書籍「わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録」 第七章 不知火海水俣病元年 -浮上する潜在患者と”新たな病像”-
”行政上の他国者扱い”のなかで
町当局と漁協との交渉に四日費し、私たちは九月三十日、東町の北端、諸浦島葛輪(六十六戸、三百三十三人) から上映をはじめた。南日本新聞の福山記者の記事も手伝って、映画会の情報はゆく先々に伝わっており、観客動員は同島白瀬(ニ六戸、九十人) で五三パーセントに達した。
水俣病の情報は熊本県エリアよりはるかに届いていなかった。NHK ・ローカル、民放の鹿児島エリアはおそらく水俣病情報に関しては熊本の何分の一かであったろう。それだけに観客の反応ははじめて知る事実ばかりのようであった。患者発生図で東町管内・獅子島に赤い点が数個出ると、場内に『いやっ』という短い悲鳴が上り、ざわつく。毒素が侵入したような痛い声である。胎児性水俣病、全身病のメカニズムを例の活動弁士よろしく『それが悪性遺伝でなく有機水銀による食中毒であり、水俣病の婦人患者さえ妊娠中の注意によって、丸々とした子を出産した』ことや『ヘドロ処理に先立って不知火海の汚染の実態をしらべ、それにあなた方漁民が参加していただきたい』ことをのべはする。だが映写のおわったあと、上気した主婦や少女たちの表情をみると、不知火海はかならず甦るはず・・・とのべたものの、このひとたちの前途の不安に胸が痛むのだ。漁協の硬さとことなり、地元の人びとはやさしく私たちに応援してくれた。少し弱ったハマチを四本も差し入れてくれる漁師の若夫婦もいた。このところ、連鎖球菌によってハマチの斃死がつづき、ときに浜で焼いていた。過密養殖のためか、十年近い定置イケス附近のよごれのせいか、その病因はつかめず、破竹のいきおいの養殖にも、前途に不安が芽ばえていた。
ところで鹿児島県の一斉検診は昭和四十六年十月より出水市、阿久根市(不知火海寄り) そしてここ東町の二町四万四千人に実施され、鹿児島大井形教授の用いたコンピューターによる数理統計学による診断方式により、明快かつスピーディな検診がおこなわれたとされている。だが東町はいまだに公害指定地区とはされていない。出水市がそれに該当するだけで東町などはその指定外にある。そのため、この町に住む患者は、一カ月でも水俣に寄留、在住したばあいは、”汚染地域の水俣で汚染されたと考えうる”として、水俣市役所に申請し熊本県の認定審査会に上申するという奇態な行政指導がなされていた。そしてそのようにいったん熊本県の扱いにきまれば、水俣病関係の連絡・通知はすべて熊本直結となり、その患者のことは東町当局ではいっさい関知しないという珍現象が生まれていた
東町の住民でありながら、こうした行政上の他国者扱いにより孤立無援のなかに追われて、水俣病巡海映画班の到着を心ひそかに待ちわびる申請者もいた。諸浦島白瀬の上映のとき、早ばやと会場に足をひきずってきた岩下安之さん(五十七歳) もそのひとりである。構音障害のひどさは一こと二こと話をかわしただけでそれと分る。周囲を気にしながら話す悩みは『自分の生きているうちに審査されるかどうか』につきた。『いつになったら審査の順番が来るじゃろかつて町役場に聞いても、直接、熊本県公害課に問い合わせてくれんな、ですもんねえ。』
この岩下さんは戦前、旧日窒会社の運輸係につとめ、復員してからは漁師のほうが収入がよかったので舟にのることにした人である。『終戦後は魚がおもしろいほど獲れて、どもこも良かったもんなあ』という。昭和四十六、七年の一斉検診のときはまだ体の異常に気づかず、大阪に出稼ぎにでていて、そこで発症した。昭和五十年ごろから、手足のしびれ、脱力感、握力の低下(三十キログラム)、構音障害、視力低下とあいつぎ、その二、三カ月前から足の痙攣が起りはじめたという。いま病状は進行中のようだ。遅発性と慢性、そして老化とともに顕在化する加齢性水俣病症状(ともに武内忠男氏の病像論) がいっしょになって進行を早めているといった感じがある。
だがなぜ、僻地の島の白瀬からたったひとり申請する機会があったのだろうか。まずこの地の人にとって稀有の例である。聞けば次のようであった。
『たまたまですたい、水俣の市立病院に入院して診てもらったら、”脊椎変形症”じゃっちいわれて、おかしな病気もあるものと思っとたですたい。大阪にいたとき奈良の病院で首をしらべられたとき、『とくに首には異常がなか』ということでしたもんな。ところが同じ病院に水俣病の患者のひとがな、どげん風か語ってみれとい、つんで、これこれとくわしゅう話したですたい。そうしたら『あんたひょっとしたら水俣病かも知れん。水俣市立病院ちゅうところは水俣病にはなかなかせらさんところじゃっで、駅前の診療所(民医連系の水俣診療所) で見てもらいなっせ』といわるるもんで、こっそり市民病院に入院のまま抜け出していってみました。三日間、あっちこっち、いろんな検査せらして、そして最後に一番えらか先生(藤野糺氏であろう) から水俣病じやといわれてなあ・・・。』まさに偶然のめぐり合せで救済のきっかけを水俣でつかんだのである。
彼は『水俣病に申請したちゅうことは、まだ区長にしか一言うとらん』とかくしごとをしていることを告げた。その彼は映画会のあいだじゅう、映画のスクリーンと部落の人の反応を交互に見ていた。水俣病病像を部落のひとが埋解してくれることが彼にとっての勇気づけになるのであろう。この部落でも第一次・第二次検診までうけながら、第三次検診に至って”下りた”青年や中年がいた。水俣病と決定されることから逃げたのだ。その事情はオープンに半ば自慢めいて語られる屈折のなかで、彼は申請にうしろめたさを拭い切れないでいた。私たちはその後あるいた離島でこうした”かくれキリシタン”ならぬ”かくれ申請者”につぎつぎに会うことになったのである。
国の水俣病行政のネガの総重量
東町北部の養殖地帯の活況にひきかえ、東町の中腹部、南部から黒の瀬戸にかけ、入江や小島のすくない、ずんべらぼうの海岸線になるにつれ、天草の零細漁業に似た漁村を見ることになった。水俣は望遠できる。その中間の潟にイワシ網漁や、一本づり、はえなわ、イカ籠漁、エビがし網、タコつぼ漁などが営まれている。水俣との中間に浮ぶ孤島桂島の全島民汚染という調査結果(論文『ある島における住民の有機水銀汚染の影響に関する臨床疫学的研究』藤野糺、熊本医学会雑誌) すなわち同島住民中成人全五十七名を検診の結果、五十一名が水俣病、あと六名がその疑いというまさに一〇〇パーセント汚染の事実から推測するとき、この中、南部海岸線の漁家集落に認定患者ゼロ(認定者四名はその農村部、または農業) というのはどう納得すべきであろうか。
入江の構造から引き汐が浮遊物をおびただしく運ぶため、年二、三回の浜焼きを部落総出でするといわれる脇崎(五十九戸、二百十八人) 、の近傍の宮ノ浦、塩迫あたりはかつて猫が全滅したという。東町長島本島部での猫の狂死の記録は残されていたろうか。『一斉検診はここでもあったでしょう』とたずねるととたんに答えがかえってくる、『漁業者で、あのアンケートちゅうんか、あれにまともに記入したものはおらんじゃろもん。どげん書いといたらよかもんかちゅうところで、健康とあればそれに〇、異常なし異常なしって。皆で書き方を教え合って出したもんなあ。水俣病なんておるわけがなか、ここにや。』(脇崎、森山さん談) これではまるで部落ぐるみの水俣病かくしの話ではないか。だがこの脇崎でのビラ撒きのおり、まだ残暑というのに赤々と点した炬燵にどてらをきてちぢこまっている老人(知覚障害であろうか) がいたり、一斉検診を受けて水俣病とされた山のもん(百姓)は”一軒ばなれ”(村八分) にされたという話を見聞きする。宇都組合長の『水俣病になっているのは百姓している人ばかりだ』という”事実”のうらが、市来崎(四十四戸、百三十九人) 加世堂(五十九戸、三百三十二人) といった断崖にへばりついた海村に入るにしたがって見えてくる。
