記録映画作家の原罪 「世界」 1978年10月号 岩波書店
ドキュメンタリー映画には、まだ未開の分野があまりに多い。技法としてではなく、その方法論においてである。現在かかわっている「水俣・不知火海」の主題は私にとっては、映画をとぐ上であまりに剛直なヤスリである。記録にとどめたいと思うたびにその方法を手さぐるのだが、ともすれば対象世界からの挑戦にたじろぐ日々である。
石牟礼道子氏の『苦海浄土』を記録文学でもルポルタージュでもなく、その作品の成立、本質的な内因からみれば、氏の私小説であり、むしろ幻想文学だとした渡辺京二氏の指摘は、私がドキュメンタリー映画の方法を考える上で多少とも帯びていた散文的感性や文学的紛飾の欲望をまったくもぎとってしまった。これは映画にうつしとることも、それに似せることも不能な石牟礼道子の文学世界である(以下の引用は渡辺京二『小さきものの死』)。
「実をいえば『苦海浄土』は聞き書きではないし、ルポルタージュですらない。ジャンルのことを言っているのではない」。渡辺氏は彼女の絶妙な語りや対話について、少なくとも聞きとりノートにもとづいての再構成か、文飾はあるにせよ直接聞いたことをかかれたものかと当初思っていたとのべたあと、氏も運動の中で知ることとなった実在モデルらしいE家の老婆の日常の語りと文章化されたものとのちがいに気づき、といつめていく過程がある。
そのE家の老婆は彼女が書いているような言葉を語っていないということが明らかになった。瞬間的にひらめいた疑惑は私をほとんど驚愕させた。「じゃあ、あなたは『苦海浄土』でも・・・」。すると彼女はいたずらを見つけられた女の子みたいな顔になった。しかし、すぐこう言った。「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にするとああなるんだもの」。
事実、水俣の人の日常は石牟礼氏の描く日常ではない。そう見え、そう感じられたらという幻想の世界である。映画の表現世界とまったくちがう世界であり、とても映画化できる原作ではない。また決定的に氏と私をへだつものは石牟礼氏が不知火の地ごろの女性であることだ。渡辺氏は、「・・・このような世界、いわば近代以前の自然と意識が統一された世界は石牟礼氏が作家として外からのぞきこんだ世界ではなく、彼女自身、生まれた時から属している世界、いいかえれば彼女の存在そのものであった」とのベ、この共有しうる共同体の感性によって、対象をよく観察したりなじんだりしたからではなく、まして聞き書きによるものでなく、「それが(氏の)自分のなかから充ちあふれでくるものだから(「あの人が心の中で言っていることを文字にするとああなる」と)いえるのである。彼女は彼ら(漁民)に成り変ることが出来る・・・」。
石牟礼道子氏の描く不知火海の自然と人はあまりに輝きにみちているが、それは石牟礼氏の胎内からの声につづられた世界だからだ。渡辺氏はそれが詩を抑え散文としてぴしっと押えられ、対象に対する確実な眼と堅固な文体で支えられていることを指摘し、さらにそれが”記録”そのものに近い正確度をもっている側面にふれながらも、同氏は、「いったい前近代的な部落社会がどれほど牧歌的なものであるかどうか。彼女自身ちゃんと書いている」と部落にある暗い部分のかきこまれた文章をひきつつ、「生きとし生けるもののあいだに交感の存在する美しい世界は、また同時にそのような魑魅魍魎の跋扈する世界でもある。そこのことを石牟礼氏は誰よりもよく知っている。それなのに彼女の描く前近代的な世界はなぜかくも美しいのか、それは彼女が記録作家ではなく、一個の幻想的詩人だからである」と言いきられた。その点で作品は彼女の個人史と個性で綴られた私小説だというのである。
