「医学としての水俣病 三部作 資料・証言篇」採録シナリオ 上映時間01:22:00 発表1974-10-01 <1974年(昭49)>
1 字幕(音楽ギター曲)

”協力研究者ー三部作(敬称略・五十音順)
伊藤蓮雄〈熊本県術生部長〉
猪初男〈耳鼻咽喉科・新潟大学〉
入鹿山且朗〈衛生学・熊本女子短期大学〉
宇井純〈都市工学・東京大学〉
大野吉昭〈耳鼻咽喉科・新潟大学〉
岡嶋透〈内科・熊本大学〉
喜田村正次〈公衆衛生学・神戸大学〉
白川健一〈神経内科・新潟大学〉
白木博次〈神経病理学・東京大学〉
武内忠男〈病理学・熊本大学〉
筒井純〈眼科・川崎医科大学〉
椿忠雄〈神経内科・新潟大学〉
土井陸雄〈衛生学・東京都公害研究所〉
徳臣晴比古〈内科・熊本大学〉
原田正純〈精神神経学・熊本大学〉
藤木素士〈衛生学・熊本大学〉
水越鉄理〈耳鼻咽喉科・新潟大学〉
宮川太平〈精神神経科・熊本大学〉
故松田心一〈元国立公衆衛生院・疫学部長〉

構成責任 高木隆太郎 土本典昭”
(音楽終る)

2 メインタイトル

”医学としての水俣病
ー三部作ー
資料・証言篇”

3 線画

〇日本全国に六十地点の工場図示、うち八工場を色で選ぶ

ナレーション「全国には触媒水銀をあつかう工場は約六十カ所あり、その中で、チッソと全く同じ工程の酢酸工場は八つあります。これら工場の廃液はほとんどそのまま海に捨てられてきました。なぜチッソが最初に水俣病をひき起したか?」

〇フレーム、九州南端に寄る。画面”不知火海”全図に、そして、水俣市と工場を明示した水俣湾に変るナレーション

「・・・その答えのひとつは、内海性の不知火海、そして水俣湾という鎖された海と、その生産量にもとめられます。ここに有機水銀は三五年間、蓄積・濃縮され、バクテリアから魚へ、人間へとのぼりつめ、人類史上、第一の水俣病をこの地のひとびとに体験させたのです。」

4 水俣湾海上。カメラ、海面をゆっくりパン・・・

〇スーパー”水俣湾・水銀汚染海域”

〇小さな漁船の上、老漁師がインタビューに答えている。

土本「・・・漁師さんの目から見てね、さかなの漁場としてどんな風?」

老人、眼を細めて語る。

渡辺「ウーん、まあ、ここはですな、とにかく非常に回遊魚がぜひここを一寸、まあ寄っていくところですな。しかもその産卵の地ですもんな、遠浅で・・・・。袋湾なんかは特に遠浅で産卵の地・・・。それからまあ操業するにしてもですな、沖とちがって、ここは海が浅かわけですな、深かところで十二、三尋(註・二十二・三メートル)ですから、大体、台風以外の時はもうほとんど操業が楽でできて、そしてまあ獲れ方も豊富だという事で非常にまあ、一番まあ、本当にこりや自慢じゃなかばってん、こういう湾内というのはまあ日本一じゃなかろうかと思うぐらいですなあ」

〇海と工場群・市街を一望する鳥瞰より海にズーム・イン

渡辺老人の声「こ の不知火海区のなかの区ですばってん、この不知火海区というととはですな、本当に魚がどういうもんかしらん・・・・・・まあ南は黒の瀬戸・・・・・・え北の方は柳の瀬戸方面からはいって・・・」

〇船上の老人

渡辺「・・ ・ここにはいりさえすれば魚が非常に美味しくなっとこつですよ。どういうもんか知らん。これは誰・・・口で言うたっちゃ分らんばってん喰い比べなわからんわけですな。ほっで例えば太刀魚にしても、大分あたりの太刀魚喰ったって、何かこう味はひとつも無かわけですなあ。ここのは本当に味が良かわけですな・・・・・・鯛にしても何にしても、それ・・・えびだって本当にここは、育ちよったわけですな」

〇海面

土本「朝・昼・晩なんかの食べ方は、どんな風だったんですか」

〇(昭和三十一年当時を)回想する渡辺老人

渡辺「あさひるばんのたべ方というのは、その漁師ちゅうもんはやっぱりその、自分で獲る魚だけん、大体まあ余計喰うわけですなあ、それで、ま、この三十一年当時から水俣病が発生した時になんかはですな、私達にたいして医者が”栄養失調”だなんて言うわけですな、そして片食い(註・偏食)なんて言うわけでしょう・・・ところがこのへんの漁師ちゅうのはほとんど半農半漁ですから、野菜もくう魚もうんとくうわけです。で、そういう事があるもんかというような風に私達は半信半疑で、まあ聞いとるわけですな。で、魚なんて、特に水俣病患者がでけてから”栄養とれ、栄養とれ”ていうもんだけん、栄養分なら魚以外になかもんですけん、魚は相当・・ま、食わする。ま自分たちも喰うわけですな。それが、ま、ともかくかえって水銀ば拍車かけて腹ン中いれたとたる風で・・・」

〇工場を背景に、あくまで青い海にうかぶ老人の舟

渡辺老人の声「(感に耐えぬ声で)・・・これは誰が見たってですな、風光明媚なとこつでしょう。この不知火の海区っていうとこつはもう本当に、沖に白帆が二つ三つゆくときどま一幅の絵そのものですもんなあ。そいでまあ・・・いいとこつでしょうここは・・・その佳いとこっばこぎゃん汚してもろて、あんた、因ったもんだもん、もう・・・」

5 ”熊本県庁”の大標札、近代的な庁舎に近づく

6 その一室、衛生部長と土本

〇スーパー”八ミリフィルム記録者、伊藤蓮雄氏(元水俣保健所長・現熊本県衛生部長)

伊藤「ええ、撮りたくなかったですよ、ぼくは、気の毒で・・・。まあ今となってみればねえ、そん実験なんか出来ないンだからねえ、あの・・・もうすこし撮っときや良かったと思いますね」

土本「じゃ写してみましょう」

伊藤「はいはい」

〇暗転、映写はじまる。荒れた画面に八ミリフィルム・タイトル”水俣奇病”つづいて昭和三十一年当時の多発地帯月浦部落が写し出される。伊藤氏自身の説明が図面につれてはじまる。

伊藤「・・・これが恋路島ですね・・・向うが。向うにみえるのが明神と。これは月浦のところから撮ったんですよ・・・・で、この鹿児島本線が向うから通ってくるとこつですが、その頃、蒸気機関車が通っとった」

土本「市から大分離れた感じでしたか?」

伊藤「そうです、水俣市の南の端ですからねえ、一里(四キロ)か二里(八キロ)ぐらいあるでしょうね、まだ家もねえ、ほんとにお粗末で・・・」

〇袋湾を一望する地点、貧しい漁家がかたまっている。次々に子供の患者が登場する。

伊藤「ここは湯堂ですけどね。(五歳位の少年に)目が見えないんですよ、これ・・・ この人はあの、漁師の子供さんでね・・ ・あの、松田さんちゅうんですけど・・・ (三歳位の幼児に) ここに・ ・・ この子供は米盛でねえ、これはお母さんが苦労してね、このひと一人ずっと看とったもんですからねえ・・・ (三歳位の女児、祖母に抱れている)これが坂本真由美ちやんでねえ、これは初めて出来た孫というところで、お婆さんね、抱いとったあの人が可愛いがって・・・」

〇八ミリ画面、網を干している部落風景

伊藤氏の声「これ、カシ網、って言いましてね、この網で獲っとったんですよ。その当時ナイロン工業がね、進んできて・・・ この網でたくさん獲って・・・」

〇成人患者、軽いテストに応じている

伊藤「・・こ れは誰だったかなあ」

土本「坂本タカエさんだと思います」

伊藤「うん、うん(懐かしそうに)これも今はやっぱ、相当な齢でしょうね、うーん」

〇当時の井戸・台所

伊藤「これは田中さんの家じゃないかな。まあこういう・・・・水道もまだ無かったしね、こんな風に環境もお粗末で-・・・・」

〇診察をうけている患者そして医者達

スーパー”細川一氏(当時新日窒附属病院長)”

伊藤「で、細川先生(水俣病の発見者) ですけどね、これは、あのう・ ・・病院に行ってみな撮ったわけですが・・・」

インタビューに答える伊藤氏

伊藤「あの、その頃、どっか流行った事があるけど(思い出しかねる)脳性麻痺じゃなかった・・・脊髄性小児麻痺みたいな・・・伝染病じゃないかと思いましたねえ。それでね、今度は水があやしいという事で、さっき井戸が出たでしょ、あの井戸の水を調べたんですよ。そしたら誤報でね、ポリドール(註・農薬)が出たなんかいったんです、最初あれから・・・。そいでポリドール中毒かなと思ったですけど、すぐポリドールじゃなかったというような報告がありましてね。とにかく僕は感染性の疾患と思いましたね、何かのビールスかなんかのー」

〇新聞『水俣病五四名に、猫・ネズミも狂死・・・』

8 熊本大学内科医局内、十六ミリフィルム映写前にインタビュー 徳臣病院長と岡嶋助教授

〇スーパー”徳臣晴比古氏(熊本大学・内科)”

回想する徳臣氏「ま、当時の患者さんがね、あんまりその珍らしい、非常に珍らしい、ま、我々が想像したことのないような病状の患者だもんだから、とにかく見落しがあってはいけないという事がひとつと、ま、その患者さんの一人一人を詳細にその症状を分析をして、そしてそれぞもとに、との病気の原因に近づこぅ、アプローチしようというような意味でね、ひとつ一人一人を丹念に、まあ撮影してみたわけなんですが・・・。ま、その当時としては十六ミリですからね。非常に金がかかりましたけども・・・。」

〇新聞「水俣の奇病にメス 研究班現地へ」

9 徳臣氏のフィルム(白・黒)、当時の水俣及び多発地帯

〇工場正面にスーパー”昭和三一年当時の水俣”

士本の声「あの、どういう病気が発生したっていう風に現地から来たんですか?」

徳田氏の声「なんか分らないけどもね、その、とにかく神経疾患だという話は六月か、そのへん位から聞いていましたけども、実際に、あのお、依頼が来たのは八月の半ばぐらいですね、これは・・・。ま、夏ですから脳炎じゃないだろうかという考えが強かったですね。ええ非常に神経症状の強いー脳症状が主だというような噂ですから、脳炎だろうな、というぐらいの気持でおったわけですね、当時はー。」

〇当時の漁家、荒れはてた壁、非衛生な生活がうかがわれる

土本の声「やはり漁家に多いということは事実でございましたか?」

10 映写中、画面を見つつ説明する徳臣氏

「ええ、その後ね、職業を詳しく調べてみて、はじめて分ったわけで・・・ええ八十%以上の人が、あの、漁業にたづさわっておられる方で、ま、魚との関連はあるんじゃないかということは、非常に大きなポイントになったわけですね、これは。」

