不知火海水俣病元年の記録-第二部・2 「暗河」 1980年 春季号 暗河の会
伝説のひと
かつて天草と水俣を逆のえにしでつなぎ、いまはその消息のつかみがたきと、水俣にかかわって不運を負いながら、ひとり黙しているひととして、私にとって竜力岳・樋島の桑原勝記氏は天草人のなかでも伝説的人物であった。
七七年巡海映画で、不知火海沿岸漁村で上映の旅をしたとき、樋島入り、つまり映画の上映を肯いたのは彼であった。そしてお盆の奉納相撲の場で、むらの総出の相撲をとりしきり、近郷の名士を招いて、その総代の貫録を端然と坐したまま示していたのも彼であった。巨漢であり、実力者のゆとりをみせていた。戦前、戦中、元海軍相撲の五段といわれ、東京の両国の力士に伍しても実力関脇と言われたひとだ。
彼はことば少なな中にもそれを誇りとしているかのように自己紹介の枕をつぎのように語り出すのだ。
「わしは戦艦霧島にのっとったが、艦長に目をかけられ、霧島の字をとって”霧ケ里”と名乗れといわれた。国体にも六回連続出場した記録ももっとる。はたちぐらいのときじゃったか……」
猪首に大きな面がまえがすわっていた。その潮灼けの顔に太い眉、すでに長寿の相といわれる長い眉毛が十数本上むきにピンと立っている。その瞳は銀光りのような紅彩をもっていた。体重はいまも優に百キロ近いであろう。
その彼が一九五九年(昭和三十四年)秋の不知火海漁民闘争の天草軍勢の雄として登場し、三人の被検挙者のひとりとなり、天草漁民の尊敬をあつめた頃、彼は四十三、四歳だった。今年、六十四歳か五歳になられたはずだ。そしてあと二人の”人身御供”となった、芦北郡、計石の竹崎正己芦北漁協組合長、田浦の田中熊太郎漁協組合長(のちに田浦町長)とはともに海軍軍人出身者であったことから、お互いの結束は強かったという。ちなみに竹崎氏も、近年、第二次漁民闘争ののち、あとでのべる事情により失脚し、桑原氏と同じ運命をたどった。この竹崎氏も柔道五段の、偉丈夫であった。
これから私ののべようとする”人物論”はおそらくいくらか情の傾くきらいがあろう。事実関係は正確を期するつもりであるが、桑原氏にせよ竹崎民にせよ、そのそもそもの面識からいえば、ほぼ十年になる。地元の一部のひとびとから見れば、「漁業者でも何でもない、地方名望家の惣領育ちの親分」とか「とかく地金のあくのつよさでは、人なみはずれたボス」といった悪評に重ねて、近年、”汚職・横領”の罪名をはられたいわくつきの人たちということになるかも知れない。しかし私にはそれはそれとして知りながら、憎むどころか、きらいにはなれない。この人たちの水俣病とかかわっての二十五年間の歴史、とくに天草のリーダーとしての歩みを知ることの方に重きをおいて接してきたからだ。そこには多分に情もうつり、眼の曇りも避けられないであろうが、あえて私はこの人たち、とくに桑原氏や、その同伴者、竜力岳町大道の宮川秀義民のことを記録しておきたい。
かつて私は『不知火海水俣病元年の記録』や『わが映画発見の旅』(前者、「展望」誌、後者「筑摩ブックス」参照)に、桑原氏の言をかりて、水俣漁民と不知火海、天草漁民との埋めえない断層を語らせた。”水俣エゴイズム”とでもいうべきものへのかれらの憤りを書きとどめた。それは水俣を中心にした視座からは見え難いものであったし、天草に足をふみ入れ、彼らの家で膝をつきあわせて話をひきだしてはじめて知ったことだったからだ。天草にも、天草を世の中の中心とする思念はある。それを気付かずに、水俣、天草とひとくくりに水俣病受難史を語ることは無謀というにひとしいとそのとき私は思った。
第二次不知火海漁民闘争
去る七九年夏、四年目をむかえた「不知火海総合調査団」(団長色川大吉)は、色川、最首悟氏らによって、かつての漁民闘争の掘りおこしに入った。前もって旧指導者たちに丁重な手紀を出し、電話で礼をつくし、そしてひとりひとりに会っていく作業が始ったが、ついに桑原勝記氏は捕捉できなかった。「不在」ばかりで、応答はさらになかった。そこにはあきらかに、接触を避けるものがあったように思える。
ここで、七十三年(昭和四十八年)夏から秋にかけての第二次不知火海漁民闘争のときの私自身のわづかな見聞と、すでに周知の事実をあらためて思い出すことから始めるのを許していただきたい。
七十三年三月二十日、水俣病裁判は歴史的判決の日をむかえた。チッソの過失を法的に確定し、見舞金契約を「公序良俗」違反として「無効」とした。この二点は漁民にとっても十九年前、不知火海漁民闘争の妥結のときにまでさかのぼることにもなるものである。いわゆる見舞金契約第五条の「以後、補償を要求せず」といったものと同じ条項が不知火海漁協代表との間でとりむすばれていたからだ(大道、宮川秀義談)
裁判は患者の見舞金契約のその第五条を断罪し無効とした。ならば不知火海漁協とチッソとの同様の条項もまた無効のはずと漁民代表が考えるに至ったとしても何の不思議もない。だがこの時点で漁民はいわゆる第五条を白紙にもどし、あらためて”補償”を問い返す行動にすぐにむすびつけることはしていない。それは次のような衝撃が重なってはじめて生じたものだった。
同年三月、熊本大学医学部の「十年後の水俣病」研究班のレポートにより、天草郡有明町・赤碕にも水俣病と区別できない患者が生まれているとの結論が出され、やがて同年五月二十二日、朝日新聞のスクープにより明るみにだされ、「有明海に第三水俣病、患者八人、二人に疑い、第三水俣病 工場総点検を」と、いわゆる第三水俣病事件として世に拡まった。
その直後五月二十六日、熊本県当局は、「水俣湾内のヘドロに総水銀最高二・七一〇PPM(乾重量)検出、六十三地点中四十七地点から一〇〇PPM以上ー依然減少せず」と報告、以来不知火海の魚価の大暴落、取引停止をひき起した。
「太刀魚トロ箱一ぱい二百円」「三キロのエイが百五十円」といった買い叩きが熊本の市場ですら行われたのもこの頃のことだ。このパニックは有明海周辺四県のほかに徳山湾汚染により山口県をふくめ、西日本海域の全漁民を危機感におとしいれた。昭和四十八年六月ごろからだ。
