水俣病-その二十年- 「図書室だより」 3月5日 法政大学女子高等学校図書視聴覚室
何故撮り続けているか
こんにちは。私は映画をつくりました監督の土本と申します。きょうは記念すべき卒業に当たっての講演会にわざわざお招きをいただきまして,特に若い方とこうやってお話しできるのを大変うれしく思います。
映画を見ていただいていろいろなことを感じられたと思います。おそらくあなた方にとっては,名前は知っていたり,教科書で習ったりしておられたでしょうけれども,ああいう形でごらんになるのは初めてだと思います。それはあなた方が初めてなだけではないんです。水俣病の本当の恐ろしさを世の中に知らせるということを,なるべくしないようにしてきたというのが本当のところなんです。それで水俣の町に行きまして,高校生もたくさんいますが,私は先生に水俣病の映画を見せてくださいと頼みました。先生の中にも非常に一生懸命な人がおりまして,たとえば石牟礼道子さんのご主人は,水俣の中でも一番水俣病の起きた漁村の○○中学の先生を11年やっておられます。ところがその中学でまだ映画ができないんです。それはどういうことかといいますと,水俣病のことをなるべく知らせないでそっとしておきたい。できれば水俣病なんかなかったくらいの思いだというのが水俣にもあると,逆に言うと水俣だからあるというふうに言えると思います。
さっきこの映画の終わりごろにきれいな帆かけ船が出てきたり,漁師さんたちが出てきましたけれども,ああいうふうにいまでも魚を取っているわけです。それはやはり自分の一家を支える大変な仕事になっています。この辺でいうと東京湾を隔てて千葉くらいのところですが天草とか,いろいろな島には漁業だけの人がいますけれども,その人たちにちゃんと映画を見せるということがやっぱり全然できていないのです。それで去年夏から秋にかけて,私と映画をつくった仲間とで見せて歩いたんです。これはとてもおもしろい話なんですけれどもちょっと後にするとしまして,だからあなた方が水俣病の映画を見ていないというのは,あなた方やあるいは先生方の罪では全くない。つまりもっと大きいところで水俣病を知らせない,大きい歴史が20年間あったということです。
私が映画を撮り始めたのが昭和40年からですから,もう13年水俣のことをやっていますけれども,なぜやめられないかというと,ちっとも知らせないからです。私が頭を突っ込んでいきますといろんなことがわかってくるので,それはやっぱり映画にしなければいけないというふうに思うわけです。これがたくさんの人が水俣病のことについて知る機会があったり,あるいは撮影する機会があったりすれば,みんなに仕事を分担してもらって,私がこんなに長いことやっていなくてもいいんですが,非常に限られた人しか水俣病のことを勉強できないし,政府は知らせたがらない。あるいはテレビ局は番組をつくりたがらないということで,私たちはあまり金がないんですけれども,やっぱりつくっていかなけければいけないなということを思っているわけです。
きょうは一番最後の最近つくりました映画を見ていただいたんですが,ぼくの映画にはほかにたくさん長いのがあります。どうしてこういう42分の映画をつくったかといいますと,これにはいろんな歴史から医学の話などまとまって,ある意味では水俣病を知る上での入門編みたいな映画になっていますが,これをつくりましたのは,カナダのインディアンに水俣病が起きてしまったからなんです。カナダのインディアンになぜ水俣病が起きたかというと,カナダは森と湖の国です。一番の資源はいろいろな鉱物資源ですけれども,森林資源もあります。そこで木材をそのまま輸出していたんでは産業が興こらないということでパルプをつくったんです。パルプに必ず要るものは苛性ソーダです。苛性ソーダをつくるのに一番使われるのは水銀です。その水銀を流した工場の下流でインディアンが魚を取って食べていた。魚が実によく取れるんです。ヒメマスとかチョウザメみたいな種類の魚ですけれど,それを食べているうちに猫が狂って水俣病になってしまった。そこへ私が今までつくった映画を持って行ったところが,どうも日本人ならわかるけれども,外国の人にわかってもらうような親切さがないということで,カナダのインディアンのためにつくったのが42分の映画です。それにさらに手を加えて,皆さんに見てもらえるような映画にしたわけです。
公表しなかった波紋