現実の人間を記録映画に撮る場合、私の見た視点とフレームの選択から言えば私映画であると極論も不可能ではないが、やはり違う。たとえば水俣を十三年も撮っていると、奇妙なことに気づく。十三年前の映画のシーンに、当時意識しなかった物象が余白に見える。いまは貯木場でしかない袋湾にカツオ漁用の大きな竹かご(生けす)が干されていたり、港にうたせ船の帆柱が見えたりする。意識せずともレンズは物理的に記録する。最も生活的に苦しかった裁判中の漁家と部落のたたずまいももはや映画のなかにしかのこされていない。その眼でみれば偶然撮ったフィルムの中の犯人探しのように過去の水俣の事象の映像が記録されている。映画は作家の意図をこえて、ひとつの時代の資料となるといった歴史軸を自分の十三年分の映画に感じる。記録映画とは何か、最後まで風化せずにのこる記録された映像の評価は、当時の製作の思いや意図を洗い流してのこる歴史の質、物象の存在自体ではないかとさえ思える。十数年、一つところのひとつのものを撮りつづけることは、映像による歴史的定点観測の実験となるやも知れないと思う。だが、以上のような映像の無機的な資料能力とは別に、人間を記録することとの闘いが実は主題であり、私の飢餓感の胚種なのである。
映像による記録作業は考えてみれば文字によるそれと決定的にちがう因子がある。それはカメラレンズとフィルム、テープの特性によるものだ。たとえば特定の人物を撮る場合、文章のように匿名も実在モデル的手法もつかえないことである。顔を撮らなかったり、声に変調フィルターをかけるTVの身の上相談は別の次元として、本来映画はその人の体、顔、声の特徴のすべてをまるごとうつしとる。その鋭利なレンズの解像力と高感度のマイクによって、表現ぎりぎりまでの人物・人像・人声の質感を獲得しようと努めるものであり、しわ一本も、つぶやきひとことも、描写上意味をもっているのである。
とくに私はクローズ・アップを好む。ただ恣意的に用いるのではなく、その人とカメラとの関係においていかにアップにいたれるかをひとつのテーゼにしているといえる。最近ズームレンズという器用なレンズが主流をしめるが、これは甚だ横着なもので、撮影者が近づくことなく、相手のアップをひきつけるのである。しかしこれはいわばアップをかっぱらうのであって、近づくというカメラと対象との接近という難事業を解消してしまう。そうではなくて、にじり寄ってアップに到る、その撮影プロセスに私はひかれている。やや横道にそれたが、映画はこのようにその人間の人格をまるごと描写しようとつとめるものであることを言いたかったまでである。
そしてここにはプライバシーをまもる余地は、写される人にはなく、写す側のそれについての思想性と判断に全的にゆだねられるのである。私にはプライバシー一般に対する拝脆性はない。(すべての人のプライバシーをそのプライバシー性ゆえに法的に規制されようとは思っていない。デモ隊を打する警官を撮ったとして、その警官から”プライバシーの侵害だ”という制止が、近ごろ常套手段としてあらわれていることに鑑みての話だが。)
水俣病患者の記録においてぶつかるプライバシー問題の中味は、非健康・身体的被害を理由なく人眼にさらしたくないという拒否性のほかに、地域社会からの偏見と差別といった社会的被害を回避せんがための防衛本能であろう。医学文献や研究書のような、個別臨床例においでさえ、「淵〇初×」「田〇義×」といった人名記載が見られる。これは医学上常識となっている患者の個人秘密保守の習慣による。患者がその実名で登場したのは、チッソの責任を問うべく、被害者が原告として裁判にあからさまに立ちむかうことになってからである。彼ら自身が原告A・B・Cでなく、惨苦の個人史をそれぞれにもつ個人として法の名の下にその匿名性を解き放った。この点、私の映画はその裁判の昂揚過程で本格的な記録に入った点で大きく助けられたとはいえ、映画表現のまるごと撮る機能が、やはりプライバシーに不可避に抵触することに本質的な変りはない。