この時期水俣漁協は七月五日より九日にかけて、十三億六千万円の補償を要求。その決裂を機に海上封鎖と正門裏門の封鎖に入ったが、水俣市長浮池正基のあっせんにより、二十日、四億円の補償総額で妥結し事態は終息した。
不知火海沿岸三十漁協がチッソに対し、総額百四十八億円の補償を要求したのは、その水俣漁協闘争終息時より十日のちの七月三十日であった。
水俣漁協百四十七人は一人平均二百七十二万円を得たことになる。そしてそのチッソとの協定にあたり、わざわざ「水俣漁協は、今後も、補償未解決の不知火海三十漁協とは行動をともにしない」との一項を付した(昭四八・七・十六日「朝日」)。不知火海三十漁村は、またしても昭和三十四年の第一次漁民闘争時と同じパターンを水俣漁協に見る思いであったろう。逆にいえば、水俣漁民を囲い込み、不知火海沿岸漁協との断交を一項目に入れしめたあっせん者水俣市長、そしてチッソはもし水俣漁協と不知火海三十漁協とが統一行動をすることがあればそれこそ最も危険な事態となることを洞察していたに違いない。
この水俣漁協始末の成功を背景に、チッソは一週間後の八月六日、不知火海三十漁協に対しその要求額百四十億(計千人漁民一人当り二百十八万円)の一割にも満たぬ(八・六%)十三億円を回答した。交渉に決裂した三十漁協は翌七日から工場、港湾の封鎖に入った。以上周知のことがらである。
私たち映画スタッフはその闘争を記録するあい間に芦北漁協長・竹崎正己闘争委員長を現地闘争本部にたずねた。水俣駅前の旅館二階だった。玄関・階段には腕っぷしの強そうな漁民がガードをかためていた。さすがに私の耳にも、暴力団の介入の噂が入っていた。だが招じ入れられた本部の中味はのんびりとしていた。たまたまお茶の時間でもあった。テーブルの上に大ざる一ばいのうでた赤えびが茶菓子の代りに山盛りに出されていた。計石でとれたばかりのものだが”汚染”エビとして「売りもならん」ものだった。
竹崎氏は「わしゃこれを五年戦争、十年戦争と思っとります」とやや気色ばんで話を切り出した「わしゃこの闘争にまけたら不知火漁民はもう足腰たたんと思う。でわしは、もしかりに補償金がとれたら、その一割は天引して闘争資金につみ立てる。そしてのこりもひとりひとりの生活につかってしまうのじゃなくてですね、漁業の体質改善、抜本的な漁民の自衛というか繁栄のために共同してそれを役立てるちゆう風にせろと話しています。水俣病のおかげで、わしらは全国の漁民と比べてどれだけ遅れとるですか。十年-いや十年たあいわんぐらい遅れとる。それをとり返さんばと思うとります。わしゃ今度は徹底的にやりますよ」といった。カメラもテープもなかったのが惜しまれた。それほど、一気にのべることばに実がこもっているように感じられた。
現場をまわって見ても、ピケットラインのそれぞれの持場は出来るだけ一漁協の集団で分担するようになっていて、結束を固めやすくしていることが分った。梅戸港は姫戸と樋島の船団が中心だった。だが補償金というカケヒキ自在な闘争である限り、五、六十億でいずれは手をうつ日が来ようと予想した。そうだとしても、もし、その補償金のつかい方の中味が、不知火海漁業の再生という理念にふちどられるならば、それはいいことにも転化しようと思った。というより、それをねがう気持の方がつよかった。
ビラ合戦
工場封鎖のききめのではじめた頃から水俣でよく用いられる新聞折込みが次々にあらわれた。
〇八月十九日 チッソ水俣労組(新労)
「市繁栄の敵を見極めよう」として、合化労連の漁民闘争援護の姿勢を叩き”チッソ倒産を探刻に考えざるを得ない”ゆえに「生活の保証を」「旧労の支援はマスコミむけの自己宣伝」と書いた。敵とは漁民と合化労連新日窒労組だった。
〇同じ八月十九日、”水俣を明るくする市民連絡協議会・徳富昌文”は「全市民は、チッソ並びに不知火海区三十漁協に対し、責任ある回答を強く要求します」と表記のビラに「市民生活にも日を追うごとに深刻な影響が出始めております……連絡協議会では両者に対し、八月十八日に回答を求める申し込みを行いました。……回答の内容如何によっては、その是々非々をただすとともに生活防衛のため全市民が敢然として立ち上らねばならぬと確信致します」として、チッソと漁民あての二通の申入れ書を並記したが、その眼目は三十漁協の組織、熊本県不知火海水俣病対策特別委員会、竹崎正己・桑原勝記・田尻実ら代表あてのものの中の次の点である。
「私達市民が第一に知り得たいことは、貴委員会の補償総額百四十八億五千万円の要求根拠、並びに積算方法であります。つきましてはその要求内容について各項目ごとに、明確かつ具体的に御説明頂きたいと存じます」
〇八月二十日 チッソ水俣労組(新労)
「「市民」と「労働者」の生活をいたずらに窮地に追い込まないで下さい」と表記のビラに「……先に千葉県漁連一万二千人と旭ガラス、日本塩ビ、千葉塩素との補償交渉。千葉県知事の仲介によって、十一億円で妥結していることを考えると、不知火海漁民の百四十八億五千万円の要求は非常に膨大であり、要求根拠は薄弱としかいえません。即ち、水俣漁協の場合には漁場が漁獲禁止区域となっており、実際に漁業が出来ない事を考えると、生活権を守ることから多少過激になった事も、又、相当な補償がなされたことも理解出来ない事もありません。しかし、不知火海漁民の場合には遠く三角・松合・松橋といったところも含まれていること、三十漁協の海は、知事が何度も安全宣言をしたところであり、漁業が出来ること等を考えると千葉漁連の例から見ても行きすぎと言わざるを得ません。(中略)もし漁民が要求根拠を明らかにしないまま、工場のストップが長期化するような事態に立ち致ったならば、やむなく市民と共に労働者の生活を守る為の自衛手段もとらざるを得ないと心配するものであります」
次いで八月二十四日、市民連絡協議会による”水俣市民総決起大会・於市体育館”へと組織化されていく。そして、チッソの第二組合は「実力」で漁民の坐りこみを排除する旨大会決議をするといった表層の動きの中で、実は暴力団による裏面からの圧力が露骨に進行していたという。
右翼を超えられたか
