水俣=語りつぎ2 「水俣映画遍歴-記録なければ事実無し-」 「水俣ー患者さんとその世界」
水俣病事件がふたたび私の中に浮上したのは、石牟礼道子の『苦海浄土ーわが水俣病』が刊行され、それを読んだことからだった。一九六九(昭和四四)年一月に刊行され、誰もがこれを話題にしたが、私はこの一年『パルチザン前史』のロケと編集に没頭し、読んだのは一年後だった。正直いえばこの本を手にしページを開くのに無意識にあるこわさがあったのかも知れないー。一読して心から驚いた。私はこの本のなかのあの水俣が、あの水俣の患者が、私の感じたそれとすべて対照的に描かれていることに打ちのめされる思いだった。
水俣の深いところでいきづいている漁民、とりわけ海、その母なるやさしみをかけらほども私は水俣で見聞し、感得してこなかった。水俣に一過性のかかわりしかもたなかったものとして、暗愚の罪を負った人間のような気がした。初心の映画作家ならともかく、前科ものの私だけは水俣にかかわる資格を失ったものに思えた。人が手放しで石牟礼道子の水俣に共感し、わがことのように語るのを聞くと「簡単に分るな」といった屈折を覚えた。
だが『苦海浄土』の世界は何と動的で視覚的な描写にみちみちていることか。ゆき女の海との語らい、タコとのやりとりなどはまばゆいばかりに映画詩への誘惑をさそう世界だった。だがその放射してゆく石牟礼道子の個的なイメージは、何におきかえても表現しがたく、文学だからこそ文学としてそっと孤絶させておきたいと思った。
岩波映画時代からの友人でプロデューサーの高木隆太郎が、東プロ第一作の『沖縄列島』(東陽一監督)のあと、ぜひとも『苦海浄土』のような映画をつくりたいというのを聞いても、あの作品の映画化ならば不可能だというつもりでいた。
高木隆太郎は、不知火海・有明海を分つ宇土半島の生まれ育ちで、法政大学に学びながら、詩作を試みたりする文学青年気質のまま映画の世界に入った。石牟礼道子さんの海と人との交感を最も深くうれしく理解した読者であることに違いなかった。彼には子どもの頃の浜あそびの記憶があるだけに、つよい共鳴をもって水俣の世界を映画にすることに熱中していった。一方で誘いもあった。
彼の高校時代の友人、熊本日日新聞の光岡玄(作家)から「ぜひ映画をつくるべきだ」と患者さんのこと、裁判のことを聞かされていた。何よりこの運動に加わった熊本の支援、告発グループの結集に心うたれたようだ。水俣の運動を支える石牟礼道子、日吉フミ子、松本勉、赤崎覚といった水俣病市民対策会議や、熊本で告発の代表となった高校教師本田啓吉はじめ作家渡辺京二、NHK宮澤信雄、半田隆、松岡洋之助、熊本日日新聞の久野啓介、そして学生運動家や若い島田真祐、有馬澄雄、小山和夫、それに熊大の富樫貞夫、丸山定己らの裁判支援の法学者、原田正純、二塚信ら若手の熊大医学者ーこうした人びとのあつまる「水俣病を告発する会」のうつぼつたる活動を聞かされ、もはや、水俣の映画をつくること以外何も考えられなくなっていた。前々年、岩波映画製作所をやめて、「この一作で同人解散」ときめていた『沖縄列島』の映画運動の活力をそのまま、この水俣映画に注ぐつもりだった。また熊本での『沖縄列島』の上映は成功した。熊本在住の映画批評家藤川治水やさらにこの上映をになった前記「告発する会」の島田真祐らは、間断なく高木の決起を迫りつづけたようだ。
水俣の映画のつくり手は最初から私だったのではなく、東陽一、前田勝弘、池田伝一ら『沖縄列島』のスタッフだった。のちに劇映画『すばらしいにっぽん人』をつくることになるのだが、私ははじめ助言者のひとりだった。だがプロデューサーは勝手なもので、あるいは、土本・大津幸四郎(『パルチザン前史』のカメラマン)のコンビもありうるかーとふたまたかけて話すのだった。その一夕、私は酔ったが、彼はきちんとメモにしていた。高木隆太郎は『青林舎の航跡』という手稿の中で、そのときの模様を次のように書いている。
六十九年十一月、土本と会ったのは新宿の伊都というバーのとまり木でだった。東・前田と大津(『パルチザン前史』のカメラマン)らも一緒だった。水俣を撮ろうという話については、土本には苦渋にも似た困惑があった。つまり土本のテレビドキュメンタリー『水俣の子は生きている』での体験の厳しさは私の想像の及ばないものがあったのだ。(・・・患者に近づけず、行き場もなく海辺をさまよいながら、キャメラマンの原田勲と、海の底の小石(実は陶片・土本)を撮って帰ろうかと話しあったりした)ということだった。
(考えさせてくれ)というのでもなかった。それ以上の話にはならなかった。
たしかに私は固辞した。むしろ、東陽一の『水俣』に興味もあった。彼を交えてのフリートーキングの際、「水俣の患者さんをひとりも登場させないで水俣を描くことができないか。海、工場、街などオブジェだけでー」。その発想に虚をつかれ、また面白い発想をするものだと感心したからである。だが東陽一らはどんどん『やさしいにっぽん人』に心を傾けていった。
私は『告発』を読み、患者の人物紹介欄で渡辺栄蔵じいさんにふれた石牟礼さんの文章、たとえば「・・・根っからの漁師ではない。オヤジさんの大八車をガラガラ押して大道あきないの旅をして歩いた幼児期の話をするときはたのしげである・・・」などに、なつかしさを覚えた。「こりゃいつか引きうけることになりそうだ」とどこかで気持を準備した。
ある日仕事仲間の助監督のT君に、「水俣を撮りたい」といった。「これだけ迷った、迷いの総重量だけは他人にまけない」と妙に力んだらしい。
