カナダ・インディアンの水俣体験一本当の人間をそこにみた 「エコノミスト」 9月2日号 毎日新聞社
アイリーンの手紙
昭和四九年の春であった。私がたまたま『医学としての水俣病・三部作』の撮影の仕事で、熊本大学医学部の原田正純助教授(精神・神経科)にお会いした折、カナダに水俣病らしい病気が発生していることを知らされた。彼のところに、水俣に足かけ三年住みついた写真家ユージン・スミス夫人アイリーンさんが、カナダのオンタリオから急報してきたものである。要点は、オンタリオ州政府は何の手もうたないのみか水俣病の可能性を否定しているー。しかし魚の水銀汚染はかつての水俣病の最発生期のそれと匹敵しており、そこにすむインディアン居留民は水俣漁民と同様、魚を主食としている以上、見過ごしにできないというものであった。「アイリーンの言ってることが本当とすれば、早速にもいきたいが、いまの水俣も手が放せんでしょうが・・・」と原田助教授は言っていた。その後いつとはなしに意識もうすれていた私に完成したばかりの写真集「MINAMATA」がユージン夫妻から送られた。その一章にアイリーンのレポートがある。そこには更に詳細に彼女らしい観察がのべられていた。
「・・・カナダ政府は五年前、一九七〇年に営業としての漁業は禁止した。この一帯は富豪たちにとっての別天地のようなレジャー地帯で、各種飛行機で湖沼と川のキャンプ地にいく・・・つまり、自動車族やオートバイ族の立ち入れない秘境であって、富める人びとはそこでインディアン・ガイドのたすけで漁に狩に出かける。水行一日といったハンティングの旅もあり、その歓楽のきわまりは岸辺でインディアン風の魚の串焼きを食べながら夏の夜をたのしむことという。したがって、観光業者のほとんどは摂取禁止の立札をひきぬき、ガイドのインディアンに客と一緒に魚をたべることを強要しているという。そして彼らは『水俣病は海の汚染による海の魚介類からの病気であり、川では起こりえない。そんなに水銀について神経をつかうなら、ブーツ(長靴)の中にだっていくらかの水銀があるだろう』といって、とりあわないという」。
カナダ政府も、動物実験は始めたものの、ヒトの水俣病についてはインディアン居留民から採血し血中の水銀濃度を測るのみで、「いまだ水俣病とはいえない」と一人の患者も”発生”させないでいるらしい。アイリーンのレポートによれば住民の血液検査にあたり、ことさら選んだかのようにいつも四月に採血を行っているという。長い冬の間、結氷する湖や川であれば、住民の魚摂取も低下せざるを得ない。夏の終わり、つまり、魚をとるのも、観光ガイドとして働き、いきおい多くの魚を観光料理としてたべるのも、夏がそのピークであるとすれば、血中の水銀値を測るには九月か十月が望ましいはずである。ところが役人はアイリーンに「あそこへは氷上に着地する雪上そりつきの飛行機しかいけない。だから四月にしている」という。それはまったく事実でないと彼女は書いている。彼女を外国人とみてのあしらい方である。それはいつわりだ。この汚染地区にキャンプ場をもつ観光業者であるアメリカ人のバニー・ラム氏は巨額の投資をした施設を自ら閉鎖し損害賠償の裁判をしている人だが、今度の来日の際、自分のキャンプ・ビジネスのパンフレットを名刺代わりに渡してくれた。そこには夏の問、観光都市ケノラ(オンタリオ州)とインディアン居留地近くの自分のキャンプをむすぶ空の便として、ダグラスDC3三機をはじめ各種の水上飛行機数機をもっていることを記していた。
こうした言い逃れのつまるところ、すべて政府の対策のめやすは血中の水銀濃度の分析作業の域にとどめ、人体への汚染の問題をさけたいからと思われる。あとでインディアンがそれに気づき非難の種としたが、昨年、水俣病様の疾病で死んだ老人の体を解剖してもその脳にはまったく触れず病変もつきとめなかった。つまり血中濃度にしぼって測定しているという点で”PPM-ppbゲーム”といって、知的パズルを楽しんでいるようだと非難する声が出ている(同行者、映画作家ゲール・シンガーさん談)。
一九七五年三月二十日、財団法人統計研究会が組織した「世界環境調査団」(団長・都留重人氏)の水俣病研究スタッフ(団長・宮本憲一民と宇井純氏、原田正純民ら)がカナダにむけて出発、現地の汚染調査と住民検診をした。その際、すでに発症した水俣病症候を見て、カナダにおける水俣病の顕在化は時間の問題であるとみなすに至った。
