水俣病の病像を求めて 「朝日ジャーナル」 4月25日号 朝日新聞社
『医学としての水俣病』(三部作・四時間三十八分)を撮るなかで、私たちは新たなおどろきをいくたびも味わった。そして新たな疑問も抱いた。その驚きと疑問をありのまま、この映画のなかにこめたつもりでいる。医学理論が完壁にあって、それを映画的に解析したというものでは全くない。その意味では”学術映画”の名称には入らないものである。
水俣病そのものは確実に重大な死と健康被害を人間に与え、一定の法則の下に 人体を冒しつづけている。それに対応する医学的判断や、その病像が、いくつにも分かれ、また進歩するものもあれば、後退した医学判断にひきもどりもする。今日問題なのは、医学がどれだけ現実の水俣病のあり方に迫るか、患者の健康の被害のかたちにつれそうかであろう。ところが、水俣病をめぐる医学には、純学問的研究の領域のど真ん中に”認定制度”がつきささっている。その制度は、行政者の国・県が医学者に「医学判断」を求める形になっており、認定・即補償につながる。しかも、その健康被害の度合いにランク別の”定価”をつける作業までもりこまれ、これらが医学者にゲタをあずける格好になっており、この”第三者”的認定制度は、水俣病の補償が問題となった昭和三十四年末以来今日までの慣例とされてきた。以上は周知のことであろう。だが医学者にとって、自分の学問的良心にしたがった判断が、審査会とか何々分科会とかいった”委員会”によって、シロ・クロつけられることを自ら認めることによって、どんなに確信ある判断をもっても、それが”委員会”で満場一致で認められるかどうかに余計な配慮が要るようである。まして、その委員会がじかに脈もとっていない、ただ”関係者” ”専門家” ”何々問題の権威者”といった人々を加えて構成されている場合、一医師の良心は、風前の灯である。事実、消えたロウソクになった医学者を見てきた。医師の個人的研究が公的にみとめられない限り、あるいは海外で評価されない限り、行政下の医学データにとりこまれないようだ。
私たちが水俣病という社会病に映画でアプローチを試みたときに、ひとりひとりの医師との関係を第一義に重んじたつもりである。しかしそのひとりひとりの研究者の視野に、厳然と”認定審査会”にパスする所見、あるいは研究であるか否かについての、どうしようもないいらだたしさがつきまとっていた。熊本や新潟の学者ほどそうである。その研究の一挙手一投足が認定・補償にひびく。その点、純理論研究を保証された中央の学者ほど、とらわれない自由さをもって、水俣病像について一つの極まで推論をたてることが出来ていた。だが、それが現場の臨床家に支持され、彼らに積極的にとり入れられない限り、有効に水俣病の救済には機能していないのである。つまり研究室内の実験段階として無視されているようなのだ。
まぎれもなく、水俣病は不知火海住民の中にあり、時間経過と共に脳に、臓器に侵入している。だがそれを追う医学はだれひとり自由にはばたいていない。これが映画をとりながらベースにあった私たちの悲憤であった。
以下、具体的に私たち素人のおどろきを述べてみよう。
熊本の水俣病では片マヒ例は、脳循環器障害とされ、認定審査会ではまず否定因子となっている。なぜならば中毒学の常識によれば脳の半分だけやられることは考えられないとする。もしやられるならば両側性にやられ、したがって左右ともマヒするはずである。これは水俣病発見以前の医学では常識とされていたものだ。
編集中に訪ねてこられた原田正純氏(熊大・精神神経学) に、新潟水俣病で取材した青壮年世代の連発した不全片マヒの臨床フィルムをおみせした。新潟では年寄りを除いても五〇%以上にこれが出現しているという新潟大白川健一氏(神経内科)のコメントのついたものである。原田氏は嘆声とともに、「新潟はよく追跡調査してるなあ。だから認定審査にも不全片マヒは主要症状のひとつとして入ってるでしょう。熊本(の審査会)では、これを症状とはとらんですもんね。このフィルムは熊本の審査会のメンバーにぜひ見てもらわんといかん」と語ったものだ。