これについての桑原勝記氏の話を少しくあとまわしにして、この一連のビラ合戦よりはるかに早く漁民の実力行使の前日に配布された右翼”郷土を守る行動隊”の八月六日付のビラをみてみたい。「漁連よ、補償根拠を全市民に納得いくまで説明せよ!物理的直接行動をやめ互助精神のもとで話し合え!!」と表記のこのビラほどその後つづいたビラ群(前出)の”理論的根拠”を明快にのべたものはない。更に、不知火海三十漁協五千人漁民の補償金総額の算定が一週間前の水俣漁協の取得した一人当り二百七十二万円の実績に五千人分を掛けて百四十八億五千万円としたものであろうことは見ぬかれている。つづけてそのビラはいう。
「……魚が売れなくなった原因は1.マスコミであり・マスコミの誇大報道により消費者が何々PPMという言葉でまどわされたからである。2.共産党および新左翼が、現体制打破のためにうった謀略のとばっちりを受けたのである。その謀略に踊ったのが貴様達である。3.金と結びつく謀略にかかり、自らが安全な漁場を危険だとして国民に恐れさせたからである。(中略)この補償要求の先はチッソではなく、マスコミであり、熊大の軽卒な学者であるべきだ。又、要求額も水俣漁協に補償した金額にただ熊本県漁連の人数をかけただけという共産党戦術のお先棒をかつぐお粗末な要求根拠では、共産主義者や革命主義者ならいざ知らず、ただ平和を求め、ささやかな生活に満足を抱いている我々市民には理解のしようがない。……我々庶民のタンパク源提供者として、日本産業界の柱の一角として、人々に信じられ、海の男としての誇りをもつものの代表としての良識をもった言動をとってもらわない限り、孤立していくであろうことを予言しておく……。」そして大活字で「我々市民が断乎立上り、市民生活と郷土の防衛のために抗戦することをここに宣言しておく」と結んでいる。この一文のなかに水俣の”愛郷者”以外には書くことのできぬ数行にふれておこう。「真に水俣を愛し、ささやかでも平和な生活をしている我々にとって、郷土は何ものにも変えられない宝だ。水俣を離れる時の駅頭の涙を見ても誰れもがわかることである。他者によって荒され、これ以上の悲劇や苦しみが起る事は耐えられないことである」この郷土を守る行動隊のビラは新労・第二組合機関紙を印刷している市内の「あおい印刷」で刷られたと聞く。そしてこのビラには、他のビラがふれているスタイル、つまり”市民”が一応漁連とチッソの両者にともに迫っているポーズの一かけらもなく、チッソに一ことの言及もない。それにかわって、マスコミにほんろうされる水俣の悲劇に断腸の思いをしぼり出している。愛国と愛郷も、日本国民と市民とを一枚にプレスしたような均質な”水俣のひと”を表現していた。この”水俣”に勝てるだけの漁民闘争であっただろうか。三十漁協を魂でつなげる思想と理論の糸玉がつむがれていたろうか。少なくとも不知火海漁業の再生に志を抱いた竹崎氏の抱負がその万分の一でも果たせたであろうか。誰もが知るように否としか言えなかった。
漁民闘争のその後
漁民闘争のその後をたどってみる。”醜聞”はまず水俣から出た。
〇資料・七三年十一月十七日 朝日新関
「水俣市漁協長自宅などを家宅捜索/補償を不正使用?」ー熊本県誓捜査一課と水俣署は十六日水俣漁協事務所と、松田市次郎同組合長宅など三ヶ所を防潮堤工事に伴う補償金の背任容疑で家宅捜索。調べによると松川組合長は水俣市湯の児海岸の護岸工事に伴う地元漁業権の補償金として、さる二月、水俣市水俣漁協を通じて津奈木漁協に支払った四十万円を津奈木漁協参事荒木新松と二十万円ずつ山分けした疑い(要旨)ー
〇七三年十一月二十一日 熊本日日新聞「チッソと三十漁協、漁業補償契約に調印/公害の絶滅盛り込む」ー補償金総額二十二億八千万円(うち八千万円は漁業振興資金)/調印後双方の代表が記者会見したが、この席で、漁協側の竹崎代表は「妥結額に満足はしていない。当初の要求額は今もなお妥当だと思う。しかしチッソの苦しい経営状況、これまでに見られなかった会社側の誠意で譲歩せざるを得なかった。要求額との差額はチッソの誠意でうめた」と語るとともに「補償金の一部を関係漁協でプールし、なんらかの有効な方途に使いたい」と使途についてのべた-(この席に沢田一精県知事、三木環境庁長官の外、数名の県選出国会議員が立ちあっている)
〇約一年半たった七五年七月三十日 朝日新聞夕刊
「三千百万円を有力者へ献金/チッソ補償横領の会長」
-不知火海沿岸漁民にチッソから支払れた漁業補償金を横領した疑いで熊本県漁連会長竹崎正己(五七)を調べている熊本北署は一億円を超す使途不明金を追及してきたが、この中に、関係漁協役員で構成するチッソとの交渉委員へ竹崎が勝手に渡した慰労金二千万円、補償交渉のとき世話になった有力者への献金三千百万円などが含まれていることが分った。調べによると竹崎が勝手に使った金の内訳は自分名儀の預金などに千八百万円、建売住宅購入費一千万円、関係漁協の実行委員への無断貸し付け七百万円、他貸し付け遊興飲食費に千六百万円などー竹崎は”献金”三千百万円の使い先について、相手の名前は「たとえ罪が重くなっても絶対に言えない」とこの点については堅く口をつぐんでいる-
〇七五年八月十日 朝日新聞
「たかり横領千七百万円/漁協幹部五人も送検、チッソの「水俣病」漁業補償」
ー熊本北署は九日、当時の熊本県内の関係漁協でつくった漁業補償交渉団体である水俣病対策特別委員会の幹部五人を業務上横領の疑いで書類送検した。送検されたのは特別委員会の副委員長で、現樋島漁協長・桑原勝記(六〇)(外三人省略)竜力岳大道漁協長宮川秀義(六一)らの五人。調べによると桑原は四十八年十二月二十二日ごろ、借金の返済にあてるために、竹崎を通じて補償金の中から百万円を横領したのをはじめ四回にわたり四百五十万円を、宮川は三回五百七十万円をそれぞれ横領した疑い。-
三年一カ月後
七八年九月九日 熊本日日新聞
「五人に有罪判決 猶予つき/第三水俣病漁業補償の横領事件 熊本地裁」
