「水俣」を描く-『水俣の図』の制作にふれて 『新日本文学』 4月号 新日本文学会 <1980年(昭55)>
ほぼ完成に近い大作『水俣の図』を初めて垂直に立て、七幅に分けて描きこまれたそれぞれたて九尺(三メートル)よこ七尺(二・二メートル)の絵を、パネルに貼った上でつぎ合せ、丸木美術館の最も広い新館の一壁面一ぱい、幅十五メートルにならべたとき、私はこの画の生まれたいまを何とよべばいいのかあれこれのことばを口の中でつぶやいてみた。ひとつの実在物というべきか、とにかく、『水俣の図』と今後ながくのこされるであろうモニュメントがここに出来上った一瞬に立ち合わされていると感じた。そこには大作『南京大虐殺』や『アウシュビッツ』というモニュメンタルな画がそれぞれの壁画を占めており、天井まで届いているそれをみるために、室の中ほどに「展望台」のような足場がしっらえてあるのだが、そこに上って全幅をみ、さらに降りて、右はしから左はしまで絵をみてあるいた。十五メートルのよこはばはゆきつもどりつといった空間である。そこに「水俣」が白に光るわずかばかりの生地をのこすのみで、水俣と対岸天草の間にある不知火海と、それを埋めつくす群像とヘドロや生類が描きこまれている。
私たちは映画を撮ることをこの制作のスタ-トには予期していなかった。のちにのべる事情で、急拠、その過程を撮ることにしたとき、制作はすでに半ば進行していた。まつたく手をつけていない白紙のままの二幅もあつたが、のべ十日間、画室に通って、ほぼその絵のディテールや、原図そのものの下の描線にふれてはいたものの、あらためて完成した絵に正対してみると、その感じ方はまったく違ってくるものだということを知った。総重量というか、絵をみる、みるために眼でたどる、たどりつつあるく、立ちどまって、絵を自分のものにするといったこちらの行為に、「時間」を必要とするし、その時間分の肉体化の運動をうながす「存在」なのだ。
丸木位里氏も俊さんもこの一瞬は私に似ていて不思議だった。立ち並んで全容を見せる絵から、初めて受けるもの、つまり画から作者にとんでくるパルスを受けとめているのか、無言であり、自分の絵にひっぱられるように、そこに対象化された「わが水俣」をあらためてみつめておられた。不思議に思ったといっても、制作過程では寡黙な位里さんから、会食のたび、あるいはラッシュ(現像所から上ったばかりのフィルム)をおみせする機会ごとに質問し、ききとっていたこととつなげれば、おふたり自身にとっても、なぜ、新鮮で対話をうながされる一瞬であるかが、おぼろげながら推しはかることは出来る。美術や絵画について、不勉強な私は、うるさいほどの質問をかさねて、私の理解のいくまで聞いた。それは水俣がどう表現されていくのか、そのわずかな動因もフィルムでとらえたかったからだ。その点では失礼をくり返した。
ところで、おふたりの『水俣の図』にかかられるまでと、私たちが、それを映画に撮るにいたるまでを手短に御報告しておきたいと思う。
戦後、『原爆の図』の連作を発表され、その三十年を反戦のテーマで描きつづけられたことで広く知られている丸木位里・丸木俊さんに私が親しくおめにかかったのは三年前の初夏だった。一九七七年のほぼ一年を、私たち水俣の映画を撮ってきたスタッフは、不知火海の離島や対岸の小漁家集落での水俣映画の上映の旅にあてようとしていた。その資金の援助を乞いに、初めて東松山の下唐子の丸木美術館を訪れた。たまたま旧知の映画監督長野千秋氏がおり、両氏の画業を記録映画にすべく、準備中であった。シナリオは完成しており、その説明にうかがっているようであった。誰かが両氏の三十年の歴史を映画記録にとどめるべきであると考えていただけに、友人の企画をよろこびもしたし、少しばかり羨しくもあった。この時すでに、おふたりに『水俣の図』の大作の用意があったとは知らなかった。それは私の情報不足によるものであったのだが、その以前から、石牟礼道子さんとの交際を深め、水俣をいくつもの画題のひとつに組みこまれておられていたようだ(長野氏の映画は事情あって中止したと聞く)。
