水俣=語りつぎ2 「水俣映画遍歴-記録なければ事実無し-」 『医学としての水俣病』『不知火海』
一九七二年は正月早々から私の身辺に警察の監視の色がこくなった。一月六日、埼玉県警は、陸上自衛隊朝霞駐屯地の自衛官殺害事件の主犯格とされる日大生菊井良治に犯行を指示した疑いで京大助手の竹本信弘(ペンネーム滝田修)を別件強盗予備で全国指名手配し、朝日ジャーナル記者ら二名を証拠隠滅などの容疑で逮捕した。私は竹本信弘を軸に京大のノンセクトの学園闘争を映画『パルチザン前史』で描いており、竹本とは親交をもっていたことから、それは当然といえる。
一月二六日には早朝七時頃から家宅捜索をうけた。家宅捜索に数名が立ち働いている問、デカ長はコタツに正座して、外のパトカーとの無線でのやりとりを耳うちなどして、連行するかどうか思案しているようだつた。その危機をはぐらかしたのは猫だった。当時数匹の猫がおり、人になついて誰彼なしにコタツに入る客のひざにのって媚をうるのである。「可愛いいですな」などといって所在なげに猫ののどをひっかいたりする。私は女房に茶をだすようにいいつけた。女房は眼を一瞬つりあげたが、茶とありあわせの菓子をだすと、全員手をやすめて「温まりますです」などという。戦意をそがれたのか住所録一冊を押収、あとかたづけをし、ごみを掃くまねをして帰っていった。だがこの一冊から、のちに多くの知人、縁者がしらみつぶしに調べられた。いまも心苦しくすまないと思っている。
四月中旬、竹本がそれまで身をかくしていた関西から関東に移動したとされた頃から、さらに尾行や監視の眼を身辺に感じた。私のストックホルムゆきさえ、埼玉県警は竹本を反公害グループの一員にまぎれこませて海外脱出をはかるのではないかと空港まではりこんだという。
私はひとりひとりの人物との出遭いをつづって私の映画を組み立ててきた。竹本信弘(滝田修)には次の時代を切り拓く思想と人格を見たからこそ『パルチザン前史』をつくった。もしその彼を裏切ることがあったら、水俣の人びとを撮ることが出来ない。また売るかも知れないと見られるからだ。
それに水俣病事件そのものが公安事件と見なされている。私の映画の上映すら、地方によってはビラはりひとつを軽犯罪法違反でパクっている。すでにのベたように竹本ー土本ー水俣の患者闘争とつなげて、川本輝夫氏らや支援グループを暴力派患者やかくれ新左翼の運動と描きだす手口は、さらに露骨になっていた。
ストックホルム環境会議につづくヨーロッパでの配給のメドをたて終った頃、パリにいる私に一通の手紙が東京から帰国したフランス人映画批評家に託されてとどけられた。それには、当分の間そちらに滞在していた方がよい、帰国したら空港で逮捕されることもありうるという。もし逮捕されれば、水俣病闘争、反公害運動に映画人の仮面をかぶって潜入工作していたというオトギ話に尾ひれがつき、チッソ本社前でテントをはって座りこみをつづけている運動までも暴力派一色に染めあげられるだろうーという危恨ものべられていた。
幸い私には、岩披映画の助監督時代からの無二の親友がパリにいた。近年、木をつかってユニークなディスプレイ「木遊展」を発表し、注目をあびた藤江孝氏である。一九六四年いらいパリ郊外にアトリエを求めて、彫刻にうちこんでいた。生活費は日本からの映画ロケ隊のコーディネーターの仕事で得ていたが、サロン・ド・メに出品を求められるまでになっていた。彫刻の仕事に熱中すればするほど窮迫するという生活の中で、彼は私の滞在をひきうけた。また彼の紹介で、パリ在住中の日高六郎・暢子夫妻とも知りあえた。半ば政治的亡命者としてパリに逃れたマレーシア人や韓国人学生をかくまってきた藤江孝の性来の侠気が、そのまま私にも注がれた。
五十日間のパリ滞在は、私に次の水俣映画の企画を立てる時間を充分に与えてくれた。映画批評家、山田宏一さんのすすめる珍品フィルムをシネマティクや場末の映画館に見にいくほかは、もっぱら次の企画の構想をねった。
