「不知火海・巡海映画班」活動計画書(内部検討用資料)
-不知火海・水俣対岸(熊本・鹿児島)の沿岸部及び離島の漁家集落における水俣病関係映画の全面上映と、その全旅程地域の環境・住民の生活実態の記録をセットとしての90日活動計画案。映画による苦海巡礼の意をこめて。
-はじめに-
「-映画人として、今なしうることは自分たちの映画をもって、もうひとつの映画的現実を作り出すことである」と、かって私は、水銀汚染の発生をみたカナダのインディアン部落での水俣病映画の巡回上映の旅に出るにあたって、ごく些やかな志をのべたことがある。
だが、ふりかえって足元を見るに、私たちは、水俣病汚染地域の”暗黒部”といわれる水俣の対岸や離島に映画をもちこんではいない。
この地帯に関して、医学者(とくに疫学者)は、昭和31年、水俣病発生時点から、今日まで、特定地点のサンプル的検診を行いえたのみで、新潟水俣病が行っているような継続的な追跡調査をなし得ないできた。
行政にいたっては、住民に水俣病のためと告げず、通常の健康診断をもって上なでしたにすぎず、今日もはや自律的に、潜在水俣病患者を掘り起す気配はない。昭和46年(かくされていた毛髪水銀データが明るみに出たのち)県衛生部は、不知火海全域における有機水銀の影響をうけたもの推定1万~1万5千人と読んでいたにかかわらず、積極的対策は何ひとつ実っていない。
水俣市周辺ですら事情は上の如くである。まして、いま私たちの巡回上映しようとしている地帯での対策は無にひとしい。患者自身と、支援者による潜在患者発掘活動は地道につづけられてきた。その努力によって、4,000人近い健康被害者が、差別の眼の網から申請にふみ切ったが、その活動のおよぶところ、多発部落の内陸部、隣接の芦北、出水までが、やっと辿りつきえた到達地点であった。離島では運動者の入れたのは獅子島の-集落湯の口だけというのが実情である。
一映画をとった者として-
ひるがえって考えてみるに、私たちはいつも映画で何ごとかをするものとして、運動そのものの担い手とは少し違う身の処し方をしてきた。しかし今回の巡回上映活動は、私たちの辿ってきた”あるべき水俣病”の根源に迫る社会的役割をになえるのではないか、という想いしきりなるものがある。何故なら、この地に映画”水俣病”をもちこめる適任者は私たちしかないからである。この20年、水俣病事件をその対岸のこととし、一方的に被害のみうけてきた離島、天草の漁民にとって、水俣病の”運動者”への反発は必至であろう。だが、私たちは映画の作り手として、辛うじて映画をもちこめる資格があろう。そしてこれは水俣にかかわり、10本以上のフィルムを作り発表しつづけてきた私たち映画人の責任でもある。
-なぜ上映が先行するか-
いうまでもなく、水俣病には、何が水俣病であるかの「合わせ鏡」がない。水俣の多発地帯ですら、患者と”非患者”が身体の異常を話しあい、手さぐりで水俣病像を学んできた。映画『医学としての水俣病・三部作』ができてから、これは集落ごとに熱心に学習材料とされている。また42分にまとめた『水俣病その20年』は、この3月頃から、連日、県庁に坐りこみ闘争をつづけた患者自身の大衆行動にあたって、各集会ごとに上映され、ひとびとの自己教育の資にされた。また川本裁判控訴審ではこのフィルムが弁護側の立証物件として異例の法廷上映がなされた。このことはだれしも水俣病を論ずるにあたって、まず水俣病事件とその病像を知らなければ、ものごとが始まらないことを物語っている。
ゆえに私たちは、このいまだ一回も水俣病像が知らされていない汚染地帯に、その事実を運びたいのである。しかも、上映条件の良し悪しで上映地点を選ぶのではなく、全漁家集落をもれなく、つぎつぎに上映して、一ヶ所の空白地点をも作ってほならないのである。
ごく数日前5月6日、患者連盟と申請者協議会は不知火海沿岸の全市・町・村長あて、申請への末端行政指導を訴える申入れ書を当った。その冒頭に次のようにのべている。
1.水俣病に対する差別・偏見を取り除く方策を確立し実行せよ
2.水俣病問題の正しい知識と情報を被害民に衆知徹底させよ