羽田、七月十七日
五月中旬、水俣市出月の浜元ニ徳・水俣病患者同盟委員長のもとに、アイリーンからカナダインディアン一行への招待状を求める手紙が届いた。患者同盟は詳細をいまだ知らない段階であったが、直観的に現地の状況のただならぬことを察して、水俣への正式招待を決定した。「カナダからインディアンが来るつちゅうがな。もうみんながぼけっとしとったら、世界中が水俣病になるつちゅうことじゃが。とりあえず四、五人招待せんば」と浜元さんは言う。私はこの悟り方の早さと決定の速断にそれ程驚かなかった。水俣病の患者代表として彼は昭和四七年、胎児性水俣病の女児患者とともにストックホルムでの国連環境会議に出席している。そこで、自ら人に見られる存在として行動し発言してきた。まず水俣病の恐ろしさを見てもらおう、という彼の”国際感覚”はおのずと身についているからだ。
招待状を送ってほしいとアイリーンが求めるのは、その招待状をまって、初めて旅費(航空運賃だけで一人約四十万円)を調達するためだと書かれている。つまり、カナダの政府が進んで日本の水俣病を学ばせるために派遣などの手順をとっていないことを示している。「招待」という形を得て初めて、彼女は居留地の人びととその周辺の白人社会に働きかけ、「日本訪問」の募金活動を開始できると暗に語っているのだ。ひとり四十万円程の渡航費のために、アイリーンが心を砕いている様子がじかにつたわってくるのである。
浜元さんらの即答の裏には、昭和三十年代初期、孤立した中で闘いに耐えていた逆境の記憶があってのことに違いない。そして滞在中の費用は、水俣、東京をはじめとする日本側の負担とすることはもちろんである。こうした経過を経て、七月十七日、カナダインディアンの一行を日本にむかえることになったのであった。
水銀柱の上がりっぱなしの熱い日であった。私は撮影をしつつ、羽田に一行をむかえた。
顔ぶれはこうである。
〔居留地グランシー・ナローズ代表〕〇曾長、アンディ・キーウェイトン氏(52)〇元酋長、トム・キージッグ氏(28)〇小学校教師、ビル・フォプスター氏(26)
〔居問地ホワイト・ドッグ代表〕〇小学校教師、アントニー・ヘンリー氏(28)〇水銀問題対策メンバー、ジヤック・ケント氏(28)
〔白人同伴者〕〇医師、ピーター・ニューベリー氏(52)〇ボランティア、ジル・トーリーさん(女性)(25)〇観光業者、バーニー・ラム氏(58)〇映画記録者、ゲール・シンガーさん(女性)(32)〇映画プロデューサー、ボブ・ロジャーズ氏(42)
以上の十名である。訪日直前までリストに挙げられていた女性インディアンとインディアン運動のリーダーの二名は、遂にその目的を果さなかった。後者のフレンド・ケリー氏は政府とインディアンの土地協定による居留地群「第三協定地域」の代表として、水銀汚染のデータをもってくるといわれていたので、その不参加は来日にあたっての複雑なカナダ政府の対応を初めからうかがわせるものがあった。また旅費についても、インディアン代表の五名についてはNIB(ナショナル・インディアン・ブラザーズフッド)という同化政策線上の組織から醸出されたものの、同行した白人二人、自発的に現地医療に従事しているただ一人の医師ニューベリーと同じく現地活動家の女性ジル・トーリーの運賃は、日本の支援団体が全額負担した。
ジェノサイド
私が以上ことこまかに金のことを記すのは、彼らの全員が、カナダ水俣病をめぐる何らかの当事者であり、その人びとのおちいっている苦境や実情と、水俣病の発生時期の患者の苦境、良心的医師たちの逼迫ぶりとを二重うつしに見る気がするからだ。私は羽田でタラップから降りてくる彼らのひとりひとりから、日本までのジェット機の旅より、居留地からカナダ本国を離れるまでの旅の辛さを感じとった。