『医学としての水俣病』海外での水俣映画の批評はおおむね良く、マンハイム映画祭デュキャット賞や、ロンドン映画祭の十本の招待作品に選ばれたりした。しかし、環境問題に関心をよせる各国の人の質問に共通しているのは、「なぜ政府は水俣病をかくも長く放置してきたのか」「チッソが存続しいまも稼動しているのはなぜか」「海の汚染はなくなったのか」「患者の病像の医学的解明とその治療法は開発されたのか」「なぜ患者の手でしか潜在患者は発掘されていないのか、県・国の調査はなされているか」「マスコミや革新政党、労働組合はどうしているのか」と実践的で具体的なものばかりである。映画は水俣病の医学的解明と事件の社会的構造に必ずしも照明をあてていない。そのためには、次の映画で応えなければならないだろうと思いはじめた。
ノートをしたためプロデューサーの高木に送ると打てば響くような応答があった。「医学としての水俣病」「事件史」の二つをかねあわせた総集編をつくろうというものである。もはやフランスに留まることはない。滝田修の無実を信じているし、私に何のひけめもない。日本で仕事がまっている。そこでパリ滞在を打ち切って帰国した。六月に日本をでて十月初めに帰ったことになる。幸い帰国時に何のトラブルも起きなかった。
水俣病裁判が勝訴の予感をはらませながら終幕に近づいた頃、次なる映画はその裁判判決の日をプロローグに「そのあとの水俣」をフォローしながら医学映画を撮るつもりでいた。しかし現実の情勢はニュース的速報性のあるフィルムをつくることを促していた。
一九七二年末、一年に及ぶテント座り込みに手を焼いたチッソは、社員が面会申込みの防御の際傷害をうけたとして告訴した。その「事件」から数カ月後の十二月二八日自主交渉派の川本輝夫を傷害罪で起訴した。
翌七三年一月、いわゆる公害等調整委員会への委任状偽造事件がおきた。川本さんら座り込み患者にさえ慫慂していた第三者の公調委による補修処理方式を、水俣でつぎつぎに新しく認定された患者に押しつけようとしたのは当然といえた。裁判の判決まえに、低額の補償金で始末しようとする作為がうかがわれるなかで、公調委は百五十余名の患者の代理人としていわゆる調定派患者の頭株十二人を選び、その手で彼らへの委任状を集めさせた。調停派の会長Mは事あるごとに会社側の意向を代弁し、水俣湾の漁業補償で利権を得てきた患者である。代理人たちは手分けして委任状を集めたが、本人に無断で印を押したりしてにわかごしらえの公文書を作成、公調委に提出した。公調委はあやしむことなくこれを受理し、処理を進めようとしていた。患者支緩団体「水俣病を告発する会」としては、この委任状を閲覧し、偽造を指適するために公調委につよく迫る必要があった。そして水俣の何も知らない人びとに真相をすみやかに知らせなければならない。熊本の「告発」グループの大挙上京がつたえられたのは、実力行使予定日の二、三日前だった。
こうして水俣映画の続篇はまずニュース映画『水俣レポート、実録公調委』として二週間でまとめられ発表された。カメラマンには高岩仁と一之瀬正史が参加し、録音は浅沼幸一が担当した。
一月二二日、委任状への署名・捺印のおぼえのない患者数名を擁して、熊本からかけのぼった「告発」のメンバーと熊大の支援グループ百数十名を中心に約二百名が総理府のへいをのりこえ、公調委事務局に座りこんだ。ようやく閲覧できた委任状は予想通り、偽造されたものの多いことを示した。住所のことなるもの、同姓の印の無断流用と思われるもの、遺族でなく死亡患者本人の署名・捺印など、まさに法律に暗い水俣の人を手玉にとった代物だった。さらに、水俣市公害課発送の申請書もでてきた。公調委が代書させていたことも明るみに出、ついに委任状の三分の一が偽造と判明、裁判判決以前に調停派への補償を処理することは不可能になった。
こうした即応性をもとめられて、「ニュース映画をつくろう」ときめた。見せる対象としては水俣の患者さんを第一においた。映画作品というより、フィルム報告、フィルムによるガリ版速報だった。自分の家に編集機材、録音機をもちこみ半徹夜でしあげをいそいだが、速さの点ではTVニュースにかなうわけはない。また経費を回収する目算はさらにない。しかしこうした速報をつくる足腰のバネは身につけたいといつもスタッフで語りあった。その後も八ミリで撮り現地の患者集会に間にあわせたり、ラッシュフィルムにテープを添えた形でフィルム報告を試みたりした。最近は水俣病センター相思社でビデオカメラによる記録とニュース的な映像づくりがはじめられた。
