『医学としての水俣病』三部作は現代の資料である 『未来』 4月号 未来社 <1975年(昭50)>
 『医学としての水俣病』三部作は現代の資料である 「未来」 4月号 未来社

 「・・・医学の映画はまずコンパクトで、余分なものをそぎ落したものでなければならない。客観的資料性と実証でよい」「・・・時間は三十分前後がのぞましく、一つの講義、或いは研究発表の機会の中での運用を望むなら、二十分前後でまとまっておりあと研究者もしくは講師の登壇の時間を考慮する方がよい。慣習的にも、経験的にもそう配慮されたい」・・・水俣病の医学映画をとる直前のリサーチ活動の中で、多くの方々からうけた助言はほぼこのようなものであった。事実、学者が水俣病を海外に紹介するために自家製で作られたフィルムは七分であったり、長くて二十五分程であり、それはほぼ数タイプの症例を要領よく順序だてたものであった。また数年前、ストックホルムの第一回環境広場にあつめられた、世界中のフィルムも、それぞれ三十分前後であり、その中に、二時間四十七分という『水俣ー患者さんとその世界』は、その上映プログラムの中には入りきれず、別格の上映となった。直接の作り手である私自身、一般論でいえば、映画は短かければ短い程いいことは、いやという程知っているつもりである。ではなぜ、いわゆる医学フィルムの”規格外”の映画とならざるを得なかったか、この機会をかりで釈明させて頂きたい。
 現在”水俣病”の病像は大げさに言えば、医学論争の過程中にあり、その病像、それぞれの判断によって、或る患者については、シロ、ある見方ではクロという矛盾したケースが少くない。また認定制度そのものの基礎にある、データのとり方にもちがいを生んでいるのである。それが、新たに注目される汚染地域ーたとえば有明、徳山、大牟田等であれば、その争点の差はいやおうなしに新聞にまで書きたてられ、ジャーナリズムは疫学的視点から当然といったいわば、悲憤調となり、一方医学は、その争点を論じあいつつも、医学者としての冷静・客観を表面に出すことによって一つの決着をつける。つまりわれわれには事態の真相は、専門家ー医学者の権威以外信憑すべきでないような気分で幕切れになるのである。これが、二十年の歴史をもつ”原生地”水俣では、三千人に及ぶ申請患者を前にして、主流をなす臨床医学が、病理や疫学のうっせきした抵抗を排して、四捨五入的な患者のよりわけをしているのが実態であり、それはニュースにも、社会問題にも浮上してこないのである。
 その争点に関して言えば、水俣病に慢性的に水銀を長期、微量ずつ摂取することで発症に至るものがありはしないか(長期・微量摂取による慢性水俣病) 、或いは老化して、それまで脱落しなかった脳の細胞が突然、あるいはじわじわと消失して顕然化しはしないか(加齢性) 、あるいは神経学的な疾病だけではなく、全身病ではありはしないか、また胎児性に、かつてのように、運動と知能ともにおかされるケース以外に、知恵遅れといった知能障害の可能性があると見るべきではないか? その他、高血圧や動脈硬化等も、水銀が撃鉄になっていはしないか・・・ 等々。
 これらの殆んどが、いま棄却かもしくは保留として、熊本では救済されていないのである。以上あげた例の反対意見をつなげてみれば、水俣病を後遺症と見なし、現在の患者を典型例にひきよせて見る学者と、今日なお進行中ととらえ、現実の水俣病を直視する学者とに二大別して見えることは、誰の眼にもあきらかであろう。私達は後者、つまり”水俣病いまだ明らかにならず、やむことなし”の立場に立って、映画を作った。しかし、その視点のみで整理し、モンタージュは決してしなかったつもりである。何故なら、医学のオリジナルな部分が、十数年かけて論争しつつも決着のつかない問題であれば、まずそれぞれの意見の中核を資料として提出し、歴史的に位置づけ、その後の現実の水俣病の問いかけを呈示することで、医学の”域砦”に閉じこめられている課題を少くとも可視的に陽の下にさらす作業こそいま求められるものだと判断したからである。またそれは映画、ことに記録映画でしか出来ないことだと考え、とり終って尚、その感を深くしているからだ。
 