美術館には記録映画『原爆の図』や画集などで知られた『幽霊』『火』『水』『少年少女』といった連作が陳列されていたが、『鴉』と題する一幅は私には初めてだった。その画想を石牟礼道子さんの文章から得た旨がかたわらのコメントに書かれている。それは長崎の被爆地でいつまでも鴉の群れの舞いおりる廃跡があった。そこは朝鮮人のかたまり棲むところであった。そこで被爆死した人びとの屍は、日本人のそれより後まわしにされ、放りおかれ、鴉のついばむままにされた。死後におけるまで差別されている朝鮮人のことを石牟礼氏は鋭く指摘した。原爆を武器としたアメリカへの憎しみと批判を基調とし、被爆者、すなわち広島、長崎の人びととして描いたそれまでとちがい、強制連行と被爆という朝鮮人の二重の受難を描き、さらに被爆後までも差別した日本人自身を批判したものである。丸木さんたちが画を自ら背にし展示の旅をされた歳月の重みと思想の深まりをそこに見る気がした。と同時に、おふたりが、やはり遭うべくして水俣の石牟礼さんに遭われた縁を思った。
それから一年後の七八年、おふたりは「原爆の図」をもってフランスに旅立たれた。それまでもソヴィェト、中国、東欧はもちろん、アメリカ、オーストラリアと精力的にまわられた原爆の旅ともいうべき事業を一わたりされ、そのよわいも八十歳に近くなられた位里さんにとって、そう腰の軽い話ではなかったであろう。だがおふたりは、ブランスの環境問題の活動団体の若々しさと熱意にうながされてその地にいかれた。
帰国後、おふたりにお会いしたとき、彼の地フランスでの水俣への関心の高さに驚かされたと語られた。海に面するブルターニュやノルマンディーは原発による放射能汚染に加えて石油汚染がすでにあり、公害問題、とりわけ”ミナマタ”は反原発のエコロジストたちに強い関心を抱かせていたようだ。私の映画『水俣-患者さんとその世界』のフランス語版はその五年ほど前からフランス各地で配給上映されており、またおふたりのいかれる前には、ル・モンドのフィリップ・ポンス記者をはじめとするフランスジャーナリストの精力的な水俣現地レポートが発表されていたためでもあろう。
七九年に入って、丸木さんたちはしきりに現地水俣にいく希望を人を介して私にも伝えてこられた。そして十一月、ようやく十日間の水俣旅行を決められたとき、私は同行する時間をとることは不可能だった。現地の患者さんや病院関係者に連絡するほかはすべて石牟礼道子さんと砂田明さんに託した。
この初めての水俣訪問はやはり強烈だったようだ。ついてすぐに訪問した津奈木町の胎児性患者、諌山孝子さん(十七歳)を見舞ったとき、私も出遭ったことのないほどのつよい彼女の発作を目撃したという。
「スケッチどころか、じっと黙って三十分、娘さんとお母さんをみていました。泣くこともゆるされないと思って、ねじれた両肢がたがいにこすれて、皮がむけて出血することがあるといって、タオルをその間にはさんで。お母さんは手なれていて、その娘を発作の間中抱いていました」と俊さんは語る。このとき灼きついた母娘像がいく重にも、この画にかきこまれることになったが、水俣滞在中には二枚のスケッチしか描けなかったという。私のもつなまの抜き身のようなカメラやテープとちがって、スケッチブックに手を走らせることは、患者さんたちにとってはおだやかなものであり、物めずらしいものであったに違いないのにと思う。映画の私たちは心しているにせよ、この十年余やはり”強く”なってしまったのでは……と身を縮めた。