T君は東プロの助監督である。すぐに高木に注進した。高木の備忘録『育林舎の航跡』によると、
T君から「土本は水俣をやるつもりなのに、高木さんはどうして推さないのか」と言われた。私はやや抗議めいたその口調にびっくりした。土本がやる気になったのは初耳だった。
足ぶみがながかっただけにあとは加速した。すぐにも水俣にいって映画を撮るつもりが、にわかに東京で劇的な事柄があいついだ。その東京行動といわれる熊本「告発」の決起行動が、いかに映画的であったことか、いまも脳裏にあざやかである。しかしその行動の日々を撮らないで、ただ東京の活動家のひとりとして告発の決起を手だすけした。ときに厚生省に座りこみ、二晩三日築地署のごやっかいになった。七〇年五月、第三者機関・水俣病補償処理委員会による一任派患者(裁判でなくこの機関に補償を無条件で一任した患者グループ)に対しきわめて低額の補償金が押しつけられようとしていた。このことへの抗議行動とその波及として、東京ではあっという間に数百人の支援者の結集を見た。この時期の記録・文章は多い。まさに劇的で、ドキュメンタリー映画の絶対値をもつ事件であった。が撮るのはやめた。むしろ運動に加わる方が面白かったからだ。
エピソードがいくつも生まれた。とくに厚生省に突入した五月二五日は昂揚のピークだった。熊本の作家、カミソリ京二というあだ名を進呈されている論客渡辺京二氏が、熊大の青年と一緒に厚生省の補償交渉の場にかけのぼるときの無邪気ともいえる上気した顔と、それをうら切る足腰の遅れが妙になつかしい。抗議文をよみ上げる役の宇井純氏が、やや肥満の体で五階まで走ったのはよいが、いざ抗議文をよみだすと息がつづかなくなった。「これだけは言わねばならぬ」という氏起草の抗議文であるが、晴れの場所にもかかわらず、言わねばならぬベき文章の代読をたのむ始末であった。そのときの情けなそうな下り眼のしばたきが眼にのこる。
私は失笑をこらえるのに困った。とっさに窓をあけて、厚生省玄関前の人たちに大声で報告することで切りぬけた。
熊大生だった有馬澄雄君や米田正篤君が、同じ突入隊だったのに逮捕の員数外にされ、子ども扱いにするなとばかり刑事や警官隊にくってかかるが相手にされず、憤懣やるかたない眼ざしで怒っていたことなどーすべてが喜劇的だった。この日々を超えていささか心の渋面がほどけ、ようやくフィルムを廻せる実感をもてるようになった。
いわゆる水俣スタッフといわれた一行、演出部堀傑、T君と撮影部大津幸四郎、一之瀬正史の五人が水俣に入ったのは七〇(昭和四五)年七月十三目だった。この撮影部とは「パルチザン前史」以来とぎれることなく仕事をともにしてきたが、堀は映画はずぶの素人ーというより、学生運動でのちの土田邸・日本石油・ピース缶爆弾事件の被告たちと親交があり、その後の身の処し方を探しているなかで、水俣病患者の支援に急速に加わった活動家だった。Tは演出家志望の助監督である。
水俣に入るその一週間ほど前から、私たちは熊本市で告発する会の人たちとロケ設営の準備をしていた。渡辺京二氏ら数人の方が「映画のなかみに一切口出しは申さずー。勝手に用意させてもらった」といって滑りだし資金に五十万円つくってくれた。一カ月の行動費・食費・宿泊費その他一切、月十四、五万円という予算からみれば、二~三カ月は優にもつだけのお金であり、心づよかった。
カメラは小川プロのボリュー(一六ミリ撮影機)に手まきゼンマイのフィルモの二台、録音機は普及版のカセット録音機と、六ミリのいわゆるデンスケ録音機という機材でのスタートだった。東陽一はすでに『やさしい日本人』の製作に入っており、プロデューサー高木は、この二本のほかに土屋信篤監督でPR映画『黒潮と日本人』を並行してつくっており、その金のやりくりはただただ借金といったありさまでとてもぜいたくは言えなかった。
水俣での宿舎は、家を一軒かりて自炊、できれば賄いつきでという条件で石牟礼道子さんにたのんでいた。彼女は患者さんの多発部落の中で、まわりからおのずといろんな話の聞こえてくるところがよかろうと思案されたらしく、出月の浜元フミヨ、二徳姉弟の家にたのんでくれた。もともと漁家のつくり、母屋には両親を水俣病でなくしたフミヨさんがひとり暮し、よこ手の別棟に重症の弟、二徳氏が奥さんのハルエさんとすんでいる。
いまなら水俣への訪問者は水俣病センター相思社や、あるいは国民宿舎水天荘などの便があるだろうが、当時は患者さんの家への分宿しかなかった。また患者さんたちにも進んで受け入れるだけの支援への感謝があった。五月の東京行動、全国からのはげましとカンパ、水俣巡礼団(団長砂田明)の勧進行脚につづいて夏休みを利用しての学生の支援者が百人以上水俣に流れこんだ。
私たち映画班のために閉じきりをはずしたフミヨさんの居間と客間は、たちまち、映画スタッフと十人近い支援者に占められ、女主人の居場所は、狭い寝室と台所だけになってしまった。
「支援公害」の第一号はこの家だろう、夜毎ののみ会や、夜更けまでの声高な話し合いがその後数十日つづくのだから。元兇は私である。思えばよく耐えに耐えて頂いたと手をあわせたいばかりである。
水俣を死民の都と言うものの、最初のロケ要請が死者のとむらいからというのは予想外だった。水俣病(対策)市民会議の日吉フミ子さんが上気した声で「写真に撮っておかんば、死んだとを」という。死を撮る・・・