11 掘立小屋様の患者の家、昼なお暗い家の中での往診スナップ

徳臣氏の声「えーこのフィルムあたりが、やっぱり電気がない家庭ですね、これはもう・・・。ま、あの、患者さんがね、その当時はなかなか申し出がなかったわけですね。こちらから探して、家庭をまわったりーしばしばもう個別訪問のような恰好でまわってたわけですね、これは(少年にマッチすりなどの簡単なテストをしている両面、まっ暗の室内に辛うじて症状がうつる)」

〇部落の小道ぞいの患家、食器が乾してある井戸端、朽ちた柱、つっかい棒のある屋根

徳臣氏の声「・・・もう、こういうような家の状態ですね、これは。この当時ですけれども、今から考えると、考えられないことですけども。それであのー公衆衛生の方なんかは、非常に詳しく井戸とかね、その辺を調べられましたね(土本「成程」)共同井戸とかですね、その辺に何か徽菌とかそういうーあるいは毒物とかそういったものがあるんじゃないかというような事ですね、調べられたわけですねー。」

12 当時の疫学スライドの説明 喜田村氏

〇スーパー”喜田村正次氏(神戸大学・公衆街生)”

〇スライド、患者発生順位図を前に説明。

喜田村氏「・・・八月(註・昭和三十一年)にね、あの奇病ー水俣奇病研究班が結成されて、えーそれでもう九月には私ども現地調査にまいりました」

〇多発部落を個別訪問する研究班員たち。喜田村氏他 武内忠男氏(熊大・病理)ら。伊藤蓮雄氏旧フィルムによるー

喜田村氏の声「・・・実はその時遡って調べると、もう患者さんが五一人でてたわけなんです、ハー。でその五一人の患者さんがどのような順番で、これ、まあ、発生してるかということですね、これがまあ、病気の本態を決めるのに非常に重要な事なんで、その五一名の発生の患者さんの順審をこれはまあ、調べてみたんです・・・。」

〇再びスライド、発生個所にナンバーがうたれている。その順位をとびとびに辿る。

喜田村「・・・そうすれば、初発の患者さんはあのここに出たと・・・(図示)第二番目の方はここだと、それから三番目の、第三者目の患者さん・・・ここですね。で四者目、えー五番目と・・・ま、とういうようにとの周辺地域にですね、とにかくそのーバラバラにこう出てるわけなんですよ。もしもこれが伝染病だとか何とか言いますとね、ここに初発の患者さんが出たら(同心円を指で描く)この周囲にこのちょうど、何といいますか、なみの波紋のようにとのように(手で円を措きながら)拡がっていくのが伝染病なんですけれども、こういう風にバラバラに出るということはですね、えー決してこれは伝染病じゃないと!そうなりますとですね、あとは何かのこれまあ、中毒ということをまあ考えるわけですねえ、で、そのま、何にその中毒が原因したか?・・・・・・・」。

新聞『カニを食べた少年に新発生・・・』

〇(再びスライドにもどって)

「・ ・・ということを調べるために、この患者さんの所帯と、それからそういったところの、患者さんが出ていない隣りの両所帯をずっととったわけです(土本「対照として?」) 対照として、ハイ対照として。でそういった人たちの食生活ですね、ま、飲み水も全部そうなんですけども、そこにどこに違いがあるかというととをずっと調べたわけですー。そうしますと、ま、一番普通にとういった時には飲料水が疑われるわけなんですけれども、飲料水にはこれはまあ差がないとー。というのは市の水道の水を飲んでいて、患者さんが出た家もあったわけですねえ・・・。で一番違ってましたのがですね、結局この湾内の魚をですね、反復多食した家に、この、患者さんが出ていると・・・。とういうことが分ったもんですから、こらあもう魚がですね、原因だと!」

〇喜田村氏の中毒の分析論がつづく

「・ ・ ・しかも魚が原因でああいつたような中毒症状が起るのはですねー魚の中に特殊な細菌がついてた”細菌毒”ということと、ーそれから魚が腐ったら、腐敗したら、プトマインその他の毒物が出ますね、”腐敗毒” ということ、ーそれから”自然毒” ということですね、まちょうど、フグみたいな毒、ーそれと”化学毒”による汚染と、(指折って) その四つがあるわけなんですけれども、それはもう新鮮な魚を食ってもう皆さん、発病しているわけですからね・・・腐敗毒というこ とも除けますし、煮てしかー生ものは食べないという人でも発病しているんですから、これは細菌毒は除けます、ええ・・・ 。それから、ま自然毒といいましでもね、そりゃフグだとか何んかいうものを食べて発病したんじゃないー鰯をくおうと、コノシロ食おうと、この湾内の魚ならカニでも、そのエビでも、何くったってみな発病するということで・・・もう自然毒も除けると! うん。そうするとのこるのは化学毒しかない。それはもう、その化学毒が今度はどこから来たかということなんですね。」

〇新聞「工場側、海中に棄てられた爆薬説・ ・・」

13 伊藤蓮雄氏の八ミリによる初期研究記録。

〇細川一氏の診療

土本の声「もうこ の診察の頃は、原因物質についてはかなり・・・・・・?」

〇貝をしらべる研究員

〇湾内に魚を採りにいく保健所員たち。

伊藤氏の声「いえいえ、まだまだ! ・・・その当時も何の原因か分らないからねえ、あんな風に貝を拾ってますけれども・・・。ええ向う、恋路島ですね、あれ」

〇魚が弱っている。手綱で採取する所員

伊藤氏の声「それから魚がね、ふらふらするのがおるというニュースがはいったから見てやろうと・・ ・あのこれ保健所の職員ですけどね、見に行ったんですよ、魚がフラフラしてるわけですからね、こんな。海の魚がね! こんな網でとれるなんてちょっとおかしいです。海の魚っていうたらねえ! 人間が近づいたらぱっと逃げますけどね・・・ こんな、こう、やはり中毒しとるんですね。」

14 患者・田中宅の一室、娘の患者をかたわらにして母親にインタビュー

〇スーパー”発生当初の回想・田中アサヲさん”

土本「・・・猫の様子がおかしいとは、一日で分りましたですか?」(カメラ、娘に近づく)。

スーパー”次女・実子さん(二十歳)ー長女・静子さんは三十四年水俣病で死亡ー”

田中アサヲ「そるがですね、もう(註・水俣病と) 分らん時に、そんなことはもう気にしとらんときにですね、こう(註・猫が)晩・・・夜中でんなんでんですね、わあんわあんわあんわあんちですね。(手で空に孤を描いて) ひょっーちですね、飛びたつわけですよ、狂うてですね。ほいで、ああたほう、障子なとあけて逃がすかですね、自分たちゃ布団なっとかぶらんば怪我すつでしょうが、爪で・・・。ほいで私ゃ「早よ ふとんかぶれー つ」っちいいよったですよね。ほいで昼になってからもうあんなところにいってですね。あん石垣に、あんた、当ってですねえ・・・」

〇旧フィルムによる漁村の猫のスナップ

〇回想つづく「きじねこも、はっきりこうして覚えとるがですね、もう海んなかへ、もう・・・潮に濡れて、しょぼたれて、あすこ(と窓外の岸壁を指し)に上って、わんわん鳴くしですね、ほうしてこう、こげん両水(註・天水桶)にもはいってきて、・・ ・ほしてそれが狂いの止まればまたおと(家の)中には入ってくるわけですよ。”わあー 恐ろしかあ” ちゅうてもですね、わが家ん猫だからほう、餌をくわせんばいかんでしょうが・・・ 」

〇旧フィルムによる鰯の干し場で気ままに餌をとる猫のスナップ

アサヲさんの声「・・ ・そいで食わせとったいきにも姿分らんでんですね。どけえいたって死んだっじゃろか、おらんが、いよいよ死んだじゃがちゅうとたる具合して・・・。ま、私は五匹はもうほら、きじ猫でちゃんと覚えとっとですよ。・・・」

〇語るアサヲさん

「・・・そげんするうちですね、そうしてしもて、ま、どしこかしてから分らんばってんか、自分のこどもが、ほう、突然そんな風になったでしょうが。ほっでまあ、こどもが病気してから、あーあ、猫があげんして狂うて死んで、静子があげんして、わんわん泣く・・・泣き声がおんなじじゃがち思うてですねえ(土本「ああそう思われた!」)はい。そいでまあ父ちゃんとな、そげんして話しとったしなー。そしてから、私も病院に行って、そして静子をこう抱いていった時に、案じてですね”先生、こうこうでしたよちゅうて・・・・・家は猫がですね五匹も死んでそして挙句にこのこどもがかかったですが、子供に伝染したつじゃないですか?”ちゅうことは、私がはっきり言うたですもんねえ。その時、ほう、それからまあ、先生達もはっと思いなはったでしょね。それから先、うちたちゃ伝染病扱いにされたつですよ・・・。」

〇当時の自然発症の猫があばれ狂っている。

スーパー”伊藤氏フィルムより、昭和三十二年ー”

アサヲさんの声つづく「・・・私が、猫が移したつじゃないですかっち、言わんば良かったばってん、そいば言うにもんだから・・・。」

15 八ミリ記録の猫

伊藤氏の声「これがまあ、自然発症の猫ですけどね、これはですね、やはり二八年ですかーあの最初の患者さんーわれわれが辿っていった、その頃からね、猫が海岸でね、こんな風に発作を起して、無茶苦茶走り廻るんですからね、あっちこっちに突当って、そして抵抗物のない海岸の方に一生懸命走っていってね、で、海にとびこむと・・・。その当時の人は”猫があ、自殺する”といってね、びっくりしとったですよ」

〇猫のクローズ・アップ流涎がひどい

「・・・これゆだれ垂れとるでしよ、ゆだれを・・・」

16 八ミリー猫による初の人工発症記録

〇海岸でのムラサキ貝の採取、その貝の猫への投与

伊藤氏の声「これはさっきの水俣湾ですけどね、そこにいっぱい貝がね、これはムラサキ貝といっとったですけどもね、この貝やら採ってきたお魚やらを、その、猫に食わせるわけなんですよ。これを・・・蒸してね、身を取ってこれ・・・猫がこれ食うと、これ、ほんとに食うわけです・・・」

〇異常を示す仔猫

スーパー”実験的発症猫、昭和三十二年四月、第一例発症(於・水俣保健所)

伊藤氏の声「・・・と、これ!一週間か十日するとこんな風に発病して、ゆだれを流すようになるですね。ー最初成功した時にはびっくりしましてね、あの細川先生も駆けてきたですけどね。」

〇別の人工発症猫、歩行失調が顕著である「これはあの、非常によく出来、あの、症状がでております。尻尾をうしろにピンと上げてですね。足をびっこひくわけですよ・・。アタキシー(註・失調)アタキシーっていいますがね、それが良く出ておる」

