記録映画の本道は、開かれている『東京クロム砂漠』より 「公明新聞」 12月26日付 公明党機関紙局
「記録映画は誰にも作れる』と言おうものなら、いま出版界でもはやりのハウ・ツーもの(どうしたらできるか……あなたにも出来る)といった趣きで眉唾ものにとられるかも知れない。しかし私は私自身に照らしてみて、その考え捨てないできた。そのよい証左というべき作品が昨今誕生し、私はようようにして声を大にして言う資格がもてた気がしている。
それは「東京クロム砂漠」と題する東京・墨東地帯にまきちらされたクロム鉱滓の人間破壊を追った一時間五十分の堂々たる作品で、記録映画としては本年屈指のものと評されている(昭和四八年度、朝日新聞の一年間回顧作品のベスト・ファイブに劇映画に伍して列挙されている)。だがこれを作った七名のスタッフは二十七・八歳の全くの”新人”であり、生活は定職をもつかアルバイトをして三年間この映画に費やした。映画学校の生徒であり、その卒業製作としてこれを作った。(本紙十一月三十日付学芸欄「若月治・『東京クロム砂漠』を製作して」参照)
私は元来この種の映画学校に、ある種のタレント速成といった学校商売の匂いをかいで、一度もかかわったことがなかったが、彼らを育てようとして七年間解説されたアテネ・フランセ映画技術・美学講座には一回かぎりの試みとして講師となった。というのはその創設者ジャック・フェラン氏(目下帰仏中)とその協力者倉岡明子女史は理想家肌-というより何かに賭ける夢想家肌で、世界のドキュメンタリー紹介に倦むことなく、また私らのよき理解者でもあったからである。
話はとぶが、記録映画の面白さ、その真髄を私たちにのこしたのは戦中戦後の作品(「戦う兵隊」「上海」「生きていてよかった」「世界は恐怖する」)等で戦争や原爆を批判しつづけた亀井文夫氏を源流に、野田真吉、羽仁進といった人々があり、私たちがそのあとを追ったのは昭和三十年代の初め頃からである。当時まだTVは揺籃期であった。そのTVがドキュメンタリー番組を充実させるにつれ、私たちのすぐ後の世代は根こそぎTV、放送の世界にさらわれ人材は映画のドキュメンタリーの人間のつながりの中で失われた環になってしまった。だがこの数年間に、二十歳台の新人が、ドキュメンタリー映画を作るようになり、辛うじて断絶することなく気鋭の作家が登場しはじめた。TV界の飽和と管理体制の進行によって、それへの道を絶たれたし、自ら絶ちもしたからであるう。
フリーで自立を望むこうした新世代の青年は貧乏とチャンスの獲得、映画作りの条件に悩まされなければならなかったし、その修行時代をPR映画やTVのCMの現場からスタートしなければならなかった。その人々はその点でプロの途をくぐって自分の作品世界を拓いた人びとである。ずぶの素人ではない。
映画監督というより映画思想家というにふさわしい伊丹万作(伊丹十三氏の父)は三十年以上も前にその著作の中で「私は映画の学校なるものを信じない。あるとすれば映画館か撮影所の中にしかない」と喝破されたときく。私もそれを首肯しないわけにはいかなかった。
このところ族生した映画学校から流行映画作家を模倣したひよわな”映画人”が感覚と若さと音楽の衣装をまとっただけの”作品″を出して私を悩ませていたからである。だが一面、私はドキュメンタリー、記録としての映画が、必ずプロでない人間からも呈出され得ることを信じてきた。というのは小川紳介にせよ、私にせよ、ある意味で一回の徒弟制もくぐってきてこなかったからある。
羽仁進が先輩にいた。しかし、彼が劇映画に興味をもち、記録作業を横においた時期(昭和三十ハ年度「不良少年」)から記録映画を始めたので、我流もいいところでスタートしたのであった。水俣映画に至るまでである。
