か移動託児所から得る情報は男どもより豊富であった。私が若い夫婦に一泊の天草での新婚旅行をもちかけても、誰も相手にしなかった。ここで私の娘は成人をむかえた。ささやかなケーキと花がスタッフで用意された。これが彼女の一生にどう残るか、私はひとりのラッキーな若者を見る思いであった。

 あくまで他所者に徹して

 思わぬ人びととの出遭いがある。倉岳では長崎造船所社研で先覚的な労働運動に参加したのち、Uターンした青年漁師や、都会で社青同の中堅だった農家の長男が、養豚をはじめていた。時代への感度は都会型であり、天草時間にも順応できるこれからの天草の人材であった。天草の住民運動家、社会党系の無党派人士、自然食品グループ、そして電力、全逓、全電通の地元労働者は数少ないだけに、顔みしりのつながりでゆるく横ならびに連帯している。
 映画会の成功は彼らにとっても刺激的だったようだ。倉岳、宮田で二百八十二人( 三四パーセント動員)の観客をあつめた夜、三々五々、若ものが宿舎の公民館に集まった。
 「わしらが何をやっても五十人と人のくっとかな。よう集まった。どこにいままで水俣病の関心があったとばいなあ、わしら土地のもんにはそのそぶりも見せんとになあ。」
 改めて東京からじかに手で水俣病情報をはこんだユニークな行動のもつ作業力を感じさせた。石牟礼さんの「現地にとけこもうとなどなされなくていいです・・・ 」という言葉が折りにふれ耳たぶによみがえる。
 水俣から再三訪ねてくる写真家塩田武史氏や秋山氏らと、東京(或いは水俣) の他所者としての作業のあり方を語って飽きなかった。
 「運動者は第一義のひと、地の塩である。その人の表現は、人びとのなかにしみこみ埋めこまれてはじめて完成する。表現者は第二義のひと。運動者に永久に、ある歩幅をもってへだたってあるく。表現者は運動者のために表現するのではない。表現者には表現の武器しかない。その独自の行動がどう運動と”関係”するか、それだけを追うべきだ。」こんなことを私は焼酎に酔いながら喋りつづけた。かつて”革命”から身をひいた負点の解析と映画を作るものとしての存在証明を、しきりに求めている自分に気づく。だが、若いスタッフにとって、映画のスタートを、このようにして切れることが、どのように彼らの次の映画表現にむすびつくことだろう。
 中央・東京の映画・T V 状況をこの天草の地から改めて望見するとき、表現の草の根をどこにたしかにおくかについて、東京・中央の人びとの不運はおおうべくもない。毛細管を失わざるを得ない中央の文化状況をいうのはしかしたやすい。水俣にしばしば住み、水俣から水俣をみつめたときにくらべ、天草・その離島から水俣をみるーこのわずかの視点移動さえ、不知火海をあいだに百八十度の視界転換をうながす力をもっているのだ。「あくまで他所者に徹してやろう」ということにしか私たちの腰のすえ場所はなかった。それは水俣病の映画という品物を行商しつづけることにつきる。

 このころからかねて接触のあった本渡市市議田尻薫氏の仲介で、本渡で自主上映会を全市的規模でおこなう下相談がおこりはじめた。その組織的母体として、「天草の海を守る会」があった。有明町に進出予定の常石造船所建設反対運動、苓北町での日綿実業の巨大石油中継基地反対運動で労働者は漁協との統一行動を体験していた。造船所進出計画はほぼ壊滅させたが、有明海沿岸の工業化への関心にくらべ、積年の汚染にもかかわらず不知火海は視野の外にあった電力労働者仙波武信氏、猪野正智氏、天草ろうあ学校教師松永順治氏、それに長い東京での学生生活をおえ、郷里五和町の旧家に帰り、自然農法と玄米食運動を提唱、自然と人聞について哲学的生活を体現しようと志している変った青年・中井俊作氏らが中心となった。中井氏は本渡市長選挙に立候補し、一部につよい人気があった。
 「なんで東京のにんげんが天草の海の汚れを心配して自炊・テント生活をしながら地元の海辺を這うように歩きつづけているのか。これを天草の人間が安閑と見ているだけでよいのか」(準備会での発言より)ということが動機の核心であった。以後、十一日、本渡市第一映劇での三日間『不知火海』『水俣病ーその20年』の興行にむけて走り出したのである。
 こうして上映開始後一カ月、私たちは上島での二十四地点での上映をおえ、下島にうつろうとしていた。だが医療関係者を上映会に足を運ばせることには失敗していた。そこで今一度、上島を逆行し、とくに上天草病院、そこが「天草で唯一の水俣病専門の病院」と住民に信じられているだけに、ぜひとも映画を見てもらいたいと願った。