17 八ミリの幕問、伊藤氏の回想

「あの、僕らはね、保健所長で、でしたから、その病気が発生しないようにね、PRせんといかんわけですよ。ー魚に疑いがあったけれども、それが科学的に証明されなかったーということで、猫が発病さえすればもう自信をもって言えるわけですから、猫の発病実験を待ったわけですよね・・・。大学に魚を送ったりなんかして・・・。ところがなかなか大学で発病しないもんだから、細川さんと二人で大学に行ったら、ま、猫の飼育の方法を見てね、細川先生と”あれじゃ猫も魚を喰わんでしょう”と、ま、おっしゃったですけど、とにかくその頃は予算不足で設備もよくなかったんですね、あの動物飼育も。で、帰って保健所の一室にね、ぜいたくな猫部屋をひとつ作って非常に可愛いがって喰わせたという事と・・・。それからそのー、あれをですね、魚を、子供にとらせたというこつですね、ーあの湾内の、あすこにふらふらして来るちゅうことを子供から聞いたから、子供に小遣い銭をやって網を買ってやってね、それで採って来いちゅうて、そって子供が採って来るわけ・・・、さっき出たでしょ(註・画面に)ああいう風にあの、あんな魚をとって来るんですよ。そうするとね、子供の話だとね、猫は海岸を散歩してきてね、ふらふらしてきた魚を、こう、ちょん! 爪でこう引っかけて(手ぶりしながら) 食うという話も猫から、あの猫からじゃない(失笑) 子供から聞きましてね・ ・・」(音楽はじまる)

18 今日の水俣湾、百間排水口、黒々とヘドロが堆積している

19 昭和三十一、二年当時の新聞『マンガンの疑い』『原因物質・セレニュウムか』『タリウム説』等 原因物質を仮定する中間報告の記事

ナレーション「ヘドロからはマンガンをはじめ十数種の重金属が検出され、病因として追究されます、そのどれも人体に危険な物質ばかりでした」(音楽消える)

20 伊藤氏フィルム・結論

〇排水口から工場廃水が揚水器で排出されている

スーパー”百間排水口 昭和三十二年”

〇紫褐色の排水のアップ

伊藤氏の声「あの、満潮の時には海水面が高くなりますから、これをポンプで押出しとるわけですよ」

土本の声「これはほぼその時の色と同じですか?」

伊藤「そうです、そうです。こんな風に何か紫色しとったですよね、こう・・・。」

士本「これは貴重ですね」

〇ヘドロをシャベルですくいとる

伊藤氏の声「これがね、軽いもんだからね、ふらふらしていくんですよ、これ!」

〇素朴な手描きのアニメーションで、工場からの排水の汚染のひろがりを示す。

〇八ミリ字幕1 『工場↓排水↓ドベ↓魚』

スーパー”氏の推論ー昭和三十二年当時”

〇八ミリ字幕2 『この関係が証明しうるか?』

土本の声「先生はもうほとんど確信しておられたんでしょ、やっぱり」

伊藤氏の声「もう他に原因がないですからねえ。それから魚で発病したとーただその原因物質がなかなか把めないもんだから・・・。もうそれがもう、非常な悩みでしたね。(字幕1に)あっ、これですね工場があって・・・」

土本「大胆な発言ですね」

伊藤「そうですね、うーん」

21 伊藤氏フィルム・初期水俣での臨床例

〇故船場岩蔵さん。タバコをのむと激しい振戦が起きる

伊藤氏の声「この人もすでにもう亡くなってますね、船場さんのお父さんですね、やっぱ漁師で・・・。あの僕が、”撮るからね、撮影するからおじいさんひとつ煙草のんでみてよ” ちゅうたらこんな風にのんで・ ・・なかなかうまくいかん」

〇男の患者激しい発作に襲われている

スーパー”船場さんの長男ー発二ニ日後死亡”

「この人が、あの、太刀魚をね、病気になる前、沢山食べたそうです。すり鉢でね。なんか酢味噌かなんかして沢山食べたと・・・。で何か僕にね、何か言っとるんですよ、苦しいから・・ ・頭が痛いんじゃないですかね、うんと!」

〇故坂本真由美ちゃん。手足硬直している

「・・・真由美ちゃんが亡くなってね、僕が解剖させてくれ言うていってね、もう正月でしたよ。えー 断わられてね。そしたら”僕が・・・抱いて行くから” と言ったんですよ。そしたらむこうもね、”保健所長が抱いて行くならね、協力しましょう” ということで、あのう、真由美ちゃんの死体を僕がいただいたわけです・ ・・。」

22 字幕『原因究明期 熊本大学水俣病研究班』

23 熊大医学部内の医局、徳臣氏のフィルム上映。

スーパー・徳臣晴比古氏(熊本大学・内科)

24 英文医学書『ポイズニング』の表紙及び有機水銀の頁と巻末記載、ここに、ハンター・ラッセルの名が記されている。

徳臣氏の声「・・・・昭和三十一年から研究を始めて、三十二年の四月の学会の時にあの『ポイズニング』という本をぼく買ってきまして、そのなかで、あの”視野狭窄” という項目がありますけどね、その視野狭窄を起すものはどんな病気か、毒物があるか。ー或いはその”運動失調” をきたすのはどんな毒物があるかというようなことを書いてありますけど、それを見ますと、第一番にアルキル・マーキュリーというのが出とるわけですけども、巻尾に、このハンター- ラッセル・ヴァンフォードの文献が出ておりますけれど、”これは恐らく有機水銀じゃないか?” ということになってきたわけなんで、それで、まあ水銀を、というととで水銀のチェックを始めたわけです・・・」

〇自分のフィルムを映写しつつ語る徳臣氏

「・・・ で、患者さんの尿の中の水銀を調らべてみると、ペラボーにたくさん水銀が出ているわけですねえ・・・」

25 喜田村氏の水銀調査

〇水俣の地図に重なって、スライド図形『水俣湾内泥土中水銀量(湿量重当りPPM)』

〇説明する氏にスーパー”喜田村正次氏”

「・・・ で実は私、その昭和三十二年から疑わしい物質を全部ー化学物質を全部リスト・アップしたんですが、その時にメチル水銀ってやつがひとつあったんです。で当然その症状からみたら、それを疑うべきだったんですけどね、その物質が結局、そのー湾内に流れでて一回魚を介して、それでまあ猫なり人間なりにこれがはいって、水俣病をおこすわけですね。・・・まあ、当然あのくらいの有毒物質ならば、私、魚がそのー、やられると思ったんですがね、ととろがね、魚はもうぴんぴんしているわけです。これはもう、われわれが食べたくなるくらいの、いきのいいぴんぴんしたやつでも、毒性があるわけですからね。・・ ・で、そういった意味で私は・・・水銀というのはやらなかったんですけれども、もうやるものが無いとー、まあ念には念を入れてこ の水銀をやってみようというわけで、そのまあ分析をはじめたんですね。」

〇水銀値の数字のアップ

「・・・ ところがその、分析をしてみて、こ らまあ、こっちの方が逆にびっくりしたんですがね、これがその分析値ですが(指で示し)これが丁度排水口直下のところです・・・。このところのこの分析値がここにありますように二、〇一〇PPMですね・・・これが湿重量あたりのPPMですよね、で大体この生の泥をそのままの重量あたりのPPMですから・・・これ今やってますように乾燥重量当りに直しますとね、この所で少くとも五倍位にはなります・・・。そうしますと、これが何と一〇、〇〇〇PPMですね!そうしますと一%ですね、・・・でしかもその水銀の値がですね、結局この排出口から遠去かるにつれてですね、これが今湿重量で一三三ーこれが五九・五、それから四〇でしょ・・・それから一九・二と・・・一二・二と、これは明神の方で・・・。あの湾流が多少はここへ出ます、ほとんどはこっち(北)からはいってくるのが主なんですけれども、しかしこう拡散しますから、あの、距離からいきますとー丁度この排水口の距離ですとー丁度やっぱりこの(北の湾口を指し)一九PPM、これあたりに相当するわけですね。でこれがやっぱり二ニという具合にー。これは明らかに工場から排出されて出たんですね。かなりな、あの何ていいますか、汚染を湾泥に来しておったと!うん!」

〇工場の位置の部分のアップ

土本「その当時、工場のですね、協力態勢はどんな風だったんですか?」

〇喜田村氏のアップ「ま、私に対してはね、そう非協力的ではなかったんですが、・・・ただ私が一番びっくりしたのはね、入鹿山(註・旦朗)先生とそれから私と、それからその他二人でこのここの条溝にサンプリングに行ったわけですよ。で、この、ちょっとした鉄条網の枠があったんですけど、そのなかを越えて工場の中に入ったわけですね・・・」

今日も厳重に有刺鉄線をめぐらした工場、そして排水口附近

「・・・ そうしたらこれ、守衛さんがここに、まあ離れたところにいましてね、それがどうも本部に連絡をしましてね、その返事を聞いてーそれは困るーというわけですね。それでやって来て、その今持っていったもの(註・工場廃液のサンプル) を、そのね”持っていっちゃ困る” という・・・ ”勝手に無断ではいって来てですねえ、ええ、そのサンプルを捨ててってくれ?”って言うわけですね。もう私やまあ正直ですから・・・ほらまあ、捨てなきゃ・・ (無念そうに) ほんなまあ、全部、その折角採ったサンプルを全部、あけさせられたという一幕もありましたけれどもね。まあ、そらあ、そうですね、全面協力というような態度じやとてもありません! ええ!」

26 元工場労働者の証言

〇工場正門前でのインタビュー

スーパー”丁通明さん(元水俣工場酷酸係勤務)”

土本「いわゆる問題になっている酷酸工場の水銀というのは、じかにあなたの手で扱われた時期があるわけですね?」

丁「酷酸のですね、あの、酷酸製造工程のなかのアルデヒド生成にですね、酸化水銀を、その、触媒として使っとったですね・・・」

〇金属水銀そのものの液体状のアップ

土本の声「その当時、やっぱり水銀の、いわゆる劇物と毒物とかいうような事での扱かいは・・・ま注意ですね、そういうのはどんな風だったんですか?」

〇工場にそった排水溝にそって歩きながら当時を語る丁さん

「ま、一般に水銀はその、危険物と、毒性が強いということは常識的にですね、小学校あたりでもみんなが知っとったと思うんですけれど、特にああいう多量に、ま、日常ちいいますか、三〇分毎か一時間毎ぐらいに使っとったですから、えー、そういうナニはですね、一応はですね、なめたり飲んだりしちゃいかないと・・・ いうことの注意はあったようですね」

昼時のサイレンが鳴りひびく

〇工場全景の俯瞰より旧アセトアルデヒド生成塔数基にズーム・イン

土本の声「大体どの辺にあったんですか、酷酸工場は?」

丁さんの声「さあて、酷酸のなにはですね、今これ終戦後からの何で、大分敷地を拡張してましてですね、広くなっとりますが、丁度もう真中あたりになっとつですね・・・、約百米位、こうのばしとっとじゃないですか」

〇語る丁さんのクローズ・アップ

「・・・年末作業なんかで、定期修理なんかやる場合なんか、こりやもう水銀の中にはいって仕事しとるというようなですね、えーなかだったですから、もうぱらぱら落ちてくるんですよ(手で頭をはらいながら)髪の毛なんかでも、たいがい髪の毛伸しとるんですけども、それこそ(髪に手を)やるとですね、ぱらぱらいつの間にか落ちてくると・・、いうような事もですね、あったということです。だから、その位、ま、水銀の、あの金属水銀がですね、直接落ちてくる場合もあるし、大体ガス状でいっぱい、こう蒸発しとる関係で、塔の中に貯るー回収されるような水銀だけじゃなくてですね、現場自体のいろいろ屋根のアングルとか、いろいろそういうところにも、その、貯っとるわけです」