私は『水俣ー患者さんとその世界』において、背番号を思わせる患者番号から実名を画面の患者さんにスーパーした。チッソに人間としての糾弾を求めた被害者ひとりひとりの実在をあかしたかったからであり、当時、その訴訟派の全員を網羅的に記録し、その訴えの中身を彼ら自身によってのべてもらう方法によって、その人格のもつプライバシーなるもののその中味を解析することで、撮る側の態度とモラルを表したかった。何か訴えるものを秘め、その表現の機会を、裁判の場だけでなく世の中の人にむけてもちたいと考えていた患者さんと記録者との出遭いー。これは稀有のことである。のちにのべるように、私にとっては、かつて体験した痛みをバネに、負を正に変えた例であった。
撮る側として、その相手たる登場者との間に一定の関係性と信頼があったとしても、その映画が作者の意図をこえて、傷つけることになったり、その人に危害を招く事態になった場合、いかなる責任のとりようがあろうか。通常の故意の侵害、名誉毀損の場合は埒外である。映画表現者の固有のモラルとしてである。私小説ならぬ私映画がすべて他者の肖像で撮られている。これはほとんど恐怖に近いことである。だがこの危倶を解き放たなくて、どうして映画ができようか。映画づくりは、そのような危倶との闘いがあろうと、それを超える過程をもち、人間的昂揚感と解放感でつづられたものでなくては誰の感動をもよびえない。苦行のままの作品、未消化の思想のままの作品は本来ありえないものだからである。ときに使命感や意図過剰のナレーションにおおわれた”良心的映画”をみるとき、そこに透けて、私は作り手の苦悶はよみとり得ても、同じ作家として同意しかねるのはその点なのである。
裁判は一段落し、水俣が日常性に埋没したかに見え、かつて闘った人びと、発言した人びとも黙しはじめた。だが矛盾はその人びとをつつみ、水俣病事件は深刻の度を加えている現在、かつて闘争の昂揚のなかで、そのプライバシーの中味ごと撮れた時代は去った。だがとりたい事実は生々流転している。そうした人びとをみつめ、記録するしごとに私はひかれる。どんな小さな動きにも、予兆がある。
それにむかおうとするとき、映画はどのように”心の中で言っていること”を撮ったらよいであろうか。またどう撮るべきであろうか。
私は水俣の地ごろではなく、映画プロパーのよそ者である。漁民とは無縁に生きた人間であり、都市生活者として、村にあったような共同体的共鳴板はもっていない。その私がどう写した相手との関係に責任をもつべきか。あれこれ思案しても所詮、そのかかわりを私の側から守りつづけ、その人の生活をみつめつづけ、ともに難儀を分ちあうことしかないのである。
いままでのフィルムに定着された人びとのシーンは当然ながら撮ったもののみであり、あえて撮らなかったもの、あるいは拒否ゆえ撮ることを断念したものの方が多い。撮れたものが氷山の頂きである以上、その水面下の世界を描きたく、その歴史的な運動をまるごと撮りつづけたいと思う。そのかかわりの持続性のなかで、無数の人びとに一つの責任を感じつづけることとなろう。
患者の個人史はぶ厚い。
「わしの一生な本にでもかけば、こんな(一寸も二寸もの)本になるとばい。どこひらいても苦労の、苦しみのって言葉にはできんと。おんなじ水俣病患者といってもなあ、わしほどの苦労したものはおらんち思うなあ」。これはついに撮らしてくれなかった一婦人患者の述懐である。「それを映画で撮れようか」と問責するかのようである。私の映画には撮った人たちの背後に、このようにして拒んだ人びとの層々たる存在があるのである。そして、私はこうした拒否の人を怖れ、撮れた人に親しむという人情のままにいま身を水俣にむけているものの、その拒否の人びとの命運に決して無関心ではいられないのである。
こうした痛手とうずきつづける感覚ぬきに”水俣病事件”とむきあうことはむつかしい。