なぜそんなことを言うかといいますと,日本が水俣病のことを世界中に発表していたら,世界に水俣病は起きなかったのです。昭和34年に大体水銀が水俣病の原因だということが学問としてはわかっていて,それから8年間それを認めなかったんです。それを認めたのは,新潟の阿賀野川の奥にあります同じ工場で水銀を流して,下でウグイという魚を漁していた川の漁師さんが水俣病になった。この時に全国に水俣病の原因は水銀なんだということがわかったわけですから,水銀を流すなとか,いろいろなことをやっていれば新潟には出なかったわけです。新潟に出てもなおまだ世の中に発表しない,世界に発表しない。これを学者に言いますと発表したと言うんです。私は発表してきた。世界中の医学界に論文を送っていましたと言うんですけれども,それは一人一人の先生が論文を送ったということであって,国として,水銀をたれ流した結果,魚を通じてこんな恐ろしい病気が出たと,どうか世界中の水銀を使っている工場の皆さん,気をつけてくださいというふうに,国連の衛生部会とか,そういうところに訴えることを一度もしてこなかった。そのためにスエーデンで水鳥が絶滅したとか,これはやはり苛性ソーダですけれども。それからカナダで起きた。またイラクというところへメキシコ産の種小麦を25万トン送ったんですが,そういう種小麦を食べてしまう昆虫がいるわけです。それを殺すために赤い色をつけた有機水銀剤にひたして送った。それはスペイン語で「食べるな」と書いてあるんです。どくろの顔が書いてあるんですが,送られたイラクがちょうど飢饉の年で,赤いけれども洗ったら白くなったので,初めのうちはニワトリに食わしてみたら,ニワトリがすぐには死ななかったので人間が食べたと。そこで6万人が中毒し,胎児性の子供も生まれ,現在死者が600人も出ました。つまり有機水銀の恐ろしさを,日本がこういった歴史的体験を知らせなかったために,これだけの被害者が出たのです。
また残念ながらカナダを初め,ブラジル,ヴェネズエラ,イタリアのエーゲ海のところというふうに,結局魚の好きな民族,あるいは人種ですね,それが水銀を使う工場と隣り合っていると,その工場が川や海や湖に流し,そこの魚や貝を食べる習慣を持っていた人たちに水俣病が起きる。それももともとその土地に住みついて,その土地のあらゆる生き物を食べ物としてとっていた,貝が好きだとかカキが好きだとか,そういった住民が水俣病になったのであります。
水俣病の問題は本当に1回で終えたかったのですけれども,日本でもふえてしまいましたし,世界中にいってしまった。このことは水俣病を生んでしまった日本が大変恥ずかしいことだと思います。
水俣病のことをあなた方が先輩に聞かれても,きっと水俣病は終ったんじゃないのという話になると思いますけれども,残念ながらまだ終わっていないと,ますます複雑になってくるというふうに思います。
水俣病の病像
水俣病をたとえる病気というと,これに似ていますということは言えないんです。逆に言いますとあらゆる病気に似ているんです。たとえばさっきの映画の中にありました猿の実験を見ても,確かに脳がやられます。脳がやられるけれどもその前に肝臓,腎臓,心臓,そういうところに全部水銀がつくわけです。ですから肝臓が悪ければ肝臓病ということになります。心臓が悪ければ心臓病というのがもともとあります。それから手がしびれたり動かなくなれば神経麻痺という病気もあるし,言ってみればどんな病名でもつけられる症状を持っているのが水俣病です。ただ,中で非常に際立っているのほ,目が真ん中しか見えなくなったり,言葉がよくしゃべれなくなったり,強度運動失調といって小脳がやられておりますために,うまくバランスをとることができないとか,そういう特有の症状はありますけれども,それも言ってみればどんな病名でもつけられる。結局水俣病だと決め手は何かというと,その人の病気をもちろん医学的にあらゆる角度から調べなければいけないけれども,不知火海で汚染された魚を食べ続けたかどうかということが決め手です。
皆さんも水俣病のことをどこかでお聞きになったことがあると思いますけれども,最近水俣では,病人でない人が補償金が欲しいために,病人だと偽わってお金を取るやつがいると,そういうのがふえてしまって,チッソという会社はお金がなくなってしまって倒産寸前であると。いわゆる「にせ患者」という言い方がある自民党の県会議員からばんばん発言されまして,それが住民の中にしみ通ってしまって,水俣病患者の中には本物もいるけれどもにせものもいると,にせものの患者が出るのは困ったものだという話になったんですけれども,それはほとんど間違いです。