-判決をうけたのは ∇桑原勝記(六三)徴役一年二ケ月(求刑二年)宮川秀義(六四)徴役十月(求刑一年)(他三被告省略)いずれも執行猶予三年。(注、宮川氏は控訴せず、桑原氏はのちに上告するも一斉判決通り)判決によると第三水俣病が社会問題となり魚価の暴落が起こり、不知火三十漁協(組合員ハ千人)は四十八年六月に各組合長を委員とする不知火海水俣病対策特別委員会と、その執行機関の実行委員会(十四人)を結成した。竹崎は両委員会の委員長、桑原は両委員会副委員長、宮川は両委員の委員で、実行委十四人にチッソとの漁業補償金要求交渉と補償金受領の権限を委任された。
(略)竹崎と桑原は共謀し、四十八年十二月から五十年四月までに三回にわたり桑原の借金返済などにあてるため竹崎が計四百万を桑原に渡し横領した。
竹崎、桑原とTは共謀し、Tの妻の入院費用にあてるため桑原に二百万渡し横領。
竹崎と宮川は共謀、五十年三月十日ごろ宮川が専務理事をしていた天草郡東部地区養殖組合の借金返済のため、竹崎が宮川に五百万渡し、横領した。(他被告分略)
桑原ら五人は「実行委で決議されるなど、適法な手続きによる慰労金、謝礼金としてもらった」と主張していたが、竹沢裁判官は「実行委は執行機関であり、全組合長からなる対策委の承認、決議が得られておらず、適法な手続きとは言えない」との判断を示した。
しかし同裁判官は、横領金額を返済していることや、十分な反省が見られるとして五人に対し三年間の執行猶予をつけた。
(注、竹崎氏は分離公判中)
この新聞記事による事件のスケッチの中で”政治献金”と”国会議員”のむすびつきの部分、竹崎氏と五人の裁判の分離、そして、被告らが「慰労金・謝礼金」と主張したこと、事件が明るみに出てから、全額弁償した事実および、この判決を不服として桑原勝記氏が上告したことなどに留意しておいていただきたい。
一九七三年(昭和四八年)からこの横領事件の判決までの五年間、水俣病患者によるはげしい闘いにもかかわらず、水銀汚染の全国的ひろがりと各地からの要注意患者の出現に対し、環境庁と一部の医学者は「現時点ではシロ」とし、熊大第二次研究班への異状なまでの攻撃と箝口令によって、危機を脱した。魚への安全基準は猫の目のように変り、有明、不知火海の海域の安全宣言がうち出された。この七三年は水俣病事件史の上で五九年(昭和三四年)に匹敵する水俣病始末の年だった。
第二次不知火海漁民闘争は、あきらかに政治的解決に終り、そのかげに国、県、チッソ、保守系国会議員らあげての根まわしによる手打ち式であったに違いない。巨額の補償金を手にして、漁協連合の体質上起るべくして起った腐蝕に対して、一年半後に警察の内偵の結果として、幹部の一斉逮捕に踏み切られたとき、不知火海三十漁協の闘争の栄光は完膚なきまでに地に落された。それは”常識的”には唾棄すべきスキャンダルとしてだった。
それは全く偶然の一致とみたいが、その一斉逮捕のきっかけとなった竹崎正己氏の背任横領に司直の動き出した七五年七月、その前後から水俣漁協は県に対しヘドロ処理にともなう漁業交渉に入った。八月十二日県は第三水俣病の補償を上まわる九億九千万円の補償額を呈示、漁協はこれを拒否し膠着状態に入る。その同じ頃、一方で不知火海漁協幹部五人は次々に起訴され、実質的に社会的に葬られる。ついで十一月二十一日、水俣漁協は、県との間に十六億九千万円の漁業補償をもってヘドロ処理問題にケリをつけた。(第二次水俣病の場合の四億円の四倍を獲得)
もし、このスキャンダルが起らなかったら、ヘドロ処理をめぐって、ただひとり水俣漁協がまたしても補償金闘争方式による解決に独り進んでいくことに対し不知火海三十漁協は果して座視していたであろうか。
水俣の漁民の方がなっとくできん
七七年八月、私は巡海映画の旅のあい間に、傷心の桑原勝記氏をたずねることにした。話はとりとめのない雑談からでしかなかった。
以下氏からの聞きがきである。
「いま(七七年)ですか。いま酒屋を女房にやらせている。養殖はやってみたけど、えさ代とえさの運搬費がかかってやめました。橋(樋島大橋)ができる前じゃったから、又、ぽつぽつイコをやってみようかと思っとります。もう六十二歳でむかし”霧ケ里”時代の元気はありまっせん。去年は心臓を病んだしなあ。」
桑原さんの家は樋鳥下樋川の部落のはずれである。みかんづくりは二、三軒だけ、それも半農半漁で、あとは全戸漁業で生計をたてている部落だ。この年の十月、その日も這いまわっていた老母は死んだ。町会議長歴二十年、町会議員歴三十年、樋島漁協長二十五年、竜力岳商工会議所議長二十年、その永年の彼の公務はほぼ水俣病発見後の時間とかさなる。
「昭和三十四年じゃったな、あの頃水俣病にとりくんで問題にしましたが、実のところわしたちも水俣病がそこまで恐しか病気とは思わんかった。水俣の会社だけからしかこんなおそろしい毒物は出るわけはないし、太刀うおの流れてくるのは水俣沖からですもんな。ここは汐の加減でうんと町のゴミの寄するとこですもんな、水俣のゴミがぷかぷかと。で、わしはいろんな漁協の代表と病人の見舞いにいったですたい。それをみておとろしうして、これはいかん、これはあってはならんこっじゃ思いました。私にしても竹崎にしても田浦の田中熊太郎にしても皆海軍で知っとったもん同志じゃったから、それが一緒になって、水俣病にとり組もうということになったんです。いまでこそ誰でもそういう気持になっているが、その頃は竹崎さんや田中さんがおらんば、あれだけのこと(注、第一次不知火海漁民闘争)は出来んかった。そうでしょうが。その当時は会社自身がずさんなことははっきりしとった。毒やよごれたきたないものを流しっぱなし。国も県も”企業優先”、”企業をつぶしたらあかん”ということで漁民が何といおうが、”公害”など眼中になかった。それが今では公害の問題は全国的に拡がったのは、私らのたたかいの賜物じゃろうと思っとります。」
話は第二次漁民闘争にうつる。
