1 字幕「青林舎作品」
2 浜辺の岩膚を見る老漁夫ひとり、背景に恋路島。カメラ、ズームで寄る
スーパー”水俣湾・月ノ浦ー昭和四八年十二月ー”
(註・最初の水俣病発生地点)
〇濡れた岩膚にまばらにカキが附着している。
老漁夫、田中義光さん(註・一家とも水俣病患者)つぶやく「・・・もう、カキは増えておるですね・・・もう、この調子ならば、まあ、二年ぐらいしたならそうとう増えますよ。」
〇汐潮の浅瀬に光る稚魚の群、鱗がキラリ
(タイトル・テーマ音楽始まる)
3 メインタイトル
不知火海
(音楽やむ)
4 汚染魚の始末
〇漁村茂道部溶から二隻の漁船が出てゆく。カメラに手をふる老漁夫
ナレーション「三日にいちど、茂道から漁師は船ででてゆく。もっぱら水俣湾の汚染魚を獲り、処理する仕事のためである。水俣での漁は、いま見ることがない。そのためか、湾内の魚はむしろ増えているという・・・。」
〇荒れた海、上下にゆさぶられる船
〇汚染魚を囲いこむ定置網用のブイが並んで浮いている。
ナレーション「水俣湾のヘドロは、水俣病発生以来二〇年、そのままである。ーようやくとられた対策は、魚を獲って捨てることだけである。」
〇網が上げられる。一見普通の漁と変らない。
〇日章旗をたてた海上保安庁の巡視船、その甲板に学者や役人たち。寒風の中で、その豊漁ぶりに嘆声をあげている。
スーパー”水産庁・汚染調査検討委・定置網視察(昭四九・ニ・二四)”
ナレーション「この日、水銀問題の権威ある学者らの視察がおこなわれた。(注・東京医科歯科大上田教授、新潟大椿教授、神戸大喜田村教授らの顔が見える)ー所用時問、三〇分。これは水俣湾の汚染魚処理を参考にして、全国各地で、この種の対策をたてるための現場視察であった。」
5 魚の状況を説明する漁夫たち
〇網に大物のすずき、かれい、たこ、ふぐ、このしろ等がかかっている。元気にはねる音、呼吸する声
〇接岸した地点で、甲板上に魚をならべ、その身をひらいて説明する漁夫
「これがチヌ、これがフグ・・・(質問の声「それは」)」
〇大きなカレイを手に
「これで五キロですね。(「五キロ」)五キロです。値段にして、一八〇〇円(註・キロ当り)ぐらいですから、キロの・・・。大体、九〇〇〇円、九〇〇〇円ですよ。これ、一匹が九〇〇〇円。熊本だったら、これだったら、ええと、一万三〇〇〇円ぐらいしますよ。」
〇腹をさいて、胃袋を示す
「この中にいっぱい小魚がはいっとったんですよ。それが出てしまったんですよ。さいぜん、こう、上にあげた途端にですね、ショックでね。(身ぶりを加えて)があがあ、があがあ吐いてしまったんですよ。・・・これ、何も胃潰瘍もなにもありません(といって、胃袋を調べ)ちょっとこれやっぱ、潰瘍がありますね。(指で示し)潰瘍がね、潰瘍があるですよ。(役人の声「田中さん、詳しかねえ」)ー潰瘍がありますよ。」
〇別のすずきを割き、腹を開く。その傍らで説明、やすみなく続く。
「あの、チヌがですね、この前、こんな大きなチヌがおったんですよ(両手を一ぱいにひろげる)そいが痩せとったんですよ、ものすご。・・・それを私がね、こう中を割いてみましたところが、潰瘍が、あの、胃袋をつき通してですね、そしてこの身の中に潰瘍がはいっとった、肉に。この腹膜に潰瘍がはいっとったんですね。それで痩せてしもうとったつです。それで(魚を指し)すずきでも、これは痩せとるんですよ、太ってないんです、これは・・・。」
〇工場を背景に、水俣湾をしきった汚染魚の定置網のライン。
6 不知火(八代)海・有明海の汚染魚分布図
〇研究データをもとに水銀汚染の魚類分布を解説する医学者
スーパー ”武内忠男氏(熊本大学、病理学)ー元「第二次水俣病研究班」班長ー”
〇図を示す手もとのみ
土本の声「ここが水俣ですね。」
武内の声「はい。」
土本(以下略)「これはいつの調査ですか。」
武内「これは昨年、すなわち一九七三年八月ですね。」
土本「(丸印を指し)この印は最高値どのくらいまでの・・・・・。」
武内「ええ、この丸いのがですね、ええ、一〇検体、すなわち、魚一〇匹の平均値をあらわして、〇・三PPM以上の魚を示すわけですね。多いのは一PPMを越えとるわけです。そういうものは水俣(湾)に集中しとりますね。それから、水俣湾の外にもあるということですね。」
土本「(水俣沖を示し)いま、この辺でですね、天草の人は漁を現業しております。」
武内「ええ、それは非常に危険だということです!というのは、私が先ほど申しましたようにですね、ここでの、これだけの水銀値(註・〇・三PPM以上)があるということは”慢性発症”につながる可能性があるという風に言っておりますので、もう少し遠い処から獲った方がいいということですね。」
土本「(角印を指すーこれは天草、獅子島等全域に散在する)この四角ですね、これは?」
武内「それはですね、(註・魚の)一〇検体の平均が〇・二から、〇・二九九までと・・・すなわち〇 ・二PPM台のものの集まりですね・・・が、それだけあるわけです。かなり広範囲に・・・・・・。」
土本「全域に拡がっていますね。」
武内「はい、(北方の海域も示し)それは不知火海だけでなくて、有明海にも、そういう高い水銀値を示す魚がいるということです。・・・それから、この三角(印)の方はですね、三角の方は、〇・一PPM以上のものを表わすんですけど、かなり広範囲にある。しかもいまのこのマークをつけた〇・一PPM以上のものが、八代(註・八代海、つまり不知火海)ではですね、一、〇六八検体の約三割を占めるーおるということです。」
土本「はあ、全部調べたうちの三割が・・・・。」
武内「はい、三割がこのマーク(註・汚染魚)にはいるわけです。」
7 汚染魚を海に返す漁師たち
〇舷側から、スコップで次々に魚を海にほおっている。
ナレーション「この汚染魚は本来、タンクにつめられ、ヘドロ埋立のとき、一緒に埋めこまれることになっている。しかし漁民は、秘かに海に返していた。」
8 チッソ会社の歴史と水俣病
〇梅戸港(チッソ専用原料港)よりパイプ・ラインが民有地の畑をこえて工場につながっている。眼下に工場全景を俯瞰する山の上
土本の声「七〇年前にですね、この工場ができて、まあ長い歴史の中で水俣病を生んだわけですけれど、あの、あなた内部のね、工場労働者として、どんな風にみておられますか。」
〇工場労働者と土本
スーパー ”山下善寛さん(チッソ水俣工場労働者)”
「チッソの前身の曽木発電所ですね、それはあの鉱山関係(註・大口鉱山)に電力を供給するためにできた工場ですね。それが余った電力でもって、カーバイドですね、そういうやつをつくるために、まあ、旧工場(註・明四一・日本窒素肥料株式会社)ができて、でまあ、それを主体にして、ええ、肥料ですね・・・硫安工場が出来たわけですね。・・・で、その頃から、まあ、非常にこうチッソというのは儲かって、まあ工場がどんどん大きくなってきたわけですけれども、ま、一寒村に、チッソというですねー現在のチッソですけれどもーもとの新日本窒素肥料株式会社ですねえ(註・昭二五・企業再建整備法により、第二会社として設立さる)。」
〇旧工場全景写真、駅前から田園をへだてて海側に工場。
(註・「日本窒素肥料事業大観」より)
「・・・それが出来たということで、その農業をやってて非常に困った家庭なんかですねー漁民とか農民のー非常に困った家庭が工場に勤めるという歴史ちゅうか・・それがあるわけですね。」
〇旧日窒時代の製品群(註・事業大観より)カタログ風にーアンモニア肥料、硫化燐安、硫燐安、ダイナマイト、旭味、不燃性映画フィルム原料、人造宝石、各種ベンベルグから、最終製品としての受話器本体からベークライト製の各製品まで、戦前の流行の尖端をいく製品の原料となったことを示している。
それに重ってー
山下さんの声「・・・だから、始め、チッソの労働者として働きにいくのは貧しいとこの子供だという風な言われ方をしとったわけですけども、それが、あの、現金収入というののやっぱ強みで、会社につとめる労働者が、今まで軽視されとったけれども、非常に羨望の眼で見られるという状態のなかで”会社いき”の地位というのが上ってきたわけですね。(工場のサイレンが背後に流れる)・・・それを中心に、チッソというのは、まあどんどん発達して来たわけですけれどもーまあ、日本の資本主義の発展の過程と非常に似ているちゅうか・・・それをそのまま地でいったーという感じのする工場だという風に思うわけです。」
〇話しつづける山下さん
「・・・で、まあ、(明治)四十一年に水俣に工場ができてよそから、その利益をどんどん他所の方にー水俣だけじゃなくて、よその方にもですね、出していくという発展の仕方をしてきでいるわけですね。で、八代の鏡工場(註・大正三年建設)なんかも造ってきましたし、水俣でもうけた利益をー肥料でもうけた利益をですね、朝鮮工場ですね、まあ朝鮮の興南工場(註・昭和二年建設に着手)なんかにも、どんどん注ぎこんで、当時、東洋一という工場を造ったわけですね。」
〇「事業大観」の第一頁、創始者、野口遵の案内で工場行幸中の天皇裕仁の写真
〇字幕、「事業大観」の見出し”朝鮮に於ける事業”
〇以下、部落の原型をとどめている興南邑、漁村風の家々と風俗
〇「土地買収には警察官が立会った・・・」と明記する説明文と写真等、朝鮮への企業進出を物語る写真資料(註・すベて「事業大観」による)
山下さんの声「まあ(註・この事業は)チッソ独自という(によりも、日本というですね、国家をバックにして、まあ、朝鮮に乗り込んでいったーちゅうかですね、そういう意味では、国営工場みたいなことでーええ発展していったという風に思うわけです。で、特に朝鮮工場ー興商工場なんかを造る場合にですね、土地買収なんかについては、日本国から派遣された大使あたりがですね、立会ったーと、で、二束三文に土地を買上げていったり・・・。」
〇字幕 ”赴戦江発電事業”(音楽はじまる)
〇巨大な水力発電用ダムの大ロングの写真
「またダムなんかを造る時にですね、非常に多くの人達が死んでいったという風に言われておりますけれども『人はいくらでもいる』ちゅうかですね。届け出用紙を何百枚も用意しとったということを考えてみてもですね・・(土本「死亡届けを?」)・・・死亡届け用紙を何枚でもチッソは準備しておったと!」
〇大発電室及び「興南工場」の主力設備、及び完成予定図の全景(「事業大観」より)
「・・・それだけの事をやってきた背景というのは、当時、戦争がですね、始まる前の日本が、富国強兵策でですね、どんどん外国に出ていったー非常に強大な力をもったところと、まあ、チッソが結びついて発展してきたとー軍需工場としてですね、発展していったということがあれだけの大きな工場になったですねー東洋一といわれる工場を築いていったというところにあると・・・。」(音楽終る)
〇再び工場裏山で語る山下さん
「まあ、こういう絶対的な支配の下にですね、”生産第一主義”でその”安全無視”という発展の仕方をやってきた結果がですね、まあ今日の、あの悲惨な水俣病を生んだ・・ということができると思います。」
〇望遠レンズで工場内のアセトアルデヒド工場を探す山下さん。その照準地点をのぞく土本、カメラ、その一画に寄る。
山下「いまは、・・・・アルデヒド・タンクになっておりますね。その少し上ですね。」
土本「・・・とこのブロックは殆んど水銀を流しつづけたブロックですね。」
山下「はい、ここは水銀関係ですね。」
(注・昭四三年四月、五・六期アセトアルデヒド工場稼動停止、精溜塔の廃跡が残っている)
〇製品つみ出しヤードを眼下に語る山下さん。労働者が貨車へのつみこみ作業をしている。
山下「(註・水銀を)昭和四三年までですね、チッソは闇で流してたと言う風に言われてますね、はい。」
土本「現場の労働者もはっきり、それを知っていて?」
山下「それは、今度の水俣病のですね、裁判の証言(註・昭和四十七年、元工場労働者証言台に立つ)なんかでも明らかになったわけですけれども、サイクレーターを造ってですね、あの、対外的には廃水処理をしてるんだと、いう風なことをいいながら、水銀がなかなか除去することがむつかしかったために、そのままですね、流してたとー。残渣プールなんか通さずにですね、流してたと。また一旦、残渣プールにもっていっても、またこっちにもってきてですね、工場内から流してたという風にいわれてます。」
〇熱風の舞上る工場建屋のかげろうを透して市街が見える。
9 急性症状の患者の新発生(註・昭和四十八年九月、発病)
〇粉雪の舞う渇堂の繋船場、魚網に雪
〇袋湾に接する高台の家。一台の車。
ナレーション「ここは患者さんの多い湯堂である。最近、ひとりの青年に、口がもつれ、足がひきつるなど、典型的な水俣病の症状がひと晩のうちにあらわれた。」
〇居間、姉の遺影(故坂本キヨ子さん)を前にすわっている青年
スーパー ”坂本登さん(水俣市湯堂)申請者号二四七四”
〇医師の診断と医学的判断が語られる
スーパー ”話・原田正純氏(熊本大学・精神神経学)”
「・・・非常にこの坂本君のケースでね、・・・まあ、疫学的には問題はないわけですねー水俣の漁師の息子で、しかも姉さんは急性激症型で死んでいて、両親は水俣病だと。ただ彼はひじようにこう、若かったんで、元気でね、仕事をしてて・・・。」
〇海沿いの道をゆく坂本さんの自家用車、それをつけるカメラに原田氏の話重なる
「・・・それがその、ある日ね、突然、この・・・症状が悪化したという・・。これはねえ、私たち医学者にとってはね、水俣病を研究しているものにとっては大変なショツクなんですよねえ!・・・まあその、何故そうなるかということに閉してはね、未だ充分に説明できないんだけれども事実としてこういうことがあるというのは、この、大変な事だと思うわけですよねえ。」
〇車にのるところからの動作、左足をひきづってシートにのりこむ坂本さん
土本「そうやって手でこう足・・・介添えしないと場所(註・クラッチ)に置けませんか?」
坂本「(完全な構音障害でどもる)おき、おき、おき、置き憎いな。て、手をもっていかなきゃ。」
〇車中、左足を左手で吊り上げてクラッチにおき、又はなす。
土本「あの、踏む力はどうですか?」
坂本「ふむ、踏むちからは、・・・踏んでしも・・・しもたら・・そうはない・・・けど、ふむ、ふむまでが・・・やっぱり、手を添えにゃならんな・・・。」
土本「ブレーキなんかの方・・・あれは大丈夫ですか?」
坂本「(動作をしつつ)ブレーキ・・・右側の方はもう・・なんともないけれど・・・な・・・。ひだりの方が・・・やっ、やっぱり、あの・・・クラッチ・・・踏み・・・いかんな。手を・・添えてやらな・・・。」
土本「信号なんかで変速する(クラッチ操作)ときは?」
坂本「・・・」
土本「あの・・・どういう風にしますか?」
坂本「信号なんかの時は・・・へん、変速はもう・・・とお・・・・遠くからもう・・・ブレ・・・ブレーキには足をのせとるで・・・(土本「ははあ」)だけど・・・左の足はもう・・・あれやな・・・もう・・・信号は・・・変わるいうときはもう・・・早うから、のせるなあ。」
〇数種の交通安全の御守袋がフロントに。
〇国道をおぼつかなく運転していく坂本さん。部落の道にカーブする際ごとに、左足を手で持ち上げる。
原田氏のコメント
「で・・・症状全部揃っちゃっているわけです。それはもう・・・・ハンター・ラッセル(症候群)全部揃ってるわけです。ただ、その知覚障害がね、軽いけども左右差がある、つまり中枢性の知覚障害がひとつある、と。まあ今まで、悪くなった患者にですね、あれは老人性変化だとかね、高血圧や循環障害が合併したんだという考え方が非常にあったんですけども、たしかにそういうケースもあるけども・・(註・高年令層の患者で、水俣病の症状が潜在しながらも、片麻痺の症状がそれをマスクしている場合、老人性の循環器系の疾病と説明できるとして、棄却もしくは保留あつかいのケースが多く見られている)彼は若いわけですよ!ああ、全部揃っちゃってるですねえ!」
10 青年期をむかえつつある胎児性患者
〇患者の自宅の一室、小刀で工作している患者に話しかけ、介助している女性(註・水俣で移動診療を自主的につづけている医療・看護工作者)
スーパー ”胎児性患者(十七歳)と堀田静穂さん”
〇郵便箱らしいものを作っている。
ナレーション「この少年は昭和三十一年生れ。母親の胎内で有機水銀を浴び、生れながらの水俣病になった。いま十七歳、青年期をむかえている。」
〇堀田さんの質問に応えるかたちで会話している少年、言葉は全く出来ないが、身ぶりで応答する。板の切り方を間違える。
