水俣-一映画記録者として 『記録』 創刊・4月号 記録社 <1979年(昭54)>
 水俣-一映画記録者として 「記録」 創刊・4月号 記録社

 数日別のこと、ある映画製作のスタートの会議の席上で、初対面の身体障害者、おそらくは彼もその映画の中でいずれ登場するであろう人からこう言われた。その映画は、来る四月一日から実施される養護学校義務化阻止にむけて、文部省に一週間に及ぶ連続抗議行動を撮るものだった。
 「……映画をとる人らはわしらのことを分っとるかと思うのや。映画をとりはるなら、その前に介護してみてほしいのや。どんなに車椅子が幸いものか、東京の街かて、わしらの動けるようには出来ていてへん。街は階段ばかりやないか。そのことを体験してみてから映画をとってほしいのや」
 恐らく、それに先立つ数日間、全国をキャラバンしながら、その支援と反応のにぶさに辛い思いをしてきたであろう三十歳になるM氏の心のほどけるひと刻であったにちがいない。聞き手である私のほかの映画スタッフはさきに『東京クロム砂漠』の長篇記録を完成した気鋭の新人たちであった。まだ二十歳代で、映画体験即人生体験といった若い人たちだ。その彼らにM氏は初対面の挨拶をいかに手短かに、かつ真底の話を伝えようかと、構音障害にあらがいながら語った。そのうちに「…わしらは弱者や。あんた方は何というても強者や。弱者の気持は分らへんと思う。強者であることを自覚して、弱者の立場で撮ってほしい」と声を強めた。私もその強者のひとりとして、彼の指さすものの一人として聞いた。が正直、やり切れぬ思いであった。青年たちは眼を伏せ、うろたえて、「撮るなかで学びたい、本当に今日まで身障者の人たちとつき合わなかったから」と弁明にしどろもどろであった。そういう答え方になることが予想できただけにやり切れなかったのだ。
 私の映画記録者としての水俣体験もいわばこの強者と弱者の溝のような、絶対に交替不能な立場の認識と、それでもなおかつ、いかにして撮り、記録するかの自己闘争であった。それだけに、同じ回路をまた初めから歩まねばならないと思う。
 「おまえに患者の苦しみが分るかな」と私はしばしは問われる。当然「分らない」としか言えない。だが「その問いを受けてもなお答えることの出来ない私の苦しみが分るか」と心の中で居なおりの声も正直いってある。私はあなたではない、私は彼らではないといった、他者と個の絶対的な差異一般に原点回帰するつもりはさらさらないが、この問いは恐らくひとつの無意識に発せられた試しであろうと考えるほかはない。テストとも試験ともちがう、試しなるものである。それには、今後のつき合いを潜在願望としている点、採否如何では別れと分離を予想するものと大きく、明らかにちがっていよう。つながりを求める点で純客観的記録なる立場は微妙にその姿勢を問われる。つながりを拒否するか、それに何の価値もおかないとするならば、カメラとテープを仲介としての映画記録の作業はそもそも始動しないのだ。
 私はかつてある個所で文字による記録と、レンズ、マイクによる記録との差異と、そこに横たわる”原罪″との格闘をのべたことがある。匿名を用いえない裸の肖像、裸のプライバシーの接写力をもつ映画記録の特性と、それによって引きおこる責任のとり方について、結語的には長いつき合いを背負うー背負っても責をとり切れるものではないがーとのべることしか出来なかった。だが、言うは易く、行うことは至難に近いこともよく知っている。弁解すれば自己をいやすレトリックに近い。
 かりに一過性の取材者でも、「弱者を理解する立場に立つ」とか「水俣病の患者の苦しみを表現する」といった自分の気持をかためてから、そうしてひとびとと接していよう。そして、それをTVなり新開記事にあらわしたら、それで一サイクル終る。そして、弱者も患者も一定のアッピールがされたことに、ほぼ充足する。このマスメディアの切れのよい、いわばドライな関係に、私たちが立つことはない。
