<不知火海>までの私の道 講座 『千里市民講座の軌跡』 1976/9 千里市民講座 <1976年(昭51)>
 <不知火海>までの私の道 講座 「千里市民講座の軌跡」 1976/9 千里市民講座

 おはようございます。朝早くからこんなにお集まり頂いてありがたく思います。
 映画「不知火海」を今日見て頂くわけですけれども、この映画までに私は水俣の映画をずいぶん作ってきたんです。この間数えてみましたら全部で十一本作りまして、この 「不知火海」が最も新しい映画です。
 その後、水俣に行って情況をいろいろ調べておりますけれど、映画「不知火海」に含まれている問題は依然として色濃く残っているということで、一番新しいレポートだと思って頂いていいんじゃないかと思います。

 水俣に入る

 私は、生まれは東京ではないんですけど、小学校から東京で教育を受けました。私は昭和三年生まれですから、戟争を都会の中で十分体験しております。ただし地方の生活とか、農村、漁村の生活というのは全然知らない。映画に入りましてからも、農村や漁村についての映画を作ることに乏しくて、いまだに野菜の種類は覚えませんし、魚はおいしいというだけで名前はわからないというような、農業、漁業には音痴の生活をしているわけです。そういった意味で、水俣の町や漁村は好きでいつも心奪われながら、あの地を訪れるというのが率直なところです。つまりあそこに行くことが、僕にとって苦しみではなくて、いつも何か発見できるという胸ときめくような、喜びではなくても、つらいことがあろうということも含めて水俣に行くのが非常に好きなわけです。水俣に行きますと、そこに住んでいる人は当たり前と思っていることでも、僕には珍しいし、おもしろい。ですから、石牟礼道子さんのように、あの土地で生まれ育って、そして水俣の全ての歴史を自分の目でながめてこられた方とまるっきり反対の視点から水俣というものを見つめているということになろうかと思います。
 私が、こういう映画の(水俣)を作り続けてきた一番の理由は何かということをよく聞かれます。実のところ、水俣の映画を一本作っている際中には、もう水俣の映画を作ることをやめようと、他に方向を転換して、他の題材の映画を作ろうと思うんですが、映画を作り終わってみますと、まだまだ十分に撮れていない、描かれていない所が次々に出てきまして、できるならばこの水俣を全面的に掘り下げてみたら、あるいは日本の戦後の動きが全部水俣に集約されるんではないかと思うわけです。水俣を掘り下げていくと、公害やいろんな教訓がここにあるんではないかと思うのです。それからもう一つ単純に言って、十年前に撮ったフイルムを今見てみますと、あの時にもし撮っておかなければ、水俣の漁村が持っていたあらゆる風物とか、生活とか、あるいは村そのものの構造がどんどん変わっている以上、何か資料として残したい、そういうつもりがありまして、水俣に関わっているわけなんです。
 こういう映画を作る一番のきっかけとなりましたのは、水俣病が昭和三十一年に発見されまして、三十五年ぐらいに水俣病は終わったという発表が熊本大学医学部からなされたことです。その後、患者の治療とか補償は細々と続けられてきましたが、水俣病そのものの発生は終わったということがありましてから、水俣病は水俣の現地ですら忘れられた何年かがあったわけです。
 私が最初行きましたのは、昭和四十年の春でした。行きました動機は、胎児性水俣病の子供たちが赤ん坊の時代を脱して、幼年期、学歴期を迎えている。そういう子供たちがどうなったかということを取りあげてみようじゃないかということが、私の関係しておりました日本テレビのノンフィクション劇場でありました。私がそれまで読んでいましたのは、『日本残酷物語』(平凡社)シリーズで、十巻くらいでしたか、日本の前近代の労働者、農民、漁民の残酷で酷烈な生活をルポルタージュした、ほとんど名もない方々、主婦の方々、あるいは漁民自身の手記などを綴ったものですが、その中に石牟礼道子さんが水俣病のことについて一章を書いておられた。私はそれを読んだ程度だったんです。それぐらいしか資料がなかったわけです。後になってわかりましたが、熊本県で出している新聞、九州で出している新聞にはかなり水俣病の情報があったと思いますが、東京のスクラップを調べる限り、水俣病の出来事は一地方の出来事として扱われて、まして水俣病は終わったとされて以降は、ほとんど参考にすべき文献がない。その当時は、やっと宇井純さんが水俣を調べ始めた頃だったと思います。そういった時期で宇井さんと面識がない。それで石牟礼さんという人をかすかに覚えて、それを手がかりに水俣に行った。行く前に熊本大学に寄りながら知識を入れて水俣に入りたいと思ったものですから、いろんな所へ顔を出して水俣病のことを教えてほしいと思ったんです。
 「どういう実験がなされているのか」「病気というのはどういう性格を持っているのか」「患者の数はどのくらいか」
 ということを聞いていくんですけれども、その先生が
 「君、水俣病のことをどういう角度で取り上げるのか知らないけれども、あれはほとんど終わってしまった。われわれも研究はほとんどやめている。あそこに実験のために飼っていた猫の小屋があるけれども、まあよかったら見ていきなさい。しかし東京から来て水俣のことを報道して、今まで正確に報道されたことは一度もない。あなた方はそうではないと思うけれども、自分たちは時間もないし、あなた方に説明する気もない」と。
 率直に言って、にべもない返事で、そういう中でほとんど知識のないまま水俣に行ったんです。行きまして、私がそこで見つめたいと思ったことは、胎児性の子供たちの状態が一体どういうものであるかをこの目ではっきり見たいということでした。水俣に行けば、町中が知っているに違いない、人口がその当時三万五千から四万ぐらいの都市ですから、そこに百何人の重症の水俣病患者がいるんですからね。地域は狭くて、端から端まで歩いても二十分ぐらいで行けるところですから、僕はそこで、こういうことがある、ということを聞けると思っていたんです。