なかでも酋長のアンディ・キーウェイトンは、一つの首尾の終わりがカナダを出る事であったのであろうか、機中でしたたかスコッチをのみ、酒くさい息と千鳥足という格好で現れた。あとできくと、オンタリオ州都のトロントにいくまでにも一千キロ余、インディアンにとってそのまちは一生に一度いくかいかないかの都であるという。まして日本への地球半周の旅は、いつに彼らカナダインディアンにとっての水俣病時代というべきものの入口に導かれる不幸な旅であるのだ。その気持の区切りに彼がアルコールの力をかりつづけていたとしても不思議はなかろう。やや描写として立ち入るかもしれないが、私たちにとってインディアンは生まれてはじめて見る人びとである。私が酋長という肩書から見たアンディは、一見、白人と同じ皮膚と風貌であり、もしひとりの旅行者として来たらインディアンと判別することは誰にもできないであろう。後目、旅の半ばで私は彼の出生をきいた。私生児であり、父親は不詳である。さらに彼の母も白人との混血であるという。つまりインディアンの血は八分の一しかないはずだと、彼の友人のボブ・ロジャーズは図をかいて私に見せた。そのアンディも、生まれてからはインディアンとしての生活を閉じオジブエ族の中で教えられた。十歳のとき白人宣教師に半ば強制的に寄宿舎つきの小学校に収容させられたが、一カ月もしないうちに居留地に逃げ帰った。したがって”教育歴”としてはゼロ年だという。差別が血にもとづくことを彼の風貌ほど雄弁に語る例は、少ないと思える。他の四人はまぎれもなく、インディアンの血の方が濃いように見うけられた。
羽田での記者団の質問の素朴なるものの筆頭は「この中に患者さんがいるか、それは誰なのか」というものであった。かつて三月、熊本大原田助教授はカナダでたしかに二十数人の居留民を診察し、さまざまの症状を発見した。しかし、視野狭窄のみ顕然化していたり、知覚障害のみであったり、運動失調だけだったりして、いわゆる症候を”群”としてそろえたものを確認するまでには至らなかった。滞在時間の制約もあろうが、その被検者は現役ガイドの中からえらばれた。いま現在、魚を日常主食としているという理由であろうが、他の疾病名や”不健康”で家に寝ているものはその検診からもれている。まして、学校教師であったり、酋長だったりするこの一行については診てはいない。だから、彼らは自分を水俣病とは思ってもいない。また、水俣病がどんな疾病であり、どんな病像かもまだ知らない。だから、性急なこの質問にとまどうばかりであった。もっと言えば、彼らにとっては水銀問題を健康の問題としてよりも、それによって奪われた生業としての、コマーシャル・フィッシング、観光ガイド業の破滅として、緊急には生活・環境破壊の問題としてとらえていた。一行に加わって訪日したバーニー・ラムは十六ある観光業者のうちの最大規模の施設を居留地近くに持つ白人である。
そのバーニーの説明によれば、キャンプでのガイドの仕事は、インディアンの収入源の重要な一部であった。ところが彼がキャンプを閉めたためインディアンは失業して、政府のインディアン局からの生活保護にたよって生きているという。またインディアン自身の訴えるところによれば、それは月額三三カナダドル(約一万円余)といわれ、その生活保護にたよる構造が、居留地におけるインディアンの伝統的な生き方、つまり子供の育て方、習俗のあり方、そしてとりもなおさず環境と共に生き、自然を尊びおそれながら共生した生き方の根底をくだいているという。そして政府への依存度をより強め、インディアンの誇りをも奪う。私たちとすれば、インディアンに対する終末的な形でのジェノサイド(皆殺しするもの)として、この”水銀事件” を見ないわけにはいかなかった。
すでにのべたように、水俣病の脅威の実感は当然到着時にはなかった。これから始まるであろうその辛い旅行目的をトムはこうのベた。「今度の旅は私たちが水銀とは何か、水俣病とは何かを学ぶための学習旅行です」。事実、その後の二週間は超人的スケジュールであった。また、水俣病患者も真正面からそれにむきあって、経験のすべてを語ろうとした。
何かが変った