 例をひこう。去年、私はほぼ三ケ月胎児性水俣病患者の青年期の生活と考えを追った。当然、焦点は青春の核である愛と性にふれざるを得ず、結婚といった目標との彼らの葛藤にもマイクとレンズをむけることになった。私にはこの問いは、予想される「ノウ」を単に確認する行為に思えて、日常会話のなかでもつとめて避けてきたことですらあった。だから、その私の予期を剥き、その生々流転する彼らの情念を知ろうとすることは、ある種の荒行を自分に課すことでもあった。即ち、映画フィルムにとれたもの、テープに採録されたそのもの、物質化された彼らの肉体と思想を、のちに彼らに聞かせて、その正否と応諾をうることで、相互にひとつのシーンを共有することである。ロケを終えてから、彼らは東京に上京し、自分たちの記録をみて意見をいい、私もその所信と意図をのべるという往復運動を今回はしてみた。それまでいわばおとなの患者たちを対象にした映画では一切、その種の相互確認はなく、その映画表現の責任は、完成フィルムの結果のすべてを私たちスタッフが負うということで決裁してきた。だが、若い患者の場合、青春は現在の日々であり、愛と性は最も今後の人生の核であるだけに、私はとれたものを間にしてもう一サイクルの討論により、私の認識の深化を予定しなければならなかった。ある女性患者は手紙を託し「……けっこんのところは、えいがにいれないでください」と自筆で願いをつづってきた。私にとって、それは重要なシーンであるが、決して応諾なしには使わないと長距離電話をかけ、一方で彼女と話しあう機会をつくることを約束してもらった。
 ある日曜日、N局のテレビで十年間の水俣といったテーマのドキュメンタリーが放映された。その登場人物は、どのひとも私の知己ばかりである。取材者は「ゆきずりの旅のもの」の見た水俣という自制をナレーション(字幕)で語り、全体に抑制のきいたものではあったが、私と結婚のことについてのシーンをいまも話しあいつづけている女性患者に、いとも簡単に「およめにいく日」を一家の話題として採録し、若いスタッフが、「あなたもぼくも同じどし」と肩をくむポーズに眼を見はった。同席の母親の顔はどこか凍てついており、好々爺となった父は酔いまぎれて、「よめにいくときゃ、あんたは泣くばい」との傍のひとの声に挑発されて、唄をうたい、おどってのんだくれていた。そして本人は、聡明にも、その座の進行につき合い、彼女特有の微笑をたたえ、終始無言のまま、若い同じ年のスタッフの酔態に調子を合わせていた。
 このことは意想外では決してなかった。テレビの人、一過性の取材者の求めには、その応分のもてなしをする彼らの気持をいままでも見てきたからである。そして、どこかでテレビや新開のひとには、”気さく″に応じ、その”一回性″に耐えているふしを感じていたからである。だが、私の映画の場合には、どうして、自らの肖像と意見に、かくも深い執着と格闘がともなうのであろうか。それはおそらく、私の今までの映画が、一回の放映とは全く異なり、何度となく、しかも映画を見るために設けられた映画会で上映され、その反響が、彼女たちにフィードバックされてきた体験によるものであろう。ジャーナリズムでなく、ドキュメントであることを彼女たち自身が私たちの水俣映画に直観しているからにちがいない。
 そしてもうひとつは、私の記録の方法は、意見は必ず彼女たちの肉声でとどめる、オール・シンクロであることにもよる。これは手法の問題ではなく、真実のとり出し方である。発言すること自体、カメラにむきあうこと自体、そのいい方をそのまま記録される方法を知悉している上は、そのシーンは、私の責任だけでなく、彼女たちの主体的な責任でもあるのだ。すなわち、フィルム上の彼女のことばと主張は、その部分に限り、彼女のフィルムであり、私はその表現の共同者なのである。ところが傍の人の意見でつづられた「彼女」や、構成者のナレーションで語られた「彼女」は、究極のところ、彼女ではない余地をのこしている。彼女は、「あれはテレビのいっていること」として、自己との混同を拒否できるのである。
