書籍「逆境のなかの記録」 ドキュメンタリー映画の制作現場における特にカメラマンとの関係について <1975年(昭50)>
書籍「逆境のなかの記録」 ドキュメンタリー映画の制作現場における特にカメラマンとの関係について <1975年(昭50)>
 書籍「逆境のなかの記録」 ドキュメンタリー映画の制作現場における特にカメラマンとの関係について

 私はこの十年程前から、映画の製作のプロセスとは何かを、一つにはスタッフとの関係に求めて、「映画=スタッフ論」という言葉を自分なりに作ってきた。
 劇映画には二十人前後のスタッフが要るときくが、私の経験した羽仁進氏の『不良少年』の場合、八人であり、ドキュメンタリー映画に毛のはえたような人数でやってきたので、その点では、やはり劇映画のスタッフ・ワークを言う資格はない。だから私の言う場合はドキュメンタリーに限られる。それも仕上げ段階には、録音、編集、音楽、ナレーター、線画と急ピッチに完成にむけての共同作業がはじまり、大きいスケールでのスタッフ・ワークが展開し、それぞれの感性を太く巻きつけて一巻のフィルムにしていく。
 この中での相互のぶつけあいの中で映画が各スタッフの人格を全編ににじませてゆく過程については、また一つのスペースで語らなければすむものではない。しかし、今は、その原型的作業ともいうべき、撮影現場の段階でのスタッフの形成についてのみ論を進めたいと思う。
 私の映画にとってカメラマンの比重は極めて大きい。とくに今までの作品で最少単位三人(『パルチザン前史』) から多くても六人(『不知火海』)でほぼ四、五人のことが多く、冗談にロケ用のワゴン一台分のスタッフが一番いいなどといっていたものである。
 その中で、とくにカメラマンをこの小論のテーマと選ぶのにはひとつの理由がある。それはカメラマンと演出との共同作業の質が、現場スタッフの作業とまとまりを牽引していくものであり、作品はもとより、のちの仕上げの作業を求心的にしていくフィルムの原型づくりの要であるからである。
 いまお借りしている紙上は主としてTV ドキュメント研究のためのものなので、私のように殆んど私的な場所で映画を作っている人間には、何か役立たずのことを言いそうであるが、映画があり、映像を作る仕事には必ずスタッフが存在することは確かなことであるので、論を進め当せて頂きたい。
 私の友人にカメラマン大津幸四郎がいる。つきあいの初めは、TVドキュメント「地理シリーズ」(岩波映画)時代であり、私がようやくTVに限り(映画では助監督のまま) 一本作らされた十三、四年前、彼が鈴木達夫カメラマンの助手であった時代にさかのぼる。
 それは三人のスタッフで、一定のロケ費のある限り、才覚をつけて一つの県(佐賀県)の話をまとめてこいというものであった。勿論、文献的に有田焼とか米どころとかの話はシノプシス化されていたが、ロケハンなしなので、行って、見て、撮って、まとめよ、という極めて牧歌的な仕事であった。彼はまだ岩波映画に入って二年程であったが、本来はジャー ナリスト志望で静岡大法学部をまともに卒業後、岩波書店をうけ、次点かそのまた次点位で機会を逸し、その才能を惜しまれて、子会社にまわされたという。つまり、映画に入るなどとは夢にも考えたことがない人間である。いわゆる映画美学を云々するより、はるかに強く現実世界に心ひかれてやまない青年であったに過ぎない。同世代の仲間が、カメラについて、ライティングについて、或いはレンズ系について、あるいはカメラワー クの技術についての話に取るときも、彼は一拍はなれたところに身をおいていた。