堀田さん「それでいいの?(少年「うん!」)じゃ、どこまでこっち側?(二枚の板を比べ)こっちとこっちとハバのちがうがね、よかね?(物指しを当ててやって)こん長さじゃたろ?ハガキはこう・・・、でどっからその長さば計った?ここだけ計ったろ?ねえ、一光君!で、ここば切ってしもたらどこば長さ切っとね・・・これ、高さじゃねえ(遠慮なくずけずけと長さ、巾、高さのメドを教えている堀田さん)これ、ハガキの高さじゃね?そんならこん巾は・・・。」
〇祖母が黙然とこたつに居る
11 彼についての回想
〇窓外の不知火海に十数隻のうたせ船が、帆を両翼ひろげた白鳥のように群れている。明水園の一室である
〇一光君、車椅子をのりこなしている。
堀田さんの声「・・・四四年の秋に、水俣に来たわけなんですけれども・・・(湯之児の)リハビリテーションの二階にね、二階の水俣病の子供たちの室に・・・あの、病院のひとから案内されたとき始めて会ったんです・・・四四年の秋からのつきあいです。その頃、こんなに大きくはなかったのね?もっと小さかったし・・・腕なんかもすごく細くって、ひ弱わだったんだけど、こんなに大きくなって!(明るく笑う)」
〇幼児期の一光君、病院の一室で蛙とびのように腕だけで動きまわっている
スーパー ”昭和三十六年(五歳)熊本大学医学部撮影”
〇少年期の一光君 特別教室で教師に何事か語りかけている身ぶり
スーパー ”昭和四十五年(十四歳)”
〇この過去のフィルムに重なって、堀田さんのコメント
「・・で、あの、一光君は、自分で言葉を言えませんから、私たちが聞き取るとき・・・何を言ってるのか、こちらから質問の形でしか、こう話を聞き取れないんですよね。だけどあの、聞き取っていこうとすれば、相当、いろんなことを、あの、前から話すひとでしたし、すごく表現の豊かなひとでした、このひとは!小っさいときから・・・。」
〇弟に背負われて庭先の便所から帰ってくる一光君
「・・・だから・・・首を振ったり、手を振ったり、私の頭をひっばったり・・・どうかしたら咬みつかれたりして、自分の言いたいことを言ってたんです。」
12 彼の当面の主張ー車椅子ー
〇再び室にもどる。患児、紙に何か描いている。その彼に問いかける堀田さん
「ねえ一光君!どうして車椅子が、車椅子がそんなに欲しいの?ねえ?(一光君「ウウウーン」)自分で運転したいの?ねえ?自動車の方がいいと言いよったけど、始め・・・。やっぱ車椅子の方が良かった?(一光君大きくうなずく)」
〇紙の上に車埼子らしい円や四角の図形
堀田「・・・そう・・・で、うしろの車(輸)を小さくするの?(「ううん!」・・・ああ、これが後の車ね。これが前の車ね・・・坐る所がないよ、これ?」
〇二人でむきあって真剣に話しあっている
堀田「・・・で、この前(明水)園のひとに言ったの?車イス・・・(一光君手を横に振るーノー)止めたんでしょう?(ノー)けんかしたの?言いあいっこしたの?( 一光、肯ずくー)駄目になった?ああ駄目になったのね(・・「うん」)明水園の中では(今ある)あれで良いんでしょうもん?あれでいいから二台目は駄目だって?(肯ずく)ああそう!あれが壊れてからと言われたんでしょう(笑う)・・・一光君はでも、おうちのが欲しいといいよったんじゃないの?それで、おうちで使うっていったの?(「うん」)言った?話したわけ?誰に?事務長さん?(ノー)小島さん(ノー)誰れに・・・。」
〇一光君両手でめがねのしぐさをする
「めがね?めがねって誰いるかねえ・・・うーんと庶務のひとね?(ノー)ケース・ワーカー?(大きく肯ずく)ケース・ワーカーに話したの?(「うん」)永野さん?(「うん」)湯之児(註・リハビリ・センター)のケース・ワーカーに話したの?(「うん」)そう・・・で、解ってくれんだったの?解ってはくれたの?(ノー)ねえ解ってくれたけれども・・・無理だって?(大きく肯ずく)またとってくれることできんって?(肯ずく)」
〇一光君、紙の端に字を書く。読みとる掘田さん
「数字?(「うん」)・・六・・・四・・・二・三?・・ロクヨンサン?何?」
〇一光君数字の上を指でさしつづける。
堀田さん「番号?( 一光君、自分の鼻をさす)・・ああ僕の・・・僕の何ね?・・・ぼくの家?(紙の図を叩く)・・・ぼくの車椅子の?ぼくの車椅子の・・・ねえ!値段・・値段!(「うん」)そんなにするって・・・だから駄目だって?ああそう・・・・・でもその位・・・・・・六万四三〇円ね?ねえ?(一寸びっくりする堀田さん)」
〇一光君、話が佳境にいって興奮してくる
〇両手をつかい上半身をふりたてての応答である。
堀田さん「(からかい気味に)・・・・いわれるの?皆に・・・・駄目だって!・・・やってみる!何回も!(一光君、気を昂ぶらせる)いまから先よ?(「あーあーん」)・・そう、ほんと、じゃあ、頑張れ!(要求するぞという顔付で引しまった表情の一光君)誰にするの?誰か分らんの?・・・・・自分でする?ねえ、(工場の正午のサイレンがねえひぴく)・・・」
〇堀田さん、スタッフに話しかける
「・・・誰かに車椅子をまだ要求しつづけてみるそうです。(一光君、きッとしている)どこに?ケース・ワーカーに話すの?(一光君大声をあげる)・・・大丈夫、ねえ!めがね大丈夫?(一光君指でO・K サイン)・・・OK ってねハハハハ(力づけるように)やってごらん!それじゃ・・何回でも!・・・でも、園で使うんじゃないという話もしたね?(「うん」)してみた・・・お家で帰ってから使うんだって・・・してみたの?(「うん」)・・・永野さんによ!本当!それでも駄目だった!( 一光君しょげ返る)本当ね!何か方法考えてくれんだった?(柱時計が十二時をうつ)・・・指導員には?(ノー)駄目だった!・・そこからもう一度する?(一光君、突然輝く眼になる)やってみるの?そう・・・来年やってみるわけ!」
〇二人の間の話つづいている。それに堀田さんの話かぶさる。
「・・・この人はそうあらわさなかったけれども、他の子供たちは・・・異性に対する感覚のあらわれというのも、既に十二・三歳の頃から、・・・湯之児病院のみんなの子の中で育つし、良く解ってたんですね。何ていうか・・・からかわれることから、おそらく教育されたのかも知れないんですけどね・・とくにあの、何ていうか・・・女の人にー特におとな(の女)に興味をもってですね、あの随いて歩いてましたもんね・・・あの頃から。(註・看護員の)おばさん達がおっしゃってたんですけれど、お風呂なんかはいってる時ですね、こう裸ン坊になってすって(洗って)もらっおんてるんですね、その時に、あの・・・”おばさん!俺にも嫁ごばさがしてくれんな!”というような話をしてるわけですね。で、おばさんたちの方もびっくりしちゃって・・・おとなもう全く・・・躰は成人になって来てるわけですよね、男の子は・・。で、気味が悪くなってとびだしてきた、なんて話を時々される位に・・・敏感になりつつあったんです・・・・。」
〇何故か喜色をうかべる一光君、よだれがしきり口もとから流れ、ひたいに血管が張っている。青年らしい表情である。
「・・・で、私なんかも、うしろから、もう力一杯抱きしめられたときなんかあってですね(笑う)もう、それこそ・・・私はうしろに誰がいるか分らないで、パキッと勢いよく叩いて飛びのいたことなんかあるんですよね!」
13 明水園の若い胎児性患者たち
〇山の中腹にある新設の施設
スーパー ”水俣病複合施設「明水園」”
ナレーション「ここ、明水園は水俣病患者だけの施設である。」
〇その訓練室、マットの上で、小柄な女子患者が腕立てふせの運動をくり返している。足はねじくれている
指導員「もう一回あげてごらん!はい、わあ上手ぜ、千鶴ちゃんは・・・。」
別の女性指導員の声「頑張れ!」
顔を紅潮させている患児
ナレーション「主な日課は機能回復訓練であるー当面、この訓練しか手足の動きをうながす方法はない。」
〇一光君が両肢に補足具をつけて、立つ訓練をしている。
〇女性患者末子さんと指導員が話している。
「足の痛か?足の痛かんね?背筋ばね、さあ行きなさい・・・。」
気づかう指導員の様子をみて末子さん、声を放って笑いつづける
〇別の時間、休息どきの人気ない廊下を、尻をずりながら富士夫君がカメラに近づいてくる。ことばは「うま、うま」しかいえない。眼の前で指をふるわせるくせがある。一声、つんざくような声
14 明水園の夕食
〇配膳車が食堂に着くと、流れ作業のように金属食器がそれぞれに運ばれる。中等程度の患児たちは食堂で車椅子のまま机に向う。午後四時すぎ。陽はまだ明るい。
〇スプーンで口にはこぶが、共同運動障害特有のぎこちなきである。口もとが麻痺しているためか、ごはんつぶだらけのあごに気付かない。
〇重症児は寝たまま、あるいは上半身を起きれ、たべものを口に運んでもらっている。そのたたみじきの室の一隅、最重症の富士夫君には二人の介助が要る。うしろから背を起す女性介助員、正面からスプーンでたべさせるもの。
「フジヲ君!フジヲ君、ごはんよ!ああんせんかい。(頬をうって、開口をうながし、スプーンですくいこむようにしている)ああんせんか・・・。」
15 行事・ひなまつりの日(明水園)
〇人気のない室内、つき当りの訓練室から幼児用唱歌「今日はたのしいヒナ祭り」の音楽がもれてくる。全員参加しての行事である。ベッドに寝たきりの患者も一室に集っている。カメラゆっくりと近づく。
レコードの歌
金の扉風に
うつる灯を
かすかにゆする春のかぜ
すこし白酒めされたか
赤いおかおの右大臣
(はしゃぐ女の子の叫び声)
着物をきかえて
帯しめて
今日はわたしも晴れ姿
春のやよいのこのよき日
なによりうれしいひな祭
〇中等、軽症の患児たちがそれぞれに音頭をとって、手拍子をさそっている。全体に幼稚園の雰囲気である
〇人形劇のぬいぐるみの狼で子供にたわむれる指導員たち。屈託のない表情で滋然と見守っている十数名の老人患者たち。
〇一光君と勇君による「二人羽織」の余興がはじまる。羽織のかわりに白いシーッ。勇君の手でミカンやジュースが一光君の顔めがけていいかげんに運ばれる。自由のかなわぬ手つきや、困り切った一光君の表情におとなどもは笑いとろげている。
「ほらどうか、あらら、ほうれこぼした!」「おお上手ぞ上手ぞ」「ジュースものませんば!」
バナナをまんなかからくいちぎる一光君
「真中からくらいついて、まあ、どうか・・・象さんにばし、喰わするごたるばい!・・・」
大人たちの方が遊んでもらっているようだ。
〇山の上からの明水園の俯瞰
庭に人影はない。不知火海に面した明水園はそこだけ一劃を区切られたように、白い病舎として孤立している。
ナレーション「少年たちにとって、年にわずかの行事の日であった。この日も入院者たちだけで、家族も、お客も一人も見あたらなかった。」
1 6 不知火海の三月ーその海と人
〇リアス式の海岸に早咲きの桜、そして菜の花がある。
(音楽ーピアノ曲はじまる)
ナレーション「不知火海の三月」
17 津奈木の浜の引汐どき
〇入江の干潟に少女たちの貝をとる姿がある(音楽終る)
スーパー ”芦北郡・津奈木町”
ナレーション「水俣から、ひとつふたつと岬を越えると、汐のひいた浜に貝をとる人がみられる。」
〇小学生位の女の子たちが竹かご一ぱいの貝を洗っている
「あった?」「ないよ!」「ああ、あった!」
ナレーション「土地のひとは、これを浜あそびという。」
18 帆うたせ漁
〇山の上からみる漁港、計石に、丈たかい帆柱をもつうたせ船が、林のように柱をかさねてもやってある。数十隻が出動の準備をしている。
スーパー”芦北郡 計石”
〇不知火海としては大型の帆船であるが、船にのる人は二、三人、しかも一家の男女がのりくんでいたりする。
ナレーション「このうたせ漁は、ここだけに残された内海特有の漁法である。この漁村はうたせ漁のいちばん盛んなところである。」
〇漁場まではエンジンをかけて走る。一本づりの舟もゆきかう
(音楽、ギター曲はじまる)
ナレーション「この海は最も深いところで六〇米といわれ、うたせはもっぱら海の底に住む魚をとっている。」
〇漁場について帆をあげる。へさきの先に同じうたせ船が満帆である。
〇船から見る不知火海は広々とみえる。はるかかなたに、独特の風姿を見せるうたせ船が散在し、それぞれ帆に風をはらんで稼動している。
ナレーション「漁場につくとエンジンを止め、風の力で底曳き網を引く。これは乱獲をしないための、お互いに決めたしきたりと聞く。」(舷をうつ波の音と音楽)
〇鉄のつめのついたケタ網を海に投げこむ、そして、口の広い別の網をしずかに海にひろげる。父と子らの三人がそれぞれの手順で働く
ナレーション「これはケタ網といわれ、海の底を引っ掻いて、えぴや魚をおどし、そのあとから網ですくっていく。一隻にケタ網六張、底引き網が七張ある。」
〇海の中にとけこんでいく白いロー プ。
かもめが舟の周りを巡る。
〇ただ風にまかせたとろりとした一刻
ふなべりで休む漁夫
士本「むすこさんなんか、いま漁をついでやっていこうなんて思っていますか?」
漁師「さあ・・・そこまで、自分はまだ、親子でも・・・・そういうことは、聞いたこともないしですね。」
(音楽おわる)
19 ツボ網漁
〇岸から出てゆく船、あちこちの小船に、竹竿が束になってのっている。こちらは夫婦だけの舟である。
スーパー ”ツボ網漁ー宇土半島船津沖”
ナレーション「ここ一帯は、沖合い六・七キロまで水深一〇米内外の遠浅の瀕がつづいている。それをいかした漁法が見られた。」
〇竹竿をびっしりと直線に立てこんでいる。更にすき間に竹をさし込んでいる漁夫たち。漁法を語る老人の声がかぶさる
土本の声「ひとくちに一言って、どんな風にして魚をとるんですか。」
老人の声「ええ、竹をですね、潮の流れに応じてですな、まあ、一〇〇〇米ぐらいこう幅をとるですたいね。して竹に当った魚がですたいな、網さに入るごとになっているーまっすぐですね。竹は片面五〇〇メーター(註・直角に交わるもう一つのライン)片面が五〇〇メーターですね、両方に出とるですたいね。そして竹に当った魚が網の方さにずっと、自然自然、潮に応じて来つです。」
〇竹竿のラインに沿って進むと、直角に植えこまれ竹の柵の交わるところに網がしかけられてある。
老人「そして魚が網さに来たやつがですな、その網に漏斗ちゅうやつがあるですもんね。魚が入ったところー漏斗というですね、ようー漏斗みたいになっとるですたいね。そして魚がはいってから・・・出られんととなる・・・。」
〇イワシが網の目に首をつっこんで抜きさしならなくなっている。
〇小船をとめて、じようごをひきあげ、その尻のくくりをほどく。雑多な魚がくびれにひしめいている。
〇魚函にぶちまかれる魚たち。
老人の話つづく「・・・春はですね、イカ、イカが主ですね。イカにすずきですな、ふぐですたい。ふぐがやっぱ・・・まあ風の吹いたりなんかしたらですね、三〇キロなり四〇キロなりはいることがあっです。・・・今、ふぐは一二〇〇円ぐらい・・・・キロ、キロですね。・・・まあ七月、八月時分になったらですね、太刀魚、このしろ、ぼら・・・です。・・・こりや、もう年中、正月も盆も休めなしやるです。もう一日も休めなしにやるです。三六五日、殆んど休めたことなかですな。そっで安定してるですたいね・・・毎日の仕事ですから・・・・・。」
〇魚の声がしきりである。吹く音、屁のような音、歯ぎしりの声、船板を叩く尾びれの音など。
〇次々にいく張もの漏斗を、又、下ろし、又、たぐりあげていく。
〇海の中の生垣ような竹の列に舟を寄せて、畑の実をもぐように手なれた網あげがつづく。
「潮の早かときはですな、もう、潮に応じて流れてきた魚がですな、竹と竹とにこうこうこう当るですたい!・・・当ったり・・・闇夜だったら、まっしろなったり(註・夜光虫のためといわれる)すつでしょう。そうすっと魂消ったりですね・・・網の方さに自然自然に流れていくーそうしたらはいるんです。・・・嵐の日だったらかえって魚のはいるです。もう大風が吹くとたる時がはいるですね!網が破れるか、まあ魚とるかという時が、はいるです、魚はですねえ、もう三日分も五日分も一週間分もはいることがあるですな。」
〇雑魚にまじってふくれているフグの子。
〇大きなカニが逃げまどっている。
〇女の手で、分類されていく魚たち
〇大きなフグの首の根をつかんで、ペンチを口につっこむナレーション
「ふぐは生簀に入れて、生き魚として出される。共喰いしないように、その歯が抜かれている。」
〇くらげや小魚、そして、縁起もののエイが海にしゃくりかえされる。モタモタと去っていく魚たち
