映画『偲ぶ・中野重治』完成にあたり 『新日本文学』 12月号 新日本文学会 <1979年(昭54)>
 映画『偲ぶ・中野重治』完成にあたり 「新日本文学」 12月号 新日本文学会

 もし、現代史がゆがみのないものであったら、こうした映画を一グループの手で個人的につくる必要はなかったでしょう。一九二〇年代から、革命を念頭におきつづけた作家が、ある党派の歴史からは欠落され、抹消されかねない事態を目撃してきた私たちは、中野重治さんのせめて棺をおおう日の記録だけでも、のちに残しておきたいと思いました。映画を作る動機はそれ以上でも以下でもありません。
 葬儀の二日前に旅行から帰った私はスタッフも資金も定かではありませんでした。もとより中野さんの死は予知できぬことです。「当日の全記録」をと呼びかけた場合、私には確かな仲間の顏が何十人と泛び見えていました。そして連絡可能な人々によってこの映画を作りはじめました。最初に青林舎の高木隆太郎、西山正啓に打ちあけ、友人の監督、羽田澄子に相談し、フリーカメラマンの高光に、鈴木志郎康、そして『東京クロム砂漠』の若いスタッフ等で当日を撮り、各氏でフィルムの各パートは仕上げられました。資金も伊丹十三氏や数人の申し出で充当の目途も立ちました。これはある勢いによります。「中野重治とその死」は私たちの心を駆動する、あの情念を呼んだのでした。
 政治が変れば、写真やフィルムからある人像が消える-というフィルムの写実力以前の操作が横行する現代でも、まだオリジナルなフィルムは保存しうるはずです。ある人間の真か偽かは映像、声、その肖像と全人的質感そのもので主張しうる力があると私には思えてなりません。それは記録”映画″を選んだ私の心のしんばり棒です。そして文字だけでなく、現代では映像記録が加わってはじめて、ひとつの「記録総体」が形成され得ると思います。
 もとより映画は中野さんの死と告別に限定しています。決して生涯の記録になり得てはいませんし、そうしなかったつもりです。だが幸い私たちの手になる『告別・神山茂夫』小池征人一九七四)に生前の氏が映像としてのこっており、NHKの未発表のLPがあり最高の録音でした。更に、鈴木瑞穂朗読による「雨の降る品川駅」を収め、詩碑も文学碑も拒まれた中野さんの福井の在の墓所もラストに入れました。
 葬儀の記録とは告別する人びとの記録です。弔辞をのべられた山本健吉、国分一太郎、尾崎一雄、石堂清倫、臼井吉見、桑原武夫、宇野重吉、本多秋五、そして友人代表の佐多稲子、遺族原泉さんらをクローズ・アップとマイクで見つめました。私も肉眼で会場にいていちぶしじゅうを見ていたはずです。しかしフィルムに残ったものは各人の精神的重量感と交わりの五十年の存在感でした。文字なき世界で、死者をことばで語り継ぐことの方が本来的伝承であると思わせるほどの凝縮がありました。映像の力は、私にとって依然として畏怖の対象であることを知らされます。
 この五十五分の一篇は中野さんの奥さん、原泉さんに私家版として贈りましたが、原さんから私のもとめで広く公開用にプリント一本が手渡されました。この『偲ぶ・中野重治』を皆さんの手で広められる機会あれば、幸せこれにすぎません。 
(つちもと のりあき)