その意味がつかめなかった。百間の田中徳義さん(六三歳)で申請中の患者さんだが、認定されることなく他界されたという。チッソの工場敷地から百メートルほど、水俣湾百間港の船だまりからは四、五十歩ほどにある家である。故人は夜釣の好きな人で水俣病に間違いないという症状だった。日吉さんは「だから撮んなさい」とせかすのだった。後日の証拠の一駒にしたいというのが日吉さんの気持だったようだ。弔意の気持はあっても、それを撮影とむすびつけて考える用意はなかっただけに、私たちは何をどう撮ってよいか分らなかった。ただただ遺影と遺族、弔問者を撮るだけだった。その撮影結果はフィルムの現像を待たなくても予想できる。フィルムはたしかに回ったが撮れないものは撮れないのだ。
水俣での最初のこの撮影ラッシュはやはり焦点の決まらぬものだった。この種の空転は五年前の水俣体験で私にはある種の免疫があるものの、スタッフには辛い初体験だったようだ。
カメラマンの大津は、そのころの模様をのちにこう記している。
水俣に来た頃はただただ私達東に行つてはおろおろし、西に行つては自己が健康であることを呪う日々が続いた。私はでき得ることならキャメラを廻したくなかったのだ。キャメラをづかづか廻す、とってもそのような恐ろしいことには耐え得なかった。(「風景の枠の中で」「水俣上映ニュース」)
水俣病多発地帯にはふだん警官のパトロールは少ない。交番は広い袋地区に一カ所あるだけだ。それも常駐していることがまれである。
撮影に入って間もなく宿に汗をふきふき若い駐在さんがやってきた。縁に上がりこんで、フミヨさんになれなれしく「新任で袋にきました。こんどちょくちょく寄せてもらいます」とあいさつした。これに対応するフミヨさんの口調はこちらがびっくりするほどきっばりしていた。「用のあるときは私の方でいきますでな、わざわざ寄っちくれんな」という。この人は警察が探りにくることを予想しており、そのときの返答のしかたをきめていたようだ。
撮影車によく尾行がついた。夜はとくにしつつこかった。あとで聞けば「酒気おび運転」「酔っぱらい運転」の線でパクる方針だったようだ。たしかに焼酎の入らない日はなかった。だが運転者だけは呑まないようにしていた。
水俣病の支援者や映画班への警察の対応は、あきらかに公安の仕事として組まれていたようだ。それに呼応するようにチッソ工場の第二組合、いわゆる新労という会社の御用組合の新聞「しんろう」が町にもまかれた。京大の暴力分子の映画『パルチザン前史』をつくった過激派土本某が患者の支援と映画製作に漁民地区に入りこんでいるというものだ。この組合新聞は、第一組合である合化労連新日窒労組に敵対するだけでなく、つねに会社の主張・意向を代弁することで街にオピニオンをふりまく役割をしていた。
この映画に工場内ロケを予定し、許可申請をだす矢先だっただけに、先手をとられた形だ。水俣ではチッソにさからうものはアカの一言で片づくのである。水俣病市民会議の構成メンバーもどちらかといえば地区労の活動家、市教組のリーダー、社会党市会議員、作家とアカがかったものたちばかりとみられている。まして自主映画グループがそうみられてもふしぎではない。患者さんたちにしても私たちをアカと思っていたのではなかったか。アカでも黒でもいま支援してくるるとならよか、といった風に。 「患者さんたちは、あんたらがどんな映画をつくりなさるか知らんでしょうから、最近の映画をおひろめのつもりでやったらどうです」と石牟礼道子さんにすすめられて、「しんろう」のバクロ記事のでる前に、地区労のホールで、患者さんに『パルチザン前史』を見せていた。全篇これ京大全共闘の一グループの生活と意見を描いたもので、さすがに気がひけた。
うだるような七月の土用の午後、地区労の会議室で暗幕をひいてのおひろめ映画会に義理がたい訴訟派患者さんの大半がウチワ片手に来てくれた。学生の兵隊ごっこふうのバリケード内の生活、オイチニィ、オイチニイの訓練から火焔ビンづくり、そして市街戦とすすむにつれて、ウチワの手がとまったり笑い声や喚声があがる。警官隊が火焔ビンでたじろぐシーンでは、東映のチャンバラをみるようににぎわった。だが、これから作ろうとする映画は、これとは違う。まずい作品を選んだものだと冷汗をかいたが、大ごとにはならなかった。
考えてみれば、患者として裁判にうってでたときから身辺に警察の影を感じてきた人たちだ。三四年の漁民闘争のときも暴力事犯で漁協リーダーが検挙された。三七、八年の水俣を二分して闘われたチッソの安賃闘争ロックアウトのときは、千人単位の機動隊が常駐していた。さらに公判あとの熊本市内デモの際、フランス式デモを組んだ熊大生の隊列に、勇猛名だたる機動隊が柔道でかれらを地べたに叩きつけるのを口惜しがってみているのだ。
「映画ちいえばえらいハイカラなもんじゃなかかな。監督ちゅうても、土方の監督じゃなかか、よう焼酎ばのみよるし・・・」。こんな冷やかしが聞こえるようになった。夏の終り頃である。ベーロン競艇を撮り、台風を撮り、工場を撮る。患者訪問とインタビューは撮れる人から撮っていくことにした。スケジュールはあってなきがごときものである。それまでやはり誰々と典型的患者を選んで集中的に撮るつもりでいた。しかし話をしだすと、誰もが「わしの話を語るなら一晩ではでけん、こんな(ぶあつい電話帳ほどの)本になるくらいあるとばい」という。フィルム・テープに制限があるといっても、それを理由に患者さんを区分けし、「絵になる」患者をえらんだりすることはよくないことに思えてきた。話を聞き、そして撮る、だがどれだけ撮るかは現場の判断できめる、まとめ方はあとの思案としようと決めた。訴訟派はもとより、一任派の人でも撮影できる患者は全部記録しようーこうきめたら取材に勢いがでてきた。