老人のいまもびっくりしているような語り口「私がやってからですね、クジラが来てですな、クジラが・・・網をですな、こう外からいって、そして竹に当って、また返って、行き戻り網ぞ破ったこつがあるです。クジラんですなあーあんな奴が、もういったらですな、もう濡れ紙と同しこつです、わしどんの網は・・・濡れ紙のごたるふうでもう、何のことはなかつです、破っていくです!もう、いったり出たりしていくとですね、クジラは!クジラはやっぱもう・・・初手は永尾神社つでありよったですもんね、松合のあそこに永尾神社って・・・昔の人はそこに詣ると言よったつです。クジラの詣るて。永尾神社に詣りぎや来ってですなあ。」
〇竹竿にびっしりとうつぼやかきがついている。海の畠の作物のようである
〇ふたたび うたせ漁
〇うたせ船の流しの数時間は終り、網をあげはじめる
ナレーション「潮の引ききった時、打瀬船は網を上げはじめた。」
〇機械でロープをひき、網を三人がかりであげる。底魚が一ぱいである。かれい、たこ、えびにしゃこ等
ナレーション「種類の違った魚を探ることで、うたせ漁はほかの漁とのあいだに自ずと分業をなりたたせていた。」
〇シャコが洗われている。キュッキュッと音をたてあう
ナレーション「この海の底からとれたシャコは寿司用の上物になるというはなしだ。」
21 浜のしゃことり
〇潮がすこしづつみちはじめた波打際
〇干潟にしゃこをとる人の群。漁村の浜からズーム・アップ
スーパー ”宇土半島、船津浜”
ナレーション「潮がひくと、浜はしゃこを採る人々で賑わいだす。それは男の仕事ではなく、主婦や、年寄、子供の仕事であった。」
〇小学生の男女が一人前に働いている。
〇十円玉大の穴からしやこの息づかいがうかがわれる
〇主婦と老人が一劃を占めて、水をかいだし、穴のありかを見つけている。
ナレーション「ひとりニ・三キロは採れる。このしゃこはキロ七〇〇円になるという。」
〇ひもをつけたしゃこをおとりにして、穴の中につっこむ。やがてそのしゃこが尻をひり出してくる。そのあとに太い筆をつつこむ。やがて誘い出された穴の主のしゃこが頭突きのようにしながら入口に出てくる。その前肢をつかんでひき出す
主婦「こっちむいとるですもんな・・・それでこっちゃん上げにゃん。」
〇老人が説明しながら採っている。
老人「さそいだすとですたいね。これは、もう、穴ー自分の宿でしょう。宿ンなか何故はいったかてごたるふうで追ってくるとですたいね。追いやるというごたるふうな気持ですね。」(土本の声「筆は?」)
老人「筆はですな。こん筆は軟かでしょう。そっで上の方さズート軟かかんけいで上ってくるですたいね。・・・上って来たところで、採り良かごとやるとですね。」
土本の声「どういうところがむつかしいですか?」
老人「やっぱりこん、しゃくが・・・筆をつかうもんと、筆を使わずにしゃくとしゃくと喧嘩させて、上で採るもんとあっですもんね・・・。」
〇四、五匹のおとりのしゃこがひもつきのまま、あっちこっちの穴に押しこまれている。そのあとを筆がまちかまえている老人
「筆の方が採り良かですたいね。上の方さに上っていくる・・・足の。上ってきたとき・・・しゃくを一匹かしてんね・・・・・・。」
〇老人、実演してみせる。入口からの出し方は、しゃこの体の曲り方をみて、そのむきにあわせて引っぱるこつを見せる。「これがですね。こうはいっとるとでしょう。(背中むきにひねって)とぎゃんした風に這わせて上げんと上らん・・・こぎゃん・・・こぎゃんしては上らん。(腹を曲げるしゃこを指し)・・・肢が欠くんならもう、採れんですもんね(笑う)。」
22 不知火海の夕景
(ギター曲始まる)
〇浜からしゃこのはいった女籠を背に、漁家に帰る主婦、かっぽう着と長ぐつ姿が夕陽に染っている。
〇日没前の光に彩られた、のったりした海のおもて。
〇帆を下げたうたせ船が、次々に部落をめざしている。いつも変らぬ不知火海の夕暮である。
(音楽やむ)
23 認定制度の問題点と、それに対する患者側の仮処分のうごきについて
〇パネルの図形を説明する
スーパー ”有馬泣雄氏(水俣病研究会)”
有馬「昭和四九年、春の段階で、水俣病として認めて欲しいという(申請中の)患者さんたちは二、四〇〇名に達しております。従来ならば、患者さんたちが、自ら申請(註・本人申請主義、即ち他人では不可)を県に出しまして、県がそれを受けて、水俣病認定審査会に諮問をし、ー水俣病認定審査会で、患者さんを新たに水俣病であるかどうかの検査をいたしまして、それで認定とか、あるいは棄却とか、そういう形で答申をし、県がそれを通知するとーそれで、そういうひとつの壁を突破して、はじめて認められた患者さんたちが、加害者としてのチッソから補償を受ける構造になっておるわけです。・・・ところがこれは、早い方で一年は充分にかかるし、或いはこういう二、四〇〇番台に達する人達は五年ぐらいかかるといわれておるわけです。(註・その後も一ヶ月平均七〇人づつ申請者は増加しており、昭和五〇年一月段階では三千人近い数に及んでいる)・・・ところが本来ならば現地の医者(註・主治医)は現地の水俣病患者さん達を診て、あの、診察とか治療行為をしているわけですから、この医者が「水俣病である」と診断すれば、当然ー本来ならばチッソがすぐさま生活とか、医療保護をするべきなわけです。ところが現実にはこういう認定審査制度というのがひとつの壁となっておりますので、患者さんたちはそういう状態を突破するための、ひとつの手段として、国の裁判所に「仮処分」という形でー一つの方法としてー提起して、この問題を突破しようと今、試みているわけです。」
24 川本さん宅、準備作業のために、活動家五、六人が集っている
〇インタビュー、川本さん
スーパー ”川本輝夫さん(患者・仮処分提案者)”
川本「・・今日も、あっちこっちずっと回って聞いてみれば、申請が遅いばっかりに、いろいろな風評がたったり、今度ははたまた・・・何ちゅうか認定されて補償金が出たばっかりに、いろいろな風評があったり、今度は棄却になればなったで、いろいろその、隣近所から嫌みをいわれるとか・・・・保留になれば保留になったで、いろいろ言われる・・・まあ、それぞれにまつわる話があるわけですよな。・・・で、やっぱり、チッソのそういう水俣で操業を開始した長い歴史から見れば・・これはもう、歴史をみるまでもなく、不知火海一帯、それに汚染されて、まあ、何十万か、何万か、汚染されていると・・・これは現実としてあるわけなんですけど。・・・その辺を行政も、企業も、医学も、その、まともに見ようとしないちゅうか、とり上げようとしないちゅうか、やっぱ、それが第一番に問題だと思うわけです、私に言わすれば。」
〇お互いに仕事の進め方を話している
スーパー ”供述書作成作業ー昭和四十九年三月”
川本「・・・診断書に、他の疾病名ではなく『水俣病の疑い』ということで、症状をパッ!と書いてくれれば良かばってんなあ。」
ナレーション「仮処分のためには、本人の供述書が要る。その中に、生活の困窮度と、病状の実態が書かれていなければならない。ーこの仕事は、支援の人たちがうけおって、それぞれ、患者さんの聞き書きを作ることから始めていた。」
〇自分の分担した患者さんの”供述書”の草案を読んで検討に附している。
〇伊東さんの担当は、患者・小川フイさんのものである。
「・・・二週間にいちど、市内の佐藤病院に行き、その帰りに、街で、魚や野菜を買ってきます。肉はきらいなので、やはり魚を買います。その他の日は近所から野菜をもらったり、手持ちの干大根をたべたり、近くの店から豆腐を買っってきたりして、あるもので(食事を)済ませます。ご飯は二日分づつ一度に炊きます。たべものや、電気・水道・プロパンガスなどは、出来るかぎり検約して使います。」
〇映画の冒頭に紹介した労働者、山下さんが深刻に耳をかたむけている。伊東さんの朗読つづく。
「・・・三月から思いきって、医者にかかりはじめました。心臓肥大症と言われました。その年の六月に熊本大学の水俣病研究班から『有機水銀の影響が認められる』と、認定申請を勧める手紙をもらったので、申請しました。・・・現在、私はひとりで暮しています。生活保護でなければ御医者にも、もっとかかりたいと思います。今は何となく遠慮して、二週間に一度、行ったときも黙って薬だけ貰って帰って来てしまいます。時どき、看護婦さんが、『小川さん!診てもらわんとね』といわれるので、『はい、診て呉れらっせば、診て貰うとたる』というと診て下さいます。・・・遠慮せずにもっといろいろ診て貰えば、もう少し良くなるのではないかと思ってしまいます・・・。」
〇批評の声
山下「うん、どんピシャリになっとるですねえ。」
〇次は山下さんの担当、八木シズ子さんの分である。草案のポイントを冒頭に説明している山下さん。
「・・爺ちゃんが死んで、水俣病・・・なして水俣病じゃったかというとこば追加したり・・・チンどん、チンどんといわれたのは何故かということ・・・・。」
25 八木シズ子さんの場合
〇土台のくさった根太に石がはさまれている。風化した羽目板の小さな家、出月部落、その家をめぐって、カメラ入口へ。その問、八木さんのための”供述書”を読む山下さんの声が流れる。
「夫の父、よしつぐは、自分で船をもら、体も健康で、一六歳から漁に出たというだけあって、一本釣の名人で、部落の人からはチヌ釣がとくに上手であったととろから「チンどん、チンどん」と呼ばれ、釣が上手なことで、漁師仲間はもちろん、他部落まで聞こえ、一日、ニ〇〇円から三〇〇円の収入を上げていました・・・。」
26 八木さんにそのテープをきかせてのインタビュー
〇小暗い一問、土間のあがりがまちに足を曲げられないのでのばしたまま、山下さんのテープをきく八木さん。そのむこうに万年床
スーパー ”仮処分申請者八木シズ子さん
ー申請番号二三七ー”
細山下さんの声(テープ)「・・・・わたしたちにとって、魚や貝は主要な食物であり、経済的にみても、栄養の上からも、主要な蛋白源でしたので、主食のように多食していました。昭和二十二年・・・。」
〇土本、テー プをきって、そこのところを直接聞く
「あの、どのくらいその頃たべていたんですか?多食といっても。」
八木さん、早くちで、しかも堰を切ったように喋りはじめる
「・・・どんくらいっち、よう覚えとらんばってんなあ、もうなあ、潮が一寸干ればなあ、石に・・・カキが出とるで、カキ殻打ちよったですたい(註・取っていた)そしてちょっと打ったつは、いそいで喰ってしもうとですたい。そして潮がうんと引く時になれば、浜に貝がおるですもん!潮がうんと干らんばおらんですもん!それでもう、潮がなあ、ちょっと引く頃からカキを打っとでしたい。四五分間の仕事ですたいなあ。四五分間すれば、潮が満ちてくるとですで、潮というやつは、四五分間しか干らんとですで・・・。そっでそらもうせっきよな仕事でしたい。」
〇再び、テープの”供述”に耳を傾ける
山下の声「夫の父、よしつぐは、子供のように涎れを垂らし、舌がころばず、目も見えなくなり、ふるえて寝た切りの生活を送るようになりました。近所の人たちは、夫の父の病状をみて、『あんたは奇病ばい、病院に行って診てもらわんな!』といって、病院にいくことを勧めましたが、どうしても聞かず・・・・・・。」
土本「(音のボリュームを下げ)奇病じゃないって、何んで頑張られたんでしょうかねえ?」
八木さん「やっぱ、昔の爺ちゃんじゃもんじゃでなあ!ほしてなあ、その頃は”奇病”ち言えばなあ恐ろしかもんのごて言いよったでしてなあ!(突然身ぶりを加えて)ほんのはあ、震るゆっと、もう、それこそが重態な・・・寝糞ねばったものか、躰のもうかなわんとかなあ・・・あんな衆ばかりでしょうが(躰で奇病の真似をして)こうひねくれたとか、涎ばこうたらして・・・もう、けえして踊ったごとして歩って漂るくとばっかし奇病っちー奇病はあっでしたもんな、その頃は!ほいでさあ、もう人が恐ろしゅうするでしょうが・・・『湯堂はもう、奇病でもう、湯堂の辺からは嫁ごももろうな、嫁ごもくるんな』ちゅうとこやったでなあ!そん頃は、どうし・・。」
土本「世間の眼がきつかった?」
八木「はいはい、きつかった、湯堂ちとところは。ほんと、奇病のひどい子供のおるところの衆は残念かですと、それで・・・。はあい!他の所からなあ、もういわれて、嗤われとっとですよ!」
〇八木さんの手の指が変形している
土本「手のかたちは、その頃、どうだつたですか?」
八木さん「いや、その頃はそげんなかったですばってんがなあ、手の形はなあ、昭和四六年頃からこげんなったつですばい。昭和四六年のなあ・・・一〇月頃からこげんなったつですばい。まだひどかったですばい。一年ちょっと水俣病の治療してこんだけなったつですばい。(手の指先の曲りを示し)こらこんだけになったつですばい。まだまだこんなになっとったですばい。」
土本「細かいことは・・・出来ない?」
八木さん「いえ、出来ません!針仕事などずっと(手が)震うとですで・・・。針の目でも通すときは、けえして震うとですで!どげんじゃした時、痙攣がしますと、わたしは。すぐ、新聞の見てたっちやすぐこうこうして震ゆっとです!」
〇録音テープに耳をかたむけ、相槌をうってきき入る八木さん
山下さんの声「松本病院では、血液、尿の検査など、いろいろな検査をうけましたが、私の話しぶりや、手の指先の変形、手足の震えなどを見て『あんたは水俣病だ。どうして今まで申請しなかったのか?診断書は書いてやるので、市の公害課から申請用紙をもらってきなさい!』といわれ・・・・・。」
土本「(テープを止め)・・・やっぱり、どうしてっていう風に、医者も思いなさったでしょうね。今までって!」
八木さん「はい!そいでなあ、言うたですと!寝糞ねばったもんか・・・踊ったごつして歩いて漂るくもんか、よだれをくいかぶってなあ、漂るって、・・・知能のなかもんじゃなからな、水俣病にな出来んち思うておったと言うたですと。」
土本「それは誰かに、そういう風に言われていたわけ?話を聞いていたわけ?そういう風にひどくならなければ認定しないと・・・・。」
八木さん「はい。そう思っとったですたいなあ、そん頃は思っとったですで・・・。そったら、三月二〇日の裁判(註・四十八年三月、水俣病裁判の判決)でですなあ、(症状の)軽い人でもなったでしょうがなあ、ああなあ、奇病患者がなったですもんなあ!ほいで、私も・・(首を横に振って)水俣病とな思っとらんだったでしたいなあ!ちったあ私がも、魚や貝や・・・・おどんな人よっか喰っちゃおっとやがち思ちゃおっとですばってんなあ・・・そん、水俣病になるちは思もちやおらんだったですばってん!」
土本「松本(医院)さんは、もうはっきりと言われたり・」
八木さん「はい、はい、はっきり言うてなあ『こりやおばさん!水俣病やがなあ!』・・・手の変形がひどかったですもん、まだ曲がって・・・。」
〇土間にわずかの野菜がある。痛んだ土の壁、冷えびえとした空気の中、しかし、使われない大釜や大ざるは磨きあげられている。売薬箱が子のとどくところにある
テープより朗読の声「・・・風呂をもらいに行くと『今日はごはんは食べたつや、喰うとらんなら、喰っていかんな』といって、刺身などの残りを食べさせて下さるので『刺身なんかは、あんた家でもろうて喰う以外は喰わんとばい。甘かった』と礼を言うと、『あんたは病人じゃっで、栄養をつけんといかんばい』と言って下さいますが、生活保護も打切られ、栄養どころではありません。体はだんだん衰弱し、病状は悪化していくのみで、心配で心配でたまりません。近所の人に『二、三日、戸があかなかったら来て見て下さい』といっていますが、不安な毎日を送っています。」
〇八木さん、身をつまらせている
土本「朝、ごはんちゃんと食べてますか?」
八木さん「はい、食べますと!(声をひそめて)食べておらんならなあ、頭がふらふらと、倒れたりしますとち思てな。味はありません!口のはたが、いっちょん味がありません!もう皆目分りませんとしびれて。舌のジンジンしてですなあ。けど、まあこらえて喰っておっと。ほんでなあ、こんだけ喰えば良かろうと思うてですなあ。昼もごはんのなかったで、炊いて、卵飯でん一ばい喰ったら・・・・もうこんだけ喰うとってもうよかろと思ってですなあ。また晩な、さかなでも焼いて喰えばと思うてな。」
27 熊本地裁、仮処分提起の日
〇熊本地裁の看板
〇川本さんに付添われて、地裁の階段を昇る八木シズ子さんと小川フイさん。
スーパー ”仮処分提起ー昭四九・三・一三ー”
〇報道陣にかこまれる。
〇字幕
”ー昭和49年6月27日ー
仮処分の決定下る
裁判所は、申請人が”水俣病患者”であるものとして
『チッソは県が認定するまで
1認定患者と同様の医療費等を負担せよ
2その他、月2万円支払え』と命ずる。”