これを聞いて私はあらためて水俣病の二地点ですら情報が交流されていないことを知らされた。熊本は熊本、新潟は新潟であるのか。
余談ながら新潟の患者をみたあとの私たちに、新潟大のある教授は、「熊本の患者をみているあなた方は新潟の患者をみてどう思われるか。熊本では、もっと重い患者しか認定していないんじゃないか」といい、また新潟のある研究者は、「熊本で保留中の患者の中には、新潟では最重症の部類に入るひとがいるようですね」と語った。
これらの述懐は映画には入っていない。撮影作業の合間に肩の力を抜いて話されたことばかりである。このつぶやきのような見解を映画は増幅して聞こえるものとするよう努力したつもりである。なにゆえに、同じ日本でありながら新潟と熊本の医学がこのように亀裂しているのか、これは驚きではすまされない。私たちは短兵急に批判を述べなかった。まずこの不条理を映画で克明に報告することに専念した。
同様の疑念をもう少し列記したい。素人なりのこの種の疑問が、実は映画をつくりつづけるバネとなり、映画の骨格をつくる上で強い力となったからである。
地方の人びとは、主治医・町の医者とのつきあいは深く、情でつながっている。主治医の判断に逆らって、他の医師に診てもらうことにはある勇気と決断がいる。そうした情のつきあいを、私はいつもある口惜しさで見てきたものだ。およそ何百人という水俣病患者を診療している地元の医師に、視野狭窄を「とりめ」だといわれたり、胎児性様患者を「小児マヒ」、慢性水俣病様患者を「中風」「アル中」「老人病」といわれて果てた人が何十人いるであろうか。だから、患者さんは、良きにつけ、悪しきにつけ、医師を個人名でよぶ。その医師が「水俣病の疑い」として診断書をかき、当人に申請をすすめてからのちは、患者さん対医師個人との関係は見事に絶たれ、しかも診断の内容は原則的に一切公表されないという医学的闇の世界に送られるのである。認定審査会とはそういう存在であり、患者に確実に威圧感と疎外感を与える”機関”なのだ。「検診医はその氏名を患者に教えよ」という奇妙な要求をあえて患者がするのは、医学者が認定制度の中では無記名制にひとしい集団的”医学判断”をとりつづけてきたことへの不安と抗議のあらわれである。
そのひとりひとりの医学者に私たちは映画で面会をもとめ、見解をきくことをくり返した。医学者の方々は、私たちの言動から、少なくとも医学者の味方とは感じられなかったに違いない。時に話は交差せず、表現にベールのかかる場合が多かった。ときには、ある種尋問に近い質問をする失礼までせざるを得なかった。しかし辛うじて協力を得られたのは、それぞれひとりひとりの医学者が半生をそれにかかわらせた「水俣病」がテーマであったとと、これ以外にはない。
水俣病研究はひとくちにいって、その全体像や未知の部分を探る活動がつづけられているものの、問題は現実の認定作業とクロスしていないことだ。
熊本では高血圧や肝臓等臓器の障害が水俣病様の症状と重なってあらわれた場合、「これは高血圧としか現時点では言いようがない」とか「これは神経症状が著名ではなく、肝臓病で説明しうる」とかの理由で認定されないか、または保留されているのと同じ時、東京のある学者の実験では猿にメチル水銀を与えて、そこ にも有機水銀が沈着していることが実証されており、また同氏の資料には四歳、八歳の小児水俣病にも、脳をやしなう血管に動脈硬化があらわれているというデータが、なぜ参考にされず「一学説」にとどまっているのか。現に水俣で患者さんを個別訪問している支援者や巡回看護活動家は、患者から肝臓・腎臓の重篤な症状が訴えられている。猿の実験で、日時を経過しても一向におとろえないそれら臓器への有機水銀の蓄積例は、臨床家の間になぜ、求められ、つたわらないでいるのだろうか?
