書籍「わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録」 第六章 不知火海は変わりつつある -天草下島、そして長島-
不知火海の魚の道ー下島・八幡の瀬戸
もしデイスカバー・ジャパン調にいうなら『天草の秘境コース』のひとつとして、下島の不知火海沿いを挙げねばなるまい。むかし幕府が定浦として定めた楠浦、大多尾、中田、牛深がいまも漁業基地としてあるほか、半農半漁の集落が磯につくかきのように山ひだの入江にかたまっている。上島をみなれた眼にはひときわ僻遠の地にうつる。
”上映報告”中、西山正啓のスケッチによれば、
『・・・改めて感じるのは、天草上島では町役場が不知火海沿岸に位置し、集落も又、町役場を中心に連続的なつながりを見せているが、一部下島はその内陸部に町役場(新和町、河浦町) を構え、その沿岸には点在する漁家集落をもつ点、きわだったちがいといえまいか。天草上島において僻地らしい僻地といえば栖本町の白戸ぐらいであるが、それとて立地条件は町役場より車で十分、道路は完全舗装、バス路線も通っているので過疎地帯という感はない。それに比べると下島は交通網もなく社会的に僻地にさせられている集落が(上映地点で集約しても) 五地点ある。新和町ー天附(樫浦) 、横島(離島) 、下大多尾、立、高根(二本木) 。そしてこのような地区に限って、海岸から急峻な土地を背後に抱き、半農半漁さえ成立しがたい条件のなかで、ひとびとは出稼ぎにより辛うじて生計を維持しているのである。しかも主要国道二六六号計画は本渡市より牛深市にかけ山間部を縦断しており、出稼ぎ=過疎化の波は沿岸部のこの地区のひとびとにむけて一層拍車がかかって押し寄せているように思える。』(九・二十八・報告)
下島を水俣病の拡がりの測定としてどう位置づけるか、直線距離としては二十五キロから三十キロ地点である。だが下島に立つと私たちにしても水銀汚染の影を見るにしのびない。島影あり、入りくんだ浦々あり、瀬戸あり、不知火海をみなれた眼にも心奪われるばかりの世界である。そしてこの海岸線に立つとき、前景に”薩摩領”長島、獅子島あり、その山をいただく島影のかなたに水俣がある。視界的にははるかに遠隔の地であり対岸というより他国の観がある。だが内海不知火海と外洋とのみち汐、ひき汐の総流量の五〇パーセントが眼下の八幡の瀬戸を通じ平均流速二ノットといわれる。(長崎海洋気象台調べ)
その瀬にはマダイ、フグ、イサキ、甲イカ、タコ、キビナゴ、アジが寄りつく。だからこの下島の漁師は瀬魚を追うのが専らで、不知火海の潟漁場にいくことはカタクチイワシのほかはあまりないという。むしろ、不知火海一帯の一本釣がここにあつまる。だが、魚の回遊はどのようなものであろう。名物のマダイにせよ、厳冬期、外洋でひととき冬眠したのち、春、あげ汐にのって不知火海に入り、柔和な潟に産卵する。その稚魚は浅い潟で育って瀬に回遊し、冬は暖流を求めて外洋にぬけると漁師はいう。ここは不知火海の魚の道でもある。
全行程中、最大の難所ー新和町と河浦町
『ここは非公害汚染地域ですけん、一斉検診もなし、影響まったくなしといわれておるところです。患者はひとりぐらいおるらしかですが水俣から移ってきたもんと聞いとります。』(新和町厚生課) また『水俣病のなんのちいえばすぐ漁師がつっかかってくるでな、ここは。漁民パワーは天草無煙炭より強いちゅうところで・ ・・。』(河浦町教育長)
私たちの巡海映画にとって、ここ新和町、河浦町は町当局の不協力で全行程中もっとも難渋した地帯となった。
とくに新和町の大多尾漁民の気性の荒さは天草随一といわれ、警察も警備上の注意を出したと聞くところである。学校と公民館しか公共の会場はない僻村地帯である。この二つがとめられた以上、私たちは各区長の情けで、区長の家、その庭先、道ばたの休耕田、埋立地の砕石をまいた駐車場空地、神社境内、ゲートボール場、小公園で上映会場をつくらなければならなかった。
その大多尾(二百三十三戸、八百五十八人) では孤立無援、漁民の白眼視のなかでの上映となった。だがビラまきに歩くと、子ども、生徒に手足の変形のめだつ人が二、三にとどまらず、聴力、視野の異常と思える人、寝たきり老人があちこちにいて気を重くさせた。しかし、こうした地点でも婦人客が子どもたちのうしろに坐り、その熱心さに変りのないのが救いだった。
『なに、二百円もぜにとるとっか、そんならいかん、ただにせろ。国から給料もらってせんな』と毒づいた青年は、野外会場をとりまいてただ見する数十人の漁民に混じってスクリーンを盗み見していた。しかし見るには見たのである。『うちらは水俣病では損ばかりぞ』ともいう。救済されるひとりの患者もなく、ただ魚価暴落にあえいだ純漁村の積年の怨みをここではもろにかぶるのである。
古い定浦であった中田でも事情は似ていた。漁家の多い港地区には疑わしい挙措の初老から老人の健康異常者がごろごろいる感じである。大堂診療所の医師によればこの土地に多い病気は神経痛と高血圧患者だという。これは慢性水俣病の主症状と重なる。問題は下島は汚染されていないと医療行政が太い線引きをしていることだ。治癒でき軽減できる普通の神経痛や高血圧ならまだしも、水俣病は『治ることのない病い』である。その眼でこのありふれた病名が見なおされる機会はまずなかったであろう。
宿泊は老人クラブ、青年クラブ(区) のある限り、行商人(室内装飾、なべかま、布団にアッパツパと多彩なものをうる) の仮宿と同じ礼金( 一晩千~二千円)を払ってとまったが、行商すら通りこす僻村では野営するつもりだった。『この村にきて座敷を借さんものはおらんばい。旅の衆がここまで来るのも気の毒かに。』こうして天附(三十六戸、百三十五人) の漁師太田繁光さんは遠慮する私たちを泊める。小学校まで四~五キロ。『宿はなくてもとめる部屋と夜具はあるでなあ。』これが僻地の旅のものへの心づくしであった。そして翌朝、出漁してあげた魚で、さしみ、ゆでだこ、煮つけ、魚のみそ汁、それに焼酎と夕食以上に大ばんのもてなしをしてくれる。『じゃがわしは水俣病ははんたいじゃ』と本音は初対面のときと寸分ちがわなかった。