このアッピールは、いかに汚染実態の教育がなされず、水俣病21年の風雪の中で、沿岸の住民が閉されてきたかを物語る。ゆえに極論すれば、上映活動なくして、私たちはその地に足を踏みこむこともむづかしく、上映の遂行によって作りだすダイナミズムなくしては、あとの物事が始動しないであろう。その点、あくまで今回の行動の柱は、フィルムを映写することである。
一映画記録の意味(略)-
一不知火海から水俣を見る。
水俣病患者の水俣病闘争は、私たちのかかわったこの7年の間に、かつてない激変をみせ複雑なものとなった。それは水俣病患者の増大を抑止しようとする多数派勢力と、あくまで、被害民の側にたち、その根本的救済を求める患者自身の少数派としての闘いの実相があってのことである。
金銭としての”補償”は病気を一向にかけらほども慰めないどころか、金銭にまつわる新らしい質の腐蝕すら生んだ。”ニセ患者”発言は広く流布され、申請の意志は即ゼニもうけの亡者といった憎悪が植えつけられ”社会の病い”としての水俣病はさらに重症の度を加えている。
水俣での患者組織のいくつもに分裂させられていることや、支援組織も分散した闘いを余儀なくされていることも、爆心地水俣ゆえである。
一たび目を転じれば、沿岸、離島にいまだ埋もれている漁家の人々がいる。だが、いま特徴的なことは”救済”された患者には、いまだ救済されていない人びとが見えなくなっていることである。
何よりもチッソの”救済能力”の限界や、水俣からの撤収云々が、現実問題として前景に立ちふさがり、その心理的作用は計り知れない。「認定」即「補償」という局面から、患者は不断に分裂の契機をいわば自ら作り出す。まして未認定患者が自分から申し出る”本人申請主義”により、潜在患者は更に自らとじこめられるという構造が不幸にもつよまっているようだ。
重症 対 ”軽症”患者
旧認定 対 ”新”定患者
”初発”多発地帯 対 ”後発”周辺ドーナッツ地帯
「水俣市」 対 非「水俣市」
熊本県 対 鹿児島県(とくに諸島峡)
九州本島沿岸 対 天草沿岸・離島
といった差異のパターンをみる。これは人為的差別に利用されている。これの元兇はチッソであり、水俣のその城下町性20年の集積の圧力であり、国・県の行政力学のあらわれでなくて何であろう。
私たちは主舞台の水俣から離れ、不知火海の対岸・離島から第一歩の上映を始める意味はここにある。
一行動細目プラン(略・別記)
今回映画上映を試みるのは、第一期行動としては水俣から半径30kmの範囲に含まれる地域のうち、九州本島沿岸を第二期として除く、天草及び離島の未到地帯であり、水俣情報、とくに水俣病映画にとって全くの処女地である。
そこにマンガ映画、短編を含む各種の水俣病映画を時と所により組合せをかえて上映し、133全集落の浜辺で連続巡海上映する90日間(予定)の映画行動である。
そこから水俣病事件の20年間、その後背地、病みつつ、生活上の被害をうけてきた実態を調べ記録し、対岸から改めて水俣病事件を見なおし、その結果を再び水俣にもちかえり、そして全国の心ある人びとに伝えたいのである。
-さいごに-
この行動は本来個人的行動である。私たちにとっては映画のスタッフ自体の行動である。いままで、自らの力に応じ、運動的上映を行ってきたが、このような規模の活動は初めてである。それに要する資力、知力を、理解ある人にあおぐ以外にないと思う。この計画が、いま事態の核心を衝く力をもっているか否か、いま私たちは問われるであろう。
しかし何としても遂行したく、大方に、応分の協力を心よりお願いする次第である。
(5・10付計画書に一部加筆・削除しましたがその大綱は全くかわりません)
『不知火海』巡海映画 1977・6・20-移動映写の90日-
準備活動報告とあわせて御協力のお願いにあたり-
前略、御健勝のことと存じます。さてその後、活動準備として募金を開始、若槻菊枝氏25万、高野治郎氏10万円(のち、市井三郎氏、木下順二氏各1万円)御寄附頂きました。車輪として色川大吉氏のユーラシア横断のドサ号、フイルムは水俣関係(青林舎当局)の外、海のいきものシリーズ三本(岩波映画)『ある機関助士』(時枝としえ・秋山衿一氏より新品カンパ)漫画映画は折衝中です(以下略)
今の状況をどう見るか