「でも、そのときどき、患者さんの顔や、おどり姿をスケッチして、額に入れてさしあげてきました」。のちに水俣からのしらせによれば、そのスケッチはいたく患者をよろこばせ生涯のよき記念として大切にされているという。たくまぬ功徳であった。また何よりの水俣の人びとへの初対面の引出物であったろう。
おふたりに親しく、『ルル家のえかきさん』という少年むきの本に丸木さんらとそのまわりの人びとのことをかかれた作家宇佐美承氏は水俣滞在中の消息として、のちのちも、私の心にとどまる報せを伝えてきた。
「やはり実に暗いおもいにひきこまれる毎日だったようだ。だが、茂道で、杉本栄子さんのおどりのおさらいをみられて、女漁師でエロティックなまでの天性の明るさと、そのおどりのあでやかさをみて、『うんこれでいこう』と位里さんはすっかり惚れこんだようだ」。杉本栄子さんは私の映画で”私は魚のうまれかわり”と言い切った根っからの不知火海の女である。そのことばはせききって流れ出せば、そのすべてが生きて増殖するようないきおいと色艶をもっている人だった。曲ってのびない指や、ふるえでとまらぬ手がおどるときだけは、ぴたりきまる、それがうれしくて踊るという人である。ときに踊り狂って、あと二、三日は腰も曲らずひざも折れない激痛に悩むのだが、踊りは生きるカを誘うものなのだ。そんな女性に会って、水俣の悲劇とともに共存するその種の光りを描いてもらえたらと思った。
石牟礼道子さんの案内で水俣をみたあと、海をわたり、離島や対岸天草まで足をのばし、多くの患者、とりわけ胎児性患者と会われて帰られたという。
そのあと構想に多くの紆余曲折が費やされたであろうが、今年(一九八〇年)に入って、一気呵成に制作にとりかかられた。『原爆の図』にとりくまれたとき位里さんは四十代半ば、俊さんは三十代であったろう。そして、今年八十歳をむかえる位里さんである。この『水俣の図』がどのような肺活量で作られるかつまびらかではなかったが、人生の終盤にさしかかって、遊びの皆無な、時代の記念碑的大作にとりくんだ画家が世界に何人おられるだろう。
この八〇年一月十二日、私は前まえから御約束していた水俣病映画をみせる機会を得た。そのとき選んだ三作品は、水俣病の発生期からほぼ今日までの水俣病事件史と病像を含むものであった。そして、この頃、ユージン・スミスとアイリーン・スミスの写真集『MINAMATA』の日本語版も刊行され、おふたりの仕事のかたわらに届けた。
経過のあらましは以上のようであった。だが私は、制作中を映画に撮ることは断念していた。針ほどの物音も制作にはさまたげになるだろうと考えたからである。だが、未完成の、まだ描線のままの部分の多い三幅の絵を見る機会を得てから、しきりとこの制作過程が撮られたらとの思いが頭をもたげもした。
そこには私のなかでひとりひとり名づけてその名をよべる患者たちの肖像が描かれ、それぞれ頭をのはし、視線を私にそそいでいるように思えたからである。リアルな人物画ではなく、どちらかといえばデフォルメされていたが、私には見分けられた。そして進ちょくは思いのほか早い。排水口からのヘドロであろうか、海鳥やたこ、いかなどの上にも、惜しげもなく墨が重ねられていた。それと同じく墨が人間をも犯し、毒していくようになるーつまりせっかく描きこまれた絵が黒々と消されていくのではと思われた。しかしまだ、私はある我慢をしていた。だがプロデューサーの高木はついに「撮らしていただけないか」と切り出してしまった。私は心中えらいことになったと思った。応諾されるにせよ、強いてのことである。それは不謹慎に思えた。だが返事は意外にも「構わん、撮ってもええです」であった。