患者さんたちの集りは本来もちまわりだったようだが、私たちがいつも広い座敷をかりていることから、隅によければ、すぐにも寄り合いの場所となる。そのため、滞在中、患者さんの集りでの話は手にとるように聞くことができた。これは撮影に大いに役立った。本来、撮影をことわるようなうちうちの話や、弁護団の非公開の話も聞けたし、撮ることも出来た。
患者さんの寄り合いは、田舎すなわち封建的と予断しがちなわれわれをびっくりさせるほど民主的だった。全員の出欠の確認から、異論は皆が一応納得するまで話しあわれた。漁家の網代(漁場)の決め方の時には徹底した話しあいをするものだという。そんな雰囲気がそのまま持ち込まれているようだつた。
会のあるたびに、わたしたちは車の送りむかえの役をかつてでた。散在する集落からの道のりは遠く、見るに見かねたからだ。人は一番利用者の多い部落の名をとって”茂道タクシー”と呼んだ。会議ではことば少なかった人も、シートにつくと気楽になるのか「今日の話どげん思うな」などという。全国からのカンパ、苦海浄土基金の扱いや、一株株主の運動など、はるか離れた支援者たちの気持などを聞きたがった。そして別れぎわには「たずねて来んな、一ぱい呑もい」とねばられる。”タクシー”稼業は親しみと情報をあつめるうえで威力を発揮した。それは映画の演出プランを立てるうえでイメージを次第に組ませてくれたのである。
撮影の最初の谷を越えたのは、タコとり名人といわれた尾上時義老人のインタビューと海でのタコとりシーンの撮影だった。
インタビューにこたえる話は、とぎれることなく亡き妻の回想から「会社のエラカ人から順番に水銀ばのんでもらいたか」と一気に思いのたけをのべるものだった。そのインタビューの終るか終らないうちから、タコの唐あげをつくり、焼酎を注ぎながら、待ちかねたようにタコとりの話に入る。「映画に撮るとかや、そりゃタコとりは俺しかおらんばい。いつにすっとや」と進んでいく。誰もが演じたいものをもっているのだ。そうした話になると、漁り人天性の魅力が一気にふきあがってくる。
タコとりを撮ろうーといっても水中カメラはない。ましてアクアラングもない。だいたい泳ぎに自信のあるものはひとりもいなかった。船は患者仲間の渡辺保さんの十二馬力船、ホコつき用の水中箱ガラスを借りて、フィルモをつっこんで撮ることにした。海の水は機械の大敵である。それゆえ水中撮影機械の開発とカメラマンの技術は近頃すばらしく飛躍した。NHKなどはこの水中撮影チームで未知の海の映像を独占している。それにひきかえ何と原始的だったことか。
大津の準備は入念で、現場では落ち着いていた。私などはロケの最中、タコとりじいさんの「おったばい!」という声につられて録音機とマイクをもって海にとびこみ、岩ごけに足をとられて機械を汐づけにし使用不能にする失態を演じたほどだ。
話は変るが、この映画が公開されるや、大津のタコとりシーンのカメラワークはとくに好評だった。のちにアメリカやフランスで見せたときも、とくに激賞されたものだ。「漁師の目そのものになっている」という。私にとってもそのシーンは驚きだった。海の揺れ、被のただよい、水中の光の屈折、足どりのテンポなどがそれまで見たことのないリズムで撮れている。それは大津じしんが、漁師の道具とその身を同じ海に同じ条件で浸したことで撮れたのではなかろうか。
タコ突きには、汐のもつ浮力、光線の屈折、水中歩行の独特のテンポ、突き棒のす早さがいる。カメラに見えるタコのうごき、それとの間合いのとり方、獲物のひき上げ方、タコの急所への歯のうごきなど、水中に身を浸してこそはじめてつかめる漁師の労働と知恵への交感があったからであろう。これが易々と海や水を征服できる装置や撮影機械で撮ったとしたら、このように原始の漁りのすがたを撮れたであろうか。
大津幸四郎は前出の文章に、海と水俣病をどうイメージとして組み立てたかのプロセスを語っている。
水俣に来る前私は二つの点をひどく恐れていました。水俣と云う土地とそれを取りまく不知火の海を、風景を撮れるだろうか。患者さんを病者としてでなく撮ることができるだろうか。私は全く自信がなかった。全く暗うつな気分で水俣にやって来ました。ただ自分を賭けるしかないのだと。職業柄、今までいろいろ患者さんのフィルムは見て来ました。しかしそれはすべてと云っていい程、病者の映画でした。人間の映画ではなかった。キャメラの恐ろしさをいやと云う程知らされている私には自信の無さは全く憂うつなきわみでした。
風景が崩解し風景でなくなる時点、ーそれは一般的には土着の民、みずから風景の一部と化し風景に溶け込んでしまう人々、その眼には風景はその枠組を失いそれ自体自分達をとりまく情況となってしまうーそのような時でしょう。風景は第三者の眼にしかその枠組を示さないのではないか。
風景が崩壊し、白く曲りくねり、突然ふっとんでしまう。水俣に来てかなり早い時期に、それは突然私の脳天を襲った。湯の児リハビリテーション・センターを訪れ、言葉にならない重い言葉をひきづって病院の玄関に出た時、今まで何度も見慣れ習慣化しはじめていた不知火の海が突然曲りくねり、フィルムに見るように白くふっとんでしまう。そして白く色を失った海の底には手足を折り曲げた蛙のような子供達が深海魚のように、群れをなして泳いでいた。そのイメージはかなりのあいだ、少なくとも数十秒の問、私を襲いつづけた。私はかなり重い眩暈に襲われた。私は不知火の海を、風景を撮影技術的には白くとばし、あたかも陰画のようにしようかとしばらくの間考え続けた。それは私の怒りを、焦燥を表現する一つの表現であった。しかしそれはかなり安易な方法でもあった。しばらくさまよったあげく私はそれをやめた。たとえそのように表現したとしても不知火の海は存在しつづけることをやめないであろう、単なる自慰に終るだけであろう。私は不知火の海を美しく、最も美しく撮るよう心掛けた。それは不知火の海が美しいからではなく、美しいことが最も残酷であったからだ。