 分りやすく、本質的に水俣病を知るには、ある要約とその思想がいる。私たちにはそれがない。まして現地熊本水俣病の渦中に這いずりまわっていれば、よりそういう作業に縁遠くなるものだ。
 私たちがはじめに教えをうけた先生方の中に、東大の研究者がおられる。再三再四のレクチャーの中で、私はこの豊富な資料と、有機水銀を追跡する研究と方法、とくに標本化の作業の中にこめられた医学思想まで見せられたとき、これだけで知的な”学術映画”は充分構成できると思ったほどだった。
 あるいは、新潟水俣病の研究者にお会いすると、熊本より十年遅れて、水俣病を生んだために、全住民の毛髪調査から手がけた追跡調査の丹念さを知らされ、或いは、ここを映画化した方が簡にして要を得るだろうと思った。しかし、私は、熊本水俣病に固執し、ここを主力舞台に水俣病の医学を描かなければならぬと決心していた。それだけは一貫したつもりである。
 何故か・・・それは、あまりに熊本で発生した水俣病が深刻であり広汎であり、激烈であり、しかも疫学的に、いまも終息しない輪廻のさなかにあるからである。
 この映画を狭い”学術映画” ”医学映画”にとどめ、一つの完成された疾病観で述べることで事足りるとしたり、原因ぬきの医学的所見とその治療(といってもないが) といった映画的骨格とするなら、私たちのこの映画は三十分で充分足りた。そして、その利用面も、医学、教育、啓蒙の諸面に足ばやに動いていくものとなったろう。しかし、そういう風に作るわけにはいかなかった。全体像的な映画の体躯が要ったのである。
 水俣病が現在も進行し、変態しつつ新たに発症していくものと考える私たちにとって、いつの日に、「これが水俣病のすべてである」という完結篇が出来るか、予想も出来ない。たとえば胎児性の子供が、青年、壮年をへて、どのような疾病に苦しまねばならぬのか。またいま拡散しただけで約一千トンといわれる総水銀のたれ流しが、不知火海でどのように複雑多彩な健康障害を生みつづけるか、誰もまだ見とどけてはいない。だからスタートにあたって、この映画を「中間報告であり、このフィルム自体、資料である」と規定してはじめた仕事なのである。
 しかし資料とは格納され、”料理”されるものであろう。私たちは、それはいやである。では誰に一番みてもらいたいと思って作ったか。
 その第一に、どうしても、不知火海はじめ全国の汚染地帯の人々に見てほしいと思った。映画「不知火海」にこういう場面がある。妻が毛髪水銀九二〇PPMのまま、医学者の連絡も救済もなく悶死したのを見とった御所浦の老人が言うのに「水俣病、水俣病というが、何がそうじゃか知らんもんで・ ・・風邪とか何とかなら知っとるばってん。そのごTVでみて、鳴呼! あれと同じゃったつが・ ・・と思い返してなあ」・・・私は胸にささった。確かに人類史上始めての”奇病”である。まず知らなければ、病いを訴えることも出来ないではないか。だから誰にも分るように作ったつもりだし、全医学者にも原資料として頂きたかったのである。
 
 私が今一つどうしてもこの映画に片鱗でもとどめたかったのは、水俣病が社会の病いの集約点であり、社会病であるという教訓である。熊本で充分にその認識をもち、行政、政治が企業とともに問われていたら、新潟水俣病は抑止出来たかも知れない。今日、有明、徳山、大牟田もへびの生殺しのような事態に追いこまずにすんだかも知れない。その社会病としての祖型を水俣の水俣病ほど明らかにその額に刻印し、いまも生き長らえている例を私は他に知らないのである。
 この映画とともに『不知火海』をつくったのも、言わばその補強とも、その原点帰りの作業を内的にしたかった、ともいえるのである。その点、私は、スタッフと語ったことがあった、「水俣のいろいろの映画のうち、三本しかタイムカプセルに入れられないとしたら、『水俣』も『不知火海』も捨て、私はちゅうちょするととなく、この医学三部作を後の人のために残したい」と。映画の出来るしごととして、私は今日までの水俣病をめぐる諸問題の基本は、この三部作にうめこんだつもりでいる。そして現代という時代にとっての一つの資料であればと心から念じているものである。(一九七五・三・七)