”赤心”の履歴、いま-戦後30年の検証-7 「東京新聞」 7月30日付
私はいわゆる昭和ひと桁前半である。遊びを知らない世代である。青年のつもりでいるが、四十六歳、いまの映画のスタッフの中では、最年長であり、逆に若い人から世代論争をもって遇されるこの頃である。
水俣病とその患者さんにかかわりをもってから九年、今も医学映画『水俣病・三部作』『不知火海』と仕事をつづけていることから、一本筋の通った生きかたのようにうけとられることもあるが、それは私の身勝手であり、戦後の私の思想のなかみは決してまっすぐなものではあり得ない。
昭和三年前後の生まれの人びとは、大不況の唯中に生まれ、同じ年、共産党の大弾圧によってそのテンポを早めた戦争への道を”お国”と共に生き育ったはずだ。大正デモクラシーも、ましてマルクス主義の洗礼もなく、日中戦争、太平洋戦争そのものを教育の柱とし、教材として学んできた。とくに第二次世界大戦を中学時代の初めから終わりにぴったり重ね体験した。原爆でついえることなく、もし戦争が一、二年続けば、兵士として戦場で散華することの出来た年頃である。散華が一つの人生の目的であり、美であった。軍国主義教育の徹底していた麹町の小学校で、藤田東湖の素読から始まり、剣道、明治神宮遥拝等で洗いみがかれた少年兵的教育はそうであった。戦争の終わり(それは戦勝としての終幕であったが) までに間に合わなかったらどうしようと、死に急ぎの思いにすら駆られたこともあった。比較的自由主義的教育で知られる中学すらもその残り火すらなく、配属将校の愚直な教育が朝礼から課外までつづいた。国防研究会といったサークルが抜きんでてはばをきかせ、海軍兵学校、陸軍士官学校に進学の決まった秀才は、入学の日まで、学生服に羽をひろげたマークの刺しゅうの縫いとりをつけ、それが私にはまぶしいものに見えた。当時の価値はすべて戦争への参加の度合にむけられていた。中学二年の末からついに”卒業”まで勤労動員にあけくれたが、それも苦痛ではなかった。
体で覚えたものと頭で覚えたものが妙に一つのものに混合する時期であった。未分化の年頃であった。私は世の中のこと、戦争の正当性を自分なりに解くため、つまり納得するために、色々の書物を読んだ。むろん社会主義の本もマルクス主義の文献もない。友人のすすめで次々に読んだのは反ユダヤ文献である。四王天延孝中将のユダヤ、シオニズム、フリーメーソンについての著書から、マルクスもロスチャイルド家も、チャップリンもユダヤ人、その世界征服のためのかくれた組織、宣伝活動といったものが、一見知的パズルのように組み立てられていて、天皇崇拝をしいる神話的歴史より興味があった。ヒットラーの『わが闘争』の補助書にも値しないデマゴーグの本の中から「階級」とか「金融資本」とかの用語を新鮮に見つめたりしながら、十五、六歳の私たちは、知らない”世界”をつかもうとしていたようだ。
その中学時代、憲兵と特高は私たちのすぐ横あいに居た。一度は陸士への入学願書とりさげのとき、その事情を調べにきた。私の事情は学力不足で一年延期しただけである。だが憲兵の訊問は、私の「赤心」を頭から疑ってかかるものであったし、郊外の駅前にはった「××読書会の会員をつのる」のポスターが一夜にしてはがされたときもそうである。本の欠乏、読書欲をみたすために、本のまわし読みをしようというだけの話であったがー。家から『第二貧乏物語』やユダヤ文献まであらかた持ち去られた。
いささかも聖戦を疑うことなく育った世代、神州不滅の大義のために死に急ぎすら求めていた私たちにとって、この種の体験から、私たちの一つ前の世代なら知っている「ある世界観」「別の価値観」が秘匿され、触れざるものとしてあることを嗅がないわけにいかなかった。笑い話だが天皇が用便し、交接することすらその神格と矛盾すると考えた時代である。都市は空襲と疎開でどんどん空洞化し、青年の姿は兵士以外なくなった。日に日に迫る空襲の中で、私たちはどんなに裸の人間として、その思想の貧しさにふるえていたか、依るべき人間史もなく、明治以降、人々の獲得したデモクラシーやマルクス主義の細い糸すらぶつ切れた時代に、いかにすっぽりはまって生き育ったかを今もザラザラと思い返すのである。
敗戦を飢えと徒労感と負け犬根性の中でむかえた。都会育ちの私はせっせと農家に焼けのこりの母や姉の着物をはこんでイモに代え、アルバイトをみつけるためにその日暮らしに追われた。マッカーサーは民主主義を運んだつもりだが私には勝手がちがった。かつて皇国思想をやや知的に語って倦むことのなかった英語教師のつとめる高給とりの立川基地の通訳の助手として米軍に接した。基地の大工、土工の手伝いのための通訳である。一列に並んで排水口を掘る人夫を一日、二回見まわりの米兵が端から一人もれなくムチで叩いていく。土人の扱い方のABCである。兵舎の修理にいって米兵が皆に見せ合っている写真はどこかで見た少女である。暴行直後の全裸のスナップである。感情を失って強迫笑いすらうかべている日本の娘の顔ーまだパンパンという言葉もない戦争直後のことである。教師が師たることを失い、男が男であることを失い、青年がその青年たるとを失つってあがなった職が基地にあった。首都にみなぎるアメリカ民主主義のラッパはそこには皆無であった。敗戦によって生まれた私の戦後は、こうして首根をへし折るような暴力的植民地主義から始まったのである。私は十八歳であった。