何度も海を撮った。しかしできるだけ海を撮ることを延期しつづけた。やっと撮影できるようになったのは、水俣部落の人々のやさしさが自分の身に溶け込んだかなり後の時期であった。
もし私達の表現方法がやさしいと云えるとするなら、それはあくまでも患者さん達のやさしさであり、患者さん達の人間的な豊かさであったろう。そしてやっとキャメラを廻している最中に胎児性の患者さんをひどくいとおしく、抱きかかえたくなる衝動を覚える迄になったー。
つまりやさしさをたよりに撮る。患者や患児の撮影は先送りして、亡くなられた患者の回想を遺族から聞くインタビューシーンを重ねた。多く激症型で死亡された人の話だけに、病状の描写は凄絶だが、語り口はものしずかだった。故人死後の歳月が、怨みを沈めているのだろうか、撮る側も余裕をもてた。それにしても生き残るーそのことの思いは計り知れない。裁判や慰謝料が生き残ったものをいやし、つぐなうものであろうか。
老人の場合、ある達観にいたっている人に出遭うこともある。たとえばメジロとりの名人だった最長老患者故牛島直(明治二九年生)さんの場合である。この人の生き甲斐は捕獲禁制のメジロをとり、その鳴き声をあらそう競技会にだすことだった。水俣病の話より、メジロの話が好きだった。余談になるが私の撮影のテクニックに「名刺カット」という工夫がある。本当に撮りたい主題とはずれるにせよ、その人の一番見せたいものからまず撮ることにしている。この老人の場合、メジロの話がすまないことには水俣病の話にならなかった。メジロが彼の私たちに差しだす名刺である以上、私たちはそれを受けて、まずはそれを撮ることで名刺をお返しする。そこでつき合いが始まるのである。
この老人のメジロは鳴き声競技会でいつも首位・上位を占める。負けん気の気性がこのメジロ飼いに残っているようだ。牛島さんはもともとこの土地の出身ではない。長身で大柄な身体で風貌に漁民とちがっためりはりがある。聞けば、自ら言う極道もんだったらしい。水商売で余生を送るだけの金を貯め、晩年は気ままに好きなところで食い道楽、猟撃ちなどして遊ぼうと、たまたま、老妻の実家の水俣に来た。
「ここ(茂道)に大たい遊ぼうと思ってな来たばい。山猟どん行って鉄砲うってな。ところがあんた、わしも(口が)卑しかも卑しかったもんな。いちばん(もともと)熊本に居るときからガネ(カニ)が好きじゃったもんな、ガネが。あの海ガネの太かがな。それでここに来たころはあんた、ガネ、ボラ、もう好きなものばかりですたい。タコ、ナマコたいな。そるば喰うも喰いよった。もうガネば喰わなもう飯は喰わんじゃったもん・・・」。そして一段とメリハリある口で、「そういうふうに喰うとるけん、やっぱり(水俣病に)罹ったとも無理はなかろうと思うですたいな」。自分のせいだというのだ。
当時七五歳、身よりのない彼は老妻とふたりだけでこの地に住みつづけるほかなくなった。小さな駄菓子屋風の小店をもって、裁判には欠かさずでてきた。最年長の患者として遇されるのが有難いらしかった。原告団長渡辺さんのあとに一言いうのだが、きまってメジロの話である。
「メジロが二十居るます。メジロはチャプチャプチャプと十分間に五百回鳴かんば優勝できんとです」のとひとしきりあって、ようやく「私はチッソの煙突の無うなるときまでがんばるつもりです」と終る。参会者のだれもが牛島さんのこのメジロの話を待っている。あいの手に優しい笑いが流れ、だれもが手をたたく。
この人にチッソに対する憎しみや水俣病への怨みが本当にあるのだろうかとふっと思う。生き残った人、死に至る道すじのなかでこの受難をどう感じいかに心に収めておられるのか、のちにずばり尋ねてみた。
わしゃ、あんたら支援者はバカじゃと思うとる。よほどのバカじゃなからんば、水俣も水俣の、こんなはずれの茂道の、おる家にや来んはずじゃ。子どもだけしか来ん小商いのこんなところにな。金ばつこうて時間ばかけて。これは欲得づくではでけん。バカでなければでけん。わしゃこげんバカにいままで遭うたことがなか。そるがひとりやふたりじゃなかもんな。なん百人とおらす。あんたらもバカたい。そるがわしらをこう構うて、たずねて来らす。それが嬉しか。わしが水俣病を担わなきゃ、こんなたくさんの人にかもうてもらえなんだ。わしはなあ、水俣病にかかってしあわせと思うとります。
私は水俣病になって幸せだったということばに、聞いてはならぬ述懐を聞いてしまった気がした。「あん映画のメジロの声はちとつまらんかった。もっと鳴くとに。もう一ペん撮んなっせば鳴かするとにー」と、心はまたもメジロである。そのメジロに耳をかたむける人がいる。メジロ自慢をあかずに聞いてくれる支援者がいる。水俣病になってはじめて出会えたー自分をにんげんとして相手にしてくれる人にーそれは幸せというものではないか、と語っているのだ。いわば名刺カットのつもりで撮ったメジロのシーンをもし話の本筋ではないとしてカットしていたら、この老人の生そのものを切ることになったのではなかろうか。
水俣病の由来に憤るあまり、とかく病状をひどい方向で描きたくなることもしばしばだった。だが患者さんの中で衰弱の極までいって、もち直した人に生のたしかさが秘められていることがある。