 ときに「テレビにはすいすい撮影に応じるのに、どうして私たちの映画にはむきになるのか」と筋ちがいの立腹をしたこともあった。そして、私自身、私のしつこさのせいか、あるいは”知りすぎた″ものへの拒否反応かと頭を抱えたものである。だが、フィルムを間において、もう一サイクルの討論を試みてみて、彼らが「映画」に対し、真摯で、そこに登場する自分について、ぬきさしならない重さを分ち与えていたのだということが分った。その分だけ、ときに”理不尽”であり、”わがままな自己主張”にもなるのであった。そして彼らのその自己主張に関し第一にいいたいことは、映画を撮る、あるいは撮られること以前に、このような主張とそのあえての表現行為は表に出なかったことである。映画をなかだちにし、きっかけにして、あるべき自分へのことばが出てきたのだ。このジャーナルなマスコミと、私の映画記録の質の差を大きくいうつもりは趣旨ではない。話題と問題とのちがいというつもりもない。撮る撮られるものとの関係のなかで、彼らのテレビ取材と、私たちの映画記録への峻別を教えられたことを述べてみたかったのだ。
 私はつねづね「患者と同化して……」とか「患者の立場に立って……」撮ったということばを忌避してきた。そして、彼らとの関係を映画にしたいとのべてきた。だが映像は感情移入にすこぶるずり込みやすい表現であり、描写の主格が記録者でなく、「ワレワレ患者ハカタ語リキ」になりがちなのである。そのため、私は極力ナレーションを主格とデータの明示に限ってつかい、音楽をもって歌い上げることを抑制してきた。そのために、禁欲主義と紙一重の作品にさえなった。

 ある患者は、私の一連の映画は、即闘争にはつながらないと批判めいた感想をのべたことがある。たとえば、ある都市の集会で映画と患者さんの「闘争報告」の組み合せの場合にとくにその異相ぶりが表立つという。その参加者は、当面の患者闘争の目標の明示をもとめ、先進的住民闘争の昂揚をうけつごうとするとき、映画は別の次元での感性的表現に終始し、その”〇月〇日行動”のスローガンと合わない場合がある。
 だがそれは私の映画記録の方法からいって、誤解をおそれずにいえは、当然であろうと思う。一作品にはときに半年、とき一年余の水俣のひとびととその世界との私たちの会話の凝結があり、それは観る人々の感性の右端から左端まで、表層から深層までの訴えを願って作ったつもりのものである。その〇月〇日の感性に見あったものではないのである。だから、映画会として吸収してもらってこそふさわしく、そのような場としての映画批評ないしは批判であってほしいと思う。-だがこれは作り手の勝手であって、流動する運動のなかでの映像の果す役割といった論からすれば”何と芸術家”かと一笑に附されてもいたし方ない。そして、映画は、たかだか映画…というべきか、せいぜい映画…というべきか、所詮、間接体験でしかなく、その感性的世界の成熟は、人間の肉体と意志をもってする直接体験と認識の深化には勝てないものだと思うからだ。

 私は水俣での映画体験の苦汁の部分をのべてきた。だが、そのなかで最もつらい暗塊は、ときに見たものを撮らないことについてである。例えば患者組織の分裂の実相や・金銭処理によって荒廃した一部患者の精神世界、住民自身による患者への抑圧そのものといった一連の”ネガティブ”な諸問題についてである。性善説も信ぜず性悪説にもまた加担しないつもりだが、水俣世界の美化、純化に心砕いたこともないかわりに、その黒々とした部分に挑んだともいえない。私の作家的力量、映像記録者としての修業総量として、いまだ肉体が貧困なのである。だが映画を観終えたあと、ひとびととの討論のなかで、もっと深部の”問題”を訊かれる。それが映画にとっての不足部分としてといったものであるより、映画にその問題の所在を喚ぎとるがゆえに、もっとそのことを聞きただしたいという場合が多い。私はその場合には、言葉として、もっと語ることにしている。ときに「映画より話の方がタメになった」といわれると、本当に映画作家として自問の淵に落ちこむのである。「だから、劇映画でその部分を、ひとつのフィクションとして描けばよいではないか。ドキュメンタリーの限界はそこにあるのだ」という声が、ドキュメンタリーを志して二十有余年のあいだ何度耳朶にのこされたことだろう。その度に、私はドキュメンタリー映画の未開拓の部分として、自分のチャレンジ対象のテーマとしてきた。私にとって、ドキュメンタリーにさえ出来ない力量をもって、どうしてフィクションで可能といえるかといった自虐的な自答あってのことであり、他の映画作家については全く関係のない自己規制であるが……。