準備過程で二つの重大な出来事がありました。周知のように石原環境庁長官に水俣視察と、川本裁判控訴審判決です。…ともに「国・行政の責任」をみとめ、又は陳謝したことなど国家の対応が過去の責任を認める点で、偶然にも一致した時期をむかえたようです。…これを今、立案している「不知火海・巡海映画活動」にひきつけてみるとある感じがあります。・‥これらはともに21年間分の”過去”については、企業はもとより、県の行政、国の責任は丸ごと認めましたが、いまなお不知火海に水俣病が現在進行形で発生しており、行政の怠慢も現地に持続中であるかも知れないことへの冷や汗の気配は皆無です。
巡海上映で調らべたい事
別記に、小池・一之瀬の予備調査の報告がありますが、二市、七町村、八離島の踏査の結果、三分の一が上映に協力的、三分の一がまずまず、あと三分の一が非常に上映困難を覚悟すべしという結果でした。(略)
そのトータルな結論として、行政の空白の20年間に、不知火海対岸は個人漁師の一本釣やあみから、事業体の型をとった栽培漁業に転換し、その販売ルートは今や全国市場にむけて走っており住民の食生活の魚中心は全く変化なく・しかも圧倒的に水俣病像は知らされていないことが分りました。
(この報告に基き、町村行政の20年の水俣病処理の経過、病院、保健所の住民への配慮を克明に聞くため、集落上映に加え、末端自治体である役場や病院、保健所内での監督上映を計画につけ加えることにしました。)
不知火海での汚染の拡大、被害者の拡大防止に現状どのように行政が手を尽しているかを具体的に調査したいと思います。
仮説Ⅰ 昭和35・6年の「毛髪資料からー”不知火海水俣病”」
毛髪中の水銀値は”水銀の暦”といわれるように、その毛の1cmが1ケ月分です。かつての水銀調査(別項参照)も今回辿ろうとする地域では、御所浦町、竜ヶ岳町をのぞきデータゼロ地域です。しかし当時50ppm(今日25ppm)を発症値とみなしたときですら、竜ヶ岳に200ppm、御所浦に920~600ppmという信じられない高い水銀値保有者が記録されています。
同じ35年、最初の発見地といわれる水俣、月の浦での最高値42ppm、湯堂でも平均50~100ppmであり、多発地帯のはずれ茂道になると147ppm、更に転じて10数キロ距てた芦北郡計石で192ppm、更に遠い田浦で200ppmの人が居ます。
何故、爆心地水俣では低く、遠い地域の人が高いのか。これは激甚な被害を昭和31・記年に目撃した多発地帯住民は、自ら喰いびかえて身を守った-漁獲禁止も、衛生管理も何ひとつ行政はしてこなかったたかで、彼らは魚から-時遠去かった結果と考えるのが妥当でしょう。しかるに、遠隔の地では、全く情報がなかった-だから食べつづけた。だから水銀データ上、水俣から20数キロ離れ、しかも天草に面した離島の漁家の主婦に920ppmという天文学的な数値が蓄積されてたのだと思います。こうした仮説から考えられるのは長期間微量の水銀を摂取しつづけたことによる慢性不全型(熊大武内忠男氏のパターン)水俣病の広汎な存在が推定されるのです。これは不知火海の水俣病ともいえる「不知火海水俣病」として水俣・水俣病とはちがったあらわれ方をとって漁民に被害を与えてはいないかです。
仮説Ⅱ 行政・国の”責任”とは
かつて新潟・阿賀野川に水俣病が発生したとき、熊本水俣病の体験を教訓としてこなかったと熊大研究者は口惜しさに慟哭したといわれる。だが今日、”水俣”の体験が不知火海沿岸で生かされているでしょうか。住民に水俣病を知らせ、医師、保健婦に水俣病を習得させ、一度でも本腰を入れて患者発掘をやったでしょうか。少くとも毛髪水銀異常高値者だけでも観察、フォローしてきたでしょうか。否です。
この6月の寺尾判決は「被害の拡大を防止することの出来たであろう」と県警本部、検察官の態度を指摘し「この意味において、国・県は水俣病に対し、一半の責任があるといっても過言ではない……それは、チッソと異なる意味で、国家もまた加害者であるといえよう」とのべた。今日、被害の拡大は進行をつづけていると思われます。
水俣から対岸・離島への情報伝達の上での人為的時差は大きく、”水銀蓄積の爆心地”が一時にせよ離島御所浦にあらわれたことをつねに念頭におきたいと思います。
「総合実態調査」とは