知覚神経症状は、他の症状がまだ顕然化しないうちにも、つまり運動神経がぴちぴちしており、小脳にまでまだつよい症状が出ない段階でも、末梢神経にはまずしびれや麻痺が先んじて起こるという、熊大宮川太平氏のねずみの実験が、なぜ最重視されないのであろう。他の原因ーたとえば脊椎変形症ーでも起こるということはあろう。しかし、汚染地区での検査であれば、予防医学としても、まずその学説を応用してしかるべきではないか?
また、例えば一家の中で、しかも有機水銀=魚と切っても切れない元漁民であり、いま鮮魚商の一家で、主人の男子は「脊椎変形症」であり水俣病ではないとされ、その息子は、検査不能の精薄であり、その後のしらべで妻に強度の視野狭窄が実証された場合、なぜ、少なくとも、主人の”棄却”だけは保留、せめて再考慮の線に訂正できないのか。即刻、審査会の事務局レベルででも、つまり県レベルで間違いを正す機能が働かないのか?
つまり、研究のレベルでも、実践面でも、交流とか、フィードバックとか、すみやかな対応とかが、何かにへだてられて、それ自身、老化・動脈硬化あるいは視野狭窄を来たしているのが、現在の水俣病の医学につきまとった”病状”に見える。もちろん、私は門外漢であり、ただ映画をつくる人間でしかない。しかしというか、それゆえにというか、私たちはあたりまえのことで驚くことが多かった。それが二十年間、自分の体を知りつくし、まわりの患者さんの日常を観察しつづけている汚染地区の申請患者であれば、医学への疑問、不信は当然のことに思えるのである。
医学者の苦悩がそれなりに素直につたわったのは、胎児性水俣病と疑われている子供たちについて判断に苦しんでいた数々の場合に出会ったときである。昭和三十年代でその発生はやんだとした学説に、いま医学者は自らとらわれることになった。ところが水俣地区を中心に、四十年代になって、知恵おくれ、精薄といった知能障害のパターンと、重い運動障害の小児マヒ様のパターンの子供たちが次々に訴え出ている。その母親は一見健康にみえたり、または症状は軽いといわれる。動物実験でも、それは見事に証明されている。ととろが、かつて昭和三十六、七年の胎児性の子供と趣がちがうのである。
「脳性小児マヒの原因はいろいろあり、どこで有機水銀の影響をとり出すか、それがいま出来ない」と審査会会長はその母親たちに言う。しかし、その症状は極めて重いものばかり、あまりの重さに検査できない、だから保留という、悲惨な図式である。
水俣病は前例のない疾病である。どういう症状が起こるかまだ分からない。それ自体恐怖である。発狂、自殺がそれを物語っている。だがそこにはもともとの健康な時の体の記憶がべースにあってのことだ。しかし胎児性の子供はなぜ、どのようにそうなったか、未知の部分があまりに大きい。親ですら、その子の正体が分からないのである。医学は、その発生のメカニズムはほぼつきとめているが、その症状について分からないとしか言いようがなく、したがって認定の基準がまだない。だが多発地区に確実に異常な新生児が生まれている。ではなぜ疫学的調査によって決断しないのであろうか?