 十数年前、NTVの”ノンフィクション劇場”のときの一体験を思い出す。それは『市民戦争』と題されたもので、尾道の海岸にある戦後の闇市から発展して、船着湯前の軽飲食街に成長していた十敷戸の強制立退きのてん末をつづったものであった。その主人公は、在日朝鮮人一家の焼肉屋であったが、市の美化計画の強行の前には、他の日本人食堂経営一家も、当時もなおバラックずまいのニコヨンのやもめも皆ひとしく被害者であった。戦後二十年、海岸べりの道のわきに「不法占拠」し、家をつぎたすには海に杭をうつほかなく、尻を美しい海に並べてつきだした態の飲食街は、町にとって見苦しいものであったに達いないが、その家々の中味は営々辛苦、手塩にかけた生活集積が家財のひとつひとつにあった。私はその一群の人びとの逃れ場のないゆえの結束のつよさに心うたれて、その棄て鉢ともいえる抗議の数週間と、とりこわしの当日までを撮っていた。その一群の人びとのリーダーは和食堂の老人であったが、彼だけは娘むこの家が近くにあり、避難も出来たが、家財ひとつ動かさぬという皆の盟約を、リーダーとして守らせる立場のひとであった。
 私たちはカメラとテープをもち、その日々をとっていたが、強制立退きの前夜、その老人が一挙に家財を運び出し、皆に、口々に罵られるのを目撃した。その敵前逃亡は理非曲直のつけがたいドラマであった。誰しも、立ち退きのあとまで結束できる血盟でも組織でもなく、ひとりひとりで自分を守らなければならないことを各自胸の中でかみしめていたにちがいなく、ただ口に出さないだけであったからだ。
 私はカメラをとりに走りだしたが、足がとまってしまった。それはひそかに監視している市職員と私服を見たからだ。彼らのあざわらいの表情がはっきり読みとれた。それをみてしまった眼でふりかえって、人びとの内ゲバを眺めたとき、私は撮る意志を喪った。あえて筆を擱くというか、撮るにしのびなかった。私服たちが夜のやみにその身をかくし、彼等をとる機も逸した。結局、『市民戦争』はこの前夜のバルザック的世界ともいうべきエピソードを撮り得ず、その代償として、家を失って以後の朝鮮人夫婦の再生のきざし、そのふてぶてしいまでの蘇生力を描くことで全体のテーマを構築した。ゆえに、窮民の闘いのストレートな作品となり、市権力のメカニズムの非人格的構造を描くことで終った。何が私をしばったのかは明白である。敵味方の区別といった価値観にとらわれたからである。しかし、かといって、もしこの老人の夜逃げをとったとしても、私のテーマは恐らく狂わなかったに違いない。
 この体験はのちに尾をひいて、しばしは反すうの種となった。だが現実に直面すると、再び敵味方、彼我間の”政治的”素因が私をとらえ、撮らないでおくといったことがくり返すのである。事の比重を問うわけでは毫もないが、水俣の場合の矛盾と敵対、その運動の直面するひとつひとつの事実の重さを知る私には、単に政治的判断、運動上の配慮といった次元ではなく、もう一つ高い認識に立って、こうした”ネガティブ”な問題も描きたいと思ってきた。だがせいぜい出来たことは、カットとしての表現ていどであり、一シーン、一シ-クェンスを構成するまでのものは稀であった。強いてあげれば映画『不知火海』における、”御殿”のなかでテレビ、カメラを玩具とし、模型の機関車に時の流れを托している漁師失格者の一家のエピソードぐらいであろうか。だがこれも「補償金では救われない、まして子供のことで親として何も出来ない!」という彼の地の声をきくことで終り、さらに深く精神的な荒廃の基部にまではとても至っていない。ひとは私のこの描き方をやさしさと言うことも聞く。しかし、私にとっては、まだ未到課題の最も重いものなのである。またしてもTVの例で恐縮だが、同じ頃NHKが、同じ家を取材し、その豪華な暮しぶりを紹介した。ただ切り出し方は私の場合と真逆の順序であった。「こんな家にしても、やはり、あなた方患者の苦しみは消えないでしょうね。その辺をどうぞ……」といったインタビューの出だしであった。答える当人はへラへラと薄気味の悪い笑いをうかべざるを得なかった。放送後、その当夜から一週間程、この一家には毎晩、悪口と、「火をつけるぞ」といったいやがらせの電話が殺到し、一家は戦々恐々たる事態にひきこまれたという。これを語るときに、強情な元漁師も鳴咽する程であった。テレビは結局のところ、その情報の力で一家を懲罰したことになる。こうしたマスコミ映像の力をファシズムとよはないで、他に別個のファシズムなるものがあるだろうか。