 逃げて帰りたいショック

 まず私たち旅行者が最初に接する人間は、タクシーの運転手とか宿屋の方とか飲み屋とかですから、そういう所から話題にしていくことが多いんです。運転手に聞いても、水俣病は確かにあったけれども、もうほとんど治ったんじゃないかという話をされるわけです。喫茶店やバー、一杯飲み屋なんかで聞いても、私はここに長いこと住んでいるけれども、それらしい人に会ったのは一回しかない。どこかの食堂に行ったら、手が震えて食べづらそうに食べていた人がいたのを見たことはあるが、それぐらいであまり見たことはない、と言うんですね。誰に聞いても水俣病のことは念頭にないわけです。
 それで、撮影許可を申請していた病院に行きますと、今なら思い当たりますが、町にある市立病院ですが、老人が詰めかけていてごった返していまして、不健康で治療している人が多かったんですね。許可をとっていたものですから、水俣病の人にお会いしたいと言いました。そこには病棟が幾つかあって、伝染・隔離病棟と思われるどん詰まりの病棟、別棟の所に患者さんがいるんです。そこに入ってみますと、他の病棟のように見舞の人々が行きかっているということはなくて、何とはなしに無用の人入るべからず、といった感じなんです。実に閑散とした所に、言葉にならない言葉でしゃべり合っている女の患者さんがいる、それから子供の叫び声がある、遊んでいるんですけど奇妙に聞こえる声がする、どこを聞いてもまともな声が聞こえてこないんです。そういう所に一歩足を踏み込んだ時に、僕は、これはえらい所に来てしまった、という感じがしたんです。
 その中に、一年半ばかり前に二十三歳で亡くなられた松永久美子さんという患者さんがいまして、当時は十三、四だったと思いますけれども、非常にきれいな患者さんで水俣病の象徴的存在といわれた人でした。目が見えているのか見えないのか分からない。それから言葉は言えない。体が全然動かない。動かないまま固着していると、流動食しか取らないし、取れない。しかし、あまりにもきれいでね、近づいて行ってまばたきもしない。名前を呼んでも返事がない。流動食だけを食べて、おむつをして生きている。でも、僕たちが近づいていくと、ふっと顔が赤らむんです。気配を感じて上気するんですね。そういう子を見た時に、何ともいえない気持ちになりました。
 もともと僕は臆病なものですから、こわい話はだめなんです。病気とか手術とか、病院は嫌いですし、病気の話は進んで撮る気持は全然なかったんです。でも、水俣病というのは明らかに企業がたれ流したものによって引き起こされた、その意味では社会的に弾劾すべき問題だということが頭に一番あるものですから、「チッソ」という社会的に犯罪をやったものをたたくために行くということがあったものですから、病院に行ってみて、じかに会ってみると、これはどうしようもないと思ったんです。お医者さんに聞いてみると、一般的な基礎体力をつける薬は差し上げているけれども、こうなってしまった以上水銀を取り除く方法はないと言うんですね。それじゃ何があるんですかと聞くと、わずかに残っている機能を回復させる訓練しかないと。医者として見て、こんなにひどいものはありませんというふうにおっしゃる。じゃ何があるんですかと聞くと、風邪を引いては困るとか、また僕たちでは想像できないんですが、物を嚥下する時に空気を吸うためにも食道に入っていくことと、気道に入っていくことを調整する神経作用があるらしいんですけど、それがマヒしてしまって食べ物がまかり間違うと気道に入り、米粒なんかが入ってむせてむせて、それをのどに出す機能がなかなか得られなくて、セキをしっ放しで死んでいく。その時は肺炎の状態で死んでいくんですね。それを嚥下性肺炎というんですけど、その嚥下を誤って肺炎を引き起こすと、これは水俣病が脳の神経を侵すものですから、その部分がやられてしまうために嚥下性肺炎になってしまうんです。その時にはどうするのかと聞きましたら、手術して米一粒を出すんだと、慣れたお医者さんから次々と聞かされたものですから、それで消耗したんです。
 その時、子供たちは幼年期を迎えていまして、病院に預けっ放しの子供たちで、僕たちみたいな者を非常に歓迎するんですね。僕らも多少の果物を持って行きますので、非常に歓迎してそばに寄ってきて、絶えず僕たちに触るんです。そうやって見てますと表情もあるし、人間の子供として生まれてきて、本当に何ともいえない思いをしたんです。病院の方では、君たちがせっかく来たのなら撮っていってくれと、この子供たちを撮影して世の中に発表してほしいと。水俣病は終わったことにされているけれども、この子たちはどんどん数が減っていっている。つまり嚥下性肺炎で死んでいったり、老人患者が入院してきたりして、予算は少ないし世の中に忘れられて自分たちは困っているから撮ってほしいということで、僕自身はショックで逃げて帰りたい気持ちだったんですけれども、これは撮らなくては仕方がないと思ったんです。