〇工場裏山より眺めながら

「・・・特に水俣病なんかの問題が出ました後は、会社自体がですね。昼間はあんまり流すなとか、或いは。明日はどこどこから来るから講をきれいにしとれ”とか、或いは”現場の廃液とか捨てるやつがあったら明日は捨てんちゃよいようにですね、夜勤中に捨てときなさい!”というような指示が再々あったです。」

〇干潟に堆積するヘドロに石を投げる。音もなくぬめりこむ。その黒々とした穴にズーム・イン

27 熊本市、大学病院のある一角

スーパー”熊本大学医学部”

〇徳臣氏の臨床記録(十六ミリ・黒白) に、多くの患者の具体的症状がとらえられている。画面に重なる声に

スーパー”臨床・徳臣晴比古氏”

〇少年期の江郷下一美の歩行、中間てる子のおぼつかない歩き方

土本の質問「一番共通している症状というのは、一見何でございました?」

徳臣氏の声「・・・ 一番共通してるのは、今言ったような、あのこう運動失調というやつですね。ああいうような動揺性の歩行ね、これも運動失調のひとつで、言葉自体も運動失調ですね・・・」

〇映写しながら自ら症状をまねる同氏

「・・・何かひっぱったような、例えば”みいなあまあたあしー” というようなそういうような発音、あの発声をするわけですね」

〇坂本タカエさんのシャツのボタンかけテスト、指の自由がない

「ああいうボタン止めをしようとしても、水を呑もうとしても、マッチをするのも、ある一定の目的をもった運動がスムースにできない状態・・ ・できない状態これを運動失調というわけですね。小脳の障害です、これは。それがこの病気の非常に大きな特徴ですね、これは。」

〇初期の村野タマノさん。小きざみにふるえている。タバコを吸おうとすると、尚振戦が激しくなる

スーパー”昭和三十一年秋、撮影”

「これは村野タマノさんですね。今もそこ (註・大学病院)に入院してますよ。(土本「ああそうですか」) 私んところにこの間入院してましたけども、ちょっとあの、やっぱり精神症状がひどいもんだから、今精神科の方にいってますけども・・ ・ 。ええああいうような痙攣ですね、痙攣がこの人はしばしば起るわけですよ」

士本の声「今でもですか?」

徳臣「今でも起きます。ちょっと興奮状態になってくると起るわけですね。まあ全く知らない人が現れるとか、或いはこの人が興奮するときに起ってくるわけです・・・」

〇水をのもうとする手がふるえ、衣服をぬらし、ついにのめない村野さん

「・・ ・非常にこの人はああいうような、こう、何といいますか、手のふるえが強いですね。」

土本の声「こういう場合はどこが最も強く障害されている・・?」

徳臣「この人のふるえ自体はねえ、これはもう小脳性のもんじゃないように思うですねえ、これは。やっぱり基底核部でしょうね(土本「何ですか?」) ー基底核ー基底核、脳のね、あの何て言いますかな、ベースの近いところに核がありますけど、基底核部の障害だと思います、これは。」

岡嶋助教授の声「こういう症状があったから・・・錐体外路(徳目「そうですね!」)じゃないかという考え方もあったわけですね」

徳臣「・・・ 考え方も出たわけです・・・」

〇ベッドに横たわったまま体をえびのように曲げ、宙にむかつて手足をはげしく痙攣させる村野さん

「・・・ この人の病状はねえ、・・・これは本当の・・・ていいますか、多分に精神的な心困性のファクターですね・・・ 」

〇映写中の症状を見ながら徳臣氏

「ええ、精神的なフアクターが非常に大きいんではないかと思います」

〇画面、ベッドの上で舞踏様の足ぶみをくり返す村野さん「・・・ これはもう、精神・・ ・興奮状態のあらわれですね、これは。痙攣ではないです・・ ・今の状態は。」

〇旧病舎の庭を歩きまわるやつれ果てた村野さんの数スナップ。病床で万歳をするように両手をあげる放心状態の痙攣をくり返す彼女。徳臣氏のコメントつづく

スーパー” 『水俣病主要症状について』”

徳臣「・・・ やはり運動失調、それに視野狭窄、難聴ーこういうような中枢性の障害ですね。それから末梢の方では、手足のしびれ感ですね。それから知覚障害ーま、物がさわっても一枚何か・・・その、紙でもおいたような感じー紙の上から触わるという、触っているようなそういう感じねーーそういう知覚鈍麻ですか、そういう立体感覚の障害ですね、そういったものが知覚障害ー末梢の方では出ておりますけれども・・・・」

〇戸外、舞踏病のようにおどりつづける村野さん。興奮して、カメラにむかつてくる

「・・ ・ ・ええ、何でもないときにはー落着いた状態の時には、普通の、あの知能も普通で、大体、あの、応答ができますちゃんと(しばし絶句する)」

28 故浜元惣八さんの症例記録(徳臣フィルムつづ)

〇入院生活スナップ、タバコを吸おうとするが手のかなわない惣八さん。まだ幾分の元気さがみられる

徳田氏の声「これは浜元惣八さんですね、これは。この方はまあ入院時の状態ですね。まだこういう状態ですけどもね」

土本の声「なんか一夜にして、あの、体の自由が利かなくなった・・・」

徳臣「うーん、発病するときね、これ・ ・ ・ 」

〇落ちたタバコを懸命に把もうとする浜元さん

「・・ ・ うーん、こういう風景はめずらしいね、これは。・・はじめはこんな状態だったですけどね、間もなく今から出てくるように、この方はもう動けなくなったですからね」

土本「あの、当時、部落でですね、やっぱり急性で亡くなった方は、ほぼこういう経過をとられたと思っていいですか?」

〇画面、水の入ったカップを掌にもてないで苦労する浜元さん

「・・・ええ、それは恐らくそうでしよう・・・まああれは運動失調の非常に極端な状態ですね。水を自分で呑めないわけですから・・・・・・」

〇死の直前、ベッドの上で狂った猫のように休をばたつかせて苦しむ浜元さん

「・ ・・ これはもう意識がないですね、もう亡くなられる直前でしょう、恐らく・・・(回想しつつ) ・・・本当にひじように気の毒な状態ですねえ。・・・初めてあの水俣にいきました昭和三一年の八月位がこういう人達が水俣の・ ・ ・”避病院” ねー伝染病棟に収容されていましてねえ。ほとんどの人がこういう状態でしたねえ。・・ ・・もうびっくりしました。それはもう・・・本当にもう・・・。暑い、ものすごく暑い病室の中でのたうち回って・・・ ええ、こう・・・ベッドから落ちたりして手足を怪我しましてね・・・・・・。」

〇スーパー”発病五十日後死亡”

29 死亡患者の生前記録(同じく徳臣民フィルムによる)氏のコメント

〇松田文子 ベッドの上の全身痙攣、ほぼ裸身

「・・・それからですね、松田フミさんですね。この方が最初の方で・・ ・ こう悲惨な状態ですね、痩せてね。・・・転展反側という状態ですね、あれは。」

〇田中しず子ちゃん他幼児患者のスナップ

「・・ ・当時はまあ、割合に外に表わしたがらなかったです、どちらかと言えば、まあ隠すような傾向がありましてね・・・。それを収容するのにしましても、あの、経済的にもねえ・・・。そういうものをどこが受持ってやるかという事が全くなかったわけですね、こ の時代は。」

〇坂本キヨ子さんのまだ比較的軽い時期と二年後の死亡直前、全身硬直し腐爛した末期症状の記録。

「この方は、何か、入院をなさらなかったわけですけどね。・・・・あとで二年位経ってから行った時の状態がこういう状態でしたね。非常にびっくりしました。 ・・・・もう・ちょっとやっぱり・・ ・普通で見られない病状ですね、これは!。・ ・右手はああいう風にいつも動いておりますね。足腰から下はああいう風な屈曲、強直状態ですね、これは。非常に栄養も衰えておりますしね、これは。うーん」

30 病理学的究明

〇武内氏インタビュー 氏のクローズ・アップ

スーパー”武内忠男氏(熊本大学・病理学)”

武内「・・・ 一番最初はやっぱりあの、文献的に同じー同じものがあったというね、前に、それと一致じとるじゃないかというのが・・・ の方が僕には興奮だったですね」

土本の声「・・ ・もう一度おっしゃって頂けませんか」

〇英文医学書、ハンター・ラッセルの症例報告

「・・・・あのハンターの書いたね、ハンター・ラッセルの・・・・ ハンター・ラッセルがそれより、一五年前にね症例を報告してるんですよ、四例ね。あの例の十五人の工場のね、四例に発症したちゅうのがあったでしょ?その症例報告が十五年前にやっとるわけです。それで十五年後に死んどるんです、ひとりが。それを報告して三年目に水俣病が起き・・・あの三一年になったんですよね。だから・・・」

31 武内氏の実験フィルムの映写はじまる

〇タイトル”武内教室(病理) 撮影”

〇貝投与の猫の観察

〇その貝を現地で採取している

タイトル”実験用貝採取(月浦)ー昭和三二年よりー”

〇猫に重なって、スーパー”貝投与発症猫”

武内「・・・それでですね、ま、疫学的に魚介類を摂取するヒトや猫におこりやすいということから、どうしてもやっばり魚介類を投与して、実験的にそれを証明しなきゃならないわけです。・・・これはですね、これは、貝の粉をやった猫と思います、この猫は」

質問者、有馬の声「それからどういう経過から水銀に注目されて行ったんですか?」

〇映写画面を見ながらインタビューに答える同氏

「それは剖検例の、あの、病変ですね。ことに神経系統の病変が非常に特異なんです。今まで我々が見たことのないような非常に強い神経細胞障害がある・・・・・・」

〇武内教室内の脳標本の接写

スーパー”男子 七才”蜂の巣状に細胞が脱落しているのが肉眼的に見える。

「・・・・・しかもそれが、あの、視中枢がやられておるということ。それから小脳の、顆粒細胞が非常に障害が強いということーそういうことはなかなか記載したものがないんでですね。ええ特に主に顆粒細胞の脱出と視中枢の障害ということに重点をおいて・・・あの、文献を探したんです。やっと見付かったのがハンター・ラッセルの例の文献です。・・・その記録をみてね”これは全く同じだ!” という風に思って・・・・思いましたですね。だからこれはやはり、どうしても深く追求する必要がある・・・。」

〇武内氏のフィルム、猫実験記録

スーパー”有機水銀投与実験開始ー昭和三三年秋一”

〇飼育箱の中の猫、狂いあばれまわる。強烈な発症を示す

「これはアルキル水銀をやった猫で、やはり症状のひとつを示すわけですー水銀でああいう風に臨床症状ーこれは猫だから、ま、臨床ちゅうのはおかしいですけれどもー症状ですね、猫の症状が全く自然発症のものと、魚介類をやったもの(註・貝投与実験猫)と同じなんですね。これを解剖してみますと、また脳の病変が大脳も小脳も全く同じなんです・・・。映写中の教室、画面に猫のシーン「・・ ・だから、これは前から、あの、文献的に水銀ではないかという風に考えておりましたし、人間の脳からも水銀を証明しとったわけですけども、水銀をやった動物も全く同じだというととは、これはもう水銀に間違いないんじゃないかと、いうような判断をするのに非常に役立ったわけです」