 その上当時、あの若い歴史しかない岩波映画でも、演出部とか撮影部とか区分はあり、旧来の映画界の慣習から、演出部は構成し、演出し、まとめる。撮影部はその演出家の要求される画をとる。といった”縦構造”が、やはりあったと思う。劇映画が数十年間に築いてきた現場のヒエラルヒーはやはり、温存されたまま新らしい映画環境にも持ちこされていた。そのためか、演出と撮影の関係の中で、カメラは演出家にむけて問う関係であり、演出家は答え、時に命ずる関係でもあるー或いは、演出はリードしていくものであり、カメラはリードされるものー演出家はつねに演出意図は明確でなければならず、何をどう表現したいかについてカメラを説得する立場に立つものといった構造が身に泌みていた。
 ところが、演出もカメラも、たまたま映画のメディアに入ってきただけで、確乎として演出家たらんとしているわけではない。お互いにドングリの背比べである。映画的才能などの長短はないのである。この横構造が横に連続すべきなのにどうして映画は一見縦構造であるのか。これが彼と出会った当時に素朴に抱いていた「スタッフ間の矛盾」であった。
 一つの映画が不出来であったとする。ことに、ラッシュをそのまま上映して、その成否を検討する場合、演出家は撮ろうとして撮れなかった、或いはそう写らなかった画面についてカメラマンを責め、或いは同じ演出家の仲間に愚痴をいい、カメラマンは演出家の非力をいいつのるという形をやはり私は複雑な思いで感じてきた。
 しかし何より幸せは、当時私はまだこれからやれる助監督だったので、白紙からこの関係を作る前途が私にはあった。
 TVシリーズで最少単位のスタッフで他県にいき一つ宿で寝食を共にしつつ、これから撮るべき映画について語る。そこは会社でもなく各部課のへだでもなく、まさにさしたる制約もなく、いわば鮮度と吸引力だけが要求される中で、毎晩、今日撮ったものは何だったかを語り、明日撮りたいものは何かを語った。それはシナリオなしなので、いわばシナリオ作りの時間であり、構成の予習でもあったが、実は、私本人も、明日、何がそこにたしかにあるのか分っていないのである。
 明日とるべきものについて共通の知識と調査があれば、より具体的な撮影の手順に入れるであろうが、いわば一つ都市一つ村を対象としての旅である。皆、明日、何があり、そとに何の問題が横たわっているか知らない。しかし、そこで皆一種の共同動作のとりうる一点を酒の力をかり、おびただしい考えとことばのぶつけ合いでたぐっていくことになる。
 そこには演出もカメラも助手もない横構造しかないのである。大津もそこでは、雄弁になりシャープな意見をのべた。当時、ドキュメンタリーのABCも分らぬまま、「決定的瞬間」をいかにとるかを論じていた。それはスチール・カメラの世界から生まれたことばと記憶しているが、ドキュメンタリー映画の現場において、それを逸したことへのつまづきと悔恨が、それへのあこがれがつよければつよい程、大きいのを知った。だから、私たちは一体、何が「決定的瞬間」といえるものなのかを、カメラを回す以前につきとめることを始めた。
 眼で物を見るのは動物的早さと知的判断で出来るが、カメラはそれをどう瞬時につかまえ得るものなのか、それは一過性のものか、待ったらとれるものなのか・・・といった現象的討論から一歩つきすすむと、「決定的瞬間」を共感出来るかどうかに先ずかかわってくる。
 多くの瞬間の流れの中から一つの動きにある本質をつかむにはつかめる個性とつかみ得ない個性がある。異なった個性であるスタッフが、一つのことに直感し得るのは何か。その共有感覚がカメラによって撮しとられるーその、そも胸もはずみ眼もくらむような作業を求めるには、それはいつにカメラマンの作業、ボタンをおし、ピントをあわせ、フレームを確定する作業力、腕力のみにあるのか?