井戸掘名人といわれた前島武義さんの場合もそうだ。「何度も首をくくったり、汽車敷がり(鉄道自殺)しなさった」(妻の話)というほど苦しみぬいた人である。しゃべり方に障害があり、奥さんの通訳がなければよく分らない。おそらく生存患者のなかでも重症に入るであろう。水俣病の日常動作におけるダメージを見るには典型的な患者だった。その不自由さを抽出して撮るつもりだった。ところがこちらが頼まないのに、つきつぎと動きをはじめた。それはリハビリ訓練のパターンである。
まずうつわに水をなみなみと注いで、腕を水平にして持って見せる。手首は小刻みにふるえ、水はこぼれる。それでも必要以上に長い時間保持しつづけてみせる。私には振戦という症状を見せているかに思える。次に一本の線の上を歩く。すたすた歩く。だが眼をつむって歩くとよろける。ついで片足で立とうとするが長くつづかない。説明ぬきのあたかもパントマイムをみるようだ、何の解釈もない。だから私には運動失調、平衡感覚障害の実演と思う。しかし愁訴の表情はなく不思議に明るいのである。羞らいをふんだ笑みを絶やさない。それは前島さんのふだんの人柄だと思っていた。私たちが一しきり撮り終えたあと、彼は一枚の紙とエンピツをもってきた。ぜひこれから書くものを撮ってくれというのだ。
まず平行線を引く。それは地震計の針のようにぎざぎざに乱れている。それを示してから自分の名を丁寧に「前、島、武、義」と書いた。時間はかかったが、それはまったくふるえもなく、一点一画たがいのない筆致である。最後の一字の描き終るころ、フィルムは落ちた。辛うじて撮れた。撮れたなと察して、さらに明るい笑みが彼の顔いっぱいにひろがったのである。
分った。彼は人間的能力の回復を表現したかったし、あやまたずそれをして見せたのである。病像のリアリズムなどではなかったのだ。水をもつことも出来る。眼を開けていればほぼまっすぐに歩ける。そして自分の姓名を書くことが出来るようになったー。
もし、最後の紙とエンピツを無視し、撮らないと危ういことであった。
全身に障害をうけながら、努力によってとりもどした機能の再生を、いまのいのちのつよい支えとしておられることを私たちに見せたのである。
撮りながら考えるー考えて撮るのとは逆に、撮ったあと気づかせられることが多かった。撮影にあたってノートはつくっても予想想定集としてのシナリオはなかった。
水俣といえば、暗く、つらく、悲しく、重くーといった負の連環にとらわれる。私たちもそうだつた。しかし生き残った人びとだからこそつとめて明るく、たのし気にそして軽妙に生きようとしているのではないか。おもりと逆の揚力をつくりだしているのではないか。そう思わせる世界が少しづつ見えてきた。
一家全滅にひとしい患者多発家庭、渡辺栄蔵さん一家の話の中の、オルガンを弾く少年とまったく耳が聞こえないその弟のステレオをきくシーンも、そうした見方をもとに撮った。それまで、渡辺家には訪問を重ねていたが、貧しい家に大ステレオは不相応に思えた。まちの人にも当時はまだ手の届きかねる高嶺の花である。まして当時は夏盆の用意にも事を欠く窮迫にあり、訴訟派原告団として市から十万円なと前借りしようと申し込み、市長にはねつけられているような時節である。十数万円もするステレオが子供部屋にどんとすわっていることを撮ることはこちらとしてもはばかられた。家の人もそれをかくすわけではないだろうがその部屋に招き入れることはなかった。とき折聞えるボリュームいっぱいの音でそれと気づいていたのだった。
当家の撮影プランはほぼステレオは除いて撮り終えた。そのあと、居聞から子供部屋に帰った二人のかけるレコードが聞えてきた。
長男栄一君はオルガンずきで、いちど耳で聞いただけで、暗譜で弾けたほどだ。しかし弟の胎児性患児政秋君はまったく耳が聞えないと聞いていた。いぶかしんでのぞいてみると、レコードにあわせてタクトを振る栄一君とともに、政秋君は数十ワットのスピーカーに指先をつけて、その音の振動に触れていた。政秋君はそひか音楽を楽しんでいたのである。二人にとっての宝物の意味を私がようやく理解したとみた両親には、もはや撮ることへの抵抗はなくなっていた。公開にあたって危倶はあったー患者のくせにステレオがある、あの時期にーといったそしりがでるのではと。それは私じしんの気持でもあっただけにおそれをもった。が、観た人は二人の子どもの可能性の方をよみとってくれたようだ。
記録映画にハプニングはつきものである。しかし撮影中に発案・提起され、予想もしないラストシーン 「一株株主総会」に発展した例は、私には稀だった。五カ月間の長期ロケであったことと、水俣病事件への関心のひろがりが広くなり、全国からさまざまなアイデアが寄せられた時期であればこそである。
まだ残暑きびしい九月二一目、宿舎に患者さんと市民会議のほぼ全員が集まった。東京の後藤孝典弁護士が一株運動の説明とその提起にはじめて水俣に足を運んだ。いらい十五年、川本裁判はじめいくつもの水俣病訴訟にかかわるのだが。私は東京でそのアイデアを聞かされたことがあったが、なぜか気乗りせず、ほとんど忘れかけていた。彼はしつつこくその後も実現性を考えつづけていたようだ。
「チッソにじかにものを言う機会があるのです。株式会社は商法の規定によって、どうしても株主を招集しなければならない義務があるのです。”お前も水銀をのめ”という場があるのです」と説明した。当時チッソの株価は一株三七円、それは手のとどくものだった。