離島・横島は旧村十三家族、五十人ほど。全戸横島姓の孤絶部落だったが、全戸から映画に足をはこんだ。朋子という小学校五年生の女の子はのちのちまで皆の思い出に残る美貌の少女だった。戸ごとにビラをまきに一キロ二キロとあるくあいだじゅう、好男子の西山の背をねらってとびついて倦むことがない。またも、ああ天草だと思う人びとのやさしさをうたがうことはなかった。
漁家専業部落と半農半出稼ぎ集落とー定浦制度の名残り
下島にきて、海辺にある集落を漁村とひとくちに言うのがはばかられた。純漁村と、半農半漁の集落の格差は歴然たるものがあった。大型漁船のずらりともやう大多尾や宮野河内などとくらべると、この横浦にせよ、のちに上映した立部落にせよ、漁船はおかずとり舟ともいえる小船がまばらにあるのみであった。それが幕末までつづいた定浦制度の名残りであることが分ったのは帰京後である。『天草の漁業ー漁業史と近年の漁業動向』(昭和五十年、九州農政局、県農林統計協会刊) によると、代官鈴木重成は天草の十七浦を漁業専従の『定浦』と定め、漁民支配網を確立したという。その『定浦』に弁指を選ばせて、漁民の管理にあたらせ、代官所に公便船などの桐子役(水夫) を提供させ、税をおさめさせる見返りに漁業をいとなむ特権を交付した(海上交通しかない天草で水夫役務は多かったに違いない)。青年漁師三人につき一人の割合で刺子役として使役させられたという。
『鈴木代官による制定当初は、きびしい定浦制度が公用便船の労力提供、漁業の統制、漁獲に対する税の取立てを確実にするなど、離島天草の統治上好都合であり、また主食生産確保のためにも百姓の離農を防ぎたい、などの思惑から百姓の漁業を禁じた。定浦以外の村は漁民皆無となり、これら村民は目の前の魚族の宝庫を見ながら漁業に従事出来なかったのである。ただ肥料用海草採取や、婦女子による貝掘りが許されるだけであった(中略)。しかし時代が経つにつれ『目の前に自分たちの海があるのに・・・』と村民の怒りが内攻しはじめる・・・更に急激な人口増加がやがて限られた農地生産物だけでは食えない状態をもたらしはじめる。こうしていわゆる『作間漁師』によって農関期に営まれる百姓網という形の脱法行為が現れはじめた(万治二年、一六五九年頃) 。』
この制度は、作間(百姓) 漁師の増加によって二百年のあいだに、半農に半漁をつけ加えることとなるが、定浦漁師の漁場先取り権は不変で、力のつよい村は地先漁業権をみとめさせるが、いまのようにはっきり『地先の海は地元漁民のもの、沖漁場は入会による』となるのは明治維新以後のことだとある。海をわがものと考えるのは当然とみてきた私たちは、改めて海の”所有”を考えさせられる。下島で、漁師らしい部落は大多尾、中田、宮野河内、深海とすべて何百年の特権に生きた定浦であり、この制度の名残りはいまも、かたや漁家専業部落、かたや半農半出稼ぎ集落としてまざまざとちがいをみせていた。
たとえば立部落(新利町、四十四戸、百八十人) がそうだつた。海辺に面しながら、船は船外機つきが数隻あるのみ、夕方のおかずとりに沖百メートルほどのところで針をたれる老人かつとめ人しか見当らなかった。働き手、漁のできる青壮年層はあげて出稼ぎに出ていた。斜面の畑は女仕事である。今は便船はおろかバスも通わず、交通手段はタクシーと自家用車だけになっている(出稼ぎルートは確定しており主に大工、左官という)。区長平下十一郎氏は元航空隊教官、家業の地焼酎『池の露』『天草』を作っているが、男手少ない部落の公務をひとりで背負って多忙だった。『近ごろ”革マル”が資金かせぎに映画会をやっとるちうわさがあるがあんたらかな』と初対面に切り出し、小池と一之瀬を立往生させたが、私たちの訪意がわかると、家々をまわって全員にみろと号令をかけるのであった。部落の空洞化をなげき、一旦緩急あれば、ふたたび飛行機乗りとして国のためにいつでもはせさんずるとしきりにいう。彼の出郷の夢はそこにしかないのかも知れない。
『わしはここじゃ八十票(選挙の票) しかもたんもんな。わしゃ園田直のまたいとこじゃが、八十票じゃ・・・・ せめて五百票とまとまらにや政治はでけんです。バスに来いっていったっちゃ、きやせん。ああ、ここは亡ぶっとじゃ。どもこもならん。』
この九月十五日は敬老の日でもあった。映画会の木戸銭をしわくちゃの仕送りの現金書留封筒から大切にとりだし、老婆たちは『映画は何十年ぶりじゃろか、この前は自衛隊の映画じゃったな』などとにぎわう。スクリーンにヘドロの海がうつり、『ここは死の海となった、漁をする漁船はいまはない』とナレーションが語る。ここの海もまた亡びているのだ。徳川時代から綿々とつづいた収奪と禁令のかずかず、貧苦、病苦、老廃と孤独、かつての封建的圧制にかわって、日本の近代化はここをより過疎の村に押しやっている。この悲惨の総体に身をひたしながら、敬老のめでたい日に、水俣病の悲惨に涙ぐみながらも、これがかれらの身にもふりかかるあらゆる悲惨のひとつであるかのように、忍従の姿態でスクリーンに見入っていた。
立、高根(ここで初めてテントで宿をとった)と孤絶の地を歩きながら、水俣病を犯した近代化と半農半漁を天のめぐみとして生きてきたこのひとびとを犯しつつある近代化と、二つの悲劇をこもごも考えざるを得なかった。
不知火海は変りつつある
