殉教の島々に水俣病の影は濃く 「不知火海」映写の旅 『アサヒグラフ』 9月16日号 朝日新聞社 <1977年(昭52)>
 殉教の島々に水俣病の影は濃く 「不知火海」映写の旅 「アサヒグラフ」 9月16日号 朝日新聞社

 「何故あんたらがこんなところまでわざわざ映画を見せにくるんか、その趣旨ちゅうんか、そこんとこがいっちょう分からんとたい」
 と、焼酎をひっかけた漁師がからみ出す。
 「そこんとこたい」
 と、店のあるじもかみつく。
 これは巡海上映の初日、熊本県天草郡の漁村牟田(戸数百五十戸)でのことである。
 思えば、この不知火海沿岸部を移動映画で一巡するプランは、私たち水俣病映画を撮り続けてきたスタッフにとって、いつかは果たさなければならないプランであった。いくら映画を作っても、この地帯には一度も持ちこまれたことがなかったからである。
 水俣病の病像と水俣病事件の真実が、この不知火海の住民に丁寧に知らされたことはなかった。むろんテレビや新聞は、それを報じた。しかし住民は、生活とつながる漁協や町当局、あるいはかかりつけの医者や地域の保健所から、水俣病はどうして発症し、どんな症状で、どうすればよいかをじかに周知徹底してもらいたかったにちがいない。
 だが、水俣病は、被害の当事者である不知火海沿岸住民に一回も公的にその真実を知らされなかった点で、逆に、住民は社会的に差別的なとりあつかいをうけてきた。コレラの発生の例をとっても、一旦起きた疾病には、行政は意を尽くして疫学的にうごくものだ。だが、こうした配慮は、この”病気″に関する限り皆無だったといってよい。
 水俣病の検診に当たっても、住民には水俣病の知識が全くゼロで、ただただ医師が、表紙をカバーしたアンチョコを見て、「うん、これは間違いない」と、”典型的水俣病″として答えを出す-といったやり方を、いまも暗黙裡に固守しているかにみえる。
 昭和四十九年夏、熊本県の行った”ムチャクチャ集中検診”と呼ばれた認定促進措置による約五百人を対象とした検診の際、ある認定審査会の中心メンバーのひとりが、水俣病については臨床体験の少ない寄せ集めの医師たちに対して、「水俣病をわざとよそおうものがあるから、暗示的な問診の方法をとらぬように……」と、くれぐれも注意したと聞く。いかにもありそうな話である。水俣病の症状を周知徹底すれば、虚偽の愁訴を誘発し、いわゆる”ニセ患者”を出すといわんばかりの注意である。

 衝撃的だった毛髪水銀値

 私たちがこの不知火海の天草側、離島側を映画をもって歩こうとしたのには、はっきりと根拠があった。それは昭和三十五、六年、県の衛生試験所が一部住民を対象に行った毛髪中の水銀分析データが、十年後に発見され、そこに個人別に毛髪水銀値が記録されていたからである。このデータは衝撃的だった。水俣に集中していた私たちの視界を、一挙に不知火海全域に振り向けたのである。
 ”爆心地”水俣、そのまた中心で、第一号患者の発生した地帯では最高でも五〇ppm前後に水銀値が落ちこんでいたそのころ、水俣から二十キロ離れた御所浦町で九二〇ppmという最高値が検出された。検査側の松島義一技師はあやしんで、三度も毛髪を採取し直したという。当時ですら五〇ppmが最低発症閾値とされていた(今日では武内忠男熊大教授によれば二五ppmとみるべきだという)。これは恐らく致死量を超えていよう。
 事実この人、松崎ナスさんは昭和四十二年に悶死したが、私が映画「不知火海」を撮り、記録した中で確かめた限り、データはデータにとどまり、医療の応答は死ぬまでの数年間、皆無であった。私たちは、映画の中で、この証言をしてくれた夫、松崎重一さんの重症な”老人病”に驚き、申請をすすめ、その内諾を得た。その後、川本輝夫氏(患者代表)が手続きをしたにかかわらず、ロウソクの灯の消えるように亡くなられた。 今年二月のことである。
 町当局を訪ねて聞けば、「ここはなんべんも洗い出しました」と、判で押したような返事がいまも返ってくる。しかし、住民の側から逆にたどれば、最高の水銀汚染者に最高の手をつくすという原則すらなく、遺棄に等しい処遇なのである。町当局自体、県や国から啓蒙、教育の手だてをつくされているだろうか。水俣視察や水俣病像の研究会が、この地にきめこまかく実施されたなどということは、絶えて聞いたことがない。
 今回、まだわずかの町村、集落しか歩けていないが、水俣病像についての認識は新聞、テレビの域を超えないでいた。まして、沿岸住民に町当局が広報し、教育することなど出来得ようか。そのための映画購入も、スライド製作すらない。何もないのである。県、国のレベルの周知徹底の作業は、皆無なのだ。
 「何故、あんたらが、金もかかろうに……、こんなところまでくるのか」という漁民の質問に、「これは本来、県や国がやるべきですが、そこはその、水俣病の水俣病たるゆえんで……」と、経過の糸口を汗だくでさがしながら答える私たちの脳裏に、突然、「知らしむべからず、よらしむべし」といった、古典的・封建制イデオロギーの一句が浮かんできたりするのである。
 水俣病を知らされないまま汚染魚をたべつづけた……、そのことで、一度も食いびかえることはなかった情報未到の地の島々に、水銀蓄積の中心地が形成され、人々は死に、病み、おとろえた。水俣と離島の間には、水俣病の認識で二十年のずれが生まれたであろう。あるいは、いまもずれっ放しかも知れない。もし、行政がたえず魚の汚染を警告し、水俣病の正確な知識をあますことなく伝えていたなら、かくも犯罪的な社会的人為的時差は生まれなかったであろう。
 石原環境庁長官が去る五月、忙しいスケジュールの中で、分きざみで獅子島、桂島といった離島を、海上保安庁の高速艇で訪れたのはさすがである。それは誰の発想であろうか。水俣病の今後の舞台が、不知火海全域にまでひろがったと見るのは、当然なのである。

