不知火海水俣病元年の記録-第二部・1 『暗河』 冬季号 暗河の会 <1979年(昭54)>
 不知火海水俣病元年の記録-第二部・1 「暗河」 冬季号 暗河の会

 充電の旅

 「あんた、離島のもんは、橋でつながるかトンネルでつながるかちゅうときはですね、トンネルは好まんです。いくら米あたりの単価が安いっていったっちゃ。橋がかかるでしょう。島と島がつながるでしょう。それが海をまたいでなあ。その眼に見ゆるということが大切ですたいなあ。竜ヶ岳の高度と樋島をどうむすぶかちゅうとき、結局目に見ゆる橋がよかちゅうところで樋島大橋ば作ったですたいなあ。それとおんなしで、水俣の、チッソのと、眼ん前に見えとれば、天草ももっと水銀はおそれたかも知れん。島じゃのかすみじゃのってかかれば、もう別のこと何も考えんもんな。見えんちゅうことはまこて頼りなかことですなあ」
 前竜ヶ岳町長辻本市之助氏のことばだ。
 真逆の地点に立てば天草も見えないと同じことだろう。私が水俣と天草をゆききせずに居られないのは、その橋を作りたいからだ。
 今度で指折り数えて六回目の天草の旅だろうか。七七年の巡海映画上映の四ケ月を第四回の長旅とすれば昨年と今年と、私はただのひととしてまわった。映画人として、カメラをもたず、映画を撮ることをまだ尚早としつつ、もっと言えば、まず何をどう見るべきかを模索するための現地体験の充電旅行であった。ただのひとではあったが無策の旅だったわけではない。
 昨年の旅に、私は雑誌「展望」に一挙百五十枚のスペースを得てまとめた、巡海上映の記録「不知火海水俣病元年の記録」の掲載誌(七三年三月号)を百部あまり、そして約一年後、単行本にまとめた「わが映画発見の旅ー(副題・同右)」百四十冊を天草・離島の知己、未知の”要路”のひとに送付し、そのあとを追っての旅であった。ひとつにはどううけとられたかの反響を把みたいためと、もうひとつには、その記録によって、あるいは差別や不幸な事態を招いているひとがあれば(文中、すべて実名を記し、その総数五十名余に及ぶ)謝りたいし、その真意をのべさせてもらう機会としたいと考えた。それは見ることを深めもしよう。「この本を貴方の外、××町の町長、教委、××医院、××氏等に送ったことを附記します」という手紙をそえて本を送った場合が多い(もともと天草に本渡・牛深以外、不知火海沿岸に本屋はない。出版社系の週刊誌が店の一隅にあるのが目をひいたぐらいだー樋島・宮田・深海)。私にいろいろ語ってくれた人のなかには、活字になることを予想せず、まして、それが近隣のボスや医院に送られることなど考えなかった人もいたに違いない。もしそうすると分っていれば喋らなかったという人もあろう。しかし私は執筆の時から、そうした送り方をすることを心に決め、その配慮のもとで書いたつもりでいる。その意図は、いわばその人をとりまくしゃばにも不知火海水俣病のありようを知らせることで、その被害者ひとりが”隠れ申請者”として立場を秘匿し、暗闇にかくれすむことをしないでほしかったからである。
 映画も、私にとっての最高の観客は「水俣」の人びとであった。本の読者のそれも、不知火海沿岸の人びとであってほしい。その望みがともなう緊張関係はまた新らしいものであった。無論その旅立つ前に、十数通の手紙が届けられた。それには時に誤記の訂正を含むもの一・二通はあったが、ほぼ返礼といく分の賞辞のこもったものであった。返事のなかった数多くの人びとの心は全く分らないといってよく、むしろ危惧と不安を予期した方が正しい。さきの巡海映画ではなまみの患者が画面に登場し、その決して癒えることのない業病のディテールや、胎児性水俣病の母と子の描写やその病理を、解説などで、天草・離島の人々の不健康や病気を改めてふりかえるための”合せ鏡”としてスクリーンにうつし出した。だがその時点で、天草の人々(一部御所浦町をのぞき)離島の人びとが登場したわけではない。だからひとごとでもあり得た。だがこんどは、彼の人びとの生活圏の記録であり、そのプライバシーをまるごと文章にした。
 姫戸の離れ部落の区長久保則義氏の手紙には「当牟田地区から始まる天草巡海映画の項に読み入りました。記録物語の好きな私は、小説以上に興味深く読みつづけており、竜ヶ岳、倉岳、御所浦など近町の知名の人々の名前など出て興味は倍加されます……」とあった。八代のパチンコ屋にも船でいくといった、今も海上交通を日常とする人びとである。文中の登場人物は思い出すことの出来る同じ海上の民びとであるに違いない。
 こうして生活のディテールまで噂の走る社会の中で、水俣病に「申請しているかどうか」「もう認定されたかどうか」といったたぐいのことは、戸数百戸に満たない集落の中でもトップシークレットで、世話人すら聞くのをはばかるたぐいのものとなっている(御所浦.大浦.唐木崎など)。
 医師も各市町村当局も「プライバシー」を楯に水俣病問題だけを水面下のこととしてきた。医師のモラル、行政の個人秘密尊重、そして「本人申請主義」といった秘匿の三角関係の中で、不知火海沿岸十数万の人びとの有機水銀中毒による被害の蓋然性はふたをされ、国・行政の無作為的犯意ともいうべき怠慢の口実とされてきた。故に、水俣病におけるプライバシーは誰のための作為であったかを考えれば、専ら行政のためにあったと言える。もちろん「水俣病になれば嫁もこんし、嫁にもやれない」といった一家の”家系”への防御的心理が、不知火海沿岸に一軒のこらず泌み入っていることは知っている。だがそれが悪性遺伝でなく、毒物中毒であるという水俣病のメカニズムの情報・教育ぬきでその”迷信”を放置し、その常識にプライバシーなる横文字の人権をおっかぶせて真相究明を怠ってきた。
 ゆえに私が実名をあえて選んだのは、微力にせよそれへの挑戦であったし、或いは私の考えをのべるきっかけとするためにもむしろそれへの批難をうけて立つべしと思ったのだ。