私たちがつい口にした”東町の南北問題”、つまり北の近代化漁業と南の零細漁業との貧富の差があまりにも鮮明であった。
南の半農半漁の人びとは、『ここはなんといっても漁協あっての漁業じゃもんで、漁協の顔ば立てんばならんちゅうところで、検診があっても、あまり出たものはおらんじゃった。百姓だけしとるもんとちがって、漁師の衆はな』(市来崎) というつまりここでの一斉検診について専業漁民は事実上ボイコットし、農民、あるいは非漁協組合員が検診をうけ、その洗い出しの結果、水俣病とされた。だから水俣病は『東町では百姓ばかり』という結果になったのではないのか。
それぞれの集落のもつ、こうしたリアリティをぬきにしたところでの県の一斉検診が、いかに机上でその洗い出しの完了を宣言しようと、汚染実態を正確に反映したものといえるであろうか。宇都漁協組合長が、漁民に反水俣病の気風を暗々裡に示しつづけてきたなかで『百姓にしか水俣病は出ていない』とくり返しいうとき、因果関係がまったくとりちがえられたまま、ひとつの通説になって東町に固定し、漁民のなかの潜在患者の浮上をさまたげつづけているのであろう。(東)漁業を愛し、漁民の生活を思いつづける宇都氏にして、水俣病の実態直視に至れないところに、水俣病事件二十年、ここを情報未到の地に閉しつづけた国の水俣病行政の、ネガの総重量を悟らざるを得ない。
申請患者への”村はずし”
水俣から眺める獅子島は晴れた日には樹々と山道までくっきり見える。快速船カルー ダ号で三十分の距離である。幣串の地名は景行天皇行幸説と合わせると、貴人の訪れを待ちうけた古代の浜の人びとの崇敬の念がこもっているように思われる。ここはひとつの国のおもむきさえあった。片側(百一戸、三百六十四人) は小、中学分校の開かれた”文教の中心地”御所浦部落(百三十一戸、三百五十人)ーこれは熊本県、天草の御所浦町と同名異地である。景行天皇伝説の在所をともに主張してか、まぎらわしいこととなっているーは島としては”米どころ”、建築の出稼ぎと大島紬の手内職で生計をたてている。湯ノ口(二十三戸、百二十三人) は水俣との交渉のほうが多い孤島のなかの”孤絶”部落、そして幣串(百二十一戸、五百九十六人) は”純漁村”、そしてその深い入江により、東町北部養殖王国の一翼でもあった。
九州電力の通電が昭和四十一年、簡易水道の開通が昭和五十年、島を一巡する凸凹道ができたのもほぼ同じころである。水俣と指呼の間にありながら文明の波はきわめてゆっくりとおしよせた。
『水俣病ち話はちっとも知りませんじゃった。むかし水俣(市場) に魚をもっていって、工場のところに寒か時すわってなさる衆がおらして、水俣病のなんのって言いよらした。そう・・・漁民闘争のときいったか(参加したか) ってよく聞かれるばってん・・・うちの部落はこまかで(小さいから)、声がかからんじゃったじゃなかですか。』(湯ノ口部落、湯元くさのさん)
猫が狂えばフグにあたったと思い、豚が倒れふるゆれば豚コレラの注射をしていたという。
ここに自主検診の鍬が入れられたのは昭和四十七年夏であった。ここでは水俣病と補償金さわぎが一度にきて混乱、誹誘中傷がうずまいた。たまたま、珍しくお医者さんが来てくれらしたので健康診断のつもりでうけて、水俣病じゃと言われて申請してもらってからも、水俣病の裁判の判決が出るまではなんのあつれきもなかったという。昭和四十八年三月、水俣病民事訴訟の判決が下り、慰謝料最低千六百万が支払われることがテレビで全戸に伝わってから、申請者を見る周囲の眼は一変した。その後を追うように第三有明水俣病パニックで、魚価の暴落、市場の引取り停止がこの部落の生活を危機に追いやった。その渦中で、認定され、苦難のただなかでひとりぬけがけのように巨額の金を得るものとして、申請患者は集中的な非難の的に立たされた。この村八分ぶりは、よく自殺をとどまったと思うほどすさまじいものであった。
『・・・ 『自分だけ食べていったら、よそん人が食べさせんごつなっているとに、さし引きどれだけ違うとか・・・』って、ほんにもういまにもそん人は『撲ちゃれ』とか『壊しちゃれ』とか。私がちょいちょい家をでて川に洗いにいけば、いまにも私をあれしろというようなことをいいよってですね。”村はずし” (村八分) になりました。新葺き(新築祝い) があっても教えてくれん、親戚のもんが死んでも教えてはくれず・・・。嫁もいろいろ言われたでしょ、何か月も物をいわんじゃった。いっしょにごはん食べよっても、飯もついでくれんじゃった。夕方、家をでてあこうの樹のかげに涼みにいこかねえと思えば、アジがし(網) にいく人がそこにいて、どうじやこうじゃと言いつくる。もう私は籠の鳥といっしょ。一年ぐらいは家を出んじゃった。』(湯元くさのさん)
こうした『村はずし』も二人目、三人目と患者が出るにつれ、そしてその後、村びとにも検診がすすみ、集落の大多数が汚染されていることが分るにつれ、湯ノ口は挙村汚染として自覚せざるを得なくなり、水俣病の歴史を知らされるにつれて、あるまとまりさえ形づくるようになってきた。
私たちが御所浦小学校湯ノ口分校の教室で上映したとき、多くの顔見知りの人たちにあった。それは東京での川本裁判や環境庁交渉に上京してきた人たちで、なつかしさに、始まる前からもちこみ焼酎を私たちにさし出すのである。
『この映画を天草全島、東町などですでに七千人もの人びとに見てもらいました』という私の報告をきき、何より喜んでくれたのはその人たちである。そこには”かくれ申請者””かくれ水俣病”の暗さはみられなかった。川本さん流の、直接闘争の場で自分の体験にもとづく水俣病事件の学習という実践教育がなかったら、この人たちの今日のおおらかさはあり得なかったろう。裁判闘争中、訴訟派患者のひとりひとりがチツソと正対して闘うなかでの、あのキラキラした人間的光輝の像とつながっていくのである。この湯ノ口にはここ数年、原田正純氏はじめ堀田静穂、花田俊雄氏ら医療活動家が足しげくかよい、つちかった”告発する会”以来の人間関係のつくり方が流れており、もっとも戦闘的なグループとしての『川本さんにわしやかたるばい』とする同士の選択があった。だがこうした人脈は獅子島全島のうち湯ノ口部落だけである。
民医連の活動
ここで日本共産党系といわれる民医連の水俣での活動に言及しておきたい。かつて水俣病裁判の弁護団とその事務局がいわば党員とシンパで占められていたことは一部に知られている。一方、大衆闘争を引き、つけた『水俣病を告発する会』(代表本田啓吉) 『水俣病市民会議』(代表日吉フミ子) に集うメンバーは無党派のいわゆる自立したひとりひとりが多く、なかに党派に属する人も、この運動のなかでは、党派エゴイズムを抑制してきた。このすぐれた運動的体質は石牟礼道子、石牟礼浩、松本勉、赤崎覚といった水俣の運動者、熊本の本田啓吉、法律学者富樫貞夫、ジャーナリスト三原浩良、作家渡辺京二、NHK熊本の三人衆、宮沢信雄・松岡洋之助・半田隆氏らの運動者のユニークな自律性で構築されてきたものである。
水俣病患者を核とし『義によって助太刀いたす』ものの各自の人間解放闘争を外延に形成しての闘いだった。党派の縦軸・横軸の組織論とは意識的に無縁でありつづけてきた。反面教師として、かつての原水爆禁止運動が党派の論理によって、共産党系(原水協) 、社会党系(原水禁) 、民社系(核禁会議) と四分五裂した歴史的教訓を超克すべきものとしてすすめられてきた。