市民会議はいろいろ考えた戦術の中に、株を買って総会にでて会社を困らせてやろうと考えたことがあっただけに賛成の意見がつよかった。「大阪にいくとや、東京にか、それじゃみんなで行こい。観光旅行たい」とにぎわうなかで、ひとり、代表の渡辺老人が凝然として口が重かった。のちに「あんまり話のうますぎるけん、チッソのスパイでよからぬ下心のありやせんかと思うてな」と洩らした。
しかしこのときから、裁判闘争にもうひとつの錦花が添えられたことはたしかだ。
間もなく御詠歌の練習がはじまった。それを唱していくので、みんなで覚えなければならないそうだ。発案は元僧侶の田中義光さんである。にわかに生き生きと動きだした。
この一株運動にまっ先に反対したのは、当時の弁護団であった。数名の熊本の弁護士たち、その多くは共産党系といわれる人たちであり、弁護団長は非党員で人望の篤い山本茂雄氏(故人)である。彼から患者への一株運動中止の勧告がなされた。「・・・お亡くなりになった天の霊は、皆さんに、自分を弔うために、いち言、社長に文句をいえとすすめておられるだろうか、それとも、出来たことは仕方がないが、出来るだけ補償をとって、お前たちの生活の安定を計ってくれと、こういうことを在天の霊は希望しておられるのではないか」。
弁護団としては、熊本の裁判に天下の耳目を集中させ、勝たなければならない。それに対して一株運動は「裁判闘争への集中力を二分するもの」とうけとったようだ。三時間近い説得は患者たちを重苦しい雰囲気に沈めた。しかし誰も「ではやめましょう」とは答えなかった。一株運動はすでに火がついて走りはじめていたし、その総会にでて一言でもふた言でもいいたいという積年の怨みがかなえられそうな気がしていたからである。弁護団の言外には、熊本告発や全国の支援に対する党派的な反感もあったであろう。ここでも渡辺老人は一株運動提起の夜と同じ表情のまま端然と身を持しつづけていた。
カメラは一株運動の節目節目を撮る一方、患者の日常の中により入っていった。水俣の風土の中で、水俣の患者さんの生活を撮り、それをつみ重ねただけでひとつの映画をつくろうと思っていた私には、一株運動を映画のラストにするには、あまりにも劇映画的になりそうで気がひけた。現実より映画の方がひとり威勢よくまとまることへの抵抗があったのだ。
私には五年前の前作『水俣の子は生きている』のロケで見た埋没期の水俣病の患者像がこびりついている。この年七〇年の水俣病事件の全国化や支援のたかまりーこの一株運動も含めてーはもとより心強かったし、あるべきすがたと思う一方、ふたたび、埋没する時期が来ないとはいえない。その時期にも見られるに価する映画とは何だろう。それには水俣の最も基調のトーン、ありふれた日常性のなかにある企業と土着の人びととの矛盾を描くことだ。一回性のドラマチックな矛盾の爆発で終ったとしたら映画的なカタルシスによって、見終えてから、胸のつかえをおろしてしまうような読後感を抱かせてしまいかねない。少なくともそれはラストシーンではないと考えていた。
だが元僧侶田中どんのアイデアはどんどんふくらんだ。勧進姿、御遍路さんの白衣をまとい、御詠歌をうたっていこう。それでは鈴が要る。萱笠もなからんば整わんと、まさにはっきりと集団演劇の演出家のようにイメージが生きてひとりあるきしはじめている。若い頃の僧侶の修業がいま息をふきかえしたようだ。ゼッケンに鉢巻では相手の心を本心衝つことにはならん、心から相手を哀れみ、来世をねがって御詠歌を進ぜよう。これしかないとの一念が女性患者や家族の気持をつかんだ。練習にはひとりふたりと習うものが増え、白装束が縫われだした。菅笠は、たのまれて私たちが買いに走った玖磨川の川下りの観光土産の品物では気にいらず、もっと大きくて格の高いものを求めた。いまならパフォーマンスとでも言おうか、一株運動は患者の潜在的な表現への意欲を解き放ったのである。
映画撮影にも似た現象が起きた。映画が映画を招くとでもいうべきだろうか。長期ロケのつねとして、撮ったフィルムを水俣の宿で見ることにしていた。A氏をとればA氏をよんで、Bさんの映ったシーンはBさんにと見せる。変哲もない無声フィルムだが、それが当人にとっては雄弁な映画だったようだ。喜ばれることがあっても、忌避されることはなかった。
宿の浜元家の人たちは勧進元のように「映画の有つで、来え」と誘うようになった。
元僧侶田中義光どんの娘実子さんは、ユージン・スミスが最も心を傾けた少女患者である。最重症で言葉はまったく失ったが、感情はゆたかで笑いも嘆きも拒みもする。それだけにカメラが近づきがたかった。また父親の気むづかし屋で写真ぎらいを知るだけに、切りだす機会をみつけられないでいた。それが一挙に「早う撮らんか、はがいか」に変った。それはたまたま他人さまの映ったラッシュを見たことからだった。
重症児をもつ父親のインタビューシーンをスタッフだけで延々と映していると、いつのまにか土間に田中さんがつつ立っていた。「なして、この親爺ばこげん長々と映っとや。こん衆ば撮っても水俣病のことは分らんばい。うちの実子ば撮らんでどげんすっとか。あん子は水俣病にかかったとは一番ぞ。あの子ば姿が水俣病ぞ」と一喝した。ラッシュを見て一気にはがいさを感じたのだ。
二徳さんとフミヨさんはまだ撮りにいけない家をわがことのように案じて、私たちに知恵をつけてくれる。「あん人も撮らしたげな、こん人も撮らしたげな、家にいつ来らっとやち言うとらした。その気になっとらすでいかんな」と知らせてくれる。胎児性の最重病患者が最後まで撮れなかったが、上村智子さん(胎児性水俣病患者の象徴的存在といわれたが、最重症で先年なくなられた。)の場合も二徳さんがほぼ話をつけてくれた。