ほとんど間違いだということがはっきり言える根拠はどこにあるかといいますと,たとえばさっきの映画に出てきました子供たちがいます。手が動かない,御飯が自分で食べられない。おしめをしている,お母さんということも言えない。ああいう子供と似た病気を探せば,皆さんもご承知のように重度脳性小児麻痺という病気があります。それは水銀のない地帯でも起きています。しかし水俣にはそれが非常に多い。調べてみると胎児性水俣病だということですけれども,外から見ていては水俣病患者ということはあまりよくわからないのです。というのは,目がよく見えない,口を開けばべらべらというふうにはしゃべれない,舌がうまくまわらないわけです。こまかいことをやろうとすると震えてしまって何もできない,目をつぶって立っているとばたりと倒れる,あるいはけいれんする。ところが外から見ると一見何でもないんです。動いたり働いたりしゃべったり,普通の労働をしたり生活をするのに不自由な病気なんです。ではそういう人はじっとしていればいいかというと,じっとしていると病気がひどくなるので散歩したり,あるいは動いたりしようとします。女の方なんかだんなさんがいたり子供がいたりするとお料理をしますから包丁を使いますが,手が傷だらけです。茶碗を洗おうとして洗剤をつけるとぬるぬるしまますから,茶碗をぼんぼん割ってしまう。欠けてない茶碗のある患者さんのうちはありません。患者さんのうちへ行って茶碗を見ればわかります。欠けてぼろぼろなんです。だからプラスチックとか金属の食器などをみっともないけれども使っています。
そういったものまで見ないで外側だけ見ると,あの人は大したことないじゃないかということになりまして,それがだんだん積もり積もって,あいつは健康なのに,多少は体が悪いかもしれないが,水俣病なんて言えないのに水俣病だ,ということが出てきます。そこが水俣病の水俣病たるところなんです。確かにたくさんの水銀が生でばんばん流された時期に亡くなられた人は,あらゆる病気よりも高い死亡率で狂って死にました。映画に出てくるように。しかし現在はそういう人が死に絶えた後は,もっと違う形でゆるやかにやられているという病気の像が残っております。
一世紀も消えない水銀-公害の根源
それはなぜかといいますと,水俣の水銀は少しもなくされていないのです。水俣に流した600トンの水銀は全部そのまま不知火海にあるんです。それは形を変えて海の底に沈んでいたり,陸に積み上げられたりしているけれども,どこへ行ったかわからない水銀があるんです。流出水銀といいますけれども,それが不知火海にある限り,生物を通じて無機水銀も有機水銀になったりして,結局プランクトンから魚,魚から人間といった形で循還していく。そういったことで違う病気の形をとって水俣病が出ている。これがどこら辺で終わるだろうかということをぼくらよく大学の先生に聞きます。「先生,水俣病はどの辺までいったら一応済んだと言えるんですか」と聞きますと,一世紀はかかるだろうと言うんです。つまりいまの子供の次の子供,その次の子供ぐらいまで見ておかないとわからない,ということを言われるわけです。これは学問としで慎重に計算した話だと思いますけれども,そういうことです。
私が一番こわいと思いますのは,最初に申し上げましたように,あなた方がこれから世の中へ出て行った時に,いろいろな世の中の矛盾にぶつかると思いますが,その矛盾の一つに公害というものがあるとすれば,公害というのはその公害に気づいた人がしゃべっていく以外にない。政府の方からしゃべるものではないということははっきりしているんです。というのは,あらゆる化学工場は全部政府が,お前さんはこういうものをつくっていいということを許可するわけです。その時にはこれが国民・住民の健康をこわさないものと認めた上で許可するわけです。そこでチッソも毒を流して水俣病の患者が出るずっと前から,現場の技術者はどうも魚が死んでいく,カキが死んでいく,猫がおかしいということがわかって報告しているんです。報告しているけれどもそれは発表されなかった。次々に出てきたが,それでもなおかつ企業も国家も認めようとはしなかった。そういうおかしいことがあっても認めるまでには15年くらいたってからで,政府が認めた後もまだ調査をしていなかった。つまりどこら辺まで人々がやられているかということについて調査していない,隠すわけです。