水俣の海を見なれた眼には天草の漁業はただただ野放図な楽天性にいろどられてみえた。だが浜辺をたどって幾十という漁家集落を経るうちに、漁村の目下の変貌にいやおうなしにむき合わされる。私のばあい、ある不快感、生理的嫌悪感からたぐられた思いでもある。下島だけでなく、上島でも公民館や青年クラブなどの荒廃に感ずるところがあったが、新和町の中田(二百三十三戸、八百五十八人)でその頂点に達した。やっと中田出張所の許可を得て道路ぞいの木造の公民館の扉をあけてもらったが、なかから腐臭のようなにおいとともに生あたたかい閉じられた空気が流れ出た。ラーメンのたベのこし、酒宴の残り皿、倒された酒びん。すいがらの散乱、そして時に道場として使ったのか、児童用剣道具が汗あととかびだらけで何十組分もがばらばら死体のようにちらばっていた。埃だらけはいくらも経験したが、このようにうちすてられたものどもの場所はなかった。便所の扉は破れ、その送水停止中の水道のある台所は割れ茶碗とガラスの破片で足のふみ場もなく、段ボールをしいて歩まなければならなかった。しばらくして部落の水道屋さんが水道のパルプをあけてくれたが、ちりあくたの一つも片づけはしなかった。案内の町職員も、片づけを私達に託して帰った。もし本格的に片づけ、掃除し、ごみを焼くとしたら男手四人でゆうに一日かかるほどであった。人の集まる場としての機能はまったく破壊しつくされているのである。道ゆく人は、そのなかに私たちが泊ろうとしているのに意外な面もちを見せるのであった。ここに若衆がつどい、婦人が寄りあい、老人が憩ったであろう往時をしのぶものはまったくなかった。これを共同体の死と短絡しないまでも、この場に対する最低の母性なる感性までが失われたのかどうかである。公民館は町の中心地にあったが、まわりの家々はそれなりに大きく格式をもってあらたに建てかえられていた。
港にはペンキのにおいも新しい大馬力船が競いあっていた。新式の網の開発がめざましく、かつて一本釣でなければとれなかったフグも、いまはゴチ網漁に工夫を加え、ごっそりととれるという。高い網代だが元は一年でとれたともいう。四年前、『不知火海』のラストシーンに八幡瀬戸にむらがる水軍のような何百隻のフグの一本釣船団、その船をわが家として睦む若夫婦たちののどけさを謳った終章の光景はいまは稀という。新型漁船がフグ網をひき、一本釣とのあいだにいざこざが絶えないという。あの映画に記録したフグ一本釣の感性的世界は昔語りになったのであろうか。
何かがいま不知火海にはじまっている。小池征人は、そのような変容を巡海映画班通信のひとつとして問題提起の一文を書いた。
『漁夫への通信
はじめに
不知火海・巡海映画行脚の途中、めぐり会えた漁民の人たちとのつながりのなかから、いま頭のなかに去来しつつあることを自分に対するメモとして記したいと思います。
直接的な契機は予備調査で天草上島・下島を走破したとき(六月上旬) 見聞した不知火海沿岸における養殖漁業の急成長でした。”つくる魚の時代”の高度成長でした。他方逆に『最近はめっきり魚が少なくなってきた』という沿岸漁民のつぶやきでした。何か自分のなかにわだかまりとして残りました。
記録映画『不知火海』はそのプロローグを患者多発部落の壺谷、濡れた岩膚にまばらにカキが付着している、それを発見した老漁夫のつぶやきでした。その老漁夫の、生命再生、海の賦活力にたいする畏怖でした。そこに生命再生への証しを見出しえたのはひとつの思想的水位を示唆していました。不知火海のいのちの再生への希求、豊饒な生命としての不知火海。そのことに満足していました。
だが、不知火海で生活している人間と海とのなかで、この不知火海の豊かさを考えるとどうなるか。不知火海の豊鏡さ、とくにその生命力の無限性を、そのことを自然生態系などに求めるのでなくて、具体的にこの海と共に生きているひとびと、魚で生き・生かされている人びとの魚への選択に求めたら・・・
問題設定
不知火海における天然魚と養殖魚との相克性と補完性ーこの問題を論理的に展開できるだけの調査も事実ももちえない私は、この映画行のなかで漁民たちが与えてくれた証言をヒントとして問題解明への補助線を引いてみたいと思います。(略)
指標と証言
(1)海についての、特に不知火海を〈自分の家の庭〉とする漁民の感性の形成のされ方。この感性の継承性とその具体的な生活の仕方と人間。
証言
『もうなあ、黒の瀬戸と牛深の瀬戸(注、ともに外洋から不知火海に入る瀬戸) に入ればどこへいったっちゃあ、わが家のごたる』老人は笑顔する。
『ここに入れば台風でも舟のひつくりかえることはないなあ。』老人は十三歳のとき海に入った。『どこに沼(注、潟) があって、どこに岩があるか、ちゃんとわかつてわしらは行くとだ』とさり気なくしごく当然といった風にいう。
ー海の底の季節も風土も知りつくした漁民の感性。
(2)漁法の変遷と魚の生存構造を技術・技法の近代化と意識のそれとのなかで見つけること。
証言
『獲り方を旧式化することが、不知火海の場合近代化につながる』(芦北漁協長、竹崎正己氏)のことばに対する天然魚とりの漁民の共鳴。
『・・・ いまの漁法はもう違法ばっかりですよ。網にしても制限があるわけですよ。どのくらいの沖でなければ曳いては駄目だとか・・・。いまはもう一日中動力船で曳いている。乱獲ですよ。』
(3)生類の賑わいとしての稚魚の運命について。
証言
『この稚魚とりが一番影響するとですよ。われわれがめがねをかけなければみえない稚魚をとりよるですからなあ。欲しいのはタイの稚魚なのに。モジ網ってご存知ですか。細かい網目の・・・他の稚魚は全滅ですよ。眼には見えないけれども、チヌにしろ、ハモにしろ、おるわけですよ。あれをやるようになってからごつんと変った。』
『稚魚をとる制限をして欲しいなあ。漁網で稚魚を曳き殺すわけですよ。メバル、チヌ、クロイオ。稚魚の曳き殺しですよ。』
(4)海の墓場=汚れについて
ー養殖魚の付属生産物としての海の汚れについて。
証言
『パイプでつくった養殖のイケスの部品四本を海底に落したらしい。潜水夫が潜って探したらしいけど一本しかみつからなかったそうですよ。残留餌がたまっていて、ヘドロのように。公害ですなあ、海の。』
『養殖の餌、冷凍の魚をやるわけですよ。冷凍してあるから海で溶解すわけですたい。脂が浮くわけですよ。溶解したら海面も海底も汚れるわけですよ。魚が寄りつかんわけです。』
(5)不知火海、漁民の『時間』の目録
ー海の、魚の、いのちに対する圧倒的な永遠性に逆立する『時間』のとりかたの強迫性。
証言
『・・・あと四、五年したら、ここは(竜岳・唐網代) ほとんど全滅ですなあ、ここの漁師は。いよいよ。』
『あと十年もしたら不知火海は賽の河原ですなあ。』この海と魚のいのち、海の生態系に対する『時間』のとり方はわれわれの想像を超える。
