水俣の輝きを 相思社の十年 『水俣』 第163号7月 水俣病を告発する会 <1984年(昭59)>
 水俣の輝きを 相思社の十年 「水俣」 第163号7月 水俣病を告発する会

 水俣病センター相思社が十年をむかえるにあたり、東京の人間、あるいは映画でかかわった人間として、つまりすこし離れた地点から感じていることをのベよといわれる。
 そのはじめに、なんの手本もなかったこの試みに、創立以来、生活と時間のすべてをぶちこんできた社員たちの苦闘の総量にまず、頭をさげたい。その上で、すこし離れているものとして、あえて見当違いを覚悟のうえで相思社への想いをいわせてほしいと思う。

里の”お寺さん”

 相思社・水俣病センターの構想は裁判判決の十ヶ月ほど前だったろう、あとあとまで、患者のつどい、助けあい、一蓮托生とまで美しく言わないまでも、患者のひとりひとりがバラバラにならずにつながりあう場を支援者たちで保証しようと着想されたものと思う。それまで患者の集まれるところといえば、浜元二徳さんや坂本フジエさんの家を借りるしかなかった。人数分の茶碗や座布団にいたるまで女の人たちの心配りで用意された。だから、せめて気兼ねしないでいける”お寺さん”のようなものができればという心づもりがあった。外観も「トリデともシンボルともせず、日常のふれ合い以外にこの建物の意味はあり得ないと信じ・・・」と岩切平さん(設計者)はいう。つまり里に本来あるべきすがたで建っているお寺さんなのだと私は思った。ならば御住職さんは誰だろう。患者さんを知りぬいた人がいいと思った。

 このお寺は、逆境をともにした患者さんたちの到達した闘いの質をのちのちまで息づかせ、不知火海全体に散在する同病同苦の人に「あすこにいけば・・・」という灯台のような存在になってほしいという意味で、お寺さんの主は患者さん自身、あるいはその人格であってほしいと思った。
 では寺をささえる縁の下の力もちの寺男はどうするかである。それにふさわしい、つまり、自分でつくしつづけたいと思う何人かの患者をもち、切っても切れない関係性をすでにもっている人をなん人も指折ることができた。
 その人たちは裁判後も患者の心をつたえつづけた。塩田武史の『ハゼ山騒動記』、砂田明の『不知火ー水俣はいま』、吉田司の『下下戦記』、そして谷・伊東夫妻、堀田静穂、守田隆志らの文章は、当時世をあげての「補償成金」「水俣御殿」などの悪罵の斉唱をはねつけるだけの原点的マグマ(溶岩)をもっていた。それぞれに患者さんとのつながりの太さがあった。だからといって、そのまま相思社の寺男とはならなかった。

 闘争が日常に

 はじめから、相思社には良くも悪くも若者の体臭があった。学生独身寮のような無茶苦茶も見うけられた。相思社の創立期を支えた”学生さん”たちは、はじめの寄進にたよる生活から殖産=自立をねがってコマネズミのように働き出した。エノキ茸、ミミズ、堆肥づくり、援農から甘夏の共同出荷と相思社の維持基盤づくりに汗みどろであった。寺は汚れあれた。住職や世帯を小ぎれいにする妻女の役は、いない以上しかたがないが、小走りに動き怒鳴るように話を飛ばす忙しなさに寄留者の私もすわり心地のわるい思いがし、そう思うのもまた申しわけないような妙な気がしたものだ。
 いつ頃からか、それまで別々だった申請協や裁判の事務局の仕事が加わり、敵の政治に対し”歯にはうち歯を”の闘争が日常となり、その砦にもなった。寺内のそれではなく寺の外のスケジュールに追われてその仕事は過重をきわめた。相思社と「事務局」のふたつは、本来同じだが、別々に機能しなければ燃えつきる気もした。
 申請協の仕事は広いエリアを相手にしていた。田浦近くの戸数十数戸の小集落にまで総申請運動を知らせる丈夫な立て看がつくられていた。ここまでフォローする気持の間尺に感動するとともに、この無限大ともいえる不知火海の人びとにむけての仕事、これは寺を留守にしなければできっこないと思う。
 「患者さんがなかなかぶらりとは遊びにきんなさらん」
 とよく耳にした。だから歩きまわったであろう。相思社の活動のヒダヒダを書きつづった柳田耕一の「世話日記」が毎号待たれた。患者さんの日常のなかの水俣病が生活のにおいの中から浮きでてくる。また相思社の像も行間ににじんでいる。こうした作業がひとりひとりから出るような日常の活動がベースにあればと思う。このごろの藤本寿子の『深き渕より叫ぶ』が十年にしてはじめて出てきた。赤崎覚さんのそれとちがって、寺守りの仕事としてその意欲を大きく評価したいーその評価はまだ、待つ身として当方の飢餓感をのべることにもなる。水俣から、局面局面の運動の「ベき」の論はきくが、患者の息づかいを拾った文章に飢えていたからだ。
 たとえば検診拒否運動にしても、女島の木下レイさんが「あんな診断をされて棄却されれば、もう水俣手帳もつかいならんでしょ。棄却されればその日から医者の払いに困るとですよ。審査会の変るまでこらえて検診拒否した方がよかです」という。申請患者たちは貧苦と病苦の身で一冊の水俣手帳を支えにこの闘争とつながっていた。いまも変らない棄民の心をつたえて、拒否闘争を彩るこのような色彩感覚のある文章を求めてきた。
 だがロングで見れば、この十年、相思社はとてもお寺さんではあり得なかった。予想をこえる運動が申請者のぶ厚い層から発し、謀圧裁判や待たせ賃裁判(しかも控訴)などいくつもの公判をかかえ、その準備と闘争に追われ、それを相思社は抱きかかえてきた。一方、寺だったじゃないかとの思いもよぎってやまない。住職らしき人すら飛んで歩いているー。

