不知火海巡海映画百十日間の旅、その心 『公明新聞』 12月27日 公明党機関紙局 <1977年(昭52)>
 不知火海巡海映画百十日間の旅、その心 「公明新聞」 12月27日 公明党機関紙局

 不知火海に面し、水銀汚染のおそれがありながら、水俣病に関する情報が伝えられていない漁家集落をめぐる映画会が、最終地点の離島・御所浦島で一応の終りになろうとする頃、同行して”めしたき”志願と名乗る石牟礼道子さんが、つくづく私たちの顔をみて、「映画屋さん冥利につきますね」と言った。自分たちの作った映画を、一番見せたい不知火海のひだひだの小集落の人びとに、自分たちの手で、思う存分な話を交えて上映するのだから、これは映画人としても稀な、まことに有難い体験にちがいなく、私たちが、はためには難行苦行に思われようと、作家、石牟礼さんには、私たちの表情にはやくも、ある幸福感を読みとられたにちがいない。
 事実、身体は疲れても気持の張りに変りなかった。毎日毎日が、いつも、まだ見ぬ漁民たちへの期待感をフレッシュに持続できたからである。
 ふりかえって不知火海沿岸のことを思うと、「水俣病とは何か」の最低限の視覚情報は伝えてきたと思う。そしてそれがやはり、水俣病確認以来ニ二年たった今日、初めての情報だったことは確かである。もちろんTVも新聞も水俣病のことは報じてきた。しかし、じかに水俣病の映画を撮った製作スタッフの実見聞をもってしての、つまり、その土地の人びとに照準をあわせて解説するといった”情報の手渡し”はなかった。
 自分たちの眼前の海と水俣病とをどう結んで考えるかの回路はTV等の情報からでは欠落しており、”対岸の火事”としてのみ、みることが出来た。「悲しくてつらい出来事だったが、それは水俣での話で、わしらと関係はない」という自己暗示をかけて、漁民たちはあいかわらず同じ海に出漁し、魚をくいつづけてきた。この二二年間、町当局、郡保健所は勿論、県の公害局、環境庁に至るまで、水俣病についての警告、注意はおろか健康保障上の最低の知識すら与えなかった。
 「回覧板?それはなかったなあ。むかし漁協の幹部が騒動のとき(昭和三四年)、病院にいって患者をみて、組合で語ったことはあったがな、ひどいのなんのってな。その時以外、組合も町も、水俣病そのものについての話はなかあ」。「わしらにとって水俣病たあ、魚の売れんごつなる話でしか無かった」。
 事実そうであろう。それだからこそ、今回の”海辺の映画会”-私たちのようなよそものによる主催、無縁の東京もんだけの映画会に、全住民(赤ん坊から出稼ぎ不在者も含む登録人口)の三〇パーセントから、離島のように六〇~七〇パーセントという、異常なまでの動員率の高さをひき出したのである。これは、いかに真実の情報に飢えつづけてきたかを物語るものであろう。この必然的ともいえる「需要」のたしかさに支えられ、この計画の必要、かつ有効であることに自信をもたされ、私たちはこれをバネに百十日、多少の困苦も物ともにせずにがんばれたのであった。

 この部落には年寄りはおらんでしょうがー。みんな十年前ぐらいまでに狂いさるいて死に絶えたがな。一人二人のとしよりはおるが、あんたここは年寄りのおらん部落じゃがな。若いもんも、どこか痛みのち、しびれのち言わんものはおらんよ。うちの婆さんも、熊大から三回も診断するからって呼び出されたが、「おとろしか」といいしゃって、いかれんとたい。水俣?漁に水俣近くへいったかつてや。ああ石でもなげれば排水口にぶつかるごつ近かとこまでいったもんなあ、知らんけん。・・・そのとき危なか所といえば、水俣湾のなかだけちことになっとったけんな。わしらのとっとったとこは水俣もんも平気でとっとったとこよ。だあれがまだ危かと思うもんかな、この島の衆は。それで猫も犬も豚も全滅、ほうれこの犬も妙でしょうが・・・・

 見れば生まれながら片足のない犬、背すじのくの字に曲ったまま、腰のぬけて、横歩きしている奇態な犬どもをみるのである。これは天草一般ではない。御所浦島の不知火海に面した外平での見聞である。対岸の水俣まで船で一時間、一衣帯水の漁民だけの集落での話である。人口二百人余、離島のなかのそのまた離れ村である。
 彼らにしても病院に金をおしむわけにはいかず、九州本島の大きな町の病院や、御所浦の町立診療所に「百万円くらいは優に使こうた」のである。だが、あらゆる病名はつけられても”水俣病の疑い”とだけはされなかった。水俣病騒動、即、汚染魚騒動の歴史は「水俣病だけにはかけてくるるな」という漁民だけの共同体の不文律をうんだ。だから、医者も、あえて診断書に”水俣病”とかいて地元医としての存亡を賭けてまで火中の栗をひろうことは避けてきた。これらが相まって、全村廃疾の悲劇の部落を生んだのであろう。ここをたずねるには、同じ島でありながら天草発の定期船の寄留地・御所浦の本郷から更に往復数千円かかる貸切船による以外、訪れる方法はない。近くの嵐口(人口千六百余人)まで医療の調査はのびても、外平に足をのばすまでに更に数年を要したのである。しかも、この部落の患者を発掘したのは第二次熊大研究班や、民医連系の人びとの自主検診によってであって、決して行政ではなかった。行政の検診はここを切り捨て患者発生ゼロと報告していた。そして今日、初めて中年のねたきりになった漁民のひとりが認定された。
 水俣から御所浦に医学のスポットが当るまでに十七年、御所浦の一角の外平にその微光が射すまでに更に五年を要したのである。
 私たちが、およそ十戸以上の集落をあまさず順ぐりに訪れようと立案したのは、この医療行政の時その犯罪的な時差を指弾するだけではだめだと思ったからだ。私たちの手で、「水俣病とは何か」「あなた方への汚染の危険の存否」といったさしせまった問題を手渡したかった。

 この旅の中で石牟礼さんはしきりに『熊本県漁業誌』なる明治二三年刊の複刻版の映画化を私にうながした。この本に詳しい漁法ー不知火海ならではの魚と人との”知えくらべ”あるいは”魚の都合と漁民の都合とのつき合わせ”ともいえる発想とそこでうまれた工夫、数々の奇抜な漁法を、年寄のいるうちに映画に記録せよというのである。それは一見、水俣病事件と直接に関係はない。しかしいまもうひとつの汚染として拡がりつつある現代漁業の主座、養殖漁業へのアンチ・テーゼとしての意味あいが強くある。だが水俣事件によって崩壊させられた漁民の生業、その呻吟の二十年によって、いま大きく失われつつある在来の不知火漁民の感性、そのたぐいまれな漁人の漁法をいま一度現代に再現してみるとき、不知火海の人びとにとっての有機水銀中毒のスケールとそのダメージの深さが、一層あきらかにされるのだろうことは確かだ。それにしても、不知火海は私たちに絶えず現代批判の問題提起をうながしてやまない海であり、思想の深化をせまる母胎に思えてならない。わたしたちの映画のサイクルも、また輪廻のように動かされつづけることとなろう。