毒物としてある不知火海の有機水銀中毒のことを、不知火海のいのちの豊饒さのなかで考えてゆきたいと思います。
その時の参照点として、
『浮き魚(上層の魚) はたべれんですなあ。底魚でなければ、どうしてかつて。水圧があって身がひきしまるわけですよ、底魚はね』という漁夫の魚に対する味覚の健全性に、自己の感性を加担したいと思います。』(七七・九・二十九)
漁民のもつその感性の根源性に加担するという小池の姿勢の決め方はまったく同感できた。だが、不知火海漁民の暮らしを強行的に変えているのは漁業の近代化、高度成長志向、かつて網漁がともなった共同体性にかわって、個人漁業、核家族漁業の急伸とそれにそった漁民の階層分化でもあろう。ひとりひとりの一本釣の老漁師の直観的危倶、海の死滅の予感をふり切って漁民自身の近代化志向によって、高馬力、寡占型漁法の競争の時代に突入していることは確かだった。
”脳性小児マヒ”様の患児が・・・
新和町の最僻地をつきぬけると、河浦町宮野河内(百五十七戸、五百四十九人) につく。急流八幡瀬戸(大瀬戸ともいう) に面し、従来からマダイ一本釣の漁法がここには生きていた。漁協参事田中一力氏の好意で、漁協事務所内での上映は人びとであふれ、子どもの部、大人の部と入替制で整理するほどだった。さらに牛深市に属する深海町に入るにつれ、一本釣に託す天草漁民たちの底ぬけのやさしさが感じられてきた。不知火海の内海から外洋・東シナ海にむけての肺活量が漁民にうかがえるからであろうか。
天草下島の浦々の漁村で、”コーヒーとスナック”の店のある町はここ深海(百三十七戸、五百六十人)だけである。定浦時代からのマダイの本場、いわゆる深海の鯛としてしられるところ、それににつかわしい安定した豊かさがあった。当地小学校長の協力により、久しぶりの体育館上映で全スタッフ張り切ってビラまきに散って間もなく、一之瀬が顔色をかえて帰ってきた。N家に兄弟二人の”脳性小児マヒ”様の患児にあったという。その顔立ちには品があり、その端麗さは何人かの胎児性患児の面かげをすぐ思い出させたー。両親は奇しくもこの部落から水俣に移住し、そこで一家全員水俣病(父母ともに急性劇症死) となった浜元二徳、フミヨ姉弟のいとこにあたり、フミヨさんは水俣でみなれている胎児性患児とみくらべて、早くから水俣病じゃないかと疑い申請をしきりにすすめていたというの(私たちが『水俣ー患者さんとその世界』をとった数カ月、私たちは浜元家に寄宿していた。)
以下、一之瀬の聞き取りによる。
一家六人、父四十五歳、母四十三歳、長女次女ともに健康で牛深高校生、その長男K君(昭和三十九年八月生れ、十三歳) 。次男M 君(昭和四十六年一月生れ、六歳) 。この二人が患児でその症状は双生児のように似ている。
両君とも出産時は普通分娩で、兄はとくにまるまると太っており、通常ハイハイするころに腰がかなわないのに気づいたという。首がすわらず口がかなわず、二人とも斜視があったり弟のほうは兄よりやや軽く、以前はテレビを見、加藤茶の”チヨットダケヨ”やアグネス・チャンの真似もできたが、症状悪化し、兄同様、寝たままになり、兄には足の関節の硬直が起きている。両親は兄K君の満一歳ごろより、水俣の湯ノ児リハビリテーションに入院させた。そこで『腰の脱臼』と診断され、手術したが失敗し、五カ月間、他の水俣病患児といっしょの部屋に入院した。兄の失敗にこりて、弟の手術は避け、今日に至っているという。湯ノ児に通院中、同じ室の胎児性水俣病患児の親たちから『水俣病に間違いなか、なんとか手をうて』とすすめられたが、病院の医師からはいっさい水俣病の話は出なかった。
立ち入って一之瀬の聞いた事実は、昭和二十八、九年ごろ、家猫が『てんかん』をおこし口から泡をふき痙攣をおこし、毛も極端によごれ、ときに囲炉裏につっこみ、とめようとした父の手首に噛みつくなど尋常でない狂い方で死んだ。(映画のなかの自然発症猫とそっくりという。)
昭和四十三年七十歳で死亡した祖父は晩年はタバコも喫えず、下半身が麻痺してうしろからはずみをつけて押しやらないと歩行できなくなり、痙攣も悪化して苦しみながらの死であったという。(近くの別の老漁師はふるえ、痙攣のほか、歩行が異常になり、立ちどまろうとしても足がひとりでにあばれ歩いて壁やへいにぶちあたるまでとどまらず、苦しんで死んだとも聞く。)
以下一之瀬のレポートより。
『少年たちの病歴は地元の主治医、水俣市立病院、湯ノ児リハビリの医師、そして牛深保健所など多くの医療従事者に会いつづけてきた歴史でもある。そのひとびとの誰ひとりとして、一回も”水俣病”の疑いをもたなかった。湯ノ児病院(水俣病のために作られたもの) の医師は『住所が住所だから・ ・・』という理由で疑いを持たなかった。(父親の話) ・・・父親や区長の証言によれば『深海が漁民闘争に参加すれば、深海の海が汚染されていることになり、熊本(市場) での魚価が下る。だからチッソの漁業補償はぜったい受けない。』これが深海漁協の方針だったという。なお区長は『深海には水俣病患者はいない。あの子どもたちについては部落としては適当な施設に入れることをすすめている。どうか水俣病の疑いをもったり詮索しないで欲しい』・・・天草各漁協のうち対チッソ攻撃に参加したのは、昭和三十四年(第一次) には下島・新和町まで、四十八年(第二次) は隣町宮野河内漁協までであり、深海町以南にすむ人は能動的か受動的かを問わず、これらすべてのケースにおいて水俣病事件に触れないできた・・・ 。』
深海漁民の防禦は、不知火海漁民闘争に不参加の意思表示をしたときにはじまったといえよう。この彼ら自身による線引きにも理由がある。タイ、フグなど、底魚の豊饒な漁場を目の前にして、わざわざ不知火海中央部の潟に出漁することはなかったからである。昭和三十四年で打ち切られた汚染実態調査がさらに東シナ海寄りの牛深、久玉漁協にまでおよんでいた”蓋然性”への固執が今日までつづいていたらどんな結果が出たであろうか
