不知火海・巡海の旅から 「日本読書新聞」 1978/1/1 日本読書新聞
私たち水俣映画スタッフが『不知火海・巡海映画活動計画-映画による苦海巡礼として』というアッピールをつくり、水俣病情報の伝えられていない天草上島・下島の不知火海沿岸及び離島に、水俣病の映画をもって宣伝の旅をいたしたいと訴えたのは七七年春であった。”天草・離島に必ず潜在患者がいる、だが彼らは何が水俣病か、その合せ鏡すらない。もし私たちがやらなければ、行政は半永久的に水俣病情報の伝達をしないだろう”これは水俣病事件にむきあったものなら、だれもがもつ認識であった。
天草・離島に潜在愚者の存在の蓋然性がにわかに取沙汰されたのは、異常に高い毛髪中水銀量をもつ住民調査データが、検査報告をマル秘としたまま一〇年間熊本県当局によってかくされつづけ、その当時の技師松島義一氏の決断によって、発表された昭和四六年五月にはじまる。その年二系統の調査がなされた。
一つは熊本大学で組織した第二次水俣病研究班(班長・武内忠男熊大教授)による御所浦、嵐口地区のサンプル調査であり、一つは行政による五万人を対象としたといわれる一斉住民検診である。そして行政の手によって患者として発掘されたのは竜ヶ岳町のただ一名にすぎなかった。
一方熊大研究班は一漁家築港、嵐口(戸数四一七戸)で一九七一年九月二~三日の両日の検診の結果受検者一四六人中その三分の一を要観察者とした、この熊大研究班のあとを自主検診グループがフォローし、この一地区だけでも、今日数十名の申請者を掘り起こしていた。
映画を作ったものとして何が出来るか
不知火海全域の潜在患者はー千人単位で出てもおかしくないと推定されていた(熊大原田正純助教授)。だが天草、離島全域では、すでに「洗い出しは終り、拾うべき患者は拾い、いま天草上島下島での発掘作業は完了している」としていた。研究者レベルの汚染・被害者像と、行政のそれとは天と地とのへだたりがあるまま時は流れていた。このギャップに、映画を作ったものとして何が出来るかを私たちは問われていた。
スタッフ一之瀬正史、小池征人それに初参加の西山正啓らと計画の根本を作るにあたって、私たちは巡海映画活動を、本来、映画スタッフの私的行動とまず規定した。”わたくしごとの企て”とすることが経過として自然であったからだ。
映画を最も被害の濃い地帯の人びとに見せたいと言いつづけてきたものの、未知の土地、水俣病を禁忌する漁民の土地、しかもリアス式海岸のひだひだや、散在する島の浦にかたまりすむ小集落の人々にくまなく見せることには、改めて、私たちの不知火海とのかかわりの持続力を、一つの巡回映画旅・長い行軍としての行動計画に組み変えなければならない。およそ一三三集落全域を歩くには百日余の旅となろう。人員四名、しかも陸行水行の旅である。その経費を考えると、それは”私的”行動のレベルをはるかに越えた。だからといって、公的”運動”と阻み上げる性質のものではなかった。
まず私たちスタッフの個的な内的要請が先行し、肥大したものであり、行動を起しても、医学者でも研究者でも、調査専門家でもない、一映画人の集団としてなしうる限界は、その結果が運動的且つ公的なパワーにつながることをのぞむという範囲にとどまらざるを得ない。たしかなことは、その行動をへての体験は表現者としての私たちの身につく”修業”でもあり、その果実は第一義的に私たちにのこるものであろうということは分っていた。
地の底から湧く支援・協力の波頭
不知火海・巡海映画活動という”私的モチーフ”を他者の協力・支援を求めて遂行するというパラドックスを計画の冒頭から刻みこまれての発起であった。このあてどない目標にむけて、手持ちの金の範囲であるいは途中でポシャることをも半ば覚悟しつつ、アッピール発送と同時に一之瀬・小池が予備調査に全域を歩いてきた。そしてこの地が果せるかな”水俣情報がいまだ皆無に近い地帯”であることを確かめてきた。
こうした経過から、”企画書””おねがい”を個的なつながりのある方々、水俣病闘争のなかで知己の人々の範囲に限って発送した。その反響はすばやく強かった。T氏は「自分の若い頃の文工隊に托した夢」としてまとまった額を送られ、W女史は小切手をいますぐにとりにきなさいとせきにてるほどだった。
計画は一挙に現実味を帯びはじめた。不知火調査団グループ、映画人グループ、自主講座グループ、ジャーナリストグループ、”告発”グループとおのずと集団的な塊がみえはじめ、資金のみならず、現物、つまりフィルムやテント、食器から主力車輛の提供までー。
その地の底から湧くような支援、協力の波頭を身にうけて、私は”水俣病のある現代”を同持代として生きている人びとの稀有な呼応と行動力が潜在的エネルギーとしていかに分厚いものとしてあったかを知らされた。それは私たちにとって衝撃的ともいえた。私から公、個から集団への回路が貴通する瞬間をみたのである。その感動を感謝のことばに代えることすら困難であった。