 怒られ、トボトボと帰る

 病院から一歩出て、患者さんの一番たくさん発生しているといわれている漁村があります。小さな部落なんです。そこへ行こうと思いますと、みんなが止めるわけです。あそこへ行っても、君たちがカメラをかついでいったら嫌な顔をされるに違いないというわけです。しかし、それでも行ってみようということで、カメラをかついで、まだ三号線もろくに出来ていませんでしたが、現地へ行ってまず風景を撮ろうということで、山の上から風景を撮っていましたら、とたんに百メートルぐらい離れたところの家の庭先でいっせいに声が起きまして、お前たちは何をしているんだと、この子を撮ったなと言うんです。この子といっても僕たちは気がついていなかったんです。子供を病院に預けるんではなくて、在宅で日なたぼっこをしている子供を撮ったに違いないと、お前たちは誰に断ってこの子を撮ったと、この子を撮って少しでもこの子が良くなると思うかと、ともかく黙って撮ったのは許せないというんですね。どんなに言葉で謝ってもしようがないというので、うなだれて怒られて、三十分ぐらい聞いていたんですけれどもね。
 その時に、やっぱりカメラを持って、映画を撮って仕事をしている人間には、どうしても踏み込んでほならないものがあるんではないかと。だけど自分がここへ撮りに来たのは間違いだろうか、本当にこれを撮るだけの資格があるんだろうかと、いろんなことを考えてみたんです。ともかく怒られるというのは大変つらいんで、ひざはガクガク、口はワナワナしちゃって、これはもう映画が撮れないなと思ったんです。この状態から抜け切らない限り、自分は一生映画を撮ることはできないんじゃないかというぐらいのショックを受けて、トボトボ帰ったんです。その印象が強烈で、後はおざなりものぐらいしか撮れなくて、僕の映画としては、何を言っているのかよく分からないといった、十分に物事が撮れていないフイルムを結果として作って水俣を去ったんです。
 その時に思いましたのは、水俣にとってはー映画で表現されることが何一つ、テレビで報道されることが何一つ本当に役に立ったことはないという彼らの表現者、といえばオーバーですが、映画を撮ったりする人間に対するはっきりとした過去の体験、いいことがなかった、味方ではなかったという体験が一つはっきりあると。それから、この子たちはどうされようと絶対に治らないと。当時は補償問題などはありませんでした。医療の方は、医療保護の形で細々となされていましたけれども、それについても回復の見込みがないと。そうだとすれば、この子と静かに暮らして静かに死にたい、外でかまってくれるなと言う一番引っ込んだ状態だったと思うんです。そういうただ中に、僕は水俣を訪れてしまった。石牟礼道子さんに挨拶をしに訪ねて行ったんです。当時彼女もそれほど発表をしてなくて、自分でとぼとぼと方々の家を訪ねて、おずおずと中に入って話を聞いてということを繰り返していた。そういうことをやっている人というのは、水俣ではまれな存在でした。後はみんなそういう所へは踏み込まない人であり、黙っている。そんな中で、石牟礼さんは、後に『苦海浄土』の中にまとまるような話をこつこつとためておられたわけです。今でも覚えていますが、物置にござを敷いたような所に、本棚を背にして、髪の毛をおばけのようにして、瞳をこらして、「私は、水俣から必ず水俣のことを告げたいと思う。しかしその作業は全くむずかしい」ということを言っておられて、僕自身もそれは十分に感じたものですから、いずれ会いましょうということで別れました。
 ともかくそういうわけで、第一回目は、その映画だけで逃げたいということが、正直なところ僕の中にあったわけです。