私たちは医師でも科学者でもない。まして通説としては下島全島に水俣病の発生は皆無とされており、疫学的には即座に否定されうるケー スである。また胎児性の発生期の枠にはまらないとして否定の対象にされるであろう。では猫や老人たちの異常はまったく無視されてよいであろうか。
遠隔地での発症・私の”仮説”
同じ遠隔地の発症例でひとつのメルクマールになる事例がある。鹿児島県阿久根市の一本釣、はえなわ漁師、故御手洗常吉氏のばあいである。主漁場が黒の瀬戸(長島・阿久根間) の外側で、ときに餌とりに不知火海、水俣沿岸にきたこともあったが、ほとんど外洋に面する阿久根大島、小島北方水域を漁場としてその一生を送り、そこの魚をたべつづけて発症した。水俣病にもっとも通暁しているはずのー同時になかなか水俣病と認めないと患者のあいだでとかくの風評のあるー水俣市立病院のM医師は、申請にあたり『病名不詳』と記入した。鹿児島県水俣病審査会はこの遠隔地発症のケー スに苦慮し、水俣にも行ったことがあると、”水俣周辺”汚染にひきつけて解釈しようとしたが生前には結論にいたらず、四十九年死亡後、脳解剖所見で典型的な水俣病病変が確認され(鹿児島大剖検・熊本大再確認) ”死者認定”とされた。川本輝夫氏によれば『外洋の一部汚染か、でなければ大量の汚染魚の回遊か、いずれにしても意想外の汚染の拡がりの生きた証拠というほかはない』という不気味な事例であった。
これが黒の瀬戸のケースであった。ここが不知火海の潮流(干満時の総流量) の五パーセントといわれるのに比べ、この二少年のすむ深海の面する八幡瀬戸はその十倍、総流量の五〇パーセントの流れる、いわば汐の通い路にあたる。阿久根の漁師が不知火海の出口外側の漁場であったのにひきかえ、深海の父親の漁場は不知火海内側の大水路そのものだった。
東大工学部の西村肇氏の研究によれば、従来、環境庁などが水中に溶解しない水銀が魚介類中に蓄積する可能性はきわめて低いから安全としてヘドロ処理をすすめてきたのに対し、西村氏は『海中水銀の大部分は微粒子五ミリミクロン以下に吸着して海水に出、それをプランクトンが取り込み、さらに魚の体内に濃縮するのではないかとの考え方を示した。つまり水俣湾のプランクトンはこれまで考えられていたように海水中にとけた水銀をとり込んでいるのではなく、水銀を含んだヘドロの一部が波などで舞い上り、その微粒子に吸着している水銀を吸収している』とのべ、現在の水俣湾の海水の水銀濃度は東京湾の十倍以上に達していることを明らかにした。(昭和五十二年九月十四日『毎日新聞』)
たまたま巡海映画の最中に知りえた新説であった。ならば昭和七年以来、チツソ工場から四百数十トン流失した水銀が浮遊性の微粒子に吸着され、四十五年間、同じ干満の汐の道にのり、ゆきもどりするなかで、ある特定の場所によどみ、堆積をくりかえし、海底に特定の条と溜場を生むような、いわば”海のなかの川”ともいうべき汚染経路が造成されていると疑えないか。しかも阿久根の漁師にせよ深海の漁師にせよ、水深五十~六十メートルの海溝部、その瀬での一本釣、はえなわによる底魚漁を専らにしている。漁師のみ知る瀬の穴場が、じつは水銀微粒子の異常に堆積した場所と一致してはいなかったか。これは私の”仮説”である。しかしこのような視点での総合的被害実態調査がなされていない今日、この”仮説”を問題に設定しなおすことは、はたして無意味なことだろうか、一映画人のこじつけとして切りきれるだろうか。
この”仮説”を念頭におくとき、さらに昭和四十八年九月二日付『朝日新聞』が報じた熊本大理学部附属臨海実験所長、弘田礼一郎氏の『有明海、八代海(注、不知火海の学名) におけるプランクトン中の水銀量』なる論文につよくひかれる。『不知火海では水俣湾内外のプランクトンの総水銀はおどろくほど高く、湾を中心に東西六キロの沿岸ぞいで厚生省の基準値を越えた』とあるのはいわば当然としても、水俣より十三キロへだたった獅子島と御所浦の中間の元の尻瀬戸において、植物性プランクトンのばあい、総水銀値が水俣湾内(最汚染地点) の一、〇〇八PPMより高い一、〇九三PPMも検出され、植物性プランクトンで見るかぎり不知火海域のサンプリング十ヵ地点のうち最高の水銀量を示しているのはなぜだろうか。のちに弘田氏に直接たしかめたところによると、『通常プランクトンの生命のサイクルは長くて六カ月とされ、その周辺の海底になんらかの形で水銀微粒子のあったことだけは間違いない』という。
水俣から遠く離れるにしたがって水銀濃度は拡散し、うすまるという一次方程式パターンでは、もはや理解できないことは確かである。汚染の同心円的発想から生きた海の動態にそって汚染の地図をみなおすときではないのか。
ちなみに、熊本大医学部の水銀分析の権威藤木素士氏は筑波大に栄転され、熊本を去られた。西村東大助教授の研究と弘田熊大助教授のそれぞれの研究がどう結びついて、不知火海の暗部に照明をあてることになるか私には分らないが、不知火海をよく知る研究者が熊本を去り、あるいは引退され、ついには社会的風化の日が訪れないとはいえない。
だが海と人間に対し、水銀汚染がどこまで拡がっているかを探索することぬきに水俣病問題が語れるであろうか。いま徹底した現地主義による総合調査をはばむものはなんであろうか。
天草下島から長島へ
巡海映画の旅は二カ月になろうとしていた。天草の南端の漁都・牛深で天草下島に別れをつげ、フェリーで長島にむかつた。ここは薩摩領、かつては天草一党の地であったが徳川時代より島津藩となり、国境をきびしく閉していたところ、長島の浦々には禁令をやぶる島抜けのために見張り所がおかれていたという。封建時代の行政区分に加えて、より疎遠な構図が水俣と長島にはあった。水俣と地つづきの出水市は早くから水俣病患者が発見され、患者同士の連繋はとられていたが、離島・長島はまったくといっていいほど、運動の視野のなかに入れられてはこなかった。
長島は東シナ海側が長島町、不知火海側は東町と二分され、東町は諸浦島、伊唐島と獅子島の三島を抱えている。昭和四十九年四月、五年がかりで待望の黒の瀬戸大橋ができ、諸浦島とのあいだの乳の瀬戸にも橋がかけられ、長島、諸浦島は離島性から脱していた。のちにふれるように、この交通路開設により東町は一挙に運輸面の不便を解決し養殖王国の条件をととのえたのである。