三台の車に、一一本の16ミリフィルム他、映写機器、寝具、テントそれに炊事道具を満載して、天草上島より上映開始したのは八月一日である。そして終わりは離島御所浦・牧島。その間百日、一三三集落を六六ヶ所の上映会場に集約して、その登録人口三万弱の人々のせめて一割には観てもらいたいと計画していた。
日本地図では湖にすぎない不知火海だが、映画を撮る眼としては優に日本の縮図を包む大きな海として見慣れてきた。だが映画を観せたいと思いつめる上映者の眼でみるとき、不知火海は何と大海にみえだことであろう。戸数二三戸の横島がいわゆる”島”であり戸数千数百戸の離島は大陸が横たわっているかのように思えた。また立つ所を対岸にして水俣を望見するとき、水俣はあまりに遠く思える。対岸の水俣病事件が一衣帯水のこの天草、離島の人びとに告げられるのに、廿年の歳月の歩みを要したことになるのである。
情報を伝えること、これは水俣病に限っていえば至難のことである。水俣では患者さんがじかに話しにいき、上りこんで語ることしか有効ではなかった。「告発」誌や本やTVでさえ、その潜在患者の浮上には役に立つことは少かった。だから患者川本輝夫さんらの昭和四四年以来の東奔西走の日々があったのである。つまり人と人とのつながりでしかなかった。その点映画もまたどれ程有効であろうか。だから映画会のもち方も二転三転した。映画の上映会場で、観客の反応にくい入るように眼をこらしていると、私の映画がいかにまだ未熟なものかを知らされ、焦慮にかられるのである。
主力フィルム『水俣病その20年』は、実は一九七五年のカナダ巡回上映の旅の折、水俣病はおろか日本をみることもはじめてのカナダ・インディアン、カナダ・アメリカ人が上映終了後発した質問、つまり理解に苦しむ部分に、応答するよう細心配慮して作ったいわば工作用プロパーに出来上った「水俣病」映画である。医学面も社会的闘争も歴史と現状も折りこんたものであり、一般にはそれでもまずまずであったと自負していた。それが今回、汚染地住民のただ中では、その自負はゆらぎ、たえず不安と緊張の連続となるのだ。
一ヶ所で一回限りの上映行である。しかも上映会場の獲得だけでも困難な水俣病アレルギーの町当局、漁協当局のひざもとでの上映であり、その会場に来た人々にとっては、右顧左べんしつつ映画をみに来たのである。
もはや映画会ではなく説法に以て
私たちは活動弁士の方法をとることにした。フィルムの進行につれて、観客の反応によって、さらに具体的な解説を加えた。ときにはフイルムをとめ、ときには逆回転して、医学について知るかぎりの打撃で音をけした画面に棒で図示しつつ、丁度、スライド上映と同じ方法も加えた。
懸念は古典的急性激症型や重度の胎児性水俣病患児が水俣病といわれるものだという十数年前の水俣病像がこびりついており、いま不知火海全域では別のちがった全身病としてあらわれるだろうこと詳説したからである。極端に言えば全編、映画の一シーン、一カットを話題にして膝つきあわせて語りたい思いにかられる。
漁民の”チッソ攻め”のシーンに参加した老人がそこに居るのである。又、胎児性の子供のくだりにくい入るようにみている妊婦や、胎児性とそっくりの子供を抱いて見にきた夫婦には、映画の数倍の情報を知ってもらいたい。そのはやる心を押えても、映画会はスクリーンわきでの解説や前後の話しをまじえての実演・口演の会の様相となる。
それはもはや映画会ではなく、説法に以ていた。しかし、こういう今までの映画会の方法をかなぐりすてたところではじめて、共感とつながりが得られ、がらっと変った雰囲気が生まれはじめたのである。閉された汚染地帯に入るに当って、川本輝夫氏が情報をつたえるにあたってとりつづけているただひとつの方法、つまり「品物(情報)を足で歩いて手で渡さんば分ってもらえん……かくかくしかじかってなあ」と言う彼の方法に近づいていくのだった。
新聞やTVが、このエリアに水俣病情報を流した量は決して少くないはずである。しかもTVの普及率は僻地ゆえに必需品である。だが映画をみて「TVでみて知っちゃおったばってん、今日んとのはよう分りました」という反応は何であろう。電波によるコミュニケーションと地域の人々のあつまりの中での映画の反応が膚と呼吸とで横に走り交う独特の磁場効果をあわせもつコミュニケーシヨンのちがいもあろう。だが何より、映画を作った人間が眼のまえにおり、それにぶつけかえすことの出来る人と人との絆こそ、水俣病事件を身近にひきつけ、「対岸の火事」でなくいま自分のこととして体得できる場と機会になり得たのではないだろうか。