「工場の衆の嘘はひどかじゃった。「あの浄化設備は毒をとりのぞいて、不知火海に流すときはサイダーみたいなもんだ」とほんとにそう言うたですたい。何百万もかけた設備だといって、工場長がコップでのんでみせたもんな。この嘘は決して忘れちゃならんと自分にいいきかせておった。こんど昭和四十八年の漁業交渉のときには、こんところを先ずはっきりさせてから交渉に入りましょうということで、つめたですたい。そしたら「あれはちがうものでした。きれいな水でした、呑んだつは」と完全に自分のうそをみとめた。十四年間のごまかしをみとめた。もう全く無条件降伏でしたな。それで今回はいろいろ誠意をみせようとあれらもしたわけでしょ。」
この浄化装置(サーキュレーター)で漁民の恐怖心をなくそうとチッソは不知火海対岸の市や町の町婦人会や商工会議所の役員などを招いて、水をのんでみせた話を解説におりまぜる水俣工場ツアーまがいの企画旅行をさせたことを天草のところどころで聞いていた。(樋島、本渡楠浦など)
「だがもういまは水俣のチッソはうらんではおりません。水俣にとっても、企業を全面的にこわすわけにもいかんでしょ。むかしとくらべたらチッソも良心的になったと思うです。汚物も流してはいけないという気になっとるしですね、これ以上チッソをとがめる気はありません。いままでは嘘をついとったが、いまは真人間になって、企業をやっとると思うので、チッソをやっつけてやろうという気持はいまはなくなりました。それよか分り切れんのはアレですよ-同じ漁民のことを悪くゆうわけにはいかんが、水俣の漁民の方がわしにはなっとく出けん。水俣だけじゃない八代の漁師もそうです。八代市内のむかし小沢といったところご覧になったことあるですか。いまでもおとろしい赤とか紫とかの水が潜っとる。八代の漁協が上から押えつけとるから皆黙っとるだけ。八代の組合は八代の大きな会社から毎年年間一億位とっとるという噂じゃ。こっちが騒ごうとすると「八代のことにゃかまってくるるな」でしょうが。あの”背広の漁師”たちあ、もう会社員と一しょ。水俣もそれといっしょ。県漁連で水俣につよくいってもあすこはうけあわない。”例外”です、あすこだけは。」
前著の「不知火海水俣病元年の記録」で松田組合長がすでに補償金を得ていながら、不知火海漁民闘争で得た一億円(”暴動”の弁証費一千万円をひかれて九千万円)の分け前を更に桑原氏らに要求したことは紹介したが、その不信の深さは、進行中のヘドロ処理への危惧にもつながっていた。「いまのヘドロは爆弾をかかえているようなものでしょうが、わしらの眼からみりゃ恋路島の外もあぶない、津奈木湾でもほじられたくない気持です。あの周辺の工事は皆こわがっているのが本当でしょ。わしゃ監視役に本当の漁民が入ってほしいと思うとる。しかし水俣漁協にはおらん。津奈木は水俣漁協とつるんどる。わしらは津奈木も信用しとらん。今まで、補償金だけにたよって生きてきたじゃなか。このことではいやなことばかしじゃった」
桑原勝記の話に当然、魚のうれない忍苦の日々が出てくる。この二十余年に魚のうれない大きなパニックが二度、しかも昭和三十年代には断続的にうれるときとうれないときが不意に交替したという。水俣の魚屋が、「水俣の魚はうっておりません。当店のは八代・天草の魚だけです」という貼り紙があるときいて感謝に耐えなかった。天草の魚を信用してもらえたと喜びもしたが、心中では、回遊魚は自分でも疑って食べなかった時期もあった。それでも水俣には売りにいった。「漁師はみんなこまったですよ。ボラ、太刀、スズキは水俣から泳いでさるくとは皆しっとるもんな。時期とか汐で。それらを有明でとったっていってもってたもんだ。わしらも自分でたぶるっとはここらの岩に棲んでる魚だけ、ボラのスズキのは喰わんじゃった。じゃが漁師にゃ他の仕事はできん。船の設備のってもっとるでしょうが。ここには畑もない。イモばっかりでは死んだ方がましじゃしな。その苦しみをおもえば最初の水俣病の補償金は右から左で楽した覚えは一ちょもありません」
漁業補償
県の資料「水俣病漁業補償金内訳表(天草関係)」の一覧表によれば、天草の各漁協ごとの分配額が分る。それは一九五九年(昭三四年)当時の補償金の二戸あたりと、その分配高にみる漁協の被害度とその政治力をもあわせ推定できるものである。
水俣漁協をのぞく不知火海漁協には総額(組合受取分)九千万円が支払われた。
○うち津奈木から芦北、田浦、日奈久に至る九州本島の六漁協五百六十戸で七千三百八万六千円(八一・二%)を分配した。一戸平均十三万五千円相当である。
○天草は大矢野、松島、姫戸、竜岳、倉岳、御所浦、栖本、本渡市、新和町の十五漁協で、九千万円の残る一八・八%、一千六百九十一万四千円を分配している。(戸数不明の町があるため平均額は算定できない)
〇ちなみに水俣の場合、百三十五戸で現物をのぞき現金三千五百万、一戸当り約二十六万円相当となる。
天草の各漁協間の配分額ではっきりしているデータによれば、汚染の北限に近い姫戸では一戸当り平均一万四千五百円、御所浦漁協同じく一万五千円、同嵐口一万八千五百円、竜力岳町大道一万八千円、そして桑原氏の所属する竜力岳町樋鳥が最高であるがそれとて一戸当り二万一千三百円にすぎない。水俣に比べその一割にもみたず、同じ遠隔地といえる芦北、田浦に比べ、ようやくその一割前後になる。
天草に患者が発生していなかったにせよ漁民闘争の前に、即ち昭和三十四年二月から五月にかけて御所浦は獅子島とともに、猫の多数の狂死をみており、その一カ月にわたって、天草上島のほぼ全域に太刀の漂着がつづき、九月八日、水俣食中毒部会中間報告では、牛深を含む不知火海沿岸漁村のネコから致死量をこえる水銀を検出していた。(青林舎刊「水俣病」八四三頁)それだけ汚染への怖れと生活の崩壊の予感が見えていながら、更にまた、漁民闘争にじじばばまで水俣に送り、負傷者を生み、天草勢の統率者だった桑原氏の逮捕と一斉捜査の難をうけながら、何故この代償を一戸あたり一万余円から二万円ほどで我慢したのであろうか。
ひとつには対岸(彼岸)の意識のもつ遠さもあろう。それに加えて、水俣の市場や魚屋で「天草・八代の魚しか売っておりません」として、天草の魚をひきとってくれたことから、天草を未汚染地、未汚染の漁場として、水俣の漁場とは一線を画してくれた。それは必然的に、「水俣病の患者は絶対出すな」という天草漁協間の盟約づくりに帰結するものでもあったろう。