ナレーション「水俣病の歴史の中で、はじめて、審査会を経ないで、患者さんを緊急に放済する法的結論がひき出された。」
29 湯堂部落に菜の花が満聞である
30 渡辺保さんの家とその意見
〇新築の家、白砂を敷いた庭
模型屋の主人がラジコンでうごく自動車のセールスをしている。それを見て興味ぶかげのひと
スーパー ”渡辺保さん(水俣市・湯堂)”
セールスマン「・・・これはもう実車と全く同じなんですよね。ところがほかのバギーはこうはなってないわけで・・・。ミッションがないで、ギヤアがないので。」
保さん「ようこんなもの作っとるなあ。」
セールスマン「(別の車を示し)これがレーシング・カーで、ここにサーボが入るわけですね。無線機が。これはもう舗装道路でないと駄目で・・・・。」
〇そのレーシング・カーのアップ
〇長男(註・前作「水俣ー患者さんとその世界」でオルガンを弾きこなしていた少年と弟、次男が見違える程成長している)のために父、保が点検している
セールスマン「これにサーボがこう。これがサーボで、エンジンのこうですね。サーボのここがこう開くでしょう。これがあいた状態でスローに絞ったら・・・。」
〇その和室、立派な仏壇に老母の遺影写真
〇室内に石庭風のコーナー、そして二階への階段
ナレーション「渡辺さんは、親子三代、七人ともみな患者となった一家である。それぞれの補償金をあわせて、思うままの家を造った。」
〇二階の工房風の洋問。小さいながら、本格的な旋盤がおかれ、工具箱が並んでいる。長男栄一君、レーシング・カーを買ってもちこんでいる。旋盤の前で
土本「これはもう、全部使っていろんな工作に使うわけね。」
保さん「はい(それは?)これは穴をほがしたり何かしたり、それによって、このアタッチメントが違うわけですよ。」
〇ガラスケースの棚に各種SLの金属モデルが並んでいる
土本「当面、作りたいものは何ですか。」
保さん「そう、機関車のこわれた奴の部品ですよね。部品がないからなあ。」
〇保さんのアップ「これで手さえ自由にききゃ、まだいい工作が出来るんだけどなあ!でも、やっぱりなあ、手が敵わんでも、道具でこう補なうちゅうことですな、自分の不自由さをなあ。」
土本「もう、殆んど欲しい道具は揃えた?」
保さん「まあだ、まだ揃ろてないですよ。」
31 長男の室で
〇明るい個室。若い人の欲しそうなものはすべて満されている感じである。かたわらにニコンに一〇〇〇ミリ反射式望遠レンズがついている。
土本「あなたの部屋と栄一君と話すときは?」
保さん「下の部屋と話すときはインターホーンですな。」
〇近代的な病室のベットに模して、沈下の壁にインターホーンがある。数回押して、応答をまつ。焦れて押しまくる栄一君の声「ナニスットカー?」
〇下の居間のインターホーンのセンター部のクローズ・アップ。それでのやりとり。
保さん「上って、こい!」
栄一君「ドウスット?」
保さん「用事があるよ・・・ちょっと上ってこい!」
栄一君「ワカッタ、ワカッタ。」
〇栄一君のアルバムを見ながら
土本「最初に撮ったのはどれ、最初のころ撮ったのは?」
栄一君「最初とったのは、これとこれ。」
〇写真「苦海浄土」のゼッケンをつけた青年のスナップ。外に、告発運動の集会の中で、女性ととったものなど・・・
土本「これは三年前かな?」
栄一君「そうだな(「そうだね」)カンパしとったから(「そうだね!)」
〇二階の屋上から見る袋湾、眼下にひろがる不知火海全景
保さんの声「(誇らし気に)なあ!小か庭つくって、何百万かけましたっちって、こうして眺めとったって何になるかっち!俺が二階へ上って見ろっち!三階へ上って見ろっち!庭どま・・・これが全部俺が庭じゃ、俺が!クックックッ。」
32 居間にて
〇広い洋間、中央に大きなテレビセットがある。ピデオの再生装置つきである。かたわらに、三脚つきのテレビ・カメラがある。土本、有馬を相手に、テレビ談義がはじまる
保さん「(栄一君に操作を教えている)ストップにして、そのまますぐ・・・ハイ録画!スタンバイ!ハイ、はじまり!」
〇カメラを操作する栄一君、ブラウン管にそのままの情景がうつっている。
土本「ふうん。・・・栄一君、この前、天草でとったのは携帯キャメラでやったわけ?」(註・他に二台ある)
栄一君「そうです。」
土本「・・・かなりシャープに出るなあ。」
保さん「・・・携帯カメラの方がなあ、撮りやすか。」
土本「なるほど、重さが・・・。」
保さん「重さもあるし・・・やっぱり画面がきれいかごたるなあ・・・まあ外で撮るかも知れんばってんなあ。」
土本「保さん、こういうメカに強いけれど、大分まえからこういうのは・・・・・・。」
保さん「そりやもう若か時から好きじゃったなあ(土本「眼をつけとったわけ?こういうの」)まあ、眼をつけとったちゅうわけじゃないけどもね、やっぱり、・・・大体、一番の発祥ちゅうのが・・・家の防犯用・・・が一番の目的で、これ入れたわけ・・・。」
〇入口の金属扉のわきに据えつけられたテレビ・カメラ
土本「それがだんだん太っちゃった!(笑い声)」
保さん「そうで、やれりや、その、家で映してみても面白いち思うしなあ。」
〇ブラウン管の中にカメラマンの大写し、栄一君のテレビ・カメラのレンズと正面にむきあっている。
土本「しかしある意味でね、普通の平均から言うと、ずば抜けた物をここに叩き込んでいると思うんだけれども・この家とかね、設備ー(保さん「うんうん」)その辺のところのあなたの気持っていうのはね、やっぱり一遍、聞いてみたいなと思っているんだけども。」
保さん「うごけば、ほかに、打ち込んだろうと思うけどもね。」
土本「・・・その、船を手離す一年位まえというのは、漁は殆んど出来なくなっていた?」
保さん「うんもう、体がいうこつ活かんもんだから・・・人手頼んじゃ出来るかも知れんばってんなあ!うーん、人手頼んでまでやれるような状態じゃないし。」
土本「三年前だね、ぼくらの映画で、まだ(魚を)採っとられましたけど、あれからどんな風に体がおかしくなりました?」
保さん「眼が最初ね。遠くの品物(註・景色も指す)が見えんでしょうが。そうすると漁場探すちったって、あれ三角測量法でいくでしょうが、遠かやつが見えなきゃ全然駄目じゃないですか、そうすっと、結局、手足をもがれたカニと同じことですたい・・・動きがとれんもんなあ。」
〇居間全景 正面のテレビで再生放映している。
土本「保さん!こうやってぼくら映画を撮りにきてね、あの、色々こう見せてもらっているわけだけども、あなたとしてこの家でね、一番見て欲しいというもの、何?」
保さん「・・・見て欲しい・・・ってものはないな。とにかく全体見て欲しいと・・・・うん。」
土本「たとえばさあ、ほかの人が見てね、わあー御殿が建っちゃったあ、みたいなさ・・・。」
保さん「うーん、そん外部だけ見てもらいたくはないな、設備ですよ。ぼくがやっているのは、とにかく見えないとこに金を入れとるわけですよ。もうこの床(註・全面床暖房)にしろ、うしろの倉庫にしろ。」
土本「・・・そのことでの知恵をつかいながら作る間というのは、今日より生き生きしてたけどね?」
保さん「やっぱたのしみじゃったなあ・・・。」
土本「でも、家が建て終ってさ、あとはどうするわけ?」
保さん「あとこれ(ビデオ・テレビを指し)一刻もてとったけどなあ。まあ、あと設備に、テレビとか何とかね・・・でもやっぱり、そうねえ!・・・自分なりの一時、一時ですよね慰さみというのは、本当ーやっぱり(強調して)仕事が一番いいなと思うよ。(回想するように)・・・仕事やっとさあ、毎日まいにちが、こんだ明日はあれしよう、これしよう・・・こんだはあれしよう、これしようと。家作りはさあ、家作る間、三ヶ月なら三ヶ月の間だけ!あそこはああしよう、あれはああいうことにしよう、こういう設備にしようと考えて職人に、『おい、こうせい、こうせい』といったら、もうその瞬間にさ、もう目的が失くなっちゃうわけでしょう、それで次に考えるでしょうが!それで次これしよう・・・もう、そとをやらせはじめたらそれでもう、自分の目的ちゅうのは終るわけですよね、で仕事になるとさ(土本、テレビ音に注意「ちょっと小さくして!」)。」
〇カメラ、保さんに近づく
保さん「今日が今日でもさあ。今日、昼まではこう何かやっとったと、昼からは何をしようとー夜は夜なべに何かしようとー!そん次から次へと頭の中がいつも回転しとるですよね!それが全然なくなっちゃうわけですよ!」
土本「その点でね、仕事というのは金を稼ぐということもあるけど・・・。」
保さん「(ことばを強くひきとって)金の問題じゃない!金の問題じゃなかですよ、ありや。人生のたのしみ、それが最大のたのしみじゃなかろうかと思うがなあ、おれはなあ。そりゃ生活するためにや、金は必要だから、金もかけてやるかも知れんですよ!でも、やっぱりね、仕事っちのはさあ、自分のたのしみっちゅうのが先にでてくる。・・・・普通の人はさあ、仕事に追われてそれが分らんわけ!・・でも、ぼくらみたいにこうなってみるとさ、やっぱりこう毎日まいにち、こう体がしんどいなあ、しんどいなあとかた思う片にも(註・一方にも)さ、あれやり、これやると考えるのが一番の楽しみ、人生の最大の幸福じゃなかろうかち思うよ。(ある昂ぶりとともに)おれがこんな大きな家つくったってこりゃ何んにもならんわけ、何の足しにもならんわけよ!こりや。」
土本「・・・作ってみてそう思った?」
保さん「はい!はい!ただもう足しになるのは、自分がさ自由・・・或る程度こう利くちゅうのが・・・それもさあ、こう慣れてしまうと何にもならんわけ!仕事をすると、慣れる!ちゅうことがないわけよ・・・慣らされるちゅうことが・・・。そして、どんどん、どんどん、次から次からと、どんどん、どんどん回っていくでしょうが・・・。それが一番、人間のね、人生のさ一番の、このたのしみじゃないじやろうか!そりやもう、たのしみ・・・他のたのしみ方もあるかも知らんばってん俺にはそうと思う。まあおんな抱いたって何にもならんわけゃからねえ、それもやっぱり一時のたのしみでしょう。」
ー間ー
土本「水俣病というのは、傍日で見ると普通に・・・普通っていうか・・・歩けるし、めしも喰えるしね。ところが、どっかがカチンッとやられてる、というもんでしょう(保さん「それがショックですよね!」)・・・こうやってみてるとあんたは普通に見えるよね?」
保さん「普通ですよぼくは!(うめくように)でもさ、・・・草とりでも、もう、三〇分もやらかすと、そりゃ、夜は相手(註・奥さん)ば眠らせんとやから(土本「えっ?」)躰、揉め!とか、あっちが痛い、こっちが痛いで一晩じゅう眠らせんとやから。そっでうちの家内なんか、まあ、俺が仕事しよると、『また、妙なことしよる!そげんこつばして、また今夜一晩寝せんとやろが!』ち、怒られるごたる風やつで(土本「ああ、そう!」)そいでうちの家内にしてみれば、今は俺が遊んで、ぶらんぶらん、ぶらんぶらんやってた方が自分の体が楽ですよ(土本「ああ夜中に・・・」)うーん。クックックックックッ。」
33 述懐ーこどものこと
〇工作室で、旋盤にむかっている。これは保さん自身の楽しみである。
「・・・自分の子供にしてやれるちゅう事が何にもなかわけですよ、もう。ほんと!ぼくらで出来ることがなかわけですよ、できないわけですよね、これは!実際言うて!・・・(無言)・・・まあ金の力でできるちゅうのは、まあ、家か・・・財産つくってやるか、まあ、金で残してやるか・・・(無言)・・・それがさあ金を残してやってもさ、その金を一ぺんに(ことばつまる)その、使ってしもう、変なところにつかってしまう。女とかね・・・そういう・・・結局、だまされて費うとか・・・そうすりゃ、もう、おしまいですよ。そうしたら家もなか、何にもなかちゅうことになってしまう。それじゃどうにもならんから、とにかく家なっと・・・おれが・・・何十年間か保てるやつを作ってやろうという想いが先に立つ。でも(悲鳴に近い)それでもやっとかにやしょうがなかちゅうわけですよ、ぼく自身にとれば!・・・(間)・・・これは締麗ゴトにしかすぎんとですよ、ほんとうは!人から言わすると!でも、こどものこつば、考えておるばってん、やっぱり、・・・(うめく)その・・・なあ!」
34 汐目のはっきりと浮ぶ不知火海、天草の島々との間にただ一隻の船
35 胎児性患者との会話
〇八ミリ映画を撮るという少年患者長井勇君と土本(於湯堂・宿舎「遠見の家」)
長井「・・・指導員と・・・えーと・・・看護婦さん、看護員、事務所、婦長室を撮るの・・・。」
土本「そういう人たちを映画に撮ってね、どういう所を撮ると、君の思うようなところが撮れると思う?」
長井「あのね、第一にたいね、今度たいね、巧あくこの八ミリを使って・・・撮すわけ!」
土本「それは、君がさ、一番、何てんかな、厭だなあって思っているーその態度とか、その話し合いとかそういうところを撮るわけ?」
長井「(首をうなだれて)うん、ぼくたちの悪口を話してる時があるわけよ。」
土本「聞いちゃうわけね、君が。」
長井「うん・・・・ここを撮影しよう・・・。」
〇土本、八ミリを教える手をやめて聞く
「そういう時には、看護婦さんとか看護人のひととかね、いろいろ、こう付合ってるわなあ?それがどうなると思う?」
長井「えーと、ぶ、ぶちこわれる。」
土本「ぶちこわれるな。」
長井「少しはね・・・。」
土本「でぶちこわれたあとは、どういう風に、・・・どこへいくという風に考えているわけ?」
長井「(考え、考えしながら)ぼくたち・・・ぼくはですね、ぼくじ、・・・自身としまして、えーと、おじちゃんたちと、えーと、おじちゃんたちと、まわるつもりでいるわけ!」
土本「アハハ、全国、旅するか!むつかしいなあ、でもね、君ひとりでやったら、皆んな、われもわれもったらさ、明水園ぜんぶつれて歩かなきゃいけないだろ!(二人ともふき出す)」
〇更に話す長井君
「相手がたいね、オトナアツカイシトランワケヨ(土本「?」)、オトナアツカイシトランワケヨ(土本「うん?大人・・・?」)あつかいに・・・。」
土本「あつかいしてない・・・。」
長井「こっちも大人あつかいされてないけんね!」
土本「どういうとこだったらいいと思う?例えば、いまみたいな病院じゃないとこがいいわけ?」
長井「ええと、いえね 一番いいのは。」
土本「家?」
長井「家!」
土本「きみのうち?」
長井「うん!(気分をかえて)だけどぼくは、えーと、おじちゃんたちと・・・全国まわるつもりでいるわけ!」
土本「うーん、それは(スタッフの方を見て)おじちゃんたちの仲間のだれか、うーん、一しょに旅しないかと言つたわけ?」
長井「ううん、言つてないけど、ぼくは、えーと。するわけ。」
土本「(その断乎たる口調にうろたえる)そう言われても、まあいいや、うーん・・・。」
36 明水園の中の長井君
〇バスのタイヤを手で叩いて、点検している長井君、腕に交通係の腕章をまき、呼子笛を口に、車イスで車体のまわりをまわっている。テープレコーダーがある。
スーパー ”職員帰宅ー午後四時三〇分ー”
ナレーション「明水園の一日はここで終る。交通係を自認する彼は、日課として、お別れの挨拶と音楽を贈る。」
〇あらかたの職員が送迎バスにのりこんでいる。鬼塚勇治君も腕章をまいて整理にあたる。
〇長井君テープレコーダーにふきこんだ挨拶を流す。
テープの声「これは、皆さまがたに、おつかれ様でしたの、心ばかりの、心ばかりの、御礼と、色々な御礼を、これに入っています。・・・みなさまがた、ならびに、ご苦労さまでした・・・・・・。」
あと、一日の終りの意味でテレビからとった「君が代」が吹奏される。
〇そのボリューム一杯の「君が代」の中、発進合図をうながす「パァーン」というパスのクラクション音。
長井君の確認と発進の合図の笛で、バスは去ってゆく。まだ西陽は高い
〇のこされた二人にカメラ寄る。テープの声は更につづく
「・・・春の交通安全週間が実施されます。期日は・・・二月一一日から二月二〇日まで、複合施設明水園だけの春の交通安全週間が実施されます。御協力を、御協力をお願いいたします。」
37 身障者用自動車に触れる若い患者たち
〇人気ない構内に、最新型の乗用車がすべりこんでくる。一光君たちが、車椅子の上から双手をあげる。
ナレーション「職員の帰宅後、わたしたちは一台の白動車を運んだ。ー明水園の若い患者たちは、腕だけで動く自動車をみつけ、長い間、関心をもっていた。」
〇一光君、車のわきで、もう両手でハンドル操作の真似をしている。心ははやりにはやっている。車の持主はやはり足の不自由な人だ。
スーパー”林親治さん(湯之児・リハビリ療養者)”
〇林さん、運転台から車のメカニズムを噛んでふくめるように教えはじめる。