〇黒猫、運動失調が著明(有機水銀投与猫)

「これも非常に重症で失調症状も、それからあの、恐らくこ れは視野はうんと狭いんか、盲じゃないかと思うんですけどね、こういう強い症状が表われとるわけです」

〇別の実験猫、はげしく走って障壁に激突する

「これはもう失調ですね。あの症状は失調。・・・割合元気がいいですね」

〇うづくまる猫、近くのニワトリとむきあっているが動かない。

有馬の声「猫はニワトリに反応せんわけですか?」

武内「はい。ネズミをそばにやっても取らないしですね、ええ、ニワトリに対しても・・・ こういう風に、もう無関心なんです・・・」

〇ネズミを鼻先にあてがわれでも、腕の中に抱かせても反応しない猫

「・・・普通だったら、正常な猫はすぐ飛びつくんですけどね・・・ひとつには眼の見えない猫もあったと思います」

有馬の声「・・・と、こういう猫の状態は、人間の、ああいう風に、いわゆる植物的人間とか言われてますけど、ああいう状態・・・?」

武内「あれよりも(註・猫の方が) 軽いですね(有馬「軽い?」)ええ、あれよりも軽いです。(有馬「そうすると人間はもっと?!)もっと、もっと・・・はいそうです」

32 軽快の可能性についてのインタビュー

〇悩標本のアップ 脳回いちじるしく小さい。スーパー”女子 八才”

土本の声「もうあの、脳細胞の脱落というのは医学的に救済の方法はない・・・・・というような判断は?」

〇武内氏クローズ・アップ及び脳のディテール

「それはですね。神経細胞が壊されたら再生しないということで・・・えー、他の臓器の細胞と違うわけですね、だから壊されたとこ ろはもう元にかえらないと! ・・・しかしですね、私いつも言うように、ええ、例えば神経細胞は十五億あるとしますですね、そのうちの二億が、脱落してしまう・・ ・或いは五億が脱落するという場合でもですね・・うーん、同じところのものが全部脱落するわけじゃないんです。”間引き脱落” をしていくわけですね。そうするとね、隣りの神経細胞は代りをし得るわけですよね。(沈黙) だから、その代りをするような、ま、訓練ということをやればですね・・・機能的には、機能的には・・・多少回復するということです。・・・まあ腎臓とか肝臓だったら、ある程度(細胞が)死んでもですね、ある程度死んでも又再生できるわけですよね。生きとるやつから・・・だから元に帰るわけです。しかし脳はどうにもならないですねえ・・・ 」

土本「これは今後、医学・薬学が進んでもですか?」

武内「(言下に)そうもう、どうにもならない・・・進んでも!」

〇武内氏のクローズ・アップ

「・・・それはもう悲惨というほかないですね。・・・どうしょうもないということですね。だから非常に軽い人は、今言いましたように、残った神経細胞で或る程度回復しますけどね、ええもう重症なヒトは結局寝たまま・ ・・ちゅうことになる・・ ・もう一生寝たままちゅうことになるですねえ・・・(厳しい表情で) だから救いようがないです。どうにもならないですね。・・・ も、悲惨というほかないですねえ、表現としては・・・ (沈黙)」

33 昭和三十四年頃の新聞(有機水銀説への反論)

〇『旧軍爆薬説』

〇『魚の腐敗菌、アミン中毒、清浦雷作、東京工業大学教授発表』等

ナレーション「熊大研究班が曲折をへて、原因物質としての有機水銀をつきとめる頃、工場側はありもしない海中の爆弾によるという”爆薬説” で反論ー。ついで現地視察の東京の学者により、腐った魚の毒という”アミン説” が発表され、”有機水銀説”もそのいくつもの説のひとつと印象づけられました」

34 英文字幕「アメリカ NIHの実験」

スーパー”有機水銀説の追試(アメリカ、NIH)”

〇猫に典型的な発症がみられる

武内氏の声「ええ、米国の最大の医学研究所ですねー米国のNIHが、それをやったわけ・・・。そこの中で、疫学部長をやっておるカーランド博士が、その追試実験をやりまして、三十四年の終りから三十五年の初めにかけてやったんですね。で、その資料は勿論熊本の私のところから取寄せて、そしてそん時、貝の粉ー貝の粉末ですねーを沢山送ってもらって、僕らがやったと同じ実験をくり返したわけです。そして全く同じ結果がでたんで三十五年の春にね”出た!” ということを、工場側と大学側にDr.カーランドから通知したわけです。それが最初の実験追試の結果じゃないかと思います」

35 有機水銀発生のメカニズムについて語る喜田村正次氏

〇アセトアルデヒド生成塔の実験模型を前にして

喜田村「・・・それはね、アセトアルデヒドを作るというのは非常にその、簡単なんですよ・ ・・」

〇アセチレン・ボンベ、反応器、酸化水銀を示しつつ

「・・・あの、アセチレンーこれはボンベ、アセチレン・ボンベですが、こ れがアセチレンとですね、それと水とが反応すれば、こらまあアセトアルデヒドなんですが、ただそこのところへですね、水ー普通の水にアセチレンを吹きこんだんじゃ出来ないですけども、この、いわゆる反応塔なんですが、この中へ酸化水銀ですね、これを触媒にして入れるわけです・・・」

〇金属水銀と酸化水銀のアップ

「・・ ・水銀ちゅうのがね、非常にこう変ったーこれはま液体・・・変ったその重金属なんですがね、色々な触媒に使われるんですが・ ・・。このとにかくアセチレンの接触加水反応ですか、アセトアルデヒドを作るときに、これが非常に・・・・・・」

土本「これが酸化水銀ですね?」

喜田村「これ、このままじゃ水に溶けませんのでね、これを結局酸化水銀になりますね(指で示し) ええ、この黄色いのが酸化水銀です。これを結局この中に触媒に入れてるわけです」

〇実験装置を前に

土本「メチル水銀が出来ていたことは、工場でですよね、かなり早くから分析できていなかったんですか?」
喜田村「ええ、あの最初の頃はね、メチル水銀が水の中ではねえ・・ ・もう分解して無機の水銀になるんだと、こういうことが言われておりましてね、”できるわけがない”ということだったんですが、それがね、三十五年だったですか、こん中にそのメチル水銀があるということがですね、ま、工場の方は知ってたようです」

36 汚染の広域化について、閉じく喜田村氏

〇スライド『不知火海底泥土中水銀含量』図を示し

「ええ、昭和三十・・・あれは三年だったですか、この工場が、あの従来の排水口(註・百問港) をですね、あのこちらの丸島の方の、これ水俣川の河口のこちらに出したわけです。・・・・・ そしたら途端にそれからねえ、四ヶ月ほどしてだと思いますが、この辺(註・川口附近) に患者さんが出たわけですね、それからだんだんだんだん拡がっていきましてね、津奈木にももう患者さんが出てました。それからね、、猫の方ね、津奈木、計石・・・ これどこになるかな・・・計石がこの上、その辺になりますかな、とにかく、この辺でも猫は発症してましたし(不知火海の対岸を指さし) ぞれからこのー私、これ確認はしなかったんですがー 獅子島ですね、ここでも猫が大量に、これあの、狂い死にしたというね、話しが、ま、事実があったわけですね。それから勿論、こら茂道の方、この辺でも患者さんが出てくるといったようなね。 ・・・だんだんだんだんそれが範囲がこれまあ、拡がって来たわけですよ」(音楽始まる)

37 昭和三十六年当時の新聞『水俣湾のヒバリガイモドキから有機水銀物質を抽出」『工場内、製造工程中で有機化・・・』等

ナレーション「チッソが有機水銀を流していないと反論する中で、熊大、内田槇男教授は貝から有機水銀を抽出することに成功、一方、入鹿山且朗教授は、昭和三十六年半ばに入手した廃液そのものから、有機水銀を抽出ーその科学的因果関係は、すべて証明されたのです。」(音楽終る)

38 胎児性水俣病の存在の確認

〇インタビューに応える原田氏

スーパー”原田正純氏(熊本大学・精神神経学)”

原田氏「このフィルムを撮った時代というのは、あの、丁度ですね、まあ水俣病の発生はもう一応終ったと、臨床的な問題は一応解決して、”有機水銀中毒である” としかもそれは工場の・・・ から出てきているというようなところは、まあ非常に明らかになってきてて、であと、その残った問題として当時から気付かれていたけれども、水俣病の多発地帯に原因不明の生れつきの・ ・・ この子供たちがたくさん発生していると、いうことが分っていたわけです。」

〇昭和三十六年頃の新聞『有機水銀、母親から胎児に・・』

「・・・ でこの子供たちが、この胎盤をー胎盤の中で起った有機水銀中毒かどうかというこ とを解決しなければいけないという問題が、当時の水俣病問題の中では一番大きな問題だったわけです。社会的にも、医学的にもですね。」

39 昭和三十六年当時の原田氏撮影のフィルム、映写、市立病院の一隅に集まった患児たちのシーンより個々の診察にうつる(黒白十六ミリ)

「まあ、市立病院にこんなして集まってもらったんですけど、まず最初に気がつくことは非常に患者たちがお互いに似たような状態だということですね。これがまあ、あの、胎児性水俣病であるという・・・・ この実証していく上で非常に重要なことだったわけです。」

〇故田中敏昌君

「田中敏昌君ですけども、まだあの、生まれて六ヶ月目になっても首が坐らないということで、家族はこれはおかしいんじゃないかと、いうことにまず気が付くわけです・・」

〇坂本しのぶさん。簡単なテストをうける

「で、これは同じ湯堂に同じ年に生まれた坂本しのぶ君ですけども、お姉さん(註・真由美) は小児水俣病で亡くなるわけです。ごらんのように、ああいう手の動作はほとんど何もできない・・・・・・」

〇 母親にかかえられ、寝たままの上村智子さん

「それから、上村智子ちゃん。これはあの、月浦で生まれたんですけれども、言葉はほとんどない。まあ、この当時六つですけれども、光に対してほとんど反応がなかった。で、寝たつきりで、足はあんなふうに変形している。それから体重は十四キロぐらいだった。で、首がああして坐わらない。(口もとに笑い)ああいう笑いは”強迫笑い” というわけです」

〇祖父に抱かれて来る半永一光君、控室でかえる飛び様の動作をしている

「それから半永一光君。で、これは漁師の子でお父さんも水俣病です。ゆだれが出て、斜視であって、知能が悪くて、そして手の障害も強いですけれでも足の障害がつよい・・・(介助して歩行させてみるが足首が交叉する)ああゆうふうに、この支えてやると自分で何とか動かそうと意志は働くんですけれども、足がうまくいかない。ああいう変形が強い、引きずってしまう。」

〇診察台の上の岩坂すえ子さん

「それから岩坂すえ子ちゃん。これは三十二年生れです。このお姉ちゃんていうのが非常に重症な胎児性で、もうすでにこの時には死亡していた。・・ ・自分の首を支えることが出来ない、で、ふらふらふらふらしている。どうしても.・・こう笑いやすい。強迫笑いがある。」