さきにのベたように、『医学としての水俣病・三部作』の製作を、七三年三月の判決の日からスタートさせるべく、再び大津幸四郎カメラマン他スタッフと水俣入りしたのだが、判決後患者は上京するという。また東京に舞いもどった。その経緯を撮ったのが『水俣一揆』である。
三月二十日の水俣病裁判判決のあと、患者さんたちが直ちにチッソ東京本社にいくと知ったのは、その十日程前、水俣入りして間もなくだった。私は判決で一件落着するものと思っていたため、東京に何を要求しにいくのかとっさには分らなかった。
「今度の訴訟でとるのは補償金じゃなく、いままでの十何年分の慰謝料よ。あと何年、何十年生きていかんばんとかなあ。医療費とかな。動けん人や、胎児性の子供のこれからのことば考えんばなあ」と浜元二徳さんはいう。当時新聞などの予想ではほぼ一律一千八百万円の要求に近い線で判決がだされるとされていた。チッソも控訴せずに一審判決に服すると予想されていた。その一年半前にだされた新潟水俣病の判決による慰謝料は、最高一千百万円、最低は五十五万円と差がつけられている。それに比べると・・・と、私は一瞬うろたえた。「あまりに欲張りと言われないだろうか・・・」、私のなかの常識的なバランス感覚がそう思わせたのである。当時チッソ水俣工場の工員の退職金が七、八百万円といわれるとき、この水俣ではどんな反応が起るであろうか。この要求のもつ意味を映画でときあかすことが自分に出来るかどうか。この一見、分りにくい問題をどう描けるだろうか。私の撮ろうと思っていた事件史と医学としての水俣病の全貌に迫る映画をと思っていた矢先に、新たな生ぐさいまでの闘争が展開されようとしている。「水俣病は終っていない」と口にはするものの、自分自身、判決をひとつの終りと考えていたのだ。
さまざまの自問自答があった。やがてむしろこのこだわりを抱えながら撮るべきだと考えた。私には患者の心が十分には分っていない。理解して撮るのではなく、患者の真情をさぐるためにカメラとマイクでこれからの一連の出来事にむきあおう。おそらく、前作を撮ってから三年、私と患者の隔たりを埋める映画となるに違いないー。この作品はチッソ本社の交渉の日々をほぼその室内だけで撮ったものである。二台のカメラで、会社首脳と患者側とを振りわけた。その撮影の比重は五分と五分、緊張感をもっていかなる揺れうごきも撮ろうとした点では、むしろ会社の社長と重役により焦点をあわせたものだ。それが患者の凝視したもの、患者の見のがさなかったもの、ゆえに患者が物を問いかけざるを得なかったチッソのかくれた顔がみえるからだ。
患者さんとチッソ社長の対決にときにいわく言いがたい瞬間がある。水俣からかけのぼった川本輝夫さんらが、カミソリで指を切り、血書をつきつけた七一年十二月八日のことを、石牟礼道子は法廷で次のように証言している。
問 (山口弁護人) 翌八日にも社長さんと会っておりますね。
答 (石牟礼道子)はい。
問 この交渉の経緯はどうだつたんですか。
答 初めて具体的なものがるる述べられたわけですけれども、患者さんの要求項目というのがございますから、それをいちいちあげられていかがですかというやりとりから始まって、それに対するチッソ側はひたすら「中公審にお任せしておりますので、そちらのほうにどうぞ」ということと、それから私たちが聞いていて聞き捨てにならないのは「今度の患者さんたちは医学的にはっきりした患者さんたちでなく疑わしい患者さんといいますか、根拠が当社にわかりませんので、重い方もいらっしゃるでしょうし、軽い方もいらっしゃるからご返事できません」と、その一点ばりで、それに対して、どうしてそんなに思うんなら、どうして、わからないと言うんなら、もっと早く十何年も続いている水俣病というものは知らないわけがないんで、一度も会社は見舞にだって来たことがない、どうして来てくれないのか、今からでも来てくれる気はないのか、というようなことがずっと十時間・・・十三時間も続いたと思います。
問 具体的な実りある話というものはなかったんですか。
答 何もございません。
問 それで、社長は最後はどうなさいましたか。
答 まあ、社長はというよりも患者さんのほうはくたびれて、最初は腰掛けておりましたけれども川本さんも、いつもですけれども長時間坐るのは耐えられないんですね、全部いすから降りて「ご無礼します」と言いながら、横になってしまって、脈拍は上がるし、脈拍を計る機械がありますけれども・・・・・・。
