時枝俊江・人と作品 『記録すること・時枝俊江』 3月31日 岩波映画製作所 <1979年(昭54)>
 時枝俊江・人と作品 「記録すること・時枝俊江」 3月31日 岩波映画製作所

 時枝俊江は,今回彼女の作品が上映されるにあたり,その企画に感謝し,熱中しながらも,映像個展の“映像〟だけの表現に腑に落ちなさをもったと告げた.彼女によれば映画は,“映像”と“音声”だから.もし映画の語義の解釈なら,それはあまりに至当であり,だから映像個展といっても一向に差支えないのであろうが,彼女の音声に期する新しいドキュメンタリーの方法論の意義には,通常の音声とは全くちがった意味がこめられている.たとえば≪子どもをみる目≫や≪光った水とろうよ≫で一作ごとに推し進めている方法は,映画を作られたイメージの表現化ではなく,そこでの触発に感応し,考え,つきつめていく意識としての同時進行のドラマ,記録者が音に耳を傾けていくことによって見えてくる世界を双方から記録しつつ,彼女自身の学んだもの,つまり細部に宿りたもうた神々を見る作業-そのモメントとしての音声なのである.
 彼女の≪ともだち≫ ≪ケンちゃんたちの音楽修業≫などからの音の重視にはまだ映画的設計力が透けて見えるかも知れない.しかし最近の一連の作品はもっとつきつめた音声と映像の分ちがたい相関関係の中でのアクチュアリティの発見とその定着がみられる.録音者がフレームの外の音に細心の集中力を発揮し,カメラマンがレンズの凝視力と対極に音とむすびあった同時発見のカメラアイに彼女の最近の方法論の具顕性を読みとることが出来る.
 彼女の最近作≪絵図に偲ぶ江戸のくらし≫やその前作の≪文教の歩みをたずねて≫のナレーションのユニークさとその成功は,一部に深くショックを与えている.伊藤惣一氏のさわやかで自由な語りで導かれる物自体や,絵図そのものからたちのぼるイメージの世界は,今までのドキュメンタリーには無かった質のものである.それは巧さの問題ではなく,そのナレ一ションを獲得するまでの発想から製作プロセスのユニークさによるもので,その方法まるごとが,伊藤のナレーションに結実していることなのである.語りも技術ではなく,完全に独立した映画表現として有機的に重合していることなのだ.
 彼女によれば文化財といっても風致であったり風化した石や古材であるものに生気を感ずるには,まず彼女が自分でそれとの対話をつぶやき,そのデイテイルを発見したり,百年むかしの記録と引きくらべたりする好奇心と知的快楽のあとをテープにそのままとり,スタッフにまずきかせ,それを煮つめながら現場での撮影に入る,そしてカメラが物いわぬ石をとるとき,彼女は見るべき世界,感じる世界をカメラマンの耳もとで喋りつづけるという.絵図の中の空想的な庶民生活の息づかいをたどることばに合わせてキャメラが廻る.この演出者の作業を目撃し,同意同感しているナレーターに,今度は自由に原稿なしの語りをもって定着してもらう,このときに伊藤惣一の語りは全スタッフの全パートの作業が同時に並列して走っているようだ.最近作の語りの音声は読むナレーションや,ハプニング的(TV的)語りともちがい,映画を作った主体者のその同軸からのしずかな語りかけとなって,独自のナレーション=語りをつくり出した.これは彼女の独創といってよく,誰にも模倣出来ない内面的映画世界をつくり出した.別のいい方をすればそれはシナリオを書かない彼女独自のシナリオづくりなのである.だが同時に,彼女のそのプロセスと思想性をたどるならば,今後,それぞれの作家のドキュメンタリー映画方法論の上で,多様な開花をうながすだけの本質を秘めているものであろう.
 時枝俊江と映画との機縁は映画人と出遭ったからだ.彼女は東京女子大学在学中の最終学年に,自由課題の論文のこやしを求めて,当時産別会館に編集室をもつ〈文化革命〉誌のアルバイトとなり映画人の取材にあたる.有名な東宝争議さ中の東宝砧撮影所に亀井文夫,黒沢明などを訪ねるが,その序列の厳しさにひきかえ,皆フランクで,人なつっこい資質に驚く.卒業後,文学雑誌の編集者になるぐらいしか進路のなかった中で,ひとりで文学に精進するといった個的な作業はもともと性に合うわけはないと感得していたので,集団的な創造者の世界は魅力的であった.たまたまこの仕事の中で,日映ニュースのデスク故岩佐氏壽氏のすすめで,大学卒業後日映にアルバイトとして働くことになる.当時,社長は組合選出で,人望のあつい加納龍一のもと記録映画の名匠がそろっていた.石本統吉,伊東寿恵男,吉見泰,桑野茂などを遠くからみることになる.レッド・パージの嵐の中で戦後文化映画の昂揚期も衰退の兆を感じている頃,岩崎昶のすすめで,創立直後の岩波映画に入ることになった.1951年初めである.代表小林勇氏は全く映画ずれをしていない新人を求めた.その新人に新しい映画づくりを嘱望した.