 風化しつつある町

 天草入りに先立ち、私は不知火海総合学術調査団の一行とともに七月下旬、水俣を訪れた。昨年、胎児性水俣病患者・若い患者の会の石川さゆりをよんだキャンペーンの発起から成就までを「わが街、わが青春-水俣絶唱」というTV映画で撮ってから十ケ月ぶりの水俣だった。調査団も、この五年目までの研究成果を中間報告として一つの前段の総括をしたいという事情や、患者同盟・申請者協議会と支援グループによる「国家賠償請求闘争」の新たな構想の検討開始の時期でもあり、また映画としては、若い患者の記録を今後どの方向で進めるかなど、課題はいくつもが、いくえにも折りたたまれての水俣の夏だった。
 今年の前半、私は水俣スタッフ全員で生活のために註文映画を十数年ぶりに手がけた(国際交流基金・海外版「日本の若い世代の声」”VOISES OF YOUNG JAPAN”)。この仕事で、新日本製鉄の城下町、千葉県君津や、津軽半島の九〇%季節出稼労働者地帯の五所河原市・そして東京都下大島など、さらにとんでフィリッピンの最僻地のひとつバラワン島などを興味深く見てきた。フィリッピンは別として、いま日本の小都市でめだつのは、公共施設、市役所、公会堂、福祉施設、学校、運動場、公民館、農協会館等の一斉の恒久建築化と、公園風のセンター.スペースの都市設計と基幹道路づくりといった公的投資による都市化の増大である。いまひとつは、周辺の青年層をそこに足どめさせるための亨楽街の群生である。バー、スナック、トルコ風呂、インベーダーゲームセンターなど、もはや大都会なみのあらゆる”若者”文化がセットとして地方都市にはある。それらが薄手のプレハブ建築から、堅牢な建物に建てかわりつつあるさなかにあった。人口十万以下の都市にはその周辺部の農業地帯のありようにせよ、高校新設による学園都市化にせよ、企業進出による急膨張にせよ、観光地帯の環境整備にせよ、地域として見るときその脈絡が見えて来る。高度成長期のベラベラ文化、ビニール文化、石油ショックの不況をへたのちの、ある種の再構築が日本の各地に進行している。それを見てきた眼には、水俣は水俣病事件をかかえたこの二十五年、日本の一般的な進展からみると陥没しつづけてきたように思ってきた。だが十ケ月ぶりに訪れた水俣は、不思議な変り方をしていた。
 湯の児の山頂に”記念碑”的に建った空洞・国立水俣病研究センターは別としても、O病院、K病院をはじめとする医院、個人病院の新増築ラッシュである。水俣・芦北地区に五十六の個人病院がある。その他に市立病院、明水園、湯の児リハビリテーション・センター等、医療機関が大発展しているわりに、市の公共的な投資によるものは社会文化会館の外、みるべきものがなく、都市の貌のない水俣がよりその欠落部をきわだたせる結果となっているようだ。病院都市と特徴づけるべきか、病人むけ消費都市というべきか、高層化した病院群は水俣の景観を変えんばかりであることは確かだ。そして”若者”文化はほとんどない。そのかわり水俣は中高・老人層の都市なりに落ついた繁昌と安定をみせている。そこにはかつて渦まいた安賃闘争に二分された労働者の町の片鱗もなく、怨の黒旗の流れ、患者のすわりこみやデモに流動化された日々も嘘のように消えているかのようだ。「水俣病事件の風化しつつある街」といったことばが一瞬胸をよぎる。
 裁判が結審をむかえた一九七三年一月頃、いわゆる患者部落に足しげく名刺を配り歩く、住宅建設会社、電化製品、インテリア商、自動車セールスマン、そして新規に営業拠点を構えた銀行や信用金庫、保険の勧誘員たち、その名刺の束が玄関わきに十センチ程も重ねられ、患者はターゲットとされながら、訪れる人をみる瞬時の目つきが、日日とげとげしくなるのを見てきた。こうした商人達は千載一遇のチャンスとしてもうけたであろう。彼らは商店を増築し、商店員をふやした。その最大のもうけ頭がチッソ傘下の水光社かも知れない。だがその当時、患者数百二十一名だった。だが今日、水俣市だけで申請者数二千八百三人(一九七九年二月)、すでに認定された六百七十六名(一九七八年二月)の市民を合わせると三千五百人近い。これは水俣全人口の十人にひとりの割合である。すでにチッソの従業員や漁協幹部といった人のみならず、市民のハイソサェティの某クラブ(ここは今日も水俣病患者の入会を拒否している)のメンバーの家族からすら申請者・認定者を出し、自発的退会者が出はじめたという。かつて貧しい漁民部落で易々として標的にされ、”補償分限者”と蔑視された患者集団の隔膜は、いま市民のなかの数千人単位の被害者群の中にとけつつあるものの、かつていったん差別した意識のみ残り、その運動の突出部分に対しては浮き上った存在として、いまも批難のターゲットとしている。そのことは川本輝夫氏の活動をめぐる”市民”の評価をみれば分る。