問 血圧計ですか。
答 そうです。あれはどんどん上がりますし、それでこちらからお医者さんがついて行きましたから、東京からもお医者さん来てくれまして、社長もご老体なもんですから心配いたしまして、そろそろ休憩の時間ではなかろうか、ということで「お計りしましょうか」と言って、脈拍が上がっておりまして、そのことを会社側のお医者さんに申し上げて「お休みいただきましょうかね」ということを、こちらから申し上げて、会社側のお医者さんが来て、あなたたちは社長の人命も尊重して下さい、というふうなことを言って連れて行ってしまいました。
問 残された患者さんたちは、どうなさったんですか。
答 そのときの悲痛な患者さんたちの情景はいまもって忘れませんけれども、川本さんが泣き出して、そのとき初めて泣きながら、おとうさんのことを初めておっしゃったんですけれども。
問 それは社長にですか。
答 社長さんにということよりも、一人言という感じでしたね。死んだおとうさんに泣きすがるような、それが社長でもあるような、そんな感じでした。
問 具体的にはどんなことを言っていたんですか。
答 精神病院の中でたった一人で死んだんだぞ、社長、あんたは幸せばい、そういう一人で死んでいくような、そういう精神病院の格子のある部屋で死んでいく、そういう気持があんたわかりますか、というような・・・。
(「水俣病自主交渉」川本裁判資料集、四八七頁)
私に忘れられないのは、患者の中からときにふきでる父祖への情ににたものの表出であった。交渉の席にはいつも数人の重役、幹部が列席していたが、島田社長にだけ物を言うのだった。久我重役らが口をはさむと話の芯が混乱するとでもいうように、いつも社長との系だけを大切にしていた。カメラに見る島田社長の顔は誠実に受けこたえよう、自分の身の辛さはいとわないで患者に対しようと固く心に決めている美しさがあった。患者がこの人一点をみつめたのはこの人柄を信じたからであろう。
交渉の初日、誓約書へ社長の押印をもとめて乱れに乱れ、激しに激したあと、ようやくそれが法的効力をもつ公文書ではないと納得して捺印した社長に対し、いちばん厳しく責めた浜元フミヨさんが、傍らの弟二徳さんの肩に手をおきながら、弟の体の不自由を見ておれない自分の辛さを涙をふきふきかたるとき、そこには「死んだおとうさんに泣きすがるような、それが社長でもあるような」人のぬくもりに身をまかせた泣きじゃくりがつづくのである。まさに分らずやの父と口喧嘩のはてに和解をもとめる気丈な娘と少しもちがわなかった。
またある日、交渉は岩本公冬さんへの慰謝料の支払いの求めで激昂していった。会社は公調委にまかせてあるので、この人の場合、その結論にしたがってくれという。その結論とはより低額かつ補償に格差をつけた方式をみこんだものだ。岩本さんはふるえと頭痛にひしがれながら、「ここで俺に裁判並の金ばはらうと約束しろ」という。口から泡をふき、痙れんのために身もだえをつづけている。深い側隠の情をかくせぬ社長に、川本輝夫、佐藤武春、ともに一年四カ月争いぬいたふたりが、社長と肩をならべて、
川本・・・ねえ社長、あんたにもどうにもならんわけよ。なあ、社長ホラ、答えろ、いますぐ・・・。社長にとりあえずそれでいいと公冬さんが言いよるがね。口がかなえばまだ喋りたい・・・公冬さんは。なあ、これが最低限の譲歩じゃ。・・・岩本さんは、今日やっとでなーさっきゆうたろうが公冬さんがー奥さんと離婚さわぎまで起して来とるちゅうたろうが・・・そういうことを何でこういうみんなの居るところで言わないかんかあ・・・子供は子供で”お父ちゃん、行ってくれんな”ちって(ぶら)さがりおるぞ・・・家を出るたびに・・・病院にいくのにさえ子供がさがりおるぞ、”とうちゃん、出るな” っちゆって。
佐藤 もう人間の良心にしかうったえるとこはなか。
川本 (社長の胸元に眼をおとして)もう、あとはあんたの良心に訴えるほかなか。眼の前にすえといて・・・本人ば眼の前においてな、どげんするかちゅうのはなあ、これはもうあんたの良心にしか判断しようがなかわけよ、われわれがどしこいつたって。な?
