「報告」モリ・トラオレとその映画“車に轢かれた犬”(モリ・トラオレ監督・出演1979年作品) 試写会のご案内 11月20日
いま私はアフリカ象牙海岸生まれのモリ・トラオレの長編処女作「車に轢かれた犬」の日本での自主公開と上映運動の責任者のひとりに立つ決心でいる。この映画が知己の作ったそれであり、深く胸をうった作品であるためだけではない。彼が象牙海岸に帰って映画運動に没頭したい、そのため日本を去る-しかしこの映画はこれを作った日本でまず公開したいというジレンマを見るに見かねるといった事情もある。住んでいた京都には友人も少なくないが、東京で相談できる人は旧知の元アテネ・フランセ文化センターの倉岡明子や岩波映画の時枝俊枝、そしてフランス語教師の金川忠敬と私といった寒ざむしい出発である。しかしものごとの始めはこんなものだとおもう。
やや話が長くなって申しわけないが、私がこの黒人映画青年モリ・トラオレとその妻、関西日仏学院の教師でもあったマリ・ジョゼ(白人)と会ったのは、昨七八年春、京大・西部講堂で、ユージン・アイリン・スミスの「水俣」写真展と並行してもたれた映画会の折だった。植民地的混血の血統のない純黒人、長身で俳優、ダンサーというよりボクサーのような体躯に理智的なマスクと明眸をもつ彼と、小柄なラテン女性で聡明かつ控え目な妻との二人から、当時あたためていた映画作りの相談をうけた。それは三、四年前におきたカメルーン出身の黒人の自殺、日本におけるヨーロッパ人の妻との生活破壊による「車に轢かれた犬」のような三面記事にもならない話を下敷きにした映画だという。資金は二人でためた三、四百万円の貯金であった(結局最終的には一千万円近くになった)。
「フランスで差別をのりこえて愛を貫いた白人とアフリカ人の夫婦、それが日本の中のフランス人社会、日本人社会の見えざる差別とぶべつの中で宿なし犬のように死に追いやられた話をもとに、自分の青春の体験を同様にぶちこんで描きたい」というものであった。象牙海岸からフランスに学び日本で暮らした十年の映画・演劇の勉強のひとつの決算に、できればしたいという。単なる映画青年の情熱といったものではなかった。主張も主題も、眼前の二人のカップルのぬきさしならないものに思えた。「映画をつくる」ことの困難さに気弱になりながら、相談相手の私の興味の度合を必死で求めた。私は半ば「ムリだろ」とたじろぎながら、しかしそのひっぱくした心情に協力を約束せざるを得なかった。
そして一年後、彼は未完成の「よそもの」と仮につけた映画をもってきた。これが「車に轢かれた犬」である。京都を舞台に素人の日本人、ヨ一口ッパ人、黒人を数十人登場させた本格的劇映画であった。彼は見違えるほど誇り高く、上気した汗ばんだ表情であった。映画は静止した、ロングショットの多い、およそ手もちカメラのヌーベル・バーグ調と反対の静かな画像で、彼らの生活とその社会を枠に入れ、そのなかで「黒人夫婦」もろとも社会的差別に遭い、白人の妻の離脱によって、ひとりボロボロに腐蝕し、孤立し、自殺に追いつめられる一アフリカ人インテリゲンチャーを自作自演で展開していた。妻に、ついには、「皮膚」と「アフリカ大陸」の業をなじられ、狂っていく。その法則的ともいえる人間崩壊の例をまたず、また意気軒昂と日本に赴任してきた黒人家族の主を正視しつづけ、同じ皮膚の業を問うラストで胸苦しく終っていた。日本とフランスそしてヨーロッパ化した黒人をもともに串刺するものであった。
彼に興味をもった私は雑誌「部落解放」一二二号、「別冊・解放教育“差別とたたかう文化“」第七号にのっている彼の主張を読んだ。(映画のなかでも彼の日本でのよりどころは「被差別部落」の人びとだけだった)
私はかってパリでスポーツ車にのり、ダンディに暮すアフリカ上流社会の留学生やアラブの金持の息子をみていたためか、パリで高等教育をうけられた彼にそれを重ねる見方もなかったとはいえない。しかし一読、パリの五月革命の激動期に貧しい流浪移民のひとりとして植民地宗主国に糧を求めて働きだした彼を知った。象牙海岸での少年時代、失業した日は「水をたらふくのんで寝ろ」と父にいわれ、兄弟のためにゴミ箱あさりをしてしのいだこと、旧植民地主義ののこるパリで、同胞にまずごまかされないためにフランス語での労働用語、労務規則のことばから教える識字運動に身を粉にして働いてきたことを知った。そして彼にとって映画とは文化斗争の彼の選択した手段であ、ることも知らされた。
「車に轢かれた犬」にみる限り、彼の演技は押し殺した感情抑制とその一気の爆発「怒りと自殺」にむけている。だがその彼の体験の厚みがにじんで表情に吸引されつづける。この映画の魅力は豊富な、リアリティが意識的な広い画面のすみずみに埋めこまれていることだ。もっとも資金と人間不足のため、二人の間の混血の子が途中から出演不能になってしまう不手際や日本人出演者の一本調子の演技のぎこちなさはのこるが、主たる人物の陰影は処女作としてのみずみずしさと交わって印象ぶかい。それにしても彼をとりまく妻や文化人の白人諸君の演技のリアリティは特筆すべきものをもっていた。白人のカメラマン、そして編集者のクロード・ガニヨン(ATG作品「ケイコ」の監督)そして製作の日本の青年たちを一つの焦点にみちびいた映画作家としての力量はたしかであると思えた。更に白人演技者(劇中否定的人物に扱われている)のナイーヴな“日常的演技“的リアリティにはモリの映画の上での主張へのふしぎな共鳴関係がよみとれる。在日フランス人のある部分のアフリカへのこころが体をなしたのであろうか。私は映画としては「小品ながら佳作」といった態のこの作品の受けとられかたを予想しつつも、この新らしさに眼を注がずにはいられない。
16ミリ作品のためATGはじめ一般映画劇場での公開に難があり、また主題そのものがなじまぬものかもしれないとありきたりの危惧をもちつつ、いま彼にぐいぐいひきよせられていく自分を感じている。妻はこの秋、夫の帰国を前に象牙海岸に赴任し、彼もまた帰心矢のごとしである「文字のないアフリカでの文化の斗いに映画はパワーがある」と語る。「母国のバンバラ語で映画を作る」とも夢を語る。ともかく日本で彼は映画作家として出発した。その青春の碑である。それが光る。
来年初夏を選んで日本公開をしたい。そのとき日本にアフリカから飛んでくると約束した。どうかともに彼の志を支えてほしいと切に願うものである。
1979年11月20日