書籍「わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録」 まえがき
不知火海は私の虜われの地です。どこにいて、何をしていようと、ふり返り、帰りゆきたい因縁の海です。もちろん水俣病ゆえに結ばれたものですが、この海の美しさとやさしさは、私にとっての祖国であり、仮託をねがっていうところの故郷です。物をつくる人間として、映像と記録する気持の沸々と湧く何ものかをたえず喚起してやまない土壌をもつことほど幸せはありません。毒の海、老廃の海も、別の方角に立てば再生をねがい、賦活力をまだもつ海であり、その二重の動態は、日本の縮図そのもののように私には思えます。
私はあす作る映画のプランももたず、流れに身をまかせ、眼の前にある映画を抱擁することで二十年余、映画を作ってきました。その半ばが水俣・不知火海とのかかわりであったことは奇縁にすぎません。その人生のなかで、私たち水俣スタッフは映画をその海辺にはこんで人びととめぐりあう行動を試みました。この意図のなかから、私は、はじめて、次なる映画をイメージすることになりました。その実現の可否は漠としたものですが、目標は明確です。この志がみのるかどうかは別として、一映画作家としていま逢着している地点をありのまま呈示したいと思います。
序章は映画に入るまでの私の青年時代の苦い記憶です。あえて人に語るべきことではありません。しかし、筆をそこに染めたのはもはや退路を用意できない私にとって、先輩の胸をかり、今日にねばねばと尾をひく青春の不確かさに別れを告げたいからでした。ゆえにこの文章と旅の記録は、私のこれからの映画のためのシナリオ以前のモチーフの断章でありましょう。
私は企業と国家の不知火海でほしいままにした犯行を旅で辿りました。しかし私は政治の人間たり得なかったし、のぞんで映画を選んだ人間です。水俣・不知火海の数万、十数万の人びとに対する惨苦を強いた資本と政治は、水俣・不知火海からのみ狙撃できるのではないことは明らかでしょう。だが映画で事を起こし、映画に収斂することでしかこれと関われない以上、フィルムの何十万駒、何百万駒のなかに、あるべき不知火海を描きつづけたいと思うのです。
原稿を書くあいだに、筑摩書房は危機に陥りました。だが私の稼業の万年危機に比べれば、かならずや再建されるであろうと信じてきました。逆境のもの同士の希望の分ち方では、人後に落ちないつもりです。にもせよ、筑摩書房の古川清治氏、谷川孝一氏らの展望通りここに刊行のはこびとなったことを心よりうれしく思う次第です。
一九七九年一月