社長 ・・・
川本 もう見るにしのびんと・・・本当、なあ。社長!もう決めて下さい、な、もうそれ以外ないですよ。この前と同じようなかたちになりつつあるがな、山田さんのときも同じじゃった。なあ、あんたば良心によって決断したんじやろうがね、やっぱり。なあ、こんどの場合も良心によって決断して下さい。
(採録シナリオより)
ここに敵味方の境がとりはらわれた情のかよいあいがあった。人間としての社長を信じ切った、はたの人に聞こえないように声を低めてつげる友情に似たものがあった。後刻この願いが容れられないと知って、川本さんは我を忘れて机につったち、あるだけの声をしぼって不実をなじるのであった。「資本家」とか「チッソ社長」に対してでなく島田賢一その人にむかつてのにんげんの声であった。
十七、八年に及ぶ水俣病事件の中で、患者と社長とじかに会い、物をいった機会が五、六度ほどもあったであろうか。一九六八年九月の厚生省の公式確認いご儀礼としての患者宅訪問などをのぞけば、これがはじめてのじか談判ではなかったか。千六百万円から千八百万円の慰謝料はチッソにとっては低額とは思われなかったとしても、一応原判決に従った。その直後からひきつづく生涯の療養とぎりぎりの生活保障の要求が出されようとは思っても見なかったことにちがいない。それをさしの直接交渉の場で求めた患者の心には、かくも永く相争った水俣病事件の加害者が、金だけ支払って縁を切る、そうした絶縁に終る始末へのおそれがなかったろうか。閉じ街、同じ水俣に生きるにんげんとして、すべて金で関係をたち切られることーチッソの城下町におけるその冷酷さを百も承知なだけに、患者たちは一生に一度のこの機会にあたって、会社側に被害者たちとの、生涯のつきあい方を迫りつづけたのではなかったか。それが金の形でしかあらわしようのない関係であろうと、その基底にはチッソ社長に父祖の情にあい重なる仮託がこめられていたのではなかったか。だから私はこう言わなければならなかった。
水俣病を会社の側で抱え処理してきたチッソの首脳。患者家族の名まで記憶している実務家の重役、チッソの中でも、もはや最終処理はその人をおいてないと財界もみとめる唯一の手駒、現チッソ島田社長はこの語りの前ですら、人間として自由に対応出来ない。文字や言葉が資本の論理以外になかった人にちがいない。チッソなりの弁明、説得。一見、因果のすじみちをたてた理屈も、つきつめると「ひとのいのち」を見失った果ての彼らの言葉である。これを文章にすると、あるいは何とかにも三分の理ということになろう。しかし、映画で彼らが音と画の世界にさらしてしまったものは「人間なるもの」についての固執がゼロに等しいということである。映画はチッソの言い分にも、充分にスペースを割いたつもりである。だが資本と常民とのすれちがいがはげしい亀裂(きれつ)音をたててゆくのが見える。「水俣病」をはさんで、すでに二十年余、ぬきさしならない現代の悲劇の典型を見たのである。
(前掲書)
私の父は長く某電力会社の総務部系の職にいて、水力発電開発にあたり水利権をめぐって農民、内水面漁民と交渉をもったこともある人である。父は画面の中の社長を見て、その一挙手一投足、そのひとことひとことに釘付けされ、側隠の情を禁じ得なかったようだ。社長という公人として、資本の側に立つ人間がどのように個人としての感情を吐露できるものか、「おそらく茫然と立ちつくすしかないのかも知れんのう。なぜもっと早く会っておらんかったか」とつぶやいた。資本の側に立って仕事をした父はこの映画に深く痛んだようだつた。
島田賢一氏はのちにチッソ会長となり、一九七七(昭和五二)年二月二十日、肝硬変で亡くなった。享年六七歳であった。『水俣一揆』より四年のちである。島田氏には七三年の交渉時に、いわばがけぶちに立たされた当時に考えていた捨身の策があったようだ。