すでに予備調査の段階から東町漁協の宇都時義組合長が私たちのゆく手に立ちはだかるものとしてあり、東町当局の動向さえもいつにこの漁協の意志にかかっていると知らされていた。
私は鹿児島市にむかつた。そこにひとりの面識もなかった。ただ巡海映画中、泊りこみで取材にきてくれた旧知の熊本日日新聞の論説委員、末広善行氏に名前を告げられた南日本新聞阿久根支局の福山満雄氏、だけが頼りだった。私はまっさきに氏をたずね、東町の概況をきき、その足で県庁をたずねることにした。
九月二十四日、鹿児島は全市あげて西郷隆盛死去百年祭、”大西郷祭”で湧きたち、土曜目だったことも重なって、鹿児島市の中心は大都会の祝日に華やいでいた。海辺に二カ月すごした眼には刺激的な都であり、若者の氾濫する人工的にセクシユアルな空気のどまんなかに抛り出された気がした。アナクロな旧七高(現鹿児島大学) の寮歌が流れるかたわら、ピンクキャバレーがボリューム一杯にディスクを流している。私は土曜の午前中に県庁を訪問したが、知事、教育委員会の責任者ともに祝典で不在、まともに執務しているものはなく、いわばもっとも悪いタイミングに訪問したことになった。
県中枢部への上映通告と各新聞社まわりのほか、私には昭和三十七年、鹿児島衛生試験所のおこなった『水俣病に関する毛髪中の水銀調査について』(主任坂田旭、同所報所載) の原本をさがし、その個人名リストを知りたい希望があった。これは熊本衛生試験所の松島氏のデータに見あうものであり、性別、年齢、職業、地域の明記されたものである。公表資料にはただ数値だけが出されていたが、それによると出水郡米ノ津に六二五PPM(水銀データ記録上世界第二位)、外洋の阿久根に三三八PPMという図抜けて高汚染のあったことが分る。私たちのめざす東町では当時の人口一万二千人に対し毛髪被検者わずか七十五人。しかし当時の発症値五〇PPM以上二十五人(三一二パーセント)。いまの要注意値二〇PPM以上をとれば五十七人(八〇パーセント)という汚染の幅をしめしていた。人口比に敷桁すればかりに漁村部七千人とみても、二千六百~二千七百人の発症値所有者がいることになる。
すでに最汚染地点と目されていた不知火海に浮ぶ孤島桂島(出水市) では民医連の手で自主検診され、人口百三人中、認定二十五人、そのうえ申請四十二人、全島の中年以上全員が島ぐるみ汚染されていることが分り、二年ほど前から救済のルー トが開かれた。獅子島(千五百人) でも原田正純氏らにより湯ノ口、民医連により幣串とそれぞれに自主検診の鍬入れがおこなわれ、認定十人、申請は五十七人におよんでいるが、人口、七千人の東町長島本島部では認定四人、申請七人にすぎない。東町では鹿児島県当局の一斉検診がおこなわれ、鹿大井形昭弘教授らによってもれなく洗い出したとされた。だがその結果は自主検診による他二島の患者発掘にくらべ、前記のように格段に少ない患者しかあらわれなかった。
毛髪水銀データ原本の所在をさがすのに、三日を要した。なんのことはない、最初にいった県の環境局に厳重に保管され、非公開とされていた。その間、公害衛生試験所(旧県衛試) にあるはずと環境局職員にいわれ、当時の技官、退職された研究主任の坂田旭氏とたずねあるいた結果、ふたたびふり出しの環境局にもどったのである。いかにも小官僚らしい担当者はいう。
『毛髪水銀の検査結果は本人には知らせました。注意書として『日本人の平均水銀値は三~四PPMにかんがみ貴殿のは〇〇PPM、これは高い値なので魚の多食はひかえて下さい』と、まあこういう但し書きをして送ったはずです。発表しないのはいま患者団体の裁判証拠として出せといわれていますが、それすら出さないでいます。調査目的がよく分りませんから、いまあなたに閲覧をゆるすことはできません。町役場にですか。いえプライバシー保護のため該当町役場にも個人名は教えておりません。』(鹿児島県環境局公害保健課末留幸哉係長)
水俣病に関するデータの県中央での秘匿は熊本県も鹿児島県も軌を一にしていた。天草本渡市でも市民のうちの患者個人名は県から、”教えちゃならん”といわれ、ただ四名とのみ知らされていた。こうした県の意思表示は『末端行政は水俣病から手を引いてよい』というお墨付でもあった。
県の教育委員会でははじめ、趣旨はいいことだとして東町教育委員会に紹介の名刺をかいてくれたが、私が町当局にたどりつくまでに取り消しのニュアンスの電話を入れていた。ただでさえ神経をとがらせている町に、それは拒否の姿勢をつよめさせる結果となった。私の鹿児島市工作は失敗した。あとは素手で町当局と漁協にむかう以外なかった。
のちに私たちは東町の”水俣病騒動”として最悪の時期に東町入りしたことを知らされた。その一カ月ほど前、獅子島幣串地区で民医連系の集団検診がおこなわれ、九月初め、一挙に約三十名の申請が出された。この町始まって以来の大量申請に対し、九月十三日宇都時義東町漁業組合長は『軽々たる水俣病申請は自粛されたい』旨の発言をし、町当局もそれに同調した。その翌々日これに抗議し、獅子島の棄却者で第二次訴訟原告団の岩崎岩雄氏らは、『もし申請をとりさげたら、その代りに町と漁協でわしらの一生を補償し切るか』と迫り、いつにない緊張関係を生んでいた。そのさなかに私たちはこの町についたのである。
町当局と漁協との交渉については、その直後記したレポートがよりなまなましく思える。
緊張のなかの町当局、漁協との交渉
”不知火海・巡海峡画班 第三信”より
『・ ・・ いよいよ『海辺の映画会』が東町に入ることは『南日本新聞』(九月二十日) に報道されていました。
ー以下メモ風にー
〇九月二十六日、午後四時、町長室にゆく。町長ほか教育長、助役、総務課長他数名同席、ものものしい挨拶となった。拒否反応は露骨に周囲にあった。新町長飯尾裕幸氏は元陸軍参謀本部、陸大銀時計組。敗戦後、三菱重工業に籍をおいて、東町の名家出身だがその生涯のほとんどを”中央”ですごした人である。