患者グループの分裂についてはさきにのべた。だが患者のグループは一任派、中間派を別にすれば、あとは実質的に『告発』系と『共産党』系に別たれた。前者は旧訴訟派、旧自主交渉グループ、のち患者同盟をへて、現在の水俣病患者連盟、水俣病申請者協議会になり、後者は『水俣病被害者の会』として各部落単位に組織され、統合されていった。
ほかの大衆闘争がしばしば路線の形で分裂するのに比べ、水俣病闘争は、いずれにせよその母体が被害者、患者であることから、その水俣診療所と民医連系の医師たちも、こと、水俣病の医学的側面では武内忠男氏ら熊大・水俣病第三次研究班とも、『告発』系ともみられる原田正純氏らとも連帯を保ってきた。カナダ水俣病の現地調査に水俣診療所の藤野氏らの同行を求めた原田氏の配慮と信頼関係はそのよい証左である。だが診療活動が申請者を生み、患者が生まれると事態は微妙にちがってくるようだ。そこに別の次元としての組織の力学が介入してくる医師間の理性的な協力関係は患者運動のレベルでは依然党派的に分裂しているのが現実なのだ。
水俣に”在野精神”にみちた開業医はかつて数えるほどしかいなかった。そのなかで裁判判決直前(昭和四十七年) に開設された水俣診療所(現在五階建三十床をもつ水俣協立病院に改称) の存在とその潜在患者発掘にはたした業績は大きい。原田正純氏とその下に自主検診十年のつみかさねをもつ自立した医師グループのパイオニア的活動のあとを追って、経験ある民医連の底力をみせた水俣診療所、この二グループによって、潜在患者が掘りおこされていることにいまは注目していただきたい。
獅子島幣串はこの民医連系の自主検診団によって鍬入れされ、幣串『被害者の会』が作られていた。ここでの上映に、三十人におよぶ申請者はほとんど出てこなかった。この島の中心活動家の患者は、映画会に来るよう個別に電話もかけていた。彼は上映会場の公民館の入口に立ち参加者のなかから仲間の申請者を探していたが、ひとりかふたりしか見あたらなかった。ここでの観客は百五十人(二五パーセント) と平均以下であった。彼の失望と落胆に、私たちはなすすべもなかった。やはり養殖王国の一角としての重圧があってのことだと理解した。
上映後、彼は言った、『一番勉強しとかんばならん患者が一番来んのがはがいかあ。わしは今日初めて映画ばみてほんに涙が流れきた。こんな映画を作っておいてくれて、どんなに助かるか知れん。これはみんな本当のことじゃもんなあ。じゃが、こういう水俣の歴史ちゅうか猫の狂うたとを、自分の体の水俣病と、ちゃんと話をつなげては知らんもんな。審査会の医師にや、患者がなあんも知らんことをいいことに、ひっかけるごたる検査するもんなあ。あたまからニセ患者ちゅうふうに疑ごうて。じゃから、申請ば出しとるもんに、こん映画はよか映画らしかで見れというて聞かせたですばい。わしらんとこの”被害者の会”はほんに集りの悪うしてなあ。これが問題たい。ほんにこれが癌ですばい。』
これは湯ノ口部落の申請者とはあまりに対照的であった。だがこの申請者の自分がくしはただに『被害者の会』だけのことでなく、この三、四年の間、孤立した天草・離島の申請者たちに共通したものなのである。むしろ湯ノ口ゃ、のちにのべる御所浦町大浦の白倉幸男氏や、嵐口の島田旅館夫妻のような立っている姿の人びとのほうが例外なのである。これらの人びとは、”補償金”などに現実感のまったくなかったころから、自分の水俣病の痛苦をテコに、旗を鮮明にして周囲の圧力を押し返して、水俣病事件の本質をつかみ、水俣の患者運動とのつながりを一回として断つことがなかった。
離島の患者のこころ
幣串の岩崎岩雄氏は審査会でいったん棄却され、目下水俣病第三次訴訟の原告として、争っているひとである。暇さえあれば体をよこたえ、貧しい家のなかでただひとつ異様にみえる電気アンマ椅子の世話になっている。その握力はまさに赤子のように力がない。間けつ的な激痛と痙攣が年々重くなっている。”棄却者のくせに”というもっともみじめなレッテルをそそぐことしか彼にのこされたものはないように見える。加えて『アカ』『共産党』といわれているが、その逆境ゆえに共産党に引かれ、いまはその批難には怖じないでいた。だが組織としての『被害者の会』となると『告発』系のものに対する上部組織の人別帳が働くようだ。
『出水地区で水俣病のことで集会を開く話が出たですばい。そんとき、わしは、いま映画会がやられていて、いい映画ちゅう話をきいたからって、この映画をその集会(水俣市での大規模集会) でやらんかと提案ばしたですたい。映画でも見すれば人の入りもちいとは良くなりやせんかと思うたもんで・ ・・。ところがあのフィルムはわしらのほうには貸してくれんじやろうちたふうなことをいうたもんがおったがどげんですか。わしゃ本人にたしかめてみるっちゅうてきた』と真顔できくので、いつでも喜んでおかしすると答えた。私は映画の人間として『告発』の運動そのものとは一定の独自性をもって映画をつくり、見せてきた。それは誰にでも見てもらえる映画にしたかったからである。いままでも、運動に党派を優先させる事例をいやというほど見ている私には衝撃でもなんでもなかった。だが、この離島で、水俣病の運動ひとすじに生きる岩崎氏には不可解な”事情”であったにちがいない。離島の被害者はその島に最初に現われた味方と組んだはずである。水俣病の自主検診グループがたまたま独自に別れて検診した経過から、同じひとつの島に二つの患者組織ができることもあろう。患者の組織、支援者、協力者について選択の余地の少ない離島の被害者の立場を理解するなら、水俣病患者への縦割り組織化の芽はつむべきであろうし、相互に開かれた交流を求めるべきであろう。
離島の患者ひとりひとりの怨念はどのようなものであろうか。
幣串での昼間の上映のときであった。この地区の古い申請者で入舟荘の主人、割地老人は小暗い漁網倉庫のなかで淡々と家猫の死から自分の病状を語っていたが、私の『ここにも病気のことを知らないまま亡くなった人がおられるのでは』という問いに、驚くばかりの昂ぶった声で『おっとです。まあ可哀そうなもんでした。チッソの会社に喰ってかかっとは当然のこと。殺したっちゃなんにもなりはせんけど、そういう患者の身になってみりゃ、そうして死なせた人、身内の人の生命というものの・ ・・この映画をみれば身の毛のよだつごたる。申請がふえるの、認定がふえるのと、なんのかのいいよるけど、会社が潰れっとが当然です』と言い切られた。それは久方ぶりに聞く怨念の声で、その木霊が漁網倉庫いっぱいにひびくかのようだつた。
東町から桂島へ
十月も下旬となると熟した甘柿がいっぱいにたれ下り、路ゆく頬にふれるほどになる。稲の刈りとりも終り、涼しさがやってきた。
ふたたび町都、鷹の巣にもどった。町当局に申し入れていた職場上映会について、総務課を通じ、バレーボール大会との時間調整もした上での返事がきた。十月二十二日午後零時半とのこと、勇んで暗幕をはり映写機をすえつけて待ったが、ついに出席者はひとりも無いという、全巡海映画会中空前絶後の”動員ゼロ”を記録した。翌る日曜、開発センター岩富八千子氏の協力でその大ホー ルで『さようなら東町・映画大会』を開いた。午前児童の部『マンガ大会』、午後『水俣ー患者さんとその世界』特別上映をもって、緊張のやむことのなかった一カ月間の東町全漁家集落上映をおえた。
水俣のセンター相思社でいったん旅装を解き、船と背による機材、装備の運搬態勢にかえ、めぐりにのこる島めぐりにむけて休む間はなかった。