 患者と漁民の世界を撮る

 それが四年して、水俣のことをもう一度やるきっかけになったのは、僕が最初に参りました四十年から二年経ち、厚生省が初めて「水俣病の原因はチッソの廃液にあり」と発表したことです。そういった学問的な事実や裏づけは、昭和三十四年七月に熊本大学が、「これは有機水銀である」と、工場廃液であるということは言いたくて、のどまで出かかっているんですけど、それがまだつかめないだけで、明らかに有機水銀だということは、学説として発表している。それから昭和三十七年に、ついに工場の中の廃液から有機水銀が出ていたということがあり、「有機水銀説」と「工場から出た」という二つの話が三十七年には完全に結びつけられているわけです。それから五年経って初めて厚生省が水俣病についての公式の見解を発表することになり、それ以後、水俣病の問題が世の中にどんどん出てくるようになったんですが、患者は政府の公害認定によって、この間題をはっきりチッソに向けていくことができるという考え方に立ったと思うんです。
 患者はいろいろ長いこと討論しまして、結局二つに分裂して、チッソに全部一任して物事を進めてもらおうという大多数の人たちと、チッソに対しても納得がいかないということで、チッソに一任することができずに、裁判しかない、出る所に出ようじゃないかという少数の人たちに分裂してしまった。その裏にはチッソの暗躍がいっぱいありまして、なるべく裁判は食い止めようとした痕跡はあるんですけど、ついに裁判に立った。裁判になると、石牟礼さんたちが献身的に地元で動き出す。それから熊本のインテリゲンチャが動き出すということで、やっとそれが東京に届いてくるという構造で、私が水俣病の再び新たな流れを知ったのは、四十五年の春でした。その時には、私がこわくこわく思っていた水俣病の患者さんのことを、私が繰り返しそういう運動に携わっている人に聞いたところが、「あなたはいまの患者を見ていない。いまの訴訟をした患者はとても生き生きしています」と。確かに、厚生省が認めて裁判に立ち上がったところから、患者さんは、長年の怨みをその裁判の中でぶつけたい。工場の毒にやられて自分達はこんなふうになった、ところが病人になったがために汚いものに見られ、付き合いを断たれ、いろんな苦しみにあってきた、人間としてとても考えられないほど理不尽だと思ってたけれどもそれを言えないできた。しかし、ここでそういうことを一挙に聞いてほしいという気持ちが、ある時期患者さんの中にあった。
 ある時期-私が第一回の「水俣-患者さんとその世界」を作ったのは昭和四十六年です。「水俣病」というタイトルにしなかったのは、水俣全体を撮りたかったし、患者さんの持ってる病気の世界と同時に、そのバックグラウンドである漁民としての感性の世界と存在そのものを撮りたいということがあったものですから、そういう映画を作ったわけです。その映画を発表して以後、東京での会社との対立を措いた「水俣一揆-一生を問う人々」という映画を作りました。
 そのうちに私の中で、ほんとうの水俣病というのはどういうものかということで、医学の面から水俣病というのを僕は知りたい、また知っておかなきやまずいんじゃないかということがあったんですけれども、なかなかその機会を得ませんで、まあそういう気持ちで作りましたのが「医学としての水俣病-三部作」という映画です。その映画を作る中で、医学だけじゃなくて、もっとワイドな視点でやろうと思って作ったのが「不知火海」です。