だが、「それは思いすごしだ・・・思いつめすぎる」と自ら反語するときもある。たとえば昭和四八年三月、水俣病裁判の判決の日、渡辺栄蔵老人(訴訟派患者代表)は裁判長の英断ある判決と弁護団活動を高く評価したのにつづいて、「全国の支援者の皆さん、そしてマスコミの皆さんに心から感謝いたします」とのベた。マスコミの皆さんはそれをどんな感慨で聞いたであろう。私は映画人であっても、いわゆるマスコミであることはただの一度もなかった。手づくり、手渡しの自主製作・自主上映の徒輩であったが、彼のいうマスコミの人びとのなかに当然入っていると感じないわけにはいかなかった。「水俣病が水俣市の漁村の中の出来事であり、永い間、かくされていたこの厄難を、広く日本中の人びとに知らせ、私たちの身になって報道してくれたことーその反響と激励と、支援に支えられたこと」を丁寧にのベた老人の思いには、世に知らされるまえと世に知らされたあとの、天地のようなちがい方があっただろう。それがたとえ、新聞社やTV局の企画のものであり、一過性であり、特種意識を設けない職業人のアプローチであったとしても、その夥しい報道者の行為によって、水俣病裁判は勝訴したと老人は信じて疑わなかったーこう考えると、私も表現者のひとりとして、その言葉を聞きながら、素直にその謝意をうけようと思った。そうした一瞬のむくいをローラーにかけ金箔のようにのばすと、つい”思いすごし、考えすぎ”などという自己弁護の論が頭をもたげるのである。
だがそれはいつも新たな映画をひっさげて患者の前に立つごとにミジンに打ち砕かれる。決して私は正義の味方でも、公害の告発者でもなく、彼らのプライバシーなるものを侵害する映像表現者として人びとの前に立ち現れているのだ。
いつも初会であり、写される人によっては思慮の千々に乱れる初体験であり、その人にとっては前例のない異常事態である。ときに私は私の映画を参考に上映し、私たちの映画の心づもりを分ってもらおうと心を砕く。しかしそれは分ってもらっても無益である。
「私の娘は大阪に働きにいっていて、母ちゃんはTVになど出て見苦しか。わたしがどんなに肩身のせまい思いすっとか分らんーちいいますもんな。ほんなこつ、嫁にいけんといいますもんで・・・」。個人個人にあるこのような弁明に打ち勝つことはむつかしい。ごくまれに、「あ、映画で(亡き)父さんに会った。懐かしかった」と上映毎に来て、その父の出る二・三秒のシーンをみるばかりに通う初老の娘ごさんもいる。またある日、私は新盆にいき、亡き患者を偲ぶ遺族に、「映画にうつらしとって良かったばい。蛸をとるきゃ、そりゃ嬉しか顔でしたもんなあ」と泣きくずれられるときもある。だが、これは一連の映画を撮り、発表し、作品として定着した時間の流れのひとつの結果であって、撮る撮られるの一回性のはざまに思いつく思慮では決してあり得ない。
新たな映画にかかるたびに、私がスタッフに「いままでの人脈と、いきさつはすべて拾てよう。新しくこの映画のためのつきあいを作ることから始めなければならない。”水俣慣れ”の垢をすべてそいで落してほしい」というのはそのためである。だが、それほどに人に求めても、私の十三年間の水俣とのかかわりは、そぎ落せないあるものをすでに付着させているかも知れない。あるとすれば、水俣というもののもつ特殊性への慣れであり、無知にはとうていなり切れぬ”通”といったものを自分にゆるしていることであろう。
私は十三年前に水俣を見た。見たといえるもののうち、その最も強い目撃は小児性胎児のまま娘ざかりをむかえていた故松永久美子さんであった。それに加えて、七、八歳に成長していた生まれながら有機水銀に犯されていた患児たちであった。いまにして思えば、その遭遇は聖なる一回性のようであった。先年来、二、三の環境庁長官も胎児性青年患者を目撃している。推測すればそれらの人なりに忘失できない出会いであったろう。また、彼らをひき合いに出すまでもなく、水俣を訪れた有志の人びとはこれら、水俣病の原核ともいえる患児に会ったことによって、水俣病闘争とのかかわりをもつに至った。だがこの多くの場合は、心の用意をもって出会ったであろうことだ。テレビなり映画なりでその像を知り、そのよって来る原因を知り、ひとつの覚悟をもってじかに目撃したであろう。