孤島で一見岩礁ともいえる桂島(三十戸、百二人) はすでに二十五名認定され、四十歳以上全員申請しているという(成人一〇〇パーセント汚染ー藤野糺医師論文) 全滅部落である。かねて同行をのぞんでいた石牟礼道子さんと写真家塩田氏に機材を分担してもらってもなお余る荷物であった。最初連絡したとき、区長はにべもなく『漁で忙がしいし、上映の場所もなかけん、ここ(桂島の上映) は飛ばしてくれんな』といわれた。上陸してから分ったのだが、その二、三カ月前、全島民申請をあやしんだチッソが医師をよそおって白衣をきた係員と看護婦姿の女子社員を上陸させ、一戸一戸偵察の上、真偽のほどをたしかめさせたという。それに懲りて外部者の訪問には神経をとがらせていたのだ。船溜りには百馬力の新造漁船が並んでいた。やはり漁家、補償金でまず買ったのが船という。漁場への先陣あらそいに高馬力競争はここにも拡がっていた。家々でイカ籠づくりがみられ、いかにも漁しかない島の生活である。
やがて人びとは映画会にあつまり、五〇パーセントの動員をみた。この分校の武本校長、松本教師夫妻らは石牟札さんの本の愛読者であり、たっての誘いでそのプレハブ宿舎に一タのもてなしとねぐらを得た。
映画会にあつまった島びとを前に、石牟礼さんは、『わたしの祖父が舟でろを失い、流れついたのがここ桂島だったそうで、ねんごろなもてなしをうけて送っていただきましてありがとうございました』と五十年前のお札をいった。皆ふかぶかと会釈を返した。その同じ汐の流れによってここは水銀に丸ごと汚染されたのであろう。水俣はここからみれば指呼の間にある都である。
御所浦・世界最高の蓄積者を生んだ島
十月二十八日、巡海映画九十日目、最終予定地の御所浦町にフェリーでむかつた。
御所浦町、本籍人口一万三千人、しかし移住と出稼ぎにより実人口六千二百人、そのほとんどが根っからの漁師である。五十一年の熊本県水産試験所の資料による天草の不知火海沿岸十六漁協のうち、この御所浦町の三漁協だけで総漁獲量の三分の一に近い水揚げを占めたという、文字通り漁業専業の島である。そして集落ごとに分業を意図したように漁法がちがっていた。北の嵐口は流し網と一本釣、タチウオつりの在来漁法、本郷は少し進んだ小型まきあげ綱、タコつぼ。横浦島横浦はカツオの生き餌としてのイワシ仲買いが主な仕事、そして全体にタイの養殖が盛んになってはきたが、天然魚を相手に生きている点、東町養殖漁業と対照的である。とくに潟部にすむタチウオの漁獲は天草・離島の総漁獲量の九五パーセントと独占的である。このタチウオに水銀は高く蓄積されていたことから、天草の人がよく『天草には水俣病はなかで。あん御所浦はあそこは別、みんな水俣方面にいきよるで』と指差してその汚染をみとめていた島であった。
昭和三十六、七年の毛髪水銀調査には比較的協力的だったといわれるが、その対象地域は、大浦、元浦、嵐口等御所浦本島の一部、千三百人(当時の人口比で一五パーセント) にすぎない。だがそのなかで九二〇PPMと毛髪水銀記録としては、世界最高の蓄積者(牧島・椛ノ木、故松崎ナスさん) を生んだことはすでにのべた。それだけに水俣病への反撥は複雑骨折をともなっていた。『選挙のときは島に近づくな』と冗談のいわれるほど、自民党が福島譲治派と園田直派とに二分してはげしく争われる島だが、いずれにせよ水俣病に関心をもつ派閥はない。現町長・荒木喜代多氏(元教育者) のバックといわれる漁業者の大ボス堤田実一元県議・現町会議長は水俣病を問題にする住民を獅子身中の虫として嫌っていた。
『水俣病を口にするものは共産党、自主検診の先生がたもそれなら、あんた方水俣病の映画をもって去るくともみんな共産党、じつにすっきりしとるんです。彼らの頭んなかは。それがこの御所浦町の水俣病の現状です』とかつて『不知火海』の終章に登場された元町議の歌人白倉幸男氏はいう。『なにせ、県と町でやった検診ではここは患者ゼロですもんな、ひとりもおらんことになっとるもんな。』事実、県の公式的”一斉検診”で洗い出された患者はいない。これとは別に熊大の原田正純氏ら若手医師グループによって大浦、元浦地区、熊大の水俣病第二次研究班の純医学調査と民医連の自主検診がそれぞれに嵐口と外平地区でおこなわれ、すでに百三十人の申請者のほか十七名の認定患者が出されていた。さらに私たちの訪問中、十一月二日に民医連の集団検診がおこなわれ、九十九人がすすんで受診するなど、潜在患者は急ピッチで浮上していた。これらは町当局や町立診療所とはまったく無縁な”在野”の医療活動によるものであることは言うまでもない。
最汚染地区の行政と医療機関
最汚染地御所浦町を最後にまわしたのは、私たちがここをもっとも重視したし、またもっとも強い拒否を予想したからであった。八月一日から天草をまわり、この島ににじり寄るまでに、熊本日日新聞、NHK熊本、ラジオ熊本放送など、あらゆるローカルが私たちの巡海映画を報じ、いつの日にか、ここに最終的に訪れることはほぼ全島に知られていた。私はとくに町長あてに、それまで三カ月間、天草・東町六十数カ所の集落を一カ所の欠落もなく上映させていただいたことを告げ、上映協力を乞う手紙を出していた。もはや不退転の決心をかため、なんとしても町当局の気持を動かし、一宿の恩義を得たかった。
十月二十九日、御所浦町本郷の町役場をたずねた。いつも私たちには渋面で、首をイヤイヤするように横にふるくせのある森総務課長に導かれ、荒木町長に面会することができた。手紙に改めて目をはしらせていたが、町長はすでに決断をしていたようだ。意外に早く協力の線が出された。ただし各部落ごとに直接了解をとること。会場がないばあいに限り学校使用を教育委員会であっせんするという約束であった。彼はもと校長職であった。『水俣病は気の毒なことです。しかしこの島にもっとたくさんの寝たきり老人がおる。のきをとなりあわせにですな。その一方が水俣ちゅうことで大金をもらい、この人たちは貧乏のどん底におる。・・・そこが救われんとです。水俣病の病人でも歩けるものがおる。こっちは寝たまま、その違和感はどうしようもない』と独りごとめいて言う。その寝たきりの人びとをここでは”老人病”としてしか見ないできた長い経過はこのごろになって破綻しつつあることを知っているようだつた。
会場さがしが難儀だった。
『この本郷にや、水俣病の映画を見にいくものはおらんで、そんな大きい会場は必要なか。あんたらの宿にかした、あの神社の剣道場でやんなせ』と森課長はどこまでもイヤイヤをする。私たちに宿としてかしてくれた神社の剣道場は十二畳の板の間でそこには三十人のスペースしかない。この御所浦町最大の部落本郷(二百八十二戸、千二百人)、嵐口(四百十七戸、千六百人) とも公民館がないのである。そこで、それぞれにあるお寺、東岸寺と西音寺を借りた。いまも説教の日、老人男女の嬉々としてあつまる信心の寺であった。
御所浦ではこの町役場所在地が初日でなければならなかった。またいままでの知人の世話に甘えることはいっさい避けた。正攻法で町のもっとも水俣病を嫌う部落からスタートすることにした。もし、それが成功するならば、私たちはあとその高い水位にそって各部落に落ちてゆくことができるのだ。私たちはビラを手に本郷の迷路のような小道に分れた。『ここには水俣病はおらん』と町は言うが、耳の遠い人、眼の不自由な老人、寝たきりの病人が少なくなかった。そのひとり森権七氏(六十二歳) は、七、八年前から水俣病とうわさされている老人である。難聴の耳で映画会のあることは聞きとどけたが、足はすでにもものつけ根まで麻痺し、手を横にふって気弱に笑うだけ。『アンケートもこの人は出さんじゃった』と嫁さんがいう。白ろうのように血の気のない漁師の果てであった。これが町長のいう『寝た切り老人』なのだろうか。
離島の医療機関はずばぬけて格式高い。町のただ一軒の開業医、花里医院は町長派として知られ、申請患者に給付される”水俣手帳”での診療さえ露骨に毛ぎらいするという。『あんた、使っちゃいかんとは言いませんよ、口ではな。じゃがそれを使えばですよ、ひとことも口を利かさんもんね。『せんせ、どうでしょうか』と聞いても『こうこうだからどうせえこうせえ』と言つてもらえんとはこんなさびしいことはなかもんな。ほいでわしの手帳もたんすの引き出しに入れっぱなしですよ。』(大浦、白倉氏)