この天草人の自制心ぎりぎりの思案をよいことに、行政は毛髪水銀データをかくし、天草の人体被害の追跡を放棄した。事態はこれを表裏一休として天草の受難をかくした。
だが桑原氏のように、天草の人としては例外だが、現実に市立病院で病人をみまい、その悲劇を体験している人にとって、下桶川で狂い死にした人々の実態を水俣病像に照らして観察せずにはいられなかった。「わたしの父親はたしかに水俣病じゃった」という述懐すら肉親だから例に上げるといった響きがあった。それだけに水俣漁協のボスたちの立ち居ふるまいや、”水俣モンロー主義”にはさめた眼で批判しつづけていたに違いない。
悲劇の独占への批判
私は第二次不知火海水俣病闘争において、不知火海三十漁協が補償金の額を決定するに当って、直前に、水俣漁協の受けた補償額、つまり一戸当り約二百七十万円と、同じ額の補償を求めた単純きわまる積算をながい間理解しかねていた。これに五千人余の不知火海・天草漁民の数をかければ、ちょうど百四十八億五千万円になるのである。この「百四十八億」の試算・要求額こそ、あらゆる水俣のビラ合戦の標的としたところである。そしてその内訳、その積算を市民もチッソ新労も、チッソも県も求め、ぎゅうぎゅう問いつめたところである。だが私には、今にして思い当る。
「水俣漁民だけが受難者ではない。その被害の度合に差はないはずだ。同じ額で何が不思議か」と尻をまくった上の話だったのだ。しかも「もはや患者のひとりも出てない天草」ではなくなっていた。天草の人の生きのび方として、魚でくらしを立てるために、あえて水俣病かくしをつづけ一種の共通本能にまで凝固させた「反水俣病」の精神風土が足元からゆらぎはじめたとき、それまで水俣のひと、水俣の立場をおもい、暗々裡に貸し借りのバランスをとってきた自制が打ちこわれ、「水俣漁民とビタ一文差のない補償を」という意志表示としての百四十億だったとしか思えないのだ。それはチッソへの懲罰の意とともに、いつも不知火海漁民との連帯を避けつづけ、悲劇を独占してきた水俣漁民への批判でもあったろう。だがこれが金額の上で、集中攻撃の標的となるとき、ひとたまりもないことは積算したときからいわば自明のことである。水俣病を補償の歴史、金でかいあがなった命の値段の歴史とみるとき、水俣の一部の人たちと不知火海漁民との間にはプロとアマほどの実力の差があったのである。
七九年八月十一日、私は二年ぶりに桑原氏に再会できた。氏は多忙をきわめていた。一年ほど前から壱岐沖の六十メートル海底の砂を吸いあげ、土木工事の砂川にして販売する新事業にとりかかり、漁協の仕事は片手間となるほどそれに打ちこんでいた。会えたのはお盆前で家に帰っていた事情にもよる。そして面談をとりつけるにもあきらかに辛そうであった。もう放っといてくれというけわしい眼つきであった。その直前、上告審でも原審通り有罪判決があり、そのことを聞きにきたと思ったのだろう。
会ったのは新装なった樋島漁協の会議室であったが、その長としての貫録に変りはなかった。私はあえて”横領事件”には触れなかったが、彼から堰を切ったように述懐がのべられてきた。
「わしゃもうつくづくいやになった。人のためと思うて公務を二十年、三十年とやり、水俣病のことも人のためと思うてつくしてきた。それが裁かれるですもんな。あの第二回の不知火海漁民交渉のときも最初のときも。あんた漁民は情けなかです。そりゃひとりひとりが船の上では大将ですが、まとまっての行動はいっちょ慣れとらんです。労働組合のなんのとちがって、訓練されとらんでしょが。交渉の何のていうてもきちんと話せるものは何人しかおらん。けっきょくわしらが責任を負うわけです。今度も「目的達成のためには、何の手段をとっても勝ちぬけ」というのが、漁民の心じゃった。T君の金づかいのことで皆一しょくたにされた。経理に人をおいてビシッとやっとけば、こんなにまではならなんだ。T君のその後の言動にも、わしゃ腹が煮えくりかえる。しかし弁解はできんことじゃ。」
すでに旧漁民指導者間の連帯は千々に砕け、近親憎悪に近いものがあった。
「あん工場封鎖のとき(昭四八)、何がこわいって、右翼の、暴力団のテロが一番こわかったもんな。警察が手出しできんとは思っとった。会社のやつ(新労)が実力行使をするとも考えられんかった。わしらは内部を統一しとったからな。だからそれに代って暴力団がすざまじかった。テントにくそはなげこむ、トラックとめてわめきちらす。そして電話で「お前らの二、三人殺す」とか「テントにダイナマイトぶっつくる」とか「今夜二十人ぐらい命しらずを出してくるる」とか、夜中の三時四時まで脅迫しつづけじゃった。女房はふるえて、気の狂うばかり。わしは熊本の親分に会いにいって話しをつけようと、これはわしひとりで背負ったもんな。そしたら、「金をくれ」という。そんときはまだ補償金は下りとりゃせん。しかし金を払わにゃ、何しでかすか分らんちゅうことで、わしがよそから金ばかりて、借金して、五十万円わたした。それで暴力団は手をひいたんですよ。それが警察で問題になってな「その渡した相手をいえ」という。「わしゃ死んでもそれだけはいえん」 とがんばった。いえばそやつもぶちこまるる。そのしかえしに何するか分らん。警察の衆がゆうた「あんたそいだけ腕っぷしのつよかに、何を怖くて言い切らんか」と。わしはゆうた「わしの腕っぷしで済むとなら、金で解決もせんじゃった。あんたらも分っとろうが、相手はどんなやくざか」それで裁判のすむまで、そんやつの名は言わんじゃった。警察は「いわんなら仕様がなか、お前が暴力団おさえに金をつこうたことは認めるわけにはいかん。それは構領ちゅうことじゃ」という。そんことをどうにも認めなかった。このことはほかの漁協の大将らは知っとる。しかしわしのために証言はしてくれんじゃった。漁民のためにと思ってやっても、皆よろこぶとは限らん。悪くとる人もおる。結局馬鹿みたちゅうことじゃ。わしはこん年になってもうこりごりという気持をはじめて味わいましたでなあ」