しかし私の場合はちがっていた。わずかに写真(桑原史成氏によるもの)と新聞記事ほどの予備知識しかなく、さらに身心障害者や疾病者一般すら私生活的にも映画経験の上でも一片の知識もなく、水俣市立病院の一番奥まった特別病棟で出遭ったのである。そのとき、私は八歳と五歳の娘の父親でもあった。そして私は頑健そのものであり、ドキュメンタリー映画作家としての野心もあり、四肢強健でまさにこわいもの知らずの三十歳代半ばのおとこであった。
胎児性・小児性の患児も、いまは成長してそれぞれに女のにおいを帯び、ひげそりのあとも青い若者になった。その彼らも昭和四十年当時は、私の五歳の妹娘と同じような幼い未発達の体であり、とても八、九歳とは見えなかった。その彼らが、一様に平衡を保てず、手足を操れず、口がかなわず、たえずよだれを流し、瞳の定まらぬまま、人恋しそうに、何の不幸の思いもなく無垢のまま天真爛漫に生きているさまを目撃したとき、人は人をここまで犯すものか、天や神はあるのか、と私はこれを知らずに生きてこれたことを床をたたいて呪いたかった。
だがそんな私の思考停止的な時間を次々にうばって、私を慰めたのは他ならぬ胎児性の子供たちであった。私をも相手にしたい、相手になって遊べとすりより、十畳程の畳数の病室で身と身を接して、私を構ってくれたのである。私は水俣病がこのような非人間的な障害、全人的な病患であるとは予想もしておらず、それでいて、まごうかたなき人間の子供として、吾が子のように、人間のなつかしさ、やさしさ、人の愛を求めてやまない”ひと”に会ったのであった。この目撃は、おそらく子供たちの赤子としての時期の最後にあたり、二度と立ちもどることのない幼児期の最も花咲いたときであったことと、私の最も多感であったニ児の父としての愛惜と重なり合った意味で、最も深く作用しつづけている。こうした事ゆえに映画体験として稀有の一回性であったと思うのである。
「なぜあなたは水俣を撮ったのですか?」という問いが少なくない。あるいは、「なぜ撮りつづけるのか」と。それに答えるのに「私は見たからだ」といい、あと言葉をつづけるのに迷う。それはその見たことの私にとっての重たさと意味を伝えるのにあがくからである。ときに不親切に、ときに思わせぶりにとられやしないかとあわてるのだが、実は見たという一言がやはり私にとって決定的であり、一回性のもつ不可逆的な出遭いであったことにつきるのである。しかも私は撮ったー。
私は子供と遊びながら、やがてカメラマンの撮影のゆとりをつくった。子供たちは、つねに写される立場にあり、あやしむことも、拒否することもなかった。生まれながら調べられ、診察され、観察され、記録されていた彼らにとって、写真機や映画カメラは見舞いの菓子折やおもちゃ、絵本などに必ずついてまわる大人の携行品だったにちがいない。恐れを知らない子供たちを私たちは撮りつづけた。病院も医師も、「少しは世の中の人も眼をむけてもらいたい」といった。この時期、昭和四十年頃、水俣病は終息したとされ、胎児性水俣病の存在が確定され(昭和三六、七年)ていわば全懸案をこの子らの認定をもって処理したとされた時期だった。おそらくこの子らのための設備、施設、備品、看護要員等について病院関係者はいつも事欠く時期であったのであろう。写すことをむしろ願う市立病院の配慮のもとで撮影できたことは、水俣病史のあとにもさきにもこのときしかなかったと思える。こうして、私はこの胎児たちを撮り、更に言葉も発せず、一切の反応を奪われている植物的生存者、松永久美子さんをカメラに撮ったのである。
見るのと撮るのでは雲泥の差があった。私は撮ることで、この人たちとの関係に映像をもちこみ、この映画を媒介に水俣病を思考することになったのである。(このときのフィルム、「水俣の子は生きている」(昭四十年、NTV”ノンフィクショシ劇場”)はいま当時のプロデューサー牛山純一氏の好意で水俣病センター相思社に資料として寄贈され、保存されている。)
この病院内での撮影が進んだことに力を得て、私たちが生活者のいる世界、つまり患者の棲む漁民集落に入ったとき、私は初めて、子供らの母親から、厳しい問詰と非難に立たされた。たまたまレンズをむけた漁家の庭に在宅の患児が漁具をつくろう部落の女衆にまじって、日なたぼっこをしていたのである。その子がいるとはまったく予想しなかった。カメラをまわす中で、こわきにかかえられた子供が家に連れこまれ、やにわに母親の怒り声と女衆の非難の声が一斉に起きて、初めて事態を知ったのである。