 うねりにのまれて

 裁判以後、捨て身のよるべなさをともにし、つながっていた患者さんにも一休みしたいという気持がつよまった。自主交渉、対チッソ、テント、直接交渉を闘ってきたその腕力、脚力のまま相思社にとびこんだ支援者の”社員”にとって、そのスレ違い方はきつかったように思う。
 患者さんひとりひとりが、お堂を建てた。相思社の大浴場や仏間や広い縁側より、更にこまやかな思いを託してそれぞれに自分の家をつくった。それを世間は白い眼でみる。患者も”御殿”のなかから白い眼で見返した。そんな時の止ったような間にも、病苦は形をかえ凝縮され、現世をうつものとしてそこにあってとりのけようもなかった。相思社の看板を背負ったからといって新人社員が近づけるものではなく、閉ざされた戸口から入れるのはやはり長いつき合いと患者の心のヒダをしる熊本告発のメンバーであり、古くからの支援者個人だった。
 ニセ患者の合唱の中で、申請者の闘いに背をむけて黙した旧訴訟派、川本輝夫さんの”突出”ぶりを批判する旧い長老たち。こうした患者さんのさけ目とその歳月は相思社の若者が抱えた厖大な運動量から、世話をするにもあれこれの手薄さ、手抜きもやむをえず、ある患者さんたちとの接触も放りっぱなしになったであろう。そもそもこの十年の大きな水俣のうねりを誰が予想し、相思社の建立の原点洗いまでできただろうか。患者は患者。申請者も認定されれば、また”心変り”し”御殿”をたてるひとりになる。あとの生のよるベは、しかし相思社しかない。

 水俣の灯台

 映画『水俣の甘夏』(小池征人演出)は水俣のもつ暗いイメージを甘夏の輝きにかえたいという患者の心を示した。と同時に”水俣”の意識のぬけおちた一甘夏生産者の日常、同志会の結束性の形骸化、それらと相思社の甘夏に賭けた理念との葛藤をも描くものとなった。
 「農薬をまいたからといって即出荷停止、切り捨てでは会の名が泣きはしないか・・・」と同志会が逡巡したとき、失敗は失敗とし公表せよとし、「会の甘夏で失敗した分は会事務局として相思社が扱い切る」といったとき、同志会はやはり衝撃をうけたであろう。相思社もまた初心に返ることを学んだと思う。この映画が水俣以外の地に与えた感動は、やはり水俣病運動の全史があればこそとその重みを受けとっているからだ。それが水俣の輝きなのだ。
 ”水俣”の甘夏、つまり水俣だからこその理念をめぐって、この映画は長老格、分別盛り、若気のものどもといった老・中・青のからみ合いとその組合せの妙をみせてくれた。
 それは今後の相思社にあるヒントを与える。支援に年輸のある老・中といった人柄を相思社はたえず招き入れ、そのもつ患者さんとのつながりの世界を吸収すること、それに加えて若い患者や子供たちまで包んだ生活体と全存在としてのやわらかい寺構造をめざすべきではないだろうか。私は生活学校にその芽を見ている。
 最後にー相思社は水俣のなかの水俣にすでになっている。社を訪れた外国人は四十数カ国、二百数十名になっているはずだ。また天草・離島の人びとに「水俣病センター」の呼称はそのままの響きで親しまれていくであろう。
 アメリカ人女性研究者を電話一本で相思社につなげた。彼女は環境法からみてヘドロ処理問題をテーマにしていた。専門的な調査が目的なので成果をあやしんでいた。だがその礼状に「現地の若い人の親切と的確な対応は私にとって、OVERWHELM(洪水がおおいかぶさるほどのもの)でした」とあった。相思社(支援者)以外に水俣のどこにこうした灯台があろうか。