 言いくるめられた歴史への異議

 それら一連の映画を作る中でいろんなことを考えさせられたんですが、水俣の歴史を調べていきますと、水俣の問題について一番深くかかわった熊本大学の医学者が、水銀だということを確認して、それを世論にたたかれないように何度も実験をして発表したのが、昭和三十四年の七月です。三十四年の七月にそれを発表したのにかかわらず、三十五年、三十六年ぐらいに至るまで、ほかの学者、つまり資料だけでもものごとをデツチ上げるような医学の権威者、化学の権威者が、水銀でないという別途の資料を持ってきまして、これは腐った魚を食べたアミン中毒だというようなことを大々的に発表するとか、あるいは海の中に戦争中投棄した爆薬が亀裂を生じて、そういったものでこういった中毒が起きたのだろうとか、熊大の固めてきた実験を無視して、東京から来た学者の意見をチッソは利用して、地方新聞にどんどん出していくわけです。
 そして三十四年には、チッソの工場病院の病院長の細川一さんが続けていた猫実験が、チッソには残念ながら熊大と同じ結果が出た。
 そういう歴史的な三十四年という時期に、水俣病は一切の犯罪的なことや、不幸な事態の種が一斉に芽ぶいてくるわけです。それ以後やってきた東京の学者や官庁から派遣された学者の策動によって、昭和三十四年に生産が止まるべきなのに、昭和四十二年まで続けられた。しかも、僕が非常にくやしいのは、昭和四十二年まで続けて、それから数カ月を経ないで、厚生省は原因を発表する。その時、会社は生産をストップしているわけです。どんなに発表されてもかまわない状態にしてある。しかもその時には、千葉の五井工場に、水銀を使わない新しいシステムの工場が出来ているわけです。十年間時を稼いで、新しいプラントをつくるメドを九〇%つけておいて、切りかえさせる手口を与えているわけです。もし十年前に水銀の排出を止めていたら、今日のような被害までには及ばなかっただろう。なぜあの時、世論をあげて工場を閉鎖に追い込まなかったかということが悔まれるわけです。昭和三十四年以降は、生産量は五倍、十倍とうなぎ昇りのカーブを描いています。その過程でたれ流された水銀が、六百トンとも七百トンとも千トンともいわれています。数字がはっきりしないのは、工場がデータを出さないからですが、いまカナダで水俣病と騒がれている一地域の排出量は二トンですから、いかに膨大な数字かがわかります。水俣では最低六百トンが内海である不知火海に滞流している。しかも下に沈澱して、未だに何百ppmという水銀値が排水口の近くであります。それはたれ流されてまだ残っているもので、チッソ工場の敷地の中は水銀だらけです。裁判の時に、試みに工場跡の溝を掘ってみたら、十円玉や小指の頭大の水銀がギラギラとあった。それが雨などによっていつも滲み出ていた。チッソが七基作ったアストアルデヒドのプラントの周辺から排水口にかけては、恐らく最も高い水銀が発生源としてある。それから、それを処理して運んだという膨大な埋立地、その産業廃棄物の中にも、一四八ppmという総水銀がある。そしてそれが野ざらしである。それから、水俣病内のヘドロは、今年度から着工されるといわれていますが、水俣病が起きてから二十年間、何ひとつ解決されていない。そういうことで水銀汚染の実態はいまだにあるし、病気の形というのはかつての形とは変わった形でどんどん出てくる。どうして三十四年の段階で中央の学者が熊大の研究に耳を傾けないで、腐った魚説などを持っていって、地元の人に撹乱工作をして、しかも名前を出しますと、これは東京工業大学の清浦雷作という先生、この人は当時から公害問題の権威とされてた人ですが、この人が腐った魚説を出していながら、いま公害についての啓蒙書を出しているんです。そういう恥知らずのことをよくやっていられるな。
 こういうことを私が言うのは、言いくるめられた水俣の歴史を見てくると、こういう小さいことを見つけて異議を申し立て続けていかないことには、結果としてえらいことになってしまう。