実はロケの初め頃、水俣の小学生たちが上村家に慰問に訪れた。これは担任の先生の決断で水俣では初めてのことだった。そのとき生徒たちにまぎれて智子さんを撮ったのだが、体に硬直をおこし、のけぞってふだんの顔つきではなかった。こんどもまたそういう表情になるのでは、とおそれたが、まったく勝手はちがった。映画をうけ入れると決めた両親には静ひつともいえるおだやかさがあった。時折訪ねる私の声もどこかで聞き分けているらしいと、母親は言葉を添える。私には逆立ちしても出来ない演出があった。智子さんはうっすらと笑みをたたえ、体も休息のすがたのまま母親に抱かれていた。おそらく、彼女の最も美しい表情を撮ることが出来た。そのシーンの演出者は母その人だったのである。「患者さんは光っている、映画はそれに感光したにすぎない」と私に言わせたのは、このシーンがつよく念頭にあったからだった。
負一色の世界にプラスの輝きをみたゆえに、この映画はある明るさを帯びるものとなったようだ。水俣ロケが数カ月を越す頃から、気力とはまったく別個に胴疲れとでも言いたいようなうつくつがたまった。スタッフも同様だった。
一之瀬君は尊父をガンで亡くし、その傷心の中で妻たる人を熊本で見つけていた。紘子夫人である。大津君もカメラ修理に一度帰京しただけである。堀君は患者さんの誰かれなしに親身に接した。独身のうえにその温かさから誰からも好かれた。女性患者たちに淡い想いももったようだ。私は「水俣では禁欲する事」ときめていた。スタッフにも言っていた。家庭崩壊、夫婦別れ、離縁、破談、若い患者への抑圧とずたずたにされてきたこの地の人に、私は妻を呼ぶことすらはばかられる気がした。ときに若い男女の支援者がカップルで宿にくることがある。それが恋人であるとからんで意地悪をした。宿の女主人フミヨさんこそ、水俣病ゆえに普通の女子のように嫁にいくことを心中絶った人である。許せない気がしたのだ。いやな思いをした人はどうか察してほしい。
ときに狂わしいばかりに女を見たくなる。そんなとき、湯ノ児温泉街のさびれたヌードスタジオに車を飛ばした。一ペんいくとくせになるのか次の夜もいく。同じ演し物、同じ女(といっても一人だけだが)だからと割引きにしてくれた。舞台の袖から二歳ぐらいの女の子がでできたりする家族的なショーだった。宿のフミヨさんが「また行ってこんな」とからかう頃には、夜寒の頃となっていた。
資本主義の商法は悪意にみちた一株の買い手にも、株主総会の出席資格を送付してきた。七〇年十一月二八日の株主総会までに、熊本県内で四百六十二人が一万四千五百株、東京三千四百人が一万四千五百株、大阪も千人の新株主がうまれた。むろん訴訟派患者は全員株主となり、総計約六万株。チッソの全株主は前期総会より六千人ふえた。
この一株運動の総会出席者は千人を超した。これに対し、チッソは会場を広い大阪厚生年金会館ホールにうつすことを余儀なくされた。数も知れないベテラン総会屋と社員の「ガードマン」を備え、別動隊に右翼暴力団、大日本菊水会が二十余名、会場内外に配置された。チッソは柔と剛の両面作戦を用意しつつ、日本の総会史上初めての被害者の集団直訴の矢面に立たされたのである。
渡辺栄蔵会長は混乱する会場をみつめながら端然とした姿勢を崩さなかった。最後の瞬間まで、総会にでられるかどうかあやうんでいたらしい。眼前にくりひろげる何百人かの支援者とチッソ首脳、総会屋、社員との合戦を凝然とみつめていた。それは古武士といえた。戦国時代と現代とがいっしょに立ちあらわれたような舞台が出現したのである。
大津は客席中央の患者さんたちの側にカメラポジションをきめ、私は軽便なフィルモをもたされた。四分の幕切れに、無念を抑えきれない女性患者が浜元フミヨさんを先頭に壇上にかけあがって、社長江頭豊らに迫った。私もあとを追ったが、支援が四、五重にかこんで固くスクラムを組み、TVや写真班をよせつけなかった。この千載一遇の機会に、患者に思いのたけをのべさせるため、緊急にその態勢をとったのだ。そのスクラムの中にも”記録映画を撮る人”を探す目があったようだ。私たちが東プロと分ると、支援者は、私と堀のふたりを輸の中に押しこんでくれた。近距離のポジションは私たちだけで独占することになった。ほかのTV局、とくに水俣を追いつづけた地元の熊本放送に申しわけないが人垣は閉じた。
あんたも親でしょう。よう分っとりますか。あんたも人の親でしょう。わたしは両親(を失った)ですよ、両親。人が何といっても両親ですよ。分りますか。わたしの心がわかるか。何ちゅうたげか。おる家にきたとき、何ちゅうたか。三回も頭をさげたんが忘れたか(社長「だから仏前にまいって」)仏前にまいっただけではつまらん。わろうな。いまわろうた。おらわろうことどま言うとらんぞ。わろうた。いまわろうた・・・。
このとき、私はカメラをのぞいていなかった。広角レンズにしていたが、それでもピントはボケていた。位牌をかざしてせまるフミヨさんの声にただ衝たれていた。若い支援者たものほとんどがうなだれ、なかには声をひそめて鳴咽しているものもいた。この瞬間が、このように間近かに撮ることが出来たのは、この日、立ちあらわれた集団の意志としか言いようがない。のちに『水俣一揆』や『不知火海』の場合にも、同じ不可思議な意志の働きといったものを覚えることになった。
ここで『水俣の子は生きている』(一九六五年)から『水俣ー患者さんとその世界』にいたるまでに、私たちの映画行動を支えた多くの表現者たちにふれておきたい。水俣の映画のその後の連作も、ふかくこの人たちにたすけられたからである。次の一文は、七三年映画『水俣一揆』を発表したのちに「放送批評」によせたものである。