 患者が出れば魚は売れぬ

 あらためて訪れてみると、天草漁民の壁は、私たちにはやはり厚い。この地にとっての水俣病騒ぎは、魚の売れなかった、のべ数年間のいわれない困難の体験でしかないのだ。
 「私たちは何年間も水俣の映画を作ってきたが、一番見てもらいたいあなた方に見てもらえなかったから、まず見て、知ってもらいたいと思って……」という私に、ある町の漁協組合長は、「マンガ映画、機関車の映画もありますので、一家揃って云々」のビラをひっくり返しながら、「あんたどんは「海辺の映画会」なんのって……、何故もっとはっきり、趣旨は「未認定患者の発掘にある!」といわんのか。そうすれば、もっとはっきりする」と、彼は私の心理の裏側をひっかきまわす。「それはあなたの本音ですか」と、私なりに眼をすえてきくと、彼の話のつぎ穂がなくなるのである。
 また、「あんた、となりの御所浦ではじめて三人の患者が出たとき、あすこの魚は六カ月、だあれも引きとってくれんじゃった。「もしこの島で申請のなんのっていうものがいたら、突くの刺すのしてやるで!」というもんすらおるけんな。食わにゃならんで!分かるかな」と、別の漁民の話はこの一点で必ず、屈折して、痛み出すのである。つまり、漁協組合長の「未認定患者発掘のための映画会にすべきだ」という意図の裏に、どんな苦渋があるか、ここでは分かる気がする。正面切って断れない変な映画会がやってきた。どう対応すべきか決め手がない、と告白している気がしたのである。そして深夜、彼は奥さんに託し、賛助金を届け、悪天候の場合は彼の屋敷うちに泊まる場所がある、と教えてくれるのであった。
 事実、”変な映画会″は浦々で盛況であった。孤絶した集落ほど、驚くほどの動員率であった。屋外上映のため、どこからでも眺められた。八千四百人の登録人口の十集落で十三回上映し、計二千二十四八、二五パーセント近くの人々に見せたこともある。大人も子どもも映画会場に集まってくる。そして小学校高学年以上は概しておとなしく「水俣病・その20年」をみてくれた。
 八月半ばは、お盆であった。都会に、あるいは遠洋に出ていた働き手が、一斉に村にもどってきた。年寄りたちは、上等の着物を一せいにむし干しし、老婆はにしめを作り、婦人たちは盆おどりのけい古や、かざりつけの花生けに余念がない。魚屋のイケ簀の中には小さな雑魚しか残っていない。みな、帰省した者のための御馳走になっているのだ。
 この”辺境”には、共同体がこのときとばかり息をふきかえしていた。たとえば樋の島下桶川では村社の奉納相撲連綿百年祭とあって、青年たちはダンプで赤土を盛っての土俵作りに大わらわであった。見る見るうちに四本柱をぶっ立て、紅白の布をそれに巻き、桟敷をつくる。若衆宿の残り香が、その汗まみれの体臭ににおう。こんなときに、わたしたち四人(私、一之瀬正史、小池征人、西山正啓)は、暑さにパテながら、具合わるそうに「水俣病の映画」をもって祭りの準備の渦中に到着するのである。