 還流する補償金

 今の水俣社会の財力を支えているものに、水俣病患者の補償金の内部還流が大きくものを言ってはしないか。
 一九七八年二月の県資料によると、水俣の経済圏にほゞ含まれる津奈木の認定患者百八十名をあわせると、水俣・津奈木の患者総数八百六十一名、その補償金は家族への慰謝料を含め一件二千万円(注チッソ資料といわれるもの)として百七十二億円。うち生存患者は七百名前後として、年金、医療費、温泉治療、ハリキューを含め一人当り、年百五十万円(平均)とチッソは言う。その額十億円余、今日までに数年をへていれば三、四十億円はすでに水俣の内部に留保され、還流し、それが安定した流れ方をしてきているといえないだろうか。これが更に申請患者の増大、認定患者の倍、三倍増となったとき、水俣市民社会の相貌がさらに特異さをますことは確かであらう。水俣市は水俣病ゆえに蘇生する運命なのであろうか。水俣はその爆心地ゆえに病める都としてひとり生きのこるのであろうか。この連鎖的な疑問に捉われながら、私はいつも、対岸天草と離島を眺望し、その地点からの視座で水俣病事件の総体を見直したい思いにかられるのである。
 私は社会科学者でも実証的研究者でもない。水俣すら一知半解のまま天草天草と好んで叫んでいるわけではない。上述のいわば水俣観の誤りはいずれ不知火海学術調査団などの手で分析され批判されることと思う。誰よりも水俣病患者から鳥瞰的な第三者といわれるものと予期している。私には「すべてについて後手後手にしかまわれず、手遅れであること誰の眼にもあきらかな事態」を正視しないでいるのではないかというニヒルな心情が疼いている。
 それは真率なある女性患者から責められたことによってより私の内部で鮮明になった。そのきっかけは、彼女も彼女の亡き父母もとった医学フィルムについて、公開の応諾をとったときに端を発し、あと、数度同質の気まずいやりとりの中で私が勝手につむいできた「あることば」のむれである。決してそのままの言葉ではない。半ば私の創作である。
 「……いつまであんたは水俣病ば掘るつもりな。映画をとるのはあんたの仕事かも知れんばってん、もう裁判も終ったじゃなかかな。飯の種かな、飯くうとなら他のことせんな。わしの父や母をもう二度とさらしものにしたくはなか。支援ちな。支援はありがたかったばい、支援なくしてわしらの勝はなかったとばい。こころの底から手をあわせております。これはほんとのことですはい。しかし二度とフィルムにとられたり、映画であん苦しみを見たくなか。わしやわしらの家のものをとって見せて廻らるる、それがいやじゃ。理屈でなか。失礼かも知らんばってん、水俣の映画をとって、名の世に出る。生活もでくる。あんたはそれが仕事じゃばってん……やんなっせ、飯の種をだれがとめだてできる。しかしわしゃいやじゃあっとはっきり言うときます」「水俣の苦しみーっち、ひとくくりでは語れんぞ、わしの苦しみは他人には分らん。ひとりひとりのことじゃっで。わしゃ自分で苦しんで、泣いて、流す涙ももうのうなって。慰謝料ば万じゃ億じゃと積まれても、私らのつぐないにはならんぞ。じゃが金をめあてのものもおろうばい。ひとの心をもっとらんやつもおる。そやつはわしらが裁判でたたかっとるとき何て言った。足ばひっぱり、かげで物言いして。何でそんひとに、いまになって、”申請して下さい”ちいわんばかりにたのみにいきなさる。支援に手とり足とりされて、大事か品物のよぅに扱われて。そんひとたちは、むかしはわしらの敵じゃったぞ。わしにゃ関係なか。わしゃわしといっしょとは思い出さん。わしらのくるしみといっしょ、ちっともたがわんとあんた本気で思いなさるか。いっしょにされたくはなか、あん衆と。分るかわしが気持が……。」これらのことばは決して白眼をむき、いかりの舌鋒で語られたものではない。これらのことばの言い終りには、必ず童女のようなおもかげに変る。夫婦のあらそいのように言外のことばを汲めという交わり損ねたものの愛の残り火がある。それは分るが、ことばの重さ、その本当のことばに、うちかつことはむつかしい。私が辛うじて、この人にニヒルにならないですんだのは、その顔をまっすぐ見ていたからでしかない。その顔の背後に、水俣でかかわりをもった人びとのえも言われぬ顔がつながってくる。それをたよりに私は底からぼんやりと浮上する気配を自分に感じるのだ。
 だがこの言葉に代表される、映画をとるものと、とられるものとの間の”時間”の作用はたしかだ、裁判のあとさきで変っているのだ。