「これがハンドルね。知ってる、ね。普通の健康な人であればね、アクセルは足でふむのね、この足でね(エンジン全開する音)わかった?これがブレーキ・・・。」
〇足でブレーキをふむと手動レバーもうごく。その動きを、助手席の少年早くも真似している。のぞきこむ一光君の眼はひきつったようにみひらかれている。
「・・・ね、ぼくなんか足が不自由であるから手でやるわけ、ね。前に(レバーを)押したときがブレーキになるわけ、分るね?これロットがついてるでしょ。分るね?健康な人であれば足でふむわけね、これをね。分るね?(車内のカー・カセット・ミュージックが流行歌を流しっぱなしである)・・・そして、これを、こっちのレバーをね、手前に引いた時はアクセルになるわけ。エンジンがふくでしょ?(エンジン音)ね、で、これがチェンジレバーね。ギィアを・・・あの、車のスピードを出すときにね、このレバーを入れるわけ。ね、分った?」
〇一光君は押えきれぬ気持をまわりの人につたえる
「のせてもらってみる?」
一光君、大声でそうだという意味の声を出す。
林さん「そんならこれに乗ってみるね?よし、それならおじさん降りようからね。」
〇林さん車椅子で外に出る。一光君抱きかかえられて運転席にすわる。林さん、手をとって一つ一つ順序よく触りながら教えていく。
林さん「これが何?ハンドル。ハンドルでしょ?ね?(まわして)こっちに切ったら右にまわるわけね、わかった?右にまわるわけね、こっちに切ったら、左にまわるわけ(そり返った両手の指でハンドルを握っている一光君)分るね?こっちのレバーをみてごらん。このレバーを、このレバー。(把ませて)はい、それはブレーキ・・・前に押した時、ブレーキになるの、ね。そこにボタンがあるでしょう。赤いボタンがあるでしょ。押えてごらん(ビビーとクラクションがなる。感に耐えたように酔う一光君)。」
林「・・・クラクション。分った?クラクションね。これがアクセル、ね。これがスイッチ、はい(一光君の手をとって、スイッチを入れさせる)これがスイッチ。これエンジンをかけるでしょう。はいかけてごらん!はい!かけてごらん。」
〇エンジンの音、最高速回転まで出る。興奮、その極に達する一光君
林「よしよし!アクセル、ね。それを引いたらアクセルになるでしょう。これブレーキ、分ったね?分ったね!これが方向指示器、ね、右左右にまわるとき使うやつね。右左にまわる時にね。」
〇林さん、半永一光君にひとりでやらせてみる。
林「エンジンをかけるとき・・・アクセルを引いてごらん(一光君別のレバーを持つ)それはブレーキ、その下、ほら、もうひとつ小いとがあるでしょ?それをひいた時、アクセルになるわけね・・・、分ったね。」
一光君、ハンドルにおおいかぶさるようにして触っている。
〇ひと通りのレクチャーは終り、再び林さん運転台に、半永君は車椅子にもどる。清子という女子患者、半永君のそばにいる。物言えない一光君の通訳である。
清子「(もつれる口で)あんね、しけんはね、どん・・・どんくらいかかるね・・・・。」
林「( 一光君にむきをかえて)ああ試験ね。一応・・・あの、試験をうける前には、あの・・・(カメラの方を指し)この人みたいにね、皆、元気でしょう。ね?手も健康で(と体操の真似)手も充分動いて、ね。それから足もうごく。それから耳も聞こえる、ね?眼、ね!これがまず第一!でないと駄目、試験はね!それから、あの、練習するにはね( 一光君をさし)いまのこの人の状態では、練習がでけんでしょう、ね!けいこがでけんでは、ハンドル切るととがでけんでしょう?ブレーキを踏んだりすることがね?わかるね?(一光君「ウン」とうなずく)分る!・・・だからねいっしょうけんめい訓練をせにゃいかんのだよ、ね!訓練にいきよるでしょう?リハビリに!下に(註・明水園の下の海辺にそれはある。午前中そこに通っている)訓練行きよるでしょう?(一光君「うーん」)行きよるね?行きよる!(一光君、大きくうなる)とにかく、良くなってね、・・・・せんとくるまには乗れないわけ!ね?それから、別に聞きたいのは?」
〇半永君、考えたあと、指を二本つきだす。その意味の分ったのは清子さんだけだ。小声で「二年ね?」ときく。
林さんに清子「あんね、二年したらね・・・(註・免許)とれるですかつて・・・。」
林「ああ、二年したら取れるかつてね?二年でねえ・・・さあ、どうかねえ・・・(一光君に)あなたのね、努力次第ではねえ、それは判らんけども、ね、一生けんめいにね、訓練して、まず第一に健康にならんとだめねえ!わかった?(一光君うつむく)分る!」
〇 清子さんが年のことを言っている
「一七歳よ」
林「一七歳?」
清子「一八・・・」
笑い顔から、一瞬暗い顔に変る。
38 字幕「胎児性感児、始めて医師に質問する。
原田正純氏(熊本大学・精神神経学)」
39 月ノ浦、壷谷の鼻
原田正純氏と清子さん、一光君。潮騒とカラスの声。とぎれとぎれの清子の質問を、意味をたしかめながら開きとり、応答する原田氏。
清子「あんね、(「何て?」)あたまのしゅじゅつがね、(「うん?」)されん?」
原田「頭の手術がされんのかつてね!・・・誰から聞いた?」
清子「じ、自分でね、おもっただけ。」
しばし答えない。
原田「あの、頭の手術したら、病気はよくなりやせんかつて?ううん・・・(問)・・・頭の手術をする病気はね、あの・・・死んでしまう病気だもん!(清子「うん」)だからね、ううん、・・・頭の手術は、せん方がいいだろう?誰かが教えたんじゃないの?」
清子「う、うんね、じぶんでおもっただけ・・・。」
原田「自分で思っただけ・・・ふううん。」
ー間ー
原田「手術するとねえ(物を切る手つき)また、そことっちゃうでしょう?・・・とっちゃったところが、また・・・悪くなるからねえ。ううん、まあ、手術じゃなくてねえ、あのお・・・訓練して・・・上手にならにやしょうがないよ、ねえ?」
清子「あの、訓練って、どんな、どんな、くんれんしたら、なおるの?」
とっさに答えに窮す。
ー間ー
原田「ううん・・・ねえ?いま、どんな訓練しとるのかねえ?」
清子「てのくんれん(「うん」)てのくんれんとね、ええと・・・・・・。」
原田「・・・手の訓練・・・他に何を訓練?」
清子「・・・あしの、くんれん・・・。」
原田「うん、足の訓練とね!あんまり効果がないね?あんまり良うならんね?(清子、うなずくー間ー)・・・ううん、まだ、だけど若いから・・・ねえ?・・・・しかし、最初、ぼくが診たときよりも足はしっかりしてきたよ!ね、一〇年ぐらい前だもんね、あんたの家がどっかそこの(指さす)なんだっけ・・・月ノ浦にある頃・・・ね?覚えとるね?(「おぼえてる」)覚えてる!(医師らしい顔になる)ううん、一〇年ぐらいまえ・・・。」
〇清子さんやはりうなずく。原田氏半永一光君に話をむける
原田「ううん、ねえ、半永君も手術したいの?(半永君恥らう?ううん?違う?(清子さんに)半永君も手術したいといっとったの?・・・(半永君、足を指す)足ね・・・うん、うん、なんて?足が・・・足が動くようになるごと手術を・・・・・・ううん。」
〇半永君テープレコーダーにその一言ももらさじと、こたえを待っている。考えこんでしまう原田氏
「・・・手術をね、そんな、お人形さんのね!お人形さんの足、こう、かえることならないもんねえ・・・。」
機敏にその意味を察して照れくさく笑う半永君。三一人の問に沈黙がくる。
原田「・・・みんな、いっしょうけんめい、その訓練やら治療やら考えてるんだけど、まだねえ、ぱあっと、こう、良くなるものはないでしょう?」
半永君、あいづちをうって微笑する。清子さん、身をかたくしてうつむいている。
原田「・・・ほかに、何ぞ考えてるの?うん・・・なんね?」
清子「あのね、(身を原田氏に寄せ)じぶんのことがね、じぶんで、わからんわけ・・・。」
原田「自分のことが?・・・うん、自分のことというと?あの・・・いまから先のこと?」
突然、こみあげるものと共に鳴咽する清子さん。原田氏、その背を撫でる。
原田「ううん・・・泣かんでいいや・・・ねえ(清子一しきり、どうしようもない)・・・自分のこと・・・っていうと、どういうことかね?ううん?将来のこと?」
清子「・・・あんね!じぶんでね、なにをね、かんがえていいのか、わからんわけ・・・。」
原田「うん、うん、うん、うん、いま、自分が、なにを考えていいのか分らない!」
清子「あんね、そっで、・・・あたまのしゅじゅつを・・・したらね、わかると・・・。」
原田「うん。どうしていいか判らんから、頭を手術したら、良くなりはせんかなと思ったのね?(彼女の答をまつが、無言のまま・・・)・・・だけど、だいぶん分ってきたんじゃないの?(彼女、首をよこに振る)違う!分んない!・・・そういうことを、いつもひとりで考えてるわけ?(彼女うなずく)うううん・・・。」
〇原田氏、じっと清子さんを凝視している。はじめて会ったもののように見つめたまま、言葉がない。カメラ、ズーム・バック。それまで二人の問に煮つまったものをつつむ海がひらけてくる。えびす様をまつる自然石の像がある。
原田「・・・みんなで、そんなことを話してるの?黙って考えてるの?いつも・・・違う?ううん。」
ー長い間ー
話をかえてみようとする
「いまね、あの、もしね・・・・その、いまみたいな状態だったときにねえ、で、止ったとするよね、そしたらどうする。何がしたい?それで・・・。勿論ね、(「ハイ」)いまあなたがね(「ハイ」)一番希望しているのは、もと通りの躰になればいいわけでしょう(註・胎児性患者の場合、胎内ですでに有機水銀におかされている)・・・そうじゃなくてね『もし、そのままで、何がしたい?』と言ったら・・・何をしたい?(原田氏自身つまる)変な質問だね!なおらなきゃこまるもんねえ・・・(問)いまさあ、今、何がしたい?勉強以外に。」
カメラ壺谷の防波堤にゆっくりとパンする。ぽつんと坂本しのぶさんがいる
清子の声「いま?(「うん」)・・・編物したい・・・。」
原田の声「あみもの?いま、あみものしてんの?これ、自分で編ったの?違う!」
〇坂本しのぶさん、光る海の中でほぼ影である
40 つづき、患児の心のうち・清子さんの場合
〇二人のむきあいのまま。鴉の声が高い。
清子「うみ・・・。」
原田「なんて?海に・・・・・・。」
清子「うみを・・・みてると、なんかわかるでしょう・・・全然わからないの・・・・。」
原田「ああ、海をみたら、・・・海を見ても、何を見ても、浮んでこないちゅうわけ?(「うん」)ううん。・・・美しいとか、楽しいとか、そういうことが、無いちゅうこと?そういうこと?」
清子、そうだというようにうなだれたまま。
原田「じゃ・・・きれいなお花を見ても?・・・お花をみたら分る?」
清子「・・・わかんない・・・。」
うながして海の方を見させる。
原田「海を見るでしょう、で、、きれいだなあちゅう考えが浮んでこないわけ?・・・悲しくなっちゃうの?(清子、首をかしげる)そうでもない、何にも浮ばないわけ!」
清子「うん・・・。」
原田氏、改めて聞きはじめる。
「景色は見えるんでしょ?(肯く)・・・ううん、・・・他の人もそんなことを言ってるかね?」
清子「いってない・・・。」
原田「清子ちゃんだけ!(「ハイ」)じゃね、人がこう、楽しそうにわいわいさわいでいるでしょう、それをみたら、どう?」
清子「なあんとも、おもわない・・・。」
原田「何にも浮んでこない。・・・うううん。じゃ、テレビ見るでしょう。あの、ドリフターズ知ってる?(肯く)あんなの見るでしょう(肯く)おかしくない?(それははっきり肯いて「おかしい!」)おかしい!おもしろくない・・・・やっぱり浮んでこない。うううん・・・そうねえ・・・(溜息と無言)。」
〇半永一光君、テープをいじっている。(註・長時間のため、テープ・チェンジしようと焦っていたという)
清子「あんね、が、が、がっこうにね、(「うん」)行ったときもね(「うん」)毎日が、か、変るでしょう、他のひとたちはね・・・(「うん」)自分は、まいにちがね、毎日(「うん、うん」)同じようにね、つづくわけ・・・。」
原田「ふううん、学校に行っても・・・他のひとは、まいにちまいにちが変っていくのに・・・自分だけ・・・同じ日にちがつづくわけ?・・・(問)・・そうじゃないと思うけどねえ、少しはね、やっぱり、進歩したりしていくんじゃないの?(首をふる)どうね?・・・・そうおもわない?(首をふって「おもわない」)おもわない。・・・ううん・・・。」
〇波止場の坂本しのぶさんが立ちどまっている。原田氏の長い溜息ー
41 土づきの歌
〇袋湾にのぞむ湯堂部落全景
新らしい家がめだつ患者部落に土づきの掛声と歌がきこえる。そこは坂本しのぶさんの家である。数十人の男女がつなをひいている。
ヨイヨイ ヨイトナ
アリャナ コリャナ
アラヨーイトナ
ヨッショイ ヨッショイ ヨッショイ ヨッショイ
あなた百までわたしゃ九十九まで(ヨイヨイ)
ともに白髪の
ヤッコラ生えるまで
(ヨイヨイヨイトナ・・・)
女の木のぼり
下から見ればどれが屁の出る
ヤッコラ
穴じゃやら
(コリャナ アリャナ)
42 陸に上げられた漁船
〇子供たちが遊んでいる。スクリューのかきを落す子、エンジンを見る子。みんな杉本さん一家の五人兄弟たちである。静かに波の音が聞こえる。
「イカリソース!」とおどけてみせる子供達。
43 杉本栄子さん、病み方と生き方を語る
〇満潮時の茂道の海が眼下に見える、新築中の杉本さんの家の二階
土本の声「二、三年前、相当、悪るかったと聞いてますけど、その後どうやって・・・。」
夫婦二人すわって話し出す。
スーパー ”杉本雄さん、栄子さん(水俣市茂道)”
〇ベランダに五人の男の子が仲良く遊んでいる。
栄子「もう何ちゅうかね、悪かったちじゃなく、もう、ちからが入らんかったつですよねえ、入らずに、とにかくもう、いちばん汚なか話が、トイレにいっても力がはいらんもんで、そのまま坐り込んで、支ゆっちたっちゃ、手に支えが利かんもんで、だから主人に来てもらって、すこし体を・・・すこしじゃなくって、もう体を抱きかかえるようにしてもらって、というようなこと・・・。」
〇五人兄弟の全景
「・・・そして男の子ばっかおったですけど、私だけが膝が曲らんかったですよね、全然。もう(足は)廷しっぱなしというようなことで、この子も膝にしとって(註・正座ができて)、私は膝が全然出来ないちゅうなことで・・・。」
〇カメラしづかに寄る。
「こうなるまえ、自分に腹立たしくなったんですよね!だから何かがあるはずだっていうようなことで、あのお、最後の神頼みっていうようなことですね。だから・・・そうなるまえにですね、もう御医者さんを信じない!とそれまでなっとっとです。それまで懸っとったつですよ。だから、もう何時死ぬっていうようなことでもう・・・。苦しみから逃がれるつちか、逃がれならんという事実も知っとったし・・・もう(痛みが)急激にくれば、もう私は駄目だつちことも知っとったからですね、だから、あの、何ちゅうか、最後の神頼みちったら可笑しかか知らんばってんが、・・信じるならば、仏があるならば、神があるならば、そのひとの言葉を聞きたいってなことですねえ・・・まあ、信仰・・・私たちは真宗ですけど、でも、何ちゅうか、あの、たまたま立正佼成会のひとが来てですねえ、私の名前判断やら、『私が居るということは祖先が居って、またあなたの生まれ・・・生まれる前を勉強してみたら・・・』つてなことで・・・(ひざ小僧を両手でなでながら)あの、だから水がたまってこうしとった(と腫れ方を示す)ですよ。そしてここ(膝)もまがらんかったしですね。まだここも(足首を指し)現在曲らんとですけれども。・・・こげんとこに水が溜まるって時から、私が・・・何も、あの転げて、ほら妊娠したち思もえば、ころころ転げおったでしょう!だから、あの、直ぐ流産しよったつですよ!もう尻を打ったり・・・頭をうったりして、流産が続いたんですよ。だから、その子の供養をー病院でやっぱり産みっぱなし、流産したなりだったから、その、ひとは、あの私、やっぱり殺したことになっとですよね?病気があって、つっこけたんですけど、その前にやっぱりその子らは母親にすがるのじゃないかつて。だからその子を『ひとりまえに認めて、そして御戒名を頂いて、その子の一番、納得するような供養をしてあげなさいよ、あなたが!』ち言われた時に(涙ぐむ)『それだなあ!』って思ってですね。(泣く)だから三人ぐらい流産したんですけど、その子の(註・御戒名)を貰って・・・。そしたら涙が出て仕方なかったんですね。・・・して、供養はじめて、もう、私が『成仏せんかも知れんばってんか、成仏してくれよ!』って、もう引っかかり、まんかかり、ひっかかり、まんかかり(註・つつかえ、つつかえ、経典をよむ)だから上手な人は一〇分もそこそこかからんとです、私は一時間・・・四〇分ぐらいかかったんですよ。膝が曲らんし、その教典が(手で)支えられんし・・・。で主人の力を借って、・・・もい、何時も主人は私に付きっぱなしで、後から支えとってくれたり、教典を載せる箱を作ってくれたりですね、(涙を拭う)・・・で、めくる力が無かつですよ。(めくる手つき)こげんする力が・・・。だから、そこを読み終ってから主人が聞いてくれたり、私が、言葉が引っかかったりしたら、主人が読んでくれたり・・・・・・。」