また『妙な話じゃが、水俣手帳でただで診てもらっても”棄却”されたら全額あとでまとめて取らるるっていうもんね(事実は手帳にそのような記述はない。だが、一見あいまいにされている。ただ認定されたばあい、さかのぼってチッソがそれを払う項目は明記してある) 。結局、借金がかさむとなれば、国民健保のほうがよかということで使わんとじゃなかですか。』(長浦、中村弘氏)
私はあとで同医師に直接たずねたが、患者のほうで水俣手帳を人に見せたがらんのだという。烏かさぎか分らない。ただこの医師の手でその後もひとりの申請該当者も出していなかった。訪ねる私に『水俣病には興味も関心ももちません』ときっぱり引導を渡すのだった。
この病院を忌避するとすれば島人にはあと町立診療所しかない。ここの井上医師も、映画『不知火海』のなかでの証言の通り『ひとりの患者も出しませんでした』先生である。この診療所への不信はつよい。ある町の職員は『最近、月給を今の六十万円からもっと上げてくれろっち。もし自分が町長なら『もっと患者の信用をつけてもらわにや』っていってやりますよ。重い病気にかかったら、あすこにいくもにやおらんです。三角の池田病院とか、よそさに這っていく。あすこは”風邪”専門。自分の知ったものがあすこの診療所につとめちよるけど、『あれえ。これはもしかしたら水俣病じゃなかかねえ』と思っても、その眼で診るっちゅうことは一切せんもんねえ。あんまりじゃといつも腹掻いとる(怒っている)。』(横浦)
この最汚染地の二つの医療施設の実情は水俣病患者にとってあまりにむごたらしい。だが行き場のない病人は早朝から日にそれぞれ百数十人以上、まさに溺れるものは藁でもつかむように日参しているのだ。
映画会の成否について、私たちには子どもたちの出足の早さでその日の映画会の入りが占えるカンがついていた。夕方、地から湧き出たように子どもが群れた。予感通り、女性、老人、漁師に、商店の人たちがつめかけ、東岸寺の本場は足の踏み場もない盛況となった。三百三十名、実質四〇パーセント近い動員である。町当局の予想やわれわれのそれを大幅に超えるものであった。ここでは長篇映画『不知火海』のうち御所浦篇ともいうべき四十五分をピックアップして併映した。これは大受けにうけた。画面の片すみに登場する通行人も皆この島の誰彼であり、名差しできるのである。話の中味と関係なく大騒ぎ、大笑いの渦となった。篇中、役場助役氏の『ここの水俣病は大方神経痛じゃろと思っているしというコメントや、井上医師が『かくべつ水俣病の見学はしとりません、手におえなくて・ ・・私はひとりも(申請者を) 出しとりません』とのべるくだりは皮肉と失笑で”批評”されていた。人いきれと熱さのなかで終ると、よくここでやってくれたといわんばかり、痛快痛快といった響きの拍手を送る人もいた。私に尻を押され挨拶につき出された石牟礼道子さんは、詫びるように『わたくしの町、水俣の不始末で、こんなにも美しい御所浦の海をよごし、このような不幸なことがおきてしまいまして、それをまた映画で観るというのは、それは辛うございましたでしょう』と頭をさげる。それにつられて老婆たちもいっせいに頭を下げるのであった。
翌朝”首都”本郷の空気は変っていた『ほんに良か映画じゃったなあ』とあねさんかぶりの手拭をとって挨拶する女房どのや、いつも波止場で止り木の鳩のようにたむろしている婆さまたちが『つぎはどこをまわんなさると』と私たちのあとをついてでもきそうな眼つきで笑いかけるのである。
おそらくここでの成功のうわさはその日のうちに全島を走ったであろう。私たちは緒戦で、この難儀な島の正門を突破した。
猫も全滅豚も全滅、年寄りも全滅ー外平部落
唐木崎、大浦、外平と四〇 パーセント台の動員がつづいた。この二百~三百人の集落には映画を待つ人がいた。外からの情報にうえていたし、部落のなかの思い当ることを言い出したくてうずうずしている女房どのがいた。
外平(四十二戸、二百十五人) は便船も通わぬ離れ部落だが、まともに水俣とむき合っている。小さな船だまりから眺めれば、水俣の町は毒針のようにつきささっている工場の煙突ですぐそこと知れる。
ビラまきで絶壁の中腹にある家々をたずねると、老母が縁に坐っている。最近ようやく申請者が出はじめ、うち一名に認定の知らせがあったばかりで、永野さんの若い嫁さんは口が軽くなっていた。
『知らんじゃったもんね。おかしか死に方が流行るがねえって。元家(実家) の爺さんな昭和四十年ごろじゃったあ、よだれだらだらくって死んじゃったよ。ここにやそんな人が、あすけにもここにも。あんたこの部落に大たい年寄りをみかけんでしょうもん。ここは年寄りのおらんとこよ、めずらしかでしょ。年寄りがつぎつぎに死なして、おんなしころに十二軒葬式だしたもんな。昭和四十一、二年かなあ。(町立) 診療所じゃ”脳の病気”っちしか言われんし。このばあさまは熊大から三ベんもよび出しがあったとに、いかれんとよ。恥ずかしかちゅうて。あたしも神経痛がいとうして。ここでどこも痛かところのなかちゅうもんはおらんもんね。みんなどこか頭の痛むの、手足のひきつるのちゅうてですね。』干柿むきの手許もあやうく、しゃべる口もとももどかしそうである。たしかに老人はごく少なかった。足もとにじゃれつく犬どもも一匹は生まれつき肢が一本なく、もう一匹は背骨がくの字に折れまがりあと肢がかなわず、腰ぬけのまま横歩きしてすり寄ってくる。生まれつきという。私はボツシユかブリユーゲルの描く異端の世界を思い出していた。
猫も全滅、豚も全滅、そして年寄も全滅。そしていまここでは水俣病の深化、激化は日常的に進行しているといった光景だった。何度となく海にふりむき水俣との近さを見なおす。水俣から舟で小一時間の距離にありながら、この御所浦島に最初に検診の鍬が入るまでに十五年、そしてこの孤立した外平にいたるまでに六年の歳月を要したのである。その空白の期間に、人びとは水銀汚染をあやしみもせず悶死した。『それこそなんも知らんかったもんね。水俣(沖)さいきよりました。奇病は終ったち聞きよりましたもんね。近うも近う、アイスクリン(クリーム) かいにも舟つける。石なげれば(排水口に) あたるごつ近うまでいって漁ばしよりました。』(認定された山崎富雄氏の妻とし子さん)
ことし春、再訪したとき、そのとし子さんも、ひきつけがひどく病み衰え、水俣の岡川病院に入院してすでに四カ月と聞いた。
”かくれ申請者”のジレンマ
嵐口の漁師衆といえば、天草の漁師からみればワルのひびきがある。嵐口は漁上手のいわば海の猛者たちの部落である。ここでの上映もこの種のあつまりとしては部落はじまって以来の大集会(五百人)となり、山あいの小学校の講堂に収容しきれず、マンガが終ったところで学齢以前の幼児は帰して会場を整理しなければならなかった。知っている顔があちこちにみられる。六〇〇PPMの毛髪水銀データをもっ藤野レイさん(六十一歳) は病む身に私たちへの差し入れのミカンの四キロ袋を抱いて会場の片すみにかくれるようにすわった。
『わたしは写っとらんでしょ。私はでんじゃろ』としなを作って念を押す。むかしはすこぶる美人だった色香がのこっている。この人は昭和四十八年、島での認定第一号になった。毛髪水銀データはもとより臨床的にもあまりにもはっきりしていたからだ。TVの取材に応じたばかりに全部落に知れわたり、ほんとうはライ病じゃ、死ねといわれんばかりにいびられ、口つけた茶碗はわざと拭かれ、坐った座布団は日光消毒されたという。折もおり、猫っかわいがりしてくれた老夫に先立たれてからというものは、首をすぼめるようにして山腹にすまいをうつし、ひっそりと暮らしていた。その彼女にとってこの大盛会はうたた今昔の感にたえぬものであったに違いない。