 臨機応変の解説を入れる

 さすが若いスタッフが知恵をしぼっただけあって、六流の旗さしもの、車の横腹の 「海辺の映画会」の文字は人目をひく。画家・川本久氏のバタ臭い舶来雑誌の写真をコラージュしての蛸や魚のポスターが、子どもにとっての謎ときあそびになる。”動く一DK”といった趣の、色川大吉氏とのユーラシア横断の前歴をもつキャンピングカー、そして石牟礼道子氏推せんの「おしどり道中」や「妻恋道中」をバックに流した女声による呼びこみ用テープなど、人眼をひくには事かかない。ガキ大将が七五三でほお紅をぬられたような気色である。
 これが古色ゆかしい天草の浜辺に登場し、むくつけき四人の中年を先頭とする映画屋が呼びこみをはじめるのだから、異形である。テレビはあっても、映画に触れるのは三、四年ぶり、十六ミリ映写機の実物すら見もののうち、といった文化の恵まれないところゆえ、圧倒的に子供が主な観客である。だが「水俣病」の映画をやるということは、みんな知っている。「水俣病の映画だけじゃなかね!マンガもやってくるると?」と念を押し、握りしめた手の平から温まった百円玉をカンパ篭にほうり込むのである。
 映画をみての反応は一回ごとに違っている。私たちの映画会のもち方、観客層の分析と、その対応ごとに敏感に変化する。「水俣病・その20年」「水俣-患者さんとその世界」「不知火海」「医学としての水俣病-資料・証言篇」と時、所を変えて上映する。そして必ず、別のマイクで臨機応変の解説を入れる。銀幕の反射で分かる観客の表情に応じ、毎回、とっさのコメントを加える。
 この仕事は、映画の作り手として興奮の連続ともいえる重度の精神労働、反射運動である。だが、これをしないと気がすまない。なぜなら、恐らくこの人たちにとって二十年間、はじめての水俣映画であり、かけがえのない一生一度の映画会かも知れないからだ。

 水俣の二十年前の世界を見た

 この地帯の人びとにとって、水俣病は依然”奇病” ”伝染病”の初印象からぬけ出し得ないでいる。もし一家一族から水俣病が出たら、孫末代までの業の深い家系となり、村八分される不安から一歩も出られないでいるのだ。勢い私は、「これは、いわゆる病気ではありません。いままでの遺伝病ではありません。工場の毒による中毒です。全然ちがうものです。海がどう汚れているか、どこが汚染されているか、魚はいまどうなっているか、原因を知って、今後どうすればいいか考えることです。とくに水俣湾のヘドロ処理を漁民として監視して下さい。そして汚染の実態を本格的に調べ、一切を公表するよう県や国に要求することです。水俣病はいわゆる昔いわれた結核やレプラではない……チッソ工場の流した毒による中毒です。一家の名折れでなく、この不知火海一帯十何万の人たちみんなの問題です」と、観客に速射砲のように言葉を撃ちつづけることになるのである。
 いまのところ、観客の三分の一が大人、そのほとんどが婦人層である。現役の漁師は貴重な存在である。私たちは、いつも最も熱心な観客である若い漁村婦人のひとかたまりに焦点をむけている。二十代、三十代の子もちの主婦たちである。映画のシーン中、小児性水俣病、胎児性水俣病に息をのむこの人たちが、恐らくこの地帯の水俣病に根づよく関心をもつ人々となるだろうと思うからだ。映画会のあと、「うちの父ちゃんは蛸がすきで、蛸がなからんばですなあ……、蛸の水銀はどげんですか」などと聞かれる。水俣では四年ほど前二八PPmあった、などといっても始まらない。いつも、住民は具体的である。また、ある人は水俣市立病院で水俣病ではありませんといわれ、公式に「棄却」されたと思いこみ、以後、村八分の中で耐えていた。水俣病は県に村する水俣病認定申請しか、公的効力は発動しない。そのことすら知らなかったのだ。私がその翌日、訪ねたその老人は、生活歴からみても、ある時期の半分を百間港の船上生活者として暮らした”天草漁民″であり、水俣市月の浦の住民と同等の濃厚汚染を体験した坑木運搬船の船長だった(昭和二十三~四十二年)。
 このほか、水俣病と疑われた人々の話は、調査の上、後日にゆずらせて頂くが、私たちは天草に来てはじめて、水俣の二十年前の世界を、あたかもフィルムの逆回転のように見たのであった。    
(記録映画監督)