『ご趣旨そのものはもちろんわるいことでなく、やるなというべきことでもありません。しかし漁協は絶対に反対します。町としては漁協の意向は尊重せざるを得ない。このところ左も右もの医師たちが団体できて、この島(獅子島のことか) のものはみんな水俣病だなどといって、そのため漁民は神経を昂ぶらせています。おそらく漁協はあんた方を玄関から入れんでしょう。門前払いしかねないですよ。私のほうから紹介というより、まずあんた方で当ってほしい。映画会を成功させるなら漁民の協力がいる。まず漁協に当ることが先決です。』
ーなるほどと漁協にはりつきました。
〇以来、九月二十六日夕方、二十七日夕方の二回、のべ四時間にわたる話しあいをつづけました。この漁協組合長、宇都時義氏(四十三歳) については予備調査の段階で、小池、一之瀬が的確な判断を下し、彼には誠心誠意あたること、具体的にはまず映画を観てもらって判断してもらう方法をとることと考えていました。
なお彼は衆望をあつめていることとともに水俣病患者になった漁業組合正組合員を認定と同時に自動的に”準組合員”に降等させることで強く批判されていました(目下裁判係争中)。
〈漁協ー非協力の過程〉
ー長い話しあいのすえ『漁協は不本意だが上映については静観する。観るなという指図は出さない』という結果になりました。門前払いで叩き出されるというー冗談とも本気ともいえぬ町当局の判断よりわずかに前進の線でした。
この宇都氏の地元漁業(養殖漁業) の育成にかけた十年の実績と四十歳台で八百人の組合員を統率する力量とは別に、素顔のままの話しあいが大部分を占め、その誠実さは交渉のあとまで残りました。これは水俣病の二十年をその裏目で生きた青年の個人史でもありました。今はその要約のみー。
ー宇都氏の発言メモー
①長島の東町漁協は十年前まで、二、三人の事務員しかいなかった( 私もそのようなひとりだった)。 今はなんとか漁民会館をたてた(町役場より数段立派である)。まえは漁民は細ぼそとした漁業と、弱い発言しかなかった。薄井(養勉漁業の中心地) は今では立派な家が建っているが、むかしは見すぼらしい家ばかりで、子どもは小学校にすらいけなかった。若いものは外に出て漁業を継ぐのに希望はなかった。私自身、三船の貧乏な漁家に生まれて、貧しさゆえの苦しみを味わった。
②漁民は冬は漁ができず出稼ぎにいく。これが離村につながる。だから年中できる養殖をすすめ、後継者だけは残せよとこの十年間いいつづけた。いまは一家(一経営体) で年間水揚げ一億円以上はざらにある。二、三男までUターンするようになった。いままでの”漁船漁業”と養殖漁業の二本立でいく。もう海区一杯、養殖をのばす余地は少ない。
③ここ一漁協で、加盟組合員八百人、船一千隻、これは単位漁協としては日本で一位のはずだ。出し入れで年間四十二億円あつかっている。
④鹿児島の錦江湾はいま水銀さわぎ(海底火山からの自然流出説がつよい) で、いまあちらのタイは売れないので、こちらから送って供給を支えている。
⑤ーだが最近、金まわりの良くなった漁民は機会さえあれば金になる話にとびつくようになった。このあいだも二十人の医師団がきて”申請しろ”とすすめてまわっている。金ができると人間は変るものだ。
⑥この九月十三日、漁民の集会で『ここまできた東町、(東)に、またあの”第三水俣病”のときのような魚価の暴落をひきおこすつもりか』と水俣病問題ではじめて自重を求めた。私の発言はつよい統制力をもっている。たった十日前に私はそういったばかりだ。
⑦会ったときから、あんたがたも一心にひとつのことをやっておられる。で私もひとりで決められずまわりにも『どうだろう』と訊いた。反撥はやはりつよかった。組合幹部は、『宇都の口から部落の漁民総代によろしくというのはあんまり態度を変えすぎることだ』という。一方、本心、私も不本意だ。あんた方のこの真意に応えられない
⑧私はかつて商談で人と温泉(芦北郡湯浦) にいった。あんまり昼間からにぎわうので女中さんに聞いた。女中さんは顔をしかめて水俣病の患者だという。彼らは温泉券をもって夕ダで昼間からドンチャン騒ぎをしていた。あれだけの騒ぎ(”水俣病”による魚価の暴落のことか)を出して、患者だというのにどうしてあんなに騒げるか。
⑨私は正組合員が水俣病に認定されたら準会員になってもらうことにした。金ももろたろうし、体も一人前じゃなかろうしー。そのため訴えられておる。しかしこの東町の海面使用許可水域(養殖用) は限られている。そこにいまUターンした次男、三男たちが、次つぎに順番をまっている。水俣病患者は準会員になってもろて、もどってきた彼らに新しいチャンスを与えたい。また当人が水俣病患者で準組合員になっても、奥さんや後継ぎには正会員でいられるようにしている。これでどこが間違っとるですか。
⑩調べて下さい。いま東町(長島本島部) で出ている患者に漁民は居ませんよ。皆百姓している人たちです。漁民に水俣病はおりません。
⑪やはり東町役場の、これは仕事だ。町に話をもどしてほしいー。
以上、るる、氏の見解を書いたのは、二十歳のときから漁協につとめ、水俣病事件は、今よりさらに遠い対岸の、限られた地区の話として聞いた記憶のまま、いちずに養殖ひとすじに巨費を投じてここまできてしまった青年が、たとえ水俣病がどうであろうと、ここは漁業専門、『水俣病など知ってたまるか』といっているようにも聞こえたからです。
固定した海面の上の魚づくりにとって、ヘドロ汚染はひとたまりもない。かといって一本釣に帰るわけにもいかないのです。情報未到の地で、水銀汚染の海と背中合せでここまで構築したものにとって、映画『水俣病ーその20』は、どんな生理的反応をひき出すでしょうか。
その点東町十七地点約三週間の旅は日々緊張の連続であり、彼我ともに死闘を味わうことになるでしょう。・・・
”内輪山”でも東町長島本島部はまだ私たちを入れるゆとりのある大きい町の島です。あと漁民集落だけで形成されている獅子島、桂島、御所浦とつづき、その離島に船で入ります。その困難さはいま予測を許しません。以上』( 一九七七・九・二十九、東町にて)