 人間の憎しみをつくり逃亡するチッソを追う

 私が水俣の映画を撮るに当たって、終わりはチッソがつぶれる時まで映画を撮ってやろうと。そのあとについてはまだアイデアがありませんけど、石牟礼道子さんは、私と私たちの若い仲間を呼んでこう言うわけです。
 「あなた方は五十年かけて不知火を撮ってほしい。土本さんはあと十年ぐらいしか撮れないかもしれないから、次の人がバトンタッチしてほしい。その人もまた後継者をつくって、いかにして不知火海は死滅したか、という五十年を映画に撮ってほしい。現在、われわれに不知火海をよみがえらすことができないとしたら、いかにして愚かな人間が、最も美しい不知火海という環境を殺し抜いて、多くの体のゆがんだ世帯を生んで、人類に対する劣悪化を生んで、自然を壊した。そういうのを記録してほしい。私も早く死ぬから、私も後継者をつくるから、あなた方もそうしてくれ」と。
 少なくとも私は、チッソがどういう形で最後の逃げを打って水俣という地域から逃亡を企てるかというところまでは見ておきたいと思います。
 チッソの動きを見てますと、工場を分け売りしてるわけです。例えば○○石膏とか○○化学というふうに名前をかえて、経営面ではチッソでないというべく、会社に小売りしてるわけです。いま塩化ビニールとポリビレンですか、あれをつくる二つのプラントをチッソと呼んでるわけですが、それもいつ潰すかわからないようにして、人員を縮小している。そしてチッソは銀行からも非常に有利な形で金を借りていますが、患者の補償にとられて、株主総会ごとに累積赤字がふえ続けて、いま二百何億あると思います。資本金の二・五倍あるといわれていますけども、そういうふうに悲鳴をあげながら、チッソを撤退する作戦を着々と組んでいる。現実には、工場はなくなるわけじゃないんです。でも、その工場は俺の工場じゃない、もう手を引いたということでなくなると思うんです。そのなくなるときに、チッソはいままでの水俣病についての一切の罪悪をぶちまけるかもしれないという予感がするんです。
 実は、患者の数が四百人だった頃、患者とチッソの社長との対決がありまして、それが一週間余にも及んだわけです。その時私は映画を撮っていまして、絶えずマイクを持って社長の動向を聞いていたんですが、その時社長はこういうことを言いました。
 「もし、今後患者がふえて千人をこえたら、チッソは完全にお手上げになる。千五百までいったら、誰が何といおうとチッソは補償できない。極限は千五百人だろう」とこう言ったわけですが、現在、水俣病として申請してる人の数が三千五百ぐらいだと思います。患者の認定数は千人をこえました。あと五百出たら、チッソの社長が三年前に言ってたように、「ここまでが私たちの守れる極限です」といって逃げを打つことができるわけです。
 今度、水俣湾のヘドロを埋め立てて、埋立地を作る計画の八〇%をチッソが負担しています。そのかわりチッソが八〇%のスペースをとるわけです。そこに公害のない企業を持ってくるというプランがあって、何人か労働者が働く工場ができるという大体の青写真図ができているんですが、そこに発表されている千五百人という数字は、そっくりそのままいまチッソに残ってる労働者数と同じなんです。チッソが撤退したあと、新しい工業の町ができるというイメージを残して、あそこから逃亡するだろう。そして一切の結末を国あるいは銀行に預けて逃げるのではないか。そうなった時に、水俣市では、今までも出ておりましたように、市民と市民、患者と患者でない人、あるいは患者同士、あるいは労働者と患者、あらゆる人たちが、町の最大の関心事である工場がつぶれるつぶれないかという問題に直面してどうなっていくか-ここが公害の私たちに及ぼす一番深い病気だと思うんです。体の病気よりも、そういった人間の憎しみをつくりだした社会のあらゆる病状が全水俣を被うだろう。こういった状況こそ、公害が含んでいるもう一つの一番こわい病気だと思うんです。資本と労働者、地域住民と工場、患者と患者でない人、そういった人の裂け目が一挙に醜い争いとして内ゲバとして出てくる可能性があると思うんです。そうなると、ほんとに美しい自然の中で本来なら夢見心地で死ぬべきだった人が、どういう苦難に直面し、その中でどういうふうに今までのものを失っていくか。”水俣病”という視野にはそういった一切の社会的な病み方というものが含まれていると僕は思ってるわけです。
 僕は、チッソは非人道的な存在のように言うのですが、チッソの人とたまに話してみますと、チッソの重役なんかの持ってる体質の中には、自分に預けられた範囲としては正直これだけやったと、その中にはウソも入ってるし、ほんとうのことも入っている。自分は一介のサラリーマン重役に過ぎない、その部署を守ったに過ぎない、だから自分たちには責任はないと言われるし、一面当たってると思います。しかしながら、水俣病が現在不知火周辺で一万人に及ぼうとしている、そういう不知火海全体の汚染の中で彼らがある時期から、自分たちの工場の水銀が原因だと気づいた時期から、自分たちの態度をかえなきやならなかったいろんな局面が、その人たちにはあったと思います。労働組合はそれが出来たんです。労働組合は初め会社と同じようなずるい言い方をしてたんです。昭和三十四年頃には、会社も労働者もなかった。患者や漁民闘争があって、一カ月の坐り込みをやった最中に、労働組合は会社の代弁者となって、”漁民の暴走を許すな”という市民の会を組織する。そして水俣病には何の手もかさず、坐り込みをした時に労組から借りたテントを二日目に取り戻しに来た。そういう仕打ちをした労働者が、現在までの間にいくつかの節目があって、組合の分裂も覚悟の上で患者支持に回る。それによって首になったり、いやな仕事を押しつけられて、いたたまれないようにされつつも、組合としての、労働者としての、患者への贖罪行為をしていく者が出ました。しかし会社側、研究者側、あるいは行政側では、そういったふうに自分の態度を変えていくことは少なかった。それは水俣病の特長だろうと思います。水俣をもう少し長い目で見てみると、あるいはどこの国に起きても、患者の抑圧のされ方は同じような道筋を経ていくんではないか、そういった面で、力は及ばないんですけど、水俣を撮り続けてみたいと思っているわけです。