それはなぜかというと,日本株式会社という言葉を聞いたことがあるでしょう。つまり高度成長を続けてきた日本の企業と政府との関係は非常に深いのです。一つの企業が倒れると,それに金を貸しつけていた銀行がぽかっと金を失う,それから国の財政をつくり続けていく基礎がこわれる,国が責任をとらされる。そういったいろいろのことが関連しまして,チッソ一つで問題が起きたことをあまり早々と認めて,ああいうものを使わないようにしようというと,日本中で水銀を使う工場が当時80ありましたが,その80全部を企業停止したら,日本の化学産業は数年間ブランクをつくると,しかも大変な損失をこうむる。つくったものが使えないわけです。そこまですべきであるかどうかということを迷ったばかりに,水俣では何人という人がすでに患者として訴えて出ており,新潟にも生まれる,有明海にも生まれているだろうというふうに言われているんです。ですから絶対にお上から知らされるということはないんです。つまりこういった問題については住民の側に立つ医学,住民の側に立って調査する人,あるいは住民の側に立って一生懸命そのことを考える人,そういう人が出現しない限りはこの公害はとめられないということは,水俣病の歴史を通じてわかったわけです。
石牟礼道子さんのこと
あなた方にわかりやすい例で言いますと,石牟礼道子という人がいます。この人は今でこそ非常に有名になりましたけれども,私が昭和40年に会ったころは学校の先生のおかみさんで,字も辞書を引きながら覚えるというような人でした。学歴は高等小学校です。戦争中のどさくさに代用教員をやった人ですけれども,その人が非常に偉かったのは,だれも水俣病なんということを忘れてしまった。まあ水俣病のあったことは確かですけれども,その後長いこと忘れられました。その時期に彼女はただ一人でとぼとぼとバスに乗って部落に足を運んで,話を聞かせてくれと言ってメモをしていっぱいためて置いたわけです。それを何年もかかって書き直し書き直ししてつくり上げたのが「苦海浄土」です。それには彼女の大変な思いが入っていると思いますが,その当時彼女が水俣の部落に足を運んだのはどういうことかといいますと,何で水俣病をほじくるか,世の中は忘れてしまったのに,何でお前は興味を持つのかと言って,だれも賛成しなかったということがあるわけです。患者さんに聞きに行くと,患者さんの方では,あなたこんなところまで来て調べるけれども,幾らあなたに話しても病気はよくならない,そつとしておいてほしい,というような雰囲気の時でした。その時に彼女は多くの患者さんと仲よくなり,聞き書きをして初めてそれを発表したわけですが,発表しようにも日本中の出版社が石牟礼道子という名前を知りませんし-一部には非常に深く知られておりましたけれども-どこに持って行っても原稿が売れない。2,3年するうちにやっとそれが世の中に出て,その文章を読んで水俣病のことをやらなければいけないと思った人が全国で何万というふうに出てきたわけです。もし彼女が自分は高等小学校しか出ていないと思って,何も主婦の分際でこんなことをしては恥ずかしいと思って何にもしていなかったら,水俣病が世の中に知られるのは,おそらく5年や10年はおくれたろうと思うんです。
そういう点で,住民の中から住民の立場で一生懸命にやるということは,こういった公害問題なんかの場合にどれだけの力を持つかということは,石牟礼さんが生き証人だと思います。そしてこのことを中途半端で,患者さんをもう出さないようにして,いい加減で手を打とうじゃないかというのが政府の本音だと思います。
汚したものの責任
皆さんも社会科なんかで習われたと思いますけれども,公害にはPPPの原則というのがありまして,汚したものが汚したものの負担において必ず補償せよというのです。だから水俣病に関してはチッソが補償せよ,というふうに言っています。たとえチッソが払えなくても,最後まで責任をとれと。これは大変な原則です。しかしもうチッソは金がないでしょう。助けてください,私たちはもう借金が320億あります。資本金はたしか78億だと思いますが,資本金を上回る借金をつくってしまいました,どうにかしてください,あんまり患者を出さないようにしてください,というのが本音だと思います。それはそうだと思います。チッソは相当苦しいだろうと思います。しかし,そこでもうちょっと調べていきますと,チッソから莫大な利潤を得た銀行があります。チッソが苦しい時こそあんまりいい顔をしていませんけれども,かつてチッソがとてももうかった時代があるんです。その時代と水俣病の出る時代と重なっているんですが,興業銀行,住友銀行,三和銀行,そういったところがバックアップしてうんともうけました。そういうところはチッソとは別会社なのかといいますと,この水俣病に関しては同じ責任だろうというふうに思います。ですから,チッソに金がないという時には,それを支えた,関連した銀行も金も出しなさい,というのが私の言い分です。