制作中にしか立ちあらわれず、ついには墨の下に埋めこまれるものがあるとしたら、そこにこそ、おふたりにとっての”水俣”があろう。とすれば、制作のプロセスこそ映画だ、と思った。しかも、そうした過程を撮れるのは、あと十日間程でしかなかった。高木と私はその先にある資金ぐりにはひとまず目をつむって、ともかくもクランク・インをきめた。絵のディテールをとるため、日頃つかう十六ミリフィルムではなく、その四倍の解像力のある三十五ミリフィルムのカラーをつかうことにし、カメラマンにはベテラン瀬川順一氏、あとを若手の水俣スタッフ一之瀬正史カメラマン、西山正啓演出助手などでかため、貧乏プロには珍しく十数年ぶりにプロの照明技師外山透氏を加えて陣容をととのえた。
撮影となれば喧ましさを押えるのはむつかしい。つい掛け合いの声がとびかうものである。私たちほそれを戒め、かりてきた猫の如くであろうとしたが、三十五ミリカメラのカメフレックスなるフランス製のそれはフィルムをかきおとす騒音にかけては随一のしろもので、その回転音に、皆ちぢみ上がったものである。だが、おふたりは、何か解脱しておられた。
「水俣をどう描こうかと考えたとき、工場も描こう。ヘドロも要る。そして被害者群像とあわせて、あれだけの闘争もあった事だし、”怨”の旗もたてねばならぬと思うたが、あれこれ考えるうちに、不知火海の中に、すべての生類とともに病んだ患者の群像だけを描くことにした。どんな思いで沈み重なっているか、それだけを描くことにきめた。しかしまだ固まらんところがある。海には漁もあったろう。海のうつくしさ、天草の山やまもすべてが水俣を水俣たらしめているのだから」と位里さんはいった。
俊さんは「この数年、加害者そのものを描こうとあれこれ工夫を重ねてきましたけど、どうしても加害者のイメージが出てこないのね。描かねばというのが先に立つだけで-。そんな気持でこの前ゴヤの絵をみてきましたら、殺されるお百姓さんたちの方は、正面から描いているのに、銃殺者はうしろ姿だけで描かれている。ピカソのゲルニカも侵略者は武器に手足がついているだけ。これは同じ課題なのかも知れない。この水俣にも加害者の顔は描きませんでした」。それはつらそうな面もちでの述懐だった。いままでカリカチュアとしての”敵”の描き方、ブルジョア、独裁者、皇帝のそれは見たことがある。それらは決してリアルな肖像でもなく、風刺か戯画化か、さもなければどこかにアジテーションを正面にひきすえてのコラージュだった。おそらく、加害者のイメージについては患者像を描く筆の心とは異質のものとして、断念されたようだ。
丸木美術館には『原爆の図』から『アウシュビッツの大虐殺』までのおふたりの三十年がそのままたどれるものとして展示されている。幸せにも私はひまあるたびに展示室でくりかえしその三十年とむきあうことが出来た。それは技法をたどることも含めてである。初期の『原爆の図』がディテールまであざやかであり、それによって惨苦が細密画のように描かれ、ケロイドの跡のありようまでみる人の微視的観察にたえるものであった。人体の描線はコンテで決定され、モデルをまのあたりにデッサンしたといわれるだけのリアルさをもっている。第一部より第十四部までそれぞれに主題がつけられ、原爆の悲劇の諸様相を解析し、あますところなく描きすすめられてきたように思う。
では『水俣の図』はどんなものか。私はたしかめのため俊さんに問うた。「私には『原爆の図』……ときに初期のものは、忘れ得ざるもの、その惨死の一瞬の絵画的ストップモーションに思える。ところが水俣には動いている構図と動いている群像を感じる。『原爆』に描写を見ることが出来るが、『水俣』は描写より想念をよりつよく感じる。そう見ていいのですか」と。