 胎児性の子供が成長する

 私が最初に胎児性の子供に会ったのは、子供が六つか七つの時でした。ですから寝ていた子供もありますし、ようやく少し歩けるようになった子供もいたわけですけれども、その時の子供の目方は十五キロから十六キロぐらいしかない。まだ小さいものですから、僕は赤ん坊というイメージが強かったんです。ことばも幼児語的なしゃべり方なんです。ところがその後水俣へ行く度に、その子たちを撮っておりますと、この映画にも出てきますが、現在その子たちは成人式を迎える年になって、男の子もはっきりと男の子になってるし、女の子も女の子になってるわけです。その子供たちは、親が考えているよりもはるかに切実に自分たちの結婚ということを考えているわけです。それから胎児性でもやや体の動かせる子は、自分を必要としているポジションが、水俣にあるのか。つまり働きたいと思った時に何があるのかということを真剣に考えているわけです。それでこの映画にも出てくるわけですが、女の子なんか、人が好きになるわけですが、水俣に支援のため何年も行ってる青年がいるわけですが、支援の青年は患者の子供たちに親切ですから、最初はそういう人を好きになるわけです。しかしそういう青年は他の女の人を好きになり、ある恋愛をその子たちに見せて去っていくことになります。そうすると、自分たちはどうも健康な人とは結婚出来ないらしい。だから自分たちと同じ状態の人と結婚するのがいいんじゃないか、その辺まで子供たちは考えているわけです。
 そういう動きの中で、胎児性ではありませんが、小さい時に水俣病になった子供で結婚したケースもあります。そして、その子供はどうか、次の世代にどうあらわれるかということですが、本来をいえば、これは医者の説ですけども、母親というのはよくできていて、自然が持っている普通の毒ですと、脳と胎盤だけに入らないような作用があるわけですが、有機水銀のように人類の歴史上でこの一世紀ぐらいで出現したような毒物については、そういう人体の構えはなくて、脳にストレートに入り、胎児の中にも入っていく。しかし、今の科学では胎児を養っているときに、水銀を含んだ毒物を食べ続けると、有機水銀は母胎より胎児に濃縮し、「母親は毒が少なくて、子供に毒を吸いとられる」わけです。幾ら科学的に追跡してもそうなっています。
 現在、胎児性の子供が成長する、あるいは小さい時にかかった患者さんが成長して結婚する。そうすると前よりずっと魚を食べないんです。だけどその生まれた子供はどうなるかというケースがようやく一つ二つあらわれてきたわけです。最近では、どうも生まれてきた赤ん坊もおかしい。魚をそんなに食べないようにしたにもかかわらず、その赤ちゃんはひきつけやすいとか、首がすわらない。そのことについて医者はまだ何も言わない。そういった水俣病に侵された場合、一体どこまで見ていくのが観察記といえるかというと、胎児性の子供が死ぬまで、とある学者は言います。ところが次の世代にもおかしい子が生まれたということになると、その一生までを見るのが、この学問の使命ではないかという所に、医学者も立たされているわけです。