 「神経障害一般に主眼をおけ」一斉検診の実態

 天草の病人にとって上天草病院の存在は頼もしく見える。今日では百七十床のベッドと百四十人の医師、看護婦、職員を擁し、三年制の高等看護学校を併設するこの病院は僻地の医療機関として誇るにたる偉容をもっている。そして毛髪水銀の最高蓄積者をみた御所浦島とは船で十分そこそこの距雑である。竜岳町立病院だが上島、離島の開業医や小さな町立診療所とネットしている「臨床検査センター」は毎日、血液・尿検査、心電図の分析を広域に受けもっている。水俣病の県の一斉検診も、第三次検診もこの病院内を借りておこなわれた。さらに熊本大学第一内科で最終検診し、その結果竜岳町から十名が洗い出され、申請されたことはすでにのベた。だがこの病院自身による患者発掘はまだ一名もない。昭和四十六年五月、毛髪水銀データが発見されるや県より早くカルテの見直しをはじめ「天草上島南岸潜在水俣病調査医師団」が作られたにしては、その後の消息は聞かない。そのイニシアテイヴをとられた当時の内科医長、江頭洋祐氏はその後まもなく八代市立病院副院長に転じられていた。
 この病院のテリトリーの御所浦町、東町の獅子島では数年前からふたつの自主検診グループがそれぞれに潜在患者を発掘していたり昭和三十九年開院以来”ここに骨を埋めるつもり”で赴任してきた岡崎種治氏は、そのグループにたいする反撥をかくそうとしなかった。
 「ここ天草上島だけで四十ぐらいの医院、診療所があります。そのお医者さんたちは島で一生おえるつもりですよ・・・みんな、家も建て、おれが大将という気持でやっています。もともと他人の指図はうけん職業ということでお医者さんの道を選んだ人ばかりです。自分の診察技術を無視されるのなんかいちばん傷つくんです。ところが神経に関しては専門じゃないですよ、内科とか小児科とか眼科とかね。そりゃ神経に関しては自主検診の人は専門だから優れているでしょうが、結果として地元の主治医を否定していく。「水俣病もよう見つけ切らんじゃった」とか「あの医者は水俣病のことはいっちょも知らん」ということになってしまう。それが度重なって、地元医はみんなアンチ水俣病になってしまったりぜんぶ敵に追いやられた。この十年ぐらいでぜんぶそうなってしまったんです。」
 これが氏の真率な述懐であることはひしひしと分る。医師対医師としての反撥の図式はこのようにしかならなかった。政治的配慮に満ち満ちた水俣病処理の歴史からいって、的を射ていると思う。水俣病の専門的医学データと、あわせて潜在患者発掘の要請とまでは言わないにしても、要注意、要観察をうながす医事行政とその依頼が地元医諸氏に届けられていたであろうか。
 六月の予備調査のとき、岡崎院長は「毛髪水銀データ」を見ていないと語ったという。
 あらためて、私はファイルをさし出し、その一覧を乞うた。院長は私の表に日を通しながら「いやあ、みてませんねえ、これは・・・」といいながら個人別リストを指でたどり、「ああ、この水銀値の高い人はいまうちに来ている患者ですよ」と絶句され、すぐに女性秘書に命じて複写を希望された。もし私のコピーでなくオリジナルの原簿からなら、もっとはっきりと複写できるであろうが、私のコピーは孫コピーのその孫のような代物で、数字の判読できない個所もずい所にある代物であった。このように即断しスピーディに事を運ぶ院長であれば、医事行政は今までにあまたの資料を手わたしてあれば、充分に協力をあおげたはずだ。「・・ ・このデータを参考にして、これから患者をみんことには・・・ 」と複雑な思いで私たちのコピーに眼を追っている氏をみるのはしのびないことであった。これは主客転倒の悲喜劇である。旅人の私たちの手にはあって、どうして地元の中心的医療機関に県からその原本のコピーが配布されていないのか。水俣病の中央・県中央での集約と管理、あやまった秘密主義といわれでも仕方がないであろう。
 「ここはもう洗い出しも終って、こぼれはないはずです。十人ほど拾ってもらいました。」これははじめて院長にお会いしたときのことばだ。ここでは水俣病は処置を済ませたというニュアンスであった。
 現地で聞いたいわゆる一斉検診の内実は次のようなものではなかったか。
 〇×式の第一次アンケートによって洗い出された要検診者のいわゆる第二次検診を委嘱され担当したのは地元の開業医であった。たしかに神経科の専門医ではない。その検診の目的について、県は水俣病に焦点をしぼることを故意に避けたようだ。昭和四十八年秋の一斉検診実施に先立って、「・・・県の安武公害課長補佐は『疾病全般を対象として”健康調査”としてこれを実施する。その調査のなかで水俣病があれば拾い出してゆく』とのベ、これをうけて県医師会内でも、『地域保健活動の一環として、住民の健康データをつくるのがねらいであり、水俣病の発掘はその一部である』との見方が主流であった。」(昭和四十六・十・十三『熊本日日」)
 これに照応するのは、今回お会いした倉岳町の蓮田医院蓮田積氏の話である。
 「検診前に、熊本大学神経内科の岡嶋透先生から神経症状のとり方についての講習がありました。その際『水俣病の症状だけ拾うのではなくて、全般的な神経異常を拾うように』ととくに注意されました。私は神経はよく分りませんが曙(漁民部落) は神経痛はありましたが、水俣病の人は見つけませんでした。たしかゼロと報告したはずです。」水俣病の一斉検診と銘うちながら、神経障害一般、健康データ一般に主眼をおけという強調が、どんな心理的暗示を開業医にもたらしただろうか。これは「一市五町・五万人一斉検診」の結果、竜岳町の疑わしいもの十名、認定一名をのぞき、上島全域で申請者ゼロに結果したことから逆算するほかはない。

