「水俣の図」を描くための旅 丸木位里・俊さんの一年を追って 『公明新聞』 12月27日 公明党機関紙局 <1981年(昭56)>
 「水俣の図」を描くための旅 丸木位里・俊さんの一年を追って 「公明新聞」 12月27日 公明党機関紙局

 水俣病が見出されてすでに四半世紀たつ。患者の闘い、漁民の闘争で綴られた水俣病事件の歴史も、いまなお一万人近い病状を訴える人を残しながら、行政は切り捨て策をつよめている。いま口をふさがれ、手足をもがれるような抑圧がつづいている。丸木夫妻の『水俣の図』はそれへの静かな応戦に思える。
 私自身、この五年間、不知火海の沿岸・離島・天草と歩いて、隠そうにも抑圧しようにも、おびただしくいる病み苦しむ人びとと、海の甦りをテーマにした次なる映画を作りたいと思っている。しかし何とも状況は固く、まだ着手のメドも立っていないだけに、巨きな仕事を生涯しつづけてきたおふたりの手で水俣が描かれることは、いまの不知火海の人びとへの時をえた援軍に思えた。
 埼玉県東松山市、都幾川のほとりの丸木美術館に連なる画室で制作するお二人を、私たちはとまりがけで撮る日がつづいた。生活をともにした。彼らの暮しぶりはお百姓そのものだった。俊さんは山羊の乳をしぼり、チーズをつくる。位里さんは川魚に網をうつ。から揚げでたベる。玄米食で菜食、砂糖ぬき、酒は近頃、もっぱらさつま焼酎といったあんばいで、農薬反対、公害反対を絵に描いたような生活であった。
 原爆以後硬派の絵描きとしてしかおふたりをしらなかった私は、すまいのいたるところにある手づくりの土偶やお面、俊さんの童画『ヒロシマのピカ』や、幻想的な民話風の絵、位里さんは豪快で閥達な風景画のほかインド、カジュラホの愛欲仏画のエロティックな水墨画など、知らなかった一面にも接することができた。
 水俣の制作は、しかし実は厳しい内的葛藤をくり返しておられたようだ。
 水俣旅行で”浄土”のような風光美を見て、その有機水銀を抱えこんだ自然のまま、美しいたたずまいを見せる水俣を大風景画にしようと一旦発想したおふたりは、患者に会って、画想が一変された。よりによってというべきか、胎児性の少女が三十分にわたって発作をくり返すのを目撃したことによるという。私ですらそのような瀕死の痙攣は見たことがなかった。この初めての体験が以後『水俣の図』の全幅(三メートル×十五メートル)に色濃くにじんだように思われる。「声をかけることも出来ず、涙を流すわけにもいかず、じっとそれを見つづけていました」と俊さんは言う。私なら逃げたろう。おふたりはスケッチはおろか、写真一枚撮れず帰ってきた。石牟礼さんはもっと活き活きした患児や、踊ることで自由に手足を動かせ、うれしさを語る女性患者をはじめ、まだましな患者に会わせるのに骨を折ったが、何といってもこの地獄図がやきついて離れなかったようだ。”水俣の図”は日に日に暗いものになった。
 位里さんは「水俣の工場も描かねばと思った。過去の偉大な闘争や巡礼姿で闘った患者像も、あれは絵になるものだ、それをかこうと思ったが、今回は描けなかった。むしろ、徹頭徹尾暗いまを描き切ることにした」という。俊さんも「苦海でもあれば浄土でもある。苦海浄土とはよくいったものです。しかし苦海ばかりで浄土はえがけなかった。口惜しいけどこれは・・・」と苦渋に満ちていた。
 たったいま描き上げたばかりの絵のかたわらでのふたりの述懐は、聞く身にも切ないものであった。
 水俣をしからばどう描くべきか、答えられる人がいるだろうか。制作の三カ月、苦行のようであった。俊さんが母子像や胎児や数しれない受難者、そして鳥、魚ども、たこ、いかなど生きとし生けるものの細部までかきこんだ上に黒々とヘドロのような墨を重ねていく。白い麻紙に描かれた少女の胸に墨がどろどろとぬられていく。汚され、きたなくなっていくー私は居たたまれぬ思いもした。そのとき、お二人も苦しみ、迷いなやみながらの仕事であったようだ。
 八十歳近くにして頑健そのものに思われた位里さんは、制作後、日ならずして心筋梗塞で入院、面会謝絶の身となった。あらためて、この最晩年に最も表現至難な画業にとりくまれたふたりの精神力を思い返した。また水俣が二十世紀の負の結晶であり、ぜひ絵で遺言せねばならぬと決心したその画家の「原爆の図」以来の足どりのすざましさをみる思いだった。
 八〇年秋、ともかくもう一度水俣にいこうということになった。患者さんをスケッチする気持の余裕のもてなかったこの前の旅の心残りをはたすことが目的だった。「患者さんにスケッチして差し上げればどうかしら」と俊さんはいう。それは喜ぶにきまっている。映画を撮る私は、いつも肖像をカメラで切り盗ることにうしろめたさをもっている。描いて上げれば、絵かきは学べ、患者はよろこぶーこんなすてきな対面の仕方があろうか。私は羨望した。
 このスケッチ贈呈の思いつきは一挙におふたりを解放した。私の見たこともない患者の晴ればれした顔にも遭ったのである。リアルなカメラでの肖像ではなく、丸木夫妻の眼ざしで映じた患者の肖像から「病んでさらに輝く生」といったものが描かれはじめた。水俣病がなければかくあったであろう娘の面だちが描かれた。胎児性の女性患者、加賀田清子さん、坂本しのぶさんのスケッチを楽しむことでおふたりの水俣発見は頂点に達したかのようだ。”病むひとゆえに見える、あるべき健やかさ””ゆがめられたことでさらに輝く美しさ””死のはざまで見える生そのもの”「これらをあの娘たちで教えられた」と位里さんはいった。
 抑圧のいやます水俣状況に、ふたりの新たな連作が強いしなやかな芸術の力をもって対峠するものとなるであろうと思えた。今回の映画『水俣の図・物語』がそれをいくばくか伝えられれば幸いである。