〇にんにく酒やくと酒のびんが数本並んでいる。
栄子「・・・あの何かねえ、こんなことをおっしゃったんですよ!『あなたが、いちばん人に分らん病気にかかったならば、あなたの周囲にその薬草は必ずある!』っておっしゃった・・・で、あの何ちゅうか(小首をかしげる)・・・だから、そげんちゅうような事を聞いたときに、ピンちこなかったんですよ。そしたら家のまわりは、まず毒だみ草が一ぱいです!それとフツが一ぱいおっとですよ!だから、その・・・やっぱり、私たちが小さか時は、毒だみ草をですね、柿の葉っぱに焼いて、そして、ほら、ねぶつ(註・できものの根)の上にすれば、すぐ膿を取り出しよったですよ!(首をかしげる)そしてまず、そげん毒ば飲んで良かじゃろか?ち疑問があったんですけど、でも私には、世界に無か毒(註・有機水銀のこと)がはいっとるならば、それでくだそうちな考えですね!『いつでも死んで、もともと』と考えておったし、苦しかったですから・・・。これ(土びん)にフツを入れて、そして毒だみ草を入れて、ー毒だみ草だけをですね、蔭干ししたんですけど、あの全部(家族が皆)飲んだもんで、足らんかったんですよ!もう乾燥させる暇がなくて!ーだから、葉っぱを採ってきて、すぐ洗って、これに容れて・・・。だから、あの、まず一番に勘づいて・・・それを飲めばどげんした結果が出るちゅうことじゃなく、それは分らんかったです。でしょんべんも。・・・もう私が一日、四、五回小便をするのをですね、もう、どもこも匂いの強い小便が出るとです。(手で押し出すようなかっこう)もう、じゃんじゃん!だから、午前中、四、五回しょんべんをするなら一〇回ぐらい出ます。もうそれがですねえ、何か、それが、いつも、ジャアって、ソン!と止るとがですね、もう一〇回なら一〇回、ジャッジャッジャッジャッジャッジャッ!・・・どこからこのしょんべんな、あの出っとやろかちうくらい!」
〇かたわらで終始、静かに妻の話をきいている雄さん。
土本「雄さんね、奥さんどんな風に?」
雄「・・・自分なりの努力は一生けんめいやったと思いますけど、途中でまあ諦めるちゅうかですね、まあ挫けるようなことが再三あったばってん、それをこっちが気がついても気のつかんふりをして、まあ如何にしてそれを続けさせるかちゅうことが、いちばん。・・・私が心配したのはそこだったですね。なるだけ神経使わんように見せかけながら、ずっと努力させていかんばいかんち思うて、それだけやったんです。」
〇栄子さんにある自信と笑みが浮ぶ
「・・・だから激痛がきた時は、ひとつの波って考えれば『まっぽし(註・真っ正面)からあたって行こい行とい』ちゅうようなことでですね。でもその船にのっている間はですね、健康な時だっただけに、あの、素直に受けとめたじゃばってん、激痛の波は、もう、とにかく哀れだったし、でも、櫨を漕いでくれるちゅうか、激痛の時に主人の言葉が櫨になっていった時に、今になったんじゃなかろうかなあ・・・だから激痛が来るちうな感じのした時には、『いっちょ、波の来たあ!って、その波が何時間ー台風が続いとるかなあ!』って考えるようになってからですね。やっぱり、具合が悪くなっても、船に乗っている気持でですね、やってきたとは事実ですよ!(遠くを見ながら)だから家族がいっしょの船にいつも乗っているってな感じ・・・。私たちが入院すれば、この子たちの船は進まないって感じですね。ーいまもそれを一生懸命考えてつづけとっとですけど、やっぱり、私たちの御先祖はどうしても漁師だったのだから、その漁師ってゆうようなことばから、私たちを切り離そうとする・・・どんなことがあっても、あの、する人があっても、私は切り離させては、ならない!と思う・・・、それとですね、あの、海を見ない日があった時に、私はもう生き甲斐をなくすーそれは事実です。だからあひとの、他人以上に海の見える家ちゅうか、それを保っていきたいちうこととですねえ。だから、私は三日でも海の見えんとこおれば、あの、地獄に行ったごたる感じですね。」
士本「こうやって海をみてますとね、やはり、むかしのさかな、今の魚、いろいろのことを・・・。」
栄子「(大きな声で)もう、魚がなからんば!私は先ず、魚を採るためちか、そのために生活してきたんですけど、やっぱり、その・・・いちばん魚から生れ変ってきとっとじゃなかろうかなってな気持、いつもします。じゃなからんば、・・・あのさかなの供養もしましたし、またいまでもあの、その日(註・月一度日をきめている)が来ればするし、でも、なんらかなあ、コンクリ詰め(註・汚染魚をとってタンクに入れる水俣湾の作業のこと)いろいろ見とってですね、私はもう痛かつですよ、体が!さかなが今日もコンクリ詰めしよるっちなれば、思った瞬間動かなくなるんですよ、私の躰が!」
〇海をじっと見つめている
栄子「で・・・その、その・・・魚が私に何を言い聞かせようちとしとっとやろうかちした時にですね、やっぱりひとつは、恐ろしい!つてな感じ、・・・・とですね、だから・・・私が魚だったら、どんな気持だろうち時にですね、その痛みは消えますけど、やっぱりその・・・(問)・・・まず、他のなにって考えたくない!・・・ですね、でも、私が魚だったら、本当に人間がー私以上にえらか人がおったならば、私は踏まれでも、叩かれでもその人のために、あの喰われたり、いろいろするならば本望であろうし・・・だから何ちゅうか(涙せき出る)わたしが魚であれば!その『海を取り返してくれろ!』っと私の、その意味はそこにあっとですよ。だから、私の生きるそれは海から・・・海を取り返さなければ、私は生きられないし、それも魚が私にいま問いかけることばであって、私も人間として生れて、現在の姿はあるんですけれども、その姿がですね・・・やっぱり、にんげん生れてきた以上は、その魚と私が・・・その魚が私に生活をさせてくれたんだから、だから、『私が生きているあいだは、その、魚の供養もしてやるから、あの、成仏してくれるんだよ!』て、魚に、海にむかつて問いかけますけど(すすりなく)そうじゃなかですかねえ!私、それ以外にまた考えたくないんですよ、じつは!・・・・だから、海が狭くなる・・・あしこも埋立てるちうなこつば知ったときに、それをいやじゃってときには、私の躰駄は、いちにち動きません!」
〇家の前、背に不知火海。一家並ぶと木琴のようである。やさしみの顔々。
「・・・だから、どんな破滅があってもですねえ、私はそれを、『水俣病はこうだつた!』ちゅうようなことをはっきり言ってですね、子供たちも、それを言い伝えてですね、生き続けたいと思うんですよ。」
44 水俣病センター・相思社
〇センターの入口、車で来た明水園在園中の胎児性患者たちが、手をひかれ、背負われてくる。読経の声が洩れてくる。
〇相思社母屋の全景
スーパー ”水俣病センター・相思社、落成式
ー昭四九・四・七ー”
ナレーション「水俣病センター・相思社が完成し、患者さんがつめかけた。この二年間、全国から寄せられた二、〇〇〇万円のカンパで実現したものである。」
〇広間あいさつを聞く、重症児、田中実子さん、そして明水園の患者たち。声は水俣病を告発する会、代表、本田啓吉氏
「・・・春から夏、秋にかけては、いつでもあたたかいお風呂にはいっていただけると思いますので、はいっていただいて、或いはここでマッサージしてくださる方も、いつもじゃないかも知れせんが、お出でいただけるかと思いますので、そのようなことで、痛みとりに来て頂きたい、いうふうに思います・・・・・・。」
〇満堂、酒、肴があふれている。患者さんが作り盛ったものだ。料理をすすめるかんだかい声、ざわめき。
45 余興がはじまる。すっかり旅役者風にきりりとしたてた股旅姿で踊る杉本雄さん
(唄三度笠)
・・・三度笠・・・
(どっとわく)
どこをねぐらの渡り鳥
ぐちじゃなけれど
このおれは
帰る、瀬もない
( 「よう、橋幸夫そっくり」の野次)
伊豆の下田の
灯が恋し・・・・・・
意地に生きるが
おとこだと
胸に聞かせて
旅ぐらし
三つき三ねん
今もなお
思い切れずに
残る未練が泣いている
〇あでやかな娘姿でおどる女たちにまじって栄子さんも舞う
うたは「花笠音頭」である。酔った支援の人、組合の花田さん、劇作家の砂田明さんが興に花をそえている。
〇その踊る晴れ姿の栄子さん。(註・この日踊りぬいて、のち二日寝こんだという)
46 不知火海
〇曇天のさけめからの光芒がチッソ工場を鉛色に光らせている。煙が立ちのぼり、えんとつが毒針のようにつつ立っている。
〇漁場を示す笹つきのブイ
〇工場をバックに操業する漁船
ナレーション「水俣の沖には、天草、御所浦の漁民が働きに来ている。速い船で一時間の距離である。」
〇水俣からカメラをゆっくりめぐらす。不知火海の海岸は岬が重なっている。開けた水平線のかなたは宇土半島、そして対岸、天草諸島のそそり立つ山々がみえてくる。
ナレーション「この内海の奥ゆきは深く、沿岸に十何万のひとびとが、この海と離れがたく生活している。ここはいわば現役の海である。」
47 漁場
〇一隻の小船、スーパー ”ゴチ網漁”
ナレーション「これは小規模の流し網漁である。」
〇夫婦と若い娘がころをまいて網をあげている。イカ、アジが揚げられている。
そのきりりとした娘の仕事ぶり、うしろで父親が笑っている。
ナレーション「このあたり、半年程前に、マナガツヲの大群がまぎれこみ、ひと晩に一隻、最高一三〇万円の水揚げがあったという。ーまた、ひとつの語り草が御所浦に生れていた。」
48 大きな籠をいくつものせた小型漁船
〇スーパー ”イカ籠漁”
〇漁夫がひとりで動力のころの力をかりて、イカカゴをひき上げている
ナレーション「この寵が一隻あたり、約三〇〇。それを順ぐりに手繰っての漁である。」
〇その籠は直経一メートル余、入口のわきに何かの草の束。
土本「あれ、あそこにくくりつけてある仕掛けは?」
漁師「ああ、あれですか?あれはですね、山にいけば岩ツツジって、岩ツツジ、こう花が咲すでしょうが!あれが小枝があって、あれが一番いいんですよ。あれに卵ば産けに来るんですよ!卵をですね。それで知らず知らずに籠の中にはいってくるんですよ。それで一匹がはいればですね、同志に寄って、イカがなんぼでもはいってゆくと・・・・同志を見てですな。」
〇カゴの入口には何の蓋もない。つつぬけである。可笑しそうに喋る漁夫。
漁夫「あれが出たり、はいったりするんですよ。それで毎日ですね、起しに行かにや駄目ですよ。」
〇籠から出されたイカ、漁師の手の中で威嚇的に足を開いて鳴きわめく。
〇一匹の大蛸が住みついている。
土本「こりや大蛸ですね、これはもう!」蛸がひっくり返る。船の上は賑やかである。それぞれ吐息や汐ふきのような呼吸音をたてる。そのイカや蛸の表情。
漁師「・・・みんな、はいらんという魚は殆んどないですよ!やっぱり。たいがいはいるんですよ。余計にはいらんちだけでね。やっぱりもう、たいがいはいるんですよ。」
〇蛸が大きく息している。
〇船は御所浦のとつきの岬にかかる。漁師の声「(鼻うたでも歌うように悦に入った調子で)ああ、もう、死んだ魚は喰べんですねえ!死んだ魚ばたぶればミナマタビョウになるもんワハッハア(しかしことばつきが粘って異常である)やっぱ、生きた魚じゃなからんば、味がせんですよ、ぜんぜん!」
〇とろりとした御所浦の海
「・・・それで御所浦なんかはですね。やっぱもう、熊本やどこにいっても、魚が弱っとるでしょうが?それで喰われんとですよ!」
49 地図水俣から御所浦へパン
(ピアノ曲はじまる)
ナレーション「水俣から約二〇キロにある御所浦。大小一八の離れ島からなっている。人口約六、五〇〇人。漁民の島である。」
50 御所浦町
〇浜辺の漁家を背に、つい庭先のような瀬であみをひく夫婦
〇足がわりの舟に孫をのせた老人
〇やや大きい部落、役場やコンクリートづくりの建物がある。港に多くの漁船
スーパー ”天草郡 御所浦町 本郷”
ナレーション「この島に水俣病認定患者、いまのところ十一人。」
51 鮮魚店
〇水槽をのぞきこんで泳ぐ魚をえらぶ男、女主人、タモ網を手にしている
〇生けすの中の黒鯛、はまち、おこぜが悠々と泳いでいる。蛸が脚をひろげている。ツイカとよばれるイカが陽の光によって甲らの色をかえる。澄明な海水が注がれ、水泡が光る。ここが店頭である。
〇子供たちが、そのツイカの背毎次々にピアノをひくようにつついて笑いころげる「ドーレーミーファーソーラーシード」いかにも島の子である。
(ピアノ曲やむ)
52 夕方の漁家
〇漁夫、タモ網に一ぱいの魚、イカをかついで、石だたみの道を帰る。
スーパー ”御所浦町 大浦”
〇夕餉前のひととき、家の前でイカのさしみをつくる主婦と漁夫。
真水でイカを洗う
土本「同じ水でも真水にや弱いんですか?」
漁夫「はい。」
イカの甲に包丁が当てられ、手ではらわたを割いていく。中味をよりわける。
「卵!」
武色い卵を水あらいする。すみの出る袋をつまみとる。
〇土本「すみの出るのはその袋ですか?」「はい」・・・「あの黒いの」
身を塩でもみ、うす皮舎はぐと、まっ白にすきとおるような身になる。
〇主婦、手なれた包丁さばきで刺身こしらえに切る。じわっと丸まる生きた切りみ。さい前まで呼吸していたイカが口にあう姿になった。
53 入江を出て家に帰る小船、鏡のようなおだやかな海にひとびとのすむ島影がすべて夕暮をむかえる
54 白倉さんの家でのあつまり
〇大きな食卓にところせましと肴が並ぶ。さしみ、煮つけ、からあげ等多彩である。主人白倉氏の他、漁師、そして部落の男二人。スタッフでは土本のみ食卓についている。
森老人「私たちもここには来とっとですばってん、近頃はちょっと体の具合が悪うなったじゃってん・・・。」
白倉「おとり下さい。あんた方にごちそうすっと・・・(と土本に)。」
〇箸のうごく卓の上、そのみずみずしいさしみのアップ
白倉「さあ、たべなっせ。」
漁師「東京あたりじゃ、これだけの魚つくって・・・。」
白倉「ほりや、大したもんだもんじゃろなあ。」
土本「イキは、生きのよさはこんなもの喰えんですよ。」
若い男「ぜんぜん、食べられんですもんね。」
漁師「いきた魚ば喰われんですたい!・・・やっぱり東京あたりじゃ。こっちんとはみんな生きとるでしょう。魚が生き生きしてですね。それでもう(大きく肯いて)いいんです!・・・これだけの魚っちいえばやっぱり大したもんじゃもんなあ!」
〇若い男、漁師一ぺんに何か喋りだす。話のはずむ食卓である。
若い男「わたしも水俣病になりたくなかったのは事実ですばってん・・・。」
漁師「(さえぎるように)わたしはやっぱりですね、ここは大体、半農半漁でだいたい生活していくところですから、だいたいまあ、漁師がいちばん専門的ですけんなあ!漁師じゃなからんば、ここは喰われんで死んでゆくところですよ、本当にここは、もう!漁師でなからにや、もう百姓ばっかじゃ喰うてゆかれん、死んでいかにあん!」
55 話題「水俣病」
〇皆、話しぶりがもどかしい。軽い構音障害のようである。
若い男「私も大体、いたって魚が好きですもんねえ。飲む方も好きですけどねえ(笑い声)まあ、何ていうかなあ。いつでもこう(足をさする)もうほかは何んも無かですよ、ここのこう足の段階が、ここだけは、どうしてもこうしびるっとですよ。ねえ。」
老人「わしがお医者さんになあ、一審はじまりに診察してもらったとき、あなたは自然と齢とるかずも・・・かなわんごとなるっていうたもんなあ。それでわしは言うとですたい。わしどん家の家内どめな、『自然と、今年はもうなお手足のかなわんことしなったつじゃが。そっで、もう、わしどんが(医者の)言うこつ聞いとれば俺は年々に苦しむだけじゃがもう』って言うわけですたい。・・・お医者さんの言わすとは間違いなかろけん、年々に、変るっちな・・そいでわしどんは水俣病にかかった人には、かわいそうと思っとるですよ・・・自分なもう、こしこ(これだけ)水俣病にかかっとるからなあ。」
56 漁師さんの場合
スーパー ”白倉幸雄さん(御所浦町大浦)”