 これは特別の例かも知れない。番組制作者の意図をはるかに超えた水俣特有の反応ともいえよう。しかし、水俣の事象の記録には、いささかも油断を許されない彼我の対峙があり、”水俣病”撲滅の戦場的様相のあることは確かなのだ。
 私はいま漠然と自らのネックとなっているドキュメンタリー映画の方法論の突破を試みるのだが、それは映画の手法的解決では決して成立しないであろうと予感している。それはやはり思想上の変革にしか求められないであろう。仮に多元的取材で、反対論を引き出し、対照化してみても、一つの時点だけでの甲論乙駁から何の客観性も固定されず、かといって、その流動性から運動の方向も確定されがたいであろう。私は少くとも、いわゆる表現のための対象とのかかわりといった局面ですら、予見や、意図をもってするアプローチではなく、一つの暗部にせよ、好悪や正邪の価値観と無縁な”診察″といった、手で脈を計り見るといった率直な対象との関係をまずもつべきだろうと思う。診察とはその健康と病症とを分つのではなく、脈搏と体温を知ることからの全体躯を調べることを言いたい。データをとり、それを組みたて、加えて問診をくり返すことで、その対象の個体を個体としてまず把握する記録の方法である。近代医学風でなく、あくまで体温のある手をもってする接触による。
 次には時間をかけたフォローであろう。その動因には、人びとのそれぞれの歴史性を過去・未来にむけての時間的スパンで観られる映画的視点であろう。水俣では”市民”も”別の組織のひと”も皆健康被害をうけており、その生命の犯され方は早く出るか遅くでるかの差であり、個人差があるだけといった方が真実に近い。その命運の変遷の中で、ときに患者かくしの先頭に立ったひとが、いまは廃疾者となり窮死していくのである。決して目前のパターンのままではあり得ないだろう。こうした歴史的視点によって、いまの敵、味方をもう一ぺん洗い直したとき、記録の方法も映像の方法もまた変らざるを得ないのではないか。つまり、目前の”ネガティブ”を、さきの展望の中で正当に位置づけうる視点が獲得されるのではなかろうか。と同時に、最も根源的な矛盾・敵対関係についても、更に鮮明にその系をたどることにもなろう。
 第三に、水俣を更に奥深い不知火海全域の人と生物の生命の側から見ることではなかろうか。この思いから、七七年夏から四ケ月、私たちは不知火海巡海映画行動を試みた。これは、水俣の歴史を横につなげて歩いたことにもなった。水俣の一〇年前、二〇年前の閉された情報未到の地と人びとの生活があったのである。それとともに、水俣病事件の発生をひきおこした文明の毒の浸透と漁村集落の共同体破壊作用が現在進行形ですすんでおり、水俣での”ネガティブ”な事象の本質は形をかえて、同根のまま各島や集落で発顕しており、これはただ単に水俣病事件固有のネガティブなものでなく、現代日本の社会的病像そのものと見なすだけの視界が得られそうに思えるのだ。
 こうした映画記録の思想的、行動的基盤の拡大と、洗い直しによる再構築なしには、私の希求する自己の映像変革も所詮かなわぬことに違いない。
 -それにしても、また言葉としての饒舌を重ねた悔いがないでもない。しかし機会あるごとに映画記録の不充分さを荒けずりにせよ、点検していなければ、私はまた「だから劇映画の方がより可能性がある」という通説にたじろがなければならないだろう。私も若くなく、もう折り返し地点ははるかに過ぎている。これからもドキュメンタリー映画の未開拓の部分-とりもなおさず私自身の映画を切開することのほか残された可能性はないと思う。