 カナダ水俣病の人たちと

 こういうことを映画に撮っていると、私の映画のことを聞いて、外国からそのフイルムをぜひ見たいということが七〇年代からぼちぼち出てきまして、一九七二年に、ストックホルムで環境会議がありました時に、世界中の人民が集まる広場を作るから、そこに映画を持ってきてはしいということで、英語版を作って患者さんと一緒に行ったわけです。それをやりました頃から、水銀問題が世界中に出てくるということで、魚を食べる習慣の所には必ず発生してるわけです。それから水銀は殺虫力がありますから、誤って農薬として使われた殺虫作用のある水銀を食べてしまった場合、きれいに水俣病が出ているわけです。
 その一番ひどい例がイラクで十万人とも十五万人ともいわれる大量被爆が起きたわけです。それは、種小麦を外国から援助物資として送ってもらうわけですが、アメリカで作った種小麦をメキシコの工場で水銀でスプレー殺菌して赤く着色したわけです。袋には、「これは食用じゃない」と書いて何十万トンとイラクに送ったわけです。ところがイラクでは小麦が不足していまして、農民たちが最初に鶏なんかに食べさした。ところがあの毒は一日二日でおかしくなるものじゃないので、これは大丈夫だということでパンを作って食べたわけです。そうしたところが、一時期に三千人とも六千人ともいわれる患者が生まれて、その中で六百人の死者が出て、その時期に妊娠してた十六人の子供が胎児性として生まれてきたわけです。その他死産、流産が何百ケースとあるという有機水銀中毒事件がイラクで起きています。
 これは注意書きに、有機水銀が使われていてどうだということを書いておけばいいんですが、食用ではないということをスペイン語で書いてあるだけなので、イラクではテンプンカンプンでわからなかったと思うんです。
 それから、これは因果関係がはっきりとしているんですが、一九七〇年にカナダで、そこの地域の魚が大量に汚染されているから食べてはいけないという発表をしたんですが、依然として食べた人が不健康になり、おかしな子供が発生している。さらに明らかなことは、そこの地域の猫を解剖したところ、水俣よりはるかに高濃度の水銀汚染と脳の破壊のされ方をしていた。どこからつついても水俣病の条件があるわけですが、カナダ政府は、未だ水俣病というものには至っていないということで救済をしないわけです。
 私はインディアンの部落に行って映画を上映してきましたけれど、その要請はカナダ政府から出たんじゃなく、インディアンが言ったから行ったんです。その囲りにはインディアンを支持する若い白人がいるんですが、当然金がないものですから、旅費はこちらで調達して行ったんです。カナダの人は非常に熱心に映画を見ようとしました。その熱意にほだされて大学もほとんど周り、厚生省の関係者も見る。また、リードペーパーカンパニーというのが汚染源の会社なんですが、そこに、「あなた方は水俣病とは何かを見るべきだ。映画を持ってきているから見なさい」というと、会社の人はいやでも見にくる。そういうストレートな対応がカナダには残っている。残っているけれども、インディアンの救済はまだです。しかし国が非常に若いから、自分たちの住んでる自然が汚染されていることについての恥しさとか苛立ちは日本よりはるかに強く持っていました。そういう気持ちが彼らになかったら、百何十日も重いフイルムを持って歩くことはなかったんですが、ほんとに憂うる人が毎日の上映で出てくるものですから、そういう人たちの仲間の要求でカナダじゆうを周ってきました。
 しかしながら、インディアンに対するカナダ政府の対応というのはあたたかみを欠いていますし、インディアン自身も白人政府を信用していませんから、両方の間で感情的な対立は毎日起きています。カナダは、いまの工場を閉鎖に追い込まないで解決しようとしている。ここが間違いなんです。カナダは森林の多い国ですから、森林資源を使ってのパルプ工場をやってるんですけど、そのパルプ工場に必要な苛性ソーダを作るために水銀を使っているわけです。その排出について、いろんな約束ごとはできていますけども、工場がこれだけしか排出していないという資料を出せば、それによって政府は許可を与えているわけです。資料の数字では、押さえ込む数値に達していませんので、未だに閉鎖に追い込んでいません。その間にインディアンの間にはますますおかしな人間が出てくるんですが、そのインディアンたちは、率直にいって、日本の医者しか信用しません。日本の水俣病の非常に経験豊かな原田正純さんが、二回にわたって現地で検診してきました。原田先生は患者を苦しめずに検診する、生活の中の不自由さをとり出して診るので、インディアンは原田先生には満幅の信頼をおいて診てもらおうとしますが、向こうの医者は数量主義で、血の中の水銀量は何パーセントかということで血をどんどん採る、髪の毛も切るということで、痛い思いばかりしてるものですから、カナダの白人の医者には診せない。
 それで、ともかくカナダ水俣病を少しでも前進さすためには、日本の水俣病患者と、カナダのインディアンの当事者とが密接な連絡を何年か繰り返す以外にないという状態なんです。それで私の映画も向こうに置いてきましたし、いろんな資料もこちらから送るんですが、ほんとうなら今年の十月に、カナダのインディアンの奥さん達が、胎児性ということを知って、女の人たちが入った調査団が水俣に来るはずだったんです。ところがインディアンにはお金がありませんから、一人について旅費・滞在費二千ドルの金をカナダ政府から出してもらって来ることになったんですが、政府は出さないわけです。それで最近手紙が来て、「まだ水俣に行けるかどうかわかりませんが、最後の最後までがんばってみるので、もうしばらく待ってほしい」という連絡なんです。水俣の患者は、もし来るなら僕たちが引き受けるということで、何十人という人から、俺の所に泊まれという申し出を受けているんです。
 水俣病といったものは、やはり差別されている人たちが起きやすいので、そういう人たちが社会的にものごとをつかんで闘っていかない限り、ものごとは動いていかない。だから洋の東西を問わず、水俣病というのは同じょうな社会的な反響を呼んで、社会的な争いを生んでいくものだなあという思いを強くしたんですけども、そういう意味で浮き沈みのある現象と見ないで、皆さんに水俣病のことを考えて頂きたいと思います。
 私の手元にある一九七五年十二月十日付の新聞によれば、いまだに水銀を使っているのが全国に二十一工場あります。
 こういった工場がいまだに水銀を流し続けている。これは、行政指導として水銀を使うのをやめなさいと言ってるにもかかわらず、これ以上いい品質を得られるいい触媒が発見されていない、コストが高くつくという二つの理由で、まだ使っている工場です。
 これらに対して異議申し立てをし続けていかない限り、水俣のことは終わらないんじゃないかという気がいたします。(拍手)