 ここで、私たちは「「決定的瞬間」とはまず撮れぬものと心得よ!」ということに辿りついたのである。その一瞬はカメラをおいて肉眼で見つめたらいい、撮れなくてもいい。しかしそれは、どんなものであり、その質と像は、次にどの形をとってあらわれる可能性があるか。それは主体の中で問うことであり、ことばにしにくく、ひとりひとりあえて言語で言いうるものであるなら、映像というメディアはあってもなくてもよい。それを表現するものがカメラマンであるなら、そのカメラマンの撮したもの、その撮す一刻の間に、彼の中で精神と感性をこめて凝視したものの中に、不完全・完全、顕然・不顕然にしろ、何かがやきついているはずだ。
 つまり演出者はカメラマンとかかわり、共通の対象とのむきあいをつくり、その対象の中から何かの映像をとり出したとき、演出者は、そのカメラマンが何故カメラをまわしたかを知り、そのフィルムの中にカメラマンの生理と意識の糸がどう織られ、把えようとする感性の矢が、当面どこにむいて放たれ、どこに当ったか、つまり何を意図しようとしたかを逆算して探りあてる作業が必要ではないかと考えるに至った。それは編集と一応言われる仕事かも知れない。
 しかし、問題は編集以前の「スタッフの撮ったもの」への理解と評価と、それへの徹底的なスタッフ的共有感、うらがえしていえばスタッフしか見えない矛盾を読みとり、現場では完全に見えた或るものに、とれたフィルムを照し合わせ、その中にふくむドキュメンタリーの真ずいともいうべき何物かを確実に選らぴとる作業がまずあるのではないか?
 ここからカメラマンの心をよみとり、そのカメラマンの心の中から、全スタッフの行為の質と量を拡大し、生きもののように大事にし、映画の中核にすえるならば、それは、スタッフの映画そのものになるはずである。
 演出とカメラ、演出と編集といった職能的な異相はその次元ではなくなるのではないか?
 大津幸四郎とのはじめての仕事で、現場的につかんだスタッフ論の原型はまず、そういったものだったと思う。それはスタッフの旅の軌跡であり、行為の所産であり、「自由」の映画的かたちと言えないだろうか。映画はスタッフのその中からしか誕生しないものではないだろうか?
 昭和三十五年頃から、岩波映画の若い人々、監督、カメラマン、録音、編集の別なく三十人余の仲間で「青の会」を作った。その出来方は自然発生的ともいえる。大津幸四郎もその中心的メンバーであったが、ここに黒木和雄を兄貴分に、東陽一、小川紳介、岩佐寿弥、カメラでは鈴木達夫、田村正毅、奥村祐治、録音では久保田幸雄らのメンバーが集った。
 きっかけは、地理TVをドキュメンタリー映画の方法の駆使できる実験場にしたため、スポンサーからのキャンセルが相ついだ。ついで、私の映画の第一作『ある機関助士』のカット問題等、習作から実作に移ろうとする時期に、スポンサーの形であれ、プロデューサーの形であれ、スタッフの論理とは異った形の「映画」への干渉が始まったからである。
 断っておくが岩波映画は非官僚的な体質をもって出発しており、そこでカット問題が起ることは、それぞれのドキュメンタリー映画の模索期においては、やはり重大にうけとめざるを得なかった。そこで、力も金もなく暇だけあるわれわれは、今後のドキュメンタリー作りのために、多くの思慮をめぐらさなければならないと感じた。
 当時キザまるだしのことばでいえば「不敗のドキュメンタリー」をどうつくるかであった。
 つまり、もしその一カットを切りすてれば、ーシェイクンス全部がカタワになり、ひいては作品があきらかに統一した肉体をもたなくなる。そのカタワ性が誰の眼にもあきらかになり、その骨抜き作業を簡単に出来ない程、知略と策略にかけて、ドキュメンタリーの本質を体現しているようなフィルムそのもののつくり方、根底からの剛健な映画方伝論はないものか? どうかである。カット問題はカットの要求をゆるすスキが作品自身にあったのではないか?とすれば、どこを方法的にも表現的にも防護し、映画としての生命を貫ぬくものでなければならないか?