だが冷静に人の話をきくと、この部落には二百人にのぼる申請者がいるが、その割に映画会に顔をみせていないという。ここも”かくれ申請者”となっているのだ。申請者はまずおのれで立ち上って何かせんでは駄目だと、島の水俣病の”先駆者”白倉さんは申請者を批判する。
『申請者がかくれるちゅうのは自分で自分の足をひっぱるだけでなく、本当に苦しむほかの患者の足もひっぱるちゅうことになるですよなあ。何かこそこそ悪いことしたみたいで・・・それで金だけはもらいたいーとなるとですよ、”金の盲者のニセ患者”ちゅうふうに言われることにもなるですたいなあ。みんな、もうこれ以上病気に苦しみたくない、病気そのものはなおらんにしても、せめて最善の手だてはつくしたいちゅう気持で申請したはずでしょうもん。それがこそこそかくれるちゅうことは一体どげんしたことですか。』
患者同士に疑いあいのきざしがうまれている。申請をかくしつづけることで、より批難をまねく。こうした屈折が重苦しく出ているようだ。
私には”かくれ申請者”の深い心のひだは分らない。ただ言えるのは、この島の公式的には患者ゼロの一斉検診ののちに、自主検診グループによって洗い出された人たちにとっては、もともとかげを背負って申請したようなしこりがあろう。自主検診行動は事実上、一斉検診への批判であり、『すでに洗い出しの完了』を宣言したこの町での、その後の患者の続出は、結果的には体制側(町)の水俣病始末への一大警鐘を鳴らしつづけている点で、むらに対する尖鋭な抵抗の行動におのずとつながってしまうことになる。だが申請者にとってむらから八分にされてよかろうはずはなく、かといって水俣病とわかれば救済のルールに乗ることを切に求めるーこのジレンマは水俣病の社会的病理的現象である所以を絵に描いたような構図である。
熊本や水俣から旅人のように訪れた自主検診グループは、個人的人脈をたよって、汚染の実情をきき、その部落に入り、戸別訪問し、ついに部落ぐるみの患者群を発見した。医学グループは町当局の反水俣病の姿勢をよく知り、患者ゼロの背景を熟知するゆえに、おもてから町の行政のルートをたどって自主検診するといったあきらかな徒労は避けてきた。僻地にあって水俣病事件史を切れ切れにしか知りえなかったひとびとは自分の健康障害を確定し、救済の方法を知らせてくれた医師たちに感謝し、申請する途を選んだ。だが医師団や自主検診グループの去ったあとは、それぞれ”かくれ申請者”になって、町当局やボスの追及からのがれようとする。水俣での先進的な患者の闘争は暴力分子、過激派患者の闘争とまげてつたえられ、加えてニセ患者発言に代表される攻撃に至っては、耐えるほかに方法はない。それぞれの地域での申請者の団結、行動組織の形成の気運は、その芽のうちにむしりとられ、ただ黙して、ひたすら認定の日をまつーこれが今日のかくれ申請者の実情であろう。
この”かくれ申請者”群のありようが、現在救いをまつ潜在患者群の浮上に重い錘となっている。『だから私は言っとるんです。だれがじっとしていて認定さるるか。だれが耳をかたむけるかけお前たちも魚とりなら分るじゃろ、魚をとるには舟をつくり、竿をかい、テグスをかい、鉛をかい、針をつけ、それに餌をつけて、自分で魚をさがし、根くらべで魚をとるとじゃなかか。相手はチツソぞ、県ぞ、金ば出さんように、出さんように必死になっとるとに、おまえらは畳の上にじっと坐ったまま魚をとろうとすっとか。認定さるるまではたたかいぞ、こう言うとっとです。』白倉氏の説得で彼のすむ大浦ではすこしずつ風通しがよくなってきたものの、病身で半盲目の彼の指導力にも限界がある。全島に対する影響力はいまだしなのだ。
医師の自主検診の努力は島を変える力をもった。だが医事のみが先行することには限界がある。あとを追う患者の運動なしには救われないのである。社会的病理と医学的病理の分ちがたく絡みあった水俣病にとって、まず水俣病の発掘に社会的合意をとりつけ、水俣病の情報をつたえ、教育し、水俣病の症状をかくすことなくつたえ、過去の社会的対応、政治的対応を百八十度かえる大仕事を並行しない限り、ひとり医学だけがその力を発揮できるものではない。こうした全構造的変革なしには患者の救済などもともと成立しない話なのである。
嵐口の島田旅館夫妻や、前述の白倉氏、また獅子島幣串の岩崎氏らの担い支える力量にも限度がある。もし、ばらばらの”かくれ申請者”が、保留になり、棄却になったとき、誰がいまの水俣での川本さんのような役割を担えるだろうか。
離島での水俣病の情報はおもにTVのニュースを通じてである。その川本さんの不作為判決の全面勝訴や、東京高裁の川本裁判における『公訴棄却』判決などに、心中喝采をおくり『川本さんには頭が下ります。決して足をむけては寝らん』(長浦区長、松田八百年氏) という。こうした島の辺境にも、腹のなかでは、矩火をかかげている川本輝夫氏らの闘いが、希望の灯と映じている。声にならぬ声が孤立無援に見える川本氏らの闘いをみつめ、同感の気持を根づかせているのだ。
”記録なきところ被害なし”
十一月、島々に祭礼ののぼり旗が立ちはじめる。島の守護神は、島をひとつの国にみせる。それぞれににぎわいを競うようだ。横浦島を訪れたとき、そこは祭礼の前夜だった。
御所浦は最汚染地として毛髪水銀データで立証されているだけに、ここは全島(全町) 一斉検診はしたと思いこんでいた私たちは、『わしの不満はなんでこの横浦じゃ一斉検診してくれんじゃったかちゅうことだ。むこう(御所浦本島) しかやらんじゃった』という横浦の竹下区長の話に唖然としたものだ。再三記す九二〇PPMの牧島もしていなかった。あわてて、私は毛髪水銀データを分析し、この行政の意図を解いてみた。なるほど、昭和三十年代後半の毛髪水銀検査データのうち部落名のある分六百四十四例のうち、主島御所浦がその九八パーセントを占め、牧島はわずか九例(このなかに最高値の松崎ナスさんの椛ノ木部落がある)、そして横浦はゼロである。かつて十五年前の御所浦町での毛髪水銀データ採取は、なにかの都合で、主島御所浦島でおこなわれたにすぎない(しかも当時の全島住民の一五パーセント分だけ) 。そして、昭和四十六年からおこなわれたといわれる一斉検診はこの水銀デー タをなぞって、主島と牧島の一部でおこなわれ、ついに横浦島はデータがなかったのをさいわいに町内の”非汚染地”として除外されたのであろう。”記録なきところ被害なし”の典型的な例である。横浦島の与一ガ浦(百八十五戸、六百七十九人) の映画会に足をひきずる老人の観客が来た。みずから水俣病と案じ苦しんでいた元杭木船の船主福浦安男氏(六十六歳) であった。水俣港がよいで排水口のある百間港で魚を釣ってたべた経緯は、天草二間戸の堀江充松船長とまったく同じである。
重症身体障害者と医療保護(生活保護) をうける人だけ検診のよび出しがあったという。『いっぺん上天草病院で(第二次) 検診があったんで連れといっしょにいったですたい。五、六人おったですか。ところが学校卒業したてのようなたよりない医者に当ってしまって・・・。なにも聞いちゃくれさらんし。そいで第三次検診のときは、もう馬鹿らしゅうしていかんじゃった。ままごとみたいじゃったもんな。ほかのもんもだれもいかんじやった。わしゃ三角の池田病院を信頼しとる。そこは神経につよかお医者さんじゃけん。もしわしが水俣病なら水俣病っちいうてくれるはずと思うとるですたい。』