この二週間の旅を端的に物語るものがある。旅のはじまり、つまり羽田でアンディは日本の人びとの歓迎ぶりにこうあいさつした。「あたたかい、友人としてのもてなしに心から感謝したい」。そのとき、私はまだ礼儀ある挨拶としてしか受け取れなかった。しかしその二週間後、水俣体験と新潟、東京での支援を経て、彼らは見ちがえる程何かが変った。帰国の三日前の東京集会の終わり頃、実りある多くの報告の最後に、口の重いアンディはとくに発言を求めて、「私たちはいままでカナダにおいては、人間として扱われたことはなかった。今度の日本訪問で、私たちが友人として、何より人間として扱って頂いたことを一生忘れない・・・、サンキュー・ベリー・マッチ」とむすんだ。文字に描くにむずかしい一瞬であった。旅行中、たえず若い元曾長トム・キージックに発言をゆずり、あらゆる悲惨を前に、苦しみの表情をうかべながらも言葉すくなかった彼が、番外にこの一言を短くのべたのだ。席にもどる彼の背にアイリーンの目がやきついた。よくぞ語って下さったという望外の謝意と、彼の人間苦をやさしくうけとめつづけた彼女にのみ許された涙を、私は見た。この二週間のはじめと終わりは、この二つのあいさつのあいだにすべてあるように私には思えた。
水俣での患者さんたちの彼らに対する応対は、熊本空港での最初の出会いから貸切りバスで国道3号線を南下する三時間のあいだに完全に血を分けたもののように親しみぶかいものとなった。浜元二徳さんが歩行困難な足で近づき、”ごくろうさまでした、ホンニ・・・”と握手した。若い娘に成長した胎児性の坂本しのぶさんや加賀田清子さんは、バスの車中、インディアンの略装という彼らのへアバンドにふれ、真ん中でわけた長髪を指でくしけずるようにしていた。顔つきもアジア人同士であり、同病同苦の人びとという理解があってのことであるに違いないが、その親密さの自然の流露はインディアンの人びとにも膚でつたわったようである。
「今夜はとびきり上等の水俣の魚を用意しました。少しばかり水銀が入っとるばってんが、どんなにおいしい魚か味わってみて下さい」。ここまでを区切りに翻訳しているアイリーンのことばの次に「冗談じゃが・・・」と”水銀云々”を打ち消そうとおおわらわの浜元さんのいたずらっぽい動作が、一行の笑いをさそった。この期になっても水俣の魚自慢である。しかし、この魚自慢が実は一番早い相互の語らいであった。のちに水俣から二十キロほど北の芦北郡女島の患者さんの多発地帯でのことだ。インディアンを追って取材しているカナダ人記者が女島の岩本広喜さん(ここの患者のリーダー)に質問した。「なぜ、危険とわかっていて、魚をたべるのですか」。実はこの質問は同じ日本人からも、いつも患者に投げかけられるものだ。質問の趣旨はインディアンにもわかった。その絶句の間、インディアンと不知火漁民との、困りはてて言葉をつまらせながらも、目を交わしあった顔が並んでいた。
カナダでも、魚を常食とするインディアンに、単純にそうした質問、そうした一種の詰問が投げかけられているのである。「ううん、わしらにとっては魚は・・・おいしいけんついたベる。わかっとっても・・・。なぜってきかれても何と答えたらよかかなあ」といいながら、岩本さんはインディアンに返事の手助けを求めるようであった。「私らの生活には魚は欠くことができないので・・・」というようなことをトムやビルも言うが、はっきりした答えにならない。見事なまでの共通項であった。
彼らの自然界との対応、生きものへの感情の一端を物語るものとして、猫実験をめぐっての話がある。水俣病センター相思社での討論の際、映画プロデューサーのボブ・ロジャーズが「疑わしい河川の魚を取って、系統的な猫実験をするよう政府に要求しよう」という意見をのベた。その発言の蓋然性は水俣病の解明期の歴史を知る人びとに何の奇異感も持たせなかった。しかし、一行のひとり、アントニーは賛成しなかった。「われわれが水銀についてこれだけ知った以上、猫にさらに、苦痛を与える方法はよくない。猫実験は、してはいけないことだ」と断固と、しかし静かに語った。これには返す言葉がなかった。それまでにもしばしば彼らは「私たちは自然と環境を私たちの共生とみなしてきた。生きものを尊んできた・・・」といってきた。その言葉の中身にふれたのだ。ーカナダ政府はこの間、四八匹の猫に川の魚を投与し、全部発症した事実を知りながら、カナダインディアンには手をさしのべていない。しかしインディアンは猫の苦痛にも心をいためていたのだ。私は本物の自然界の主たるにんげんの生き方とたたずまいを彼らに教えられた気がした。
水俣での第一夜から、不慣れな通訳を中にはさんでの教えあいが患者たちとインディアンとの間ではじまった。「水俣病がまだ奇病と言われていた頃、昭和三一、三二年当時のわれわれの立場とあんたどんたちはまったく同じだ。行政もそっぽむくし、企業も知らん顔でなあ。彼らに責任を認めさせるに二十年かかったっばい。ここんところをよう腹に入れてやらにゃいかん」。日頃、酒席で堅い話のきらいな未認定患者松本弘さん(水俣・出月)はのっけからそう語った。