〇中村千鶴さん。美しい顔立ちである

「こ れは茂道の漁師の娘で、中村千鶴ちゃん。で、今手をやったら口を開いたり、それから、把んだりするのは、自分の意志で把むんじゃなくて、新生児ー生まれたての赤ん坊に見られるような反応です。これを僕らは原始反射といっている。という事はつまり、脳の発達の段階が新生児の段階で止っていると・・ ・」

〇比較的軽い症状の子ども二人、いろいろな生活動作のテストを受けている

「当時、ま、一審軽い例だと私たちが考えてた鬼塚君ですけども、まあその一番騒い例といっても、御覧のように・・・ ビスケットを握る手というのは非常にぎこちないわけです。その横が、これは二十八年生れのは滝下昌文君。まあわりと気の利いた顔をしているんだけれども、残念乍ら、知能はこの当時で四、五歳・・・。(指鼻テストをしている) 重症では失調というのは非常に証明しにくいわけですけどもまあ、こういうあの・・ ・このグループではわりと軽い人たちでは、小脳性の失調というのは割と証明しやすいわけです。」

〇運動靴をはくのに長い時聞をかけている鬼塚君、よちよちと歩くその足元

「こういう個々のテストのぎこちなさというものが実は日常生活において、極めて大きな障害があるわけです。で、靴をはいたりする、こんな簡単な動作だって非常に時間がかかる。・・・・まあ動けば動くで事故が危険で、ひとときも目が離せないと・ ・ ・ 」

〇滝下君がテストをうける

「まあ、この子供たちが、あの要するに、胎生期におなかの中で有機水銀中毒にかかったかどうかという判断・・・非常にむつかしかった・・・」

〇映写中回想と判断を語る原田氏

「・ ・・ それは、あの、世界でもそういう例がなかったという・・ ・ 。それから従来胎盤というのは水銀があんまり通らないと、いうととになっていた。で、それは非常に難しかったわけですけれども、まあ最初のとこ ろに出てきたように、これらの子供たちは程度の差こそ多少あっても、極めて、その同んなじ臨床症状を示している・・ ・。」

〇滝下・鬼塚両君が廊下を、ころびながらゆきつもどりつしている

「・・・ つまり知能が非常に悪いと。それから失調があると。それから原始反射があると。それからよだれが出ている、斜視がある、それから錐体外路の症状があるーそういうふうに非常に共通な症状をみんな持っている・・ ・ 。つまり同じ原因で起った同じ病気であろう・・・というところまでは臨床的に把握できたわけです。」

〇映写中、語る原田氏のアップ

「その後の、まあ調査によって、発生率が非常に高いと。一般の脳性麻痺や、あの、精神薄弱児に較べて非常に高い発生率ー例えば七、八%というような高い発生率・ ・・ 」

〇母親にしがみつく渡辺政秋君

「・ ・・それからお母さんたちに比較的軽いけれども水俣病の症状が認められる・・・ 。まあそういうことから、あの、臨床、疫学的には有機水銀中毒の可能性というととを疑ったわけです。」

〇淵上一二枝さん、支えなしには上体が起きない。母親が介助している

「これは淵上一二枝ちやんで、非常な重症例です。・・・まあ一般に、この胎児性の母親というのは、自分のたべた水銀を胎盤を通じて子供の中に蓄積してしまったために、おとなには大した症状を浅さなくても、非常に柔症な脳性麻痺みたいな状態だとか、或いは知能が遅れる子供を生むと、いう可能性があることを示してるわけで、これは非常に大変な問題を提起してるとー。」(映写終る)

40 今日的課題を語る原田氏(インタビュー)

「まあ、常識的に考えるとね、ひとつは胎盤というのは、割と毒物に対してこの、保護するものであると。だからプラツエンタ・バリアというのがあって、それはあの、外からの毒物を、こうそこでシャット・アウトしてくれるんだというのが一般的な考えだったわけですね。それからもうひとつは、子供にあれだけの影響を及ぼすような水銀をもし喰っておるならば、・・・その、母親にもっとひどい症状が出てもいいんじゃないかと、まあこれ、非常に当時の常識的な考えだったわけです。そのことは僕らも非常にひっかかったわけですね。”母親は軽い” と。」

〇語りつづける原田氏のアップ

「・・・ところがまあ患者の母親たちはですね、”この子がこんなふうになってくる原因は他には何もないと、自分たちは魚を沢山食べたと、しかも水俣病がおこってた魚を沢山食べた事以外にはどうも考えられない” と・・ ・。例えば茂道の部落でその年七人生まれてね、子供が・・・四人がこんな状態だちゅうのは考えられないちゅうわけですね。・・・でそれともうひとつ”私たちがおかげで症状があんまりなくて軽いのは、この、おなかの中で、その、水銀をこの子が全部吸い取ってくれたんじゃないか” というようなことを言ったわけですよね。・・・ それは僕らにとってみれば、それはあの、実証されてないし、そういうのは非常にまあ、いわゆる非科学的な事だということになるわけだけれども、その後のいろんな研究ー動物実験も含めていろんな研究によって、確かに直観的に母親たちが、この子は水銀中毒だと言った事は正しかったし、それから色んな動物実験その他によって、この、母体が摂取した水銀というものは、この、胎盤を通じて、むしろ胎児に高く濃縮してる、という事実は出てきたわけですね。だからまあニワトリだとニワトリよりもーニワトリの親よりも、タマゴの中にたくさん濃縮しちゃうし、それからまあ動物だとー哺乳動物だと、動物の体内よりも、その、むしろ胎児の方に濃厚に濃縮すると、ということは、まあ、はっきり指摘しているわけですけどもね。そのことがまあ、今日、いろんな微量な水銀中毒、或いは汚染・・ ・水銀汚染ということを考える時に、非常に恐いことだということになるわけですね。そういう発生のメカニズムがあるからこそ、この微量汚染に対する私たちの考えというのは、まあ、ちょっと必要以上に神経質になってくる・・ ・というのはそういう事だと思うんですけどね、胎児性の問題だと思うんです。」

41 昭和四三年九月の新聞記事、全面を費して厚生省の見解発表、『原因をチッソの有機水銀と断定』、同じ紙面に『チッソ工場の縮小を暗示ー江頭社長談話』

〇ナレーション「厚生省は十五年目に、ようやくチッソを加害者と認めました。その時はすでにチッソは製造方法を転換、千葉県五井に新鋭工場を建設、主力をそこに移していました。」

42 旧いフィルムにみる症状の進行例。浜元二徳さんが、歩行訓練している。軽い症状がある

〇スーパー”症状悪化例、徳臣氏の話ー”

〇彼のその歩行に、スーパー”昭和三十一年”

徳臣氏のコメント「浜元二徳さんですね。この方は初めからああいう、歩き方が非常に特徴のある方でしたね」

〇最近の彼の歩行フィルム。杖で辛うじてちんばを引きながら歩く。スーパー”昭和四十五年”

土本の声「足の状態は、何かやっぱり本人が言うように年々悪くなっているような・・・ (徳臣氏「そうですね!」)こういう進行は、あの、リハビリとかそういうので止りませんか?」

徳一同氏「そうですね、そりゃなかなか止まらないんじゃないでしょうか」

土本の声「これはやっぱり、一旦取り込まれた毒性がですね、あの、現在も進行させているわけですか?」

徳臣氏「勿論、そう、取り込んだ毒性が、あの、広汎に神経細胞をやっつけたわけですね。はじめ軽くやられとった細胞も、だんだん、その、衰えてきて、その障害の度合はだんだん強くなってくる・・ ・という状態でしょうねえ・・・」

43 ある歴史ー浜元二徳さんの四年前、鹿児島での街頭カンパの記録(前作『水俣・患者さんとその世界』より) そしてチッソ水俣工場の上空へ

「(スピーカーを通して訴える声で)私の躰を見て下さい。私は十九に、この公害の病気になったのであります。そして、私は、日にち毎日、苦しい生活を、また苦しい闘病生活をつづけて、今日は鹿児島に街頭カンパにまいりました。私たちは、この様な公害を、住民市民ひとりひとりに、何人でも(公害病に)なしていいのでしょうかと思い、この公害の恐ろしさを、皆様方の目の前に見せ、そして皆様方の、水俣病に限らず、公害というものの恐ろしさを知ってもらわんがためにやってまいりました。ー(鼓笛隊のドラムの音)」

44 昭和三十四年夏から秋にかけての漁民闘争を報ずる新聞記事、『工場に押しかける漁民と警官との対峙』等(音楽・テーマ曲)

ナレーション「昭和三十四年、秋、漁民闘争に明け暮れる中で、工場内部では、細川一氏のネコ実験で、酷酸廃液で発症することを突きとめていました。しかし工場は、その事実を隠したまま交渉に臨み、漁民の補償要求を十分の一にたたいたのです」(音楽消える)

45 当時の患者の直観を語る渡辺栄蔵さん

〇ヘドロの海から百間排水口を見ながら、「・・・・・原因はどうこうちゅう分っちおらんばってん、こらもう、どうしたって、会社のドベ(ヘドロ)より他になか!ということを私たちとしては、そう思っとったですな・・・」

46 昭和三十四年十二月、新聞記事『患者、ついに坐り込みへ』『死者、患者一律三百万円を補償せよと陳情』等

ナレーション「工場に要求を求めた患者は、大晦日までの一ヶ月を坐り込みで闘いつづけました。チッソは直接交渉を避け、ここに知事らを入れた第三者による補償斡旋を頼み、処理しました。これが以後十数年、今日までチッソの補償処理の基本的パターンとなったわけです」

47 いわゆる見舞金契約骨子

〇字幕”昭和三十四年十二月三十日

水俣病患者さんに対する
”見舞金”契約
死者 三十万円 葬祭料 二万円
生存患者年金 成人 十万円 子供 三万円
契約書の第五条
「・・・ 乙(患者) は将来、水俣病が甲(会社) の工場排水に起因することが決定した場合においても、新たな補償金の要求は一切行なわないものとする」”

〇この字幕にナレーション

「患者の要求額は一律三百万でした。しかし妥結額はその十分の一に抑えられたのです。しかも、補償ではなく見舞金であるとする姿勢に貫ぬかれています。特に第五条は、その後の交渉を断つ契約の要となったもので、その不当性が後に、裁判で裁かれたわけです」

48 海を埋めつくす水銀残渣地帯

〇山上よりの烏撒図、海岸に広大な埋立地

〇残渣の山をのぼる元工場労働者、丁 通明氏とインタビュアー土本

〇スーパー”チッソ廃水残渣プー ル”

丁氏「(よじのぼりながら)・・・ カーバイトの残渣ですね。(土本「黒いのは?」)黒いのは変色しとるんじゃないですか? (土本「軽いですね」)ああ、まあこれも何年にもなっとるんですから、乾燥しますとですね、火山の溶岩みないにこうまあ、なるんですね。」