この六月末で熊本県は形式的にも実質的にも認定業務を返上、あと予算計上0です。伝えられるところによれば「水俣病認定基準の明確化」をうたっています。石原長官が水俣で陳謝したあと、「国が責任をとるとして、何がすぐに出来るか…‥まず着手すべきは総合実態調査だ」とのべましたそれが、新方針もに全く触れられていないのは全く奇異なことです。早くも患者の切り捨てだとする、新方針への批判の中で、県と国の”責任”実施の応酬と政治的暗闘の季節が始まることを怖れます。
私たちは、あるべき”今日”の責任を問うべき忘れられた人々とあうため巡海上映を行い、事こまかに一つ一つの集落の実態を報告したいのです。
私たちの行動に力を借して下さい
この上映・調査活動と並行して、映画記録をしたいのですが、資金的には1,500万単位の仕事です。その記録作業の方の金は、いま高木隆太郎プロデュサーが環境庁長官の「実態調査」発言の内実として、当局に申入れております。しかし上映が今回の主眼です。目下、水俣スタッフは独自の資金250万円を上映・調査活動費として見込み、協力方をかねがいしています。時期として、あらゆるタイミングを考え、今年の夏、七月下旬から十月までの旅となるでしょう。緊急で申しわけありませんが、貴重なお金を使わせて下さい。以上おねがいと御報告を申し上げます。
予備調査より 一拒絶の旅として-
忘れ去られた人々が人々の視野に入ってくるのは、いつも”悲劇の相”を帯びて浮上してくるのだという鉄則は、この不知火海沿岸の人々の世界にもあてはまる。
『…水俣病の映画を撮っているんだって‥』と私達に話しかけてきたのは、水俣から天草へ向う定期船”長水丸”の船長であった。初老をむかえつつある船長はまぶしい顔でぼくらをみた。過去数回、私達スタッフはこの長水丸を利用して不知火海の離島・御所浦島にあがったものだった。そのたびに自分達の仕事も気持も何か正直にだせなくてのふな旅だった。不知火海の海上で、これまで水俣病のことはタブーだった。なのにいせ船長の口から水俣病のことが話題にでてくるなんて!。なにが変ったのか、いや変りつつあるのか。そうした小さな事を手がかりとしての駆けあるきであった。
天草上島の人々は概して水俣病について”平静”だった。この平静さはぼくらの予想をこえた。なぜだろう。この天草対岸(水俣から30キロの地点)には水俣病事件も病像もいまだ”未到の地”としてあることは確認できる。反発を引きおこす磁場さえないこの対岸部は忘れられた土地だ。
だがこの平静の地にも例外はあった 倉岳漁協組合長杉本さんの拒絶反応だった。水俣沖6キロ地点でのハモ漁で生計をたてていた杉本さん達は、昭和48年の“第三水俣病問題”以来、今なお魚獲規制をされているのだった。この地に水俣病問題は漁民被害として進行形であったのだ。その地に水俣病映画をはこびこむわたしたちにたいして、杉本さんはほかにどんな気持で対応することができたであろうか。にがい体験だった。帰りぎわ『今度はうまい魚をたべにこいよ!』という杉本さんのことばにはげまされて、ぼくらは再びこの地に来ることを約束し、家を出た。
天草下島新和町漁協参事浦田氏の拒絶反応は予想された典型例のひとつであった。「この地で上映されることを個人的に反対します」と断言・警告する浦田氏の言葉に威圧されながらも、どこでこの人とつながりをもつことが出来るかと考えている私達であった。
鹿児島県出水郡東町獅子島幣串区長の『この地から水俣病は出さないことにしている』との言葉は、何かを確実に抹殺しておきたいという響きのみ残してぼくらをとらえる。その口はまた『かつてこの地には猫の狂死があったけれど、水俣病ではなくて、他の病気だった』といいきるのであった。同じ島のわずか数キロはなれた地に水俣病患者9人がいるのにだ。ぼくらはこうした拒絶のパターンに出会うことによって、いまやっと対岸どうしがこうした逆縁の関係でむすびつかざるをえない時期に遭遇しているのだと思う。
東町の鍼灸師北園氏は、37年まで水俣にいたが、水俣病の恐怖と、この地に請う人があって移住してきた人だ。自身水俣病の申請をしている北園氏は、日々患者を診ている体験から,『東町不知火海沿岸には百人単位で水俣病患者はでてくる』とぼくたちに語るのであった。御所浦島・獅子島と東町沿岸部との二地点を基軸として不知火海水俣病が逆浮上してくる予感がする。今、前夜の静かさの中にある。