彼の言う「五十万円」と調書や判決にみる数百万円の差はいまはさておき、六人の被告のうち、彼ひとり上告して争おうとした争点のかなめは「男としての侠気を認めろ」ということのように聞きとれた。そして四年間の陰々滅々たる裁判のなかで、彼は仲間不信におちこむことしかなかったようだ。
魚でごはんをたべる
「わしは補償金をもろたら、何か皆でやれる新しい漁業のことも考えとった。樋島、下樋川というところは漁業しかない。漁業をぬいたらゼロちゅうところですよ。だから前の水俣病騒動のあと、思い切って、五トン船をつくって外洋に出た。あと十九トンに切りかえ、八パイ沖縄に出しとる。いま五十九トンの新造船つくって南洋までマグロとりにいっとる。これは日本じゅうどこに出しても恥かしくない船です。一億何千万円ってかかったかな。あんむかいの高戸(漁協)をみてみんさい。何人漁でくっとるものがおるか、百人の百二十人の組合員がおるちゅうても、いま本当の漁師は二十人か三十人おればいいとこでしょう。樋島はちがう。このマグロ船いれて五、六十人はかせげとる。」
下樋川百四十戸、漁船百二十隻、ここほど漁業専業率の高いところは不知火海でも稀であろう。それだけに必死になって漁業改善事業のすすめを機に融資を目一ぱいいかりて、昭和三十年代後半に外洋へのみちを拓いた。若者もそこには残った。しかし部落の残る多くは、構造改善事業の波にのりきれないで零細漁業をつづけている。
「わしには夢があった。こんどの漁民闘争で貰った金はわずかなもんです。一番船で五十万円、あと三十万、二十万というのもおるです。しかしわずかでも、その何割かを設備にのこして、稚魚孵化場をつくるとか養殖場を作ろうって提案もしたですたい。二人三人はついてくる。しかしあとんひとは金を出さん。わしは漁民自体を批判するわけじゃないが、漁民が本当に魚でごはんをたべてくという気持があるのかないのか。今日のことだけでなく、将来も、子や孫の代まで漁民で暮しをたててくという気持があるんかないのか。そこんとこが分らん。わしが組合長しとって漁民の心が分らんちゅうのも情けない話しじゃが、何かが変ってしもた。半分土方まじりの漁師じゃなくて本当の漁師だけで組合をつくり直そうかとも思っとる。いま組合員が二百何十人もいるが、それが百人でもいい、かりに八十人になっても、それで固まって漁師の生きる道を一所懸命さがした方がいいと思っとる。わしの信念はそうじゃが、ついてくるものは少ない。その日ぐらしじゃ。水俣病で三十万円、五十万円もらわんでも、漁民の施設を作ろうという人はいない。漁民は本当にだめになった。天草に何人か、ほんとに「組合長」らしかひとがおっとか。……大道の宮川君以外あと誰がおるか。ですから、わしも、そういう気になってはいけないんだけれども、もうあたりさわりなしになりがちで……やりがいが見当らんのです。……国家賠償のことですか……そりゃ国に責任はあっとです。気持動かす人はあるでしょう。しかし指導者は、実際上もうイヤでしょう。漁民のためにやってみて、それであとひどい目に邁う……わしはもういやじゃという、こんした気持から抜け出られんとですよ。」
市場はお盆前でごちそうのための魚、たこ、いか、あわびの仕分けにかまびすしかった。それを統率するときの桑原氏は漁民の大将であるにはちがいなかった。しかし彼の正業はほぼ海底の砂の採集業者に変りつつある。その氏の声にある漁民への突き放し方と、嘆きには、どこか不知火海漁民闘争の舞台からはるかにむかしに退場している心づもりが感じられた。
私は”横領”にこだわらないわけではない。新聞でその氏名と”所業”を拾いよみしながら、暗澹たる思いもした。だが面識もあり、その口からかつての漁民闘争を聞いたものとしては、ここであらためて”補償”の金につきまとう魔力と凡俗のまよいと、その金を手にしたときから始まるそねみと疑心、ひいては仲間の争いを誘発する強烈な毒性ある副作用、そうした冷酷な法則性を思った。海をよごし、魚をよごし、人を殺した代償に、金しかないとしても、その金がどんなに内部腐蝕の作用をするかについて、前例もまして免疫もない天草漁民にとって、予知することも出来かねたに違いない。
にもせよ一漁民当り数十万円の分配金に対し、漁協幹部がともかくも数百万円単位の金を裁量出来たのは何故であろうか。
慰労金
丁度お盆の日、私は旧漁民闘争指導者、竜力岳町大道(旧大道村)池浦に、宮川秀義氏をたずねた。一審判決のまま刑に服している人だ。執行猶予中で生活にはほぼ変動がないようだった。現在六十五歳、その書斎には漁業法規や六法全書ほか文学書もあり、読書家で漁民社会ではインテリとしてその事務的手腕を買われたこともうなずけた。十年前はじめてお会いしたときの精悍さは老いのなかにふけ込まれていた。
「私は昭和三十四年の第一回のときには逮捕されとりません。しかし暴力行動の共同謀議をしたということで非常にやかましゅうて二十日程任意出頭で本渡署に呼びつけられました。朝一番の便船で本渡にいって、かえりの便船にのって帰るわけでして。そのかえりの便船にのらねば宿賃がかかると気を揉んどるところで、だっだっと叩みこむように訊くもんだから閉口しましたわ。はじめは本渡の警察だったからまあ調べもゆるやかでしたが、熊本から専門の刑事が来て洗い出してからは、きついもんでした。結局、共同謀議の事実は出んということで、わしは罰金にもなりませんでしたが。わしより証拠かために呼んでしらべられた組合員はもっと生活に響いたでしょ。道も車もない時代じゃから船で一日しごとで。」
私はあえて”横領”の事実を、そのリーダーの組織のあり方から辿って聞いた。
「水俣病の裁判(昭四八・三・二〇)で決着がついて、患者のみんなとチッソの最初の取り決め(見舞金契約)が御破算になったわけでしょう。水俣漁協のアレもそうだったと思うが、昭和三十四年の第一回の交渉のと一億円-といっても弁償金一千万円さしひかれましたから九千万円だったです。そんときに会社は「将来、チッソに保証は要求しない」という一札が入っとったんですよ。ですからあの裁判がああいう風になったもんですから、私たちも、当然、あのさし入れられた話はホゴになると一応は思いましたな。そうこうしとるうちに、第三水俣病ですか。あれは今までで一番苦しかったですな、全然うれない期間が(指折りながら)二カ月、三カ月、五カ月つづいたんですから。牛深まで影響うけましたよ。」