 そしてもうひとつ、作品は、誰の手で守られなければならないかである。
 私たちは悪くいえば岩波育ちのボンボンであろう。あまり厳しい制約を自覚したことはなかった。その負点が、私たちをスタッフ中心の思想ではなく、管理機構との「調和」をどこかで配慮しているといった不徹底性をのこしてはいないか?
 たとえばカットの要求の場合、それは決して職能上のカメラマンにはむけられない。「監督」にむけられる。或いは編集それはプロデューサーの行使できる権利としてあらわれる。
 その場合、もしその映画がスタッフの文字通り全体で作られたとするなら、どうして監督がひとりカット作業を承認し、ひとり妥協の中で果てられようか?
 その一カットはカメラマンのものであり、エディターのものであり、ミキサーのものであるとき、プロデューサーは誰に権利を行使出来るか?
 そこまで考えをつめてみたら、結果として、映画製作の会社機構とその構造にまったく背反する地点にたってしまっていた自分を発見したのである。
 その結果、私たちは誰からともなく会社をやめ、フリーとしての立場に自分を移すことになった。更に暇だけ出来たわけである。ここに「青の会」しかない状況が生まれた。
 この中で、私たちは映画についてのみ語った。その核心はスタッフの形成であった。メンバーには複数の演出家と複数のカメラマンがいた。その誰と組んでも、映画とは何かについて、その原則はどこかで話しつくしている関係をもてたかどうかである。
 勿論、Aというカメラマンの個性とBというカメラマンの個性のいづれが今回の作品に必要かという選択はあったかも知れない。しかし青の会で語りあった三ヶ年の間に、酒ののみ方、暮し方、ありとあらゆる個癖まで知りつくした上は、誰とでもスタッフを組みうる境地には誰も到っていたと私は思う。
 日本の映画状況を中央指令部的に問う運動も起ってきた。映画創造運動を横断的に試みようとする”有為”の運動もあった。しかし私は、スタッフとは何かをとことんまでにつめてみた青の会の根源的な作業ぬきには何もなし得なかったと自覚している。
 昭和四十四年の『パルチザン前史』(小川プロ)から大津と本格的に組みはじめた。そして助手の一之瀬正史も当時からで、五年になる。その間に『水俣ー患者さんとその世界』『水俣一揆』『医学としての水俣病・三部作』『不知火海』と六本の長編ドキュメンタリーを作ってきた。(水俣のプロデューサーはすべて高木隆太郎である)そのスタッフのあり方は基本的に変っていない。しかし、水俣を対象とするとき、私は大津をぬきに考えることは出来ない。
 その理由の主なものは三つある。
 彼はカメラマンとしてより、人格として水俣にむきあう資質を人一倍つよくもっていたからである。第二に徹底した長期的困難に耐えぬける人であり、第三に、決してカメラワークを自分の手なれた経験から作る人ではなかったからである。今回の『不知火海』でも見事なまでに迷いぬき、自分がモサモサになるまで映像を探し求めたのである。
 一つの画材といわばいえる水俣の風景、そして旧知の患者さんに対してすら、一本の映画のはじめは、失敗の連続であった。
 先にのべたスタッフの画づくりからいえば、それはとりもなおさず演出家の失敗である。その失敗を自分に返してみるとき、恐るべき対象へのナレナレしさがあるのだ。私たちの皮膚が水俣になれすぎていわば角質したものを、彼はカメラを廻さず、仮に廻したとしても初めてカメラをもった人のように自分をあやしみ、うろたえ、下手をそのままさらけ出すのである。それが、どの各編の始まりもそうなので、ひとつとして始めから自家薬籠中のもののごとく征服者的に歩みすすんだことはなかった。
 私たちは、連作しつつもたえず「零からスタートしよう。今までの一切の関係一切の人脈を無きものとし、新たに求愛するようにしよう」と口では言うものの、半ば生活的な垢が身につくのをどうしようもないのだ。それを映像的に偽ることなく零から始めようとする大津のフィルムをめぐっての討論から事を起させたのである。