「うちの子はテレビのさらしものじゃなか。何でことわりもなしに撮ったか、おまえらはそれでも人間か。わしらを慰みものにするとか。ーあやまってすむとか。みんなしてわしらを苦しめる。写真に撮られて、この子の体がすこしでもよくなったっか。寝た子ば起して」。ーこれは私の記憶ではない。母親はたて切った障子のかげで、上りがまちに手をついて詫びつづける私に放った声と泣きごとと責め言葉を、多分かくあったであろうと書いたまでである。その声は決してやわらぐことなく数分、いや十数分、つづいたであろうか。私はこの時全き挫折にひしがれ、首の根を折ったのである。(この体験はしばしば書いた。私はいつもこの日の出来事につれもどされ、それを避けるわけにいかないのだ。)以来、私は水俣に原罪を感じつづけ、それからの全的解放はない。
私はその五年後の『水俣ー患者さんとその世界』『水俣一揆』から『医学としての水俣病・三部作』『不知火海』『水俣病:その二十年』と十一本の水俣病映画を連作してきた。そしてどのシーンを撮るときも、そのとき母親の放った肉声を内耳に聞かずにはおられない。この質の声は昭和四五年株主総会席上、江頭豊社長(当時)が聞き、昭和四八年、裁判後の直接交渉の席上、島田賢一社長(当時)がしかと聞いたはずである。私はこれをフィルムにとどめた。この質の声を撮影し録音するとき、私には江頭氏であれ島田氏であれ、決して無縁の人ではないのである。私は立ち会わなかったが、三木武夫氏、石原慎太郎氏(ともに環境庁長官)にしてもこの質の声に出会ったはずである。これとも私は無縁ではない。水俣病に関わるもの一般ではなく、事、天職として水俣病に関わるものには、この声に応える償いが求められているとしか言えない。ときに私は患者とのやりとりの席上、チッソ社長の至近距離でテープをとりながら、この声を彼とともに浴びてきた。転向回心するならいましかないとその島田社長のひざをつつきたかったくらいである。ー今年に入って島田社長も亡くなられた。彼として、席上、あらんかぎりの力をふりしぼって誠実であろうとされていたが、ついに企業人としての殻から脱し、回心を経ることなく冥界に去られた。資本への忠誠心ゆえに彼の全人間的力量をもってしても患者の声に身を託すことなく世を去られた。
こうした事態に立ちあって、私は水俣病にかかわる人間が必ず問われるであろう根源的な意識のパニックについて思う。そのパニックを受容し、水俣病にどうむきあうのかの回心を得ることなく、”流し”てしまった人間の社会的人間たるところ、つまり資本主義的人間なるものの非人間性を思う。チッソの社長は最も責任が重いと同時に、これをつぐなう唯一者でもあった。もし彼にいささかの回心でもあったら、患者はうって変って、ともに解決する途への共同の絆を反対者の座から投げ渡したにちがいない。水俣病事件の節目節目で、行政から医学、そして市民社会に至る患者への抑圧装置を自らになった人びとの側についに”身をなげ出してこそ浮かぶ瀬もある”ことを信ずる人はなかった。この矛盾が実は根深く残ったまま、今日に至っているが、水俣病事件とはとどのつまりそこまで行き着かなければ解決をみない意味で、抹殺も忘却も不可能な現代のわれわれに課せられた問題なのだと思う。
このドキュメンタリー映画の問題意識は、やはり私には重い。水俣を私の映画のヤスリとして・・・と言うはやすいが現実は刀身まで摩滅してしまう愚も再々である。
まして水俣とは生来縁もゆかりもなく、育ちはほとんど東京であり、どっぷりと近代に浸って今日まで生きながらえている人間である。都市貧民ではあったが決して窮民ではなかった。麻布中学から早稲田大学とすすみ、日本共産党員の十年のち、党を離れるなかで、職業としての映画を選んだ人間である。映画もきわめて狭い体験しかない。現在よわい五十にあと一年、もはやドキュメンタリー映画の方法をひとつでもふたつでも開拓できたらという希望に生きている。