〇見渡す限り残渣の荒れた原、背後にチッソ子会社。丁さん、ある感慨をこめて

「ああー、環境破壊ちいいますか、もう・・・。前はですね、ずっとこれから遥か彼方五百米ぐらいのところまで五百米か・ ・・五、六百米のところまでがずっと海岸だったんですよ。で、このあたりはずっと・・・、あの川が、水俣川が流れとりましてですね。(現在の海と反対の地点を指さし)で、これから五、六百米むこうで、こう汐と水と合流・・・合っとっところあたりで、毎年、消防点検なんかもやっとったんですね。」

〇ひびわれたクレパス様のヘドロ、その深い割れ目にカメラ近づく

〇スーパー ”総水銀値、最高一四一・八四PPM(昭和四十八年熊本県発表) ”
土本の声「あなたの御考えでは、やっぱり総水銀というか、そういうものは、この中に含まれていたと思いますか?」

〇人気ない残渣プール上に二人

了氏「やっぱし・・・ ・含まれとることは事実ですね。ーということは、あの、こう会社の残渣とかトベとか、そぎゃんとの持って行き場がですね、他になくて、こういうやつと一緒に混っとるわけですから、それあ、量としては大したことはないと思うんですけど、まあトン当りに、その、何PPMかそりゃ分らんですけど、含まれとることは事実なんですね」

49 撮りためた写真を前に語る塩田氏

〇スーパー”写真家塩田武史氏ー忘れ去られていた時代”

〇自宅、雨の日、昭和四十二、三年頃の回想

土本「その当時、まだ患者さんたちはポツン・ポツンだったですね。今みたいじゃなくて?」

塩田氏「でしょうね。はい。・・・あの当時は田中敏昌、しのぶちゃん、それから中村さん、もう亡つなった人じゃ、嘉吉さん、坂本嘉吉さんとことか、もうそれこそ数えられるぐらいですね。(田中敏昌君の写真を手に) だけど僕は、その時、田中・・・敏昌っていう、その、胎児性の子供だけしか知らんわけですよ。」

〇敏昌君の写真、斜視を見開いたもの、草の茎のような四肢

「・・・まあ全然こう・・ ・ショックちうか・・・僕らが普通、”にんげん” っていうのは、もう歩けてね、御飯がひとりで食べれて、運動会でも走ったりね、そういうことは出来るわけですけども、全然そういう人間の感覚から言ったら、全然”にんげん” の姿をしてないわけですよ」

〇敏昌君の写真を指さし

「これだって、そのまあ、こう啖がつまるのか知らんけど、ぐうぐうぐうぐう喉をふくらしてね(土本「誰が?この子が?」)はい・・・」

土本「この子は確か飲み込みが失敗して死んだんでしょ?」

塩田氏「そういうことを聞いてますね。あの医者、医学的に言うとね。」

〇写真に囲まれた同氏の背より

「この田中敏昌君のそのお婆ちゃん、すわのお婆ちゃんって言うんですかね、あの人から”うちばっかり来ずに、その、他にもいっぱい・ ・・こういう子がおっとばい。そっちにいかんなー” ちうなことでね、その言われたわけですよ。で、それでまたびっくりしたわけですよ。僕はそう、その、こういう子供たちはね、まさかこんなにたくさん居るとは思わなかったわけですよね」

〇写真1 だだひろい漁家の居間にごろんと寝ている淵上一二枝さん。見守る母親の和んだような眼差し。

〇写真2 火のついたように泣いている一ニ枝さん

〇写真3 上村智子ちゃん一家。若い母が彼女をおぶって台所仕事、日常変哲もない生活の中の水俣病

〇写真4 テレビのある居間に六人の妹弟と一しょに父親に抱かれて、ある静謐さの中の智子ちゃんにカメラ・ズーム・アップ

塩田氏「・・・ で、その後、ぼくの行った(頃の)状況というのは、ある意味では、その、いわゆるほっと一息ついたところ、まあ言葉なんかでね、”あんたたちがいくら来ても、良うならんばい” ってようなかたちのね、話しかけっていうのですかね・・・。もう本当にこう諦めの境地っていうんですかね・・・。それこそ淡々とした、その、表情をやっばりしているわけですよ。まあ印象としては、もう・・・何かシー ンと、こう静まり返ってね、澄み切ってね、患者が本当にひっそりとね、奥の部屋でね、その、まあ、息づいているちゅうか・・・。その間に、その、船の音が・・トントントントンちうかたちで、その、聞えてくるちゅう。その、思い出してみるとね」

50 患者からの歴史

〇昭和電工鹿瀬工場のストップ・モーションに字幕

『昭和三十九年ー昭和電工鹿瀬工場の廃水によって、新潟・阿賀野川流域に第二の水俣病発生』

〇ナレーション

「第二の水俣病が発生しました。政府は阿賀野川にも、昭和電工の廃液が流されていることを既に知っており、この事態を予測出来る立場でした。会社は農薬説を主張し、その責任を回避しました。」

〇カメラ、阿賀野川に寄る

51 裁判に立上る。遺影を手に熊本市内をゆく患者(スチール)

〇熊本地裁に入る患者たち(ストップ・モーション) に字幕

『昭和四十四年六月十四日
二十九世帯患者家族 裁判提起
他の患者家族六十四世帯は
白紙委任状を出し、厚生省(補償処理委員会)に一任』

〇ナレーション「国の判断が出るまでは、チッソは加害者であることを認めませんでした。この裁判は、厚生省の断定をまって初めてそれまでの見舞金契約を破棄、責任ある補償を求めました。一旦忘れ去られた水俣病は、ふたたび、全国の関心をよぶことになったのです」

〇人々法廷に入ってゆく(音楽 刻むように始まる)

52 始めての国への抗議

〇写真、厚生省前に坐りこむ患者

〇当時の模様をのせた、機関誌「告発」とその上の指のクローズ・アップ。重なって字幕

『昭和四十五年五月十五日
患者家族上京し、厚生省に抗議
補償処理委では一任派患者に対し、見舞金契約を基礎にした低額処理を進めた』

〇ナレー ション「補償処理委員会は、それまでの一年間、極秘裡に補償案を練ってきました。その内容が死者二五〇万前後と知って、裁判中の患者は直ちに上京、抗議したのです。政務次官は、それを冷たく担否しました」

53 株主総会での責任追及の試み

〇大阪でのチッソ定例株主総会。患者は多数の支援者に助けられ、勧進姿で社長に対決

〇字幕『昭和四十五年十一月二十八日
企業の責任ある態度を求め、
株主総会で社長の水俣病に対する見解を問うー支援運動
全国化ー』

〇ナレーション「この年、水俣病の実態は、日本中に知らされるととになりました。有機水銀中毒の酷烈さも怠ることながら、この水俣病を十七年にわたって抑圧してきたチッソの企業責任が、じかに公然と問われるととになったのです」

54 霞が関 環境庁のある斤舎

〇字幕 『昭和四十六年八月七日ー
環境庁裁決により、狭かった
認定基準が改められ”水銀の
影響を否定できない者も含め”
認定されることになる』

〇ナレーション

「従来、水俣病の認定は、ハンター・ラッセル症候群のすべて揃った患者に限られていました。裁決はその審査基準を改め、救済の枠をやや広げたものです。チッソはこれに反撥、その後の患者を”新認定” 、あるいは”疑わしい患者”と呼び、機会あるごとに差別しました」

56 坐りこみの自主交渉とチッソの拒否つづく

〇チッソ本社の階段と入口に坐りこむ患者及び支援者。チッソ鉄格子をつくり一切直接交渉を拒否

〇字幕『昭和四十六年十一月一日”新認定患者”チッソに対し

『過去と将来にわたる患者の
命と健康と暮しと生殺しの
代償として一人三千万円支払
え(アッピールより)・・・
新たな補償理念を提示』

〇ナレーション

「その後、いわゆる新認定として差別された患者たちは、第三者の仲介で補償を・・・というチッソの処理方式を拒否、以後一年有余の坐り込み闘争に入りました。チッソは本社を鉄格子で閉ざし、交渉を拒否し続けました。」

57 新設された公調委への行動

〇閉された柵を越えて、公調委に入る人びと

〇患者たち、文書を調べる

〇字幕『昭和四十八年一月二十二日
公害等調整委員会、患者処理
機関として笠場、偽造文書
等を受理したまま事務処理を
急ぐ』

〇ナレーション

「裁判の判決を目前にひかえ、新たに作られた公害等調整委員会は、その処理にあたって、代理人方式を示唆しました。これはその後、委任状をめぐっての多くの印鑑偽造、文書偽造を惹きおこすことになりました」

58 水俣病裁判判決

〇数千の人々にかこまれて歴史的判決を待つ

〇決意をのべる患者たち

〇遺影をかかえ涙する家族たち(ストップ・モーション)に字幕

『昭和四十八年三月二十日
水俣病裁判は三年九カ月を費
して判決下る チッソの加害
責任を明示し、患者に慰謝料
の支払いを命ずる』

〇ナレーション

「この裁判は今までの見舞金契約そのものを違法とし、法的にチッソを加害者と確定し、慰謝料の支払いを命じました。患者は一七年間のつぐないとしてこれを受けとり今後の医療と生活の問題を次の直接交渉にもち越しました。」

59 チッソとの直接自主交渉

〇社長ら幹部と対決、今後の補償を求める

〇未救済の人々の解決に全力をあげる人びと(ストップ・モーション) に字幕

『昭和四十八年三月二十二日
患者家族「医療・生活保障
の加害者負担の原則」を求め
判決後ひきつづきチッソと直
接交渉・・・三ヶ月後一応の協
定なる』

〇ナレーション

「裁判、そしてこの交渉に辿りつくまでの二十年間に、患者たちは幾派にも分裂させられてきました。しかしここに得た補償のレベルは全患者に及び、また、潜在患者が訴えやすい状況が、この長い闘いで始めて切り拓かれたわけです」
(音楽 やむ)

60 地図上、患者発生の歴史的推移

〇昭和二十八年より年次毎に表示、解説につれて社会的影響にかたく結ばれながら推移した患者発生のメカニズムとともに、最近の数年、爆発的に増加している患者数とその広汎な汚染地帯を示すものである。

〇ナレーション

「ふりかえると、発生当時、水俣病は、水俣湾周辺の漁民に限られていました。
昭和三十一年、水俣病を公式に確認・・・
昭和三十二年水俣漁民は廃水に抗議・・・
しかし工場は翌三十三年、排水路を水俣川に変更、以後他地区にも拡がります・・・
三十七年、胎児性水俣病一六人を確認・・・水俣病は一旦、忘れ去られ・・・・・
魚中心の生活はまた、復活します・・・
ここ数年間殆んど認定の動きはありません・・・四十三年、厚生省、原因公表
四十四年以降対岸の島々の患者も明らかになり不知火海全域に拡がりました・・・・・
昭和四十九年九月現在、認定患者七八八人、申請中の患者約二六〇〇人・・・
今なお毎月約七〇人の患者が申請しています」