この胎児性水俣病様の子供の問題は先鋭である。彼らはこの汚染地帯に生まれたという一事でしか教済できないーつきつめると、その方法しかないーとしたら、不知火海全体の不健康者を、なんらかの形の「有機水銀中毒」と見ざるを得ないことに、どこかで一気に通じてしまうのだ。かつて環境庁が「有機水銀の影響を否定しえないものまで救済せよ」とした裁決の直後、旧来のハンター・ラッセル症候群をもって水俣病を判断していたある神経内科医は「それでは水俣の神経症はすべて水俣病ということになる」と憤然、審査会をやめられたという。ではこの地区の胎児性水俣病様の子供については同じ論法で拒否できるだろうか。今日の医学の焦点は、こ の次の世代に不気味に発顕しているかもしれない胎児性にこそむけられ、その解明をテコに、全水俣病病像の底知れぬ深刻さを思い知るべきであろう。水俣病には患者さんの訴えをきくことが一番大事だと、映画の中で原田正純氏はくり返し語っている(臨床・疫学篇)。しかし、この子らに問診はない。訴えず、しゃべれず、検査不能という水俣病の痛苦の結晶体がまさにこの子供たちではないだろうか。不知火海全域のこうした疫学的に蓋然性のある異常児を一人もれなく教済し、そして集団的にその子供たちから病像を分析総合してこそ、はじめて一歩すすむのではなかろうか。
こうした疑問はさしあたっては個々の研究者に発したものである。しかし、それでは解決しないこともおぼろげながら分かる気がする。
行政は医学にゲタをあずけたと前にのぺた。しかしゲタをあずけられる医学の姿勢も、またあったと言わないわけにはいかない。それは認定審査制度をひきうけて以来十六年の歴史が生んだ矛盾である。町の主治医の診断に、さらに行政的にふるいにかけるという、医師の上に医師をおいて上下関係をつくるという、一般には全く非常識な構造である。私たちの映画を、別の権威がバラバラにしてまた別の映画を作るようなものである。だれしも自分の責任ある診断が”委員会”でふるいにかけられることを認めるわけにはいくまい。人間として許せない行為である。
これと相似形の出来事は、つい最近の熊大第二次研究班のいわゆる「第三有明水俣病」の判断に対する中央の環境庁・水銀汚染調査検討委、健康調査分科会によるシロ・クロ裁決である。脈をとり、研究しぬいた所見を、現地と無縁な関係者を含む「委員会」で否定していくとのやり方だ。医師の上に医師をおくことでは熊本の認定審査会の文字通り全国版ではないか?行政の中央集権と、医学的権威の縦構造との見事な癒着であるが、それと同じことを、水俣病は十六年間くり返しているといったら間違いだろうか。
もちろん、医師間の所見の叩きあいも必要であろう。ならば、診断書をかいた現地の医師を含む、水で最も臨床経験をもつ町医者が、どうしてひとりも、そして一回も認定審査会に登場しないのであろう。悪名高い水俣市立病院の医師は、この際論外として、町の主治医の存在無視だけは一貫している。
率直にいって、私は映画から水俣にふれた。記録作業を通じて水俣病を知った。水俣湾のヘドロに竿さして調べもしたし、いまも水俣沖で操業する漁船で網あげをみた。そして多くの家でご馳走になり、魚を腹一杯たベる人びとと接してきた。何ひとつ変わっていない。仏壇の遺影の故人の脳を撮影した数日のち、その兄弟の今日的発症の悲嘆を聞き、それを映画にとっている。だから、熊本大医学部ですら、そこからは遠い遠い存在である。医学者がその医学的良心にかけて、「いま臨床的には分からないのです」という弁明をきくとき、とっさに「では、疫学的にはどうなんですか」と反語する習性が身についてしまっている(今回、その疫学面を医学的にとれなかったことが一番残念である。だから『不知火海』を同時にとらなければならなかった)。患者さんにとって”疫学”という言葉は、ここにすんで、漁をして、魚をたべていましたということにつきる。そのことが臨床という検診にはつき通らぬことも、また知らされてきた。審査会長の経験のある武内忠男氏(熊大・病理学) はこう言われたー「病理は死んで解剖してみてはじめてつきとめられる学問でしょう。生きてるうちは臨床にたよるほかない。臨床所見がどこから水俣病症状をとり出してくるか待つほかないのです」。