患者さんも水俣市民会議の人びとも、この短時日に、どこをどう説明していいか、もどかしさに駆られてのレクチャーが続いた。そして夜半、部屋でぐったりしウイスキーやしようちゅうをのみながら、インディアンはあまりに多くの人との休みない語らいを単的に「俺は俺のあうべき一生分の人に、一生分の話をここ水俣でしている」といってわらわせた。
シー・ユー・アゲイン
七月ニ一目、早朝からの見学は水俣病患者だけ収容している明水園で、彼らは最重症の胎児性の青年患者に会った。その体つきは小学生にも及ばない。園側は見学にそなえて、オモチャのシンバルを握らせ、バック・グラウンド・ミュージックには幼児のための曲を流している。
そのひとり中村千鶴ちゃんは、発表する言葉は奪われているが事態の理解はできるひとである。彼女はマットの上で満面に喜色をたたえて一行を迎えた。通常このようにあふれこぼれる表情はない。だから、見学者はそこで凍りつくのが常である。しかし、インディアンはまず微笑み返すことができた。
彼女ににんげんの精一杯のあいさつを見た。だから、ニコニコと笑って対面できた。この双方の能力を何といえばわかってもら与えるだろうか。やがてトムは、彼女の悲惨に思いをこらし、ゆっくりとアイリーンにこう伝えてくれと言った。「私の妹をみているようだ・・・。幸せのうすい兄と妹のような気がする・・・」。通訳するアイリーンのはずんだことばに千鶴ちゃんは確かな理解を示した。「握手させて下さいってさ、千鶴ちゃん」。彼女の折れ曲がった掌にインディアンはかわるがわる握手した。その接触のあとに、深い悲しみが全員を襲ったようだ。水俣病の最初の発見地、月ノ浦の田中義光さん宅で美しく育った実子さん(小児性重症患者)にも会った。彼らのことばつきは乾き、重いものになっていった。あきらかにはげしいショックに耐えていた。それは彼らの不幸な明日のかたちとして何より雄弁な学習であったのだ。
最後になるが、水俣の患者さんはインディアンの闘いが日本の水俣より困難であろうと見てとった。汚染の広がりは不知火海の場合、被汚染者、推定十万余人のスケールをもっており、また闘争に当たり攻める側も守る側も同じ日本人であった。しかし、カナダではホワイト・ドッグとグランシー・ナローズの二つの辺境に追いやられたオジブエ・インディアン、あわせて一千百人の問題である。もし口を封じ事実をかくしつづけることができるなら、これ程切捨てに容易な条件がまたとあろうか。カナダ政府のインディアンに対する百年にわたる差別政策の果てに、ミナマタ病が登場したのだ。「見殺しにはできんばい。何でもできることはするけんな」と川本輝夫さんや浜元二徳さんたちは一生懸命に激励する。
「水俣病闘争は結局、患者ひとりひとりの闘いが根本であった。その闘いがはじまらぬうちに、なぜ、支援が起こり得ようか。あんたらが闘いの主人じゃけんな」「こうしたらこうなる、ああなるじゃ闘いはできんからなあ。計算して出来るものじゃなかよ。自主交渉のときも、十数人の仲間までに減った、闘う患者の数がなあ。明日の事は誰にも見えんし、わからんし、苦しいことばかりじゃった。しかしその闘いをやりきらんば、先はなかけんな」。とくに川本さんは、若いリーダー、トム・キージックに過酷と思える程、闘いの実相を率直に語った。ここには骨肉の情しかなかった。
おそらく、この好ましからざる旅行をみつめているカナダ政府はかれらの帰国後「アメとムチ」の対応策を使うにちがいない。彼らの背負う人種差別と水俣病の二重苦に想像力のすべてを働かせて、水俣病患者の人びとはカナダインディアンに「闘いを始めるに当たって、さしあたり、これだけは・・・」ともいうべき闘いの発端の志を語ることに成功した。「この九月、わしはあんたどんの所に行くけん」。これが別れのことばである。「シー・ユー・アゲインっちゅうのかな、さよならじゃなくて」。川本さんは空港でこう笑った。文字通り、カナダインディアンとミナマタとの間であらたに物事が始まった。これは決して切断されないつながりである。”水銀”がまたしても、新しい人間関係を生み落とすことを証明したのだ。