61 再び田中アサヲさん宅、病状固定の典型例、田中実子さんの場合

〇実子さんのクローズ・アップ

土本の声「・・・ お母さんから思われる・・・ こう動作なんかでね、それと全然ここだけは変らんというのと・・・」

〇母親、実子さんの手をさすりながら

「こんなふうにしてですね、もうこりや食べ物ンじゃって知っとるばってんですね、食べ物ンに手をやらんしですねぇ。自分で何かとって、たべて口にやろうかちゅう・・・、それが無かったですよ。他の事はですね、こう大分あげんしてきた(だいぶ分かるようになった) ごたるばってんがですが、その点はもう全然なかです。そいでこう何かこう、”母チャン!”ち言いそうなふうにして、わたしを見るようなあれ(気配が)あるばってん、それもでけんし・・・わたしは、なんか、こう食い物ンとって口にやればですねえ、私もほっとするばってんですねえ」

〇喜色をたたえている実子さん。卓上のミカンを土本とって一示しながら

土本「例えば、こういうものをむいてですね、この手に持たせてやるでしょ、(はあい)それでも口に持つてはいかないですか?」

アサヲさん「もっていきません。手はふっちらけっていっちょくですもん・・・ 。そっで、把らうでちせんですよ、全然。(土本「力もないわけですか?」アサヲさん、いやいやと否定して) ちからあっですよ。近頃ですね、わたしが何でも早う喰わせんとですね、ちょっとこうテレビをこう見てしとればですね、こうグアーシと(押して)くるとですよ、”早う喰わせろちゅうて・・・ ” (実子さん、声をたてて笑う。話の分る風情・ ・・)そんで、眼ンまるくしてですね、わたしにつかみかかってくるとですよ」

〇実子さんの二歳位の時の記録(昭和三十一年)、両足で立っている 十六ミリ白黒、徳臣氏のフィルムよりー

土本「お母さん立たせてみてくれます? 」

62 窓辺まで、母親が介助すると両足を交互に運ぶが、すぐすわりこもうとする。
アサヲさん窓外を見る。漁船の音・・・ 「きょうは大ちゃんが、ほらあすけに、大ちゃんはおっと?立とい、立とい・( 「ガラー ッ」と窓を聞ける音) ・・・・よいしょ!・・立っとらんばってんですか? ・・・大分、大きくなったどけですばってんなあ・・・何処おんな? 大ちゃんは・ ・・ かずまさはおらんとね(一生懸命立たせようとする) かずまさ、あすけにおるじゃなかなあ、かずまさねえ、おらんね・・・ ほら、こうしてすぐ坐らっとですよ」

〇再び旧フィルム、椅子にすわって指をしきりにこする幼児期の実子さん

〇窓辺にすわりこんで、無意識に指先をこすっている。アサヲさん彼女の眼のわきに、手をもっていって振る。全然感応しない。

アサヲさん「やっぱりですね、あのこげんところ(註・視野の周辺部)は全然、こげんしたつとこ、こう、いっちょも分った気がしませんと・・・ こげんところはですね、ここに(手のひらで眼の真前を)こげんしてせんば、またたきやせんとですよ。もうほんと、まっすぐしか見えんですねぇ。」

二十歳になる。着付けの人と母親の手で初の盛装をする。女らしい感覚があふれている。
「ポーン、ポー ン・・・」と時計の音。

着付けの人「女の子はやっぱりきれいな着物を着んならんばですな」

〇実子さん興奮する。よだれが出る。
母親すかさずふきとる
「あつ、猫、来た・・・」

〇着つけ終り、記念写真をまって椅子に坐る実子さん

女たちの声「色が白いからよく似あうよねえ。・・・肌がきれいで!・・・実子ちゃん!」
実子さん、一声 張りあげて笑う。

64 今日の汚染海域、案内する渡辺栄蔵さん

〇海の浅い岩場に魚影が光る。走行中のエンジンの音

渡辺老人の声「こういうイオ(魚)がな、大体もうここにはもう、ずっとまわってくるやつですもんなあ、それが今じゃ・・・三十四年当時はもうこういうやつは・・・その、見ろうとしたっちゃ見れんだったわけな。」

〇水俣湾に一隻の漁船が魚をとっている

〇スーパー”汚染魚捕獲(水俣湾内)”

渡辺老人「・・・ この頃はやっぱりもう、いくらか海がきれいになっとるけん、こいつどもははいってくるわけですな。」

65 今日の水俣湾の水銀汚染状況データ

〇喜田村正次氏のスライドによる解説

「今この辺で計りますとですね、乾燥重量でこれが、大体二十(PPM) 近くまで出ています」

〇図の上で危険区域の線がひかれる。そのボーダーラインの個所を示し

「それから、これ、この線ですね、この線が・・・・だいたい今、ここがあの二十五、二十五の線です。二十五PPMです。・・・こういうところから見ますとね・・・それでまあこの辺(排水口附近)はむしろ逆に昔に比べて低くなっているわけです。ですから、との潮の満ち引きその他でですね、結局昔、ここの局所的に高濃度であったやつが、ずつとこう、外面に押し出されていると。」湾内のヘドロが湾外に拡がったことを手ぶりではっきりと示す。

66 再び 水俣湾

〇汚染魚捕獲船の船上、漁師が処理する魚中大きなすずき、かれいをもち上げて誇らしげにカメラにポーズをとる

〇船床には驚くほど多くの魚種、ぴんぴんしている。すべて定置網にかかった魚である。

渡辺老人の声「あああ、こういうふうにして、今、今ごろになって獲って、プラスチックずめにして捨てるってことはなあ、ほんなこて・・・それ以前に、そのちゃんと、そういう・・・事をしとかにゃいかんわけですよ! こういうことをしたからちゅうて、これが役立つならよかですが、これは役たたんですよ! ・・・なんかこう・・・つん殺してしもうてなあ、捨ててしまうというととは本当に!」

〇魚のアップ。ふぐがふくれてはねる。

老人の声「・・・魚だって、やっぱり生まれてきて・・・ 生まれただけ何の甲斐もないというようなことで、あの世に行ってしまうと・・・いうような事じゃなかろうかなあ」

〇定置網のブイに沿って渡辺さんの船走る

「魚にもボスがおっとだろうと思うですなあ、いっちょ行けば、それについていってしまう。・・・あのタレソっていう、あの細かなダシに使う魚ですなあ、あれでさえも、ひとつの穴があれば、何石つてはいったやつが、まだ網あげんさき・・・、それから出てしまわけですよ。たいしたもんでしょう、これは! 彼らが習性というもんは、人間業じゃでけんとたることば、すっとじゃけん!」

声、勝誇ったごとくである。

67 干潮時、夕暮の百間港、ヘドロがその堆積をすべてさらしている
渡辺さんの船、吃水ぎりぎりまで入り、五米以上の竹竿でヘドロの底を探るが、どこまでも届かない。竿、水面下に没してもまだ入ってゆく。

土本「手首まではいっちゃう・・・」

渡辺老人「まだはいっとだけん! ・・・」

土本「上げてみましょう」

〇竿、吸いつけられて上らない。ようやく引き上げた竿にべっとりとコールタール様のヘドロが附着している。皆顔をそむける。

漁師「臭いなあ」

老人「こういうことですけんなあ!」

土本「前はどんな風でした?」

老人「前はですな、まだまだひどかったですよ。そこのガスの前(工場排水口の出口付近) どまですな、そのガスの前・・・豆腐のごちゆらゆらしてですな、そして、(土本「ああ、くっ着いて?」)いやいや、こう底を見て、見て分っとっとですよ! そしてその割れが、地震の割れのごたるふうですよ、割れが・・・。そしてその割れがこうゆらゆらして・・・。豆腐のごたる風でな。色は豆腐のごと白うはなかですたいな。」

〇ヘドロをすくいとるため、バケツを抛りこむ。何度もくり返す

土本「そっちのバケツとれた?」

有馬「まだとれない」

老人「それがここばかりでなかわけですなあ、(ここ一帯)ずっとだけん!」

〇舟頭さんが要領よくすくい上げる。真黒なヘドロが悪臭をはなつ。

土本「一寸、手でつかんでみて・・ ・どんなもの?」

有馬、手でつかむ「ぬるぬるする、いやあ!昔はまだ色が着いとったつでしょ?」

老人「ああ、まだまだ。そぎゃんして手で握りどまされんとだもん! それいじったばかりで病気するとたる気持のする!」

土本「結局、これはもう全部埋めてしまわなきゃ駄目ですね」

老人「あー、全部これば埋めんことにや、申しわけ的な事どんしよるなら、もういつまでたっても同じことですなあ!」

68 日没時、黒いヘドロの光沢の上に船影と人かげ、ズーム・バックすると一面のヘドロの模様が限りなく拡がっている
(音楽、深沢七郎のギター曲)

69 エンド・マークに代えて字幕

『医学としての水俣病』三部作
資料・証言篇 昭和四十九年一〇月

70 ついでクレジット・タイトル

製作 青林舎 高木隆太郎

スタッフ(五十音順)

浅沼 幸一
有馬 澄雄
石橋 エリ子
一之瀬 紘子
一之瀬 正史
市原 啓子
伊藤 惣一
大津 幸四郎
岡垣 亨
小池 征人
清水 良雄
高岩 仁
土本 典昭
成沢 孝男
淵脇 国盛
宮下 雅則

音楽 
深沢 七郎 
松村 禎三

協力 
塩田 武史
佐藤 省三
江西 浩一
渡辺重治

水俣病研究会
水俣病を告発する会
新日本窒素労働組合
熊本日日新聞社

線画/青映社
機材/記録映材社・東京シネマ新社
録音/三幸スタジオ・新坂スタジオ
現象/T B S映画社・東洋現像所

青林舎 事務所
米田 正篤
重松 良周
佐々木 正明
飛田 貴子
長 もも子
(音楽 終る)
(上映時間一時間二十二分)

採録責任
土本 典昭
一之瀬 紘子
岡垣 亨
有馬 澄雄

〔註〕

細川一氏(一九〇一~一九七〇)
水俣病の発見者・研究者。内科医としてチッソに二六年間勤めた。水俣工場附属病院時代に水俣病を発見、汚染源企業内医という悪条件の中でその原因を追究し、一時は会社幹部から事実上実験を中止されたりしたが、研究をつづけ独自に「水俣病の原因は工場廃水中のメチル水銀」であることを明らかにした(熊大入鹿山教授の成功とほぼ同時期の三十六年末頃)。最晩年、水俣病裁判で、猫四〇〇号実験(三十四年十月、酢酸係廃水の直接投与実験で発症) を中心にそれら未公表研究について証言した。

ハンター・ラッセルの報告
イギリスの種子殺菌剤製造工場で起ったメチル水銀中毒について、ハンターらが報告した四人の臨床記録(一九四〇)と一人の剖検記録(一九五四) をさす。武内教授によって、多くの文献の中から捜し出されたハンターらの報告が手懸りとなって、研究班は”メチル水銀” が水俣病の原因物質であることを追いつめていった。

汚染魚問題
三十五年当時から湾内ヘドロの危険性は指摘されており、行政の課題とされたが、今日に至るまで何の対策もとってこなかった。最近の調査によって、ひじような広範囲にヘドロが堆積しており、水銀含有量もきわめて高いことが明らかとなり、二次汚染が問題となった。が、結局とられた対策は、湾内を網でし切って(航路用に二五〇m開けてあるが)、網の中の魚を汚染魚…として、週二、三回獲って捨てるだけの現状である。