これは水俣病の認定の中での病理の位置を物語ると同時に、氏の臨床、とくに神経内科への批判とも聞きとれた。認定作業の主導力は臨床なのである。しかも、その審査の理由も経過も、ここの部分が一番秘密にされている。
この映画では、「何が水俣病か」についてをそれぞれの考え方のまま克明にとり出し、それを知ることから始めなければならないと考えた。すでに人類の経験した疾病ならば、「自分の病気はもしや・・・」と想像もつくが、患者さんにとって、どういう症状が水俣病か、比べるものがないからである。私は映画的方法は水俣病の記録に一つの役割をもっていると信じている。まず、医学から水俣病の全資料を映画化しようと考えたのは、現下の水俣病問題ではまず水俣病を知的にどう再獲得し、どう力量をわがものとするかから始めようと思ったからだ。私の”疫学論議”が現実、何の役に立とう。
さしあたり、医学の歩んだ道をふりかえり、今日到達した病理・病像を学び、現実の臨床にどうかかわるか、今日の疫学はどのようにあらなければならないかを、医学者との交渉のプロセスの中で明らかにしようと考えた。監修者をあえてお願いしなかった。同様に、私の散文的疫学論もあえてうめこみ、自分のナレーションでつづることをしなかった。出来るだけ、各自の研究と意見を生に、そしてその部分には責任をもっていただく形で構成した。ある人によっては異議のある意見も討議の資料となるよう、そのまま収録した。そして、研究内容に最も適した映画表現につとめ、素人の私なりの疑問や分からない点は、私の理解力をめやすに撮ったつもりである。
十九人にのぼる協力医学者の方々は、その方法を了承され、各個人の責任において固有の役割を果たされ、同時に、その資料や学術フィルムも公開された。そして撮ったフィルムにさらに助言を加えられ、その責任部分を明らかになされた。さらに、難解な用語や、研究のデテールについて、多くの時間をさくことを求めたにもかかわらず、その労を惜しまれなかった熊本大原田正純氏、元東京都公害研の土井陸雄氏に感謝のことばもない。
こうして資料収集ー研究発表・インタビューフィルムへのコメントー編集・構成という作業に二年を要した。この間に、映画は、縦には歴史をたどり、横には各分野の研究を横断することになった。この二年は、水俣病の医学の中で、歴史にのこ る激動期でもあった。そのプロセスと波動をまともに映画はあびながらの製作であった。私が、研究者、協力者の形成について述べたのは、ただに感謝の気持ちだけではなく、この映画を作る過程で、ともに苦しみ、ときに対立し、新たな意見をさぐり、あるいはその所見の公表をあえて求めるといったジグザグの連続であったことを述べたいからでもあるのだ。すなわち、まえに述べたように私たちには完成した”水俣病像”はないという地点からのスタートであった。ゆえに、完結したとされる研究をそのまま映画に模写するのではなく、研究の動くさまを見、その志向の方向が、新たなる水俣病像のどの部分に成熟していくものなのか、それが水俣病患者のかかえている問題とどこで交差するものかを考えつづけた。その過程をはらんだこの映画『医学としての水俣病ー三部作』は、当然、中間報告であり、その完結した全体像のしポートが、いつ出来るか、私には改めて果てしなく思えるのである。
映画の三部作となったことを、簡単に図式化するなら、水俣病についての、歴史篇、理論篇、実践篇に分かたれていると言える。
『資料・証言篇』は、水俣病の発生前の海の追憶から始まり、水俣病の発生の確認からその病因の追求、そして有機水銀中毒とつきとめるまでを前史に、以後胎児性水俣病の存在を確認し、患者の救済を求めての二十年の闘いを回顧し、今日もあるヘドロの現状までを描いている。この中でとくに、「証言」という言葉をおいたのは、猫の自然発症にせよ、ヘドロへの着目にせよ、あるいは工場内の水銀の取り扱いにせよ、医学外の人びとの直観がつねに医学より先行し、医学研究の基底部であったこ とを記録したかったからである。