彼のもつ身障者手帳には”脳卒中による体躯幹機能障害”とあった。天草・離島でよく聞くように、発病は昭和四十年代に入ってからだ。手足のしびれ昭和四十年、ついで足のからす曲り、体中のひきつけ昭和四十二年、口のかなわんようになったのは昭和四十七年、と進行している。ここの公民館で上映準備中、町の巡回出張診療のある消防小屋あたりで人の立ち騒ぐ声がした。待つ間に、ひとりの老人がひきつけを起し、意識不明になったのだ。彼も水俣通いの運搬船の船長だったという。水俣病のかげはここでも、運搬船の航跡そのまま水俣ー与一ガ浦の線に引かれているように思えるのだった。
その生活歴もたずねず、病歴も問診されず”ままごと”みたいな診療に絶望して、三次検診は放棄していたという。
『あん子が水俣病じゃなからんば・・・』
カツオのえさの仲買、その運搬という独占的専業によって、裕福な企業家とその月給雇いの多い横浦島の横浦(百五十六戸、六百九十八人)。ここではイワシによる分限者ー二億円の脱税をたれこまれた”いわしかい”のうわさが語られたり、買い付け客(カツオ船)用の宴会場と宿泊設備をもつホテル同様の三階建私邸に何億の金がかかったとか、豪華な話を首肯させるに足る、富裕の部分がめだった。先細りの不知火海のカタクチイワシだけでなく、長崎、島原でイワシをかいつけ、東シナ海で操業するカツオ船団にそれを補給する。イワシを生かす古来からの二十石(三・六立方メートル) 入りの竹あみの大かごがいくつも船で曳航される。その不知火海の風物詩の基地がここであった。
ここ横浦の海岸は古材、古家具、そしてありとあらゆるゴミ捨て場であった。繁栄とうらはらに都会の裏通りのゴミの山そのままのようにこの海辺は汚されていた。公民館は子どもの遊び場で砂と泥のひりついた敷きござ、トイレは戸が破られ、外から丸見えで、まだ建ててから数年という建築とは見えなかった。ビラを撒きにたずねる二階建の新築の豪邸は総檜作りだが、九十歳の老婆がくしゃくしゃになって廊下に寝ており、あとは人の気配がなく老いの匂いがただようのみ、その上りばなに、数匹の雀鯛が差入れられたまま、この家の中味はウバ捨て伝説を思わせた。一家あげての出稼ぎという。都市化する漁村の荒涼たる風景がそこにあった。金が自由にできる子どもの買いぐいでにぎわう食料品。そのあたり一面、からのビニール袋、ジュースの空カンの散乱するにまかせる店先きの空地。それは漁家集落のもつある文化の死滅過程に思われた。私たちはいつの日か、不知火海の失われる漁村と漁法を映画の記録にのこしておかなければと心せく思いにあらためて駆られたものだ。
ここで私たちは数人の体の不自由な子を見た。女子高生で不安定な歩き方の少女。皆にどづかれている手のねじくれた年齢不詳のように老けた表情の少年。もっとも重症の女の子は、うば車にのせられ、浜の涼気のなかで近所の女房どのたちから可愛がられ、声にならない声で笑っていた。まだ九歳とのこと。『あん子が水俣病じゃなからんば、ほかに誰が水俣病かっちみなでいっとるですよ。わしもあん子だけはぐらしか(可哀そう) と思うとるですよ』と暗に私たちが訪ねるのをすすめるように町役場づとめの小平さんは語る。祭の酒をのんだ上での話だった。だがその両親とも映画会には来ていなかった。翌朝私たちは直接たずねることにした。
岩本真美ちゃん(九歳) といった。父、文則さん(四十四歳) は一本釣で不在、母まり子さん(三十五歳) と家長然とした祖母しかいなかった。拒否はされなかったが、寝たきりの子の枕元で手内職のぬいものの手はかたときも休めず、質問に答えるだけしか話そうとしなかった。
三歳のとき未熟児、身障児の集団検診をうけ、その後は町の医者にかかっていた。身障者手帳をもらえといわれ、その診断書をもらいに水俣の湯ノ児リハビリテーションにいって『脳性小児マヒ』との病名をもらって帰ったりリハビリの医師はなんの注意も払わなかった。父親は腰痛に苦しみ、発作のときは便所にもいけないという。『とうさんはこの子の生まれたときは、多分イワシの綱子しとらしたから、水俣灘(沖) のほうに出漁とったでしょう。はっきりしたことは分りませんが。私ですか。私はなんともありません。ただ手の先がしびれるだけ。」まだ三十歳半ばの母である。
そのもごもごした話っぷりは姑への気がねに思えた。嫁として肩身の狭さはいかばかりだろう。私はこの母だけでなく姑に水俣病の映画を見せねばと思い、周囲の眼を避けて映写機を家にはこびこみ、そのふすまをスクリーンに映画をうつした(私は胎児性のシー ンで、例の活動弁土の方法で、くわしく有機水銀中毒のいわれと、そのおかされ方を説明し、それが母体の罪ではないことをくり返した。姑も画面の胎児性の患者の体つき、手、指の変形をくい入るように眺めては真美ちゃんと見較べていた。上映後、姑は感にたえた表情で『似たも似た子がおるもんじゃなあ、そういえば、わたしが保険(の外交)やっとるころ、太刀がまっ白にういて、海を船でわたるときに・ ・・』と問わずがたりに嫁に語り出すのだった。その祖母もその一カ月後、脳障害で入院、いまも施療中という。この真美ちゃんの生まれは昭和四十三年。胎児性の従来の発生期間からはるかに遅い。私が熊本に武内忠男(病理)教授を訪ねこの例を報告すると、胎児性は昭和四十年代出現の可能性は充分にあるとして、つよい興味を示されたのだった。時間差があるのだ。
ちなみに、同教授を班長とする第二次水俣病研究班のレポートのうち、御所浦・嵐口地区における患者の出現年度は、そのグラフによれば昭和二十七年から調査時の昭和四十七年に至るまでだらだらした線で横這いに発生しつづけており、やや頻度の多いのは昭和三十七年から四十二年にかけてである。水俣市周辺の急性、亜急性水俣病のピークより七、八年遅れて出現している。そしてそれは原田正純氏の臨床レポートにみる長期微量摂取による、慢性水俣病発生のピーク(昭和三十六~四十二年) に近似しているという。(『水俣病』青林舎刊、有馬澄雄氏『工場運転実態からみた水俣病』より)
天草・離島できく症状のあらわれは昭和四十年以後のものも少なくなく、去年から手がしびれたとか、四、五年前から口がかなわなくなったとか聞く。老人たちの連続的病死は昭和四十年前後であった(外平部落) 。
毛髪水銀データにみたように、汚染の爆心地は水俣にせよ、情報未到の地ゆえに、外円部、不知火海対岸部に水銀蓄積の爆心地が出現していた。これを社会的人為的時差とするなら、水俣にみた典型的な急性激症型水俣病とことなり、知らず知らずのうちに長期、微量に摂取したことによる慢性、全身症型でしかも遅れて出現したこの時差をなんとよぶべきか。水俣・水俣病とのあいだに、”時差”のものさしをもって計るべき『不知火海水俣病』ともいうべき病像があるのではないだろうか。
最後の上映ー松崎さん夫妻の亡くなられた地で
不知火海巡海映画は離島、御所浦町のなかのさい果ての地、この牧島で最後となる。熊本県の行政の末端、御所浦町、その町行政もこの小島からはさらに遠い。六百人余りが三部落に分れ棲んでいる。小島の玄関口牧本(八十戸、三百二人) の裏手に長浦、椛ノ木が奥深い入江のかげにかくれるようにある。自他ともにみとめる平家の落人部落で、御所浦の人たちでさえ”椛ノ木に三度いけば都にいったもおんなじ”というほど、ゆききすること生涯にあるかなしかの離れ部落である。故松崎ナスさん(九二〇PPM)とその夫重一さんの亡くなられた地、椛ノ木をこの旅の最終地点としたのは、この地に立って、この人たちの無念を思い、この不知火海巡海計画を発想したからである。縁起として旅の終りはここでしかなかった。
その思いがとどいてか、この三部落では動員五〇~九〇パーセント(実質)と最高をマークした。長浦(八十二戸、三百十三人) 椛ノ木(四十三戸、百五十四人) はともに平家部落、歩いて十五分ほどの峠で分れている。椛ノ冠者という平家の貴人が一族をひきつれて落ちのび、その郎党松崎家がここにすみついて、椛ノ木となったという。この部落は一軒のこらず松崎姓、下の名前をいわなければ話がすすまない。このかくれ入江に船をかくしたといわれる『船かくし』など目の前の岬や浦や山道に『頼朝越え』『弁慶の足あと』『船殺し(敵船の見張り所こなどの地名が普通に今も使われている。景行天皇行幸伝説にちなんでの御所浦といい、はるけき都への憧憬をこめた海人族の子孫たちである。