今水俣で一番問題なのは,さっきから口をすっぱくして申しますとおり,住民たちが水俣病の患者を探し出す以外にはだれも探さなかったということです。これは本当の話です。水俣に多くのケースワーカーがいます。多くの看護婦さんも働いている。多くのお医者さんもいる。しかし水俣で水俣病の患者を出した人数というのは,水俣の中では100人とか200人ぐらいです。ケースワーカーに水俣病というのはこういう病気だから,あなた方がケースワークしながら,方々でおかしい人があったら必ず知らせなさい,ということをやったことは一度もないんです。むしろ水俣病のことはほうっておけ,というのが本当です。
では水俣病の患者がどうやったら水俣病の患者になるかというと,お医者さんに行って診断書をもらって,そして私は水俣病患者だと思いますから診査してくださいと-これを本人申請といいますが-そういう手続をしないと診査会に入らないわけです。たとえば去年和歌山県にフィリピンから帰ってきたコレラ患者がいましたね。コレラ患者は自分がコレラ患者だと言わなくても,病原菌が発見されれば,その人がどの港に降りてどこの食堂で食べて,どこの駅で乗ってどこで降りて,何時何分どこへ行ったかまで調べて,そこを全部新たな感染者がいないか調べますね。伝染病だったら一人残らずしらみつぶしに調べて,その地域を消毒し,発生したら国連に報告するわけです,日本の和歌山県に発生したと。全部それを調べ終わって,菌がなくなった,もう伝染しないとなるとまた国連に終わったと報告するんです。伝染病だとそこまでやっている。ところが水俣のように,あの地域に600トンもの水銀を流して,これだけの苦しいことが起きた時に,行政とか医療機関が一人残らずしらみつぶしに調べて,おかしいと思う人は本人が何と言おうと,どんどん掘り出していくことをすべきだと思うんですが,そういうことをしないで,本人がもし申請したかったらしなさい,ただし私は診断書は水俣病というふうにはどうも書ききれません。ほかの病気かもしれないから自信がありません。でもそういう程度の診断書でよかったら書きます。あなた,それでも申告しますかと。今でもこうです。そうすると水俣のような漁村では,水俣病の患者と名乗ることは,その地域で今でも漁業をやっている人に対して敵対していくことなのです。それからもう一つ家族からも敵対されるわけです。
それはどうしてかというと,水俣病は遺伝するというふうに思っているのです。たとえばある血筋で遺伝的なものを持っている人は,やはり今でも結婚はむずかしいと思います。それで水俣病というと遺伝するというふうに思うわけです。ところが遺伝ではないんです。あれは毒の中毒なんです。だから妊娠中その魚を食べなければりっぱな子供が生まれるんです。そういった基礎的な知識も与えていないから,一家の中に水俣病が出たら孫代々までたたるということで家族からも押さえられている。そういった例がいっぱいあって,ちょっと歩けばぶつかるのに,いまだに制度としては本人が申請なさったら,私たちは調べてお返事申し上げましょうという制度が残っている。こういったことがある限り,水俣病はなおりません。
知らせる責任
それから水俣病でこういう悪い制度の前例がある限り,今後方々の地点で,私たちがいまだかつて知らなかったようなタイプの環境汚染で苦しむことが起きた場合,水俣がもしだらしない誤った歴史の前例をつくると,あと右へならえをしてしまう。ですから水俣病患者はカナダに水俣病が起こった時に,カナダのインディアンの部落に悪い足を運んで行ったんです。私もついて行きました。その時カナダのインディアンに何と言ったかというと,「私たちが怠ったばかりに,あなた方にこのような病気をさせてすみません」と謝っているんです。松葉杖をついた患者がです。私たちがもっと声を大にして,水俣病のことを本当に訴えていたら,あなた方がこのように苦しむような産業のあり方とか,排水の仕方とか,そういうことがなくて,あなた方は助かったでしょう,という意味だと思うんです。これは浜元二徳といって重症の人ですけれども,松葉杖をついて車いすに乗っている人で,まだ40代ですけれども,あと4,5年で死ぬんじゃないかと思うんですが,そういう人が一生懸命そう言って謝っている。この精神が水俣の患者の一部の人には強烈にあるわけです。病気は自分たちだけでけっこうだと,しかし子供はかわいそうだ,それから何にも知らないで水俣病になった人はかわいそうだと。私たちは残念ながらそういう歴史の中に育って病気になってしまったんだから,せめてあと自分にしかできないことをやろう,それは何か。それは水俣病を起こさせないことだと。労働もできなければ何もできない。ただ水俣病を次に起さないようにさせようということだけは自分ならできる。ほかの人にはできなくても,自分なら自分の体を説明し,自分の見た話をし,今まで歴史的にどういうことが水俣病患者について行われてきたかということは話せると。その自信のもとに彼らは動いていると思うんです。