 死に補償は生じない
 
 補償金とか慰謝料とか、金のもつ作用について、私は今まで強いて考えないことにしてきた。だが最近、後藤孝典弁護士がある小さな集まりでいったある事例と考えがつよくのこった。それは「死に補償は生じない」というイギリス法の思想とかいうものであった。「生じない」とはもとより着想できないという意味か。生半可な理解によると、それは死もしくは死と同じほどの被害には、相手にも死もしくは死と同じ罰と報復があるのであって、死をいくばくかの金に代償させる思想は近代法になってから生じた法理であるというものであった。この一句をききつつ、私は患者の声、映画のシーンのなかの「金はいらん、重役のえらか人から水銀ばのんでもらおう」「金は一銭もいりまません、死んだ人の生命を返して下さいまっせ」「よか、俺の体を元にもどしてくれろ、金はいらんけん」といった噴き出ることばを想い出していた。たしかに水俣病闘争にかかわってから何度となく、じかに耳にし、頭にこびりついたことばである。それをこの三、四年すっかり忘れていたことを、私はこの「”死”に補償は生じない……」という言葉で思い知らされた。一昨年来、天草のひとと話すとき「金をもらうのは見苦しかあ」と何度きいたことだろう。「死んだおやじの補償で、何で家ば建てらるる、と息子がいって聞かんもん」(樋島・下樋川)という老婆の話を聞きながらも「頑迷固陋だな」ぐらいにしか実は思わなかった。「病気の苦しみをすこしでも忘れることは出来ますよ」「子供の一生に助けにはなりますから」と申請をすすめながら、彼我ともに思う補償金について、こんな風に言いはぐらかしていた自分がふたしかな存在に思えた。かといって天草で「「制裁金」「懲罰金」としての慰謝料を闘い取るのです」などと初対面の人に説く気にはなれなかった。私には、行政がこの地の人びとを見捨て、見殺しにしたことへのいきどおりこそあれ、この地の被害者と制裁・懲罰の思想を共有することなど「先のまた先」と考えていた。だが正直”無期限延期”に近いニヒリズムがある。
 その後藤孝典弁護士から六月のある日、「水俣現地の声が強いから”国賠”を引きうけることにした」との電話がかかってきた。彼は七月から一ヶ年近くアメリカ・ハーバード大学に講師兼研究員として留学することになっているので、この一年を準備期間とし、来年提訴という意向であった。この国賠とは、チッソの違法を黙認し法を発動して汚染・被害の拡大を防止する何らの手をうたなかった国家責任を間おうとするもので、水俣病事件の含む国の責任をひきずり出し断罪する点で最終戦争ともいうべきものに思えた。私は「原告には天草対岸・離島の被害者を加えてほしい。あの人たちこそ最も原告にふさわしい」と答えた(この段階での原告団のイメージはまだ固まっていなかった)。
 それというのも一昨年七七年、私たち映画スタッフが、不知火海の水俣対岸・天草と離島・熊本・鹿児島両県の百三十三集落でのべ七十六回の「海辺の映画会」を行った動機は、天草を水俣から切り離して処理してきたことへの異議申出にあったからである。
 水俣病事件発生以来二十五年の間に、「毛髪水銀調査表」(一九六二~三)で雛島・対岸の天草の漁民とその家族に最高九二〇PPMという世界最高の水銀値の住民の存在を知りながら、水俣とその地つづきの「国道三号線」ぞいの町(芦北・田浦・津奈木・出水市)のみを公害指定地域とし、海をはさんでの漁家集落を非汚染地帯とあつかいつづけていることから、この地帯こそ国の責任のもっとも露呈している現場であり、国の不始末が最も証拠としてのこっている点で糾弾の焦点となるべきだと思う。まさに「国賠」の原告像、被害者像として鮮烈な登場であり、ひいては水俣の水俣病患者の基層の深みにも照明があたるといった相互作用が生まれはしないか。私はその点ではまったくの天草びいきになっていた。
 だが、現実には、まだ天草では自らの疾病を水俣病とみとめること自体に抵抗する人々がいる。仮に水俣病と自認しても、申請に立つことに抵抗感をもつ人がいる。前近代法の法理と紙一重に「死を金にかえる」ことをいさぎよしとしない感情がひめられている人々の地が天草である。園田直、福島譲二の二人の自民党代議士を、前者を”革新派”とし後者を”正統保守派”とし、天草の郷党の忠誠心で島を豊かにしてきた政治に過熱なまでの関心をもつ地である。”国”とは園田であり、福島である。それにどの系路をたどって叛き、「国賠」に向えるであろうか。
 二週間余の限られた旅のなかで、私が所詮ここときめたのは、被害者の存在をさらにつよくさらにはっきりと確認しようとすることであった。この地の不知火海水俣病元年にとって、まず人間の汚染=被害を中心軸にすることなくして、生態系や自然の汚染への調査のうごきも惹起されないであろうし、放置された二十五年の空白を一年でも早く埋めようとする動向も生まれないであろう。こう心にきめ限定したものの、水俣から天草にむかうその足どりは決して軽いものではなかった。だが何といっても旅は道づれである。私は不知火海調査団から過分の餞別をもらい、さらに仲間もいた。東京から自費で馳けつけた西山正啓、青林舎の大著「水俣病-20年の研究と今日の課題」を最低二十部は天草に頒布したいと計画している米田正篤と全コース同行できたし、石牟礼道子、角田豊子両氏のコンビも参加された。