ここでの歓待と水俣病救済にかける期待はひとしお深かった。長浦の区長松田八百年さん(五十五歳)は『大東亜(戦争)でなんべん死に損ったか分りません』と体にまだ敵弾の入っている傷痕をみせる海軍特攻隊の生き残りであった。ようここまできやしたと、できたての自慢の公民館に初の客として泊め、魚とおかず、つけもの、みかんに焼酎をはこび、私たちにあかず風流譚をかたって笑わせる。夜這いで娘のもとにかよう風習がつい二十年前まであったという。若衆が部落の葬式、病人かつぎ、賦役と必須の働き手であったみかえりに、彼らに夜這いをゆるした。部落の後家、若妻の下にしのび、あるいは娘をくどきに暗夜、少年の見張りをたてて歩いたという南国的なエロスも、自家発電の灯った昭和三十二年までだった。『電気は明るかけん、夜這いもでけんようになった・・・』『そうさなあ、あんたらにもあとおなごがいるなあ、何人おらすとか。六人か。提灯六つありやよかなあ』と笑わせる。私たちスタッフと東京から応援の秋山、写真家の塩田の六人に、それぞれ夜道あるきの提灯を用意するから、それぞれ勝手に夜這いしてこいというのである。まわりにいる男どもも、松田さんも、みんな夜這いのなかから今の嫁ごをとったという。大らかな前近代がすっぽりここに生きていた。
この区長は甥の松田俊輔を胎児性水俣病で、二年前、水俣で死なせていた。その入院先の明水園でまのあたりに老人患者をみて、その眼で自分の部落をみまわしたとき、いてもたつてもいられない思いだったという。
『いまにして思えば、これはと思う老人が皆もがいてさるいて死んだもんね。ここのもんで水俣の魚を喰うとらん者はおらんばい。』いつも笑顔が絶えないが、昭和四十八年、水俣のチツソの原料埠頭のある梅戸港を部落の船二十隻をひきいて封鎖にいったときのことを語るときは別人のように厳しい表情になった。水俣の漁民が深夜、ひそかに漁をしていたというのだ。
『わしゃ見てしもたもんね。湯堂か梅戸かどこの漁師か知らんばってん、水俣もんが喰うちゃならん魚ば取ろうと、じゃんじゃん網を張りよるじゃなかですか。『ここは汚れとるちゅうに、なんでここにカシ網を張らんばならんとか』と文句いったった。しかしその顔ば見たら、『(闘争) 本部まで来てくれ』とは言いきらんじゃった。その人は水銀で汚染されとる魚と知っとっても、わが家(の家計)は立てていかんばならんという・・・ あんだけの姿があるとしか思えんじゃった。家計のため親父と息子ふたり、夜中の三時になあ、かくれて網をしおらすと。あんとき、わしは涙がむしょうに流れでた。本当ゆうたらなあ。わしはちゃんと見とる。手をあわして、見逃してくれちゅうでなあ。』
水俣病の怖さを体験として知ってからは、松田さんは水俣附近での漁は金輪際しなかった。魚がおると分っても我慢した。それを地元水俣のもんがしていることは許せなかったのだろう。汚れとる魚を漁師がなんで人に売らるるか、これが漁師ぞ、というのだ。この厳しい分別は、水俣病に慣れすぎた私たちをも責めるものがあった。なぜなら私たち自身、水俣の漁師が恋路島でボラをとるのにも、湾内でのタコ突きにも、千鳥貝の七年目ごとの解禁日、患者の船にのり排水口前で競い獲るときにも同行し撮影し、あやしまなかった。それを漁師のさがぐらいに思っていたからである。この松田氏の”人にくわせちゃならん毒の魚をわしゃとれん”とする漁師の声は、絶えて聞くことがなかった。孤島から水俣の病める部分を撃つ声として聞くほかなかった。
彼には五、六年前、この地に入ろうとした自主検診グループをことわった前科があった。『何年前かな。そんときはまだ水俣病のことをちっとも知らんかったもんで、いまは触ってくるるなちゅうて断つといた。しかし考えれば何人とおかしなものがおっとです。済まんこつじゃと思うとります。伝えて下さい。どうかいつでも来て、診てもらいたかです、今は。』
彼は部落の人の名をあげ小児性水俣病と思う子をとくに告げた。その青年、山崎一明さん(三十歳) 、七歳のころから四肢変形し、口がしゃべれなくなり、片麻痺で家中の悲嘆であるという。
区長は、その場にいる部落の長老格で元町の衛生課長、保育所長であった義父中村老人を上座にすえ、両手をついて、その長老に、これから外部の人を部落に入れますでな、よろしくと、彼の了解を取りつけるのであった。御所浦町のなかでも水俣病情報のもっとも遅れたこの平家部落において、この共同体の家長たる区長が、この部落の水俣病さがしの主導力となるつもりなのだ。ここではいわゆるかくれ申請者は出ないであろう。松田区長、中村長老によって、被害者をストレートにひきずり出し、もっとも苦しむ人をもっとも早く救済のルー トにのせるであろう。私たちは離島のなかのもっとも古風な共同体、平家落人部落の彼らに、もっともあるべき水俣病発掘に対する対応を発見できたのであった。
十一月九日、最後の映画会である。ここ椛ノ木部落、その名は松崎ナスさんの名ともに世間の注目を浴びた。ひっそりと出稼ぎや運搬船で生きてきた人たちにとって深刻な打撃であったろう。部落の人は松崎ナスさんの話には触れたがらなかった。過去数回の訪問でそれを感じていた私は故人の一人娘(五十五歳) を婚家先の三角町から招いた。松崎老夫婦の法要をかね、親戚も招き墓前の読経をすべく、手配もしたが固辞された。その一族はほぼ全滅に近いことが分った。かつて同じ網で働き魚を分けた一群の人びとである。故人の長兄、黒島梅太郎氏ー認定・死亡、三男重吉氏ー水俣で入院中、四男鶴松氏ー水俣で狂死、五男亀太郎・トメ夫妻はともに申請中であった。
そして一人娘も、腰以下がしびれ『神経痛』として長年医者がよいしているというが、会えばひどい記銘力障害で、七人の自分の子の名と年齢すらあやふやであった。母の死亡の年も定かではない。水俣病とつよく疑える人である。私は亡き母がどのくらいの魚喰いだったか訊いた。『魚は生がすきなひとでした。母は魚があればめしは食わんでもよかほどでした。じゃが人より多くたベたわけじゃなかですよ。口のちいさか人でした。』少食だったという老女に毛髪中九二〇PPMにいたるまで水銀が蓄積されていたとすれば、この一帯まだどんな記録の人がいたであろうか。この六百人余の牧島で検査に毛髪を提供した人は七人にすぎない。そこで調査は中断されたのである。
最後の上映とあって、マイクで触れあるく一之瀬の声も涙ぐみがちであった。感傷がなかったといえば嘘になる。私たちは万感胸にせまるものがあった。松崎さんの孫夫婦も亡き父の面影を映画で見ようと貸し切り船で帰ってきていた。祭の前夜、家々はこしらえものの用意で忙がしく、これでは参加者も心細く思えた。だが七時半、松崎区長一家をはじめはぼ全員が公民館に坐った。『水俣病ーその20年』と『不知火海』ーこの終章の生前の松崎老の声『・・・風邪ひきなら分るばってん水俣病はどういうふうな病気か、その当時は知らんじゃった・ ・・ 』と語る声にうなずき、その赤さびの土葬の墓のシー ンにかぶって『仇じゃばってん、(チッソも) いくらかの香典なっとくだされば、それでもう、ありがとう』とのベるくだりにはしのびながらも涙とすすりなきがそこここにあった。終ったあと、一人娘は顔をふせ、恥じるように帰っていった。
その夜、見知らぬ女房どのふたりから祭用の煮物、さしみ、赤飯が山のように届けられた。同行六人、お互いに旅を完遂できた成就感に酔うかと思ったが、いっかな心ははじけなかった。まだ不知火海のどこかで明日も上映が残っているような負担の心情のまま上映のおわりをかみしめていた。