〇白倉さん、漁師さんを半ばからかいながら「この徳松くん(註・漁師)なんかがねえ、センセィ、そうでしょう。ううん、本人なあ分らんらしいが、われわれが聞きますと、非常にこう、ことばの舌の根が、こわ・・・ううん、こだ、こだわってますね。で本人は、まあ何んでもない、なんでもないとおっしゃるけれども、私はですねえ、なんかの・・・。」
若い男「(ひきとって)やっぱ、白倉さん、そぎやんですもんなあ!」
漁師・徳松さん「これは、私はですなあ、やっぱり病気はもっとっとですよ。・・・てことは、だいたい三角(宇土半島)の池田病院の薬を四年間呑んどっとですよ、四年間!(頭を手でおさえて)これは脳血圧のくすりといってですね、これを呑まんば、こうグヮーッと頭が痛いんですよ。これを呑めば・・・じいっとおさまるんですよ。ほいでですなあ、これが・・・やっぱり、やっぱりほう、どこかに気のあるんじないかなあと思っとっとですよ。」
〇白倉さん、世話役らしい口調で語り出す。その口調もどこか自在ではない。
「・・・水俣病自体をですなあ、嫌っているでしょうが!だからもう、自分の一門から水俣病が出れば困るっち!周囲の人たちに対して申訳ないちゅうことでねえ。私が今まで交渉した話合いの過程においてはですよ・・・。」
若い男「それが往々に多いですもんね!」
白倉「だからね!そういうようなことで非常にむつかしいんですよ、新らしい患者の開発っていいますか、そのお、新患者の開発については・・・私は私なりに努力はしますけれども、まあ、そうした部落、あるいは御所浦町自体のね、空気といいますか、それに圧倒されてね、周囲のものがー患者自体が、その、自発的にやるちゆうことは、余程の勇気がなきゃでけんわけです。(かたわらの老人・森すなおさんを示し)このすなおさんなんかも、そうですよ。この人はね、三年前に、熊大のお医者さんからですね、『あんたはこういう気配があるから、どうも病気があるからね、(認定申請を)出してみんですか?』と・・・」
土本「熊大からもう言われたんですか?」
白倉「言われたんです!すなおさんと、私は友達でしょうが、お医者さんも、私に相談して・・・『白倉さん、こうだから、あんたのともだちのすなおさんはこぎやんだから、こういう風にしなさい!』って・・・。」
土本「申請しなさいって?」
〇森さん、肯いて、眼をしばたかせている。
白倉「はい!それでわざわざ本人がですよ、言ってくれた人がですねえー多くは特に言いませんからねえー人がわざわざですね、この人が働いているととろの畑まで行ってですね、説得にいった。(手を横にふって)ところがそうはいかん!周囲の人が!周囲の人が。つまり家族ですたいねえ。家族の人が、『あんたが水俣病になったら叩き出すぞと、承知せんぞ!』ちゅうわけで・・・。それには、・・もともと正直な人でしょう?だからもう本人はですね、自分の病気の・・・苦しみにねえ・・・何とかして、この苦しみのためには、何とか・・・治療費なりとね只にして貰いたいという、その、願いがあった筈ですよ!ところが如何せん、あんた!自分の、・・・をとりまくところの、嫁さんねえ、子供さんたちがあんた!反対でしょうが!あるいは周囲の親類の人たちまでが・・・『駄目だ!われわれの家柄からね、家から、水俣病患者を出したらいかんから・・・絶対いけませんよ!』というのが、現実、現実ですよ。」
〇話は熱を帯び、聞き入る老人、漁夫とも箸をおいている。
白倉「これはねえ、すなおさんだけの問題じゃない、多くの、この部落の実態なんです、本当は!・・・だから最近はですね、最近は・・・最近は特にです。ということは、この人たちの時までは、まだ裁判がですね、ちょうど裁判中でしたから、いまの補償金なんて問題は出てなかったんですよ。ー水俣病になっても、ひょっとすればただ・・・汚名だけね、水俣病という悪名だけは、まあ蒙るけれども、賠償金なんかは、これは夢にも及ばんことだっという・・・ことも、あったはずです。ところが最近はですよ、”水俣病”まあ・・・イコール”認定”でしょう。”認定”イコール”賠償金”でしょうが!・・・そこでわたしは考えたんですねえ、まあ県庁の方もね、いまの行政の方でも、”認定”イコール”賠償金”ということになったが故にですね、認定作業というものが非常に困難になった、と同時にですね、なかなかそのお、進行しない、これは!と思うんですよ。私は、行政の姿勢ってものが改まらんと思うわけですたいね。そうしたことでね、そうした空気のなかでのですよ・・・まあ家庭的に、あるいは社会的に、あるいは行政ー政治的に、いろいろな面において、ええ、圧力がかかるが故にですね、水俣病じゃないか思いながらも、私はですね、申請を鈍っとるんじゃないかと思うんですよ!」
土本「白倉さんも眼が悪いのに、何故、申請しないんですか?」
白倉「(もごもごと)はい・・・。」
57 嵐口の朝
スーパー ”御所浦町 嵐口”
〇日出前の嵐口港。すでに魚箱を下げた夫婦が帰ってくる。鳩の声が屋根に聞こえる。
〇港のそばの診療所附近に三、四人の人影がうづくまっている。
ナレーション「この島の医院、診療所は各一ケ所、医師は二人である。朝五時半ともなると、はやばやと患者が並びはじめていた。ー診察は八時にはじまる。」
58 老人たちとの話
〇老人男女四人。手もちぶさたの人々に、土本インタビューをする
土本「この嵐口は、あと何人も申請しておられるんでしよ?」
老人A「いんにゃ、どがんかな、わしどまトンと知らんでなあ・・・・・・。」
老人B「やっぱし、血圧(高血圧)が多かっじゃもんなあ。」
老人A「血圧・・・焼酎のんだりなんしたりする者が多かつですたい、そっで水俣病つてはっきりなかですなあ!やっぱり」
土本「でもお婆ちゃんなんかお酒を、その、飲まれないのに?」
老人A「ううん、そりゃ、飲まんばってんなあ。」
〇老婆、顔面がたえずふるえている。
土本「あの水俣病って・・・ここで診てもらいましたか?」
老婆「はあ、あの・・・。」
老人A「何回って(診に)来たつですたい、こっちに・・・。」
老婆「二回・・・。」
土本「申請しておられますか?」
老婆「はい?(耳が遠い)」
土本「お婆ちゃんは申請しておられますか?」
老人B「(大きい声で)申請しておるかっち!」
老人A「(笑って)申請してはおられん!」
老婆「しておりまっせん。」
〇手先がふるえ、指がまがっている。
土本「あの、ふるえてますね?」
老婆「はあい?」
老人A「(からかうように)老人病じゃで!」
老婆「(どもりながら)チャワンデンナンデンナ・・・テデ、モ夕、モタレント。」
土本「ああ茶碗が持たれない?」
老婆「はあい。」
土本「腰なんかきついですか?(「はあい・・・」)しびれはどうですか?」
老婆「しびれも、やっぱし・・・。」
老婆、ふるえがつづいている。
〇ひとときたって、診療所の雨戸をお手伝いさんがあけている。
土本の声「こんな朝早くからですねえ、あの遅くいくと順番がないわけですか?」
老人B 「いや、あっとですばってん、長うかかるですもんなあ、人間が多かけん!」
(註・一人の医者で一日一五〇人前後を診るという)
59 通院
〇大浦部落の海岸を、妻に支えられて、眼のかすんだ白倉さんがたよりない足どりで歩いてくる。
そのうしろに杖をついてゆっくりと歩く老人ひとり。
(音楽)
スーパー ”水俣病認定患者、森又一さん”
ナレーション「白倉さんたちの住む大浦は御所浦本島の南の端である。北の嵐口の診療所まで、交通手段は船しかない
ーかつて船は自分の手足であった。しかし、この病気になったいま船への乗りうつりが一番難儀になったという。」
〇運動失調、平衡感覚、視力障害等が重なる水俣病である。不安定な船のわたし板を辛うじてわたる。 (サイレント)
〇三人をのせた貸切船。町役場のある町を横眼に北端の部落、嵐口に直行する。
〇汐が引いて岸壁が高い。森又一さんは尻を押されて這い上る。白倉さんは片足踏みはずす。奥さんが舟板にかかえ坐らせ、ロープをもって岸の船頭にわたそうとする。
(音楽、ピアノ曲はじまる)
〇診療所の附近で、所在なく坐っている老人。
〇 字幕 ローリング
御所浦町(一三一九人)
「毛髪水銀量調査」よりー昭和35・36年ー
熊本県衛生研究所
当時考えられた最低発症量 五〇PPM
松崎ナス(女) 62歳 九二〇PPM
藤野レイ(女) 46歳 六〇〇PPM
森 久子(女) 4歳 三五七PPM
森枝イセ子(女) 10歳 二三三PPM
森 久美(女) 10歳 一五三PPM
森 アサノ(女) 66歳 一四〇PPM
中村チマ子(女) 5歳 一三七PPM
・・以下一〇〇PPM台の人々は数十人を数える。(
註)御所浦町人口の1/3が検査を受けた。
ナレーション「その当時、水俣病の最低発症値は五〇PPM。すでに一〇年前の調査で最高九二〇PPM以下、驚くべき数値が記録されている。ーしかし、このデー タは全く見向きもされないで来た。」
61 広い役場内
スーパー ”御所浦町 町役場”
〇土本、助役さんと公害担当の課長さんにインタビューしている。
土本「まあ、御所浦にですね、皆が関心を持ちますのはね、水銀の調査がありましてね、最高九二〇PPM 、現存者で六〇〇PPM という多量の水銀値が、毛髪でもう発見されておりますのでね、やはり体に対する被害は、この地区は、水俣にも劣らず強いだろうという・・・。」
助役「ええ、此処は熊大からも、何回ですか、三回か来て健康診断やったですね。そういうことで・・・それから、あの、受診率もですね、(註・天草の)他町村に比べて非常にここは高かったわけです。で、よそに比べると、その点の医学的な調査は、よそよりも、ずっと進んだ調査をやっとるわけですね。」
土本「あの、町でですね、水俣病の患者さんについての予算てのは取っておられるんですか?」
助役「(首をかしげ、課長に)ええと特別にないねえ。」
課長「ええと、取っておりますね。あの、ただ町として治療したりするということは出来ないもんですから、やはり、その、患者さんとか、あるいは申請者ですね、・・・認定申請者の人たちにいろいろ御世話したりする・・・・そういう、まあ、事務的な費用ですね・・・というのは少し取っています。」
土本「どのくらい計上されていますか?」
課長「十二、三万円ぐらい。」
土本「年間?」
課長「年間!」
土本「年間ですか・・・。」
課長「・・・で、大分年とっている人が多いもんですから、まあ神経痛だとか、リウマチというのが、昔からその人達の言ってることでですね、そういう人たちなんかが水俣病だというのが多いようですねえ。ちょっと見たって判らないわけですよ!」
〇町の人影、よろよろと歩く老女。坐ったきり、ものうげな年よりたちが波止場近くに眼につく。それにかぶって、
助役の声「・・・あの神経痛とかリウマチ・・・この地域に多いのは、おっしゃられるとおりです。私たちが考えとるのは、この地形の関係じゃないかと思いますね。あのすぐ海岸から山でしょう。急峻な土地で、若いとき、重労働をやったためにこういう事じゃないかと考えとるわけなんです。水俣の水銀に汚染されて、神経痛がどうという様なことは考えておりまっせん!」
〇力説する助役さんの表情「私達が、まだ小さかった時の方が、かえって神経痛って人が多かったです。」
〇部落の道、今も一輪車で、天びん棒で物を運ぶ町の人。肩幅ほどのせまい道が人家の間をぬっている。
助役の戸「・・・戦前に神経痛のために、兵役を免除された人たちがおるんです!そのような状況ですもんね。そういうことで地形に関係がありやせんかと考えているわけです。・・・認定されてる患者が六〇から八〇歳ぐらいの人ですもんね!と、今までずうっと老人病といいますか、年とれば皆んなこうなるというー先入観があるもんですから、年とれば、みんなそういうこつということで・・・。水俣病の恐ろしさは、まだ町民の間にもピンときておらんような状況です。」
62 治療の話
〇嵐口の波止場、森又一さんが這って渡し板をつたい舟にのる。白倉さんも、またよろけている。その舟の上。
土本「今日はどういう治療して貰ってきたんですか?」
森又一さん「今日ですか?あの、とけえ(肢を指す)血管注射をしてですな、それからここ足がこう、ずうっと(大腿部からふくらはぎまで)痺れて、しびれて痛かもんですけんなあ。こけえ皮下注射を(土本「注射を!」)ここからずっと一五、六本づつ、両方に注射をずうっと・・・。」
土本「すると、筋ごとに注射を打っていく?」
森「はあい!」
土本「薬はどんなのを貰いました?」
〇手かばんから、大きな紙づつみを出す。中から十種類余のくすりが出てくる。
森「薬はさあ、何んて薬か分らんけど、血圧とか痛み・・・痛みどめの薬とかですなあ・・・これは高血圧の薬・・・これは、あの、晩眠れんからといえば・・・これ、ねむる薬ですな、眠りもするし栄養もつくちゅう奴です。(土本「これは?」)これが、あのお、小便がおおごとだからといって、・・・これとこれが小便の・・・。」
土本「小便の薬、胃の薬ですか。」
森「これが血圧です。(一つ一つ手にとって)これが水俣病の薬そうです、これとこれがですなあ。これが腸の薬だそうです。・・色々とあんた!あっとですもん!」
土本「しかし医者に通うのも大変ですねえ、白倉さん!」
森「(せきを切ったような早口で)はい!いつも言うことで、これが一番です。それはあんたらも来てな、御承知の通り、いまじゃ船(町営船)も通わんし、船を貸切ってくるとです。それこそ貸切れば、やっぱもう、一〇〇〇円か、そしてまた・・・片道、ちょっと、降してもろて、そっで診てもろて、そして帰って二へん頼まんばならんですもんなあ!待たすればそうなあ・・・一ぺんに八〇〇円か七〇〇円かじゃなかろうかなあ!そしてそう待たすれば千何百円ですもん。そん、これが一番困っとです。どうせ、お医者さんにも今日は『先生!今まで来とったが、もう、ちょいちょい来られんとですけん!そっで、来っと(註・行くと)いう人を五人か一〇人かまとめて、ほして行こうと話合って来んば、もう、来られんですもんなあ!』って話で。『こりや困ったもんですなあ!』って。『これが一番因っとですばい』って・・・・」
63 町の医師
〇路地から医院へカメラ移動
土本「ここが、あの、相当な、やっぱり水銀汚染をですねえ・・・毛髪に(水銀が)出たということからですね、あの、まあ水俣病のアングルでですね、あの患者をその角度から検診なさるという事はなさっておられるのですか?」
〇医局、診察室、中年の医師である
スーパー ”町立診療所 医師”
医師「ここは確か三十六、イヤ四十六年ですねえ、あのいっせいの、一斉に検査がございましてね、(註・第一次調査)で、大体、あの、ピックアップされとるのは、一応、まあ、ふるいにかけられとるのは、かけられとるもんですから・・・。その後は特別にこれといって、そう診た、あれはないんですけども・・・・。」
土本「先生は、あの水俣のですね、いろんな患者の病像というものをですね、むこうにいって御覧になったことがございますか?」
医師「いや!ございませんねえ、ハァー・・・。」
土本「これは非常に失礼な言い方になりますけど、特にこの御所浦でですね、医学にたずさわっておられて・・・。」
医師「・・・その精密検査をやる!・・・というそのふるいわけがまたひじように難しいんですねえ、・・・もう・・・例えば、こう手足がしびれるという患者さん(註・水俣病の主要症状のひとつ)なんか、いや、患者でなくて、そういうような症状を訴える人は、案外、少なくないんですねえ。かなり居るわけなんです。・・・まあ一応、疑わしいのはどんどん、まあ・・・ひっぱり出してですねえ、まあ、専門家に診てもらう・・・・その手しかないんじゃないかと思いますねえ・・・もう、われわれ第一線医では、全然、手足でらんと思います。」
土本「先生でですね、申請をされたのは、何件ぐらいありますか?」
医師「ええ!いや、これはですねえ(つまる)実はおらんのです!はあー 。」
64 椛ノ木部落
〇地図 御所浦本島から更に牧島へ
ナレーション「牧島・椛の木は御所浦の中の、また離れ島である。戸数約四〇。ここに九二〇PPMを記録された婦人の家がある。」
〇自然のままの島影にそって進む先に、狭い舟つき場のある小部落がある。カメラ、海から島へと近づいていく
これに白倉さんの声が重なる。
スーパー ”松崎重一さん(椛ノ木)に語る白倉幸雄さん”
白倉さんの声「だんだん、だんだん、こう御所浦町自体もなあ、いまの町長も、議長さんたちもな、最初は反対じゃったばってん、こん頃はですよ、こんごろは、嵐口なんかにも病人がだんだん出てきはじめたもんだから、放っとくわけにもいかんもんなあ、政治もね!最近はですね、やはり役場も、ちいったあ風向きが変ってきたごたる・・・。」