『病理・病像篇』は、人類初めての食物連鎖による有機水銀中毒の病理の古典例を示しつつ、それが急性期には、工場での直接被爆による有機水銀中毒の研究から導き出された「ハンター-ラッセル症候群」を引きあいに水俣病の症状を限定してきた経過および理由を冒頭に、ついで、現在の病理研究の実情を述べている。この映画で「ハンター・ラッセル症候群」とは異なった概念で、”水俣病症候群”という独特の呼び方が出されている。いったい水俣病とは何かについての病理の見地からの予見と、その実験および理論化の作業が始まったともいえる。そしてその、新しい水俣病像が、現実の水俣病、とくに胎児性様の患者および老人病、高血圧症、不全片マヒといった症状が認定作業の中にいまだとり入れられていない矛盾を報告し、さらに不知火海一帯の汚染魚の調査からみて、いまも慢性水俣病の発生の可能性の告示に終わっている。
『臨床・疫学篇』は認定制度のゆがみからこぼし落とされた患者の数ケースについて、最も現場での臨床経験をもつ熊大原田正純氏のレポートとその意見である。この篇で、疫学的アプローチにも触れているが、現場での臨床を撮影できる条件が、現実の認定作業の診断の秘密主義から、彼の実践だけに限られたことをも物語ることになった。原田氏のコメントは、ある抑制に終始しているが、水俣病の論争のすべてを背負っている氏のギリギリの反論をしポートした。
この映画の企画、調査の時期は、昭和四十八年春、水俣病裁判の判決とひきつづくチッソ本社との直接交渉があり、その地熱に支えられての準備であった。一方、熊大第二次研究班は”第三有明水俣病”を発表、これに勢いを得て、水銀汚染の明らかな全国各地で水銀中毒患者の洗い出しが連鎖反応のように起こった。大牟田、長崎、佐賀、徳山、そして水俣から転職移住した人が、大阪、東京、千葉で明らかにされはじめた。水銀の点検はしぶしぶながら国の手でおこなわれ、厚生省は魚の摂取量の規制値を「アジ週十二匹」と発表、漁連の反対で三日後に「アジ週四十六匹までは心配ない」と訂正され、つまるところ行政不信をさらに深めた。こうした激動期に、映画は多くの医学者の協力を得たのであった。
門外不出の学術用フィルムも、行政資料フィルムもはじめて半永久的に保存することとともに陽の日をみることとなった。以来、数カ月の間に、環境庁の組織した”委員会”はまず有明町の二人をシロ(昭和四十八年八月七日)とする判断を手はじめに、徳山、大牟田、佐賀、長崎の疑わしい水俣病をすべて反論し終えた。八月二十四日、熊大医学部教授会(田中正三学部長)は「今後、社会的影響が大きい研究に関しては、その結果の発表にはつねに慎重な配慮をするよう自戒する。又、地方自治体等から委託をうけて行う研究の公表には、学部長・学長等の許可が必要である」新聞ーより)とし、事実上箝口令を敷いたのである。
映画で病理を詳説された武内氏は、追われるように認定審査会を下り、第二次研究班は解消された。また、眼科で新所見、眼球運動異常から他覚的に脳の視領野の障害をみる方法を考えた筒井純氏(熊大・眼科) は、第三有明水俣病の糾問の中で、その所見が入れられず熊本大を去られた。そうした最も反動期に映画は撮影され、昭和四十九年五月、熊本から帰った。以後十カ月編集に没頭した。
その問、認定審査会は一回も開かれず、熊本では一人の認定者も出ていない。認定制度の矛盾といえばそれまでだが、今日、水俣病につねに反動的役割を演じつづけ、三井三池のCO患者を、あれは組合が作り出した組合病だとして批判をあびた九大神経内科の黒岩義五郎氏を中心に水俣病認定業務促進検討委員会が動き出した。今回作った映画の方向と全く逆な水俣病像観の方々である。この委員会が熊大神経内科のレクチャーにより実施した五〇〇人の検診は、担当医の氏名も一言わず(大学を出たての研修医を含む) 、水俣病の臨床観を旧水俣病像をなぞって叩きこまれた医学者たちによって行われた。申請患者の闘いは急速に広がり、この検査結果の採用を阻止している。
私たちは、医学が再び水俣病史の暗黒期に入ろうとしているのを見ないわけにはいかない。当分、医学の城砦の中から、医学の映像を人々の前に運ぶ仕事は不可能となるであろう。『水俣ー患者さんとその世界』等で行ったように、申請患者の群れの中にまじって、関門を破り、医学と現実の接点で、患者さんにとっての医学を撮る以外ない。「これが水俣病のすべてだ」という映画がいつ出来るか、今は夢想の外である。