一九八五年九月五日、朝日新聞は「チッソ解体し,国へ身売り”四十八年に故島田社長ひそかに検討指示、運営に患者や支援者ー元専務明かすー労働者保護など模索」と見出しをつけた記事の内容がそれである。直接交渉の時期、過労のために入院した折、そこで当時専務だった藤井洋三氏に口述筆記させたもののメモ(「島田賢一さんを忍ぶ」チッソ刊行委員会)である。
メモは六項目よりなり、要点は、
(1) 経団連ー三木(環境庁長官、当時)を通じ患者数の確認。
(2) 水俣病の責任問題はチッソ株式会社にあるのであり、株式会社にこだわらず、設備、労働者を国に差し出すから活用されたい。
(水俣病の解決は)私企業のよくする範囲を超えた。(これが実現すれば)島田は(患者との)交渉に当るのをやめる。
(3) 行政が介入せざれば会社はつぶれるので、島田としては一自然人として心情的な補償金を約束せざるを得ない。その金額は会社の支払い能力をはなれたものになる。
心にひっかかるのは島田が決定する金額が国民の血税から支払われることになるであろうことだ。それを私企業の責任者が決める権限ありや・・・
(4) (倒産した場合)残った生産設備、労働者は機能的運用を要する。患者団体あるいは支援団体の運営、他の企業者の受託運営、半官半民運営が考えられる。
などとしている。
実際としては、島田社長は患者要求のすべてを受け入れ協定書の調印へと進むことになり、患者や支援団体に運営を任せる構想は立ち消えた。藤井専務は株式会社の存続こそが最優先と考え、社内の幹部には伝えず「握りつぶすより方法がなかった」と話している。
これに対し川本輝夫氏のコメントが附されている。「島田社長はときに心を開いてくれた。この口述筆記には患者に対する心情もある。しかし根本は国にすがりつこうとする甘えの構造ではなかったか。当時すでに倒産を覚悟していたといえば聞こえはいいが、子会社、関連会社をつくって実質的に企業の存続をはかりながら、本体のチッソをつぶして水俣病の幕引きをしようという企業論理がいまでも存在していることをわれわれは常に警戒しなければならない」。
その通りであろう。しかし企業の論理としては「握りつぶすほかない」ほど、それ自体破壊的な構想である。そして恣意的にせよ「患者団体あるいは支援団体の運営が考えられる」と口述したとき、川本さんたちに対して総体としてのにんげん的力量を感じたからではなかろうか。『水俣一揆』の貌と貌にいまもときあかせないものが映っている。
『水俣一揆』は早くしあげなければならなかった。たたかいの意味をつたえるタイミングは急を要した。そして七三(昭和四八)年六月末に日本青年ホールで公開した。
ある映画評は「判決のあとまで、何故直接交渉するのか、一般報道もあまりされず、第三者にわかりにくい問題を、この映画はずしんと分らせてくれる」(朝日新聞(英))と評した。一番気がかりな点が突破できた気がした。
同じ時期、一九七三年四月二五日、新潟水俣病事件の患者と昭和電工との生漉補償をめぐる交渉で、昭電は患者の要求を全面的に受け入れ、年金五十万円(物価スライド制)を決定した。この画期的な「一時金(慰謝料)プラス年金」方式が、年金、医療費にゼロ回答をつづけてきたチッソと国・県を大きくゆるがせたに違いない。
映画公開後まもない七月九日、三木環境庁長官の仲介のもとに、特別調整手当(つまり年金だが、年金の名称をつけることに政府の強い抵抗があった。)月額、最重症六万円、重症三万円、中症二万円(スライド制)、さらに療養費、「おむつ手当」などを獲得した。チッソと患者の間の生涯保障の協定は四大公害裁判のなかでも水準をぬく達成をみた。旧訴訟派患者の四年半のたたかい、重ねて新認定患者の一年半の座り込み・テント闘争と他に例をみない行動の連続性によってかちとったものである。
だが、『水俣一揆』の完成のあと休んでいるいとまはなかった。次回作『医学としての水俣病』の着手をうながす、眉をやくような強火が不知火海全域にひろがっていた。
一九七三(昭和四八)年は公害「運動史上」最大のピークをむかえつつあった。暦をめくってみよう(朝日新聞「週刊報告」より)。