 二つの死

 天草の道路は旧盆をひかえての自家用車をかって関西、北九州から帰る家族連れでにぎわっていた。一九七〇年は砂礫ばかりの道だった気がする。しかし天草五橋から本渡の大橋をへて牛深に至る道は一新した。とくに園田直氏の河浦町だけは高速自動車道なみで、新和町をよぎる道路と品格が二、三段ちがう。まして、幹線から不知火海沿岸に至る道はこの二、三年依然として砂利道のままのこっていた。それは政治の希薄化を眼のあたりに見るようである。
 山を越えて浜辺の町々に入ると、二年前とほとんど変らない町並が眼にうつる。上島の海ぞいは七二年(昭四七)の大水害で家を直し移転の上新築し、どこか町の芯を失ったままの姿で暑さにうだっていた。よくみれば、クーラーの普及はいちじるしい。町の電化器具の店先には扇風機よりそれが眼をひいた。やはり生活はゆっくりと変りつつあるようだ。
 天草は巡海映画のコース通り姫戸からまわることにした。ここには今も申請者はゼロである。ちなみにこの二年間、天草、離島(熊本県内)の申請者は御所浦六百二十六名と急増を筆頭に、竜ヶ岳十九名(うち八名が巡海映画で判明した網元森一族である)に変化のある他、栖本、倉岳各一名、河浦町二名と全く変化のない状況である。
 この姫戸町でその後フォロウしたかった、水俣病と思われる二人の老人の消息をたずねたが、すでに死去していた。のっけからの二人の死にはしばし呆然とした。
 その一人、鹿釜一造氏(八二)は老齢のため納得できないではなかったが、もうひとり堀江充松さん(六三)は、「わが映画発見の旅」に四頁にわたって、不当に”棄却”と錯誤のまま苦しんでいる実在の人として書かせてもらい、去年三月にもその健在を確認していた人である。二人とも姫戸町から石灰を水俣に運び、水俣の百間で水上生活をしたという点では、姫戸町に同様の生活歴をもつ人が少くないだけに、人間の往来による汚染系路のパターンをもつ人として私にとっては重要な証言者であった。姫戸の雨龍岬はチッソのカーバイト原料の石灰石がとれ、チッソ直営の採掘・積出事業所があり、ここに人夫として働きながら、のちに常備いとして水俣に移りすみ、停年後帰町し、ここで体を病んでいるチッソ退職者(姫浦・辻本博氏)が居り、この原料運搬船で水俣と関った中高年層は少くないと見ていた。その生き証人が掘江充松さんだったのである。
 また鹿釜一造さんについていえば、戦前はその運搬船の船長であり、戦後は水俣が好漁場と知ったためか、この町からは珍らしく長駆、水俣周辺でイカカゴなどをやっていたという。この鹿釜氏の発症は昭和三十四年頃(六一歳)という。まさに急性劇症型の典型のような病状に苦しんだ人だったらしい。らしい-というのは、巡海映画のとき、二階に寝ていることは告げられたものの、そのむこ養子の真さん(鮮魚商)から会うのを断わられたからだ。この老人の弟が現姫戸漁協組合長、むすこが魚屋という漁師社会に文字通りはさまれ、町の当時の衛生部長吉田歴造氏のすすめや、一斉検診団の特例の出張検診の申出も断ったという。
 鹿釜一造氏は現在水俣周辺の生存患者と比べても第一級の重症者であったと思われる。
 真氏によると「昭和三十年頃、客船にのるのによろけ、きょろきょろあるきをした。まだ六十歳になっていなかった(注、運動失調か)。手がふるえ、しびれもひどく、たばこのすい口が口にはまらんし、マッチがすれない(企図振戦か)。水をのむとも、コップではのめんし、ストローでのむが、一旦口に入れてものみこみが悪く、吐きだしてはのみ、吐いてはのみ、どもこもならんかった(共同運動失調か)。味覚が狂ったのか水とショウチュウの区別がつかんで、水をだしても本人は酒のつもりでのんどらした(知覚障害か)。二年位まえから口は全然かなわんで、わしの妻が通訳せんと分らん(構音障害か)。耳はまだほかと比べれば良かかも知れんが、不思議も不思議、この夏のあつかときにも毛布ははずさんし、「寒ぶか」といって扇風機はとめるし、出しっぱなしのコタツに入ってスイッチを入れて、アカアカしたなかで汗だくになっている。あつさと寒さが狂っとるわけ。ぜんぜん馬鹿になっとる」まったく絵に描いたような水俣病像であった(一九七七年八月六日採録)。
 巡海映画のとき、最も同情的で町役場としての協力を惜しまなかった姫戸町の現商工観光課長浦本保隆氏、鹿釜さん堀江さんの存在を教えてくれた長尾春生郵便局員と再会したが、幸か不幸か熊本の十数年ぶりの甲子園高校野球出場の日であり、城西学園との勝負に一とき水俣病もへったくれもなくTVに熱中していた。「何故二人の死を知らせてくれなかったのですか」となじりたい気持を押えて私もテレビを見る他なかった。
 やがて彼らは、
「あんたに知らせようかと二人で話しもしたばってん、知らせたっちゃ、あんたにどもこも出来るわけじゃなし……本心いえばあんたらを見ると、忘れとった水俣病のことを思うとです。映画会も二年前でしたか、ですが遠い昔のことのよう……姫戸はそげん平和な町ですたい」
 これにつづいて、浦本氏がいかに故里を愛してここ一生を送ることにしたかの話は割愛しよう。ただ庄屋の息子として生まれそだち、高校後二、三年気ままに大阪の親戚に身をよせ、観劇に、野球に、都会風の初恋に、読書に、そして社会主義に共鳴して左派社会党に入党しようとまで思った自分、ナイーブに都会人に同化した二十歳すぎ、あとつぎとして飄然と姫戸に舞いもどったときの心境をつぎのように語る。
 「三角から便船にのって、姫戸、ここ姫浦に入ってきたとき、どげんだったと思います。その貧しさ、みじめさ。人びとは皆はだし、子供はパンツひとつ。家々はくいの上に半分こわれかかった家を建てて。家の尻を浜につき出して。ちょうど南洋の土人といっしょ。わしが出るまではさまでみじめと思わんかったばってんなあ。大阪もここも、これがおんなじ日本かと思ったですはい。……涙がこらえてもこらえてもせき出てならんかった……わしゃここの平和とゆたかさだけを思うことでいまは胸一ばいです。怒らんでください……」
 私が訪れた堀江さん宅では、新盆の届けものが山と積まれていた。死ぬ一年前の五月二十二日、倒れて半身不随となり、竜ヶ岳の町立上天草病院に三ケ月、小康を得て水俣湯ノ児リハビリ・センターに入院治療をうけ、老人医療にまだ二、三年余をのこしていたため(行年六二歳)出費が多く、自宅に帰って地元の竹中医院に病気をあずけ、「わしを抱えちゃ、せがれも働き甲斐もなか。せがれに申しわけのうして」とロぐせのように言いつつ死んでいったという。水俣病の末路が脳溢血になる例はあまりにも知られている。材木・石灰の運搬組長として、生活の半ば近くを百間港ですごし、誰よりも自分の病状こそ「水俣病」と信じていた堀江充松さんであった。妻シズノさんは臨終まじかに風呂で夫を清めようとして、まころび、風呂のタイルに腰をうちつけて、自身這うようであった。私の本は葬式後二十日程して届いたという。
 「一晩かかって本をよんでおらした。そんで「これだけ書かしたごて、わしが話はきいとれば、反対せずに水俣病じゃちゅうことでおやじば死なせたかも知れん。口惜しがっておったばってんなあ」といいよらした。もう死んでしまえば、あんた、何もかも夢でしょうがって笑ったことでした‥。」堀江充松さんは水俣市立病院で医師に水俣病じゃないといわれたことを、心底うらんでなくなったであろう。
「あの大水害で仏壇はこわしてなあ、まだつくれんとです」とシズノさんはわびた。
 白木の御位牌に「浄徳院釈祐順信士」とあった。またも「間にあわなかった」のである。
 ついで樋島下桶川の野口家の訃報をきいた。この家の老人は一九六五年(昭四〇)頃に”中風”になったひとで、二年前地元の漁協組合長桑原勝記氏から「野口俵太郎さんちゅうて、この人は間違いなか水俣病じゃ」と暗に会うことをすすめられていた。巡海映画の折に会いにいったが、五十すぎの息子、塚夫さんはいっかな会わせてはくれなかった。その彼自身がひどい「ねんばりロ」と土地の人のいうスローな話し方で、心臓を病み、腰の痛みで働けず、体重が七十五キロから五十七キロに減ったといって、むかしのバンドの穴を見せてぐれたが、二十センチも痩せてずり細っていた。根っからの漁師で父子相伝のハエナワの名人とも聞いていた。
 こんどたずねると桑原氏は「ああ死んでしもたがな。あのじいさんは。今年は新盆じゃろ」という。「むすこの方が先じゃったなあ。」私はここでもめあての生き証人を失った。
 水俣病認定患者のなかの高齢者が相ついで死んでいく。その同じ年恰好で、同じ位長く寝ついたままの離島の老人たちが何の苦情も、水俣病との訴えもなく、同じリズムで死に絶えていく。私はやり切れなかった。恐らく行政はここ十年、手を拱いて黙していれば、生活歴をそろえ、症状と病歴からみて、水俣周辺であれば拾い上げざるを得ないような水俣病様の患者群の死に絶えるのを見とどけることが出来るだろう。「総合調査」とか「検診の見直し」とかことばで飾りつつ世論をさけるタイムゴッコも、かれらにとっては十年の辛抱で足りよう。すでに人の噂にのぼるほどの老人は数年から十年ほど前、一九六五年(昭四〇)頃に相ついで死んだといわれる。その生きのこりの人と見て、私は会うことをねがってきた。だが、今後の天草の浦々で、また鬼籍の人びとにおびただしくあうであろう暗い予感に気がめいってならなかった。
 「もはや手遅れ」の時間帯をたどっている……。だが手遅れであることを首も承知で道を辿る外ないではないか。