松崎さんの声「ああ、そうですかあ(重く、おそい受けこたえである)。」
白倉さんの声「それで私もね、眼がもう少し見えれば、あんたの所にも再々、きて、あなたを力づけてやりたいと思うんですよ!というのはね、あんたの奥さんなんか、いろいろまあ・・・何ていいますかなあ、調べられた結果によると、ね、お宅の奥さんなんか、可哀そうに九〇〇いくらかのピーピーの、毛髪にあったという・・・。」
松崎さんの声「はあ、そん当時には、あんた・・・。」
白倉さんの声「ねえ!自分で病気せんば分るもんかな!だんだん、だんだん眼が見えなくなって淋しうなってねえ。・・・・・・」
〇谷あいの家々。その岡の上に、土葬の墓がある。ブリキ屋根は赤く錆び、水のみ茶碗が一つ。九二〇PPMの婦人の墓である。
白倉さんの声「・・・なにかこう・・・地獄の底に引き込まれていくような気がすっとですよ!・・・・それでなんとかしてね、奥さんもこうして亡くなっておるんだから、これは何とか方法がつかんとかっていうわけですたい。」
松崎さんの声「はあい。」
〇部落の細道を松崎さんの玄関まで辿るカメラ。
白倉さんの声「生き返らすわけにはいかんから!しかしこれは九九〇のピーピー(註・九二〇PPMのこと)がですね、有機水銀が、ほんとに含まれて亡くなったとするなら、その証拠品があるならばですよ(註・熊本県衛生試験所資料のこと)・・・証拠品があるならば、この人だって何とか方法がつかんとかつて・・・。」
松崎さんの声「はあい。」
白倉さんの声「そいでなあ、あんたも一回なあ診て貰いなっせよ・・。」
松崎さんの声「はい。そうですねえ!」
土本の声「白倉さんねえ、ちょっとお訊きしたいんですけど、松崎さんにですねえ、九二〇PPMがあったということがですね、あの、連絡があったんですか、その当時?」
65 松崎重一さんの家
〇こたつに入って端然とすわる重一さん。白倉夫妻と土本
松崎「・・・始まりは、もう一般民じゃったですもんね。そしてから、もう二週三週と(水銀量を計るための髪の毛を)採らしたとはうちと・・・うちんとだけは、ほう三遍とらしたとですたいね・・・。」
土本「あんまり高いんでね、怪しんで、三遍とったといってられました。」
松崎「はい、はい。そのほかの者もな、何人かは二遍なり採らしたと・・・三回採らしとは家内だけじゃったですもんねえ。」
土本「御医者さんが水俣病ではなかろうかという風には・・あのう・・・。」
松崎「(首を横に)いいえ!・・・その時分には水俣病という話しもなかったです・・・。で、家内が死んだ頃に、まあ、訪ねきらした衆(註・「告発」活動家で行政関係ではない)は、『あんたがん家の奥さんのあがんとは、水銀も多いし、こがん、こがんで水俣病じゃなかったか?水俣病という、あがんとは、そん、記憶はなかったか?』って聞かすばってんなあ、わしとして、水俣病はどういう風な・・・水俣病患者のひとを見たこともなかでしょうが・・・そいで水俣病が、どういう風な病気が水俣病かも、まだその当時は知らんじゃったですもんな。そいで、わしに聞かしたっちゃ、わしが水俣病がどがんとじゃ、何んとじゃい・・風邪びきとか、何とか、そういう風な・・・ぐらいは知るばってん、判るもんですかというたぐらいじゃったでした。」
白倉「七年ぐらい前はそうですね!」
松崎「はあ!テレビなんか見て、あの寝たきりの患者のチロチロ出るところば見れば、ああ・・・やっぱり!ああいう風な患者がおっとぞ!まあ、よう似いとるばいという、気持はあっとですばってん。(亡妻の様子を思い出して)また、起きて坐りもきらんで、ここば(とひじをついて)こうムシロについてですねえ、これくらいが一番、起きりよっとも最後じゃったですもんね(鼻をすすり上げる)。」
土本「松崎さん自身ですね、あの検診をうけられましたですか?」
松崎「わしですか?はい、わしはこっちの公民館に来らしたとの分(註・第一次検診)は受けたつです。一ぺん、おととしあそこに・・・あの上天草病院にですね、去年・・・一昨年になるですか、あの、出張して来、じゃったですもん(註・第二次検診の対照となったことを示す。第三次がつづいて行われる)でちょうどその日は嵐の日で、雨風で、それで、この部落からは、誰れも行かんじゃったで・・・舟の、あすこに着けられんというてですね。で、他所さにいってにや、あがんして受診けたととはなかでした。」
土本「別の、別の日にですね、あの・・・検診なんかやるということはなかったんですか?」
松崎「いえ!そりゃあ、なかったです!」
土本「それじゃ、嵐のためにあれですねえ!」
白倉「はい、してなかです・・・。」
松崎「はい、してなかっです。」
白倉「上天草、第二、第二回の検診ですね。はい。」
66 その帰り路
〇白倉さんの帰りを、見送ろうとする松崎さん。その背に語りつづける白倉さん
「あんたでん、私でんですよ、・・・私の眼もおそらく水俣病じゃないかなあ、と思わるる。あなたがそうしてヒョロヒョロ、ヒョロヒョロしとんのも、或いはですよー 水俣病でないならば、私は結構と思うーしかし、もしあなたが、水俣病に侵されているとするならば、私は勇気を出してですよ・・・まわりの、周囲の人たちなんかに、もう、恥かしい思いをすること無かで!これ、伝染病でなかけん遺伝でもない!な・・・つまり魚を喰うことによって、喰たことによって感染するのが公害じゃけんな!公害の病気!あってん、あんた、神経痛とかねえ、リュマチとか、それから中風とか言うても、治らんでしょうが、実際は!お医者さん次第では、『あんたは中風やがな、あんたんとは、神経痛ばな!』とおっしゃるけれども、実際の専門家にいわすればですよ、専門の御医者さんに言わすれば、『どうも白倉さん!あんたは、やはり、魚を喰うた結果による水俣病のようでございますよ!』といわれた以上は、これはもう!今の裁判の結果による賠償金でも貰わなければわたしゃ浮ばれんもね!・・・・と思うのが私ですよ。」
67 墓のある山
〇二隻の漁船が帰投している。ふたたび、松崎夫人の墓。
白倉さんの声「・・・もともとただせば、いまの日窒会社(註・チッソの旧称)それ自体が悪いんじゃないか!というのが私。そぎゃんとば憎までな、誰ば、あんたどんは憎むとか?病人ばそがん憎む必要もなかろうもんというのが、私ですたいねえ!・・・そぎやんでしょうが?」
松崎さんの声「(笑いさえ浮べながらつよく)仇じゃばってんか、いくらかの香典なっとなあ(笑う)・・・くだっせば、それでもう、ありがとう・・・。」
67 再び不知火海の水俣病発生の可能性について
〇不知火海産の魚の汚染データをめぐって。
スーパー ”ふたたび、武内忠男氏(熊本大学・病理学)
武内「これは昨年(註・昭四八)の八月時点の魚ですけども、これはやはり・・・魚は蛋白源で重要なもんですから、あの、あまりにも危険が・・・何ていいますか、強調されますとね、喰べなくなるでしょう?そうすると、ここ(不知火海)に住んでおる、少くとも魚を採る漁民の人たちは生活出来ないということになるんですよ!・・・それが、あのう、生活できるような形でなければ『喰べるな!』とは言えないんですからね!そのかねあいは非常にむつかしいわけですね。(ことば途切れる)しかし、私どもの医学的に、純医学的な立場から言えばですね、やはり・・・今までのような喰べ方を漁民の方がすれば、あるいは一般の人でも、魚が好きでですね、一日に三〇〇グラム、あるいはそれ以上喰べるということはですね、かなり警戒しなきゃいけないんじゃないかと思いますね。」
〇別のデー夕、患者発住図を示し
土本「いま、ここの中だけの・・・状況から、もっと拡がるという可能性も今後に残されているわけですね?」
武内「(つよく)喰べつづけたらですね!」
土本「喰べつづけてますよ!」
武内「だから、喰べ続けないようにしなきゃ困るわけです!」
土本「それはしないですよ、この人たちは!」
69 フグ漁の朝
〇未明、真赤な朝やけの中、一隻一隻小船が出てゆく。エンジンを全開にして漁場にゆく。
ナレーション「四月、御所浦は全島、フグ漁の最盛期をむかえていた。」
その朝の海の上を漁師・森徳松さんの浪花節が舟唄のように流れる。
八代の
八代の
セメント会社ば 右に見て、
横に見ゆるは横浦の
欲はいわねどつゆどころ
左に見ゆるは
嵐口の
中の瀬戸をば越えまして・・・
〇朝陽を背にして進む。うみすずめが、群をなして漁船に道をあけている。
〇はるかかなたに、全船、白帆をあげたフグ漁の船約三百隻。漂砂と群れている。
種はまかねど
牧の島
ついた所が御所浦の
花の都の
(エエ・・・)
御所の浦
スーパー ”フグ一本釣漁”
〇浪花節と共に船団の中に入る。
70 エピローグ
〇舷から、老いも若きも、女も、指にかけた一本の釣糸を垂らしている。
〇群ごとにかたまっている漁船。船首をそろえて、海底のフグの群の上にある。
漁師「かたまってですね、フグはずっと、こう、始終もってかたまって漂るくんですよ・・・そすと、ここに(船のかたまりが)むこうにもおるでしょう。・・・そいでむこうにひとかたまり、ここにひとかたまりいう風にして、ずうっとフグがこうかたまって漂くんですよ。」
〇餌のサバの切り身の先の鋭い針にわきばらをひっかけられた大フグが上ってくる。やはり歯を折られる。
〇いけすの中で元気なフグ四・五匹
「・・・それを電波で見てですね、回ってこう採って漂るくんですよ。はあ、やっぱりですなあ、一日にやっぱ二万三万。釣るのは五万六万と釣るんですからなあ、やっぱり。そいでやっぱり、一ヵ月すれば五〇万か六〇万ぐらいの水揚げがあるんですよ。」
〇数隻、舷を接して漾っている。
〇子もちの夫婦が舟の上で朝餉である。子供たちは船の上の蛸と遊んでいる。
〇生後まもない赤ん坊も舟板の上にいる。「そいで、みんなで、ああいうふうして、朝飯ば食べるんですよ、みんな寄って。(大声で笑いながら)酒でんのんで!朝ごはんに、酒でんのんでから、ハハハ!で、漁師の仕事はですね、なんでも、まあ・・・やっぱり、まあ(強く)肉体労働じゃなかですからなあ。みんなこう、機械ばっかしですから・・・そっで楽なもんですよ。そして簡単にして、おかねをとるんですよ!やっぱり!」
〇いけすの大フグ (音楽、ギター曲始る)
〇赤ん坊を抱く母親
「面白いですよ!くうときはあんた、こんな大きなフグをですね、三〇も四〇も釣るんですから・・・ハハハ、ようしたもんですよ!やっぱ!」
〇朝陽を背に漁船の群、海の上に、魚の群の上につきそって漾よう。海にシェルエットのようにうかぶ船の中をゆくカメラ。海が痛く光りつづける (音楽終る)
淵脇国雄宮下雅則334音楽『松村禎三作品』より『小莱孝之作品』より
71 字幕 ”不知火海ー昭和五〇年一月”
72 タイトル(ローリング)
製作 青林舎 高木隆太郎
スタッフ(五十音順)
浅沼 幸一
有馬 澄雄
石橋 エリ子
一之瀬 紘子
一之瀬 正史
市原 啓子
伊藤 惣一
江西 浩一
大津 幸四郎
岡垣 亨
小池 征人
土本 典昭
成沢 孝男
淵脇 国盛
宮下 雅則
音楽
「松村禎三作品」より
「小栗孝之作品」より
協力
塩田 武史
坂口 顕
川本 久
星野 道雄
水俣病患者同盟
水俣病センター相思社
水俣病研究会
水俣病を告発する会
新日本窒素労働組合
熊本日日新聞社
タイトル/青映社・ワールドビジョン
機材/記録映材社・東京シネマ新社
録音/三幸スタジオ・新坂スタジオ
現象/T B S映画社・東洋現像所
青林舎 事務所
米田 正篤
重松 良周
佐々木 正明
飛田 貴子
長 もも子
(上映時間ニ時間三十三分)
採録責任
小池 征人
土本 典昭
有馬 澄雄
(註)永尾神社と不知火
宇土郡不知火町水尾区にある海童神を祀った神社で、古くから胃腸病の神として辺郷近在の人達の信仰をあつめてきた。
伝承に、昔海童神が不知火海から”えい”の背中にのって字土半島を越えようとして陸に上りそのまま鎮座した、という漁どりの民の生活圏にふさわしい物話が残っている。北にある鎌田山がその御座(永尾神社の奥の院)で”えい”の魚にあたり、神社が尾尖にあたるところから、別名”剣神社”と呼び親しまれてきた。また海岸に海の参道があり海神にふさわしい。
永尾神社はまた”不知火”を観望する場所として有名で、旧暦の八月一日、八朔祭の日は、一年中で最も干満の差がはげしく暗夜である関係で、”不知火”出現の可能性が一番高いとされている。”不知火”の起る原因は、景行天皇が九州征西のとき”不知火”と名付けたとの神話の物語り以来あれこれ考えられてきた。信仰と結びつき神秘的な伝承として龍燈説、あるいは漁火説や動物発光説、星光投影説その他があったが、大正年間頃より科学的解明がすすみ、”不知火”は気象学的現象であって、光の空気通過中の異常屈折による明滅現象である、とされている。
八代海が別称”不知火海”と呼ばれるのはこの”不知火”に由来することは言うまでもない。
長井君たちのその後
長井君をはじめとする明水園の若い患者たちと青林舎のスタッフとは、水俣からわれわれが離れて以後もいろいろの形で交信(カセット・テープによる手紙のやりとりなど)がある。それらを通じわれわれが見守っている、長井君らの活動の一つに八ミリ映画を撮りはじめたことがある。多くの人達の協力で念願の八ミリカメラを手に入れた長井君は、若い患者でスタッフを組み、明水園や水俣の風景など撮りためたものが早や二時間ほどの長さに達している。フィルムに撮しとられた映像は、われわれのそれとは趣を異にして、患者の眼から眺めた外界であり、あるいは車イスから撮る低いカメラアングルの記録である、若々しく新鮮な映像は、他ならぬ長井君たちの自己表現の手段となり、彼らの仲間あるいは外部の人たちとの有効なコミュニケーションの手段となっている。
御所浦島の医学的地位
御所浦は水俣の対岸約二〇キロの距離にある。典型的な過疎地帯である。漁業中心の生活が現在までつづき、魚種によっては水俣沖まで漁に出ている。三四年、汚染のピーク時、多数の猫の狂死(水俣病発生の前兆とされた。原因は回遊魚と考えられた)が気づかれ、また毛髪水銀量調査によって最高の九二〇PPMをはじめ一〇〇PPMに限っても数十人という高濃度汚染が確認されており、早くから水俣病患者の存在か疑われていた。漁業現業の島であるため、それらの事実は最近まで隠され、水俣病の情報は伝えられず、医学的に調査されることはなかった。従って住民も、諸症候をそれと気づかずあるいは隠して現在に至った。四十六・七年になされた熊大第二次研究班の調査(但し四分の一の人が住む嵐口のみ)で三〇数人の水俣病が疑われ(その中で本人が申請した人のみ、現在一一人が認定されている)本格的な疫学調査の必要が指摘されたが、形どおりの調査のみで終った。ここは一昔前の水俣と相似であり、その厳しい情況のなかから大浦の白倉さん達が立ち上った。水俣を中心に対岸の島々は御所浦と大同小異であり、医学未踏の地といえる。この御所浦島の現実の把握の仕方が、不知火海全域の汚染をどう考えるか、どうとり組むかの一つの指標とも言えよう。
毛髪水銀量調査
「水俣病は三十五年に終った」という医学常識あるいは社会風潮のなかで、熊本県衛生研究所松島義一氏は、三十五年ー三十七年にかけ、不知火海沿岸住民約三〇〇〇人について毛髪水銀量調査をやった。熊大医学研究班とは別に、水俣病発庄の可能性の有無、予防の観点からなされた。この調査によって、有機水俣汚染が不知火海全域にわたることが明らかとなった。最高値で九二〇PPM(御所浦の婦人)、また水俣病の症状を疑われた人も見出された。松島氏は毎年調査結果をまとめ、関係市町村衛生担当者に送ったが、このデータは三十五年以降の水銀汚染の経年的減少の証拠として、熊本県によって利用されたのみで、毛髪水銀高値の人達の追跡検診も、あるいは本人に対する通知も全く行なわれず埋もれてしまった。
昭和四十六年に至り、これらの基礎データは、水俣病を告発する会員の手で捜し出された。
松崎重一さんの奥さん
松島氏の調査で最高値の毛髪水銀量が記録された。松崎さんの奥さんの髪の毛は、根元から切りそろえ三〇センチの長さがあった。松島氏は水銀蓄積の時期を推定する目的で、三センチづつ十等分し水銀測定したととろ、根元四三〇PPM、先端一八五五PPM、平均九二〇PPMが検出された。驚いた松島氏は、至急町役場を通じて連絡したところ、毛髪提出以前から病臥しており、その症状は水俣病と同様だったと伝えられた。また審査会にも報告したが、調べられることは全くなく、その後四十二年に奥さんは亡った。松崎さんの奥さんの死は、水俣を中心に不知火海沿岸において、人知れずそのようにして死んだ多くの人達の運命を象徴しているといえる。