「悲しみのロマンゆえ 水俣病始末を画策する人々への異議申し立て」
私たち一過性にすきない旅の中で、私たちは、「自分たちで思い当るとです、これは確かに水俣病じゃち、これが水俣病じゃなからんば、他に誰が水俣病じちゅうてなあ」と訴える、潜在をしいられた病苦の人々、及びその肉親の声を聞いたのである。そのなかには、”離島・天草にはいまだ所在を確認せず”とされている胎児性水俣病様の子供との出会いもふくまれ、名前と住所をリストしただけで二十名をこえている。そしてその大部分が、いまだ検診を受けていない人びとであった。(このデータは近く資料を附して、発表できる形をとりたいと思っている。)
映画上映は沈静期に部落を訪れた
自分で自ら水俣病を穏しつづけた人びとのその理由のうち最も重大なものは、地域全体の漁業の存亡を賭けた「水俣病は出してくれるな」という漁業者共同体の不文律である。そのおきては漁民闘争で惨敗した昭和三四年の秋から冬にかけて不知火海区(熊本県内)九漁協で口頭で盟約されたものである。それが昭和四六年以降の県当局の五万人一斉診断の時点にも生きつづけた。
皮肉にも、この一斉検診と時期を同じくして、天草には、東京の関東大震災にも比べられる四七年大水害が襲い漁場を塞いだ。ついで四八年、有明海・第三水俣病パニックで忘れていた水俣病さわぎが再襲し、魚は全然うれなくなった。そしてその秋からの石油パニックにより重油は上り、漁家経営はひとたまりもなかった。この上「水俣病なんのと名乗れば、ここにはすめん話じゃった」というのである。
映画上映はそのパニックの沈静期に部落に訪れてきた。漁民家族の思いは複雑だったにちがいない。しかし、身体の病状悪化になやむ被害民にとっては、それは思いかけぬ機会であると同時に、「これが愚痴をいう最後のチャンスかと思うて……聞いて下さるだけで結構じゃばってん」(竜ヶ岳の老女)というくり言から、そこの網元一族をおかした水銀汚染の被害者群を知ることが出来たのはやはり時の必然とも思えた。
各町当局は、姫戸町をのぞき、映画上映については黙認がせいぜいであり「気の毒だが、見にくるものは多かなかけん-水俣病の何のっち、ここの衆は関心なかけんなあ」と冷笑を裏切った。当初、経験則からみて登録人口(出稼ぎその他を含め)の一〇%を努力目標としていた観客のそれは御所浦町の場合、大集落でも三〇%、小集落では実質九〇%(同町、外平、椛ノ米)の高率に及び、”町としての事件”といわしめたのである。この住民の意向と行政当局の認識の悲劇的ズレこそこの映画会行動の照射目標のひとつでもあった。こうして私たちは全行六五ヶ所、七六回上映、動員総数は予定の三倍弱八千五百人を得て一応の終了をみるにいたった。
かえりみて、今回の計画の強い動機となったのは、妻を920ppm(毛髪中水銀)の高汚染で急性激症のまま狂死させ、自分もまた映画『不和火海』で妻の死を語り、「水俣病」を気づくことなく放置された自分たちの生きざまを語ってくれたM老人の死(昭五一年二月)であった。世界の毛髪水銀検査データの中で最高の蓄積で悶死したこの人々の部落、御所浦、牧島・椛ノ木を百十日の上映の最終地点に選んだのは、私たちにとっての悲しみのロマンゆえである。
旅の一つの節が終わるとき
M老人が死んでから家は閉じられ、家族は四散していた。私たちが特に招いた一人娘ははや五十代であった。初対面の彼女に私はその母がどのような”魚くい”であったか質問した。その答えは、「普通でした。ただ死ぬまでごはんはたべんとも魚だけは薯をつけとりなしゃった」やっぱり…という感慨がある。研究上は水俣病の因果関係、臨床、疫学の第一次段階は究明されており、それと同時に「水俣病の発生、ようやくにして終息」(昭三五)と熊大が発表した時でもある。これをうけて行政は一切の救済をやめた。この老女に何の医療の救助もなかった。
そしてこのひとり娘の老女の語りは私をひきつけた。七人の子の名も満足に思い出せないのである。物事を語るにも「あれが丁度あれしてましたとき、あれがあれじゃったもんで……」とすべてあれに代っていた。水俣病の症状の重度の記銘力障害におち入っているようだ。私のすすめに「もっとひどうなったら考えるばってん、まだ申請な、しきりまっせん」と答えるばかり、いまだ920ppmの母をもったこの人は肩身のせまい思いのままであった。
「調査すれど医事はなく…」と行政を間責した私たちもまた「撮影すれど、普及せず…・」との、同等の怠慢の中にいた。それを償うことが私事の私事なる私たちスタッフの今回の行動であったかも知れない。
私たちは今後まとめるデータをもって、水俣病始末を画策する人々に異講申立てをするつもりである。その時こそ、この旅の一つの節がおわるであろうからだ。