 天草の胎児性患者

 盆に入った八月十三日、私はかねて気になっていた天草の胎児性患者、橋本めぐみさん(二二)の所在を求めて竜ヶ岳町、樋島の須崎に宿をとった。天草に胎児性様患者がいるということはかねてから聞いていた。もしこれが真実なら「この御所浦は水俣病といっても水俣よりはうんと軽かで、胎児性はおらんもんな」というその御所浦町よりさらに遠く天草にまで及んでいることで、このあたりの定説のくつがえる事例であった。だが、この一家の生活歴は定かでなかった。
 たまたま盆が私に幸いした。町役場で住所をきき、漁師町特有の細い路をたどって訪ねた家は、たったいま雨戸を開いたばかりの臭いがただよっていた。ガランとした家の中から土方灼け特有の膚あらわな橋本弥生さんがいた。「昨夜、大阪(の出稼ぎ先)から帰ったばかりで、もう何もかもふっ散らげでなあ。上ってももらえん」と棒立ちのまま半年不在の家の中を見まわしていた。車をたのんで、あすは苓北町の施設に橋本めぐみをひきとりにいき、死んだ妻の三年忌で親戚にも触れ歩かんといかんしと、気もそぞろのまま私の来訪が迷惑であることを隠さなかった。恐らく、めぐみさんのことで新聞・TVはおろか第三者が訪ねたのは初めてのことだったに違いない。
「あんめぐみさえおらんば、わしゃちっとも帰ることなか。かかもおらんしなあ。暮でも盆でん旅先でひっくり返っとる方が楽じゃがなあ。めぐみはわしの帰るのを楽しみにしとるけんなあ、こうして帰ってくるとですよ。……あんたですか、何か水俣病の会に入っち手紙をくれたつは。御所浦の外平から。わしゃ、ここに居らんし、大阪もひとつところに居らんでなあ、集りがあるといっても行かならんし、会費だけ納むるとも何じゃしなあ」
 私は出なおすことにした。外平からの連絡とは被害者の会(告発する会と対抗してできた共産党系の水俣患者組織)の支部からのよびかけであろう。「展望」や本を出版してから、私の実名をあげた人をたよって調査しているひとがこの夏だけで関西の高校教師のほか二、三グループあるという。また被害者の会のアプローチもそこここで聞いた。決して悪いことではない。しかし、いかに天草の水俣病に触れるかということにこまやかな神経をつかってほしいと思うのみだ。