 今回『不知火海』では同時録音とインタビュー形式のため、私がマイクをもつ事が多く、私自身はどこでどう廻したか知らないことの方が多い。その時、たよれるのは大津を軸とするカメラと対象との関係の出来工合であり、その重要なファクターとして私はその場に居る。
 しかし狭い意味で言うなら大津こそ演出とカメラの一切をまわし切ったのである。勿論、フィルムの現像の上ってくるまで、それがどう撮影されたか分らない。
 しかし仕事のあとに、酒をのみながらその日をフィードバックするとき、大津のことばと顔の中から、正確に画が私に伝わってくるのである。
 その画がどうであろうと、大津のねらったものを私は必ずそのフィルムの上に発見できるだろうという安緒によってその日は終る。或いは、それはとれなかったのだという正しい伝わり方をもって次の日を考える。
 こうした撮影が連続して半年もたつと、フィルムはどんどん日毎に深化してゆき、自由になっていくのが分る。ゆとりとやさしさがにじみ出てくる。そして、一定の上昇をたどりはじめるのが全ロケ行程の四分の三をすぎた頃であろうか、核心に近づくにつれて、カメラは予想をこえた画をとりはじめて、ぴしっと一つの峰をこえるのである。
 それが何であれ、私にとっての、スタッフにとってのラストシーンとなるのである。
 そのフィルムの生長をみるとき、人の一生を見る思いがする。無骨に、ヨチヨチ歩きから始まり、青年期のエネルギーを見せはじめ、一つの人生のピークに至って、何ものかを産んで終る。その一作ごとに、ひとつの人生の歩みを大津に感じるのだ。
 五年をふり返ると一作ごとに年輪は重ねていよう。しかし私が大津と仕事を共にして感じるのは、一本の映画にその彼の”一生”を投入する生き方についてである。そのことから、現場での彼との共同性を思うと同時に、彼と我との微細な異相、他人の関係と自分のエゴ=美意識とのちがいをあらためて洗うことで、相互の批評をまた次の編集段階で行いうる。
 まずフィルムにNG(本質的な意味でNG)はないのであると思いたい。勿論、技術的な露出の間違いとかピンポケをさすのではない。
 NG的に見えようと、それはある見方をもってすれば、予定調和的、思いこみ的なカメラに対して、その撮影意図を転換しようとしているといった思考上のメタモルフォーゼであるかも知れない。何故にかく”NG”といえるものを撮ったかも一つの設問の対象と見ざるを得ない。そうするとすべてはOKカットとなるのである。
 私は編集という作業の時、いつもすぐれた人材にめぐりあっている。しかしすべてを託したことはない。その編集者が現場に居なかっただけに、極めてフィルムへの解読力は高い。その高いフィルムへの解読力をもってしでも、撮影のイメージをくみとれないフィルム・ショットがある。この時に、うんうん汗みずたらして、その中に片鱗のようにキラリと光る一瞬を、拡大するようなモンタージュにしたいとねがうのである。
 対象にあまりにものめりこんで、現場での感触につつまれ、現場ばなれの出来ない立場によく陥る”演出者”にとって一つのカットを選び、選んだ上で切りきぎむ作業の身のおきどころ、はさみをもつ手の動かし方のきめどころは、やはり、フィルムの中にしかない。そのフィルムの中に、ビュア(編集用スクリーン)を通して、大津=カメラマン=スタッフを見、対象と取組み得たものは何であったかが見えたとき、はじめて、現場離れでき、一つのフィルムの四肢のそろった肉体が予感出きる。
 そうした方法を今回、シンクロ撮影の故もあって、更に厳しく私はとわれた気がする。
 一年半かけてとった『不知火海』『医学としての水俣病』に私の「映画=スタッフ論」の所在を厳しく見とって、批判をして頂きたいと思うのである。私にとっては、この方法の線上にしか未来も次回作もないと思っている。