旧友、津金佑近氏(日本共産党統一戦線部長)の突然の訃報に接したのは、去る八月八日水俣の宿でであった。朝鮮戦争末期、都下小河内村のダムで沈みゆく地点での生活を送りながら、軍事方針のもとダム工事現場の放火を命じられ、未遂のまま逮捕、彼と同じ裁判体験をもち、ともに有罪を宣告された間柄である。同年齢である以上に同世代であった。党派からはしりぞいたものの、つき合いはつづいていた。彼の水泳中の事故死の記事をみて、哀悼より彼の不注意を責めたい気すらした。あとのこる人生に何事かをしなければ死に切れまいと思ったからである。私にとっても他人事ではない。まだ水俣・不知火海で作りたい映画がある。水俣病にせよ、不知火海にせよ、水俣の地域社会と人びとの暮しをとどめなくてはならない。そしてここにこそ私のドキュメンタリーの方法に飛躍を迫る対象世界があるように思える。文章が最もそれに適し、科学的記述がまさにそれにふさわしいと、それぞれに思い、それを深められる人びとといまも交わりつつ、私は映画的世界としての構築に今後もかかわるつもりでいる。言いかえれば私にはそれしかできない。
去年、私はスタッフとともに自作のフィルムをもって四カ月間、天草・不知火海の離島を上映行脚してまわった。それまで日本全国各地の水俣病の発生していない地方の上映に赴いたことはあった。また水俣病の発生のおそれのあるカナダインディアン部落をはじめ、世界各地でも上映した。のベ一年余は海外の上映に費やした。だが、現実に汚染され被害者の潜在している地帯での上映は初めてであり、勝手は違った。観客は同時に被害者たちである。
「なぜ観せにくっとか。寝た子を起すとか。魚がうれんごとになる。分っとって上映ばせらすとか」と漁協や町の有力者は面とむかつて反発さえした。男の漁師のボイコットによって女子供ばかりの上映会になった地点もあった。だが映画で観る作業力は私たちの予想をこえた。私たちは上映ごとに、シーン中の患者と観客との感性の通い路がつくられるのを見た。そして何よりスクリーンに登場するひとりひとりがその症状と障害を人目にさらすことでしか伝えられない水俣病を、とりもなおさず映画で表現したことの意義を確認できたし、また次なる映画の力をたくわえるための自己改造の機会ともなった。映画をみた人たちからのベ数百人の申請への動きが出ていることを知ったのはこの夏である。
本来、水俣の病める人びとを背にかついで不知火海を練り歩くのが一番だ、とある人はいった。見知らぬ者同志が宿にとめあい、話をききあい、被害者ならではの共通の体験を交流するのが今年の夢だと患者同盟の川本輝夫委員長は私に言う。これは巡海映画より更に進んだイメージをさそう。映画はこのような運動のあとをまた追うことになるだろう。そのとき、さらに多くの人と映画を撮る上での関係づくりが層々と果てしなくみえる。それは恐れと期待のないまぜになったものである。
巡海映画の旅の中で映写機を一時とめて、私はよくある患者を指さし、その出生、閲歴まで知る限りのべたりした。「この人の母親は水俣からうんと離れた田浦の女網子で、たまたま妊娠中に親戚の網元をたづねて水俣湾で網子として働き、そこの魚をたベてこの子を生んだ。いまも母の顔さえ分らない重症なのです.・・・・」。
こうして患者の全人的な領域に立ち入るとき、私は映画で犯すことから始まったプライバシーを更に極限までつまびらかにしていく自分に気づく。会場にその親せき縁者がいる場合もあるのである。私はそこでただつき合いつづけるから許してほしいというほかはない。おそらくすべてを許されることは決してなく、一生その関係をまるごと背負うことしかないであろう。だが映画で記録することをしごとと決めた私にはこれしかなく、喜びも辛さも渾然たるなかでころげてゆくしかほかはない。こうした緊張の一瞬をみて、石牟礼道子氏は映画会の袖にいながら、
「映画屋さん冥利につきますね」
とひとこというのである。