 当時,現場の最高責任者故吉野馨治と彼女の出遭いは別に一章を設け,岩波映画創立時の精神性にさかれているので割愛させて頂く.ただ,吉野氏の遺言的文章に,彼女が最近接して得た精神的衝撃の深さだけは触れておきたい.氏が”はっきりとものをいう映画をつくらなかった”敗北感をことば少なにのべた部分は,彼女が50歳に近づいた今,氏の遺志に鞭うたれながら,新しい映画づくりに傾倒していくバネとなったことは想像にかたくない.正直,女性監督としては荒業ばかりの映画生活30年近く,いわば高年令となっても,なおかつ現場での演出者に徹しようとする背骨のまっすぐな彼女の姿勢に故吉野氏への限りない信頼と尊敬が重なり支えているのを見るのである.その点を私は宣伝文に<生きた岩波映画史>といいたかったのである.<幼児生活団の報告><町の政治>は,吉野氏にはじめて出合った時期の作品である.その後彼女も企業のなかでPR作品を担当するようになるが,スタッフや,素材の対象となる人々との出遭いの質を求めることに変りはなかった.この時枝俊江の人間好きの性格が,記録映画の独特のスタッフワークや撮影のための“組織活動”のバイタリティを支えたものといえる.“私は一回映画で出合った人とはぜんぶといっていいほどつき合いが続いている”というのはその点で事実であろう.これはまたスタッフとの濃密な人間関係を作って,しかも創作的に反復できる長いスタッフワークは彼女ゆえに許されているものであろう.もともと映画のスタッフワークは小津作品の厚田カメラマンや,溝口作品のシナリオ依田義賢のように長く続くことは珍しくないが,記録映画づくりでの彼女のスタッフワークが,それとはひと味もふた味もちがうことは,このパンフの中の録音者佐久間俊夫,語りの伊藤惣一,カメラの八木義順等の文章を一読して,その見事な創作集団のあり方に見られることと思う.ふりかえって≪夜明けの国≫は彼女の記録映画歴のなかで,そのしたたかな蓄積のもつ重量感をワイドな視点で構成した意味で一極とすれば,最近作は対極の細部を掘削している点で通常の作品の進展より逆である.これは彼女が若い創作力の泉を近年に至って掘りあてている何よりの証左であろう.これをスタッフワークのありようだけに求めるわけにはいかない.このパンフの中で小口禎三氏が思いをこめて述べているように,企業の危機感を岩波映画史の危機,つまり作家の危機と受けとった数年前の苦悩を乗りこえるなかでいまひとつの変態を遂げた彼女をみるのである.この2,3年の彼女は恬達であけすけで,企業内の仕事を彼女の自由な立居振舞の手中にとらえかえしているさまをみるからだ.
 <子どもをみる目>,いわゆる<文京シリーズ>3部作は製作条件の上では厳しいものであったろうが,彼女は自主製作のような自由さを画面に滲ませている.それには彼女の映画製作の作法上の新しいあり方があってのことである.慣例的な製作上のぜい肉を拒否し,全スタッフとの独自な活力を土台とし,表現のよろこびを共有してのことである.
 時枝俊江氏とのつき合いはかれこれ25年になる.親友であり,会えば映画論,とくに共通のドキュメンタリー映画について話す.しかし回想風な話を実は1度も聞いていなかったことを,今回聞き書きしながら気付く.パンフレットを作るに必要なロケ最中の写真1枚を探すのに骨が折れた.“だって撮ってるとき,誰が写真機をもってるのよ”だからないという.このことは私も同じだが彼女の場合,個人史の記録に本人自身何の意欲もなかったことを知らされた.それは過去の映画が話題にならず,いつも当面撮っている映画の話が躍如としていつも雑談の種であったことにも思いあたる.流転する人生のいつも彼女は今日の人であったことになる.
 時枝俊江の映画の問いかけは,常に人間なるものの汲めどつきぬ面白さにむけられている.だからこそ物づくりの一回ごとの新しさがかくもさり気なく示し出されているように思えてならないのだ.