俊さんは「原爆は一ぺんに二十万人を殺した。水俣はじわじわといまも殺している。あした死んでいく人もいる。いまを一生けん命生きてる人もいる。根っこは同じだけど、そこがちがうのね。そこをどう描こうかと今日迷ったり悩んだりしていて-。動いていると見たのならそうかも知れない……」。
「私のモチーフに母子像がある。『原爆』のときは、乳をのませたくも、それがかなわず、乳をのみたくても、のむ力のない、いわば死にむきあった母子像だった。しかし『水俣』の場合、胎児性の子どもは大きくなっている。生きようとしている。大人のように大きくなって、お母さんより身の丈はあるかもしれない。しかし身体は折れまがって。私にはたおされたキリストを抱くマリアの悲しみに近づいていく。そんな母子像を描くのは初めてですね」。
位里さんはひろげられた画紙の上に座ぶとんをしいて、その人物を描き、そのディテールにつっこんでいく俊さんに言葉少なに助言する他、長身をのばして絵の全体を見る。そしてやおらいく通りもの濃さの墨皿を左手に、右手に数本の筆やはけをもって、つかつかと歩みよるや、一気に墨を重ねていく。計算があるのかないのか分らない。点描画のようにちみつに筆を入れた人物や猫が一気に墨の下になる。ときに母子像すら母と娘の顔の間をさくように太い墨が走る。凸凹になった紙の上に水たまりが出来る。そのたまった墨を刷毛ではじきとばす。水の流れそのもののようなスピードである。私には、丹念な俊さんの描写が一体何のためだったかと思えてくる。私の映画は愚問で埋まりそうだが、私は聞かずにはおられない。位里さんは、
大体のところ、どういう人物を描くかきめただけで、俊が人物をかく。あの人は人物はわしよりうまい。ああこうかいたか、なるほどとおもう。それに流れをうかび上がらせるにはどうしたらいいかをわしゃ考えている。しかしたしかに、墨を流すとき、勇気がいる。濃すぎて、前かいたものが全然見えんじゃこまる。もうやりなおしがきかんからね。そこを考えつめたあとは勇気じゃ。
不思議なもんで、どんなに墨をやっても、わしのやり方だと、乾かしてパネルに貼れば、下にかいたものが浮き出してくる。光がうしろにあるようにすけ出てくる。これがすみ絵の不思議なところじゃ。
俊が進んでゆく、わしが進んでゆく。画の上じゃ二人がそれぞれ相手じゃ、仇じゃ、そう思う緊張で絵がかける。これも不思議じゃが。
これ以上は映像で読みとってもらう他ない。「不思議じゃ」の世界だからである。
ただ『水俣』の表現に費やしたおふたりのあれこれの思索と感性が平面的にディスプレイされるといったものではなく、すべて、重ねられていると思った。それぞれの墨の乾くのをまって、更にかきこまれ、その乾くのをまって更に墨が運ばれ微妙な変化を生んでいく、そのおびただしい表現の干渉行為に圧倒されたのである。
もしこの映画に需要性があるとしたら、と考えてみる。この大作は、その堅牢なパネルの重量と大きさからいって、容易に巡回展示できないことから、それにかわって、この映画『水俣の図』でモニュメンタルな作品の一端を分ってもらうことにあるといえようか。
水俣病事件史が、終るべくもなく今後も闘いつづけられるなかで、芸術・表現の参加もまた更につづいていくことになろう。
『水俣の図』のあまりの暗さに気になって、私は水俣のよみがえりも描こうとされた初志を念頭に、「杉本栄子さんの踊りに触発されたもうひとつの水俣は」と問うた。位里さんは事もなげに「描きのこしたものは次に描く-そうなっとるもんだ。思いのこしはそのためにあるもんじゃから。わしは次の水俣の宿をきめとる。あれは何といったかのう」。
その宿とは水俣の名泉「湯の鶴」のことであった。 、