三月二十日 「水俣病裁判判決」=患者勝訴
四月二一日 「新潟水俣病の補償解決」(以上前述)
五月二二日 「有明海に『第三水俣病』」
水俣・新潟につづき、有明海にも水俣病が発生したことが、熊本大学の研究班で明らかになった。熊本県有明町に現在八人の水俣病患者がおり、メチル水銀中毒を引きおこした汚染源として日本合成化学工業の熊本工場が浮かんでいる。
五月二五日 「未回収水銀は三五二トン」
通産省の実態調査の結果、七社八工場で合計三五二トンの未回収水銀のあることがわかった。
六月一日 「第三水俣病で死者」
熊本大学医学部病理教室は、第三水俣病が出た熊本県宇土市三角町で三六年十月と四七年十一月に病死した二人が水俣病だったことをつきとめた。
六月七日 「大牟田市にも水俣病」
水俣病患者と同じ症状の患者が大牟田市にいたのが熊本大医学部(原田)助教授の診断で分った。八日、工場廃液の流れこむ大牟田川河口の魚介類を多食しており、通産省も実態調査を急ぐことにした。
六月十二日 「水銀汚染に対策会議」
政府は水銀汚染問題に集中的な対策を急ぐため、十省庁からなる「水銀汚染対策推進会議」を設けた。
同日、右の初会合で水銀をつかうカセイソーダ工場の生産工程を全面的に切替えるなど十一項目の対策を決めた。
六月二一日 「マグロから高濃度水銀」
東京都は東京築地の中央卸売市場に入荷した魚介類の水銀汚染調査をしたが、マグロ・カジキ類の八割以上からアメリカで規制対象にしている〇・五PPM以上の水銀が検出されたと発表。
六月二四日 「水銀ショック」
厚生省は水銀汚染対策のため、魚介類の水銀暫定値をきめ、それにもとづき「小アジなら一週間に十二匹まで」などの指針を発表。
しかし魚商協組などの抗議をうけ、二六日に「現在流通している魚ならまず心配はいらない。アジなら週四十六匹まで」と訂正。
漁民、魚屋などは大打撃、各地で抗議のデモや公害工場の封鎖などの行動が展開された。
二九日、政府は水銀PCB汚染の総点検のため全国八千地点の調査をきめた。
七月四日 「魚商・漁民が総決起大会」
全国水産物小売団体連合会の主催で一万二千人が集まり、「魚の安全宜言」「公害元兇の操業停止」などを求める決議をし、都心をデモ行進した。
六日、漁民も東京で公害被害者危機突破全国漁民総決起大会を聞き、約二千人が参加して「政府は汚染企業の責任追及を」などを決議、経団連などへ抗議デモを行った。
まさに激動の三カ月半、こうした動きの中で七月九日、水俣病補償協定が調印されたのである。患者は救済のメドをつかんだが、不知火海の漁民は魚が売れなくなり、十数年ぶりのパニックにおちいった。
現地水俣では、水俣漁協がチッソ会社に十三億六千四百万円の漁業補償を要求し、七月八日、工場の正門、裏門をダンプカーで封鎖しバリケードを構築した。いらい十三日間、工場の操業率は一割までに低下し、ついに四億円の漁業補償(組合員平均二百七十余万円)を支払い、問題を解決した。
ついで七月三十日、不知火海沿岸三十漁協(除水俣漁協)は昭和三四年当時からの被害総額百四十八億五千万円の補償を要求し、チッソの提示した回答十二億円を不満として海上、陸上の封鎖に入った。
こうした動きのなかにあって、映画は『医学としての水俣病・三部作』だけではなく、並行して侮と人とのつながりを描く『不知火海』を構想することになった。
一九七三年夏から始まった水俣ロケは翌年三月までつづけられ、さらに一年間の編集作業をへて、一九七五年、一挙に四本の長篇が発表された。
『医学としての水俣病』(第一部・資料・証言篇)(第二部・病理・病像篇)(第三部・臨床・疫学篇)、そして長篇ドキュメンタリー『不知火海』である。全部で七時間近いもので、その上映は岩波ホールでの一挙上映の形をとった。そしてひきつづいて『医学としての水俣病・三部作』の英語ナレーション作業がつづき、はじめからその完成までに二年を要した。