私にとって、対象が何にせよ”凝視”と”発見″という映思的思考方法しか挺子はなかった。つまり見なれたもの、時々流れてよぎるものをとめてじっと見ること。そこで全く新しいものが見えてくる。あたらしい訴えをその映像がよびかけてくる-これを凝視と考えた。また発見とは、調査、アプローチ、その対象としての選択、そして認識という記録映画のプロセスのもつ豊かな発見性のことであった。そしてこのどの作業も、映画の経験とか修業ぬきに”誰にでも獲得できる″見方の問題、対象との姿勢の問題なのである。ただ映画の場合、映像として記録する技術は無視し得ない。だが、いずれが主でいずれが従かは主客転倒できない。この点、私がアテネフランセ映画講座の講師をゆだねられて、その思う通りを問うた。若い人たちだけにインクのしみとおるように吸収された。「ドキュメンターに原作も手本もない。あなた方と対象との間に、映画がある。それを掘り出せばいい」といいつづけてきた気がする。
すでに前註のように本紙に「東京クロム砂漠」についてのスタッフ若月治君の論文があるので、その映画の内容とプロセスについては省くが、彼らは決して上手でも器用でもなかった。ただ足繁く亀戸の工場とその周辺の住民をたずね、そして目下、肺癌の危険にさらされ、鼻中隔せん孔をもつ老職工たちに会ったのである。この老人たちの戦前工場ものがたりは圧巻であり雄弁な現代人民の歴史の再現であった。
講師のひとりである私はプロデューサーの”校長″倉岡明子氏の熱意にほだされ、怖る怖るこの大きなクロム禍のテーマを提出したことを気に揉みながらつきあったが、この三年間に記録映画が誰にでも出来るという素志を確認することが出来た。と同時に容易には誰にも出来ないことを悟ることともなった。矛盾するようだが、三ヶ年、ひとつの対象、焦点のなかの人びととつきあいつづけること、記録しつづけること、その自体が記録者の形成であり、責任を負うことだからである。現代、”情報”は決して少なくない。ときに六価クロム問題すら洪水のように情報はあった。しかしそれを凝視しつづけ、発見をを求めて、それを掘り下げるといった歴史的な凝縮作用はなかった。それがニュースと記録との差であろう。瞬間風速を示すのと、気象の全図の差ともいえようか、あるいは記録が独自の資料性報道性をもつ作品として誕生することとも言えるだろう。
十一月未完成間もなくアテネフランセ文化センターで公開されたが、すぐクロム被害者の裁判に証拠物件として申請され、十二月十八日異例の東京地裁公判での上映が決定された。若月治君他、演出の山邦伸貴、カメラの小田博、スタッフ小林義正、浅利薫、岡学、渡辺忠則君ら七名は、その仕事で現代の証言者に文字通りなったのである。
私たちがこの映画の誕生にドキュメンタリー映画の本道をみいだし得たよろこびは深い。
省みて、いま資本や体制の側も、せっせと彼らの記録を作っていることに気づく。自分たちの足場をかため、それを歴史づけるのに記録映画の形式は他に比がないのである。愚挙、「万博」「海洋博」の映画にせよ、企業のPR映画にせよ、競艇ギャンブルの首領にせよ、業績を記録している。あちらの記録に対し、こちらの記録もまた必死に競わなければならない。管理の進むテレビ・メディアは”客観的”でエキサイテングなドキュメンタリーにスペースを大きくさいても、社会の深層にある底辺の人の声を拾うことは少ない。そしてそれに着目する若い映画人に圧迫こそあれ資力は極度に乏しい。この状況は変わらないであろう。しかし記録は個的作業であると同時に人々の手にわたされ、力となっていくものであり、その歓びとたのしみはこれは他に比べるものがない人間のしごとなのである。
私はこの快楽を自ら幸せにも享受しつつ、他者にも「すすめたい」のである。(一九七八年十二月)