この池浦は主力は一本釣である。漁場は大多尾沖から牛深にかけての八幡瀬戸であった。水俣・八代・本渡の市場でかいたたかれるため牛深までいったが、ここでも魚価の半分、四分の一と叩かれた。
「ですが、御承知のように、今度の闘争の最後の段階で不幸にして横領事件がおきたでしょう。私もそれにひっかかって漁民からも私たちは批難をうけました。あれの起きた原因はひとつは謝礼金、慰労金ちゅうか、それであんな問題が出て来たんです。頭からしまいまであん交渉にかかりっきりの専門の人(実行委員会メンバーに、あとで慰労金を出すちゅうことを決めておったんです。組織ですか。まず三十漁協の組合員で対策特別委員会を構成してました。三十人のメンバーで。そん中から十名位で実行委員会をつくって、いろんな交渉やすべては実行委員会でやっとったわけです。それで闘争の終り頃、三十漁協代表の対策委で、五千万円の慰労金の枠をきめとったんです。それが今度の問題の発端なんです。それが裁判では「慰労金をきめとったの実行委だけじゃなかったか、対策委できめとったのか」というのが争点になったわけです。いろいろあって、対策委員会の議事録には「慰労金と公けに書いて出すのもどうかな」ちゅうことで残っておらんわけ。しかし三十漁協の全部ふくめての対策委員会のメンバー全部、慰労金が出ることは知っとるわけ、だから一応金額も五千万円出したことは決算書にはのこっとるわけ。」
宮川氏の話は淡々たるものだった。強い弁解の口調ではなかった。頭に立つものが慰労され、謝礼金の形でうけとるのは慣行であったようにさえ聞える。「内輪で、あの実行委員会で二十人あまり前借りしとったんです。わしも当時、はまちの養殖の餌代にこまって、五百万円借用証かいて借りとった。病院の入院代に困っとるとかいろいろあったですが。そんなかで委員長が前借りしとったぶんが相当あって、それがひっかかった。そこで、対策委員会(三十漁協)の総会を開いて「一応白紙にもどそう」ということで借りた分はぜんぶ返してもろたわけ。私も五百万つくって返しました。しかし世論がきつかです。それが私も”一番幹部”だということで横領です。しかしわしは控訴しなかった。何ちゅうても、漁民でかちとった補償金ですから、漁民そのものから非常に不信をかったわけです。新聞でぱあと一旦でると、あとの理屈や弁解は立てさらんですもんな。もうわしのことはなんもかも終りました」
もはや欲も得もない枯れはてた老人がひとり眼の前にいるだけのようだった。”借金”もかえし、刑に服することで償いもしたといった弁明の趣すらなかった。おそらくは、もめごとの解決にあたって、旧くからある慰労金の慣行のまま、あの水俣病事件に気易く処して、世話役としての役得にに何の心くぼりもしなかったーそれでもすんでいた旧き一つの時代が去ったことを、悟らされたまでといった、姿があるばかりだった。盆がえりの孫を抱いて海の鳥を眺め、ここ池浦から見れば御所輔の嵐口岬は地続きの鼻のよう、みえる。しかし氏は今後水俣をめぐる話には何の興趣もそそられないであろう。いまこの池浦で若者は数人しかいない。老人漁師の一本づりもおとろえ、旧大道村では一番の出稼ぎ部落となっていた。にもせよこの宮川氏は美しい風貌で老いつつあった。海辺の家の起居は、この風雲をへた人をもかくも柔らげなごませるものであろうか。
不知火海再生の思想
昭和三十四年、ついで昭和四十八年、二回の不知火海漁民闘争をこの天草の地から背負った二人の老人の話をここに書きとどめたのは”横領罪”に終った不知火海での氏らの二十年の意味を、天草に立って一度ふり返りたかったからにほかならない。余人に代えがたい役目をになってチッソにせめのぼってから、次の闘いまでの十数年問、全国各地の漁業は巨大化し、遠洋化し、二百マイル問題を惹き起すまでの大きなひとうねりを閲していた。しかし天草はこの数年の沿岸、近海漁業の見なおし政策の及ぼす恩恵にも浴せず、年々、漁業の衰微、漁民の生活の濃度をうすめる近代化に身をまかせている。そこに一度の再生もなかった。ただ昭和四十八年の闘争の中で、漁業を再生させようという夢が一皮かきたてられたかにみえたが、スキャンダラスな終り方をもって自滅せざるを得なかった。だがもし水俣病事件がなく、魚のうれないといった苦難がなかったら、後継者ものこり、この老人に代る漁民社会の若き指導者も天草の浜に育ったかも知れない。それは例外的に倉岳町宮田の外洋一本釣、樋島の台湾”南洋”までのマグロ船に若い人を確保したとはいえ、決して不知火海を舞台とする再生ではなかった。ただひとつ鹿児島県出水郡長島の東町漁協、宇都時義氏だけが養殖漁業に賭け成功に導いただけに、この海を死活のものとしていた。それが故に氏は東町に患者の浮上するのをおそれつづけた。ひいては「わしゃ正直いって、チッソより、水俣病患者になりたがるもの、支援の、告発のとさわぐものを憎んどります」と言ってはばからなかった。
補償金をめぐる毒々しいまでの作用にうちかつ思想は何であろう。そのこたえを手にするまで私は天草を歩きつづけたいと思う。最後に水俣病患者の発掘についての、いまの桑原勝記氏の意見をとどめておきたい。
「うちのじいさまは狂って死んだが、この間死んだ婆さまはどもこも水俣病に申請することをいやがった。じゃがもうわしは見とれん人には申請せいといっている。もし診療してくれる人が下樋川に来てくるるならわしはお迎えするつもりじゃ。じゃがうちの下樋川でいえば、一番目に患者になったものは辛か目にあうと思っとります。ショネミ(そねみ)のひどかところですから、ここは。いくら高戸に出たとか大道に患者が出たとかいうても、ここにはいいっちょも響きません。患者がこん部落にも二人の三人のと出れば、ショネミも何も……。あとは堰きって出るかも知れん」
桑原氏には具体的にあの人、この人と、患者らしい人の顔がすでに見えているようだった。
(つづく)