宇都組合長の精いっぱいの好意ー水俣病と養殖漁業と
私たちははなから新たな緊張関係に立たされた。宿泊を案じる漁協組合のすすめもあって、町当局は一日千円という使用料で児童館の日本間を東町滞在中つかえるようにしてくれ、町としては、『映画会をやりたいと映画のひとが申し込みにいく。あとは各自のご判断で』と各区長に連絡することだけを約束した。かつて町の文化・教養活動の中心であったろうこの会館は、最近できた鉄筋三階建の東町総合開発センターにその役割をゆずり、自衛隊の住民交流合宿などに使われていたところで、お料理教室用に八セットもの台所のある豪華版であり、ここを基地にすることで日々の宿泊に心わずらうことなく、外にむけての工作にその力を注ぐことができ、この宿舎提供には深く感謝した。
東町北部一帯は不知火海の潮流が外洋につながる大瀬戸に面し、大小多くの島があり、複雑な入江を作っているが、潮の入れかえがあり、同時に嵐を避けうる自然条件から、宇都組合長の提唱したハマチ、タイの養殖に適し、見事にその実現をたすけた。海岸線の入りくみは延にしたら直線距離的な長さの五、六倍には優に達するであろう。これ以上養殖用イケスを設置するのにふさわしい海面は東町南部はもとより天草にも、水俣附近にも見あたらない。ことに外洋性プランクトンも多いといわれ、(東)養殖漁業は倍々ゲームのように発展し、昭和四十七年の年間水揚げの二億円が翌年約四億、さらに年を追うごとに七億、十一億と急伸、五十二年には二十二億円になろうとしていた。これに対する流通手段として黒の瀬戸大橋の開通は革命的であったといえる。北部は一躍、一大養殖基地となり、薄井に給餌用の冷凍冷蔵庫が作られ、焼津、房総、遠くは北海道から十一トントラックがイワシ、サバ魚箱をはこび、薄井の魚市場から日々四、五台の十一トン冷蔵トラックが博多、東京にむけて走っていた。この急伸の出ばなをくじきかねない大事件は昭和四十八年五月、第三有明水俣病で、ふたたび不知火海水銀汚染が新聞をにぎわせて生じた不知火海の魚の取引き停止の事態であった。これが宇都組合長にとって初めての”水俣体験”ともなった。
『出荷停止というのは不意打ちのように来るんですよね。熊本大学の武内さんの話(第二次水俣研究班長武内忠男氏の天草、有明海側の十名に水俣病の疑いありとするもの) が新聞(昭和四十八・五・二十二、各紙) にでて間もなくでしたが、『あんたのとこの品物の出荷は待って下さい』って電話があったんです。中央や大阪の卸売市場から。それで出荷がぱたあっと止ってしまったんです。これはまたこれで、そういう法規があるんです。(法規集をとり出して) この規則でまず『お互いの市場は、理由なくしては入荷を拒んではならない』とあって、出荷した品物(魚) はひきとることが建まえなんです。ところが一方でですね、たしかにこういう規則もある、『市場開設の責任者は、衛生上有害な物品が市場に搬入されることがないようにしなければならない』、つぎに『・・ ・有害な物品(魚) は市場において販売し、あるいは販売の目的をもってこれを受理してはならない。』まだあります、『・・ ・その撤去を指示することが出来る・・・』これでぱたあっと止められてしまったんです。しかし、あれはマスコミ公害だったんです。新聞のきめつけだったんです。ところが市場は不安があれば、何はさておき、まず止めますよ、有害な物品ちゅうことでですね。』
私は寡聞にしてこのような一方的な形で突如全面的取引き停止があったことをまったく知らなかった。漁民にとって上告も控訴もないのである。同じころ、水俣、芦北では熊本、長崎の市場が不知火海漁民の弱味につけこみ、三キロものエイが百五十円、トロ箱一杯二~三千円のタチウオを二百五十円に買い叩いたことを漁民から聞いていた。だが遠い大都市の市場ではまず取引きを絶ったのだ。
宇都組合長は養殖業者にいっさいモグリ出荷を禁じ、この解決を一任してほしいとして懸命にその打解策を探したようだ。
『尻のもってき場所が分らんわけです。まずハマチやタイを県公害試験所にもっていきましてね、その水銀値を計ってもらい、その証明をもって県知事にもあたったんです。本当に養殖もんは基準値以下だったんですから。むしろ甑島(鹿児島県東シナ海上) の魚のほうが水銀値が高かったぐらいですよ。それでも駄目。そうなれば国にたのむより仕方がないということで三木さん(当時環境庁長官) にも会いましたよ。これもppp (汚染者負担) の原則で政府が賠償するわけにはいかんという。結局、チツソにかけあうよりないわけです。出ししぶるチッソに、『私に一千隻の船を動かせ( 注、実力行使) 』というのですかとまでいって解決にもちこんだのですよ。このときの辛さがお分りですか。小便はまっ赤。わたしゃよく自分で体がもったと思います。一日に二、三時間しか眠らない日が二カ月つづいたんですよ。』
養殖魚は出荷されなかった。天然魚ではとった以上買いたたかれでも出荷せざるを得ない。氏のモグリ出荷の禁令は、氏をして背水の陣をひかせたし、チッソを圧倒したであろう。最高八十万円、最低十六万円の補償金を獲得、八月には全面的解禁のチャンスをつかんだごおそらく養殖魚の水銀値がレベル以下であったことは事実だろう。餌は太平洋、北洋ものを与えているからだ。
『あんたがた、水俣の水銀は過去のもの、とりのぞけるものだ。そんなにあんた方が不知火海の海の汚染にはまっとるなら、原子力発電の映画をとって下さいよ。あれは今後の海を駄目にするんです。こっちのほうが重大ですよ』と真顔でいう。根っから漁民の幸せをねがう海のひとであった。その彼が”水俣病騒動”をのりきり、年間水揚げ二十二億、漁民の養殖への投資に目一ぱいの融資をし切っている今、獅子島を中心に続出する水俣病が、今後どのように(東)漁業にかかわるか、そのことだけで頭がいっぱいであろう。私たちに対し、映画の上映を差し止めないことが精一杯の彼の処断であること、その重い対応が分ったのであった。
そのころ東町は晩稲の黄ばみ、柿の色づく秋になっていた。