 あらためて来意を告げ、話を進めると、はなから話がちぐはぐになった。彼女は認定審査会で保留のまま宙ぶらりんになっていると、私は竜ヶ岳町役場で聞いてきたのだ。
「認定はされとります。されとるばってん、いろいろあるらしかで調べると聞いとりますが、認定されたつは間違いなかです。」
 では認定にともなう手続や慰謝料とか医療費はどうされたかとたずねると、
「それがいろいろあるらしかなあ、金ですか。金はまだ来んとです。町の民生委員にぜんぶおまかせでしょうが、分らんとです。もうぼつぼつじゃなかですか(実は私は担当者に保留と聞いたはかりだった)。もう”認定”にはなっとるとです、熊大の先生がしてくれたんじゃから-」
 ……やはり事実は保留である。彼は熊大の一斉検診で最後にのこった十名の「水俣病の疑い」とおそらくかかれた診断書を「認定」と勘ちがいしたまま、すでに三、四年たっている。この父にとっての緊急の関心事は認定による補償金では露なかった。水俣病申請後、間もなく妻に先立たれ、不偶ながら手足まといの娘を施設に托すまでが思案の目一ぱいであり、入園させるやすぐ生活のために土建の下請に出郷した。そして金をかせぐだけで目一ぱいの生活であった。ただ、TVなどでの認定のむつかしさ、時間のかかることだけを納得するはかなかった。恐らく大阪の飯場で、TVをみての情報だけを組立ててきたに違いない。
 行政は不当ではないか、となじってみても、現実には竜ヶ岳町当局自身、水俣病のこの複雑な認定制度に通じているわけでもなく、まして居所不定の橋本さんに連絡のとりようもなかったに違いない。もし橋本さんの方に、慰謝料への切実な期待があったら、また違ったろう。おそらく厳密に”認定”をただし、保留処分のままである現状を知り、其の認定を問題にしただろう。しかし後日再訪したその最後まで、彼には二千万円のイメージやそれへの期待はかけらも見受けられなかった。ただ一家崩壊の現場にまいもどった宿なしの男でしかなかったのだ。ただ「魂のなか子じゃばってん、かわいそうでなあ」という父親の顔にうそはなかった。
 私が「橋本めぐみ」さんを重要な、今後の天草の被害状況を明らかにしていく上での「キイ・パーソン」(鍵をにぎる人物)と見るのは、もし彼女が水俣病として認定されたら、天草に散在する多くの身心障害児をもう一度洗い直さなければならなくなるからだ。”非汚染地帯”であり、胎児性は水俣だけ、海を越えてはいないという通説をくつがえすことにもなるのだ。
 須崎に開業医は一軒、本田医院といった。米田と西山は「水俣病」の本を売りにいったが買わなかった。ただ雑談の中で、おかしい子と指折り数えながら本田医師の語った”患児”は五人にのぼった。うち二人は十年から十四、五年前にそれぞれ死亡、その病状は脳性小児麻痺だったという。生きていれば橋本めぐみさんと同年だとのことだ。あと兄妹の二人も脳性麻痺、それぞれ九歳と七歳、他に、中学三年で未熟児出産のためか障害児という。「すべて漁師の子で、それぞれ脳性小児麻痺として見るには、それにはまらんおかしなとこのある子です」と本田医師は語った。樋島、二集落二百十戸、実人口千三百七十二人に計六名の身障児が全国比としてどうかは知らない。しかし橋本めぐみさんのケースと医学的には少くとも同列において見直すケースではないだろうか。