 天草病院での上映

 私たちは地元医院にもかならず足を運んで案内した。全行程を通じて、新和町・中田の大堂診療所の医師のひとりをのぞいて全面的にそっぽをむかれた。公立の本渡保健所での職場上映も、多忙で人がそろわないという理由でことわられた。
 こうした一般風潮のなかで、岡崎院長が上天草病院のスクーリングとして全員出席の上映会を決断されたことを、私は偉とした。
 九月九月、病院の講堂に七十名の医師、看護婦、高看生徒があつまり『医学としての水俣病ー病理・病像篇』を上映した。さすがにプロの観客であった。看護婦さんのなかにはこまめにノー トをとる人もいただが院長は心中どんなであったろうか。日ごろ豪快で一言ある氏は沈んでしまい開場にあたっても「これから水俣病の映画を上映します」とだけ、終了後、「これで終ります」のひとことで散会した。無言の緊張があった。この映画の主題は教科書的水俣病からはじまり非典型的水俣病、慢性的水俣病、そして脳神経のみならず全臓器、循環器を含む全身病としての水俣病の研究で構成されていた。この立場をとるかどうかで日本の医学の水俣病論争は二分されているといってよい。そして、この映画のなかで、非典型的水俣病像をとる医学者たちはいつも、水俣病の枠を広げすぎるとして批判されていた。だが天草の水銀汚染者の多くは、いま恐らくは慢性型、全身病型として多様に出現していると臨床体験ゆたかな原田正純氏らは推測していた。
 岡崎院長にみての印象をたずねた。その答えは意外であった。「映画のなかの言い方で、なぜ患者を患者さんといい、地元のお医者さんはなぜ地元開業医とよびすてなのだ。医師はいま総体として告発されている時代かも知れないが、なぜ患者さん同様お医者さんといえないのか。」お断りしておくが、私の作ったナレーションのことばではなく登場人物の使った表現である。にもかかわらず、私は潜在意識をつかれた気がして絶句した。私も彼の批判する”自主検診グループの思い上り”と同じ論難の前に立たされたのである。気がしずまってから彼は「しかし思ったよりよくできてます。知らんデータがいくつもありました。みんないい勉強になったでしょう。本当いって私たちは水俣病については素人ですもんね。こりゃ三部作(『医学としての水俣病』) 全部観んといかんなあ」と、とりなすのであった。
 このとき、私はすでにこの病院のすぐ膝元の葛崎で森一族の検診を熊大の原田氏らのグループに連絡ずみであった。森一族が一斉検診には逃げて去るいて、岡崎氏の眼にとまらなかったことを心中に弁解としてくみ上げながら、そのときには氏にそのすべてを告げられずにいた。彼も苦渋にみちた表情であったが、私の苦渋もまた胸を衝くものであった。