そういった点で今も環境庁に患者さんが座り込みに来ていますけれども,それはもうどうしようもないところにきています。というのは,国も水俣病患者に何をしてやったらいいのかわからない。いろんな20年の歴史のつけが回ってきて,政府ははっきりと私たちに責任がありましたと言ったんです。石原慎太郎環境庁長官もそう言ました。それから法廷でも,川本という人がチッソの人を暴行したという時に,この川本さんを責めるのならいば,その前に責められるべきは国であるという名判決が出たんです。だからその川本さんという人を訴訟したのほ間違いだと。今20何年かたって,水俣病の原因は,国が本当にしっかりしていればこんなことにはならなかったと,口では言っているけれども,実際にはいろんながんじがらめの中で何も手が打てていないのです。早い話が私事になりますけれども,私の映画を買え買えと環境庁に言うんです。この映画を買って日本中に見せなさいと。ところがなかなかむずかしくて買えないと言うんです。長官自身は水俣病のことはあまり知りませんから,就任してくると必ずぼくの映画を取り寄せて,大臣の部屋で見るんです。そしてああ勉強した,いい映画だったと,これから大臣に予算を要求しなきゃ,と言うんですが,これを世の中に見せようとはしない。そういうことを一つとっても,水俣病はただ単なる体のおかしい病気じゃなくて,日本の社会が今一番病んでいる文明の発達,産業優位の生活,自然を破壊していく生活,一時は金が入って,景気がよくなっていいと思った,それらの一切のつけが今私たちに突きつけられている,そういうことを許してきた政府に突きつけられている,そういう時なのであります。
組織の中で人間として生きるために
日本人というのは偉いところがあって,失敗しても必ず取り戻すことができる人種だと私は思っていますけれども,必ずこれを取り戻さないと,事を明らかにしないと次の世代に対して申しわけない。あなた方の世代もう一つ次の世代に申しわけないというふうに思うんです。
あなた方も大人になって世の中に出て行く時に,どうしようかと判断に迷われる時があると思います。たとえば私の中学時代の友達でチッソに入って仕事をしている人がいます。本当に苦しんでいます。この映画の中で患者さんに「あなたも人の親でしょう」とやられていた島田という社長がいますね。彼は1週間前に亡くなりました。ぼくはその新聞記事を読みながら,この人に何と言ってお悔みを申し上げたらよかろうかと思いました。つまり患者で死んだわけです。チッソのために粉骨砕心して,そのためにはいいことをやったように思っていたところが,晩年には多くの患者に詰め寄られて,多くの苦しみを味わい,自分の思ったことを率直に発表できないまま亡くなられた。組織の中の一人としてそういうふうに生きられた。それは不幸な無念な悲しい一生だと思います。そういう人を私はずっと追っかけて映画に撮ってきて,目の中に焼きついています。あの人自身は普通でいえばいい人です。奥さんも敬虔なカソリックであり,あの人も非常に真面目な人です。しかし企業が犯した過ちを早く認めて早く救済すると,住民の被害について早く気づいてやるということをやり損ったばかりに,一生をさびしく死んでいったのです。こういうことがあってはならない。これから水俣病とかこういったことがどんどん起きてくる現代においては,やはり人類のため,自分のためを考えて,どこかでは行動する時に迫まられると思うのです。そう時にはきょうの水俣の映画を思い出していただいて,あの中でしゃべることもできなくなったあの社長が,何にもしゃべれないまま死んでいったと,あの人はやはり大会社の社長であり,栄光ある人です。それが人間的にはどうだったか。本当にドブネズミのように何にも吐かないで死んでいった。このことは歴史の教訓です。
こういったことの恐ろしさを,私たちほ現実社会の中で毎日毎日見ているわけですけれども,私のチッソにいる友人も苦しみながら仕事をして,私たちに情報をちゃんとくれています。そういったことで私は親友としてつき合っていますが,組織と人間というか,そういうものも引き裂いてしまうようなことが世の中にはいっぱいあると思いますので,こういった公害を一つの教材にして今後とも生きていかれることをお願いします。世の中にはこういう起きてしまったことに勇気を持って闘っていく人がいっぱいいますから,がんばってやっていたただきたいと思います。どうもありがとうございました。