 十四の時からの船乗り

 橋本弥生さんと亡妻の姉桑原ユキエさんと交々かたるところによれば-やはり水俣通いの運搬船と水俣沖でのうたせ網の生活のさなかに、めぐみさんは生まれていた。一九五七年(昭三七)十月三十日である。今は一隻もなくなった-ただ朽ちた形骸を一隻のこすーうたせ船が、戦前から樋島の漁の主力であり、昭和二十年から三十年にかけて最盛期百二十隻あったという。帆をひろげ汐と風を見て底曳きをする白鳥のような不知火海の風物詩の主である。このうたせ船はいまは芦北の計石、津奈木、出水市の名護にのこっているが、ここ樋島のうたせは、漁のひまなとき、運搬船を兼ねるよう中央船倉に荷を入れる槽が作られていた。橋本弥生さん、一九二七年(昭二)生まれで十四の時から船乗りになる。「一月から六月は産卵期、生育期でしょうが、じゃで漁は休んで運搬船の仕事をしよりました。七月から十二月までがうたせ漁専門。この網ひくとは出水灘から水俣沖、佐敷の前までいきよったなあ。……わしの運搬したとは工事用のザリ(砂利)、名護で積んで水俣の百間にあげよった。積みトン数は十五、六トンじゃったが、ザリは二坪五合かせいぜい六合(一坪とは六立米見当)わずかばかし。運賃は二千四、五百円位じゃった。で往復の数でこなすでしょうが、片道二時間とかからん距離だもんでなあ、朝昼晩とやっとった。もう出水か水俣にいきっぱなし。魚はよけいくったなあ、釣でつっちゃ、めしも海の汐めしたいな。二十七、八のときじゃで仕事にはまっとったなあ」
 伯母が言う。
「めぐみは生まれたときからマルマルして目鼻立ちのようして、そりゃよかおなどじゃった。わしはとりあげて、将来、わしんとこのよめどにしようと思ったほどじゃ、そうきめたとばい。でなあ「大将、こりゃよか、きれいな女子になりますばい、大あたりじゃ」ちゅうたもんな。それが一年ばっかしたってもあんた、首もあげんじゃなかな。這わせてもくたあとしてなあ、口もききださん。ほいでからわたしゃ狂ったですばい、この二人(父母)に。「わっどまち、こん子に煩悩もたんとか。もちっと煩悩をかけてやればこん子もこげん魂のなか子にならんはずじゃっで……水俣がよいばかしせんと、ちったあこの子にはまってやらんか」って、せつなかじゃったで、なあ」

 盆、暮、正月しか帰らない生活になったきっかけは妻の死であったというが、どんな亡くなり方をしたのか、また橋本めぐみさんの検診の際、水俣病の疑いは当然、母胎なる妻にむけられなかったのかの疑いが頭をもたげた。
 母・ヤヨリ、一九三〇年(昭五)生れ、死亡、一九七七年四月、行年四十七歳。
 生前、手足がしびれるとか、頭の根が痛むとか訴えなかったかと聞くと、夫は言下に、
「それ専門ン、しびれるんと、だらしいたみちゅうか、首の頭の痛かとはしょっちゅう」という。伯母も、
「耳も遠かったなあ、耳がわるかか眼がわるかかしらんばってん、わしがこけえ(家)遊びにきても、ヤヨリの鼻んさきにでもいかんば気のつかず…「あれえ、いつ来んしゃった」っち「さっきから傍におるがね」ちいえば「あれえ、気づかんじやった」ちゅうがね。大分馬鹿ンごとなっとったなあ」
「検査うけたっち?…‥うけとらせん。あんた注射一本こわがるおなごじゃったでな」
 以上の症状は一九七一年(昭四六)頃からという。死亡証明書「心不全、糖尿病、甲状腺機能抗進、消化管出血」(上天草病院)とあった。

 かげりも暗さもなく

 三日後、再び芥川仁カメラマンを同行して橋本めぐみさんに会いにいった。別々にくらすのに、何の写真ももっていないことを父親は淋しがっていたからである。水俣で新たな写真記録集を作るため一年近く滞在している芥川にとってもひとつの機会であった。
 二十二歳になった彼女は中学三年生ほどの風姿にしか見えなかった。ととのった顔ながら斜視があり、いつも物を顔の正面で見ていた。視野狭窄特有のまなざしである。だが表情は童女そのもの、人への何の警戒もなく、かげりも暗さもなかった。二年余の施設・更生園ぐらしのなかでも、その無垢と可憐さゆえに人に可愛がられ保護されてきただろうと思われた。土産の少女雑誌「マーガレット」に父は読まんと眼顔で知らせながら首を横にふった。だが、彼女はアリガトといって一頁一頁順にたぐりながら読んでいた。「あれえ、読んどるなあ。一ちょ魂のなかと思っとったばってん。ううん。分る風じゃなあ」と父親は顔に喜色をたたえた。「あんた。男は情けなかなあ、うちん人が死んでからなあ、ものがどこにあるじゃ分らんし、くわせる品物が分らんしなあ、こげん娘をかかえてやもめになってみなっせえ男はどげんもしてやれんです……」彼は、父性なるものをいったんくだかれても、なおおびただしい温かさを滲ませていた。
 私たちは別れるまぎわに、水俣の移動診療所の活動家、堀田静穂との連絡方法を書いたメモをわたし、認定されたら、あとの手続きと医療その他について必ず彼女に授けてもらうようにいったが、現実感をもてないように空ろだった。「この人はもともと樋島の生れのひとですから」と堀田さんのことを念を押して、はじめてメモに眼をむけた。
 旧い漁家に仏壇の間と客間だけは新増築していた。居間はすえた匂いの古畳のままだ。二十二年の苦悩と妻の死、それが水俣病とつながるのにまだ実感なく、まして補償は思案のそとである。崩壊した家から一週間もへずして都市下層の生活に漂い出でてゆく元漁民・元船長であった男と、胎児性の娘、そしておそらく水俣病であったろう妻の早逝、この一家の運命が、情報遮断のまま水俣病闘争の熱いつながりに何の一触もなくちりぢりとなることを思うときこの酷薄にも耐えている天草のひとを思う、そのこころの哀切をおもう。
 だが、天草の患者やその家族にとって、水俣病事件が火の粉として身にふりかかったとき、なべて、このように掴みどころなく、とらえようもない不安の化物なのであろう。水俣と天草とをつなぐ水俣病をめぐっての橋の架構はいま千里のへだたりのように思えてならなかった。